ID stringlengths 13 13 | Category stringclasses 12 values | Context stringlengths 1 4.96k | Question stringlengths 7 248 | GroundtruthAnswer stringlengths 2 663 |
|---|---|---|---|---|
JCRRAG_018001 | 歴史 | 桶狭間の戦い前夜に信長は重臣達を集めたが、一向に戦についての話をすることもなく世間話しかしなかった。気が気でなくなった林通勝は、進み出て口を開いた。
「すでに丸根の佐久間から敵の状況を教えてもらったが、今川義元の大軍にはとても勝てる気がしない。さいわい清須城は天下の名城だからここに立て籠もるのがいいだろう」と。
信長はあっさり答えた。「昔から籠城なんかしても戦況が好転したためしはない。明日は夜中に鳴海表に出動して、私が死ぬか奴を殺すかの決戦をするのみだ」と。
これを聞いた森三左衛門可成、柴田権六勝家などは喜び勇んで「馬前で討ち死にする覚悟です!」とこたえた。
夜が更けた頃に信長が広間に出て、さいと言う名前の女房に今は何時かと尋ねた。
さいが「夜半過ぎました」と答えると馬に鞍を置き、湯漬け(お茶漬け)を出せと命じた。
女房が二枚の昆布と三個の勝栗を添えて一杯の湯漬けを出すと悠々と食事を終えた。腹ごしらえも充分である。
食事がすむと腰掛けに座り小鼓を取り寄せ、東を向いて謡曲である『敦盛』をうたい出した。
この『敦盛』は信長が常に好んで歌ったものである。
「……この世は仮の居場所でしかない、草や葉や白露や水に宿る月のようなもので、金谷で栄華を極めた者達も、無常の風に誘われて先立った。
南楼の月をもてあそぶ者達も月よりも先に死んで有為の雲に隠れてしまった。人の世は五十年であり天下にくらべれば夢や幻のようなものだ、一度生まれたからには滅するしかない……」
朗々として迫らない信長の歌声が、林のように静まりかえった陣営達にひびき渡った。
部下の将士達も信長の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。
本庄正宗の大刀を腰にして栗毛の馬に乗った。城内から出たのは小姓の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎の五騎に過ぎない。
そのまま大手口に差しかかると、黒々と一団が控えている。見てみると森、柴田をリーダーとした三百騎の馬である。「両人とも早いぞ早いぞ!」と声をかけて置いて、ひた走りに駆けて熱田の宮前に着いた時は、軍勢は千八百騎となっていた。 | 信長が出せと命じた湯漬けの中で、数の少ないものを教えてください。 | 信長が出せと命じた湯漬けの中で、数の少ないものは湯漬けで、一杯です。 |
JCRRAG_018002 | 歴史 | 紋の由来及びその変遷
紋の由来については別にお話をする方が良いと思うが、要するにその始まりはさほど古いものではなく、武家がこれを用いたのはせいぜい源平の頃からで、戦場において司令部のあり所を知らせるために、幕とか旗とかに付けた符牒で、その思い付きは京都の大官連が車に家々の紋を付けたのが元で、紋の材料は現今の通説のごとく、礼服の衣紋から得たものであろう。言い換えれば、家号の分化が中止し始めた頃から、紋の分化が始まって、その種類の増加が止まったのは、近代再び家号が増そうとした頃であって、家の本分の関係は何かの方法で、これを表わさなければならぬ社会的の必要を、意味するものではなかろうか。
紋所の詮議の最もやかましかったのは、足利時代から徳川時代へかけて、名乗りの半分を家人にやる慣習が行われた頃である。しかしその反動として紋所を大事にする結果、主君が賞与として家の紋を臣下に与えるようになって、結局紋所の数がだんだん減るようになったのであります。
新領主を苦しめたる地侍・国侍・郷士
この反動的同化作用は、単に紋所にとどまらず、将軍及び諸大名の臣下や鎮撫策とも関連するもので、徳川家がむやみに外様大名に松平の姓を与えたこと、もしくは押しかけ婿、押しかけ嫁を縁付けて、大名各藩を迷惑させたのと同じ傾向を示すものである。御承知の通り徳川初期の武家は、将軍自身を初めとして、十中の八九までは成り上がりの大家である。以前に十数倍する知行を持ったからには、たくさんの侍を召し抱えねばならぬ必要があった。かりにまた譜代の家来に過分の加増をするとしても、その家来もまた知行高相応の軍役を勤めるためには、新たに郎党を召し抱えねばならない。それなのにこの時節は戦国の後で、諸国旧家の主人の新領を失って諸方を流浪して歩くもの、すなわちいわゆる浪人の数が非常に多くて、そのある者は器量次第ですこぶる高い給料を得たために、差し引いても残りはまだなかなか多く、いくら抱えても江戸・大阪に集まって来る無足人が非常に多かったのである。彼等はあるいは大阪陣に加わり、あるいは島原の役に加担し、あるいは由比戸次の謀叛に与して、たいてい片付いてはしまったが、しかしこればかりでは決して尽きたとはいわれぬので、諸国にはまだ若干の食禄を持って、別に新たに主人に仕えることもせず従来の本領に隠れ潜んでいる武士の数が、やはり浪人の数くらい、事によるとそれよりも多くあったのである。この輩を名づけて国侍・地侍または郷士と称えている。
地侍の鎮撫策は、新たなる国持衆の最も取扱いに困難している問題である。
彼等は土民との間に数世の縁故があるのみならず、風土交通の事情に明るく、多くは山の奥、谷の陰を根拠として、公然と攻めに行けば家族を携えて山中に隠れ、敵が去ればまた出て来て住む。
よくよくおとなしいものでもなんだかんだと故障を申し立てて、新たに年貢を払うまいとする。土佐の長曾我部とか、備前の宇喜多とかいう、徳川家に弓を引いて断絶した家々の部下で、新領主を苦しめたのはこれら地侍・郷士の輩である。 | 紋の由来として戦場において司令部のあり所を知らせるために符牒を付けていた物の種類の数を教えてください。 | 紋の由来として戦場において司令部のあり所を知らせるために符牒を付けていた物の種類の数は2で、
「幕」、「旗」です。 |
JCRRAG_018003 | 歴史 | トルコ革命
亡国の危機
第一次世界大戦において、同盟国のオスマン帝国は敗北しました。
オスマン帝国は、次の大戦中・大戦後の取り決めで崩壊寸前の状況に置かれました。
1916年5月、サイクス=ピコ協定
イギリス・フランス・ロシア間で大戦後のオスマン帝国領の分割を決めた協定
フセイン・マクマホン協定、バルフォア宣言の内容と矛盾し、今日のパレスチナ問題の原因
1920年8月、セーヴル条約
第一次世界大戦における協商国とオスマン帝国の講和条約
①イギリスが国際連盟の委任統治領としてイラク・トランスヨルダン・パレスチナ を支配
②フランスが国際連盟の委任統治領としてシリアを支配
③その他として軍備縮小、治外法権、財政干渉、海峡の開放など
内容が領土の大幅削減など大変厳しく、1924年、改定してローザンヌ条約 を締結
委任統治
植民地形成が大戦の一因のため、国際連盟からの「委任」と表現
ギリシアの侵攻と祖国解放の戦い
1919年、ギリシアがオスマン帝国の混乱に乗じて、アナトリア半島(小アジア)西部の都市イズミルを占領しました。
オスマン帝国軍人ムスタファ=ケマルは、大国民議会(アンカラ政府)を組織し、抵抗運動を指導しました。
1922年、ムスタファ=ケマルは、イズミル を奪回してギリシアを撤退させました。
トルコ共和国の樹立
ギリシアの撃退後、大国民議会は次のことを実施しました。
1922年、スルタン制 廃止
オスマン帝国の滅亡
1923年、ローザンヌ条約 締結
セーヴル条約破棄を宣言した大国民議会と協商国が締結した新たな講和条約
イズミル・イスタンブル周辺・東トラキアなどの領土と主権を回復
軍備制限や治外法権を撤廃
1923年、大国民議会はトルコ共和国 の樹立を宣言しました。
ムスタファ=ケマル がトルコ共和国の初代大統領に選出されました。
首都
ムスタファ=ケマルは、旧オスマン帝国の首都イスタンブルを避け、アンカラ を首都と定めました。
憲法
1924年、ムスタファ=ケマルは共和国憲法を発布しました。
政教分離
1924年、ムスタファ=ケマルはカリフ制を廃止して政教分離を実施しました 。
その他近代化の政策
ムスタファ=ケマルが、次の近代化政策を推進しました。
イスラーム暦にかわって太陽暦を採用
女性参政権を実現(女性の地位向上 )
アラビア文字にかわってトルコ語のローマ字 表記を採用
イスラーム諸国の動向
エジプト
イギリスの保護国であったエジプト で、第一次世界大戦後にワフド党 が独立運動を始めました。
1922年、イギリスが保護権を放棄し、エジプト の独立を認めました。
しかし、イギリスがスエズ運河の支配権などの特権を手放さず、エジプト王国の独立は形式的なものでした。
1936年、エジプト=イギリス同盟条約
イギリスがエジプト王国の主権を認めた条約
条約締結後もイギリスはスエズ運河地帯に駐留を継続
アフガニスタン
1919年(第一次世界大戦後 )、第3次アフガン戦争
イギリスの保護国であったアフガニスタンが、イギリスからの独立を果たした戦争
イラン
第一次世界大戦後、カージャール朝ペルシアでは、レザー=ハーンがクーデタによって実権を握りました。
1925年、レザー=ハーン はカージャール朝を廃し、パフレヴィー朝 を開きました。
1935年、パフレヴィー朝は他称であった国名「ペルシア」を「イラン」に改めました。
パフレヴィー朝イランは近代化に努めましたが、イギリス資本が石油資源を支配し続けました 。
サウジアラビア王国
1932年、イブン=サウード はアラビア半島のほぼ統一を果たし、サウジアラビア王国 を建国しました。
イラク・ヨルダン・レバノン・シリア
イギリス・フランスの委任統治になっていた次の国々が独立しました。
1932年、イラク がイギリス の委任統治から独立
1946年、ヨルダンがイギリス の委任統治のトランスヨルダンから独立
1943年、レバノンがフランス の委任統治から独立
1946年、シリアがフランス の委任統治から独立 | 第一次世界大戦後におけるエジプトとアフガニスタンの動向の違いを説明して下さい。 | 第一次世界大戦後におけるエジプトとアフガニスタンの動向の違いは、イギリスの保護国であったエジプトでは、第一次世界大戦後にワフド党が独立運動を始め、1922年、イギリスが保護権を放棄し、エジプトの独立を認めましたが、イギリスがスエズ運河の支配権などの特権を手放さず、エジプト王国の独立は形式的なものでした。1936年、イギリスがエジプト王国の主権を認めた、エジプト=イギリス同盟条約が締結し、締結後もイギリスはスエズ運河地帯に駐留を継続した一方で、1919年(第一次世界大戦後 )、イギリスの保護国であったアフガニスタンでは、イギリスからの独立を果たした、第3次アフガン戦争が行われました。 |
JCRRAG_018004 | 歴史 | 江戸幕府10代将軍は徳川家治です。
徳川家治は愛妻家としても知られていました。徳川家治と正室「倫子」(ともこ)の間には男子が生まれず、女子は2人生まれましたが、幼くして亡くなっています。将軍に子がいないことは将軍家の一大問題であり、側室を迎えて子を成すのが当たり前でした。
しかし、徳川家治は家臣達に側室を勧められても嫌がり、なかなか首を縦に振りませんでした。田沼意次が側室を持つように勧めると、田沼意次も側室を持つのであれば、という条件付きで承諾したと言います。
迎えた側室との間に無事に男子が生まれましたが、男子が生まれたのちは側室のもとにまったく通わなくなってしまいました。さらに、生まれた子供の養育は正室の倫子に任せています。
愛妻家の徳川家治だからこそ、大奥の費用は必要のない出費に感じられ、削減するのはそれほど難しいことではなかったとするのが通説です。
徳川家治は、政治のことは田沼意次に任せて、趣味の将棋を指していたと言われており、その腕前は七段が与えられたほどで、特に詰将棋を作成するのが上手でした。
しかし、対局中のマナーは悪かったとのことで、1回指してから待ったをして、駒を戻させるようなこともしていたのです。
将棋の他には、囲碁や鷹狩り、書画を好んで良く嗜んでいました。 | 江戸幕府10代将軍と正室の倫子の間に男子は生まれたか。 | 江戸幕府10代将軍と正室の倫子の間には男子が生まれず、女子が2人生まれた。 |
JCRRAG_018005 | 歴史 | 桶狭間の戦いの前、信長はこの時に賽銭を神社の神前に投げながら、「表が出れば私が勝つだろう!」といった。神社の神官に調べさせると、投げた賽銭全てがみんな表が出たので将士が喜び勇んだ。
これは、銭の裏と裏とを、糊でくっつけたもので投げればそりゃみんな表が出るわけである。
すでにこの頃は夜は全く明けていて、今日は暑くなるだろうなと太陽が、山のからかなり高く昇っている。
信長が振り返れば決死の表情をうかべた将士達が千八百人静かに付いてきている、今川の軍勢は、なにしろこちらの十倍、一万八千のような大軍である。
少しでも味方を多勢いるように見せなければならないというので、加藤順盛に命じて町家から、菖蒲幟や木綿切等を集めさせて、熱田の者に竹さおをつけて一本ずつ持たせ、高い所に指物の様に立たせて、兵士のダミーを作った。
『桶狭間合戦記』に、
「熱田へ出発する時に織田信長は馬の鞍の前輸と後輸へ両手を掛けて、横に乗って後輪によりかかって鼻歌を歌う」
とある。大方、例の『敦盛』と同じように好んで居た「死のうは一定しのび草には何をしよぞ、一定かたりのこすよの……」
という小唄でも口ずさんでいたのであろう。決戦間近に控えてのこの余裕ぶりは何といっても天才的な武将であった。 | 信長軍と今川軍のうち、数の多いほうを教えてください。 | 信長軍と今川軍のうち、数の多いほうは今川軍一万八千です。 |
JCRRAG_018006 | 歴史 | 紋の由来及びその変遷
紋の由来については別にお話をする方が良いと思うが、要するにその始まりはさほど古いものではなく、武家がこれを用いたのはせいぜい源平の頃からで、戦場において司令部のあり所を知らせるために、幕とか旗とかに付けた符牒で、その思い付きは京都の大官連が車に家々の紋を付けたのが元で、紋の材料は現今の通説のごとく、礼服の衣紋から得たものであろう。言い換えれば、家号の分化が中止し始めた頃から、紋の分化が始まって、その種類の増加が止まったのは、近代再び家号が増そうとした頃であって、家の本分の関係は何かの方法で、これを表わさなければならぬ社会的の必要を、意味するものではなかろうか。
紋所の詮議の最もやかましかったのは、足利時代から徳川時代へかけて、名乗りの半分を家人にやる慣習が行われた頃である。しかしその反動として紋所を大事にする結果、主君が賞与として家の紋を臣下に与えるようになって、結局紋所の数がだんだん減るようになったのであります。
新領主を苦しめたる地侍・国侍・郷士
この反動的同化作用は、単に紋所にとどまらず、将軍及び諸大名の臣下や鎮撫策とも関連するもので、徳川家がむやみに外様大名に松平の姓を与えたこと、もしくは押しかけ婿、押しかけ嫁を縁付けて、大名各藩を迷惑させたのと同じ傾向を示すものである。御承知の通り徳川初期の武家は、将軍自身を初めとして、十中の八九までは成り上がりの大家である。以前に十数倍する知行を持ったからには、たくさんの侍を召し抱えねばならぬ必要があった。かりにまた譜代の家来に過分の加増をするとしても、その家来もまた知行高相応の軍役を勤めるためには、新たに郎党を召し抱えねばならない。それなのにこの時節は戦国の後で、諸国旧家の主人の新領を失って諸方を流浪して歩くもの、すなわちいわゆる浪人の数が非常に多くて、そのある者は器量次第ですこぶる高い給料を得たために、差し引いても残りはまだなかなか多く、いくら抱えても江戸・大阪に集まって来る無足人が非常に多かったのである。彼等はあるいは大阪陣に加わり、あるいは島原の役に加担し、あるいは由比戸次の謀叛に与して、たいてい片付いてはしまったが、しかしこればかりでは決して尽きたとはいわれぬので、諸国にはまだ若干の食禄を持って、別に新たに主人に仕えることもせず従来の本領に隠れ潜んでいる武士の数が、やはり浪人の数くらい、事によるとそれよりも多くあったのである。この輩を名づけて国侍・地侍または郷士と称えている。
地侍の鎮撫策は、新たなる国持衆の最も取扱いに困難している問題である。
彼等は土民との間に数世の縁故があるのみならず、風土交通の事情に明るく、多くは山の奥、谷の陰を根拠として、公然と攻めに行けば家族を携えて山中に隠れ、敵が去ればまた出て来て住む。
よくよくおとなしいものでもなんだかんだと故障を申し立てて、新たに年貢を払うまいとする。土佐の長曾我部とか、備前の宇喜多とかいう、徳川家に弓を引いて断絶した家々の部下で、新領主を苦しめたのはこれら地侍・郷士の輩である。 | 非常に多くの無足人が集まっていた場所の数を教えてください。 | 非常に多くの無足人が集まっていた場所の数は2で、
「江戸」
「大阪」
です。 |
JCRRAG_018007 | 歴史 | トルコ革命
亡国の危機
第一次世界大戦において、同盟国のオスマン帝国は敗北しました。
オスマン帝国は、次の大戦中・大戦後の取り決めで崩壊寸前の状況に置かれました。
1916年5月、サイクス=ピコ協定
イギリス・フランス・ロシア間で大戦後のオスマン帝国領の分割を決めた協定
フセイン・マクマホン協定、バルフォア宣言の内容と矛盾し、今日のパレスチナ問題の原因
1920年8月、セーヴル条約
第一次世界大戦における協商国とオスマン帝国の講和条約
①イギリスが国際連盟の委任統治領としてイラク・トランスヨルダン・パレスチナ を支配
②フランスが国際連盟の委任統治領としてシリアを支配
③その他として軍備縮小、治外法権、財政干渉、海峡の開放など
内容が領土の大幅削減など大変厳しく、1924年、改定してローザンヌ条約 を締結
委任統治
植民地形成が大戦の一因のため、国際連盟からの「委任」と表現
ギリシアの侵攻と祖国解放の戦い
1919年、ギリシアがオスマン帝国の混乱に乗じて、アナトリア半島(小アジア)西部の都市イズミルを占領しました。
オスマン帝国軍人ムスタファ=ケマルは、大国民議会(アンカラ政府)を組織し、抵抗運動を指導しました。
1922年、ムスタファ=ケマルは、イズミル を奪回してギリシアを撤退させました。
トルコ共和国の樹立
ギリシアの撃退後、大国民議会は次のことを実施しました。
1922年、スルタン制 廃止
オスマン帝国の滅亡
1923年、ローザンヌ条約 締結
セーヴル条約破棄を宣言した大国民議会と協商国が締結した新たな講和条約
イズミル・イスタンブル周辺・東トラキアなどの領土と主権を回復
軍備制限や治外法権を撤廃
1923年、大国民議会はトルコ共和国 の樹立を宣言しました。
ムスタファ=ケマル がトルコ共和国の初代大統領に選出されました。
首都
ムスタファ=ケマルは、旧オスマン帝国の首都イスタンブルを避け、アンカラ を首都と定めました。
憲法
1924年、ムスタファ=ケマルは共和国憲法を発布しました。
政教分離
1924年、ムスタファ=ケマルはカリフ制を廃止して政教分離を実施しました 。
その他近代化の政策
ムスタファ=ケマルが、次の近代化政策を推進しました。
イスラーム暦にかわって太陽暦を採用
女性参政権を実現(女性の地位向上 )
アラビア文字にかわってトルコ語のローマ字 表記を採用
イスラーム諸国の動向
エジプト
イギリスの保護国であったエジプト で、第一次世界大戦後にワフド党 が独立運動を始めました。
1922年、イギリスが保護権を放棄し、エジプト の独立を認めました。
しかし、イギリスがスエズ運河の支配権などの特権を手放さず、エジプト王国の独立は形式的なものでした。
1936年、エジプト=イギリス同盟条約
イギリスがエジプト王国の主権を認めた条約
条約締結後もイギリスはスエズ運河地帯に駐留を継続
アフガニスタン
1919年(第一次世界大戦後 )、第3次アフガン戦争
イギリスの保護国であったアフガニスタンが、イギリスからの独立を果たした戦争
イラン
第一次世界大戦後、カージャール朝ペルシアでは、レザー=ハーンがクーデタによって実権を握りました。
1925年、レザー=ハーン はカージャール朝を廃し、パフレヴィー朝 を開きました。
1935年、パフレヴィー朝は他称であった国名「ペルシア」を「イラン」に改めました。
パフレヴィー朝イランは近代化に努めましたが、イギリス資本が石油資源を支配し続けました 。
サウジアラビア王国
1932年、イブン=サウード はアラビア半島のほぼ統一を果たし、サウジアラビア王国 を建国しました。
イラク・ヨルダン・レバノン・シリア
イギリス・フランスの委任統治になっていた次の国々が独立しました。
1932年、イラク がイギリス の委任統治から独立
1946年、ヨルダンがイギリス の委任統治のトランスヨルダンから独立
1943年、レバノンがフランス の委任統治から独立
1946年、シリアがフランス の委任統治から独立 | 第一次世界大戦後におけるイランとサウジアラビア王国の動向の違いを説明して下さい。 | 第一次世界大戦後におけるイランとサウジアラビア王国の動向の違いは、イランは1925年、レザー=ハーン はカージャール朝を廃し、パフレヴィー朝を開き、1935年、パフレヴィー朝は他称であった国名「ペルシア」を「イラン」に改め、パフレヴィー朝イランは近代化に努めましたが、イギリス資本が石油資源を支配し続けました 。
その一方でサウジアラビア王国は、アラビア半島のほぼ統一を果たしたイブン=サウード により建国されました。 |
JCRRAG_018008 | 歴史 | 江戸幕府10代将軍は徳川家治です。
徳川家治は愛妻家としても知られていました。徳川家治と正室「倫子」(ともこ)の間には男子が生まれず、女子は2人生まれましたが、幼くして亡くなっています。将軍に子がいないことは将軍家の一大問題であり、側室を迎えて子を成すのが当たり前でした。
しかし、徳川家治は家臣達に側室を勧められても嫌がり、なかなか首を縦に振りませんでした。田沼意次が側室を持つように勧めると、田沼意次も側室を持つのであれば、という条件付きで承諾したと言います。
迎えた側室との間に無事に男子が生まれましたが、男子が生まれたのちは側室のもとにまったく通わなくなってしまいました。さらに、生まれた子供の養育は正室の倫子に任せています。
愛妻家の徳川家治だからこそ、大奥の費用は必要のない出費に感じられ、削減するのはそれほど難しいことではなかったとするのが通説です。
徳川家治は、政治のことは田沼意次に任せて、趣味の将棋を指していたと言われており、その腕前は七段が与えられたほどで、特に詰将棋を作成するのが上手でした。
しかし、対局中のマナーは悪かったとのことで、1回指してから待ったをして、駒を戻させるようなこともしていたのです。
将棋の他には、囲碁や鷹狩り、書画を好んで良く嗜んでいました。 | 江戸幕府10代将軍の趣味は何か。 | 江戸幕府10代将軍の趣味は将棋である。 |
JCRRAG_018009 | 歴史 | 桶狭間の戦いの前、信長はこの時に賽銭を神社の神前に投げながら、「表が出れば私が勝つだろう!」といった。神社の神官に調べさせると、投げた賽銭全てがみんな表が出たので将士が喜び勇んだ。
これは、銭の裏と裏とを、糊でくっつけたもので投げればそりゃみんな表が出るわけである。
すでにこの頃は夜は全く明けていて、今日は暑くなるだろうなと太陽が、山のからかなり高く昇っている。
信長が振り返れば決死の表情をうかべた将士達が千八百人静かに付いてきている、今川の軍勢は、なにしろこちらの十倍、一万八千のような大軍である。
少しでも味方を多勢いるように見せなければならないというので、加藤順盛に命じて町家から、菖蒲幟や木綿切等を集めさせて、熱田の者に竹さおをつけて一本ずつ持たせ、高い所に指物の様に立たせて、兵士のダミーを作った。
『桶狭間合戦記』に、
「熱田へ出発する時に織田信長は馬の鞍の前輸と後輸へ両手を掛けて、横に乗って後輪によりかかって鼻歌を歌う」
とある。大方、例の『敦盛』と同じように好んで居た「死のうは一定しのび草には何をしよぞ、一定かたりのこすよの……」
という小唄でも口ずさんでいたのであろう。決戦間近に控えてのこの余裕ぶりは何といっても天才的な武将であった。 | 信長軍と今川軍のうち、数の少ないほうを教えてください。 | 信長軍と今川軍のうち、数の少ないほうは信長軍で千八百です。 |
JCRRAG_018010 | 歴史 | 紋の由来及びその変遷
紋の由来については別にお話をする方が良いと思うが、要するにその始まりはさほど古いものではなく、武家がこれを用いたのはせいぜい源平の頃からで、戦場において司令部のあり所を知らせるために、幕とか旗とかに付けた符牒で、その思い付きは京都の大官連が車に家々の紋を付けたのが元で、紋の材料は現今の通説のごとく、礼服の衣紋から得たものであろう。言い換えれば、家号の分化が中止し始めた頃から、紋の分化が始まって、その種類の増加が止まったのは、近代再び家号が増そうとした頃であって、家の本分の関係は何かの方法で、これを表わさなければならぬ社会的の必要を、意味するものではなかろうか。
紋所の詮議の最もやかましかったのは、足利時代から徳川時代へかけて、名乗りの半分を家人にやる慣習が行われた頃である。しかしその反動として紋所を大事にする結果、主君が賞与として家の紋を臣下に与えるようになって、結局紋所の数がだんだん減るようになったのであります。
新領主を苦しめたる地侍・国侍・郷士
この反動的同化作用は、単に紋所にとどまらず、将軍及び諸大名の臣下や鎮撫策とも関連するもので、徳川家がむやみに外様大名に松平の姓を与えたこと、もしくは押しかけ婿、押しかけ嫁を縁付けて、大名各藩を迷惑させたのと同じ傾向を示すものである。御承知の通り徳川初期の武家は、将軍自身を初めとして、十中の八九までは成り上がりの大家である。以前に十数倍する知行を持ったからには、たくさんの侍を召し抱えねばならぬ必要があった。かりにまた譜代の家来に過分の加増をするとしても、その家来もまた知行高相応の軍役を勤めるためには、新たに郎党を召し抱えねばならない。それなのにこの時節は戦国の後で、諸国旧家の主人の新領を失って諸方を流浪して歩くもの、すなわちいわゆる浪人の数が非常に多くて、そのある者は器量次第ですこぶる高い給料を得たために、差し引いても残りはまだなかなか多く、いくら抱えても江戸・大阪に集まって来る無足人が非常に多かったのである。彼等はあるいは大阪陣に加わり、あるいは島原の役に加担し、あるいは由比戸次の謀叛に与して、たいてい片付いてはしまったが、しかしこればかりでは決して尽きたとはいわれぬので、諸国にはまだ若干の食禄を持って、別に新たに主人に仕えることもせず従来の本領に隠れ潜んでいる武士の数が、やはり浪人の数くらい、事によるとそれよりも多くあったのである。この輩を名づけて国侍・地侍または郷士と称えている。
地侍の鎮撫策は、新たなる国持衆の最も取扱いに困難している問題である。
彼等は土民との間に数世の縁故があるのみならず、風土交通の事情に明るく、多くは山の奥、谷の陰を根拠として、公然と攻めに行けば家族を携えて山中に隠れ、敵が去ればまた出て来て住む。
よくよくおとなしいものでもなんだかんだと故障を申し立てて、新たに年貢を払うまいとする。土佐の長曾我部とか、備前の宇喜多とかいう、徳川家に弓を引いて断絶した家々の部下で、新領主を苦しめたのはこれら地侍・郷士の輩である。 | 諸国にいる若干の食禄を持って、別に新たに主人に仕えることもせず従来の本領に隠れ潜んでいる武士に名付けられた名前の数を教えてください。 | 諸国にいる若干の食禄を持って、別に新たに主人に仕えることもせず従来の本領に隠れ潜んでいる武士に名付けられた名前の数は3で、
「国侍」
「地侍」
「郷士」
です。 |
JCRRAG_018011 | 歴史 | トルコ革命
亡国の危機
第一次世界大戦において、同盟国のオスマン帝国は敗北しました。
オスマン帝国は、次の大戦中・大戦後の取り決めで崩壊寸前の状況に置かれました。
1916年5月、サイクス=ピコ協定
イギリス・フランス・ロシア間で大戦後のオスマン帝国領の分割を決めた協定
フセイン・マクマホン協定、バルフォア宣言の内容と矛盾し、今日のパレスチナ問題の原因
1920年8月、セーヴル条約
第一次世界大戦における協商国とオスマン帝国の講和条約
①イギリスが国際連盟の委任統治領としてイラク・トランスヨルダン・パレスチナ を支配
②フランスが国際連盟の委任統治領としてシリアを支配
③その他として軍備縮小、治外法権、財政干渉、海峡の開放など
内容が領土の大幅削減など大変厳しく、1924年、改定してローザンヌ条約 を締結
委任統治
植民地形成が大戦の一因のため、国際連盟からの「委任」と表現
ギリシアの侵攻と祖国解放の戦い
1919年、ギリシアがオスマン帝国の混乱に乗じて、アナトリア半島(小アジア)西部の都市イズミルを占領しました。
オスマン帝国軍人ムスタファ=ケマルは、大国民議会(アンカラ政府)を組織し、抵抗運動を指導しました。
1922年、ムスタファ=ケマルは、イズミル を奪回してギリシアを撤退させました。
トルコ共和国の樹立
ギリシアの撃退後、大国民議会は次のことを実施しました。
1922年、スルタン制 廃止
オスマン帝国の滅亡
1923年、ローザンヌ条約 締結
セーヴル条約破棄を宣言した大国民議会と協商国が締結した新たな講和条約
イズミル・イスタンブル周辺・東トラキアなどの領土と主権を回復
軍備制限や治外法権を撤廃
1923年、大国民議会はトルコ共和国 の樹立を宣言しました。
ムスタファ=ケマル がトルコ共和国の初代大統領に選出されました。
首都
ムスタファ=ケマルは、旧オスマン帝国の首都イスタンブルを避け、アンカラ を首都と定めました。
憲法
1924年、ムスタファ=ケマルは共和国憲法を発布しました。
政教分離
1924年、ムスタファ=ケマルはカリフ制を廃止して政教分離を実施しました 。
その他近代化の政策
ムスタファ=ケマルが、次の近代化政策を推進しました。
イスラーム暦にかわって太陽暦を採用
女性参政権を実現(女性の地位向上 )
アラビア文字にかわってトルコ語のローマ字 表記を採用
イスラーム諸国の動向
エジプト
イギリスの保護国であったエジプト で、第一次世界大戦後にワフド党 が独立運動を始めました。
1922年、イギリスが保護権を放棄し、エジプト の独立を認めました。
しかし、イギリスがスエズ運河の支配権などの特権を手放さず、エジプト王国の独立は形式的なものでした。
1936年、エジプト=イギリス同盟条約
イギリスがエジプト王国の主権を認めた条約
条約締結後もイギリスはスエズ運河地帯に駐留を継続
アフガニスタン
1919年(第一次世界大戦後 )、第3次アフガン戦争
イギリスの保護国であったアフガニスタンが、イギリスからの独立を果たした戦争
イラン
第一次世界大戦後、カージャール朝ペルシアでは、レザー=ハーンがクーデタによって実権を握りました。
1925年、レザー=ハーン はカージャール朝を廃し、パフレヴィー朝 を開きました。
1935年、パフレヴィー朝は他称であった国名「ペルシア」を「イラン」に改めました。
パフレヴィー朝イランは近代化に努めましたが、イギリス資本が石油資源を支配し続けました 。
サウジアラビア王国
1932年、イブン=サウード はアラビア半島のほぼ統一を果たし、サウジアラビア王国 を建国しました。
イラク・ヨルダン・レバノン・シリア
イギリス・フランスの委任統治になっていた次の国々が独立しました。
1932年、イラク がイギリス の委任統治から独立
1946年、ヨルダンがイギリス の委任統治のトランスヨルダンから独立
1943年、レバノンがフランス の委任統治から独立
1946年、シリアがフランス の委任統治から独立 | 第一次世界大戦後におけるイラクとヨルダンの動向の違いを説明して下さい。 | 第一次世界大戦後におけるイラクとヨルダンの動向の違いは、イギリスの委任統治から独立した年で、イラク は1932年、ヨルダンは、1946年でした。 |
JCRRAG_018012 | 歴史 | 1773年(安永2年)、「一橋家」(ひとつばしけ)の2代当主「一橋治済」(ひとつばしはるさだ)の長男として生まれたのは、徳川家斉です。
徳川家斉は幼名を「豊千代」(とよちよ)と名乗っており、その幼少期の残虐な逸話が伝わっています。
徳川家斉は、家臣達にしばしば、蟹・鶏などの生き物を集めさせ、家臣達が見ている前で、にこにこしながらそれらを踏み付けたり、握り潰したりして殺していたのです。
それ以降、徳川家斉は陰で「蟹鶏公方」(かにとりくぼう)などと呼ばれていたと言われています。
10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)には、嫡子「徳川家基」(とくがわいえもと)がいましたが急死してしまい、将軍職の後継者問題が起こりました。
徳川家斉が生まれた一橋家は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつであり、将軍になる資格がある家柄のため、父である一橋治済にとっては自身の子どもを将軍にすることは悲願であったと伝えられています。
そんななか、次期将軍候補となるのにふさわしい男子がいなかったことや、江戸幕府で老中を務めていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)と一橋治済が画策したことにより、1781年(天明元年)徳川家斉は徳川家治の養子となったのです。
そして、徳川家斉は1786年(天明6年)に徳川家治が亡くなったため、その翌年に11代将軍に就任しました。 | 一橋家の2代当主、一橋治済の長男として生まれた人物は、幼名を何と名乗っていたか。 | 一橋家の2代当主、一橋治済の長男として生まれた人物は、幼名を豊千代と名乗っていた。 |
JCRRAG_018013 | 歴史 | 信長の将士は善戦しているのだが、なんせ今川勢の数は多すぎるので正攻法ではすでに信長に不利という戦局になっていた。
政次、重休、季忠三名の首が今川の本営に送られた事を善照寺で信長がすぐにその本軍を率いて今川軍に攻め込もうとしたのも無理はなかった。
林通勝、池田信輝、柴田勝家等が、信長をなだめて「敵は多く味方は少ない、ただでさえ路が狭くて少ししか軍勢を出す事が出来ないのに、どうやって正面から戦ができるというのですか」と諫めたが、余裕を失った信長は耳を貸さずに中島に渡ろうとした。
この時に、もし信長が中島に渡って正面から戦をしたならば、恐らく「織田信長」という名を天下に知らしめずに桶狭間の戦いで終ったことであろう。
丁度その時梁田政綱が放った斥候が、沓掛方面から帰ってきて「義元は今から大高に移ろうとして桶狭間に向かった」という報告をした。
間もなくもう一人が義元が「田楽狭間」に駐屯した事を報告した。
政綱が信長に「義元は今までの勝利に調子にのって恐らくは油断してるから、このチャンスを逃さず間道から奇襲すれば義元の首を取れるんじゃないか」と。
今まで駄々をこねていた信長は流石名将と言われるだけはある、すぐに政綱の言葉に従って善照寺には少数の兵を残して旗や幟を多く立てて兵がたくさんいるようにダミーを作り、自らは間道より田楽狭間に向かって進んだ。
この日は朝から暑かったが昼頃になって雷鳴と共に豪雨が降り始め、防風は山々の木をゆるがせた。
なので軍馬の音が今川勢に知られる事もないので熱田にいる神の助けとばかり喜び勇んで山路を進んだ。
信長達が想像してた通り今川義元は続々と届く勝利の知らせに喜んで近所の神官や僧侶達がお祝いの酒を百本や百二十もある肴を持って来たのに気をよくして宴会を開いていた。
この時の今川義元の装備は、赤地の錦の直垂に白の具足、八竜が描かれた五枚冑、松倉郷と大左文字の太刀二本と脇差四本を腰に装備していた。
今川義元の宴会が最高潮になってきた頃に、信長の兵は田楽狭間を真下に見下ろせる太子ヶ根の丘にいた。
田楽狭間は桶狭間へ通じる一本道の他は両側共に山で囲まれている。
こうなると義元は袋の中の鼠である。
丘の上で信長は馬から下りて「斬り込むかどうするか」と話すと森可成は「馬のまま駆け降りましょう」と答えた。
ちょうど昼頃になって風雨がやや静かになったのを見計らって、一度にどっと斬り込んだ。
義元の本営では、まさか信長がこの様な不意打ちをするとは夢にも思っていなかったので、味方同志の争いが起ったのかな?位考えていたが、騒音はますます大きくなるばかりである。
義元は混乱を抑えようと帷幕を上げた所を桑原甚内が斬りかかったが近くにいた武士に斬られた。
甚内と一緒に来た服部小平太がこの中にまぎれ込んだ所、義元は味方と間違えて「馬を引け!」と命じたので、そこで槍で義元の脇腹を突いた。
義元は流石に屈することなく槍の柄を斬って折ると同時に小平太の膝を切り裂いたので小平太は倒れてしまう。
同じく義元の首をねらった毛利新助が名乗り出ると同時に義元に組み付いて首をとろうとした。
頭を押えようとあせった新助は左手の人差指を義元の口に押し込んだが咬み切られてしまう。
そしてとうとう義元の首を切り落とし、高々と挙げた。
不意打ちを食らった上に大将が討ち死にし、今川勢は非常に混乱した。 | 今川義元は続々と届く勝利の知らせに喜んで、近所の神官や僧侶達が持ってきたもののうち、数が多いほうを教えてください。 | 今川義元は続々と届く勝利の知らせに喜んで、近所の神官や僧侶達が持ってきたもののうち、数が多いほうは酒の肴で百二十です。 |
JCRRAG_018014 | 歴史 | 紋の由来及びその変遷
紋の由来については別にお話をする方が良いと思うが、要するにその始まりはさほど古いものではなく、武家がこれを用いたのはせいぜい源平の頃からで、戦場において司令部のあり所を知らせるために、幕とか旗とかに付けた符牒で、その思い付きは京都の大官連が車に家々の紋を付けたのが元で、紋の材料は現今の通説のごとく、礼服の衣紋から得たものであろう。言い換えれば、家号の分化が中止し始めた頃から、紋の分化が始まって、その種類の増加が止まったのは、近代再び家号が増そうとした頃であって、家の本分の関係は何かの方法で、これを表わさなければならぬ社会的の必要を、意味するものではなかろうか。
紋所の詮議の最もやかましかったのは、足利時代から徳川時代へかけて、名乗りの半分を家人にやる慣習が行われた頃である。しかしその反動として紋所を大事にする結果、主君が賞与として家の紋を臣下に与えるようになって、結局紋所の数がだんだん減るようになったのであります。
新領主を苦しめたる地侍・国侍・郷士
この反動的同化作用は、単に紋所にとどまらず、将軍及び諸大名の臣下や鎮撫策とも関連するもので、徳川家がむやみに外様大名に松平の姓を与えたこと、もしくは押しかけ婿、押しかけ嫁を縁付けて、大名各藩を迷惑させたのと同じ傾向を示すものである。御承知の通り徳川初期の武家は、将軍自身を初めとして、十中の八九までは成り上がりの大家である。以前に十数倍する知行を持ったからには、たくさんの侍を召し抱えねばならぬ必要があった。かりにまた譜代の家来に過分の加増をするとしても、その家来もまた知行高相応の軍役を勤めるためには、新たに郎党を召し抱えねばならない。それなのにこの時節は戦国の後で、諸国旧家の主人の新領を失って諸方を流浪して歩くもの、すなわちいわゆる浪人の数が非常に多くて、そのある者は器量次第ですこぶる高い給料を得たために、差し引いても残りはまだなかなか多く、いくら抱えても江戸・大阪に集まって来る無足人が非常に多かったのである。彼等はあるいは大阪陣に加わり、あるいは島原の役に加担し、あるいは由比戸次の謀叛に与して、たいてい片付いてはしまったが、しかしこればかりでは決して尽きたとはいわれぬので、諸国にはまだ若干の食禄を持って、別に新たに主人に仕えることもせず従来の本領に隠れ潜んでいる武士の数が、やはり浪人の数くらい、事によるとそれよりも多くあったのである。この輩を名づけて国侍・地侍または郷士と称えている。
地侍の鎮撫策は、新たなる国持衆の最も取扱いに困難している問題である。
彼等は土民との間に数世の縁故があるのみならず、風土交通の事情に明るく、多くは山の奥、谷の陰を根拠として、公然と攻めに行けば家族を携えて山中に隠れ、敵が去ればまた出て来て住む。
よくよくおとなしいものでもなんだかんだと故障を申し立てて、新たに年貢を払うまいとする。土佐の長曾我部とか、備前の宇喜多とかいう、徳川家に弓を引いて断絶した家々の部下で、新領主を苦しめたのはこれら地侍・郷士の輩である。 | 国侍・地侍または郷士と呼ばれる者たちの多くが根拠にしている場所を地形的な特徴で挙げていますが数を教えてください。 | 国侍・地侍または郷士と呼ばれる者たちの多くが根拠にしている場所として挙げられている地形的な特徴数は2で、
「山の奥」、「谷の陰」です。 |
JCRRAG_018015 | 歴史 | トルコ革命
亡国の危機
第一次世界大戦において、同盟国のオスマン帝国は敗北しました。
オスマン帝国は、次の大戦中・大戦後の取り決めで崩壊寸前の状況に置かれました。
1916年5月、サイクス=ピコ協定
イギリス・フランス・ロシア間で大戦後のオスマン帝国領の分割を決めた協定
フセイン・マクマホン協定、バルフォア宣言の内容と矛盾し、今日のパレスチナ問題の原因
1920年8月、セーヴル条約
第一次世界大戦における協商国とオスマン帝国の講和条約
①イギリスが国際連盟の委任統治領としてイラク・トランスヨルダン・パレスチナ を支配
②フランスが国際連盟の委任統治領としてシリアを支配
③その他として軍備縮小、治外法権、財政干渉、海峡の開放など
内容が領土の大幅削減など大変厳しく、1924年、改定してローザンヌ条約 を締結
委任統治
植民地形成が大戦の一因のため、国際連盟からの「委任」と表現
ギリシアの侵攻と祖国解放の戦い
1919年、ギリシアがオスマン帝国の混乱に乗じて、アナトリア半島(小アジア)西部の都市イズミルを占領しました。
オスマン帝国軍人ムスタファ=ケマルは、大国民議会(アンカラ政府)を組織し、抵抗運動を指導しました。
1922年、ムスタファ=ケマルは、イズミル を奪回してギリシアを撤退させました。
トルコ共和国の樹立
ギリシアの撃退後、大国民議会は次のことを実施しました。
1922年、スルタン制 廃止
オスマン帝国の滅亡
1923年、ローザンヌ条約 締結
セーヴル条約破棄を宣言した大国民議会と協商国が締結した新たな講和条約
イズミル・イスタンブル周辺・東トラキアなどの領土と主権を回復
軍備制限や治外法権を撤廃
1923年、大国民議会はトルコ共和国 の樹立を宣言しました。
ムスタファ=ケマル がトルコ共和国の初代大統領に選出されました。
首都
ムスタファ=ケマルは、旧オスマン帝国の首都イスタンブルを避け、アンカラ を首都と定めました。
憲法
1924年、ムスタファ=ケマルは共和国憲法を発布しました。
政教分離
1924年、ムスタファ=ケマルはカリフ制を廃止して政教分離を実施しました 。
その他近代化の政策
ムスタファ=ケマルが、次の近代化政策を推進しました。
イスラーム暦にかわって太陽暦を採用
女性参政権を実現(女性の地位向上 )
アラビア文字にかわってトルコ語のローマ字 表記を採用
イスラーム諸国の動向
エジプト
イギリスの保護国であったエジプト で、第一次世界大戦後にワフド党 が独立運動を始めました。
1922年、イギリスが保護権を放棄し、エジプト の独立を認めました。
しかし、イギリスがスエズ運河の支配権などの特権を手放さず、エジプト王国の独立は形式的なものでした。
1936年、エジプト=イギリス同盟条約
イギリスがエジプト王国の主権を認めた条約
条約締結後もイギリスはスエズ運河地帯に駐留を継続
アフガニスタン
1919年(第一次世界大戦後 )、第3次アフガン戦争
イギリスの保護国であったアフガニスタンが、イギリスからの独立を果たした戦争
イラン
第一次世界大戦後、カージャール朝ペルシアでは、レザー=ハーンがクーデタによって実権を握りました。
1925年、レザー=ハーン はカージャール朝を廃し、パフレヴィー朝 を開きました。
1935年、パフレヴィー朝は他称であった国名「ペルシア」を「イラン」に改めました。
パフレヴィー朝イランは近代化に努めましたが、イギリス資本が石油資源を支配し続けました 。
サウジアラビア王国
1932年、イブン=サウード はアラビア半島のほぼ統一を果たし、サウジアラビア王国 を建国しました。
イラク・ヨルダン・レバノン・シリア
イギリス・フランスの委任統治になっていた次の国々が独立しました。
1932年、イラク がイギリス の委任統治から独立
1946年、ヨルダンがイギリス の委任統治のトランスヨルダンから独立
1943年、レバノンがフランス の委任統治から独立
1946年、シリアがフランス の委任統治から独立 | 第一次世界大戦後におけるレバノンとシリアの動向の違いを説明して下さい。 | 第一次世界大戦後におけるレバノンとシリアの動向の違いは、フランスの委任統治から独立した年で、レバノンは1943年、
シリアは1946年でした。 |
JCRRAG_018016 | 歴史 | 1773年(安永2年)、「一橋家」(ひとつばしけ)の2代当主「一橋治済」(ひとつばしはるさだ)の長男として生まれたのは、徳川家斉です。
徳川家斉は幼名を「豊千代」(とよちよ)と名乗っており、その幼少期の残虐な逸話が伝わっています。
徳川家斉は、家臣達にしばしば、蟹・鶏などの生き物を集めさせ、家臣達が見ている前で、にこにこしながらそれらを踏み付けたり、握り潰したりして殺していたのです。
それ以降、徳川家斉は陰で「蟹鶏公方」(かにとりくぼう)などと呼ばれていたと言われています。
10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)には、嫡子「徳川家基」(とくがわいえもと)がいましたが急死してしまい、将軍職の後継者問題が起こりました。
徳川家斉が生まれた一橋家は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつであり、将軍になる資格がある家柄のため、父である一橋治済にとっては自身の子どもを将軍にすることは悲願であったと伝えられています。
そんななか、次期将軍候補となるのにふさわしい男子がいなかったことや、江戸幕府で老中を務めていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)と一橋治済が画策したことにより、1781年(天明元年)徳川家斉は徳川家治の養子となったのです。
そして、徳川家斉は1786年(天明6年)に徳川家治が亡くなったため、その翌年に11代将軍に就任しました。 | 一橋家の2代当主、一橋治済の長男として生まれた人物は、家臣達に蟹・鶏などの生き物を集めさせ、何をしたか。 | 一橋家の2代当主、一橋治済の長男として生まれた人物は、家臣達に蟹・鶏などの生き物を集めさせ、家臣達が見ている前で、にこにこしながらそれらを踏み付けたり、握り潰したりして殺していた。 |
JCRRAG_018017 | 歴史 | 信長の将士は善戦しているのだが、なんせ今川勢の数は多すぎるので正攻法ではすでに信長に不利という戦局になっていた。
政次、重休、季忠三名の首が今川の本営に送られた事を善照寺で信長がすぐにその本軍を率いて今川軍に攻め込もうとしたのも無理はなかった。
林通勝、池田信輝、柴田勝家等が、信長をなだめて「敵は多く味方は少ない、ただでさえ路が狭くて少ししか軍勢を出す事が出来ないのに、どうやって正面から戦ができるというのですか」と諫めたが、余裕を失った信長は耳を貸さずに中島に渡ろうとした。
この時に、もし信長が中島に渡って正面から戦をしたならば、恐らく「織田信長」という名を天下に知らしめずに桶狭間の戦いで終ったことであろう。
丁度その時梁田政綱が放った斥候が、沓掛方面から帰ってきて「義元は今から大高に移ろうとして桶狭間に向かった」という報告をした。
間もなくもう一人が義元が「田楽狭間」に駐屯した事を報告した。
政綱が信長に「義元は今までの勝利に調子にのって恐らくは油断してるから、このチャンスを逃さず間道から奇襲すれば義元の首を取れるんじゃないか」と。
今まで駄々をこねていた信長は流石名将と言われるだけはある、すぐに政綱の言葉に従って善照寺には少数の兵を残して旗や幟を多く立てて兵がたくさんいるようにダミーを作り、自らは間道より田楽狭間に向かって進んだ。
この日は朝から暑かったが昼頃になって雷鳴と共に豪雨が降り始め、防風は山々の木をゆるがせた。
なので軍馬の音が今川勢に知られる事もないので熱田にいる神の助けとばかり喜び勇んで山路を進んだ。
信長達が想像してた通り今川義元は続々と届く勝利の知らせに喜んで近所の神官や僧侶達がお祝いの酒を百本や百二十もある肴を持って来たのに気をよくして宴会を開いていた。
この時の今川義元の装備は、赤地の錦の直垂に白の具足、八竜が描かれた五枚冑、松倉郷と大左文字の太刀二本と脇差四本を腰に装備していた。
今川義元の宴会が最高潮になってきた頃に、信長の兵は田楽狭間を真下に見下ろせる太子ヶ根の丘にいた。
田楽狭間は桶狭間へ通じる一本道の他は両側共に山で囲まれている。
こうなると義元は袋の中の鼠である。
丘の上で信長は馬から下りて「斬り込むかどうするか」と話すと森可成は「馬のまま駆け降りましょう」と答えた。
ちょうど昼頃になって風雨がやや静かになったのを見計らって、一度にどっと斬り込んだ。
義元の本営では、まさか信長がこの様な不意打ちをするとは夢にも思っていなかったので、味方同志の争いが起ったのかな?位考えていたが、騒音はますます大きくなるばかりである。
義元は混乱を抑えようと帷幕を上げた所を桑原甚内が斬りかかったが近くにいた武士に斬られた。
甚内と一緒に来た服部小平太がこの中にまぎれ込んだ所、義元は味方と間違えて「馬を引け!」と命じたので、そこで槍で義元の脇腹を突いた。
義元は流石に屈することなく槍の柄を斬って折ると同時に小平太の膝を切り裂いたので小平太は倒れてしまう。
同じく義元の首をねらった毛利新助が名乗り出ると同時に義元に組み付いて首をとろうとした。
頭を押えようとあせった新助は左手の人差指を義元の口に押し込んだが咬み切られてしまう。
そしてとうとう義元の首を切り落とし、高々と挙げた。
不意打ちを食らった上に大将が討ち死にし、今川勢は非常に混乱した。 | 今川義元は続々と届く勝利の知らせに喜んで、近所の神官や僧侶達が持ってきたもののうち、数が少ないほうを教えてください。 | 今川義元は続々と届く勝利の知らせに喜んで、近所の神官や僧侶達が持ってきたもののうち、数が少ないほうは酒で百本です。 |
JCRRAG_018018 | 歴史 | 紋の由来及びその変遷
紋の由来については別にお話をする方が良いと思うが、要するにその始まりはさほど古いものではなく、武家がこれを用いたのはせいぜい源平の頃からで、戦場において司令部のあり所を知らせるために、幕とか旗とかに付けた符牒で、その思い付きは京都の大官連が車に家々の紋を付けたのが元で、紋の材料は現今の通説のごとく、礼服の衣紋から得たものであろう。言い換えれば、家号の分化が中止し始めた頃から、紋の分化が始まって、その種類の増加が止まったのは、近代再び家号が増そうとした頃であって、家の本分の関係は何かの方法で、これを表わさなければならぬ社会的の必要を、意味するものではなかろうか。
紋所の詮議の最もやかましかったのは、足利時代から徳川時代へかけて、名乗りの半分を家人にやる慣習が行われた頃である。しかしその反動として紋所を大事にする結果、主君が賞与として家の紋を臣下に与えるようになって、結局紋所の数がだんだん減るようになったのであります。
新領主を苦しめたる地侍・国侍・郷士
この反動的同化作用は、単に紋所にとどまらず、将軍及び諸大名の臣下や鎮撫策とも関連するもので、徳川家がむやみに外様大名に松平の姓を与えたこと、もしくは押しかけ婿、押しかけ嫁を縁付けて、大名各藩を迷惑させたのと同じ傾向を示すものである。御承知の通り徳川初期の武家は、将軍自身を初めとして、十中の八九までは成り上がりの大家である。以前に十数倍する知行を持ったからには、たくさんの侍を召し抱えねばならぬ必要があった。かりにまた譜代の家来に過分の加増をするとしても、その家来もまた知行高相応の軍役を勤めるためには、新たに郎党を召し抱えねばならない。それなのにこの時節は戦国の後で、諸国旧家の主人の新領を失って諸方を流浪して歩くもの、すなわちいわゆる浪人の数が非常に多くて、そのある者は器量次第ですこぶる高い給料を得たために、差し引いても残りはまだなかなか多く、いくら抱えても江戸・大阪に集まって来る無足人が非常に多かったのである。彼等はあるいは大阪陣に加わり、あるいは島原の役に加担し、あるいは由比戸次の謀叛に与して、たいてい片付いてはしまったが、しかしこればかりでは決して尽きたとはいわれぬので、諸国にはまだ若干の食禄を持って、別に新たに主人に仕えることもせず従来の本領に隠れ潜んでいる武士の数が、やはり浪人の数くらい、事によるとそれよりも多くあったのである。この輩を名づけて国侍・地侍または郷士と称えている。
地侍の鎮撫策は、新たなる国持衆の最も取扱いに困難している問題である。
彼等は土民との間に数世の縁故があるのみならず、風土交通の事情に明るく、多くは山の奥、谷の陰を根拠として、公然と攻めに行けば家族を携えて山中に隠れ、敵が去ればまた出て来て住む。
よくよくおとなしいものでもなんだかんだと故障を申し立てて、新たに年貢を払うまいとする。土佐の長曾我部とか、備前の宇喜多とかいう、徳川家に弓を引いて断絶した家々の部下で、新領主を苦しめたのはこれら地侍・郷士の輩である。 | 徳川家に弓を引いて断絶した家の数を教えてください。 | 徳川家に弓を引いて断絶した家の数は2で、
「土佐の長曾我部」
「備前の宇喜多」
です。 |
JCRRAG_018019 | 歴史 | ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
土木・建築
ローマの実用的文化は次の建物に表れました。
コロッセウム(円形闘技場、円形劇場)
ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催
パンテオン(万神殿ばんしんでん)
多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ
アッピア街道
ローマ人がつくったもっとも有名な道路
法
ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。
ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。
やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。
6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 | ウェルギリウスとカエサルの違いを説明して下さい。 | ウェルギリウスはローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物ですが、
一方、カエサルは前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家です。 |
JCRRAG_018020 | 歴史 | 1773年(安永2年)、「一橋家」(ひとつばしけ)の2代当主「一橋治済」(ひとつばしはるさだ)の長男として生まれたのは、徳川家斉です。
徳川家斉は幼名を「豊千代」(とよちよ)と名乗っており、その幼少期の残虐な逸話が伝わっています。
徳川家斉は、家臣達にしばしば、蟹・鶏などの生き物を集めさせ、家臣達が見ている前で、にこにこしながらそれらを踏み付けたり、握り潰したりして殺していたのです。
それ以降、徳川家斉は陰で「蟹鶏公方」(かにとりくぼう)などと呼ばれていたと言われています。
10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)には、嫡子「徳川家基」(とくがわいえもと)がいましたが急死してしまい、将軍職の後継者問題が起こりました。
徳川家斉が生まれた一橋家は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつであり、将軍になる資格がある家柄のため、父である一橋治済にとっては自身の子どもを将軍にすることは悲願であったと伝えられています。
そんななか、次期将軍候補となるのにふさわしい男子がいなかったことや、江戸幕府で老中を務めていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)と一橋治済が画策したことにより、1781年(天明元年)徳川家斉は徳川家治の養子となったのです。
そして、徳川家斉は1786年(天明6年)に徳川家治が亡くなったため、その翌年に11代将軍に就任しました。 | 一橋家の2代当主、一橋治済の長男として生まれた人物は、陰で何と呼ばれていたか。 | 一橋家の2代当主、一橋治済の長男として生まれた人物は、陰で蟹鶏公方と呼ばれていた。 |
JCRRAG_018021 | 歴史 | 信長の将士は善戦しているのだが、なんせ今川勢の数は多すぎるので正攻法ではすでに信長に不利という戦局になっていた。
政次、重休、季忠三名の首が今川の本営に送られた事を善照寺で信長がすぐにその本軍を率いて今川軍に攻め込もうとしたのも無理はなかった。
林通勝、池田信輝、柴田勝家等が、信長をなだめて「敵は多く味方は少ない、ただでさえ路が狭くて少ししか軍勢を出す事が出来ないのに、どうやって正面から戦ができるというのですか」と諫めたが、余裕を失った信長は耳を貸さずに中島に渡ろうとした。
この時に、もし信長が中島に渡って正面から戦をしたならば、恐らく「織田信長」という名を天下に知らしめずに桶狭間の戦いで終ったことであろう。
丁度その時梁田政綱が放った斥候が、沓掛方面から帰ってきて「義元は今から大高に移ろうとして桶狭間に向かった」という報告をした。
間もなくもう一人が義元が「田楽狭間」に駐屯した事を報告した。
政綱が信長に「義元は今までの勝利に調子にのって恐らくは油断してるから、このチャンスを逃さず間道から奇襲すれば義元の首を取れるんじゃないか」と。
今まで駄々をこねていた信長は流石名将と言われるだけはある、すぐに政綱の言葉に従って善照寺には少数の兵を残して旗や幟を多く立てて兵がたくさんいるようにダミーを作り、自らは間道より田楽狭間に向かって進んだ。
この日は朝から暑かったが昼頃になって雷鳴と共に豪雨が降り始め、防風は山々の木をゆるがせた。
なので軍馬の音が今川勢に知られる事もないので熱田にいる神の助けとばかり喜び勇んで山路を進んだ。
信長達が想像してた通り今川義元は続々と届く勝利の知らせに喜んで近所の神官や僧侶達がお祝いの酒を百本や百二十もある肴を持って来たのに気をよくして宴会を開いていた。
この時の今川義元の装備は、赤地の錦の直垂に白の具足、八竜が描かれた五枚冑、松倉郷と大左文字の太刀二本と脇差四本を腰に装備していた。
今川義元の宴会が最高潮になってきた頃に、信長の兵は田楽狭間を真下に見下ろせる太子ヶ根の丘にいた。
田楽狭間は桶狭間へ通じる一本道の他は両側共に山で囲まれている。
こうなると義元は袋の中の鼠である。
丘の上で信長は馬から下りて「斬り込むかどうするか」と話すと森可成は「馬のまま駆け降りましょう」と答えた。
ちょうど昼頃になって風雨がやや静かになったのを見計らって、一度にどっと斬り込んだ。
義元の本営では、まさか信長がこの様な不意打ちをするとは夢にも思っていなかったので、味方同志の争いが起ったのかな?位考えていたが、騒音はますます大きくなるばかりである。
義元は混乱を抑えようと帷幕を上げた所を桑原甚内が斬りかかったが近くにいた武士に斬られた。
甚内と一緒に来た服部小平太がこの中にまぎれ込んだ所、義元は味方と間違えて「馬を引け!」と命じたので、そこで槍で義元の脇腹を突いた。
義元は流石に屈することなく槍の柄を斬って折ると同時に小平太の膝を切り裂いたので小平太は倒れてしまう。
同じく義元の首をねらった毛利新助が名乗り出ると同時に義元に組み付いて首をとろうとした。
頭を押えようとあせった新助は左手の人差指を義元の口に押し込んだが咬み切られてしまう。
そしてとうとう義元の首を切り落とし、高々と挙げた。
不意打ちを食らった上に大将が討ち死にし、今川勢は非常に混乱した。 | 宴会を開いていた時の、今川義元の腰に装備していた刀と脇差のうち、本数が多いほうを教えてください。 | 宴会を開いていた時の、今川義元の腰に装備していた刀と脇差のうち、本数が多いほうは脇差で四本です。 |
JCRRAG_018022 | 歴史 | 諸侯の対地侍策
諸侯の地侍対策にも剛柔があった。無二無三に攻めつぶし、あるいは攻めがたいものは欺いて連れ出して縛り首を打ったけれども、これは決して容易な事業でないからして、多くの場合には幸いとして新たに召抱えの必要もある場合であるから、以前の通り刀をさしていたければ出て来て奉公をせよ、もしまた奉公がいやなら普通の長百姓の通りに年貢を納めよと、選択させた。
この場合における地侍の態度はたいてい一つであった。祖先伝来の槍や刀を捨てたくなかったので、兄弟または親子の一人は出て仕えた。また本領の土地を捨てた悲しさに、他の一人は止まって農となり、その末裔は多く名主または庄屋となった。後年諸侯が貧乏をして、田舎の豪農から献金などをさせ、その賞与としてほかにやるものもないから、名字を名乗ることを許し、あるいは刀をさすことを許したので、人民の方で非常にうれしがったのは深い仔細のあることで、いわゆる二字帯刀御免の制度は、地方の旧家をして久しく失っていた地侍の旧特権を、回復させたのだから嬉しかったのである。
名字と地名との関係断絶の理由
三百諸侯の中には、三百年の間同じ領地を保っていた家もないではないが、その大半は三度も五度も国替え・城替えがあったのである。この場合には最初の領地から出て仕えた地侍の一族は、主人にしたがって西南北に移住して歩いた。
前田家は永くその領地を替えなかったけれども、その藩士の名字を見ると、加賀・能登・越中の地名を帯びているものももちろん多いけれども、そのほかにもあるいは越前在府の時に召し抱えられて越前の村の名を名字としている者、さらに尾州荒子の時代から仕えておった奥村家のような移住者もある。奥州の棚倉などいうような所へ、懲戒的に国替えさせられるような中大名にあっては、その藩士の漂泊生活というものは、明治の今日の軍人や裁判官も三舎を避けるくらいであった。このせいか名字と土地との関係は全然断絶してしまって、ついに現代のごとく数十人の太郎次郎を区別する符号のようになってしまったのである。
しかし彼等自身においては多くの場合、生まれた国を忘れるようなことはなかった。徳川末期の『武鑑』を見ても、江戸の旗本の名の下に生国三河と書いてあるのと同じく、彼等は決してその本国を忘却しなかった。しかのみならず数代以前に別れて来た郷里の本家とは、きわめて血の薄くなるまで音信を絶たず、よくよく双方いずれかが零落をせぬ限りは、名字の地または奉公先を互いに記憶しておったのであります。 | 諸侯の地侍対策として地侍に選択させた項目の数を教えてください。 | 諸侯の地侍対策として地侍に選択させた項目の数は2で、
「以前の通り刀をさしていたければ出て来て奉公をせよ」
「奉公がいやなら普通の長百姓の通りに年貢を納めよ」
です。 |
JCRRAG_018023 | 歴史 | ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
土木・建築
ローマの実用的文化は次の建物に表れました。
コロッセウム(円形闘技場、円形劇場)
ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催
パンテオン(万神殿ばんしんでん)
多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ
アッピア街道
ローマ人がつくったもっとも有名な道路
法
ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。
ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。
やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。
6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 | ウェルギリウスとリウィウスの違いを説明して下さい。 | ウェルギリウスはローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物ですが、
一方、リウィウスは歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物です。 |
JCRRAG_018024 | 歴史 | 1773年(安永2年)、「一橋家」(ひとつばしけ)の2代当主「一橋治済」(ひとつばしはるさだ)の長男として生まれたのは、徳川家斉です。
徳川家斉は幼名を「豊千代」(とよちよ)と名乗っており、その幼少期の残虐な逸話が伝わっています。
徳川家斉は、家臣達にしばしば、蟹・鶏などの生き物を集めさせ、家臣達が見ている前で、にこにこしながらそれらを踏み付けたり、握り潰したりして殺していたのです。
それ以降、徳川家斉は陰で「蟹鶏公方」(かにとりくぼう)などと呼ばれていたと言われています。
10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)には、嫡子「徳川家基」(とくがわいえもと)がいましたが急死してしまい、将軍職の後継者問題が起こりました。
徳川家斉が生まれた一橋家は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつであり、将軍になる資格がある家柄のため、父である一橋治済にとっては自身の子どもを将軍にすることは悲願であったと伝えられています。
そんななか、次期将軍候補となるのにふさわしい男子がいなかったことや、江戸幕府で老中を務めていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)と一橋治済が画策したことにより、1781年(天明元年)徳川家斉は徳川家治の養子となったのです。
そして、徳川家斉は1786年(天明6年)に徳川家治が亡くなったため、その翌年に11代将軍に就任しました。 | 一橋家の2代当主、一橋治済の長男として生まれた人物には、どのような資格があったか。 | 一橋家の2代当主、一橋治済の長男として生まれた人物には、将軍になる資格があった。 |
JCRRAG_018025 | 歴史 | 信長の将士は善戦しているのだが、なんせ今川勢の数は多すぎるので正攻法ではすでに信長に不利という戦局になっていた。
政次、重休、季忠三名の首が今川の本営に送られた事を善照寺で信長がすぐにその本軍を率いて今川軍に攻め込もうとしたのも無理はなかった。
林通勝、池田信輝、柴田勝家等が、信長をなだめて「敵は多く味方は少ない、ただでさえ路が狭くて少ししか軍勢を出す事が出来ないのに、どうやって正面から戦ができるというのですか」と諫めたが、余裕を失った信長は耳を貸さずに中島に渡ろうとした。
この時に、もし信長が中島に渡って正面から戦をしたならば、恐らく「織田信長」という名を天下に知らしめずに桶狭間の戦いで終ったことであろう。
丁度その時梁田政綱が放った斥候が、沓掛方面から帰ってきて「義元は今から大高に移ろうとして桶狭間に向かった」という報告をした。
間もなくもう一人が義元が「田楽狭間」に駐屯した事を報告した。
政綱が信長に「義元は今までの勝利に調子にのって恐らくは油断してるから、このチャンスを逃さず間道から奇襲すれば義元の首を取れるんじゃないか」と。
今まで駄々をこねていた信長は流石名将と言われるだけはある、すぐに政綱の言葉に従って善照寺には少数の兵を残して旗や幟を多く立てて兵がたくさんいるようにダミーを作り、自らは間道より田楽狭間に向かって進んだ。
この日は朝から暑かったが昼頃になって雷鳴と共に豪雨が降り始め、防風は山々の木をゆるがせた。
なので軍馬の音が今川勢に知られる事もないので熱田にいる神の助けとばかり喜び勇んで山路を進んだ。
信長達が想像してた通り今川義元は続々と届く勝利の知らせに喜んで近所の神官や僧侶達がお祝いの酒を百本や百二十もある肴を持って来たのに気をよくして宴会を開いていた。
この時の今川義元の装備は、赤地の錦の直垂に白の具足、八竜が描かれた五枚冑、松倉郷と大左文字の太刀二本と脇差四本を腰に装備していた。
今川義元の宴会が最高潮になってきた頃に、信長の兵は田楽狭間を真下に見下ろせる太子ヶ根の丘にいた。
田楽狭間は桶狭間へ通じる一本道の他は両側共に山で囲まれている。
こうなると義元は袋の中の鼠である。
丘の上で信長は馬から下りて「斬り込むかどうするか」と話すと森可成は「馬のまま駆け降りましょう」と答えた。
ちょうど昼頃になって風雨がやや静かになったのを見計らって、一度にどっと斬り込んだ。
義元の本営では、まさか信長がこの様な不意打ちをするとは夢にも思っていなかったので、味方同志の争いが起ったのかな?位考えていたが、騒音はますます大きくなるばかりである。
義元は混乱を抑えようと帷幕を上げた所を桑原甚内が斬りかかったが近くにいた武士に斬られた。
甚内と一緒に来た服部小平太がこの中にまぎれ込んだ所、義元は味方と間違えて「馬を引け!」と命じたので、そこで槍で義元の脇腹を突いた。
義元は流石に屈することなく槍の柄を斬って折ると同時に小平太の膝を切り裂いたので小平太は倒れてしまう。
同じく義元の首をねらった毛利新助が名乗り出ると同時に義元に組み付いて首をとろうとした。
頭を押えようとあせった新助は左手の人差指を義元の口に押し込んだが咬み切られてしまう。
そしてとうとう義元の首を切り落とし、高々と挙げた。
不意打ちを食らった上に大将が討ち死にし、今川勢は非常に混乱した。 | 宴会を開いていた時の、今川義元の腰に装備していた刀と脇差のうち、本数が少ないほうを教えてください。 | 宴会を開いていた時の、今川義元の腰に装備していた刀と脇差のうち、本数が少ないほうは太刀で二本です。 |
JCRRAG_018026 | 歴史 | 諸侯の対地侍策
諸侯の地侍対策にも剛柔があった。無二無三に攻めつぶし、あるいは攻めがたいものは欺いて連れ出して縛り首を打ったけれども、これは決して容易な事業でないからして、多くの場合には幸いとして新たに召抱えの必要もある場合であるから、以前の通り刀をさしていたければ出て来て奉公をせよ、もしまた奉公がいやなら普通の長百姓の通りに年貢を納めよと、選択させた。
この場合における地侍の態度はたいてい一つであった。祖先伝来の槍や刀を捨てたくなかったので、兄弟または親子の一人は出て仕えた。また本領の土地を捨てた悲しさに、他の一人は止まって農となり、その末裔は多く名主または庄屋となった。後年諸侯が貧乏をして、田舎の豪農から献金などをさせ、その賞与としてほかにやるものもないから、名字を名乗ることを許し、あるいは刀をさすことを許したので、人民の方で非常にうれしがったのは深い仔細のあることで、いわゆる二字帯刀御免の制度は、地方の旧家をして久しく失っていた地侍の旧特権を、回復させたのだから嬉しかったのである。
名字と地名との関係断絶の理由
三百諸侯の中には、三百年の間同じ領地を保っていた家もないではないが、その大半は三度も五度も国替え・城替えがあったのである。この場合には最初の領地から出て仕えた地侍の一族は、主人にしたがって西南北に移住して歩いた。
前田家は永くその領地を替えなかったけれども、その藩士の名字を見ると、加賀・能登・越中の地名を帯びているものももちろん多いけれども、そのほかにもあるいは越前在府の時に召し抱えられて越前の村の名を名字としている者、さらに尾州荒子の時代から仕えておった奥村家のような移住者もある。奥州の棚倉などいうような所へ、懲戒的に国替えさせられるような中大名にあっては、その藩士の漂泊生活というものは、明治の今日の軍人や裁判官も三舎を避けるくらいであった。このせいか名字と土地との関係は全然断絶してしまって、ついに現代のごとく数十人の太郎次郎を区別する符号のようになってしまったのである。
しかし彼等自身においては多くの場合、生まれた国を忘れるようなことはなかった。徳川末期の『武鑑』を見ても、江戸の旗本の名の下に生国三河と書いてあるのと同じく、彼等は決してその本国を忘却しなかった。しかのみならず数代以前に別れて来た郷里の本家とは、きわめて血の薄くなるまで音信を絶たず、よくよく双方いずれかが零落をせぬ限りは、名字の地または奉公先を互いに記憶しておったのであります。 | 三百諸侯の中には、三百年の間同じ領地を保っていた家もないではないが、その大半が保てなかった理由の数を教えてください。 | 三百諸侯の中には、三百年の間同じ領地を保っていた家もないではないが、その大半が保てなかった理由の数は2で、
「国替え」
「城替え」
です。 |
JCRRAG_018027 | 歴史 | ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
土木・建築
ローマの実用的文化は次の建物に表れました。
コロッセウム(円形闘技場、円形劇場)
ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催
パンテオン(万神殿ばんしんでん)
多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ
アッピア街道
ローマ人がつくったもっとも有名な道路
法
ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。
ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。
やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。
6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 | ウェルギリウスとタキトゥスの違いを説明して下さい。 | ウェルギリウスはローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物ですが、
一方、タキトゥスはゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物です。 |
JCRRAG_018028 | 歴史 | 1773年(安永2年)、「一橋家」(ひとつばしけ)の2代当主「一橋治済」(ひとつばしはるさだ)の長男として生まれたのは、徳川家斉です。
徳川家斉は幼名を「豊千代」(とよちよ)と名乗っており、その幼少期の残虐な逸話が伝わっています。
徳川家斉は、家臣達にしばしば、蟹・鶏などの生き物を集めさせ、家臣達が見ている前で、にこにこしながらそれらを踏み付けたり、握り潰したりして殺していたのです。
それ以降、徳川家斉は陰で「蟹鶏公方」(かにとりくぼう)などと呼ばれていたと言われています。
10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)には、嫡子「徳川家基」(とくがわいえもと)がいましたが急死してしまい、将軍職の後継者問題が起こりました。
徳川家斉が生まれた一橋家は、「御三卿」(ごさんきょう)のひとつであり、将軍になる資格がある家柄のため、父である一橋治済にとっては自身の子どもを将軍にすることは悲願であったと伝えられています。
そんななか、次期将軍候補となるのにふさわしい男子がいなかったことや、江戸幕府で老中を務めていた「田沼意次」(たぬまおきつぐ)と一橋治済が画策したことにより、1781年(天明元年)徳川家斉は徳川家治の養子となったのです。
そして、徳川家斉は1786年(天明6年)に徳川家治が亡くなったため、その翌年に11代将軍に就任しました。 | 一橋家の2代当主、一橋治済の長男として生まれた人物は、徳川家治が亡くなったその翌年、何に就任したか。 | 一橋家の2代当主、一橋治済の長男として生まれた人物は、徳川家治が亡くなったその翌年、11代将軍に就任した。 |
JCRRAG_018029 | 歴史 | 天文十二年八月二十五日、乗員百名以上を乗せた中国の船が種子ヶ島に漂着した。
言葉は通じなかったが、五峯という明国の学生が乗っていて筆談することができた。
ところが、船中に特に異様な二名の人物がいる。一人はフランシスコ、もう一人はダ・モータというポルトガルの商人で二人ともその手に不思議な一物をブラ下げていた。
一物の長さは三尺で中央に穴が開いている。もう片方が持っていたのは長さが二尺ほどだった。
持ってみると非常に重い。火が通る路があり、穴の中に火薬を入れ、弾丸を添えて、底をふさいで海岸に的を置いた。
一物を肩に当て腰をひねって横向きに構え、火をつける。電光が走った。雷のような轟音が鳴る。
そして的が射抜かれているのである。見物していた一同は耳をふさいで砂の中に頭を突っ込んだ。
この一物の一発たるや、銀山をくだく、鉄壁すら穿つ、国に仇をなす悪人には、これに触ればたちどころにその魂を失うだろう、まことに珍品だ。
フランシスコはその場で三発、ダ・モータは五発も打って見せた。
そこで領主は高価だろうとかまわず言い値で買う!とこの一品を買い求めた。
二名の南蛮人に先生になってもらって、目をにらみ腰をひねって的を睨む秘伝を教えてもらい、同時に篠川小四郎に命じて火薬の作り方を会得して、金兵衛尉清定という職人に命じて模造させるようにした。
パッと見形は良く出来たけれども、底をふさぐ手段がわからなかった。
次の年、訪れた南蛮船に鉄匠がいたので、底をふさぐ秘訣を会得したという。鉄砲が伝来した日は、日本の実情が西欧に知られた最初の日でもあった。
鉄砲が実戦に使用されたのは十二年後、信玄が川中島の戦いで三百挺の鉄砲を使ったのが最も早かった。
信玄は戦術の研究家であり、各種兵器を機能に応じて適材適所で使い回し、各種兵器を総合的かつ合理的に組織するというやり方だった。
なので新しく登場した武器を見逃すわけがなかった。
けれども、彼の用意した鉄砲は伝来したばかりのまだまだ幼稚なつくりだった。
火縄銃は弾の装填に時間がかかる。発射してから次を発射するまでに結構な時間が空くから、歩兵に突撃させる隙を与える。
突撃されればそれまでだから、信玄は鉄砲の威力を見くびっていた。
要するに鉄砲なんてものは、その最初の射撃を防御さえすれば弾の装填の時間中に殴り放題できる、という結論に達した。
竹束によって最初の射撃をふせぐ方法をあみだし、防具がちゃんとしていれば威力なんてないようなもんだと見切りをつけて、鉄砲の使用をやめてしまった。
信玄最大の失策であり、武田家滅亡の原因であった。川中島の戦いで謙信と争っているうちはそれでよかった。 | 乗員百名以上を乗せた中国の船にいた二人のポルトガルの商人が、手にブラ下げていた一物のうち、長いほうのサイズを教えてください。 | 乗員百名以上を乗せた中国の船にいた二人のポルトガルの商人が、手にブラ下げていた一物のうち、長いほうのサイズは三尺です。 |
JCRRAG_018030 | 歴史 | 諸侯の対地侍策
諸侯の地侍対策にも剛柔があった。無二無三に攻めつぶし、あるいは攻めがたいものは欺いて連れ出して縛り首を打ったけれども、これは決して容易な事業でないからして、多くの場合には幸いとして新たに召抱えの必要もある場合であるから、以前の通り刀をさしていたければ出て来て奉公をせよ、もしまた奉公がいやなら普通の長百姓の通りに年貢を納めよと、選択させた。
この場合における地侍の態度はたいてい一つであった。祖先伝来の槍や刀を捨てたくなかったので、兄弟または親子の一人は出て仕えた。また本領の土地を捨てた悲しさに、他の一人は止まって農となり、その末裔は多く名主または庄屋となった。後年諸侯が貧乏をして、田舎の豪農から献金などをさせ、その賞与としてほかにやるものもないから、名字を名乗ることを許し、あるいは刀をさすことを許したので、人民の方で非常にうれしがったのは深い仔細のあることで、いわゆる二字帯刀御免の制度は、地方の旧家をして久しく失っていた地侍の旧特権を、回復させたのだから嬉しかったのである。
名字と地名との関係断絶の理由
三百諸侯の中には、三百年の間同じ領地を保っていた家もないではないが、その大半は三度も五度も国替え・城替えがあったのである。この場合には最初の領地から出て仕えた地侍の一族は、主人にしたがって西南北に移住して歩いた。
前田家は永くその領地を替えなかったけれども、その藩士の名字を見ると、加賀・能登・越中の地名を帯びているものももちろん多いけれども、そのほかにもあるいは越前在府の時に召し抱えられて越前の村の名を名字としている者、さらに尾州荒子の時代から仕えておった奥村家のような移住者もある。奥州の棚倉などいうような所へ、懲戒的に国替えさせられるような中大名にあっては、その藩士の漂泊生活というものは、明治の今日の軍人や裁判官も三舎を避けるくらいであった。このせいか名字と土地との関係は全然断絶してしまって、ついに現代のごとく数十人の太郎次郎を区別する符号のようになってしまったのである。
しかし彼等自身においては多くの場合、生まれた国を忘れるようなことはなかった。徳川末期の『武鑑』を見ても、江戸の旗本の名の下に生国三河と書いてあるのと同じく、彼等は決してその本国を忘却しなかった。しかのみならず数代以前に別れて来た郷里の本家とは、きわめて血の薄くなるまで音信を絶たず、よくよく双方いずれかが零落をせぬ限りは、名字の地または奉公先を互いに記憶しておったのであります。 | 前田家の藩士で地名の名前がついているとして挙げられている名字の種類の数を教えてください。 | 前田家の藩士で地名の名前がついているとして挙げられている名字の種類の数は3で、
「加賀」、「能登」、「越中」です。 |
JCRRAG_018031 | 歴史 | ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
土木・建築
ローマの実用的文化は次の建物に表れました。
コロッセウム(円形闘技場、円形劇場)
ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催
パンテオン(万神殿ばんしんでん)
多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ
アッピア街道
ローマ人がつくったもっとも有名な道路
法
ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。
ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。
やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。
6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 | ウェルギリウスとプルタルコスの違いを説明して下さい。 | ウェルギリウスはローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物ですが、
一方、プルタルコスはギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物です。 |
JCRRAG_018032 | 歴史 | 10代将軍・徳川家治の時代に、江戸幕府の老中として重用されていたのは田沼意次です。しかし、田沼意次は徳川家斉が将軍の座に就くと、罷免されました。
そして、若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、「老中首座」(ろうじゅうしゅざ)に任命されたのは、陸奥国白河藩(むつのくにしらかわはん)の3代藩主「松平定信」(まつだいらさだのぶ)です。
松平定信は、もともと御三卿のひとつに数えられる「田安家」(たやすけ)に生まれました。ところが、権勢を振るっていた田沼意次を恐れていた一橋治済により、松平定信は1774年(安永3年)、白河藩2代藩主「松平定邦」(まつだいらさだくに)の養子となります。
松平定信は幼少の頃から聡明であったと伝えられ、一時期、徳川家治の次期将軍候補とまで言われていた人物。老中首座に就任すると、その頭脳と政治的手腕を発揮し、田沼意次の代で悪評が高まってしまった幕政を変えるために、徳川家斉の補佐として様々な改革に乗り出したのです。
この当時の日本では、大規模な飢饉や浅間山(あさまやま)の大噴火といった天災が度重なっていただけでなく、幕府の役人の間で蔓延って(はびこって)いた汚職政治に怒りを感じていた庶民により、一揆(いっき)や打ちこわしが頻繁に行なわれていました。
松平定信は、白河藩主時代の1782~1788年(天明2~8年)に起こった「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)によって傾いた藩の財政を再建した経験を活かし、幕政の立て直しを進めていきます。
松平定信は、まず田沼意次が実施していた「重商主義」(じゅうしょうしゅぎ:産業の保護や育成を国家が積極的に行ない、輸出を増やすことで国を豊かにしようとする経済思想)の政策から、「重農主義」(じゅうのうしゅぎ:重商主義に対し、国家や社会の富の基礎は農業にあるとする経済思想)の政策への転換を図りました。 | 10代将軍・徳川家治の時代に、江戸幕府の老中として重用されていた人物は、徳川家斉が将軍の座に就くと、どのような処分を受けたか。 | 10代将軍・徳川家治の時代に、江戸幕府の老中として重用されていた人物は、徳川家斉が将軍の座に就くと、罷免された。 |
JCRRAG_018033 | 歴史 | 天文十二年八月二十五日、乗員百名以上を乗せた中国の船が種子ヶ島に漂着した。
言葉は通じなかったが、五峯という明国の学生が乗っていて筆談することができた。
ところが、船中に特に異様な二名の人物がいる。一人はフランシスコ、もう一人はダ・モータというポルトガルの商人で二人ともその手に不思議な一物をブラ下げていた。
一物の長さは三尺で中央に穴が開いている。もう片方が持っていたのは長さが二尺ほどだった。
持ってみると非常に重い。火が通る路があり、穴の中に火薬を入れ、弾丸を添えて、底をふさいで海岸に的を置いた。
一物を肩に当て腰をひねって横向きに構え、火をつける。電光が走った。雷のような轟音が鳴る。
そして的が射抜かれているのである。見物していた一同は耳をふさいで砂の中に頭を突っ込んだ。
この一物の一発たるや、銀山をくだく、鉄壁すら穿つ、国に仇をなす悪人には、これに触ればたちどころにその魂を失うだろう、まことに珍品だ。
フランシスコはその場で三発、ダ・モータは五発も打って見せた。
そこで領主は高価だろうとかまわず言い値で買う!とこの一品を買い求めた。
二名の南蛮人に先生になってもらって、目をにらみ腰をひねって的を睨む秘伝を教えてもらい、同時に篠川小四郎に命じて火薬の作り方を会得して、金兵衛尉清定という職人に命じて模造させるようにした。
パッと見形は良く出来たけれども、底をふさぐ手段がわからなかった。
次の年、訪れた南蛮船に鉄匠がいたので、底をふさぐ秘訣を会得したという。鉄砲が伝来した日は、日本の実情が西欧に知られた最初の日でもあった。
鉄砲が実戦に使用されたのは十二年後、信玄が川中島の戦いで三百挺の鉄砲を使ったのが最も早かった。
信玄は戦術の研究家であり、各種兵器を機能に応じて適材適所で使い回し、各種兵器を総合的かつ合理的に組織するというやり方だった。
なので新しく登場した武器を見逃すわけがなかった。
けれども、彼の用意した鉄砲は伝来したばかりのまだまだ幼稚なつくりだった。
火縄銃は弾の装填に時間がかかる。発射してから次を発射するまでに結構な時間が空くから、歩兵に突撃させる隙を与える。
突撃されればそれまでだから、信玄は鉄砲の威力を見くびっていた。
要するに鉄砲なんてものは、その最初の射撃を防御さえすれば弾の装填の時間中に殴り放題できる、という結論に達した。
竹束によって最初の射撃をふせぐ方法をあみだし、防具がちゃんとしていれば威力なんてないようなもんだと見切りをつけて、鉄砲の使用をやめてしまった。
信玄最大の失策であり、武田家滅亡の原因であった。川中島の戦いで謙信と争っているうちはそれでよかった。 | 乗員百名以上を乗せた中国の船にいた二人のポルトガルの商人が、手にブラ下げていた一物のうち、短いほうのサイズを教えてください。 | 乗員百名以上を乗せた中国の船にいた二人のポルトガルの商人が、手にブラ下げていた一物のうち、短いほうのサイズは二尺です。 |
JCRRAG_018034 | 歴史 | 二字免許の制度の由来
村々の農夫の歴史は文字に伝わっておらぬけれども、存外続いて久しいものであるらしい。彼等は戦乱に追われ、または天災に遭遇しても、真っ先に居村に引き返して荒地を再墾することに勤めたらしい。今日の新村というのは、よくよく以前から人の耕さなかった土地に外部から移住したものである。これに反して武家の方は数回の大移住のためによほどの混乱を生じ、少なくとも客観的にはその家号の由来が不明になっている。しかるに旧幕時代は普通の土民は、公に在名を称する事を禁じられた。二字ということは中世では名字を意味した。武士がある大家の家人となれば、名簿に二字を書いてこれを主人に呈し、実名を諱まずに呼んで下さいという儀式を行った。この制度が廃れてから、公に家号を名乗ることを二字の免許と称した。村々には長百姓と小百姓、もしくは地主と門男との階級があって、後者は武家の特権に対しても、または旧家門閥の威厳を維持する上からも、絶対に家号を唱うることを許されず、しかもその多くのものはとっくの昔に家号を忘却し、または最初から家号がなくして、十数代も何村何兵衛で通っておった。
一村ことごとく魚の名を家号にした伊予の漁村
明治の初年に在名の禁が解かれて、次いで戸籍にいわゆる姓氏を録せなければならぬことになった時に、村々の役場ではそれはそれは大騒動であった。数百戸の無家号の人がとにかく何か名字を持たなければならぬことになった。旧家の零落したものまたは本家の明白なるものは、もちろん私にはこれを用いていたのであるからして面倒はなかったが、親代々の小百姓は皆困った。多くは譜代の関係を辿って出入りの家から名字を貰った。または相手方の故障を言わぬ限りその近村で聞こえた名字を名乗った。しかしそんな考えもないものは役場の吏員が付けてやった。あるいは家の前に松の木があるから松下と付けろとか、山の入口にあるから谷口と名乗れとか、中には頓狂な村役人などがあって、伊予の海岸の漁村などでは家々が魚の名を付けた。その隣村では野菜の名を名乗ったとかいう例がいくらもあった。魚や野菜ならば珍しいから紛れもせぬが、松下とか谷口とかいう類に至っては、実際昔松下村の地頭であり、谷口村の名主であった家と、人から区別することが困難になった。ここでまた第三次の大混乱が起きました。
今日東京のごとき大都会においては、たいてい珍しいと思う名字が諸国から集まってほとんと区別もできぬから、名字は以前に比べて生活上の意味が薄くなり、これに伴なって各人の頭に、家という思想がだんだん微弱になって行くのは、実に是非もなき成り行きであります。 | 村にあるとされる階級の数を教えてください。 | 村にあるとされる階級の数は2で、
「長百姓と小百姓」
「地主と門男」
です。 |
JCRRAG_018035 | 歴史 | ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
土木・建築
ローマの実用的文化は次の建物に表れました。
コロッセウム(円形闘技場、円形劇場)
ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催
パンテオン(万神殿ばんしんでん)
多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ
アッピア街道
ローマ人がつくったもっとも有名な道路
法
ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。
ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。
やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。
6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 | ウェルギリウスとストラボンの違いを説明して下さい。 | ウェルギリウスはローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物ですが、
一方、ストラボンは当時知られていた全世界の地誌を記述した人物です。 |
JCRRAG_018036 | 歴史 | 10代将軍・徳川家治の時代に、江戸幕府の老中として重用されていたのは田沼意次です。しかし、田沼意次は徳川家斉が将軍の座に就くと、罷免されました。
そして、若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、「老中首座」(ろうじゅうしゅざ)に任命されたのは、陸奥国白河藩(むつのくにしらかわはん)の3代藩主「松平定信」(まつだいらさだのぶ)です。
松平定信は、もともと御三卿のひとつに数えられる「田安家」(たやすけ)に生まれました。ところが、権勢を振るっていた田沼意次を恐れていた一橋治済により、松平定信は1774年(安永3年)、白河藩2代藩主「松平定邦」(まつだいらさだくに)の養子となります。
松平定信は幼少の頃から聡明であったと伝えられ、一時期、徳川家治の次期将軍候補とまで言われていた人物。老中首座に就任すると、その頭脳と政治的手腕を発揮し、田沼意次の代で悪評が高まってしまった幕政を変えるために、徳川家斉の補佐として様々な改革に乗り出したのです。
この当時の日本では、大規模な飢饉や浅間山(あさまやま)の大噴火といった天災が度重なっていただけでなく、幕府の役人の間で蔓延って(はびこって)いた汚職政治に怒りを感じていた庶民により、一揆(いっき)や打ちこわしが頻繁に行なわれていました。
松平定信は、白河藩主時代の1782~1788年(天明2~8年)に起こった「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)によって傾いた藩の財政を再建した経験を活かし、幕政の立て直しを進めていきます。
松平定信は、まず田沼意次が実施していた「重商主義」(じゅうしょうしゅぎ:産業の保護や育成を国家が積極的に行ない、輸出を増やすことで国を豊かにしようとする経済思想)の政策から、「重農主義」(じゅうのうしゅぎ:重商主義に対し、国家や社会の富の基礎は農業にあるとする経済思想)の政策への転換を図りました。 | 若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、老中首座に任命された人物は、もともとどのような家に生まれたか。 | 若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、老中首座に任命された人物は、もともと御三卿のひとつに数えられる田安家に生まれた。 |
JCRRAG_018037 | 歴史 | 陶晴賢が主君である大内義隆を殺した理由は、大内義隆が部下の相良遠江守武任一人を寵愛し優遇したからである。
相良は筑前の人間で義隆に仕えたが、並外れた才智を持っていたので、大内譜代の部下である陶、杉、内藤の三人を嫌い冷遇していた。
陶はそれを不快に感じて遂に天文十九年に義隆を殺したのだ。
この事変の時の毛利元就の態度は非常に曖昧だった。陶の方からも義隆の方からも元就のところへ援助を求めて来ている。
元就は隆元、元春、隆景などを集めて相談したが、その時家臣である熊谷伊豆守の「とにかく今回の戦は陶が勝つと思うから、とにかく陶の方へ味方をしておいて、後でタイミングをうかがって陶を倒した方がいいと思う」という意見が通って陶に味方をしているのである。
厳島合戦は毛利元就が主君のために陶晴賢を倒した事になっているが、秀吉の山崎合戦のように大義名分的なものではないのである。
もっとも元就は、大内義隆の被官ではあるが必ずしも家来ではない。
だから晴賢を討伐せよという勅命まで受けているがそれも政略的な意味で「必ず主の仇討ちに報いる!」という志に燃えていたわけではないのである。
ただ陶晴賢と戦争することについて、主君の為に晴賢が道理に外れてるから倒す、という看板を掲げて名分を正したに過ぎない。
毛利が陶と仲が悪くなった原因は、むしろ他にあるようだ。
晴賢が義隆を殺した後の二・三年間は何事もなく交際していたのだが、元就が攻略した尼子方の備後国江田の旗返城を陶が毛利に預けないで、江良丹後守に預けた。
これが元就が陶に不快を感じた原因である。
そしてチャンスを敏感にとらえて見逃さない元就は陶が石州の吉見正頼を攻めに行ったタイミングに乗じて安芸にある桜尾や銀山等の城を落としてしまった。
その上で吉見正頼の三本松の城へ加勢を派遣した。この加勢の大将は城から出て、陶に対して声高らかに、「毛利右馬頭元就、正頼と一味し、当城へも加勢を入れている。加勢の大将は私だ、元就自身は、芸州神領表へ討ち出て、桜尾、銀山の古城をすべて攻略して、やがて山口へ攻め入るという状況になっている、注意した方がいい」と叫んだ。
陶はさぞびっくりしただろう。芸州神領表というのは、その辺一帯の厳島の神領であったのである。
とにかく元就は、雄志大略の武将であった。幼年時代厳島に詣でに行ったとき、家臣が「君を中国の主にしてくれたまえ」と祈ったというのを笑って「何故、日本の主にならせ給えとは祈らぬぞ」といった程の男だから、主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して、自分が取って代わらんという雄志大略の方が強かったのである。
北条早雲が、横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆をとったやり方などよりは、よっぽど、理窟があるが、結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。" | 大内義隆の四人の部下のうち、好きで優遇している人数を教えてください。 | 大内義隆の四人の部下のうち、好きで優遇している人数は一人です。 |
JCRRAG_018038 | 歴史 | 二字免許の制度の由来
村々の農夫の歴史は文字に伝わっておらぬけれども、存外続いて久しいものであるらしい。彼等は戦乱に追われ、または天災に遭遇しても、真っ先に居村に引き返して荒地を再墾することに勤めたらしい。今日の新村というのは、よくよく以前から人の耕さなかった土地に外部から移住したものである。これに反して武家の方は数回の大移住のためによほどの混乱を生じ、少なくとも客観的にはその家号の由来が不明になっている。しかるに旧幕時代は普通の土民は、公に在名を称する事を禁じられた。二字ということは中世では名字を意味した。武士がある大家の家人となれば、名簿に二字を書いてこれを主人に呈し、実名を諱まずに呼んで下さいという儀式を行った。この制度が廃れてから、公に家号を名乗ることを二字の免許と称した。村々には長百姓と小百姓、もしくは地主と門男との階級があって、後者は武家の特権に対しても、または旧家門閥の威厳を維持する上からも、絶対に家号を唱うることを許されず、しかもその多くのものはとっくの昔に家号を忘却し、または最初から家号がなくして、十数代も何村何兵衛で通っておった。
一村ことごとく魚の名を家号にした伊予の漁村
明治の初年に在名の禁が解かれて、次いで戸籍にいわゆる姓氏を録せなければならぬことになった時に、村々の役場ではそれはそれは大騒動であった。数百戸の無家号の人がとにかく何か名字を持たなければならぬことになった。旧家の零落したものまたは本家の明白なるものは、もちろん私にはこれを用いていたのであるからして面倒はなかったが、親代々の小百姓は皆困った。多くは譜代の関係を辿って出入りの家から名字を貰った。または相手方の故障を言わぬ限りその近村で聞こえた名字を名乗った。しかしそんな考えもないものは役場の吏員が付けてやった。あるいは家の前に松の木があるから松下と付けろとか、山の入口にあるから谷口と名乗れとか、中には頓狂な村役人などがあって、伊予の海岸の漁村などでは家々が魚の名を付けた。その隣村では野菜の名を名乗ったとかいう例がいくらもあった。魚や野菜ならば珍しいから紛れもせぬが、松下とか谷口とかいう類に至っては、実際昔松下村の地頭であり、谷口村の名主であった家と、人から区別することが困難になった。ここでまた第三次の大混乱が起きました。
今日東京のごとき大都会においては、たいてい珍しいと思う名字が諸国から集まってほとんと区別もできぬから、名字は以前に比べて生活上の意味が薄くなり、これに伴なって各人の頭に、家という思想がだんだん微弱になって行くのは、実に是非もなき成り行きであります。 | 小百姓が苗字を付けた方法の数を教えてください。 | 小百姓が苗字を付けた方法の数は5で、
「譜代の関係を辿って出入りの家から名字を貰った」
「相手方の故障を言わぬ限りその近村で聞こえた名字を名乗った」
「そんな考えもないものは役場の吏員が付けてやった」
「伊予の海岸の漁村などでは家々が魚の名を付けた」
「野菜の名を名乗った」
です。 |
JCRRAG_018039 | 歴史 | ローマの政治家カエサルは、独裁的な権力への野心を抱きました。この動きは、共和政の伝統を守ろうとする者たちによって阻止されました。カエサルの死後、オクタウィアヌスが台頭し、ローマ皇帝となって政治・軍事の実権を握ります。彼はカエサルと異なり、共和政の伝統を尊重しました。
目次
地中海の平定
第1回三頭政治
カエサルの台頭と暗殺
第2回三頭政治
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
ローマ帝国の支配と活動
帝国の瓦解
地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
ポンペイウス
カエサル
クラッスス
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
ガリア
現在のフランスにほぼ相当
『ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
土木・建築
ローマの実用的文化は次の建物に表れました。
コロッセウム(円形闘技場、円形劇場)
ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催
パンテオン(万神殿ばんしんでん)
多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ
アッピア街道
ローマ人がつくったもっとも有名な道路
法
ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。
ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。
やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。
6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | ウェルギリウスとキケロの違いを説明して下さい。 | ウェルギリウスはローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物ですが、
一方、キケロは優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立です。 |
JCRRAG_018040 | 歴史 | 10代将軍・徳川家治の時代に、江戸幕府の老中として重用されていたのは田沼意次です。しかし、田沼意次は徳川家斉が将軍の座に就くと、罷免されました。
そして、若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、「老中首座」(ろうじゅうしゅざ)に任命されたのは、陸奥国白河藩(むつのくにしらかわはん)の3代藩主「松平定信」(まつだいらさだのぶ)です。
松平定信は、もともと御三卿のひとつに数えられる「田安家」(たやすけ)に生まれました。ところが、権勢を振るっていた田沼意次を恐れていた一橋治済により、松平定信は1774年(安永3年)、白河藩2代藩主「松平定邦」(まつだいらさだくに)の養子となります。
松平定信は幼少の頃から聡明であったと伝えられ、一時期、徳川家治の次期将軍候補とまで言われていた人物。老中首座に就任すると、その頭脳と政治的手腕を発揮し、田沼意次の代で悪評が高まってしまった幕政を変えるために、徳川家斉の補佐として様々な改革に乗り出したのです。
この当時の日本では、大規模な飢饉や浅間山(あさまやま)の大噴火といった天災が度重なっていただけでなく、幕府の役人の間で蔓延って(はびこって)いた汚職政治に怒りを感じていた庶民により、一揆(いっき)や打ちこわしが頻繁に行なわれていました。
松平定信は、白河藩主時代の1782~1788年(天明2~8年)に起こった「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)によって傾いた藩の財政を再建した経験を活かし、幕政の立て直しを進めていきます。
松平定信は、まず田沼意次が実施していた「重商主義」(じゅうしょうしゅぎ:産業の保護や育成を国家が積極的に行ない、輸出を増やすことで国を豊かにしようとする経済思想)の政策から、「重農主義」(じゅうのうしゅぎ:重商主義に対し、国家や社会の富の基礎は農業にあるとする経済思想)の政策への転換を図りました。 | 若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、老中首座に任命された人物は、幼少の頃から聡明であったと伝えられ、一時期何の候補と言われていたか。 | 若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、老中首座に任命された人物は、幼少の頃から聡明であったと伝えられ、一時期、徳川家治の次期将軍候補とまで言われていた。 |
JCRRAG_018041 | 歴史 | 陶晴賢が主君である大内義隆を殺した理由は、大内義隆が部下の相良遠江守武任一人を寵愛し優遇したからである。
相良は筑前の人間で義隆に仕えたが、並外れた才智を持っていたので、大内譜代の部下である陶、杉、内藤の三人を嫌い冷遇していた。
陶はそれを不快に感じて遂に天文十九年に義隆を殺したのだ。
この事変の時の毛利元就の態度は非常に曖昧だった。陶の方からも義隆の方からも元就のところへ援助を求めて来ている。
元就は隆元、元春、隆景などを集めて相談したが、その時家臣である熊谷伊豆守の「とにかく今回の戦は陶が勝つと思うから、とにかく陶の方へ味方をしておいて、後でタイミングをうかがって陶を倒した方がいいと思う」という意見が通って陶に味方をしているのである。
厳島合戦は毛利元就が主君のために陶晴賢を倒した事になっているが、秀吉の山崎合戦のように大義名分的なものではないのである。
もっとも元就は、大内義隆の被官ではあるが必ずしも家来ではない。
だから晴賢を討伐せよという勅命まで受けているがそれも政略的な意味で「必ず主の仇討ちに報いる!」という志に燃えていたわけではないのである。
ただ陶晴賢と戦争することについて、主君の為に晴賢が道理に外れてるから倒す、という看板を掲げて名分を正したに過ぎない。
毛利が陶と仲が悪くなった原因は、むしろ他にあるようだ。
晴賢が義隆を殺した後の二・三年間は何事もなく交際していたのだが、元就が攻略した尼子方の備後国江田の旗返城を陶が毛利に預けないで、江良丹後守に預けた。
これが元就が陶に不快を感じた原因である。
そしてチャンスを敏感にとらえて見逃さない元就は陶が石州の吉見正頼を攻めに行ったタイミングに乗じて安芸にある桜尾や銀山等の城を落としてしまった。
その上で吉見正頼の三本松の城へ加勢を派遣した。この加勢の大将は城から出て、陶に対して声高らかに、「毛利右馬頭元就、正頼と一味し、当城へも加勢を入れている。加勢の大将は私だ、元就自身は、芸州神領表へ討ち出て、桜尾、銀山の古城をすべて攻略して、やがて山口へ攻め入るという状況になっている、注意した方がいい」と叫んだ。
陶はさぞびっくりしただろう。芸州神領表というのは、その辺一帯の厳島の神領であったのである。
とにかく元就は、雄志大略の武将であった。幼年時代厳島に詣でに行ったとき、家臣が「君を中国の主にしてくれたまえ」と祈ったというのを笑って「何故、日本の主にならせ給えとは祈らぬぞ」といった程の男だから、主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して、自分が取って代わらんという雄志大略の方が強かったのである。
北条早雲が、横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆をとったやり方などよりは、よっぽど、理窟があるが、結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。" | 大内義隆の四人の部下のうち、嫌いで冷遇している人数を教えてください。 | 大内義隆の四人の部下のうち、嫌いで冷遇している人数は三人です。 |
JCRRAG_018042 | 歴史 | 二字免許の制度の由来
村々の農夫の歴史は文字に伝わっておらぬけれども、存外続いて久しいものであるらしい。彼等は戦乱に追われ、または天災に遭遇しても、真っ先に居村に引き返して荒地を再墾することに勤めたらしい。今日の新村というのは、よくよく以前から人の耕さなかった土地に外部から移住したものである。これに反して武家の方は数回の大移住のためによほどの混乱を生じ、少なくとも客観的にはその家号の由来が不明になっている。しかるに旧幕時代は普通の土民は、公に在名を称する事を禁じられた。二字ということは中世では名字を意味した。武士がある大家の家人となれば、名簿に二字を書いてこれを主人に呈し、実名を諱まずに呼んで下さいという儀式を行った。この制度が廃れてから、公に家号を名乗ることを二字の免許と称した。村々には長百姓と小百姓、もしくは地主と門男との階級があって、後者は武家の特権に対しても、または旧家門閥の威厳を維持する上からも、絶対に家号を唱うることを許されず、しかもその多くのものはとっくの昔に家号を忘却し、または最初から家号がなくして、十数代も何村何兵衛で通っておった。
一村ことごとく魚の名を家号にした伊予の漁村
明治の初年に在名の禁が解かれて、次いで戸籍にいわゆる姓氏を録せなければならぬことになった時に、村々の役場ではそれはそれは大騒動であった。数百戸の無家号の人がとにかく何か名字を持たなければならぬことになった。旧家の零落したものまたは本家の明白なるものは、もちろん私にはこれを用いていたのであるからして面倒はなかったが、親代々の小百姓は皆困った。多くは譜代の関係を辿って出入りの家から名字を貰った。または相手方の故障を言わぬ限りその近村で聞こえた名字を名乗った。しかしそんな考えもないものは役場の吏員が付けてやった。あるいは家の前に松の木があるから松下と付けろとか、山の入口にあるから谷口と名乗れとか、中には頓狂な村役人などがあって、伊予の海岸の漁村などでは家々が魚の名を付けた。その隣村では野菜の名を名乗ったとかいう例がいくらもあった。魚や野菜ならば珍しいから紛れもせぬが、松下とか谷口とかいう類に至っては、実際昔松下村の地頭であり、谷口村の名主であった家と、人から区別することが困難になった。ここでまた第三次の大混乱が起きました。
今日東京のごとき大都会においては、たいてい珍しいと思う名字が諸国から集まってほとんと区別もできぬから、名字は以前に比べて生活上の意味が薄くなり、これに伴なって各人の頭に、家という思想がだんだん微弱になって行くのは、実に是非もなき成り行きであります。 | 頓狂な村役人がつけた名字の数を教えてください。 | 頓狂な村役人がつけた名字の数は2で、
「家の前に松の木があるから松下と付けろ」
「山の入口にあるから谷口と名乗れ」
です。 |
JCRRAG_018043 | 歴史 | ローマの政治家カエサルは、独裁的な権力への野心を抱きました。この動きは、共和政の伝統を守ろうとする者たちによって阻止されました。カエサルの死後、オクタウィアヌスが台頭し、ローマ皇帝となって政治・軍事の実権を握ります。彼はカエサルと異なり、共和政の伝統を尊重しました。
目次
地中海の平定
第1回三頭政治
カエサルの台頭と暗殺
第2回三頭政治
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
ローマ帝国の支配と活動
帝国の瓦解
地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
ポンペイウス
カエサル
クラッスス
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
ガリア
現在のフランスにほぼ相当
『ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
土木・建築
ローマの実用的文化は次の建物に表れました。
コロッセウム(円形闘技場、円形劇場)
ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催
パンテオン(万神殿ばんしんでん)
多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ
アッピア街道
ローマ人がつくったもっとも有名な道路
法
ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。
ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。
やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。
6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | ウェルギリウスとマルクス=アウレリウス=アントニヌスの違いを説明して下さい。 | ウェルギリウスはローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物ですが、
一方、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人で中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場しました。 |
JCRRAG_018044 | 歴史 | 10代将軍・徳川家治の時代に、江戸幕府の老中として重用されていたのは田沼意次です。しかし、田沼意次は徳川家斉が将軍の座に就くと、罷免されました。
そして、若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、「老中首座」(ろうじゅうしゅざ)に任命されたのは、陸奥国白河藩(むつのくにしらかわはん)の3代藩主「松平定信」(まつだいらさだのぶ)です。
松平定信は、もともと御三卿のひとつに数えられる「田安家」(たやすけ)に生まれました。ところが、権勢を振るっていた田沼意次を恐れていた一橋治済により、松平定信は1774年(安永3年)、白河藩2代藩主「松平定邦」(まつだいらさだくに)の養子となります。
松平定信は幼少の頃から聡明であったと伝えられ、一時期、徳川家治の次期将軍候補とまで言われていた人物。老中首座に就任すると、その頭脳と政治的手腕を発揮し、田沼意次の代で悪評が高まってしまった幕政を変えるために、徳川家斉の補佐として様々な改革に乗り出したのです。
この当時の日本では、大規模な飢饉や浅間山(あさまやま)の大噴火といった天災が度重なっていただけでなく、幕府の役人の間で蔓延って(はびこって)いた汚職政治に怒りを感じていた庶民により、一揆(いっき)や打ちこわしが頻繁に行なわれていました。
松平定信は、白河藩主時代の1782~1788年(天明2~8年)に起こった「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)によって傾いた藩の財政を再建した経験を活かし、幕政の立て直しを進めていきます。
松平定信は、まず田沼意次が実施していた「重商主義」(じゅうしょうしゅぎ:産業の保護や育成を国家が積極的に行ない、輸出を増やすことで国を豊かにしようとする経済思想)の政策から、「重農主義」(じゅうのうしゅぎ:重商主義に対し、国家や社会の富の基礎は農業にあるとする経済思想)の政策への転換を図りました。 | 若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、老中首座に任命された人物は、どのような経験を活かして幕政の立て直しを進めていったか。 | 若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、老中首座に任命された人物は、天明の大飢饉によって傾いた藩の財政を再建した経験を活かし、幕政の立て直しを進めていった。 |
JCRRAG_018045 | 歴史 | とにかく毛利元就は、すぐれた才能を持ち大きなはかりごとが出来る武将であった。
幼年時代に厳島にお参りした時に、家臣が「君を中国地方の主にさせてください」と祈ったというのを笑って「何故、日本の主にさせてくれとは祈らないんだ?」といった程の男だ。
だから主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して自分が取って代わってやろうという企らみの方が強かったのである。
北条早雲が横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆を取ったやり方などよりは、よっぽど理屈があるけど結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。
元々毛利元就という男は、戦国時代屈指の名将である。
徳川家康と北条早雲を足して2で割ったような大将である。家康を超えるほどの寛容さと慈悲深さを持っている。
謀略を用いる点においては家康よりはずっと辛辣である。
厳島合戦の時はちょうど五十二歳の分別盛りである。長子隆元三十二歳、次子吉川元春二十三歳、三子隆景二十二歳。吉川元春は、かつて梅雪と言われていた。
熊谷伊豆守の娘の新庄局がなんとも醜い娘で、誰も結婚する人が見つからないと聞いて、その父の武勇に賞賛しながら、「その娘のためにさぞや嘆いているのだろう。私が結婚するといえば熊谷家は、毛利のために一生懸命頑張ってくれるだろう」と言って結婚した男である。
乃木将軍式スパルタ式の猛将である。三男の隆景は彼を「楊柳」と呼ぶほどの容姿端麗な武士であった。
その才略は抜群で後に秀吉が天下を経営する際の相談相手となり、秀吉から「日本の蓋でも勤まる」と評されたが、こいつもまた勇ましさが抜群で、朝鮮の役には碧蹄館において、十万の明軍を相手に、決戦した勇将である。だから元就は「良い子まで生むんだから幸運な大将である」と言われた。 | 毛利元就の三人いる子供のうち、もっとも若い年齢を教えてください。 | 毛利元就の三人いる子供のうち、もっとも若い年齢は二十二歳です。 |
JCRRAG_018046 | 歴史 | 家号の由来を調査することの必要
中国では古くから『万姓統譜』などという書物があって、これによれば家々の歴史もわかり、間接には数千年来の国内植民のなりゆきも明らかになることであるが、不幸なことにはわが国にはこの種の書籍もなく、しかもたびたびの混乱を経た今日となっては、将来これを作製すべき希望も乏しいのである。せめてもの希望として、たとえ明治になって家号を付けた家々まで、その由来を明らかにすることができなくても、せめて地方地方の旧族名門、及びいわゆる士族という階級だけは、多少の辛苦をすればわかるのであるからして、今のうちにその家号の索引をこしらえておきたいものである。
この材料としては、地方の風土誌の類にも旧家の記事があるし、また武家の方では徳川幕府で作った『寛政重修諸家譜』の類、各藩では家々から提出した勤め書の類を合わせれば、過半の材料は容易に得られるのである。この類の書物さえあれば、たとえ士族でなく豪農でない家でも、自分の家と同じ家号の中から、自然に家の歴史を知ることができるであろうし、反対の証拠のない限りは、自分の居住地に最も近き同家号の家をもって、その本家を推定することができるし、その本家の歴史がわかれば、自分等の血統上祖先とその地方、ないし旧領主との関係もわかり、ひいては一国の歴史との交渉点も見出される訳であるから、将来の青年に対する訓育的の効果は決して少なくはないと思う。
床次という名字の由来
簡略ながら名字の本論はこれで終わった。このついでの愛嬌に二つ三つ我々の知っている珍しい名字のお話をしてみよう。
新内務次官の名字は何だか「トコツグ」と読めそうで、人は珍しい名字と考えているが、あの地名は同君の郷里の方にあるのであろう。「トコナミ」という地名は決してそれほど珍しくない。東の方に来るに従ってあるいは「床波」と書し、または「床鍋」「床辺」「常滑」などとも書いている。古い語で『万葉』の歌などにもすでに見えているが、その意味はあるいは川の流れの事であるなどといってはなはだ不明であるけれども、自分の信ずるところでは、「トコナミ」の「ナミ」は次の字が表するごとく並列の義であって、「トコ」は祭壇すなわち岩のことである。上古岩を道路の側もしくは村落の境に立て、あるいは天然の岩を利用して地鎮の祭をした。その祭壇を名づけて「クラ」または「トコ」と名付けたのである。この岩石は多くの場合二つであった。箱根その他国境に二子山という山があり、または村境に二子塚という塚があるのも同一の理由で、最初はこれを祭壇に供し、後には岩石それ自身を神として崇拝した。石の並列は二つ以上十数箇も並んでいることもある。これすなわち「トコナミ」である。播磨の加西郡には鎮岩と書いて、「トコナベ」と呼ぶ村がある。これらをもって見れば、床次さんの祖先の住まれた土地は、ある一の平原の境に接した新開地であったろうと思う。 | 家号の索引を作る材料として適している物の数を教えてください。 | 家号の索引を作る材料として適している物の数は3で、
「地方の風土誌」
「徳川幕府で作った『寛政重修諸家譜』」
「各藩では家々から提出した勤め書」
です。 |
JCRRAG_018047 | 歴史 | ローマの政治家カエサルは、独裁的な権力への野心を抱きました。この動きは、共和政の伝統を守ろうとする者たちによって阻止されました。カエサルの死後、オクタウィアヌスが台頭し、ローマ皇帝となって政治・軍事の実権を握ります。彼はカエサルと異なり、共和政の伝統を尊重しました。
目次
地中海の平定
第1回三頭政治
カエサルの台頭と暗殺
第2回三頭政治
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
ローマ帝国の支配と活動
帝国の瓦解
地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
ポンペイウス
カエサル
クラッスス
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
ガリア
現在のフランスにほぼ相当
『ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
土木・建築
ローマの実用的文化は次の建物に表れました。
コロッセウム(円形闘技場、円形劇場)
ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催
パンテオン(万神殿ばんしんでん)
多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ
アッピア街道
ローマ人がつくったもっとも有名な道路
法
ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。
ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。
やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。
6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | カエサルとリウィウスの違いを説明して下さい。 | カエサルは前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家ですが、
一方、リウィウスは歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物です。 |
JCRRAG_018048 | 歴史 | 10代将軍・徳川家治の時代に、江戸幕府の老中として重用されていたのは田沼意次です。しかし、田沼意次は徳川家斉が将軍の座に就くと、罷免されました。
そして、若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、「老中首座」(ろうじゅうしゅざ)に任命されたのは、陸奥国白河藩(むつのくにしらかわはん)の3代藩主「松平定信」(まつだいらさだのぶ)です。
松平定信は、もともと御三卿のひとつに数えられる「田安家」(たやすけ)に生まれました。ところが、権勢を振るっていた田沼意次を恐れていた一橋治済により、松平定信は1774年(安永3年)、白河藩2代藩主「松平定邦」(まつだいらさだくに)の養子となります。
松平定信は幼少の頃から聡明であったと伝えられ、一時期、徳川家治の次期将軍候補とまで言われていた人物。老中首座に就任すると、その頭脳と政治的手腕を発揮し、田沼意次の代で悪評が高まってしまった幕政を変えるために、徳川家斉の補佐として様々な改革に乗り出したのです。
この当時の日本では、大規模な飢饉や浅間山(あさまやま)の大噴火といった天災が度重なっていただけでなく、幕府の役人の間で蔓延って(はびこって)いた汚職政治に怒りを感じていた庶民により、一揆(いっき)や打ちこわしが頻繁に行なわれていました。
松平定信は、白河藩主時代の1782~1788年(天明2~8年)に起こった「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)によって傾いた藩の財政を再建した経験を活かし、幕政の立て直しを進めていきます。
松平定信は、まず田沼意次が実施していた「重商主義」(じゅうしょうしゅぎ:産業の保護や育成を国家が積極的に行ない、輸出を増やすことで国を豊かにしようとする経済思想)の政策から、「重農主義」(じゅうのうしゅぎ:重商主義に対し、国家や社会の富の基礎は農業にあるとする経済思想)の政策への転換を図りました。 | 若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、老中首座に任命された人物は、田沼意次が実施していた重商主義の政策から、どのような政策への転換を図ったか。 | 若年であった徳川家斉を政務の面で支援することを名目に、老中首座に任命された人物は、田沼意次が実施していた重商主義の政策から、重農主義の政策への転換を図った。 |
JCRRAG_018049 | 歴史 | とにかく毛利元就は、すぐれた才能を持ち大きなはかりごとが出来る武将であった。
幼年時代に厳島にお参りした時に、家臣が「君を中国地方の主にさせてください」と祈ったというのを笑って「何故、日本の主にさせてくれとは祈らないんだ?」といった程の男だ。
だから主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して自分が取って代わってやろうという企らみの方が強かったのである。
北条早雲が横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆を取ったやり方などよりは、よっぽど理屈があるけど結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。
元々毛利元就という男は、戦国時代屈指の名将である。
徳川家康と北条早雲を足して2で割ったような大将である。家康を超えるほどの寛容さと慈悲深さを持っている。
謀略を用いる点においては家康よりはずっと辛辣である。
厳島合戦の時はちょうど五十二歳の分別盛りである。長子隆元三十二歳、次子吉川元春二十三歳、三子隆景二十二歳。吉川元春は、かつて梅雪と言われていた。
熊谷伊豆守の娘の新庄局がなんとも醜い娘で、誰も結婚する人が見つからないと聞いて、その父の武勇に賞賛しながら、「その娘のためにさぞや嘆いているのだろう。私が結婚するといえば熊谷家は、毛利のために一生懸命頑張ってくれるだろう」と言って結婚した男である。
乃木将軍式スパルタ式の猛将である。三男の隆景は彼を「楊柳」と呼ぶほどの容姿端麗な武士であった。
その才略は抜群で後に秀吉が天下を経営する際の相談相手となり、秀吉から「日本の蓋でも勤まる」と評されたが、こいつもまた勇ましさが抜群で、朝鮮の役には碧蹄館において、十万の明軍を相手に、決戦した勇将である。だから元就は「良い子まで生むんだから幸運な大将である」と言われた。 | 毛利元就の三人いる子供のうち、もっとも年齢の高い人を教えてください。 | 毛利元就の三人いる子供のうち、もっとも年齢の高い人は隆元で三十二歳です。 |
JCRRAG_018050 | 歴史 | 家号の由来を調査することの必要
中国では古くから『万姓統譜』などという書物があって、これによれば家々の歴史もわかり、間接には数千年来の国内植民のなりゆきも明らかになることであるが、不幸なことにはわが国にはこの種の書籍もなく、しかもたびたびの混乱を経た今日となっては、将来これを作製すべき希望も乏しいのである。せめてもの希望として、たとえ明治になって家号を付けた家々まで、その由来を明らかにすることができなくても、せめて地方地方の旧族名門、及びいわゆる士族という階級だけは、多少の辛苦をすればわかるのであるからして、今のうちにその家号の索引をこしらえておきたいものである。
この材料としては、地方の風土誌の類にも旧家の記事があるし、また武家の方では徳川幕府で作った『寛政重修諸家譜』の類、各藩では家々から提出した勤め書の類を合わせれば、過半の材料は容易に得られるのである。この類の書物さえあれば、たとえ士族でなく豪農でない家でも、自分の家と同じ家号の中から、自然に家の歴史を知ることができるであろうし、反対の証拠のない限りは、自分の居住地に最も近き同家号の家をもって、その本家を推定することができるし、その本家の歴史がわかれば、自分等の血統上祖先とその地方、ないし旧領主との関係もわかり、ひいては一国の歴史との交渉点も見出される訳であるから、将来の青年に対する訓育的の効果は決して少なくはないと思う。
床次という名字の由来
簡略ながら名字の本論はこれで終わった。このついでの愛嬌に二つ三つ我々の知っている珍しい名字のお話をしてみよう。
新内務次官の名字は何だか「トコツグ」と読めそうで、人は珍しい名字と考えているが、あの地名は同君の郷里の方にあるのであろう。「トコナミ」という地名は決してそれほど珍しくない。東の方に来るに従ってあるいは「床波」と書し、または「床鍋」「床辺」「常滑」などとも書いている。古い語で『万葉』の歌などにもすでに見えているが、その意味はあるいは川の流れの事であるなどといってはなはだ不明であるけれども、自分の信ずるところでは、「トコナミ」の「ナミ」は次の字が表するごとく並列の義であって、「トコ」は祭壇すなわち岩のことである。上古岩を道路の側もしくは村落の境に立て、あるいは天然の岩を利用して地鎮の祭をした。その祭壇を名づけて「クラ」または「トコ」と名付けたのである。この岩石は多くの場合二つであった。箱根その他国境に二子山という山があり、または村境に二子塚という塚があるのも同一の理由で、最初はこれを祭壇に供し、後には岩石それ自身を神として崇拝した。石の並列は二つ以上十数箇も並んでいることもある。これすなわち「トコナミ」である。播磨の加西郡には鎮岩と書いて、「トコナベ」と呼ぶ村がある。これらをもって見れば、床次さんの祖先の住まれた土地は、ある一の平原の境に接した新開地であったろうと思う。 | 「トコナミ」と読める文字の数を教えてください。 | 「トコナミ」と読める文字の数は4で、
「床波」
「床鍋」
「床辺」
「常滑」
です。 |
JCRRAG_018051 | 歴史 | ローマの政治家カエサルは、独裁的な権力への野心を抱きました。この動きは、共和政の伝統を守ろうとする者たちによって阻止されました。カエサルの死後、オクタウィアヌスが台頭し、ローマ皇帝となって政治・軍事の実権を握ります。彼はカエサルと異なり、共和政の伝統を尊重しました。
目次
地中海の平定
第1回三頭政治
カエサルの台頭と暗殺
第2回三頭政治
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
ローマ帝国の支配と活動
帝国の瓦解
地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
ポンペイウス
カエサル
クラッスス
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
ガリア
現在のフランスにほぼ相当
『ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
土木・建築
ローマの実用的文化は次の建物に表れました。
コロッセウム(円形闘技場、円形劇場)
ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催
パンテオン(万神殿ばんしんでん)
多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ
アッピア街道
ローマ人がつくったもっとも有名な道路
法
ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。
ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。
やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。
6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | カエサルとタキトゥスの違いを説明して下さい。 | カエサルは前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家ですが、
一方、タキトゥスはゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物です。 |
JCRRAG_018052 | 歴史 | 江戸幕府11代将軍は徳川家斉です。
もともと徳川家斉は文武両道であり、幕政にも真面目に取り組んでいましたが、寛政の改革が進むにつれて、幕府財政の困窮を顧みずに、贅沢な生活を送るようになっていったのです。
徳川家斉は正室の「近衛寔子」(このえただこ)以外にも側室を多数抱え、一説には40人もいたと伝えられています。そのうち17人の側室との間に、55人もの子どもを儲けました。「江戸城」(えどじょう)の大奥が、過去にないほど豪華絢爛な時期を迎えたことにより、徳川家斉の正室と側室、そして子ども達の生活費用だけで莫大な出費が必要になったのです。徳川家斉は、自由気ままに昼からお酒を飲み、贅沢な生活をして大奥に入り浸ってばかりいたと言われています。
徳川家斉は寛政の改革に取り組んでいた老中が幕政にかかわらなくなると、自ら政治の実権を握り始めます。自分に都合の良い人間ばかりで周りを固め、幕政を私物化し始めたのです。
徳川家斉は1817年(文化14年)に、「沼津藩」(ぬまづはん)の2代藩主「水野忠成」(みずのただあきら)を老中首座に任命。これにより水野忠成は、徳川家斉に幕政を委任されることになりましたが、その在位期間中には、田沼意次の時代を上回る賄賂が横行していました。
また、前述したような出費の増大により、幕府財政は行き詰まってしまいます。そこで水野忠成は、貨幣の質を落とした「文政小判」(ぶんせいこばん)を大量に発行し、550万両もの利益を得ることに成功。貨幣が市場において大量に出回ったことで、商業活動が活発になり、景気が上向いていったのです。
しかし、農村では豪農と貧しい農民の間に格差が生まれ、貧しい農民のなかには農地を放棄して無宿人になる者も。その結果、治安が悪化することになり、これに対応するため、江戸幕府は「関東取締出役」(かんとうとりしまりでやく)を設置。「関八州」(せきはっしゅう)と総称される関東地方の8ヵ国において、公領・私領を問わず警察権の行使を可能とし、犯罪者を積極的に捕まえようとしていました。また、農地を放棄する農民が増えたことで、収穫量が減少して税収が減少。江戸幕府は次第に衰退していったのです。 | 江戸幕府11代将軍は、もともとどのような特徴があったか。 | 江戸幕府11代将軍は、もともと文武両道であった。 |
JCRRAG_018053 | 歴史 | この厳島の戦いは、元就の一夜陣として有名である。
厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千六百、これに対して陶晴賢は二万の大軍である。
だが、一夜のうちに毛利一家の存亡を賭けたわけであるが、しかし元就の心のなかには勝利に対する信念が沸き起こっていたのではないかと思われる。
元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。
小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は先に漁船に身を隠して宮尾城のピンチを救う為に宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説だろう。
当夜は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を抜ける所を敵が待て!と止めると「味方になりにきた九州の兵です」と言って簡単に上陸して塔の岡の坂下に陣を広げて、本軍の鬨の声があがるのを待っていた。
毛利の第一軍は地御前より厳島を迂回して東北岸鼓の浦に上陸して博奕尾の険を越えて塔の岡の陶軍の本陣を背面から攻撃し、第二軍は宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するタイミングで正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景はこれを率いていた。
第三軍は村上や来島等の海軍で組織されており、厳島の対岸を警備して場合によって陶の水軍と合戦をしようというものだ。
元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨がしきりに降ったので児玉就忠が元就に傘を差そうとしたが元就は拳で払いのけた。
陶の方は塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は厳島の神社付近の地に散らばっており、何の統制も無かったらしい。
先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべきだと進言したけれども、陶はそのアイディアを採用せずに城攻めは十月一日にきまっていた。その一日の夜が明けるころに元就軍が殺到したわけである。
元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を全て二十日市へ戻した。生きて帰るつもりもない正に背水の陣である。
吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上っていたが、その声が自動的に鬨の声になって陶の本陣がある塔の岡へ殺到した。
陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ急いで集まって防戦しようとしたが、急いで集まった大軍だから配備は滅茶苦茶だった。
兵は多いが土地は狭く自由に動けない所に、元就の軍勢は、揉まれながら攻めたから、陶軍は早くも混乱した。
前から打ち合っていた小早川隆景の軍隊は本軍の鬨の声を聞くと、これもまた大声をあげながら前面から攻撃した。
大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、「敵は少し!恐るるに足らん!返せ返せ!」と叫んで奮戦したが一度混乱した大軍は、どっと崩れるままに、逃げるために我先に船に乗ろうと海岸を目指して逃げ出した。
晴賢は、自分で采配を振るったが一度崩れ立った大軍はどうしようもなく、あっというまに塔の岡の本陣は毛利軍に蹂躙されてしまった。
敗兵達が船に乗ったばかりに陶の水軍があわて出したところを、毛利の第三軍たる村上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍はこれまたあっという間に撃破されて多くの兵船は防州の矢代島を目指して逃げてしまった。
塔の岡の本陣を攻め落とされた陶軍は、厳島神社の裏を西へ西へと逃走した。
弘中三河守は同中務と共に主君である晴賢の退却を援護するために五百騎ばかりで吉川元春の追撃を迎え撃った。
弘中父子が必死に防戦したから、流石の吉川勢も倒し切れずに退却した。
元春自身が槍をとって奮戦していると弘中軍の武将青景波多野や、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。
この時吉川勢はなかなか危なかったのだが、熊谷信直が駆けつけてピンチを救ったので、弘中の軍は滝小路の民家に火を放って弥山道の大聖院に撤退した。
吉川勢は、その火が厳島神社に引火する事を恐れて消火に努めている間に、晴賢は三浦に守られながら大元浦に落ちのびた。
大元浦は、厳島神社から西北へ2〜300メートルのところにある。そこへ吉川勢に代わって小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た。
陶がここで討ち死にしようとするのを「ひとまず山口へひいて隊を整えましょう。この三浦殿をつとめてここで討ち死にします」と晴賢を説得して、三浦越中は、羽仁越中守、同将監、大和伊豆守たちを粉骨砕身して戦った。
三浦はことごとく討ち死にしてただ一人になって山道で休んでいるところへ、二宮杢之介が馳け付けると、三浦は嘘をついて「味方です」という。味方での「で」の字の発音が山口の音だなと思い、二宮は敵だと理解して「合言葉を言え!」と迫った。三浦は立ち上がって奮戦したが、矢に討たれた。
陶は、さらに西方に隠れたが、味方の兵や船の影は全くなく、ついに大江浦にて小川伝いに山中に入ってその辺りにて自害したと言われている。 | 厳島の戦いにおいて、軍勢が多いほうを教えてください。 | 厳島の戦いにおいて、軍勢が多いほうは陶晴賢で二万です。 |
JCRRAG_018054 | 歴史 | 石黒という名字の意味
次に自分の友人の石黒君は越後の人であるが、越後の石黒はすべて越中の礪波郡の石黒の荘から出た家で、越中の石黒家は『源平盛衰記』の頃からすでに名の聞えた名族である。そうして石黒の黒は、日本語としては漢字通りにとうてい解釈することができぬ。その後注意して見れば備前・備中辺では塚の事を「クロ」といって、畔の字も使わぬこともないが、多くの場合にはという字を宛てている。この土扁に丸の字は理窟から拵こしらえた和製の字で、「クロ」というものが丸い土すなわち塚であることを示すものである。同じ例として米扁に丸の字を書いて団子と呼ばれる地名がある。岡山県には石という地名がいくらもあり、また近頃自分の旅行した備前大野郡の山中では、土塀または石垣のことを「ツカグロ」といっている。「ツカ」は築くという語から起った語である。田の周囲を田の「クロ」といい、屋敷の土居を壟と書いてグロと読む例などを思い合せると、越中の石黒もまた床次と同じで、境に石塚を築いて地鎮の祭をした遺風を示すものといって良いのである。
十時という名字の由来
また自分の友人に十時君という人がいる。これは立花伯家の重臣で戦国以来武名の轟いた名家である。この家号も文字からは意味を解することはできぬが、自分の判断では十時の「トキ」は戸木すなわち門木の義で、境の入口に神を祭る神木を意味するものである。諸国に女夫めおと石があれば女夫木があり、子持石があれば子持木があるごとく、石の代りに天然の樹木を用いることはきわめて普通の例である。しこうして「トトキ」の「ト」は「遠」の義で、「遠戸木」はまた「近戸木」に対する語である。遠戸と近戸は近世の語でいえば大手と搦手からめてであって、関東地方には遠戸神・近戸神という神様が無数にいる。奥羽の方へ行けば近戸森、遠戸森と変形する。伯爵藤堂家は近江から出た家であるが、この「トウド」もまた遠戸神の祭場のことである。これをもって見れば、わが尊敬する十時さんは、その御先祖がやはり床次さんと同じく、ある荘園の境端外来の悪神を防ぐに必要なる地点に、守備兵かたがた開墾を始められた家であろう。
木越家の名字の由来
私の親戚に金沢人の木越という家がある。これは越前の斎藤家から出た有名なる富樫とがし家の庶族であるらしく、加賀の河北郡の木越村に住んでおったから家号となったのである。これも塚の越こし・境木さかいぎ峠・道祖神峠さえのかみたわ・榎木えのき峠の例と同じく、越すなわち境に植えた霊木の所在を意味する地名であって、これらの四家はたとい相互に何の縁故はないとはいえ、その祖先の居住地が東西南北ほぼ事情を一様にしていたものである。かくのごとく地名の意味にまで立ち入って家号の由来を吟味すると、まだなかなか面白い話が尽きないのである。 | 備前大野郡の山中でツカグロと呼ばれている物の材質別分類の数を教えてください。 | 備前大野郡の山中でツカグロと呼ばれている物の材質別分類の数は、「土塀」、「石垣」です。 |
JCRRAG_018055 | 歴史 | ローマの政治家カエサルは、独裁的な権力への野心を抱きました。この動きは、共和政の伝統を守ろうとする者たちによって阻止されました。カエサルの死後、オクタウィアヌスが台頭し、ローマ皇帝となって政治・軍事の実権を握ります。彼はカエサルと異なり、共和政の伝統を尊重しました。
目次
地中海の平定
第1回三頭政治
カエサルの台頭と暗殺
第2回三頭政治
ローマ帝国
事実上の皇帝独裁
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
ローマ帝国の支配と活動
帝国の瓦解
地中海の平定
第1回三頭政治
前1世紀、次の争いが続発し、ローマの混乱は頂点に達しました。
前1世紀初め、平民派のマリウスと閥族派のスラが互いに私兵を率いて争いを開始
前91~前88年、イタリア半島の同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱
前73~前71年、剣闘士(剣奴)スパルタクスによる反乱
前60年、内乱を通して台頭した次の3人が政治同盟を結び、政治を分担する第1回三頭政治を始めました。
ポンペイウス
カエサル
クラッスス
カエサルの台頭と暗殺
カエサルは、ガリア遠征に成功して権力の基盤を固めた後、 政敵となったポンペイウスを倒して、前46年、全土を平定しました。
カエサルは独裁官ディクタトルに続けて就任し、独債券を握りました。
カエサルは元老院を無視して王になる勢いをみせたため(共和政の伝統の否定)、前44年、カエサルは元老院共和派のブルートゥスらに暗殺されました。
ガリア
現在のフランスにほぼ相当
『ガリア戦記』
カエサルが、自らのガリア遠征の記録を書いたもの
ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
土木・建築
ローマの実用的文化は次の建物に表れました。
コロッセウム(円形闘技場、円形劇場)
ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催
パンテオン(万神殿ばんしんでん)
多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ
アッピア街道
ローマ人がつくったもっとも有名な道路
法
ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。
ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。
やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。
6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | カエサルとプルタルコスの違いを説明して下さい。 | カエサルは前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家ですが、
一方、プルタルコスはギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物です。 |
JCRRAG_018056 | 歴史 | 江戸幕府11代将軍は徳川家斉です。
もともと徳川家斉は文武両道であり、幕政にも真面目に取り組んでいましたが、寛政の改革が進むにつれて、幕府財政の困窮を顧みずに、贅沢な生活を送るようになっていったのです。
徳川家斉は正室の「近衛寔子」(このえただこ)以外にも側室を多数抱え、一説には40人もいたと伝えられています。そのうち17人の側室との間に、55人もの子どもを儲けました。「江戸城」(えどじょう)の大奥が、過去にないほど豪華絢爛な時期を迎えたことにより、徳川家斉の正室と側室、そして子ども達の生活費用だけで莫大な出費が必要になったのです。徳川家斉は、自由気ままに昼からお酒を飲み、贅沢な生活をして大奥に入り浸ってばかりいたと言われています。
徳川家斉は寛政の改革に取り組んでいた老中が幕政にかかわらなくなると、自ら政治の実権を握り始めます。自分に都合の良い人間ばかりで周りを固め、幕政を私物化し始めたのです。
徳川家斉は1817年(文化14年)に、「沼津藩」(ぬまづはん)の2代藩主「水野忠成」(みずのただあきら)を老中首座に任命。これにより水野忠成は、徳川家斉に幕政を委任されることになりましたが、その在位期間中には、田沼意次の時代を上回る賄賂が横行していました。
また、前述したような出費の増大により、幕府財政は行き詰まってしまいます。そこで水野忠成は、貨幣の質を落とした「文政小判」(ぶんせいこばん)を大量に発行し、550万両もの利益を得ることに成功。貨幣が市場において大量に出回ったことで、商業活動が活発になり、景気が上向いていったのです。
しかし、農村では豪農と貧しい農民の間に格差が生まれ、貧しい農民のなかには農地を放棄して無宿人になる者も。その結果、治安が悪化することになり、これに対応するため、江戸幕府は「関東取締出役」(かんとうとりしまりでやく)を設置。「関八州」(せきはっしゅう)と総称される関東地方の8ヵ国において、公領・私領を問わず警察権の行使を可能とし、犯罪者を積極的に捕まえようとしていました。また、農地を放棄する農民が増えたことで、収穫量が減少して税収が減少。江戸幕府は次第に衰退していったのです。 | 江戸幕府11代将軍は、幕政にも真面目に取り組んでいたが、寛政の改革が進むにつれて、どのように変化していったか。 | 江戸幕府11代将軍は、幕政にも真面目に取り組んでいたが、寛政の改革が進むにつれて、幕府財政の困窮を顧みずに、贅沢な生活を送るようになっていった。 |
JCRRAG_018057 | 歴史 | この厳島の戦いは、元就の一夜陣として有名である。
厳島の戦いの時、毛利の軍勢は三千六百、これに対して陶晴賢は二万の大軍である。
だが、一夜のうちに毛利一家の存亡を賭けたわけであるが、しかし元就の心のなかには勝利に対する信念が沸き起こっていたのではないかと思われる。
元就は鼓の浦へ着く前に今まで船中に連れて来ていたスパイの座頭を捕えて、「陶への進言よくぞやってくれた、お前のおかげで主君の首が今日中に見れるだろう、先にあの世に行って主君を待っていろ」といって、海に投げて血祭にした。
小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は先に漁船に身を隠して宮尾城のピンチを救う為に宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説だろう。
当夜は熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を抜ける所を敵が待て!と止めると「味方になりにきた九州の兵です」と言って簡単に上陸して塔の岡の坂下に陣を広げて、本軍の鬨の声があがるのを待っていた。
毛利の第一軍は地御前より厳島を迂回して東北岸鼓の浦に上陸して博奕尾の険を越えて塔の岡の陶軍の本陣を背面から攻撃し、第二軍は宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するタイミングで正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景はこれを率いていた。
第三軍は村上や来島等の海軍で組織されており、厳島の対岸を警備して場合によって陶の水軍と合戦をしようというものだ。
元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨がしきりに降ったので児玉就忠が元就に傘を差そうとしたが元就は拳で払いのけた。
陶の方は塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は厳島の神社付近の地に散らばっており、何の統制も無かったらしい。
先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべきだと進言したけれども、陶はそのアイディアを採用せずに城攻めは十月一日にきまっていた。その一日の夜が明けるころに元就軍が殺到したわけである。
元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を全て二十日市へ戻した。生きて帰るつもりもない正に背水の陣である。
吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上っていたが、その声が自動的に鬨の声になって陶の本陣がある塔の岡へ殺到した。
陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ急いで集まって防戦しようとしたが、急いで集まった大軍だから配備は滅茶苦茶だった。
兵は多いが土地は狭く自由に動けない所に、元就の軍勢は、揉まれながら攻めたから、陶軍は早くも混乱した。
前から打ち合っていた小早川隆景の軍隊は本軍の鬨の声を聞くと、これもまた大声をあげながら前面から攻撃した。
大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、「敵は少し!恐るるに足らん!返せ返せ!」と叫んで奮戦したが一度混乱した大軍は、どっと崩れるままに、逃げるために我先に船に乗ろうと海岸を目指して逃げ出した。
晴賢は、自分で采配を振るったが一度崩れ立った大軍はどうしようもなく、あっというまに塔の岡の本陣は毛利軍に蹂躙されてしまった。
敗兵達が船に乗ったばかりに陶の水軍があわて出したところを、毛利の第三軍たる村上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍はこれまたあっという間に撃破されて多くの兵船は防州の矢代島を目指して逃げてしまった。
塔の岡の本陣を攻め落とされた陶軍は、厳島神社の裏を西へ西へと逃走した。
弘中三河守は同中務と共に主君である晴賢の退却を援護するために五百騎ばかりで吉川元春の追撃を迎え撃った。
弘中父子が必死に防戦したから、流石の吉川勢も倒し切れずに退却した。
元春自身が槍をとって奮戦していると弘中軍の武将青景波多野や、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。
この時吉川勢はなかなか危なかったのだが、熊谷信直が駆けつけてピンチを救ったので、弘中の軍は滝小路の民家に火を放って弥山道の大聖院に撤退した。
吉川勢は、その火が厳島神社に引火する事を恐れて消火に努めている間に、晴賢は三浦に守られながら大元浦に落ちのびた。
大元浦は、厳島神社から西北へ2〜300メートルのところにある。そこへ吉川勢に代わって小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た。
陶がここで討ち死にしようとするのを「ひとまず山口へひいて隊を整えましょう。この三浦殿をつとめてここで討ち死にします」と晴賢を説得して、三浦越中は、羽仁越中守、同将監、大和伊豆守たちを粉骨砕身して戦った。
三浦はことごとく討ち死にしてただ一人になって山道で休んでいるところへ、二宮杢之介が馳け付けると、三浦は嘘をついて「味方です」という。味方での「で」の字の発音が山口の音だなと思い、二宮は敵だと理解して「合言葉を言え!」と迫った。三浦は立ち上がって奮戦したが、矢に討たれた。
陶は、さらに西方に隠れたが、味方の兵や船の影は全くなく、ついに大江浦にて小川伝いに山中に入ってその辺りにて自害したと言われている。 | 厳島の戦いにおいて、軍勢が少ないほうを教えてください。 | 厳島の戦いにおいて、軍勢が少ないほうは毛利軍で三千六百です。 |
JCRRAG_018058 | 歴史 | 石黒という名字の意味
次に自分の友人の石黒君は越後の人であるが、越後の石黒はすべて越中の礪波郡の石黒の荘から出た家で、越中の石黒家は『源平盛衰記』の頃からすでに名の聞えた名族である。そうして石黒の黒は、日本語としては漢字通りにとうてい解釈することができぬ。その後注意して見れば備前・備中辺では塚の事を「クロ」といって、畔の字も使わぬこともないが、多くの場合にはという字を宛てている。この土扁に丸の字は理窟から拵こしらえた和製の字で、「クロ」というものが丸い土すなわち塚であることを示すものである。同じ例として米扁に丸の字を書いて団子と呼ばれる地名がある。岡山県には石という地名がいくらもあり、また近頃自分の旅行した備前大野郡の山中では、土塀または石垣のことを「ツカグロ」といっている。「ツカ」は築くという語から起った語である。田の周囲を田の「クロ」といい、屋敷の土居を壟と書いてグロと読む例などを思い合せると、越中の石黒もまた床次と同じで、境に石塚を築いて地鎮の祭をした遺風を示すものといって良いのである。
十時という名字の由来
また自分の友人に十時君という人がいる。これは立花伯家の重臣で戦国以来武名の轟いた名家である。この家号も文字からは意味を解することはできぬが、自分の判断では十時の「トキ」は戸木すなわち門木の義で、境の入口に神を祭る神木を意味するものである。諸国に女夫めおと石があれば女夫木があり、子持石があれば子持木があるごとく、石の代りに天然の樹木を用いることはきわめて普通の例である。しこうして「トトキ」の「ト」は「遠」の義で、「遠戸木」はまた「近戸木」に対する語である。遠戸と近戸は近世の語でいえば大手と搦手からめてであって、関東地方には遠戸神・近戸神という神様が無数にいる。奥羽の方へ行けば近戸森、遠戸森と変形する。伯爵藤堂家は近江から出た家であるが、この「トウド」もまた遠戸神の祭場のことである。これをもって見れば、わが尊敬する十時さんは、その御先祖がやはり床次さんと同じく、ある荘園の境端外来の悪神を防ぐに必要なる地点に、守備兵かたがた開墾を始められた家であろう。
木越家の名字の由来
私の親戚に金沢人の木越という家がある。これは越前の斎藤家から出た有名なる富樫とがし家の庶族であるらしく、加賀の河北郡の木越村に住んでおったから家号となったのである。これも塚の越こし・境木さかいぎ峠・道祖神峠さえのかみたわ・榎木えのき峠の例と同じく、越すなわち境に植えた霊木の所在を意味する地名であって、これらの四家はたとい相互に何の縁故はないとはいえ、その祖先の居住地が東西南北ほぼ事情を一様にしていたものである。かくのごとく地名の意味にまで立ち入って家号の由来を吟味すると、まだなかなか面白い話が尽きないのである。 | 越すなわち境に植えた霊木の所在を意味する地名の例の数を教えてください。 | 越すなわち境に植えた霊木の所在を意味する地名の例の数は4で、
「塚の越」
「境木峠」
「道祖神峠」
「榎木峠」
です。 |
JCRRAG_018059 | 歴史 | 第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
カエサルの部下アントニウス
カエサルの部下レピドゥス
カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
ネルウァ(在位96~98)
トラヤヌス(在位98~117)
ハドリアヌス(在位117~138)
アントニヌス=ビウス(在位138~161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | カエサルとストラボンの違いを説明して下さい。 | カエサルは前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家ですが、
一方、ストラボンは当時知られていた全世界の地誌を記述した人物です。 |
JCRRAG_018060 | 歴史 | 江戸幕府11代将軍は徳川家斉です。
もともと徳川家斉は文武両道であり、幕政にも真面目に取り組んでいましたが、寛政の改革が進むにつれて、幕府財政の困窮を顧みずに、贅沢な生活を送るようになっていったのです。
徳川家斉は正室の「近衛寔子」(このえただこ)以外にも側室を多数抱え、一説には40人もいたと伝えられています。そのうち17人の側室との間に、55人もの子どもを儲けました。「江戸城」(えどじょう)の大奥が、過去にないほど豪華絢爛な時期を迎えたことにより、徳川家斉の正室と側室、そして子ども達の生活費用だけで莫大な出費が必要になったのです。徳川家斉は、自由気ままに昼からお酒を飲み、贅沢な生活をして大奥に入り浸ってばかりいたと言われています。
徳川家斉は寛政の改革に取り組んでいた老中が幕政にかかわらなくなると、自ら政治の実権を握り始めます。自分に都合の良い人間ばかりで周りを固め、幕政を私物化し始めたのです。
徳川家斉は1817年(文化14年)に、「沼津藩」(ぬまづはん)の2代藩主「水野忠成」(みずのただあきら)を老中首座に任命。これにより水野忠成は、徳川家斉に幕政を委任されることになりましたが、その在位期間中には、田沼意次の時代を上回る賄賂が横行していました。
また、前述したような出費の増大により、幕府財政は行き詰まってしまいます。そこで水野忠成は、貨幣の質を落とした「文政小判」(ぶんせいこばん)を大量に発行し、550万両もの利益を得ることに成功。貨幣が市場において大量に出回ったことで、商業活動が活発になり、景気が上向いていったのです。
しかし、農村では豪農と貧しい農民の間に格差が生まれ、貧しい農民のなかには農地を放棄して無宿人になる者も。その結果、治安が悪化することになり、これに対応するため、江戸幕府は「関東取締出役」(かんとうとりしまりでやく)を設置。「関八州」(せきはっしゅう)と総称される関東地方の8ヵ国において、公領・私領を問わず警察権の行使を可能とし、犯罪者を積極的に捕まえようとしていました。また、農地を放棄する農民が増えたことで、収穫量が減少して税収が減少。江戸幕府は次第に衰退していったのです。 | 江戸幕府11代将軍は、どのような生活を送っていたか。 | 江戸幕府11代将軍は、自由気ままに昼からお酒を飲み、贅沢な生活をして大奥に入り浸ってばかりいた。 |
JCRRAG_018061 | 歴史 | 川中島における上杉謙信と武田信玄の一騎討ちは、誰もがよく知っているところであるがその合戦の模様については知る人はなかなか少ない。
甲越の二人の将が戦う事になったのは、天文二十二年であり、これ以来二十六年間の交戦状態において、川中島における交戦は数回あったが、主な戦いは弘治元年七月十九日に犀川河畔の戦闘と永禄四年九月十日の川中島合戦との二回だけである。
この九月十日の合戦こそ甲越戦記のクライマックスで、謙信が小豆長光の銘刀をふりかぶって、信玄に斬りかかること九回にわたったと言われている。
武田信玄も、上杉謙信も、その軍隊の編制において、統率において、団体戦法において、用兵において、戦国の猛者達をはるかに凌駕しており、つまり我が国における戦術の開祖と言ってもいいだろう。
武田家は、源義家の弟、新羅義光の後の第十六代信虎の子が信玄である。
幼名は勝千代、天文五年の時に十六歳で将軍足利義晴より名を賜り、晴信と名乗り初陣を飾った。
この年に父である信虎と共に信州佐久の海ノ口城の平賀源心を攻めたが倒せず、囲いを解いて帰るときに信玄はわずか三百騎を引き連れて引き返し、ホッと一息ついている敵の油断に乗じて城を討ち、城将である平賀源心を討った。
また経書や兵書に精通しており『孫子』を愛読していて、軍旗に『孫子』軍争編の妙語である「疾如レ風徐如レ林侵略如レ火不レ動如レ山」を二行に書かせていた。
上杉謙信は元長尾氏で平氏である。先祖が関東から上杉氏に随従して越後に来て、その重臣となり、上杉氏が衰えるに及んで勢力を得て、謙信の父である為景に及んで国内を圧倒した。為景が死に兄の晴景が後を継いだが、病弱で自国内のライバルすら圧服することが出来ないので、謙信はわずか十四歳にして初陣に出ることになり、十九歳にして長尾家を相続し、春日山城に国内を治めて名を知らしめた。
しかし謙信が上杉氏と称したのは、越後の上杉氏の後継ぎとなったのではなく関東管領山ノ内上杉家を継いだのである。
すなわち三十二歳の時、山ノ内憲政から頼まれて関東の管領職を譲られて上杉氏と称したのである。
また兵学に精通し、敬神家で、槍は一代に冠絶し、春日の名槍を自在に繰り、剣をよくして、備前長船小豆長光二尺四寸五分の大刀を打ち振るうのであるから、真に好個の武将である。
信玄が重厚かつ精強であれば、謙信は尖鋭かつ果断のかんしゃく持ちである。
太田資正は謙信を「謙信公の性格を言うと十の内八割は大賢人、残り二割は大悪人だと思います。怒りに乗じてやってはいけないことをやってしまう。これは悪い所です。
勇猛にして無欲だし器量も大きい、潔白で、正直で何も隠すところなく、頭も鋭く察する能力に長けている、慈悲の心があって部下を育てる、アドバイスを許容する等、その善き所なり」評価している。" | 上杉謙信と武田信玄のうち、初陣の年齢が低いほうを教えてください。 | 上杉謙信と武田信玄で初陣の年齢が低いほうは、上杉謙信で十四歳です。 |
JCRRAG_018062 | 歴史 | 一 緒言
昭和九年初頭の第六十五回帝国議会において、頭山満氏ほか数氏の名をもってて、国号制定に関する請願なるものが提出された。我が国は大日本帝国なのか、日本国なのか、またこれを口にするにあるいはニッポンといい、あるいはニホンといい、外国人はジャパンとも、ヤポンなどともいっているが、この際国家において正確なる呼称を定められたいと言う事になったらしい。一大帝国の国号がハッキリしないという事は、考えてみれば妙な話ではあるが、外国人とも交渉が少なく、また主として漢字をよりどころにしていた時代にあっては、それでもさして不都合を感じる事なく、千数百年来それで間に合って来たのであった。しかし今日ではもはやそれでは許されない。漢字にたよらず、もっぱら自国の文字でそれを仮名書きにする西洋人にとっては、ニッポンとニホンとは明らかに別の名である。ことに各自自国の慣例によって、ジャパン・ヤポンなどと呼ぶ場合においては、一層物が面倒になる。さきに米国では外国よりの輸入商品に対して、その製造地を英語をもって記入するべきだとの規定から、「ニッポン製造メイド・イン・ニッポン」の記入がある我が物貨の輸入を拒絶し、あるいはこれに対し罰金を課すということになりそうだったとも聞く。こうなると、ここにその制定の急務が叫ばれるのも無理はない。
実をいえば我が帝国が東方海上に孤立して、諸外国と交渉をしないような時代には、国号というべき程のものの必要は無かった筈で、神武天皇大和平野を平定して、ここに帝国の基礎を定めて、それより皇威四方に発展して、次第にその大成を為すに至ったのであったから、自然とヤマトの名が、その国家を指示する場合に用いられるようになっていたのである。しかしそれは勿論口称だけのことで、未だ文字をもってこれを表わすことは無かった。しかるに三韓服属以来、かの国人は古来中国人使用の文字のままに、これを「倭」と号し、あるいは「大倭」と敬称する例となり、我が国またこれにならって、その文字を在来の呼称なるヤマトの語に当てたのであったが、しかもそれは我が国号としては、適当の文字では無い。
三韓人はまた一方に、我が国が東方日出処にあるが故に、これを日本と称し、我が国でもそれを枕言葉として、「日の本のヤマト」なる称呼が用いられた。かくて推古天皇の使いを隋に遣わせる時に、初めてその義として、「ひいづるところ」または東の文字を用いたが、しかしこれをもって我が国号として定まったものではない。その後「日の本のヤマト」なる枕言葉の「日の本」が、直ちにヤマトの語を表わす文字として使用し始めて、唐との交通に際してもその文字が我が国号として用いられ、唐人はそれを自国の字音のままに音読して、ニッポンの名が始めて世界的に認められたものであったと解釈できる。かくて我が国でも、いつしかその文字に重きを置いてこれを音読し、さらにその発音を和らげてニホンと呼び、双方並び行われて今日に及んでいるのである。すなわち我が国号が、古来いかなる変遷を経て、もって今日に至ったかを叙述しよう。 | 昭和9年頃の日本の国号表記が何種類かあったため、第六十五回帝国議会において国号制定に関する請願が提出されましたが、その当時あった国号表記の種類の数を教えてください。 | 昭和九年頃の日本の国号表記について第六十五回帝国議会において国号制定に関する請願が提出されましたが、その当時の日本の国号の数は2で、
「大日本帝国」、「日本国」です。 |
JCRRAG_018063 | 歴史 | 第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
カエサルの部下アントニウス
カエサルの部下レピドゥス
カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
ネルウァ(在位96~98)
トラヤヌス(在位98~117)
ハドリアヌス(在位117~138)
アントニヌス=ビウス(在位138~161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | カエサルとキケロの違いを説明して下さい。 | カエサルは前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家ですが、
一方、キケロは優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立です。 |
JCRRAG_018064 | 歴史 | 江戸幕府11代将軍は徳川家斉です。
もともと徳川家斉は文武両道であり、幕政にも真面目に取り組んでいましたが、寛政の改革が進むにつれて、幕府財政の困窮を顧みずに、贅沢な生活を送るようになっていったのです。
徳川家斉は正室の「近衛寔子」(このえただこ)以外にも側室を多数抱え、一説には40人もいたと伝えられています。そのうち17人の側室との間に、55人もの子どもを儲けました。「江戸城」(えどじょう)の大奥が、過去にないほど豪華絢爛な時期を迎えたことにより、徳川家斉の正室と側室、そして子ども達の生活費用だけで莫大な出費が必要になったのです。徳川家斉は、自由気ままに昼からお酒を飲み、贅沢な生活をして大奥に入り浸ってばかりいたと言われています。
徳川家斉は寛政の改革に取り組んでいた老中が幕政にかかわらなくなると、自ら政治の実権を握り始めます。自分に都合の良い人間ばかりで周りを固め、幕政を私物化し始めたのです。
徳川家斉は1817年(文化14年)に、「沼津藩」(ぬまづはん)の2代藩主「水野忠成」(みずのただあきら)を老中首座に任命。これにより水野忠成は、徳川家斉に幕政を委任されることになりましたが、その在位期間中には、田沼意次の時代を上回る賄賂が横行していました。
また、前述したような出費の増大により、幕府財政は行き詰まってしまいます。そこで水野忠成は、貨幣の質を落とした「文政小判」(ぶんせいこばん)を大量に発行し、550万両もの利益を得ることに成功。貨幣が市場において大量に出回ったことで、商業活動が活発になり、景気が上向いていったのです。
しかし、農村では豪農と貧しい農民の間に格差が生まれ、貧しい農民のなかには農地を放棄して無宿人になる者も。その結果、治安が悪化することになり、これに対応するため、江戸幕府は「関東取締出役」(かんとうとりしまりでやく)を設置。「関八州」(せきはっしゅう)と総称される関東地方の8ヵ国において、公領・私領を問わず警察権の行使を可能とし、犯罪者を積極的に捕まえようとしていました。また、農地を放棄する農民が増えたことで、収穫量が減少して税収が減少。江戸幕府は次第に衰退していったのです。 | 江戸幕府11代将軍は、正室以外に側室が何人いたと伝えられていたか。 | 江戸幕府11代将軍は、正室以外に側室が40人もいたと伝えられていた。 |
JCRRAG_018065 | 歴史 | 川中島における上杉謙信と武田信玄の一騎討ちは、誰もがよく知っているところであるがその合戦の模様については知る人はなかなか少ない。
甲越の二人の将が戦う事になったのは、天文二十二年であり、これ以来二十六年間の交戦状態において、川中島における交戦は数回あったが、主な戦いは弘治元年七月十九日に犀川河畔の戦闘と永禄四年九月十日の川中島合戦との二回だけである。
この九月十日の合戦こそ甲越戦記のクライマックスで、謙信が小豆長光の銘刀をふりかぶって、信玄に斬りかかること九回にわたったと言われている。
武田信玄も、上杉謙信も、その軍隊の編制において、統率において、団体戦法において、用兵において、戦国の猛者達をはるかに凌駕しており、つまり我が国における戦術の開祖と言ってもいいだろう。
武田家は、源義家の弟、新羅義光の後の第十六代信虎の子が信玄である。
幼名は勝千代、天文五年の時に十六歳で将軍足利義晴より名を賜り、晴信と名乗り初陣を飾った。
この年に父である信虎と共に信州佐久の海ノ口城の平賀源心を攻めたが倒せず、囲いを解いて帰るときに信玄はわずか三百騎を引き連れて引き返し、ホッと一息ついている敵の油断に乗じて城を討ち、城将である平賀源心を討った。
また経書や兵書に精通しており『孫子』を愛読していて、軍旗に『孫子』軍争編の妙語である「疾如レ風徐如レ林侵略如レ火不レ動如レ山」を二行に書かせていた。
上杉謙信は元長尾氏で平氏である。先祖が関東から上杉氏に随従して越後に来て、その重臣となり、上杉氏が衰えるに及んで勢力を得て、謙信の父である為景に及んで国内を圧倒した。為景が死に兄の晴景が後を継いだが、病弱で自国内のライバルすら圧服することが出来ないので、謙信はわずか十四歳にして初陣に出ることになり、十九歳にして長尾家を相続し、春日山城に国内を治めて名を知らしめた。
しかし謙信が上杉氏と称したのは、越後の上杉氏の後継ぎとなったのではなく関東管領山ノ内上杉家を継いだのである。
すなわち三十二歳の時、山ノ内憲政から頼まれて関東の管領職を譲られて上杉氏と称したのである。
また兵学に精通し、敬神家で、槍は一代に冠絶し、春日の名槍を自在に繰り、剣をよくして、備前長船小豆長光二尺四寸五分の大刀を打ち振るうのであるから、真に好個の武将である。
信玄が重厚かつ精強であれば、謙信は尖鋭かつ果断のかんしゃく持ちである。
太田資正は謙信を「謙信公の性格を言うと十の内八割は大賢人、残り二割は大悪人だと思います。怒りに乗じてやってはいけないことをやってしまう。これは悪い所です。
勇猛にして無欲だし器量も大きい、潔白で、正直で何も隠すところなく、頭も鋭く察する能力に長けている、慈悲の心があって部下を育てる、アドバイスを許容する等、その善き所なり」評価している。" | 上杉謙信と武田信玄のうち、初陣の年齢が高いほうを教えてください。 | 上杉謙信と武田信玄のうち、初陣の年齢が高いほうは武田信玄で十六歳です。 |
JCRRAG_018066 | 歴史 | 一 緒言
昭和九年初頭の第六十五回帝国議会において、頭山満氏ほか数氏の名をもってて、国号制定に関する請願なるものが提出された。我が国は大日本帝国なのか、日本国なのか、またこれを口にするにあるいはニッポンといい、あるいはニホンといい、外国人はジャパンとも、ヤポンなどともいっているが、この際国家において正確なる呼称を定められたいと言う事になったらしい。一大帝国の国号がハッキリしないという事は、考えてみれば妙な話ではあるが、外国人とも交渉が少なく、また主として漢字をよりどころにしていた時代にあっては、それでもさして不都合を感じる事なく、千数百年来それで間に合って来たのであった。しかし今日ではもはやそれでは許されない。漢字にたよらず、もっぱら自国の文字でそれを仮名書きにする西洋人にとっては、ニッポンとニホンとは明らかに別の名である。ことに各自自国の慣例によって、ジャパン・ヤポンなどと呼ぶ場合においては、一層物が面倒になる。さきに米国では外国よりの輸入商品に対して、その製造地を英語をもって記入するべきだとの規定から、「ニッポン製造メイド・イン・ニッポン」の記入がある我が物貨の輸入を拒絶し、あるいはこれに対し罰金を課すということになりそうだったとも聞く。こうなると、ここにその制定の急務が叫ばれるのも無理はない。
実をいえば我が帝国が東方海上に孤立して、諸外国と交渉をしないような時代には、国号というべき程のものの必要は無かった筈で、神武天皇大和平野を平定して、ここに帝国の基礎を定めて、それより皇威四方に発展して、次第にその大成を為すに至ったのであったから、自然とヤマトの名が、その国家を指示する場合に用いられるようになっていたのである。しかしそれは勿論口称だけのことで、未だ文字をもってこれを表わすことは無かった。しかるに三韓服属以来、かの国人は古来中国人使用の文字のままに、これを「倭」と号し、あるいは「大倭」と敬称する例となり、我が国またこれにならって、その文字を在来の呼称なるヤマトの語に当てたのであったが、しかもそれは我が国号としては、適当の文字では無い。
三韓人はまた一方に、我が国が東方日出処にあるが故に、これを日本と称し、我が国でもそれを枕言葉として、「日の本のヤマト」なる称呼が用いられた。かくて推古天皇の使いを隋に遣わせる時に、初めてその義として、「ひいづるところ」または東の文字を用いたが、しかしこれをもって我が国号として定まったものではない。その後「日の本のヤマト」なる枕言葉の「日の本」が、直ちにヤマトの語を表わす文字として使用し始めて、唐との交通に際してもその文字が我が国号として用いられ、唐人はそれを自国の字音のままに音読して、ニッポンの名が始めて世界的に認められたものであったと解釈できる。かくて我が国でも、いつしかその文字に重きを置いてこれを音読し、さらにその発音を和らげてニホンと呼び、双方並び行われて今日に及んでいるのである。すなわち我が国号が、古来いかなる変遷を経て、もって今日に至ったかを叙述しよう。 | 国号制定に関する請願を提出した当時、日本がどのように呼ばれていたのか、その呼称の数を教えてください。 | 国号制定に関する請願を提出した当時の呼称の数は4で、
「ニッポン」、「ニホン」、「ジャパン」、「ヤポン」です。 |
JCRRAG_018067 | 歴史 | 第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
カエサルの部下アントニウス
カエサルの部下レピドゥス
カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
ネルウァ(在位96~98)
トラヤヌス(在位98~117)
ハドリアヌス(在位117~138)
アントニヌス=ビウス(在位138~161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | カエサルとマルクス=アウレリウス=アントニヌスの違いを説明して下さい。 | カエサルは前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家ですが、
一方、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人で中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場しました。 |
JCRRAG_018068 | 歴史 | 江戸幕府11代将軍は徳川家斉です。
もともと徳川家斉は文武両道であり、幕政にも真面目に取り組んでいましたが、寛政の改革が進むにつれて、幕府財政の困窮を顧みずに、贅沢な生活を送るようになっていったのです。
徳川家斉は正室の「近衛寔子」(このえただこ)以外にも側室を多数抱え、一説には40人もいたと伝えられています。そのうち17人の側室との間に、55人もの子どもを儲けました。「江戸城」(えどじょう)の大奥が、過去にないほど豪華絢爛な時期を迎えたことにより、徳川家斉の正室と側室、そして子ども達の生活費用だけで莫大な出費が必要になったのです。徳川家斉は、自由気ままに昼からお酒を飲み、贅沢な生活をして大奥に入り浸ってばかりいたと言われています。
徳川家斉は寛政の改革に取り組んでいた老中が幕政にかかわらなくなると、自ら政治の実権を握り始めます。自分に都合の良い人間ばかりで周りを固め、幕政を私物化し始めたのです。
徳川家斉は1817年(文化14年)に、「沼津藩」(ぬまづはん)の2代藩主「水野忠成」(みずのただあきら)を老中首座に任命。これにより水野忠成は、徳川家斉に幕政を委任されることになりましたが、その在位期間中には、田沼意次の時代を上回る賄賂が横行していました。
また、前述したような出費の増大により、幕府財政は行き詰まってしまいます。そこで水野忠成は、貨幣の質を落とした「文政小判」(ぶんせいこばん)を大量に発行し、550万両もの利益を得ることに成功。貨幣が市場において大量に出回ったことで、商業活動が活発になり、景気が上向いていったのです。
しかし、農村では豪農と貧しい農民の間に格差が生まれ、貧しい農民のなかには農地を放棄して無宿人になる者も。その結果、治安が悪化することになり、これに対応するため、江戸幕府は「関東取締出役」(かんとうとりしまりでやく)を設置。「関八州」(せきはっしゅう)と総称される関東地方の8ヵ国において、公領・私領を問わず警察権の行使を可能とし、犯罪者を積極的に捕まえようとしていました。また、農地を放棄する農民が増えたことで、収穫量が減少して税収が減少。江戸幕府は次第に衰退していったのです。 | 江戸幕府11代将軍は、誰を老中首座に任命したか。 | 江戸幕府11代将軍は、水野忠成を老中首座に任命した。 |
JCRRAG_018069 | 歴史 | "これで、川中島の合戦は終わったわけである。
大戦ではあったけれども、政治的には何の効果もなかった。このため、上杉、武田両家とも別にどうなったわけでなく、川中島は元のままであった。
両軍の損傷を比べて見ると、
上杉方
死者三千四百
武田方
死者四千五百
これで見ると、武田方の方がひどくやられている。その上弟の信繁は討ち死に、信玄自身、子の義信も負傷している。
上杉方は、名のある者は、一人も死んでいない。また作戦的には、武田方は巧みに裏をかかれている。
しかし、戦国時代では戦争の勝敗は「芝居を踏みたるを勝ちとす」としてある。芝居というのは、多分戦場ということであろう。
つまり戦場に居残った方が勝ちである。そう考えると、武田方が勝ったことになる。
豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝ちなり、辰の刻より巳みの刻までは武田方の勝ちなり」と言っているが、これは一番正当な批評かも知れない。
川中島合戦の時は、武田信玄は四十一歳で上杉謙信は三十二歳である。秀吉にいわせると「はかどらない戦争を」やったに過ぎないかも知れないが、信玄は深謀にして精強、謙信は尖鋭にして果断、実にいいマッチングであり、ボクシングでいえば体重のちがいもなく両方とも鍛練された武器を持っていたわけであるからこの川中島の合戦も引き分けになったのは、当然かも知れないのである。 | 川中島の合戦が終わった時に死者が多かったほうを教えてください。 | 川中島の合戦が終わった時に死者が多かったのは武田方で四千五百です。 |
JCRRAG_018070 | 歴史 | 一 緒言
昭和九年初頭の第六十五回帝国議会において、頭山満氏ほか数氏の名をもってて、国号制定に関する請願なるものが提出された。我が国は大日本帝国なのか、日本国なのか、またこれを口にするにあるいはニッポンといい、あるいはニホンといい、外国人はジャパンとも、ヤポンなどともいっているが、この際国家において正確なる呼称を定められたいと言う事になったらしい。一大帝国の国号がハッキリしないという事は、考えてみれば妙な話ではあるが、外国人とも交渉が少なく、また主として漢字をよりどころにしていた時代にあっては、それでもさして不都合を感じる事なく、千数百年来それで間に合って来たのであった。しかし今日ではもはやそれでは許されない。漢字にたよらず、もっぱら自国の文字でそれを仮名書きにする西洋人にとっては、ニッポンとニホンとは明らかに別の名である。ことに各自自国の慣例によって、ジャパン・ヤポンなどと呼ぶ場合においては、一層物が面倒になる。さきに米国では外国よりの輸入商品に対して、その製造地を英語をもって記入するべきだとの規定から、「ニッポン製造メイド・イン・ニッポン」の記入がある我が物貨の輸入を拒絶し、あるいはこれに対し罰金を課すということになりそうだったとも聞く。こうなると、ここにその制定の急務が叫ばれるのも無理はない。
実をいえば我が帝国が東方海上に孤立して、諸外国と交渉をしないような時代には、国号というべき程のものの必要は無かった筈で、神武天皇大和平野を平定して、ここに帝国の基礎を定めて、それより皇威四方に発展して、次第にその大成を為すに至ったのであったから、自然とヤマトの名が、その国家を指示する場合に用いられるようになっていたのである。しかしそれは勿論口称だけのことで、未だ文字をもってこれを表わすことは無かった。しかるに三韓服属以来、かの国人は古来中国人使用の文字のままに、これを「倭」と号し、あるいは「大倭」と敬称する例となり、我が国またこれにならって、その文字を在来の呼称なるヤマトの語に当てたのであったが、しかもそれは我が国号としては、適当の文字では無い。
三韓人はまた一方に、我が国が東方日出処にあるが故に、これを日本と称し、我が国でもそれを枕言葉として、「日の本のヤマト」なる称呼が用いられた。かくて推古天皇の使いを隋に遣わせる時に、初めてその義として、「ひいづるところ」または東の文字を用いたが、しかしこれをもって我が国号として定まったものではない。その後「日の本のヤマト」なる枕言葉の「日の本」が、直ちにヤマトの語を表わす文字として使用し始めて、唐との交通に際してもその文字が我が国号として用いられ、唐人はそれを自国の字音のままに音読して、ニッポンの名が始めて世界的に認められたものであったと解釈できる。かくて我が国でも、いつしかその文字に重きを置いてこれを音読し、さらにその発音を和らげてニホンと呼び、双方並び行われて今日に及んでいるのである。すなわち我が国号が、古来いかなる変遷を経て、もって今日に至ったかを叙述しよう。 | 自国の文字で仮名書きにする西洋人にとって別の名になってしまう日本の呼称の数を教えてください。 | 自国の文字で仮名書きにする西洋人にとって別の名になってしまう日本の呼称の数は2で、
「ニッポン」、「ニホン」です。 |
JCRRAG_018071 | 歴史 | 第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
カエサルの部下アントニウス
カエサルの部下レピドゥス
カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
ネルウァ(在位96~98)
トラヤヌス(在位98~117)
ハドリアヌス(在位117~138)
アントニヌス=ビウス(在位138~161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | リウィウスとタキトゥスの違いを説明して下さい。 | リウィウスは歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物ですが、
一方、タキトゥスはゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物です。 |
JCRRAG_018072 | 歴史 | 1793年(寛政5年)11代将軍「徳川家斉」の次男として誕生したのは、「徳川家慶」です。
長兄が早世したため、早くから将軍の継嗣(けいし:あと継ぎ)となるものの、父である徳川家斉の治世が長く、将軍職に就く頃には45歳になっていました。
徳川家慶は12代将軍となったのは、1837年(天保8年)、父の徳川家斉が隠居したことがきっかけです。
しかし、徳川家斉は大御所として幕政の中心に居座り、権力を握り続けていました。
大御所となった徳川家斉は、自身の治世と変わらず贅沢な暮らしを続けており、幕府の財政は悪化の一途を辿るばかり。
徳川家慶が将軍に就任した頃には幕政が大きく傾いており、幕府衰退の兆しが見え始めていたのです。
11代将軍徳川家斉は、自由気ままに贅沢三昧をして暮らしていましたが、そのおかげもあって市民に対する締め付けがなく、「化政文化」(かせいぶんか)と呼ばれる、豪奢で退廃的な町人文化が発展しました。
しかし、幕閣内では賄賂が横行し、政治は腐敗。徳川家斉は多くの側室を娶り、多くの子を儲けたため、大奥にかかる莫大な費用が幕府の財政を圧迫し、破綻寸前となっていました。徳川家慶は財政を省みず、贅沢な生活をしている父の徳川家斉に、反発心を抱いていましたが、徳川家斉が大御所として実権を握り続けていたため、徳川家慶は12代将軍となったものの、発言力は強くありませんでした。
徳川家慶は発言が反映されないため政治に対して無気力となり、家臣や大御所が決めたことに対して「そうせい」としか言わず、家臣から「そうせい様」と揶揄されていました。
このような内憂を抱えるなかで、1841年(天保12年)に父の徳川家斉が死去。徳川家慶はすぐさま大御所時代の重臣を排し、幕政の改善を図るため人材を刷新していきました。 | 11代将軍徳川家斉の次男として誕生した人物が12代将軍となったのは、何がきっかけか。 | 11代将軍徳川家斉の次男として誕生した人物が12代将軍となったのは、1837年(天保8年)、父の徳川家斉が隠居したことがきっかけである。 |
JCRRAG_018073 | 歴史 | "これで、川中島の合戦は終わったわけである。
大戦ではあったけれども、政治的には何の効果もなかった。このため、上杉、武田両家とも別にどうなったわけでなく、川中島は元のままであった。
両軍の損傷を比べて見ると、
上杉方
死者三千四百
武田方
死者四千五百
これで見ると、武田方の方がひどくやられている。その上弟の信繁は討ち死に、信玄自身、子の義信も負傷している。
上杉方は、名のある者は、一人も死んでいない。また作戦的には、武田方は巧みに裏をかかれている。
しかし、戦国時代では戦争の勝敗は「芝居を踏みたるを勝ちとす」としてある。芝居というのは、多分戦場ということであろう。
つまり戦場に居残った方が勝ちである。そう考えると、武田方が勝ったことになる。
豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝ちなり、辰の刻より巳みの刻までは武田方の勝ちなり」と言っているが、これは一番正当な批評かも知れない。
川中島合戦の時は、武田信玄は四十一歳で上杉謙信は三十二歳である。秀吉にいわせると「はかどらない戦争を」やったに過ぎないかも知れないが、信玄は深謀にして精強、謙信は尖鋭にして果断、実にいいマッチングであり、ボクシングでいえば体重のちがいもなく両方とも鍛練された武器を持っていたわけであるからこの川中島の合戦も引き分けになったのは、当然かも知れないのである。 | 川中島の合戦が終わった時に死者が少なかったほうを教えてください。 | 川中島の合戦が終わった時に死者が少なかったのは上杉方で三千四百です。 |
JCRRAG_018074 | 歴史 | 再度の長州征伐に失敗して、徳川幕府の無勢力が、完全に暴露された。この時すでに長州は薩摩と連合して討幕の計画をめぐらせていた。
温健派の山内容堂は、幕府の命運がすでに尽きている事を察して、幕府の終わりを全うさせるという意味で、大政奉還するしかないという理由を書いて説いた建白書を、徳川慶喜に渡した。当時在京中の慶喜は悟る所があり、十月十三日在京の諸大名達を二条城に集めて諮問した上、翌日十四日に朝廷へ奏問に及んだのである。
ところが、その日は薩長二藩に対し、討幕せよという天皇からの命が、下された日である。
すなわち薩長や岩倉具視の肚では、武力をもって圧倒しようとする所に、幕府の方から、頭を下げて来たのである。
王政維新の成果を上げて、朝廷の実力を発揮するためには、幕府に一撃を与えて、実力的に圧倒することが必要だと思っていたから、幕府からの大政奉還は、痛し痒しであったのである。
だから、それに対して、朝廷には議論があった。
その一つは、公武合体派で、慶喜の大政奉還を許可し、それを賞賛して、新政府組織についても、慶喜に旧将軍にふさわしい役を与えようというのである。
他の一派は、岩倉を中心とする排幕派で、既に討幕の密勅も下っている所へ、大政奉還を申し出たので、勝手が違ったが、たとえ武力で圧倒できなくなったにしろ、他の手段で、幕府の勢力を蹂躙しようというのである。
ところが、排幕派の議論が勝利を占めて十二月九日、王政復古の号令が発せられ、アンチ徳川の連中はことごとく復活し、公武合体派は皇居に入る事を禁じられてしまった。
その夜、小御所における王政第一回の御前会議は、歴史的にも最も意義のある会合で、
山内容堂
松平春嶽
が大いに徳川慶喜のために説得したが、岩倉、大久保のために、受け入れられず、両派閥の論争は激烈を極め、一時休憩となったが、その時、薩藩の岩下佐次衛門は、退席していた西郷隆盛に確認したところ、隆盛は落ち着き払って「口先では、きりがない。唯一匕首あるのみだ」といった。岩下、これを岩倉に話したので、具視は大いに決断した、土佐と越前の二藩がなお、自説を固執するならば、何が起こるか分からないような状況になった、浅野茂勲はその間に立って、山内容堂、松平春嶽に譲歩させた。
岩倉の説が勝ち、その翌日、慶喜に対して将軍職を辞退する許可がおり、更に退官して納地を返すように、勧められた。
この結果に対して、幕府の
会津藩
桑名藩
が、納得するわけがなかった。
慶喜が、大政奉還をした以上、その善後策をどうするかという朝議において、慶喜を初め会津藩と桑名藩も当然参加するべきものだと、期待していたのにも関わらず、会津藩と桑名藩は禁門の警備を解かれてしまうし、慶喜は朝議に参加させないばかりか、新政府に何の椅子も与えられないのであるから、彼等の怒りは察すべきものである。
この時は、芸兵が京都に入り、長州の兵もまた京都に来ていたので、慕府及びその一派が、憤慨して手を出せば、やっつけてやろうという肚が排幕派にあったのである。 | 王政第一回の御前会議で徳川慶喜のために説得した人間の数を教えてください。 | 王政第一回の御前会議で徳川慶喜のために説得した人間の数は2で、
「山内容堂」
「松平春嶽」
です。 |
JCRRAG_018075 | 歴史 | 第2回三頭政治
前43年、次の3人が政治同盟を結び、閥族派を抑えました。
カエサルの部下アントニウス
カエサルの部下レピドゥス
カエサルの養子オクタウィアヌス
彼ら3人による政治の分担は、第2回三頭政治と呼ばれます。
前31年、アクティウムの海戦
オクタウィアヌスが、プトレマイオス朝の女王クレオパトラと結んだアントニウスを破った海戦
プトレマイオス朝が滅亡し、ローマの属州化
地中海が平定され、内乱の1世紀が終わりました。
ローマの平和(パクス=ロマーナ)
最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。
ネルウァ(在位96~98)
トラヤヌス(在位98~117)
ハドリアヌス(在位117~138)
アントニヌス=ビウス(在位138~161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。
ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。
ローマの文化
言語
ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。
暦
エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。
のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。
ラテン文学
ウェルギリウス
ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物
カエサル
前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | リウィウスとプルタルコスの違いを説明して下さい。 | リウィウスは歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物ですが、
一方、プルタルコスはギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物です。 |
JCRRAG_018076 | 歴史 | 1793年(寛政5年)11代将軍「徳川家斉」の次男として誕生したのは、「徳川家慶」です。
長兄が早世したため、早くから将軍の継嗣(けいし:あと継ぎ)となるものの、父である徳川家斉の治世が長く、将軍職に就く頃には45歳になっていました。
徳川家慶は12代将軍となったのは、1837年(天保8年)、父の徳川家斉が隠居したことがきっかけです。
しかし、徳川家斉は大御所として幕政の中心に居座り、権力を握り続けていました。
大御所となった徳川家斉は、自身の治世と変わらず贅沢な暮らしを続けており、幕府の財政は悪化の一途を辿るばかり。
徳川家慶が将軍に就任した頃には幕政が大きく傾いており、幕府衰退の兆しが見え始めていたのです。
11代将軍徳川家斉は、自由気ままに贅沢三昧をして暮らしていましたが、そのおかげもあって市民に対する締め付けがなく、「化政文化」(かせいぶんか)と呼ばれる、豪奢で退廃的な町人文化が発展しました。
しかし、幕閣内では賄賂が横行し、政治は腐敗。徳川家斉は多くの側室を娶り、多くの子を儲けたため、大奥にかかる莫大な費用が幕府の財政を圧迫し、破綻寸前となっていました。徳川家慶は財政を省みず、贅沢な生活をしている父の徳川家斉に、反発心を抱いていましたが、徳川家斉が大御所として実権を握り続けていたため、徳川家慶は12代将軍となったものの、発言力は強くありませんでした。
徳川家慶は発言が反映されないため政治に対して無気力となり、家臣や大御所が決めたことに対して「そうせい」としか言わず、家臣から「そうせい様」と揶揄されていました。
このような内憂を抱えるなかで、1841年(天保12年)に父の徳川家斉が死去。徳川家慶はすぐさま大御所時代の重臣を排し、幕政の改善を図るため人材を刷新していきました。 | 11代将軍徳川家斉の次男として誕生した人物が将軍に就任した頃には、幕政はどのような状況であったか。 | 11代将軍徳川家斉の次男として誕生した人物が将軍に就任した頃には、幕政が大きく傾いており、幕府衰退の兆しが見え始めていた。 |
JCRRAG_018077 | 歴史 | "これで、川中島の合戦は終わったわけである。
大戦ではあったけれども、政治的には何の効果もなかった。このため、上杉、武田両家とも別にどうなったわけでなく、川中島は元のままであった。
両軍の損傷を比べて見ると、
上杉方
死者三千四百
武田方
死者四千五百
これで見ると、武田方の方がひどくやられている。その上弟の信繁は討ち死に、信玄自身、子の義信も負傷している。
上杉方は、名のある者は、一人も死んでいない。また作戦的には、武田方は巧みに裏をかかれている。
しかし、戦国時代では戦争の勝敗は「芝居を踏みたるを勝ちとす」としてある。芝居というのは、多分戦場ということであろう。
つまり戦場に居残った方が勝ちである。そう考えると、武田方が勝ったことになる。
豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝ちなり、辰の刻より巳みの刻までは武田方の勝ちなり」と言っているが、これは一番正当な批評かも知れない。
川中島合戦の時は、武田信玄は四十一歳で上杉謙信は三十二歳である。秀吉にいわせると「はかどらない戦争を」やったに過ぎないかも知れないが、信玄は深謀にして精強、謙信は尖鋭にして果断、実にいいマッチングであり、ボクシングでいえば体重のちがいもなく両方とも鍛練された武器を持っていたわけであるからこの川中島の合戦も引き分けになったのは、当然かも知れないのである。 | 上杉謙信と武田信玄のうち、川中島の合戦が終わった時の年齢が若いほうを教えてください。 | 上杉謙信と武田信玄のうち、川中島の合戦が終わった時の年齢が若いほうは上杉謙信で三十二歳です。 |
JCRRAG_018078 | 歴史 | 再度の長州征伐に失敗して、徳川幕府の無勢力が、完全に暴露された。この時すでに長州は薩摩と連合して討幕の計画をめぐらせていた。
温健派の山内容堂は、幕府の命運がすでに尽きている事を察して、幕府の終わりを全うさせるという意味で、大政奉還するしかないという理由を書いて説いた建白書を、徳川慶喜に渡した。当時在京中の慶喜は悟る所があり、十月十三日在京の諸大名達を二条城に集めて諮問した上、翌日十四日に朝廷へ奏問に及んだのである。
ところが、その日は薩長二藩に対し、討幕せよという天皇からの命が、下された日である。
すなわち薩長や岩倉具視の肚では、武力をもって圧倒しようとする所に、幕府の方から、頭を下げて来たのである。
王政維新の成果を上げて、朝廷の実力を発揮するためには、幕府に一撃を与えて、実力的に圧倒することが必要だと思っていたから、幕府からの大政奉還は、痛し痒しであったのである。
だから、それに対して、朝廷には議論があった。
その一つは、公武合体派で、慶喜の大政奉還を許可し、それを賞賛して、新政府組織についても、慶喜に旧将軍にふさわしい役を与えようというのである。
他の一派は、岩倉を中心とする排幕派で、既に討幕の密勅も下っている所へ、大政奉還を申し出たので、勝手が違ったが、たとえ武力で圧倒できなくなったにしろ、他の手段で、幕府の勢力を蹂躙しようというのである。
ところが、排幕派の議論が勝利を占めて十二月九日、王政復古の号令が発せられ、アンチ徳川の連中はことごとく復活し、公武合体派は皇居に入る事を禁じられてしまった。
その夜、小御所における王政第一回の御前会議は、歴史的にも最も意義のある会合で、
山内容堂
松平春嶽
が大いに徳川慶喜のために説得したが、岩倉、大久保のために、受け入れられず、両派閥の論争は激烈を極め、一時休憩となったが、その時、薩藩の岩下佐次衛門は、退席していた西郷隆盛に確認したところ、隆盛は落ち着き払って「口先では、きりがない。唯一匕首あるのみだ」といった。岩下、これを岩倉に話したので、具視は大いに決断した、土佐と越前の二藩がなお、自説を固執するならば、何が起こるか分からないような状況になった、浅野茂勲はその間に立って、山内容堂、松平春嶽に譲歩させた。
岩倉の説が勝ち、その翌日、慶喜に対して将軍職を辞退する許可がおり、更に退官して納地を返すように、勧められた。
この結果に対して、幕府の
会津藩
桑名藩
が、納得するわけがなかった。
慶喜が、大政奉還をした以上、その善後策をどうするかという朝議において、慶喜を初め会津藩と桑名藩も当然参加するべきものだと、期待していたのにも関わらず、会津藩と桑名藩は禁門の警備を解かれてしまうし、慶喜は朝議に参加させないばかりか、新政府に何の椅子も与えられないのであるから、彼等の怒りは察すべきものである。
この時は、芸兵が京都に入り、長州の兵もまた京都に来ていたので、慕府及びその一派が、憤慨して手を出せば、やっつけてやろうという肚が排幕派にあったのである。 | 王政第一回の御前会議で出た結論に納得するわけがなかった幕府の数を教えてください。 | 王政第一回の御前会議で出た結論に納得するわけがなかった幕府の数は2で、
「会津藩」
「桑名藩」
です。 |
JCRRAG_018079 | 歴史 | ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | リウィウスとストラボンの違いを説明して下さい。 | リウィウスは歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物ですが、
一方、ストラボンは当時知られていた全世界の地誌を記述した人物です。 |
JCRRAG_018080 | 歴史 | 1793年(寛政5年)11代将軍「徳川家斉」の次男として誕生したのは、「徳川家慶」です。
長兄が早世したため、早くから将軍の継嗣(けいし:あと継ぎ)となるものの、父である徳川家斉の治世が長く、将軍職に就く頃には45歳になっていました。
徳川家慶は12代将軍となったのは、1837年(天保8年)、父の徳川家斉が隠居したことがきっかけです。
しかし、徳川家斉は大御所として幕政の中心に居座り、権力を握り続けていました。
大御所となった徳川家斉は、自身の治世と変わらず贅沢な暮らしを続けており、幕府の財政は悪化の一途を辿るばかり。
徳川家慶が将軍に就任した頃には幕政が大きく傾いており、幕府衰退の兆しが見え始めていたのです。
11代将軍徳川家斉は、自由気ままに贅沢三昧をして暮らしていましたが、そのおかげもあって市民に対する締め付けがなく、「化政文化」(かせいぶんか)と呼ばれる、豪奢で退廃的な町人文化が発展しました。
しかし、幕閣内では賄賂が横行し、政治は腐敗。徳川家斉は多くの側室を娶り、多くの子を儲けたため、大奥にかかる莫大な費用が幕府の財政を圧迫し、破綻寸前となっていました。徳川家慶は財政を省みず、贅沢な生活をしている父の徳川家斉に、反発心を抱いていましたが、徳川家斉が大御所として実権を握り続けていたため、徳川家慶は12代将軍となったものの、発言力は強くありませんでした。
徳川家慶は発言が反映されないため政治に対して無気力となり、家臣や大御所が決めたことに対して「そうせい」としか言わず、家臣から「そうせい様」と揶揄されていました。
このような内憂を抱えるなかで、1841年(天保12年)に父の徳川家斉が死去。徳川家慶はすぐさま大御所時代の重臣を排し、幕政の改善を図るため人材を刷新していきました。 | 11代将軍徳川家斉の次男として誕生した人物は、財政を省みず、贅沢な生活をしている父の徳川家斉にどのような感情を抱いていたか。 | 11代将軍徳川家斉の次男として誕生した人物は、財政を省みず、贅沢な生活をしている父の徳川家斉に反発心を抱いていた。 |
JCRRAG_018081 | 歴史 | "これで、川中島の合戦は終わったわけである。
大戦ではあったけれども、政治的には何の効果もなかった。このため、上杉、武田両家とも別にどうなったわけでなく、川中島は元のままであった。
両軍の損傷を比べて見ると、
上杉方
死者三千四百
武田方
死者四千五百
これで見ると、武田方の方がひどくやられている。その上弟の信繁は討ち死に、信玄自身、子の義信も負傷している。
上杉方は、名のある者は、一人も死んでいない。また作戦的には、武田方は巧みに裏をかかれている。
しかし、戦国時代では戦争の勝敗は「芝居を踏みたるを勝ちとす」としてある。芝居というのは、多分戦場ということであろう。
つまり戦場に居残った方が勝ちである。そう考えると、武田方が勝ったことになる。
豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝ちなり、辰の刻より巳みの刻までは武田方の勝ちなり」と言っているが、これは一番正当な批評かも知れない。
川中島合戦の時は、武田信玄は四十一歳で上杉謙信は三十二歳である。秀吉にいわせると「はかどらない戦争を」やったに過ぎないかも知れないが、信玄は深謀にして精強、謙信は尖鋭にして果断、実にいいマッチングであり、ボクシングでいえば体重のちがいもなく両方とも鍛練された武器を持っていたわけであるからこの川中島の合戦も引き分けになったのは、当然かも知れないのである。 | 上杉謙信と武田信玄のうち、川中島の合戦が終わった時の年齢が高いほうを教えてください。 | 上杉謙信と武田信玄のうち、川中島の合戦が終わった時の年齢が高いほうは武田信玄で四十一歳です。 |
JCRRAG_018082 | 歴史 | 再度の長州征伐に失敗して、徳川幕府の無勢力が、完全に暴露された。この時すでに長州は薩摩と連合して討幕の計画をめぐらせていた。
温健派の山内容堂は、幕府の命運がすでに尽きている事を察して、幕府の終わりを全うさせるという意味で、大政奉還するしかないという理由を書いて説いた建白書を、徳川慶喜に渡した。当時在京中の慶喜は悟る所があり、十月十三日在京の諸大名達を二条城に集めて諮問した上、翌日十四日に朝廷へ奏問に及んだのである。
ところが、その日は薩長二藩に対し、討幕せよという天皇からの命が、下された日である。
すなわち薩長や岩倉具視の肚では、武力をもって圧倒しようとする所に、幕府の方から、頭を下げて来たのである。
王政維新の成果を上げて、朝廷の実力を発揮するためには、幕府に一撃を与えて、実力的に圧倒することが必要だと思っていたから、幕府からの大政奉還は、痛し痒しであったのである。
だから、それに対して、朝廷には議論があった。
その一つは、公武合体派で、慶喜の大政奉還を許可し、それを賞賛して、新政府組織についても、慶喜に旧将軍にふさわしい役を与えようというのである。
他の一派は、岩倉を中心とする排幕派で、既に討幕の密勅も下っている所へ、大政奉還を申し出たので、勝手が違ったが、たとえ武力で圧倒できなくなったにしろ、他の手段で、幕府の勢力を蹂躙しようというのである。
ところが、排幕派の議論が勝利を占めて十二月九日、王政復古の号令が発せられ、アンチ徳川の連中はことごとく復活し、公武合体派は皇居に入る事を禁じられてしまった。
その夜、小御所における王政第一回の御前会議は、歴史的にも最も意義のある会合で、
山内容堂
松平春嶽
が大いに徳川慶喜のために説得したが、岩倉、大久保のために、受け入れられず、両派閥の論争は激烈を極め、一時休憩となったが、その時、薩藩の岩下佐次衛門は、退席していた西郷隆盛に確認したところ、隆盛は落ち着き払って「口先では、きりがない。唯一匕首あるのみだ」といった。岩下、これを岩倉に話したので、具視は大いに決断した、土佐と越前の二藩がなお、自説を固執するならば、何が起こるか分からないような状況になった、浅野茂勲はその間に立って、山内容堂、松平春嶽に譲歩させた。
岩倉の説が勝ち、その翌日、慶喜に対して将軍職を辞退する許可がおり、更に退官して納地を返すように、勧められた。
この結果に対して、幕府の
会津藩
桑名藩
が、納得するわけがなかった。
慶喜が、大政奉還をした以上、その善後策をどうするかという朝議において、慶喜を初め会津藩と桑名藩も当然参加するべきものだと、期待していたのにも関わらず、会津藩と桑名藩は禁門の警備を解かれてしまうし、慶喜は朝議に参加させないばかりか、新政府に何の椅子も与えられないのであるから、彼等の怒りは察すべきものである。
この時は、芸兵が京都に入り、長州の兵もまた京都に来ていたので、慕府及びその一派が、憤慨して手を出せば、やっつけてやろうという肚が排幕派にあったのである。 | 王政第一回の御前会議を行っていたころに、京都に入ってきた兵の種類を教えてください。 | 王政第一回の御前会議を行っていたころに、京都に入ってきた兵の種類は2で、
「芸兵」
「長州の兵」
です。 |
JCRRAG_018083 | 歴史 | ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | リウィウスとキケロの違いを説明して下さい。 | リウィウスは歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物ですが、
一方、キケロは優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立です。 |
JCRRAG_018084 | 歴史 | 1793年(寛政5年)11代将軍「徳川家斉」の次男として誕生したのは、「徳川家慶」です。
長兄が早世したため、早くから将軍の継嗣(けいし:あと継ぎ)となるものの、父である徳川家斉の治世が長く、将軍職に就く頃には45歳になっていました。
徳川家慶は12代将軍となったのは、1837年(天保8年)、父の徳川家斉が隠居したことがきっかけです。
しかし、徳川家斉は大御所として幕政の中心に居座り、権力を握り続けていました。
大御所となった徳川家斉は、自身の治世と変わらず贅沢な暮らしを続けており、幕府の財政は悪化の一途を辿るばかり。
徳川家慶が将軍に就任した頃には幕政が大きく傾いており、幕府衰退の兆しが見え始めていたのです。
11代将軍徳川家斉は、自由気ままに贅沢三昧をして暮らしていましたが、そのおかげもあって市民に対する締め付けがなく、「化政文化」(かせいぶんか)と呼ばれる、豪奢で退廃的な町人文化が発展しました。
しかし、幕閣内では賄賂が横行し、政治は腐敗。徳川家斉は多くの側室を娶り、多くの子を儲けたため、大奥にかかる莫大な費用が幕府の財政を圧迫し、破綻寸前となっていました。徳川家慶は財政を省みず、贅沢な生活をしている父の徳川家斉に、反発心を抱いていましたが、徳川家斉が大御所として実権を握り続けていたため、徳川家慶は12代将軍となったものの、発言力は強くありませんでした。
徳川家慶は発言が反映されないため政治に対して無気力となり、家臣や大御所が決めたことに対して「そうせい」としか言わず、家臣から「そうせい様」と揶揄されていました。
このような内憂を抱えるなかで、1841年(天保12年)に父の徳川家斉が死去。徳川家慶はすぐさま大御所時代の重臣を排し、幕政の改善を図るため人材を刷新していきました。 | 11代将軍徳川家斉の次男として誕生した人物が12代将軍になったのにも関わらず、発言力が強くなかったのはなぜか。 | 11代将軍徳川家斉の次男として誕生した人物が12代将軍になったのにも関わらず、発言力が強くなかったのは、徳川家斉が大御所として実権を握り続けていたためである。 |
JCRRAG_018085 | 歴史 | 「領主板倉氏のキリスト教徒への圧迫と課税の苛酷さは、もう耐えられない。
今年は作物が不作だったし、どうやって耐えられるだろうか。こうなったら非常手段に出るしかないと思う」
この様な論議が色んな村の庄屋の寄り合いの席で持ち出される。
大矢野島と島原との間に湯島という小島があるが、信徒等はここに秘密のアジトを設置して、天草島原の両地方の人々が来て会議を行い、策を練った。
後にこの島が「談合島」と呼ばれるようになった理由である。
島原の南有馬村の庄屋である治右衛門に角蔵という弟がいて、北有馬村の百姓である三吉と共に熱烈なキリスト信者であった。
彼等の父はかつて藩の宗教弾圧によって斬られてしまったが、角蔵と三吉は各々の父のドクロと天主像を並べてこっそり拝んでいた。
このころに至って公然と人々にさらけ出した所、彼らを信仰する人間は百人から七百人もふえたが、領内の不穏を察していた有馬藩では彼らを逮捕するため松田兵右衛門を先頭に二十五人を編成して船に乗っていく事になった。
角蔵と三吉の妻や子も捕まえられたが、三吉は角蔵に向かって「俺が死ぬのは信仰のためだし全然かまわん、むしろ望むところだ。しかし五歳の男の子と三歳の女の子という宗教の何か知らないような年端も行かない子どもまで捕らえられるとなると涙が出るよ」というと角蔵は「何を言うんだ。俺達は教えのために死ぬんだから、生きてる時の栄光だの死んだ後どうなろうと何の意味もないだろうが」と答えて笑いながら捕まった。たまたま三吉の家で礼拝していた男女が七十人以上いたが、角蔵と三吉の家族を始め、主謀者と見なされた者たち男十三人女三人、総勢十六人が、藩び船に乗せられて日が暮れようとしている海へ去っていくのを見送って、「私たちもそのうち処罰されるだろう。今はただみんなと天国に会えるのを期待するだけだ」と叫びながら見送った。
この事件は十月二十二日の事であるが、その翌日である二十三日に有江村の佐志木作右衛門の屋敷に信徒が集まっているのを耳にした代官林兵右衛門は単身この家に乗り込んで、天主の画像を奪って破りかまどに放り投げて燃やしてしまった。いままで耐え忍んでいた信徒達もこれを見ては怒らないわけがなかった。
そこにいた信徒達四十五人は全員農具を手に取って、兵右衛門を殴り殺した。
ここで佐志木作右衛門は、千束島の山善左衛門たちと話し合ったが、このまま藩の奴らに好き勝手される位なら俺達が立ち上がるしかないといった。
「天主の教えを信じる以上、日本全土を敵にしても怖くないわ!まして九州なんて余計に怖くない。成功すればいいし失敗したら死んで天に上るだけよ」
これを聞いた者達は皆従ってくれた兵を募る手紙をあっという間に加津佐、串山、小浜、千々岩を始め、北は有江、堂崎、布津、深江、中木場にあるさまざまな村に届けた。
この時に島原の領主である松倉重次は、江戸に出張中していたから留守を守っていた島原城では大騒ぎである。
老臣の岡本新兵衛は、兵士を集めて船で沿岸を偵察していたが、ありとあらゆる所で一揆が起こっていた。
うかつに上陸した奴は、間違いなく襲われる始末である。
さらに一揆は代官所を襲って銃や槍や刀などの武器を奪い取って装備している。
この上に元々島原の住民は銃の製造技術を持っていて、射撃の名手も少なくない。
三会村の百姓の金作なんてのは遠くに置いた針を百発百中で撃ち抜くというほどの腕前で人呼んで「懸針金作」とよばれていた位だ。
銃の名手だけでなく大きな斧を振るう置いた農夫がいるかと思えば、剣法を知っている浪士がいる。
こうした油断できない一揆の群れがどこにひそんでいるかわからないのだから、戦に慣れている藩士達もとまどうばかりで次々と死んでいった。
島原城から出撃した討伐隊もさんざんなカウンターを食らって、早々に撤退して城に籠らなければならなかった。
信徒達は城下の民家や神社や寺を焼き払って陣を開いた。
この頃になると信徒達も大軍になっていたので、誰か総大将を立てようという論議が出て来た。
なら稀代の天才「天草四郎時貞」こそふさわしいのではとなったので、大矢野宮津の道場に使いをだした。
四郎はその話をすぐに了承して「わたしを大将にするのであれば、どんな命令でも従って欲しい。まずは戦力の準備をするために人数を確認してほしい」と命令した。
道場の周囲にはすでに七百の武装民が集っていた。
天草四郎は警備をしてくれる男四十人と女十人の合わせて五十人と共に島原の大江村に渡った。
首謀者達はここで相談してまず長崎付近へ一万二千人を二手にわけて、日見峠と茂木峠に陣を敷き、長崎を見下ろすような形になった。
使いを渡して「もしキリスト教に入らないなら、一斉におそいかかって放火してその勢いに乗って島原城を乗っ取ろう」と計画を練った。
重要な地でもある長崎を奪うこの作戦はもはや暴徒の発想などではなかった。
まさに出動しようとしているところへ天草の上津浦から使いが来た。「寺沢家の支城である富岡では信徒を鎮圧する為に三宅藤兵衛を大将として、上津浦の近くの島子志柿の辺りまで軍勢を指し向けたから至急に加勢をおねがいしたい」と。
そこで、長崎への進撃を一旦ストップして四郎千五百を率いて天草に渡り、上津浦の人数と合して三道より進んだ。 | 天草四郎の警備についた人のうち、人数が多いほうの性別を教えてください | 天草四郎の警備についた人のうち、人数が多いほうの性別は男です。 |
JCRRAG_018086 | 歴史 | 二条城には幕府の部下の遊撃隊、新選組、見廻り組、津や大垣の兵などが集まっていたが、朝廷の処置に怒りが止まず、またデマが広がって、今にも薩長の兵が二条城を来襲して来るというので、城壁に銃を撃つための銃眼を穿ち始めるというさわぎである。
徳川慶喜は、このまま京都に滞在していてはいかなる事変が突然起こってしまうかも知れないと思ったらしく、激昂する部下をなだめながら、閣老や参政、会津藩や桑名藩の武士を率いて、大阪へ下ったのである。
この大阪への進軍に対して、朝廷側では大阪の要所を占拠し、軍艦をもって海路を断って、薩摩と長州を苦しめるためだろうと疑う者もおり、一大決戦は避けられないんじゃないかという力説する者もあり、大阪城の中においては、会津と桑名の二藩の激昂はなお止まなかった。
形勢に見通しが立たない事を憂いた尾張藩、越前藩、土佐藩は、慶喜が大阪にいては、いよいよ朝廷と幕府の間が離れるばかりだから、もう一度上京したらどうかと勧めたが、幕府側の識者は今上京するなど、最も不利であるとした。上京するなら君主側にいる悪人を除くという意味で、兵力を率いて、上京した方がいいという。その賛成者がだんだん多くなって行く。
その時、江戸では、薩摩系の浪士が、乱暴を働いて、西丸に放火したらしいという疑いさえ出て、ついに三田にある薩摩藩の江戸藩邸が焼払いとなった。このニュースが大阪城に達すると、激昂していた人達の心の火に更に油をかけられるわけで、温健な徳川慶喜も、ついに薩摩を討つという表を作って、上洛することを決心した。
慶応四年の一月三日である。むろん、これより先、伏見、鳥羽、淀には幕府の兵を配置していた訳なので、まず彼らに進軍を命じた。
維新の原動力とする連中には、武力的に幕府をやっつけないと、災いの原因を残す憂いがあると信じていたから、わざわざ幕府を怒らせるように、仕向けた点もあったわけである。江戸における浪士の暴動など、西郷隆盛の密命によって、益満休之助などが、動いていたことになっているが、しかしこうした事は、文書など残っているわけでないから、いつまでも歴史上の謎として、残るであろう。
徳川慶喜の上洛は、尾張藩越前藩の両侯から上洛を勧められたからというのは、表面の口実で、本当は討薩の表を奉って、京都から薩摩と長州の勢力を駆逐するつもりであったのであろう。 | 二条城に集まっていた兵の組織名として挙げられている数を教えてください。 | 二条城に集まっていた兵の組織名として挙げられている数は5で、「幕府の部下の遊撃隊」、「新選組」、「見廻り組」、「津藩」、「大垣藩」の兵です。 |
JCRRAG_018087 | 歴史 | ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | リウィウスとマルクス=アウレリウス=アントニヌスの違いを説明して下さい。 | リウィウスは歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物ですが、
一方、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人で中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場しました。 |
JCRRAG_018088 | 歴史 | 1793年(寛政5年)11代将軍「徳川家斉」の次男として誕生したのは、「徳川家慶」です。
長兄が早世したため、早くから将軍の継嗣(けいし:あと継ぎ)となるものの、父である徳川家斉の治世が長く、将軍職に就く頃には45歳になっていました。
徳川家慶は12代将軍となったのは、1837年(天保8年)、父の徳川家斉が隠居したことがきっかけです。
しかし、徳川家斉は大御所として幕政の中心に居座り、権力を握り続けていました。
大御所となった徳川家斉は、自身の治世と変わらず贅沢な暮らしを続けており、幕府の財政は悪化の一途を辿るばかり。
徳川家慶が将軍に就任した頃には幕政が大きく傾いており、幕府衰退の兆しが見え始めていたのです。
11代将軍徳川家斉は、自由気ままに贅沢三昧をして暮らしていましたが、そのおかげもあって市民に対する締め付けがなく、「化政文化」(かせいぶんか)と呼ばれる、豪奢で退廃的な町人文化が発展しました。
しかし、幕閣内では賄賂が横行し、政治は腐敗。徳川家斉は多くの側室を娶り、多くの子を儲けたため、大奥にかかる莫大な費用が幕府の財政を圧迫し、破綻寸前となっていました。徳川家慶は財政を省みず、贅沢な生活をしている父の徳川家斉に、反発心を抱いていましたが、徳川家斉が大御所として実権を握り続けていたため、徳川家慶は12代将軍となったものの、発言力は強くありませんでした。
徳川家慶は発言が反映されないため政治に対して無気力となり、家臣や大御所が決めたことに対して「そうせい」としか言わず、家臣から「そうせい様」と揶揄されていました。
このような内憂を抱えるなかで、1841年(天保12年)に父の徳川家斉が死去。徳川家慶はすぐさま大御所時代の重臣を排し、幕政の改善を図るため人材を刷新していきました。 | 11代将軍徳川家斉の次男として誕生した人物は、家臣や大御所が決めたことに対して「そうせい」としか言わなかったため、家臣から何と言われていたか。 | 11代将軍徳川家斉の次男として誕生した人物は、家臣や大御所が決めたことに対して「そうせい」としか言わなかったため、家臣から「そうせい様」と揶揄されていた。 |
JCRRAG_018089 | 歴史 | 「領主板倉氏のキリスト教徒への圧迫と課税の苛酷さは、もう耐えられない。
今年は作物が不作だったし、どうやって耐えられるだろうか。こうなったら非常手段に出るしかないと思う」
この様な論議が色んな村の庄屋の寄り合いの席で持ち出される。
大矢野島と島原との間に湯島という小島があるが、信徒等はここに秘密のアジトを設置して、天草島原の両地方の人々が来て会議を行い、策を練った。
後にこの島が「談合島」と呼ばれるようになった理由である。
島原の南有馬村の庄屋である治右衛門に角蔵という弟がいて、北有馬村の百姓である三吉と共に熱烈なキリスト信者であった。
彼等の父はかつて藩の宗教弾圧によって斬られてしまったが、角蔵と三吉は各々の父のドクロと天主像を並べてこっそり拝んでいた。
このころに至って公然と人々にさらけ出した所、彼らを信仰する人間は百人から七百人もふえたが、領内の不穏を察していた有馬藩では彼らを逮捕するため松田兵右衛門を先頭に二十五人を編成して船に乗っていく事になった。
角蔵と三吉の妻や子も捕まえられたが、三吉は角蔵に向かって「俺が死ぬのは信仰のためだし全然かまわん、むしろ望むところだ。しかし五歳の男の子と三歳の女の子という宗教の何か知らないような年端も行かない子どもまで捕らえられるとなると涙が出るよ」というと角蔵は「何を言うんだ。俺達は教えのために死ぬんだから、生きてる時の栄光だの死んだ後どうなろうと何の意味もないだろうが」と答えて笑いながら捕まった。たまたま三吉の家で礼拝していた男女が七十人以上いたが、角蔵と三吉の家族を始め、主謀者と見なされた者たち男十三人女三人、総勢十六人が、藩び船に乗せられて日が暮れようとしている海へ去っていくのを見送って、「私たちもそのうち処罰されるだろう。今はただみんなと天国に会えるのを期待するだけだ」と叫びながら見送った。
この事件は十月二十二日の事であるが、その翌日である二十三日に有江村の佐志木作右衛門の屋敷に信徒が集まっているのを耳にした代官林兵右衛門は単身この家に乗り込んで、天主の画像を奪って破りかまどに放り投げて燃やしてしまった。いままで耐え忍んでいた信徒達もこれを見ては怒らないわけがなかった。
そこにいた信徒達四十五人は全員農具を手に取って、兵右衛門を殴り殺した。
ここで佐志木作右衛門は、千束島の山善左衛門たちと話し合ったが、このまま藩の奴らに好き勝手される位なら俺達が立ち上がるしかないといった。
「天主の教えを信じる以上、日本全土を敵にしても怖くないわ!まして九州なんて余計に怖くない。成功すればいいし失敗したら死んで天に上るだけよ」
これを聞いた者達は皆従ってくれた兵を募る手紙をあっという間に加津佐、串山、小浜、千々岩を始め、北は有江、堂崎、布津、深江、中木場にあるさまざまな村に届けた。
この時に島原の領主である松倉重次は、江戸に出張中していたから留守を守っていた島原城では大騒ぎである。
老臣の岡本新兵衛は、兵士を集めて船で沿岸を偵察していたが、ありとあらゆる所で一揆が起こっていた。
うかつに上陸した奴は、間違いなく襲われる始末である。
さらに一揆は代官所を襲って銃や槍や刀などの武器を奪い取って装備している。
この上に元々島原の住民は銃の製造技術を持っていて、射撃の名手も少なくない。
三会村の百姓の金作なんてのは遠くに置いた針を百発百中で撃ち抜くというほどの腕前で人呼んで「懸針金作」とよばれていた位だ。
銃の名手だけでなく大きな斧を振るう置いた農夫がいるかと思えば、剣法を知っている浪士がいる。
こうした油断できない一揆の群れがどこにひそんでいるかわからないのだから、戦に慣れている藩士達もとまどうばかりで次々と死んでいった。
島原城から出撃した討伐隊もさんざんなカウンターを食らって、早々に撤退して城に籠らなければならなかった。
信徒達は城下の民家や神社や寺を焼き払って陣を開いた。
この頃になると信徒達も大軍になっていたので、誰か総大将を立てようという論議が出て来た。
なら稀代の天才「天草四郎時貞」こそふさわしいのではとなったので、大矢野宮津の道場に使いをだした。
四郎はその話をすぐに了承して「わたしを大将にするのであれば、どんな命令でも従って欲しい。まずは戦力の準備をするために人数を確認してほしい」と命令した。
道場の周囲にはすでに七百の武装民が集っていた。
天草四郎は警備をしてくれる男四十人と女十人の合わせて五十人と共に島原の大江村に渡った。
首謀者達はここで相談してまず長崎付近へ一万二千人を二手にわけて、日見峠と茂木峠に陣を敷き、長崎を見下ろすような形になった。
使いを渡して「もしキリスト教に入らないなら、一斉におそいかかって放火してその勢いに乗って島原城を乗っ取ろう」と計画を練った。
重要な地でもある長崎を奪うこの作戦はもはや暴徒の発想などではなかった。
まさに出動しようとしているところへ天草の上津浦から使いが来た。「寺沢家の支城である富岡では信徒を鎮圧する為に三宅藤兵衛を大将として、上津浦の近くの島子志柿の辺りまで軍勢を指し向けたから至急に加勢をおねがいしたい」と。
そこで、長崎への進撃を一旦ストップして四郎千五百を率いて天草に渡り、上津浦の人数と合して三道より進んだ。 | 天草四郎の警備についた人のうち、人数が少ないほうの性別を教えてください | 天草四郎の警備についた人のうち、人数が少ないほうの性別は女で十人です。 |
JCRRAG_018090 | 歴史 | その時、二条城には幕府の部下の遊撃隊、新選組、見廻り組、津や大垣の兵などが集まっていたが、朝廷の処置に怒りが止まず、またデマが広がって、今にも薩長の兵が二条城を来襲して来るというので、城壁に銃を撃つための銃眼を穿ち始めるというさわぎである。
徳川慶喜は、このまま京都に滞在していてはいかなる事変が突然起こってしまうかも知れないと思ったらしく、激昂する部下をなだめながら、閣老や参政、会津藩や桑名藩の武士を率いて、大阪へ下ったのである。
この大阪への進軍に対して、朝廷側では大阪の要所を占拠し、軍艦をもって海路を断って、薩摩と長州を苦しめるためだろうと疑う者もおり、一大決戦は避けられないんじゃないかという力説する者もあり、大阪城の中においては、会津と桑名の二藩の激昂はなお止まなかった。
形勢に見通しが立たない事を憂いた尾張藩、越前藩、土佐藩は、慶喜が大阪にいては、いよいよ朝廷と幕府の間が離れるばかりだから、もう一度上京したらどうかと勧めたが、幕府側の識者は今上京するなど、最も不利であるとした。上京するなら君主側にいる悪人を除くという意味で、兵力を率いて、上京した方がいいという。その賛成者がだんだん多くなって行く。
その時、江戸では、薩摩系の浪士が、乱暴を働いて、西丸に放火したらしいという疑いさえ出て、ついに三田にある薩摩藩の江戸藩邸が焼払いとなった。このニュースが大阪城に達すると、激昂していた人達の心の火に更に油をかけられるわけで、温健な徳川慶喜も、ついに薩摩を討つという表を作って、上洛することを決心した。
慶応四年の一月三日である。むろん、これより先、伏見、鳥羽、淀には幕府の兵を配置していた訳なので、まず彼らに進軍を命じた。
維新の原動力とする連中には、武力的に幕府をやっつけないと、災いの原因を残す憂いがあると信じていたから、わざわざ幕府を怒らせるように、仕向けた点もあったわけである。江戸における浪士の暴動など、西郷隆盛の密命によって、益満休之助などが、動いていたことになっているが、しかしこうした事は、文書など残っているわけでないから、いつまでも歴史上の謎として、残るであろう。
徳川慶喜の上洛は、尾張藩越前藩の両侯から上洛を勧められたからというのは、表面の口実で、本当は討薩の表を奉って、京都から薩摩と長州の勢力を駆逐するつもりであったのであろう。 | 慶喜が大阪に下った時に率いた者たちの政治的・社会的身分分類の数を教えてください。 | 慶喜が大阪に下った時に率いた者たちの政治的・社会的身分分類の数は4で、「閣老」、
「参政」、「会津藩の武士」、「桑名藩の武士」です。 |
JCRRAG_018091 | 歴史 | ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | タキトゥスとプルタルコスの違いを説明して下さい。 | タキトゥスはゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物ですが、
一方、プルタルコスはギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物です。 |
JCRRAG_018092 | 歴史 | 江戸幕府12代将軍は、徳川家慶です。
徳川家慶は、1841年(天保12年)に徳川家斉が死去すると、大御所時代の側近らを罷免。差し迫った問題として、幕府の財政と海防に重点を置き、様々な改革を行なわなければならない状況を、老中「水野忠邦」(みずのただくに)に任せることにしました。
徳川家慶には、14男13女の子供達がいましたが、次代将軍となる「徳川家定」(とくがわいえさだ)を除く、すべての子供が20歳を前に亡くなっています。
徳川家定は、徳川家慶の四男として、側室「お美津の方」(おみつのかた)との間に生まれました。
幼少の頃から病弱で内向的であり、人前に出ることを嫌っていたと言います。
また、一説では脳性麻痺を持っていたとも。自分で料理をして食べるのが好きで、そのときは家臣達にも作った料理を分け与えていたとも言われています。
徳川家慶にとっての心配ごとは、幕政のみにとどまりませんでした。徳川家慶の嗣子は徳川家定のみでしたが、徳川家定は病弱で気も弱かったため、日本に迫る列強諸国のことを考えると、将軍として役目を果たせるか不安に思っていたのです。
徳川家慶が次期将軍に推したのが、のちの15代将軍となる「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)。徳川慶喜は、1837年(天保8年)、水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男として生まれ、幼少の頃から才覚にあふれていました。徳川家慶は徳川慶喜の聡明さを見抜き、次期将軍とするため徳川慶喜に「御三卿」(ごさんきょう)のひとつである「一橋家」(ひとつばしけ)を相続させます。
しかし、継嗣は将軍の嫡子を優先するべきという、阿部正弘をはじめとする老中らの諫言により断念しましたが、徳川慶喜のことが気に入っていた徳川家慶は、度々一橋邸を訪問したと言われています。 | 江戸幕府12代将軍は、徳川家斉が死去すると、大御所時代の側近らの処分をどうしたか。 | 江戸幕府12代将軍は、徳川家斉が死去すると、大御所時代の側近らを罷免した。 |
JCRRAG_018093 | 歴史 | 天草から島原へ軍を引き返した天草四郎時貞は島原城と富岡城を攻めたあぐねていた所に幕府軍が近づいたので「こうなったら何処かを要害城にして持久戦に持ち込むしかない」と決めた。
口津村の甚右衛門は、かつて有馬氏の治政していた時代にあった古い城である原城を拠点にしようと提案し、みんなが賛同したからこの古い城である原城を修復して立て籠もる事になった。
口津村の松倉藩の倉庫にあったお米五千石、銃二千丁、弓百本はすべて一揆達によって奪い去られた。
幕府の命を受けた使いが有江村の陣に到着した十二月八日には、原城は準備がすっかり整っていたのである。
城の総大将はもちろん天草四郎時貞であるが、その下に作戦指揮官として元有馬家の家臣だった蘆塚忠兵衛年、松島半之丞、松倉家の家中の医師有家久意、相津玄察、布津の太右衛門、参謀本部を構成して、益田好次、赤星主膳、有江休意、相津宗印以下十数名の浪士が作戦会議担当することになった。
監視役には森宗意、蜷川左京、その他、弓奉行、鉄砲奉行、使番など数十名の浪士が役割を与えられた。
加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜などの十数か所の村、庄屋達三十数名が「物頭役」として十の軍に分けられ、総勢二万七千、老若男女を合せると三万を越す人数が島原軍となった。
幕府によって集められた幕府軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして各地の大名が兵を出して、城中にいる一揆勢と比較して十万にもなった。 | 一揆が奪い去った、口津村の松倉藩の倉庫にあった物品の中で、もっとも数が多かった物を教えてください。 | 一揆が奪い去った、口津村の松倉藩の倉庫にあった物品の中で、もっとも数が多かった物はお米で五千石です。 |
JCRRAG_018094 | 歴史 | その時、二条城には幕府の部下の遊撃隊、新選組、見廻り組、津や大垣の兵などが集まっていたが、朝廷の処置に怒りが止まず、またデマが広がって、今にも薩長の兵が二条城を来襲して来るというので、城壁に銃を撃つための銃眼を穿ち始めるというさわぎである。
徳川慶喜は、このまま京都に滞在していてはいかなる事変が突然起こってしまうかも知れないと思ったらしく、激昂する部下をなだめながら、閣老や参政、会津藩や桑名藩の武士を率いて、大阪へ下ったのである。
この大阪への進軍に対して、朝廷側では大阪の要所を占拠し、軍艦をもって海路を断って、薩摩と長州を苦しめるためだろうと疑う者もおり、一大決戦は避けられないんじゃないかという力説する者もあり、大阪城の中においては、会津と桑名の二藩の激昂はなお止まなかった。
形勢に見通しが立たない事を憂いた尾張藩、越前藩、土佐藩は、慶喜が大阪にいては、いよいよ朝廷と幕府の間が離れるばかりだから、もう一度上京したらどうかと勧めたが、幕府側の識者は今上京するなど、最も不利であるとした。上京するなら君主側にいる悪人を除くという意味で、兵力を率いて、上京した方がいいという。その賛成者がだんだん多くなって行く。
その時、江戸では、薩摩系の浪士が、乱暴を働いて、西丸に放火したらしいという疑いさえ出て、ついに三田にある薩摩藩の江戸藩邸が焼払いとなった。このニュースが大阪城に達すると、激昂していた人達の心の火に更に油をかけられるわけで、温健な徳川慶喜も、ついに薩摩を討つという表を作って、上洛することを決心した。
慶応四年の一月三日である。むろん、これより先、伏見、鳥羽、淀には幕府の兵を配置していた訳なので、まず彼らに進軍を命じた。
維新の原動力とする連中には、武力的に幕府をやっつけないと、災いの原因を残す憂いがあると信じていたから、わざわざ幕府を怒らせるように、仕向けた点もあったわけである。江戸における浪士の暴動など、西郷隆盛の密命によって、益満休之助などが、動いていたことになっているが、しかしこうした事は、文書など残っているわけでないから、いつまでも歴史上の謎として、残るであろう。
徳川慶喜の上洛は、尾張藩越前藩の両侯から上洛を勧められたからというのは、表面の口実で、本当は討薩の表を奉って、京都から薩摩と長州の勢力を駆逐するつもりであったのであろう。 | 慶喜にもう一度上京したらどうかと勧めた藩の数を教えてください。 | 慶喜にもう一度上京したらどうかと勧めた藩の数は3で、
「尾張藩」
「越前藩」
「土佐藩」
です。 |
JCRRAG_018095 | 歴史 | ローマ帝国の支配と活動
ローマは都市を通して属州を支配しました。
都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。
他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。
全自由人の市民化
212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。
帝国の瓦解
五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。
3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。
また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。
農奴制の先駆
軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。
大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。
この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。
コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。
上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。
コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。
歴史・地理地理観光ガイド
リウィウス
歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | タキトゥスとストラボンの違いを説明して下さい。 | タキトゥスはゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物ですが、
一方、ストラボンは当時知られていた全世界の地誌を記述した人物です。 |
JCRRAG_018096 | 歴史 | 江戸幕府12代将軍は、徳川家慶です。
徳川家慶は、1841年(天保12年)に徳川家斉が死去すると、大御所時代の側近らを罷免。差し迫った問題として、幕府の財政と海防に重点を置き、様々な改革を行なわなければならない状況を、老中「水野忠邦」(みずのただくに)に任せることにしました。
徳川家慶には、14男13女の子供達がいましたが、次代将軍となる「徳川家定」(とくがわいえさだ)を除く、すべての子供が20歳を前に亡くなっています。
徳川家定は、徳川家慶の四男として、側室「お美津の方」(おみつのかた)との間に生まれました。
幼少の頃から病弱で内向的であり、人前に出ることを嫌っていたと言います。
また、一説では脳性麻痺を持っていたとも。自分で料理をして食べるのが好きで、そのときは家臣達にも作った料理を分け与えていたとも言われています。
徳川家慶にとっての心配ごとは、幕政のみにとどまりませんでした。徳川家慶の嗣子は徳川家定のみでしたが、徳川家定は病弱で気も弱かったため、日本に迫る列強諸国のことを考えると、将軍として役目を果たせるか不安に思っていたのです。
徳川家慶が次期将軍に推したのが、のちの15代将軍となる「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)。徳川慶喜は、1837年(天保8年)、水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男として生まれ、幼少の頃から才覚にあふれていました。徳川家慶は徳川慶喜の聡明さを見抜き、次期将軍とするため徳川慶喜に「御三卿」(ごさんきょう)のひとつである「一橋家」(ひとつばしけ)を相続させます。
しかし、継嗣は将軍の嫡子を優先するべきという、阿部正弘をはじめとする老中らの諫言により断念しましたが、徳川慶喜のことが気に入っていた徳川家慶は、度々一橋邸を訪問したと言われています。 | 江戸幕府12代将軍には、男女それぞれ何人の子供がいたか。 | 江戸幕府12代将軍には、14男13女の子供がいた。 |
JCRRAG_018097 | 歴史 | 天草から島原へ軍を引き返した天草四郎時貞は島原城と富岡城を攻めたあぐねていた所に幕府軍が近づいたので「こうなったら何処かを要害城にして持久戦に持ち込むしかない」と決めた。
口津村の甚右衛門は、かつて有馬氏の治政していた時代にあった古い城である原城を拠点にしようと提案し、みんなが賛同したからこの古い城である原城を修復して立て籠もる事になった。
口津村の松倉藩の倉庫にあったお米五千石、銃二千丁、弓百本はすべて一揆達によって奪い去られた。
幕府の命を受けた使いが有江村の陣に到着した十二月八日には、原城は準備がすっかり整っていたのである。
城の総大将はもちろん天草四郎時貞であるが、その下に作戦指揮官として元有馬家の家臣だった蘆塚忠兵衛年、松島半之丞、松倉家の家中の医師有家久意、相津玄察、布津の太右衛門、参謀本部を構成して、益田好次、赤星主膳、有江休意、相津宗印以下十数名の浪士が作戦会議担当することになった。
監視役には森宗意、蜷川左京、その他、弓奉行、鉄砲奉行、使番など数十名の浪士が役割を与えられた。
加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜などの十数か所の村、庄屋達三十数名が「物頭役」として十の軍に分けられ、総勢二万七千、老若男女を合せると三万を越す人数が島原軍となった。
幕府によって集められた幕府軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして各地の大名が兵を出して、城中にいる一揆勢と比較して十万にもなった。 | 一揆が奪い去った、口津村の松倉藩の倉庫にあった物品の中で、もっとも数が少なかった物を教えてください。 | 一揆が奪い去った、口津村の松倉藩の倉庫にあった物品の中で、もっとも数が少なかった物は弓で百本です。 |
JCRRAG_018098 | 歴史 | その時、二条城には幕府の部下の遊撃隊、新選組、見廻り組、津や大垣の兵などが集まっていたが、朝廷の処置に怒りが止まず、またデマが広がって、今にも薩長の兵が二条城を来襲して来るというので、城壁に銃を撃つための銃眼を穿ち始めるというさわぎである。
徳川慶喜は、このまま京都に滞在していてはいかなる事変が突然起こってしまうかも知れないと思ったらしく、激昂する部下をなだめながら、閣老や参政、会津藩や桑名藩の武士を率いて、大阪へ下ったのである。
この大阪への進軍に対して、朝廷側では大阪の要所を占拠し、軍艦をもって海路を断って、薩摩と長州を苦しめるためだろうと疑う者もおり、一大決戦は避けられないんじゃないかという力説する者もあり、大阪城の中においては、会津と桑名の二藩の激昂はなお止まなかった。
形勢に見通しが立たない事を憂いた尾張藩、越前藩、土佐藩は、慶喜が大阪にいては、いよいよ朝廷と幕府の間が離れるばかりだから、もう一度上京したらどうかと勧めたが、幕府側の識者は今上京するなど、最も不利であるとした。上京するなら君主側にいる悪人を除くという意味で、兵力を率いて、上京した方がいいという。その賛成者がだんだん多くなって行く。
その時、江戸では、薩摩系の浪士が、乱暴を働いて、西丸に放火したらしいという疑いさえ出て、ついに三田にある薩摩藩の江戸藩邸が焼払いとなった。このニュースが大阪城に達すると、激昂していた人達の心の火に更に油をかけられるわけで、温健な徳川慶喜も、ついに薩摩を討つという表を作って、上洛することを決心した。
慶応四年の一月三日である。むろん、これより先、伏見、鳥羽、淀には幕府の兵を配置していた訳なので、まず彼らに進軍を命じた。
維新の原動力とする連中には、武力的に幕府をやっつけないと、災いの原因を残す憂いがあると信じていたから、わざわざ幕府を怒らせるように、仕向けた点もあったわけである。江戸における浪士の暴動など、西郷隆盛の密命によって、益満休之助などが、動いていたことになっているが、しかしこうした事は、文書など残っているわけでないから、いつまでも歴史上の謎として、残るであろう。
徳川慶喜の上洛は、尾張藩越前藩の両侯から上洛を勧められたからというのは、表面の口実で、本当は討薩の表を奉って、京都から薩摩と長州の勢力を駆逐するつもりであったのであろう。 | 慶応四年の一月三日に薩摩を討つことになったが、これより先に幕府の兵を配置していた場所の数を教えてください。 | 慶応四年の一月三日に薩摩を討つことになったが、これより先に幕府の兵を配置していた場所の数は3で、
「伏見」
「鳥羽」
「淀」
です。 |
JCRRAG_018099 | 歴史 | ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。
ローマの文化
言語
土木・建築
法
暦
ラテン文学
歴史・地理
哲学・思想
自然科学
キリスト教思想
キリスト教
キリスト教の成立
ローマの属州となったパレスチナでは、ユダヤ教祭司や利法の実行を重んじるパリサイ派が、 ユダヤ人を支配する層として存在しました。
彼ら支配層は、貧困に苦しむ民衆の声に応えようとしませんでした。
イエスは、祭司やパリサイ派を批判し、貧富の区別ない神の愛を説きました。
民衆はイエスを救世主(メシア)と信じて彼の教えに従いました。
ユダヤ教祭司やパリサイ派がイエスをローマに対する反逆者として訴えたため、イエスは処刑されました(30年頃)。
弟子たちはイエスの復活と贖罪を信じ、この信仰を中心にキリスト教が成立しました。
メシア
この語のギリシア語訳が「キリスト」
キリスト教の教典
『旧約聖書』と、コイネーというギリシア語で記された『新約聖書』
伝道活動
ペテロやパウロなどの使徒によって伝道活動が始まりました。
特にパウロは、神の愛がユダヤ人以外の民族にも及ぶとして、パレスチナ以外の地域にもキリスト教を布教しました。
迫害から国教化へ
ローマの宗教は多神教で、皇帝も神の一人とされました。
皇帝崇拝が強化されると、唯一絶対神を信じるキリスト教徒は反社会集団とされました。
64年のネロ帝による迫害や303年のディオクレティアヌス帝による迫害が有名です。
迫害の一方でキリスト教は拡大を続け、信仰を禁止すれば帝国の維持ができない状況となりました。
次のようにキリスト教の扱いが変化しました。
313年、ミラノ勅令
コンスタンティヌス帝がキリスト教信仰を公認した勅令
325年、ニケーア公会議
キリストを神と同一視するアタナシウス派が正統教義とされ、キリストを人間とするアリウス派が異端とされた会議
アタナシウス派
後に神・キリスト・聖霊を同一視する三位一体説を確立
392年、テオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教を国教としました(他宗教は厳禁)。
キリスト教が国家権力と結びつくと、聖職者身分が成立し、教会の組織化が進みました。
アリウス派
異端とされ、北方のゲルマン人に普及
ネストリウス派
431年のエフェソス公会議で異端とされたが、唐代の中国に伝わり、景教と呼称
歴史・地理地理観光ガイド
タキトゥス
ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物
プルタルコス
ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物
ストラボン
当時知られていた全世界の地誌を記述した人物
哲学・思想
キケロ
優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人
中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場
自然科学
プリニウス
百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物
プトレマイオス
地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物
キリスト教思想
『新約聖書』
『旧約聖書』とともにキリスト教の教典
アウグスティヌス
神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物 | タキトゥスとキケロの違いを説明して下さい。 | タキトゥスはゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物ですが、
一方、キケロは優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立です。 |
JCRRAG_018100 | 歴史 | 江戸幕府12代将軍は、徳川家慶です。
徳川家慶は、1841年(天保12年)に徳川家斉が死去すると、大御所時代の側近らを罷免。差し迫った問題として、幕府の財政と海防に重点を置き、様々な改革を行なわなければならない状況を、老中「水野忠邦」(みずのただくに)に任せることにしました。
徳川家慶には、14男13女の子供達がいましたが、次代将軍となる「徳川家定」(とくがわいえさだ)を除く、すべての子供が20歳を前に亡くなっています。
徳川家定は、徳川家慶の四男として、側室「お美津の方」(おみつのかた)との間に生まれました。
幼少の頃から病弱で内向的であり、人前に出ることを嫌っていたと言います。
また、一説では脳性麻痺を持っていたとも。自分で料理をして食べるのが好きで、そのときは家臣達にも作った料理を分け与えていたとも言われています。
徳川家慶にとっての心配ごとは、幕政のみにとどまりませんでした。徳川家慶の嗣子は徳川家定のみでしたが、徳川家定は病弱で気も弱かったため、日本に迫る列強諸国のことを考えると、将軍として役目を果たせるか不安に思っていたのです。
徳川家慶が次期将軍に推したのが、のちの15代将軍となる「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)。徳川慶喜は、1837年(天保8年)、水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男として生まれ、幼少の頃から才覚にあふれていました。徳川家慶は徳川慶喜の聡明さを見抜き、次期将軍とするため徳川慶喜に「御三卿」(ごさんきょう)のひとつである「一橋家」(ひとつばしけ)を相続させます。
しかし、継嗣は将軍の嫡子を優先するべきという、阿部正弘をはじめとする老中らの諫言により断念しましたが、徳川慶喜のことが気に入っていた徳川家慶は、度々一橋邸を訪問したと言われています。 | 江戸幕府12代将軍が次期将軍に推したのは誰か。 | 江戸幕府12代将軍が次期将軍に推したのは、徳川慶喜である。 |
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