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JCRRAG_018101
歴史
天草から島原へ軍を引き返した天草四郎時貞は島原城と富岡城を攻めたあぐねていた所に幕府軍が近づいたので「こうなったら何処かを要害城にして持久戦に持ち込むしかない」と決めた。 口津村の甚右衛門は、かつて有馬氏の治政していた時代にあった古い城である原城を拠点にしようと提案し、みんなが賛同したからこの古い城である原城を修復して立て籠もる事になった。 口津村の松倉藩の倉庫にあったお米五千石、銃二千丁、弓百本はすべて一揆達によって奪い去られた。 幕府の命を受けた使いが有江村の陣に到着した十二月八日には、原城は準備がすっかり整っていたのである。 城の総大将はもちろん天草四郎時貞であるが、その下に作戦指揮官として元有馬家の家臣だった蘆塚忠兵衛年、松島半之丞、松倉家の家中の医師有家久意、相津玄察、布津の太右衛門、参謀本部を構成して、益田好次、赤星主膳、有江休意、相津宗印以下十数名の浪士が作戦会議担当することになった。 監視役には森宗意、蜷川左京、その他、弓奉行、鉄砲奉行、使番など数十名の浪士が役割を与えられた。 加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜などの十数か所の村、庄屋達三十数名が「物頭役」として十の軍に分けられ、総勢二万七千、老若男女を合せると三万を越す人数が島原軍となった。 幕府によって集められた幕府軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして各地の大名が兵を出して、城中にいる一揆勢と比較して十万にもなった。
島原軍と幕府軍の軍勢を比較して、数が多いほうを教えてください。
島原軍と幕府軍の軍勢を比較して、数が多いほうは幕府軍で十万です。
JCRRAG_018102
歴史
全軍三万と称したが、ほんとうは一万三四千人であったであろう。 幕軍の中心は、フランス伝習隊で、訓練もされており銃器も精鋭であった。それに、会津、桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。 京軍の方は、毛利内匠、山田市之丞、交野十郎の率いた八百の長軍、伊知地正治、野津七左衛門の率いた薩軍が主力で、それに屋張、越前、芸州等、勤王諸藩の兵が加わって一万足らずであったであろう。 幕軍は、伏見鳥羽の両道より進んだ。まだ、ハッキリ交戦状態でないのだから、威圧的に関門を突破して京都へ入るつもりであったのかも知れない。 鳥羽街道は、大目付滝川播磨守が先鋒となり京町奉行の組与力同心を引き連れていた。人数も、わずかに数人で、籠手やすね当てを付けて、手槍を持ち、小銃を持っているものは、わずかに数人で、大砲は一門もなかった。 鳥羽街道は、むかしの羅生門に通じる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に駐屯していた薩摩の兵が鳥羽街道を下って来るのとぶつかった。両方とも殺気立っているが、まだ戦争ではない。幕軍の方で、「徳川殿が上洛している、我々は前衛である」 といったが、藩の兵は「我々の方は、未だその命令がなければ通す事はできない」という。再三、押し問答の上、薩摩の兵の方では、「ならば、御所へ聞いてくるからしばらく待ってくれよ」という事になったので、滝川播磨守は、土地の豪家村岡某の家に入り休息していると、薩長の兵はいつの間にか村岡の家を包囲し、石橋の上には大砲二門を引き連れ、今にも発砲しそうな雰囲気を出したので、播磨守は形勢が悪くなる事を察して、引き退いた。 午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は、薩摩兵と中島、東池の辺で出会った。 桑名藩より、徳川殿がこのたび勅命により召寄せられる事により、先手の者は上京する由を告げたが、薩兵は聴かず、問答を重ねるうちに、薩州が突然に大砲を打ち出したが、最初の一発で桑名の兵が十数人も倒された。これが鳥羽伏見の戦いの最初の砲火である。両軍は銃火を交えて戦ったが、幕軍は行軍のままの隊形だったし、小銃が少なかったから、薩長に打ちすくめられて、死傷者がすこぶる多かった。 幕軍が下鳥羽まで退却して、夜の十時近く夜食を喰っているところを、京軍が更に夜襲して、一大激戦となったが、幕軍は再び敗れて退いた。だが、京軍の方でも、市木、大山、後藤等の諸将が倒れた。 伏見口の方には、最初から新選組が幕軍の前衛として、駐屯していた。 慶喜が二条城を去った後、永井玄蕃頭が二条城を預かり、大場一心斎の配下の水戸藩の兵二百人と、新選組百五十人が守備に回っていたが、大場は元来、勤王思想があって薩長と共鳴している様子があるので、近藤勇は憤慨して、十七日に二条を去って伏見に行って、その地の奉行所の衛兵と合同で警備の任に就いた。
幕軍の中心はフランス伝習隊だったが、そこに加わった藩の所在地域による分類の数を教えてください。
幕軍の中心はフランス伝習隊だったが、そこに加わった藩の所在地域による分類の数は5で、 「会津」、「桑名」、「松山」、「高松」、「浜田」です。
JCRRAG_018103
歴史
ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 土木・建築 法 暦 ラテン文学 歴史・地理 哲学・思想 自然科学 キリスト教思想 キリスト教 キリスト教の成立 ローマの属州となったパレスチナでは、ユダヤ教祭司や利法の実行を重んじるパリサイ派が、 ユダヤ人を支配する層として存在しました。 彼ら支配層は、貧困に苦しむ民衆の声に応えようとしませんでした。 イエスは、祭司やパリサイ派を批判し、貧富の区別ない神の愛を説きました。 民衆はイエスを救世主(メシア)と信じて彼の教えに従いました。 ユダヤ教祭司やパリサイ派がイエスをローマに対する反逆者として訴えたため、イエスは処刑されました(30年頃)。 弟子たちはイエスの復活と贖罪を信じ、この信仰を中心にキリスト教が成立しました。 メシア この語のギリシア語訳が「キリスト」 キリスト教の教典 『旧約聖書』と、コイネーというギリシア語で記された『新約聖書』 伝道活動 ペテロやパウロなどの使徒によって伝道活動が始まりました。 特にパウロは、神の愛がユダヤ人以外の民族にも及ぶとして、パレスチナ以外の地域にもキリスト教を布教しました。 迫害から国教化へ ローマの宗教は多神教で、皇帝も神の一人とされました。 皇帝崇拝が強化されると、唯一絶対神を信じるキリスト教徒は反社会集団とされました。 64年のネロ帝による迫害や303年のディオクレティアヌス帝による迫害が有名です。 迫害の一方でキリスト教は拡大を続け、信仰を禁止すれば帝国の維持ができない状況となりました。 次のようにキリスト教の扱いが変化しました。 313年、ミラノ勅令 コンスタンティヌス帝がキリスト教信仰を公認した勅令 325年、ニケーア公会議 キリストを神と同一視するアタナシウス派が正統教義とされ、キリストを人間とするアリウス派が異端とされた会議 アタナシウス派 後に神・キリスト・聖霊を同一視する三位一体説を確立 392年、テオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教を国教としました(他宗教は厳禁)。 キリスト教が国家権力と結びつくと、聖職者身分が成立し、教会の組織化が進みました。 アリウス派 異端とされ、北方のゲルマン人に普及 ネストリウス派 431年のエフェソス公会議で異端とされたが、唐代の中国に伝わり、景教と呼称 歴史・地理地理観光ガイド タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
タキトゥスとマルクス=アウレリウス=アントニヌスの違いを説明して下さい。
タキトゥスはゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物ですが、 一方、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人で中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場しました。
JCRRAG_018104
歴史
江戸幕府12代将軍は、徳川家慶です。 徳川家慶は、1841年(天保12年)に徳川家斉が死去すると、大御所時代の側近らを罷免。差し迫った問題として、幕府の財政と海防に重点を置き、様々な改革を行なわなければならない状況を、老中「水野忠邦」(みずのただくに)に任せることにしました。 徳川家慶には、14男13女の子供達がいましたが、次代将軍となる「徳川家定」(とくがわいえさだ)を除く、すべての子供が20歳を前に亡くなっています。 徳川家定は、徳川家慶の四男として、側室「お美津の方」(おみつのかた)との間に生まれました。 幼少の頃から病弱で内向的であり、人前に出ることを嫌っていたと言います。 また、一説では脳性麻痺を持っていたとも。自分で料理をして食べるのが好きで、そのときは家臣達にも作った料理を分け与えていたとも言われています。 徳川家慶にとっての心配ごとは、幕政のみにとどまりませんでした。徳川家慶の嗣子は徳川家定のみでしたが、徳川家定は病弱で気も弱かったため、日本に迫る列強諸国のことを考えると、将軍として役目を果たせるか不安に思っていたのです。 徳川家慶が次期将軍に推したのが、のちの15代将軍となる「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)。徳川慶喜は、1837年(天保8年)、水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男として生まれ、幼少の頃から才覚にあふれていました。徳川家慶は徳川慶喜の聡明さを見抜き、次期将軍とするため徳川慶喜に「御三卿」(ごさんきょう)のひとつである「一橋家」(ひとつばしけ)を相続させます。 しかし、継嗣は将軍の嫡子を優先するべきという、阿部正弘をはじめとする老中らの諫言により断念しましたが、徳川慶喜のことが気に入っていた徳川家慶は、度々一橋邸を訪問したと言われています。
江戸幕府12代将軍は、徳川慶喜を次期将軍とするため、慶喜に何をさせたか。
江戸幕府12代将軍は、徳川慶喜を次期将軍とするため、御三卿のひとつである一橋家を相続させた。
JCRRAG_018105
歴史
天草から島原へ軍を引き返した天草四郎時貞は島原城と富岡城を攻めたあぐねていた所に幕府軍が近づいたので「こうなったら何処かを要害城にして持久戦に持ち込むしかない」と決めた。 口津村の甚右衛門は、かつて有馬氏の治政していた時代にあった古い城である原城を拠点にしようと提案し、みんなが賛同したからこの古い城である原城を修復して立て籠もる事になった。 口津村の松倉藩の倉庫にあったお米五千石、銃二千丁、弓百本はすべて一揆達によって奪い去られた。 幕府の命を受けた使いが有江村の陣に到着した十二月八日には、原城は準備がすっかり整っていたのである。 城の総大将はもちろん天草四郎時貞であるが、その下に作戦指揮官として元有馬家の家臣だった蘆塚忠兵衛年、松島半之丞、松倉家の家中の医師有家久意、相津玄察、布津の太右衛門、参謀本部を構成して、益田好次、赤星主膳、有江休意、相津宗印以下十数名の浪士が作戦会議担当することになった。 監視役には森宗意、蜷川左京、その他、弓奉行、鉄砲奉行、使番など数十名の浪士が役割を与えられた。 加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜などの十数か所の村、庄屋達三十数名が「物頭役」として十の軍に分けられ、総勢二万七千、老若男女を合せると三万を越す人数が島原軍となった。 幕府によって集められた幕府軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして各地の大名が兵を出して、城中にいる一揆勢と比較して十万にもなった。
島原軍と幕府軍の軍勢を比較して、数が少ないほうを教えてください。
島原軍と幕府軍の軍勢を比較して、数が少ないほうは島原軍で三万です。
JCRRAG_018106
歴史
全軍三万と称したが、ほんとうは一万三四千人であったであろう。 幕軍の中心は、フランス伝習隊で、訓練もされており銃器も精鋭であった。それに、会津、桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。 京軍の方は、毛利内匠、山田市之丞、交野十郎の率いた八百の長軍、伊知地正治、野津七左衛門の率いた薩軍が主力で、それに屋張、越前、芸州等、勤王諸藩の兵が加わって一万足らずであったであろう。 幕軍は、伏見鳥羽の両道より進んだ。まだ、ハッキリ交戦状態でないのだから、威圧的に関門を突破して京都へ入るつもりであったのかも知れない。 鳥羽街道は、大目付滝川播磨守が先鋒となり京町奉行の組与力同心を引き連れていた。人数も、わずかに数人で、籠手やすね当てを付けて、手槍を持ち、小銃を持っているものは、わずかに数人で、大砲は一門もなかった。 鳥羽街道は、むかしの羅生門に通じる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に駐屯していた薩摩の兵が鳥羽街道を下って来るのとぶつかった。両方とも殺気立っているが、まだ戦争ではない。幕軍の方で、「徳川殿が上洛している、我々は前衛である」 といったが、藩の兵は「我々の方は、未だその命令がなければ通す事はできない」という。再三、押し問答の上、薩摩の兵の方では、「ならば、御所へ聞いてくるからしばらく待ってくれよ」という事になったので、滝川播磨守は、土地の豪家村岡某の家に入り休息していると、薩長の兵はいつの間にか村岡の家を包囲し、石橋の上には大砲二門を引き連れ、今にも発砲しそうな雰囲気を出したので、播磨守は形勢が悪くなる事を察して、引き退いた。 午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は、薩摩兵と中島、東池の辺で出会った。 桑名藩より、徳川殿がこのたび勅命により召寄せられる事により、先手の者は上京する由を告げたが、薩兵は聴かず、問答を重ねるうちに、薩州が突然に大砲を打ち出したが、最初の一発で桑名の兵が十数人も倒された。これが鳥羽伏見の戦いの最初の砲火である。両軍は銃火を交えて戦ったが、幕軍は行軍のままの隊形だったし、小銃が少なかったから、薩長に打ちすくめられて、死傷者がすこぶる多かった。 幕軍が下鳥羽まで退却して、夜の十時近く夜食を喰っているところを、京軍が更に夜襲して、一大激戦となったが、幕軍は再び敗れて退いた。だが、京軍の方でも、市木、大山、後藤等の諸将が倒れた。 伏見口の方には、最初から新選組が幕軍の前衛として、駐屯していた。 慶喜が二条城を去った後、永井玄蕃頭が二条城を預かり、大場一心斎の配下の水戸藩の兵二百人と、新選組百五十人が守備に回っていたが、大場は元来、勤王思想があって薩長と共鳴している様子があるので、近藤勇は憤慨して、十七日に二条を去って伏見に行って、その地の奉行所の衛兵と合同で警備の任に就いた。
京軍において八百の長軍を率いた人物の数を教えてください。
京軍において八百の長軍を率いた人物の数は3人で、 「毛利内匠」 「山田市之丞」 「交野十郎」 です。
JCRRAG_018107
歴史
ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 土木・建築 法 暦 ラテン文学 歴史・地理 哲学・思想 自然科学 キリスト教思想 キリスト教 キリスト教の成立 ローマの属州となったパレスチナでは、ユダヤ教祭司や利法の実行を重んじるパリサイ派が、 ユダヤ人を支配する層として存在しました。 彼ら支配層は、貧困に苦しむ民衆の声に応えようとしませんでした。 イエスは、祭司やパリサイ派を批判し、貧富の区別ない神の愛を説きました。 民衆はイエスを救世主(メシア)と信じて彼の教えに従いました。 ユダヤ教祭司やパリサイ派がイエスをローマに対する反逆者として訴えたため、イエスは処刑されました(30年頃)。 弟子たちはイエスの復活と贖罪を信じ、この信仰を中心にキリスト教が成立しました。 メシア この語のギリシア語訳が「キリスト」 キリスト教の教典 『旧約聖書』と、コイネーというギリシア語で記された『新約聖書』 伝道活動 ペテロやパウロなどの使徒によって伝道活動が始まりました。 特にパウロは、神の愛がユダヤ人以外の民族にも及ぶとして、パレスチナ以外の地域にもキリスト教を布教しました。 迫害から国教化へ ローマの宗教は多神教で、皇帝も神の一人とされました。 皇帝崇拝が強化されると、唯一絶対神を信じるキリスト教徒は反社会集団とされました。 64年のネロ帝による迫害や303年のディオクレティアヌス帝による迫害が有名です。 迫害の一方でキリスト教は拡大を続け、信仰を禁止すれば帝国の維持ができない状況となりました。 次のようにキリスト教の扱いが変化しました。 313年、ミラノ勅令 コンスタンティヌス帝がキリスト教信仰を公認した勅令 325年、ニケーア公会議 キリストを神と同一視するアタナシウス派が正統教義とされ、キリストを人間とするアリウス派が異端とされた会議 アタナシウス派 後に神・キリスト・聖霊を同一視する三位一体説を確立 392年、テオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教を国教としました(他宗教は厳禁)。 キリスト教が国家権力と結びつくと、聖職者身分が成立し、教会の組織化が進みました。 アリウス派 異端とされ、北方のゲルマン人に普及 ネストリウス派 431年のエフェソス公会議で異端とされたが、唐代の中国に伝わり、景教と呼称 歴史・地理地理観光ガイド タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プルタルコスとストラボンの違いを説明して下さい。
プルタルコスはギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物ですが、 一方、ストラボンは当時知られていた全世界の地誌を記述した人物です。
JCRRAG_018108
歴史
江戸幕府12代将軍は、徳川家慶です。 徳川家慶は、その治世で「薩摩藩」(さつまはん)の「島津家」(しまづけ)に起こった継嗣問題「お由羅騒動」(おゆらそうどう)にも介入していました。 お由羅騒動とは、薩摩藩主「島津斉興」(しまづなりおき)の後継者を、嫡子「島津斉彬」(しまづなりあきら)にするか、側室の子「島津久光」(しまづひさみつ)にするかで起こったお家騒動です。 島津斉興の側室「お由羅の方」(おゆらのかた)は、自分の子供である島津久光が藩主になることを望んでおり、藩主である島津斉興や、家臣の多くも島津久光を藩主に推していたのです。 しかし、幕府老中・阿部正弘は、聡明な島津斉彬のことを高く評価しており、外国の事情にも詳しい島津斉彬の方が、今の時勢では藩主にふさわしいと考えました。島津斉彬が藩主にふさわしいと思っている者が多く、その考えを持つのは薩摩藩の若い藩士達にもいました。この若い藩士達のなかには、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)も含まれていました。 島津斉興が島津久光を次期藩主に指名してしまう前に、阿部正弘は島津斉興の隠居を命じるよう要請。徳川家慶はその願いを聞き入れ、島津斉興に隠居し、家督を島津斉彬に譲るよう取り計らいます。島津斉興も、将軍の命令とあっては断ることができず、隠居して藩主を島津斉彬に譲ることとなったのです。 薩摩藩重臣達の間では、島津久光を次期藩主にという流れができていたところでの介入となり、徳川家慶がこの騒動に関与しなければ、名君と名高い島津斉彬が薩摩藩主になることはなく、島津斉彬に見出された西郷隆盛や大久保利通の運命も変わっていたと言えます。 徳川家慶は自ら積極的に幕政を行なった訳ではありませんが、幕末の動乱期に活躍する、徳川慶喜や島津斉彬など重要な人物の手助けをしました。徳川家慶の政治力は高いとは言えませんでしたが、人物を見る目の確かさと、決断の早さには非凡なものがあったと言えます。現に、天保の改革で失敗した水野忠邦をすぐさま罷免し、若く実績の少ない阿部正弘を抜擢することは、なかなかできることではありません。上知令の撤回や三方領知替えの中止の決断も、徳川家慶がしたものです。 徳川家慶は、1853年(嘉永6年)の黒船来航の直後に死去。幕閣が黒船の対策に追われる中でのことでした。徳川家慶の心配の種であった息子・徳川家定は、13代将軍に任ぜられるも、父の懸念の通りその治世は長く続かず、5年という短い期間で死去しています。 そののち、最後の将軍となる15代将軍に、徳川家慶がその慧眼で見出した徳川慶喜が就任。江戸幕府は終わりを迎えることになります。明治維新・幕末の動乱の直前を生きた徳川家慶は、その最中で翻弄されつつも次の時代へとつなげたのです。父の徳川家斉とは確執があり、子の徳川家定の将来を心配した徳川家慶の人生は、父と子に悩まされた人生だったと言えます。
江戸幕府12代将軍は、その治世で薩摩藩の島津家に起こった何の問題に介入していたか。
江戸幕府12代将軍は、その治世で薩摩藩の島津家に起こった継嗣問題「お由羅騒動」にも介入していた。
JCRRAG_018109
歴史
"最初に幕府の命令を受けて板倉重昌がすぐに江戸を出発した時に、柳生但馬守宗矩はたまたま有馬玄頭邸で能楽を見物していたが、この話を耳にすると、席を外して外出し、馬に乗って重昌の後を追いかけた。 品川を駆け抜け川崎まで走ったがついに追い着く事が出来なかった。 日が暮れてしまったのでやむを得ず引き返した宗矩はそのまま将軍である徳川家光に謁見して「大至急使いを板倉重昌から変えて欲しい」とお願いした。 幕府の決定を覆すような事を言いだしたので、家光は非常に不機嫌になった。 何も言わず奥に引っ込んだが、夜中になっても宗矩は黙って座ったまま一向に動かない。 折れた家光は、ついに宗矩の話を聞くことにした。その時の宗矩の言い分はこうである。 「まずキリスト教徒達は深く教を信じています。自分の命を捨ててでも信仰は曲げません。武士の忠義と同じようなものです。 織田信長ほどの力をもった人間でも、本願寺の信徒、あるいは伊勢長島、三河の一向一揆に手を焼いたという事を思い出して欲しいのです。 たしかに板倉重昌は若い頃、大阪の陣で武功をあげた程の人物です。 百姓一揆なんて大したこと無いだろうと思っているでしょうがそれは大間違いです。 さらに板倉重昌は確かに素晴らしい人物ですが三河深溝藩に一万五千石ぽっちの小さい大名でしかありません。 恐らく細川藩の五十四万石、有馬藩の二十一万石、立花藩の十一万石などの九州の藩は、そんな少ない石高しか持っていない重昌の命令になんて従わないとおもいます。 結果戦が捗らず、更に新たに権威がある者が責任者としてやってきたら重昌の面目丸つぶれです。帰るに帰れないでしょう。 あなたは惜しい人材を一人殺したも同然だ」 理路整然とした忠告に、流石の家光も後悔したけれどもどうしようもなかった。 悲しい事に、宗矩の話した事はすべて的中したのであった。
板倉重昌の三河深溝藩と九州の藩を比較して、石高がもっとも少ない藩を教えてください。
板倉重昌の三河深溝藩と九州の藩を比較して、石高がもっとも少ない藩は三河深溝藩で一万五千石です。
JCRRAG_018110
歴史
全軍三万と称したが、ほんとうは一万三四千人であったであろう。 幕軍の中心は、フランス伝習隊で、訓練もされており銃器も精鋭であった。それに、会津、桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。 京軍の方は、毛利内匠、山田市之丞、交野十郎の率いた八百の長軍、伊知地正治、野津七左衛門の率いた薩軍が主力で、それに屋張、越前、芸州等、勤王諸藩の兵が加わって一万足らずであったであろう。 幕軍は、伏見鳥羽の両道より進んだ。まだ、ハッキリ交戦状態でないのだから、威圧的に関門を突破して京都へ入るつもりであったのかも知れない。 鳥羽街道は、大目付滝川播磨守が先鋒となり京町奉行の組与力同心を引き連れていた。人数も、わずかに数人で、籠手やすね当てを付けて、手槍を持ち、小銃を持っているものは、わずかに数人で、大砲は一門もなかった。 鳥羽街道は、むかしの羅生門に通じる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に駐屯していた薩摩の兵が鳥羽街道を下って来るのとぶつかった。両方とも殺気立っているが、まだ戦争ではない。幕軍の方で、「徳川殿が上洛している、我々は前衛である」 といったが、藩の兵は「我々の方は、未だその命令がなければ通す事はできない」という。再三、押し問答の上、薩摩の兵の方では、「ならば、御所へ聞いてくるからしばらく待ってくれよ」という事になったので、滝川播磨守は、土地の豪家村岡某の家に入り休息していると、薩長の兵はいつの間にか村岡の家を包囲し、石橋の上には大砲二門を引き連れ、今にも発砲しそうな雰囲気を出したので、播磨守は形勢が悪くなる事を察して、引き退いた。 午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は、薩摩兵と中島、東池の辺で出会った。 桑名藩より、徳川殿がこのたび勅命により召寄せられる事により、先手の者は上京する由を告げたが、薩兵は聴かず、問答を重ねるうちに、薩州が突然に大砲を打ち出したが、最初の一発で桑名の兵が十数人も倒された。これが鳥羽伏見の戦いの最初の砲火である。両軍は銃火を交えて戦ったが、幕軍は行軍のままの隊形だったし、小銃が少なかったから、薩長に打ちすくめられて、死傷者がすこぶる多かった。 幕軍が下鳥羽まで退却して、夜の十時近く夜食を喰っているところを、京軍が更に夜襲して、一大激戦となったが、幕軍は再び敗れて退いた。だが、京軍の方でも、市木、大山、後藤等の諸将が倒れた。 伏見口の方には、最初から新選組が幕軍の前衛として、駐屯していた。 慶喜が二条城を去った後、永井玄蕃頭が二条城を預かり、大場一心斎の配下の水戸藩の兵二百人と、新選組百五十人が守備に回っていたが、大場は元来、勤王思想があって薩長と共鳴している様子があるので、近藤勇は憤慨して、十七日に二条を去って伏見に行って、その地の奉行所の衛兵と合同で警備の任に就いた。
京軍において薩軍を率いた人物の数を教えてください。
京軍において薩軍を率いた人物の数は2で、 「伊知地正治」 「野津七左衛門」 です。
JCRRAG_018111
歴史
ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 土木・建築 法 暦 ラテン文学 歴史・地理 哲学・思想 自然科学 キリスト教思想 キリスト教 キリスト教の成立 ローマの属州となったパレスチナでは、ユダヤ教祭司や利法の実行を重んじるパリサイ派が、 ユダヤ人を支配する層として存在しました。 彼ら支配層は、貧困に苦しむ民衆の声に応えようとしませんでした。 イエスは、祭司やパリサイ派を批判し、貧富の区別ない神の愛を説きました。 民衆はイエスを救世主(メシア)と信じて彼の教えに従いました。 ユダヤ教祭司やパリサイ派がイエスをローマに対する反逆者として訴えたため、イエスは処刑されました(30年頃)。 弟子たちはイエスの復活と贖罪を信じ、この信仰を中心にキリスト教が成立しました。 メシア この語のギリシア語訳が「キリスト」 キリスト教の教典 『旧約聖書』と、コイネーというギリシア語で記された『新約聖書』 伝道活動 ペテロやパウロなどの使徒によって伝道活動が始まりました。 特にパウロは、神の愛がユダヤ人以外の民族にも及ぶとして、パレスチナ以外の地域にもキリスト教を布教しました。 迫害から国教化へ ローマの宗教は多神教で、皇帝も神の一人とされました。 皇帝崇拝が強化されると、唯一絶対神を信じるキリスト教徒は反社会集団とされました。 64年のネロ帝による迫害や303年のディオクレティアヌス帝による迫害が有名です。 迫害の一方でキリスト教は拡大を続け、信仰を禁止すれば帝国の維持ができない状況となりました。 次のようにキリスト教の扱いが変化しました。 313年、ミラノ勅令 コンスタンティヌス帝がキリスト教信仰を公認した勅令 325年、ニケーア公会議 キリストを神と同一視するアタナシウス派が正統教義とされ、キリストを人間とするアリウス派が異端とされた会議 アタナシウス派 後に神・キリスト・聖霊を同一視する三位一体説を確立 392年、テオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教を国教としました(他宗教は厳禁)。 キリスト教が国家権力と結びつくと、聖職者身分が成立し、教会の組織化が進みました。 アリウス派 異端とされ、北方のゲルマン人に普及 ネストリウス派 431年のエフェソス公会議で異端とされたが、唐代の中国に伝わり、景教と呼称 歴史・地理地理観光ガイド タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プルタルコスとキケロの違いを説明して下さい。
プルタルコスはギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物ですが、 一方、キケロは優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立です。
JCRRAG_018112
歴史
江戸幕府12代将軍は、徳川家慶です。 徳川家慶は、その治世で「薩摩藩」(さつまはん)の「島津家」(しまづけ)に起こった継嗣問題「お由羅騒動」(おゆらそうどう)にも介入していました。 お由羅騒動とは、薩摩藩主「島津斉興」(しまづなりおき)の後継者を、嫡子「島津斉彬」(しまづなりあきら)にするか、側室の子「島津久光」(しまづひさみつ)にするかで起こったお家騒動です。 島津斉興の側室「お由羅の方」(おゆらのかた)は、自分の子供である島津久光が藩主になることを望んでおり、藩主である島津斉興や、家臣の多くも島津久光を藩主に推していたのです。 しかし、幕府老中・阿部正弘は、聡明な島津斉彬のことを高く評価しており、外国の事情にも詳しい島津斉彬の方が、今の時勢では藩主にふさわしいと考えました。島津斉彬が藩主にふさわしいと思っている者が多く、その考えを持つのは薩摩藩の若い藩士達にもいました。この若い藩士達のなかには、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)も含まれていました。 島津斉興が島津久光を次期藩主に指名してしまう前に、阿部正弘は島津斉興の隠居を命じるよう要請。徳川家慶はその願いを聞き入れ、島津斉興に隠居し、家督を島津斉彬に譲るよう取り計らいます。島津斉興も、将軍の命令とあっては断ることができず、隠居して藩主を島津斉彬に譲ることとなったのです。 薩摩藩重臣達の間では、島津久光を次期藩主にという流れができていたところでの介入となり、徳川家慶がこの騒動に関与しなければ、名君と名高い島津斉彬が薩摩藩主になることはなく、島津斉彬に見出された西郷隆盛や大久保利通の運命も変わっていたと言えます。 徳川家慶は自ら積極的に幕政を行なった訳ではありませんが、幕末の動乱期に活躍する、徳川慶喜や島津斉彬など重要な人物の手助けをしました。徳川家慶の政治力は高いとは言えませんでしたが、人物を見る目の確かさと、決断の早さには非凡なものがあったと言えます。現に、天保の改革で失敗した水野忠邦をすぐさま罷免し、若く実績の少ない阿部正弘を抜擢することは、なかなかできることではありません。上知令の撤回や三方領知替えの中止の決断も、徳川家慶がしたものです。 徳川家慶は、1853年(嘉永6年)の黒船来航の直後に死去。幕閣が黒船の対策に追われる中でのことでした。徳川家慶の心配の種であった息子・徳川家定は、13代将軍に任ぜられるも、父の懸念の通りその治世は長く続かず、5年という短い期間で死去しています。 そののち、最後の将軍となる15代将軍に、徳川家慶がその慧眼で見出した徳川慶喜が就任。江戸幕府は終わりを迎えることになります。明治維新・幕末の動乱の直前を生きた徳川家慶は、その最中で翻弄されつつも次の時代へとつなげたのです。父の徳川家斉とは確執があり、子の徳川家定の将来を心配した徳川家慶の人生は、父と子に悩まされた人生だったと言えます。
江戸幕府12代将軍は、幕末の動乱期に活躍する誰の手助けをしたか。
江戸幕府12代将軍は、幕末の動乱期に活躍する、徳川慶喜や島津斉彬など重要な人物の手助けをした。
JCRRAG_018113
歴史
"最初に幕府の命令を受けて板倉重昌がすぐに江戸を出発した時に、柳生但馬守宗矩はたまたま有馬玄頭邸で能楽を見物していたが、この話を耳にすると、席を外して外出し、馬に乗って重昌の後を追いかけた。 品川を駆け抜け川崎まで走ったがついに追い着く事が出来なかった。 日が暮れてしまったのでやむを得ず引き返した宗矩はそのまま将軍である徳川家光に謁見して「大至急使いを板倉重昌から変えて欲しい」とお願いした。 幕府の決定を覆すような事を言いだしたので、家光は非常に不機嫌になった。 何も言わず奥に引っ込んだが、夜中になっても宗矩は黙って座ったまま一向に動かない。 折れた家光は、ついに宗矩の話を聞くことにした。その時の宗矩の言い分はこうである。 「まずキリスト教徒達は深く教を信じています。自分の命を捨ててでも信仰は曲げません。武士の忠義と同じようなものです。 織田信長ほどの力をもった人間でも、本願寺の信徒、あるいは伊勢長島、三河の一向一揆に手を焼いたという事を思い出して欲しいのです。 たしかに板倉重昌は若い頃、大阪の陣で武功をあげた程の人物です。 百姓一揆なんて大したこと無いだろうと思っているでしょうがそれは大間違いです。 さらに板倉重昌は確かに素晴らしい人物ですが三河深溝藩に一万五千石ぽっちの小さい大名でしかありません。 恐らく細川藩の五十四万石、有馬藩の二十一万石、立花藩の十一万石などの九州の藩は、そんな少ない石高しか持っていない重昌の命令になんて従わないとおもいます。 結果戦が捗らず、更に新たに権威がある者が責任者としてやってきたら重昌の面目丸つぶれです。帰るに帰れないでしょう。 あなたは惜しい人材を一人殺したも同然だ」 理路整然とした忠告に、流石の家光も後悔したけれどもどうしようもなかった。 悲しい事に、宗矩の話した事はすべて的中したのであった。
板倉重昌の三河深溝藩と九州の藩を比較して、石高がもっとも多い藩を教えてください。
板倉重昌の三河深溝藩と九州の藩を比較して、石高がもっとも多い藩は細川藩の五十四万石です。
JCRRAG_018114
歴史
全軍三万と称したが、ほんとうは一万三四千人であったであろう。 幕軍の中心は、フランス伝習隊で、訓練もされており銃器も精鋭であった。それに、会津、桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。 京軍の方は、毛利内匠、山田市之丞、交野十郎の率いた八百の長軍、伊知地正治、野津七左衛門の率いた薩軍が主力で、それに屋張、越前、芸州等、勤王諸藩の兵が加わって一万足らずであったであろう。 幕軍は、伏見鳥羽の両道より進んだ。まだ、ハッキリ交戦状態でないのだから、威圧的に関門を突破して京都へ入るつもりであったのかも知れない。 鳥羽街道は、大目付滝川播磨守が先鋒となり京町奉行の組与力同心を引き連れていた。人数も、わずかに数人で、籠手やすね当てを付けて、手槍を持ち、小銃を持っているものは、わずかに数人で、大砲は一門もなかった。 鳥羽街道は、むかしの羅生門に通じる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に駐屯していた薩摩の兵が鳥羽街道を下って来るのとぶつかった。両方とも殺気立っているが、まだ戦争ではない。幕軍の方で、「徳川殿が上洛している、我々は前衛である」 といったが、藩の兵は「我々の方は、未だその命令がなければ通す事はできない」という。再三、押し問答の上、薩摩の兵の方では、「ならば、御所へ聞いてくるからしばらく待ってくれよ」という事になったので、滝川播磨守は、土地の豪家村岡某の家に入り休息していると、薩長の兵はいつの間にか村岡の家を包囲し、石橋の上には大砲二門を引き連れ、今にも発砲しそうな雰囲気を出したので、播磨守は形勢が悪くなる事を察して、引き退いた。 午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は、薩摩兵と中島、東池の辺で出会った。 桑名藩より、徳川殿がこのたび勅命により召寄せられる事により、先手の者は上京する由を告げたが、薩兵は聴かず、問答を重ねるうちに、薩州が突然に大砲を打ち出したが、最初の一発で桑名の兵が十数人も倒された。これが鳥羽伏見の戦いの最初の砲火である。両軍は銃火を交えて戦ったが、幕軍は行軍のままの隊形だったし、小銃が少なかったから、薩長に打ちすくめられて、死傷者がすこぶる多かった。 幕軍が下鳥羽まで退却して、夜の十時近く夜食を喰っているところを、京軍が更に夜襲して、一大激戦となったが、幕軍は再び敗れて退いた。だが、京軍の方でも、市木、大山、後藤等の諸将が倒れた。 伏見口の方には、最初から新選組が幕軍の前衛として、駐屯していた。 慶喜が二条城を去った後、永井玄蕃頭が二条城を預かり、大場一心斎の配下の水戸藩の兵二百人と、新選組百五十人が守備に回っていたが、大場は元来、勤王思想があって薩長と共鳴している様子があるので、近藤勇は憤慨して、十七日に二条を去って伏見に行って、その地の奉行所の衛兵と合同で警備の任に就いた。
京軍において長軍や薩軍のほかに加わっていた勤王諸藩の兵の種類を教えてください。
京軍において長軍や薩軍のほかに加わっていた勤王諸藩の兵の種類の数は3で、 「屋張」 「越前」 「芸州」 です。
JCRRAG_018115
歴史
ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 土木・建築 法 暦 ラテン文学 歴史・地理 哲学・思想 自然科学 キリスト教思想 キリスト教 キリスト教の成立 ローマの属州となったパレスチナでは、ユダヤ教祭司や利法の実行を重んじるパリサイ派が、 ユダヤ人を支配する層として存在しました。 彼ら支配層は、貧困に苦しむ民衆の声に応えようとしませんでした。 イエスは、祭司やパリサイ派を批判し、貧富の区別ない神の愛を説きました。 民衆はイエスを救世主(メシア)と信じて彼の教えに従いました。 ユダヤ教祭司やパリサイ派がイエスをローマに対する反逆者として訴えたため、イエスは処刑されました(30年頃)。 弟子たちはイエスの復活と贖罪を信じ、この信仰を中心にキリスト教が成立しました。 メシア この語のギリシア語訳が「キリスト」 キリスト教の教典 『旧約聖書』と、コイネーというギリシア語で記された『新約聖書』 伝道活動 ペテロやパウロなどの使徒によって伝道活動が始まりました。 特にパウロは、神の愛がユダヤ人以外の民族にも及ぶとして、パレスチナ以外の地域にもキリスト教を布教しました。 迫害から国教化へ ローマの宗教は多神教で、皇帝も神の一人とされました。 皇帝崇拝が強化されると、唯一絶対神を信じるキリスト教徒は反社会集団とされました。 64年のネロ帝による迫害や303年のディオクレティアヌス帝による迫害が有名です。 迫害の一方でキリスト教は拡大を続け、信仰を禁止すれば帝国の維持ができない状況となりました。 次のようにキリスト教の扱いが変化しました。 313年、ミラノ勅令 コンスタンティヌス帝がキリスト教信仰を公認した勅令 325年、ニケーア公会議 キリストを神と同一視するアタナシウス派が正統教義とされ、キリストを人間とするアリウス派が異端とされた会議 アタナシウス派 後に神・キリスト・聖霊を同一視する三位一体説を確立 392年、テオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教を国教としました(他宗教は厳禁)。 キリスト教が国家権力と結びつくと、聖職者身分が成立し、教会の組織化が進みました。 アリウス派 異端とされ、北方のゲルマン人に普及 ネストリウス派 431年のエフェソス公会議で異端とされたが、唐代の中国に伝わり、景教と呼称 歴史・地理地理観光ガイド タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プルタルコスとマルクス=アウレリウス=アントニヌスの違いを説明して下さい。
プルタルコスはギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物ですが、 一方、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人で中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場しました。
JCRRAG_018116
歴史
江戸幕府12代将軍は、徳川家慶です。 徳川家慶は、その治世で「薩摩藩」(さつまはん)の「島津家」(しまづけ)に起こった継嗣問題「お由羅騒動」(おゆらそうどう)にも介入していました。 お由羅騒動とは、薩摩藩主「島津斉興」(しまづなりおき)の後継者を、嫡子「島津斉彬」(しまづなりあきら)にするか、側室の子「島津久光」(しまづひさみつ)にするかで起こったお家騒動です。 島津斉興の側室「お由羅の方」(おゆらのかた)は、自分の子供である島津久光が藩主になることを望んでおり、藩主である島津斉興や、家臣の多くも島津久光を藩主に推していたのです。 しかし、幕府老中・阿部正弘は、聡明な島津斉彬のことを高く評価しており、外国の事情にも詳しい島津斉彬の方が、今の時勢では藩主にふさわしいと考えました。島津斉彬が藩主にふさわしいと思っている者が多く、その考えを持つのは薩摩藩の若い藩士達にもいました。この若い藩士達のなかには、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)も含まれていました。 島津斉興が島津久光を次期藩主に指名してしまう前に、阿部正弘は島津斉興の隠居を命じるよう要請。徳川家慶はその願いを聞き入れ、島津斉興に隠居し、家督を島津斉彬に譲るよう取り計らいます。島津斉興も、将軍の命令とあっては断ることができず、隠居して藩主を島津斉彬に譲ることとなったのです。 薩摩藩重臣達の間では、島津久光を次期藩主にという流れができていたところでの介入となり、徳川家慶がこの騒動に関与しなければ、名君と名高い島津斉彬が薩摩藩主になることはなく、島津斉彬に見出された西郷隆盛や大久保利通の運命も変わっていたと言えます。 徳川家慶は自ら積極的に幕政を行なった訳ではありませんが、幕末の動乱期に活躍する、徳川慶喜や島津斉彬など重要な人物の手助けをしました。徳川家慶の政治力は高いとは言えませんでしたが、人物を見る目の確かさと、決断の早さには非凡なものがあったと言えます。現に、天保の改革で失敗した水野忠邦をすぐさま罷免し、若く実績の少ない阿部正弘を抜擢することは、なかなかできることではありません。上知令の撤回や三方領知替えの中止の決断も、徳川家慶がしたものです。 徳川家慶は、1853年(嘉永6年)の黒船来航の直後に死去。幕閣が黒船の対策に追われる中でのことでした。徳川家慶の心配の種であった息子・徳川家定は、13代将軍に任ぜられるも、父の懸念の通りその治世は長く続かず、5年という短い期間で死去しています。 そののち、最後の将軍となる15代将軍に、徳川家慶がその慧眼で見出した徳川慶喜が就任。江戸幕府は終わりを迎えることになります。明治維新・幕末の動乱の直前を生きた徳川家慶は、その最中で翻弄されつつも次の時代へとつなげたのです。父の徳川家斉とは確執があり、子の徳川家定の将来を心配した徳川家慶の人生は、父と子に悩まされた人生だったと言えます。
江戸幕府12代将軍の政治力は高いとは言えなかったが、どのようなところに非凡なものがあったか。
江戸幕府12代将軍の政治力は高いとは言えなかったが、人物を見る目の確かさと、決断の早さには非凡なものがあった。
JCRRAG_018117
歴史
松平信綱はさらに城の中にいる天草四郎の甥である小平を使って小左衛門の手紙を持たせて城内に入らせた。 その手紙の内容というのは、 一、幕府軍はもう二十万はいる。島原の軍は三万しかいないと聞いている。勝負は明らかだ。(中略)江戸からは、キリスト教徒達は殺さず生かして捕らえるように、無駄な戦闘は避けよ、柵の外で殺さず幕府のいう事を聞けと言われている。 一、(前略)城から逃げた者が三・四人いるが、殺さずに小判四枚と一朱銀を三つを渡して元の村に返して今年の農作業をさせるようにした(後略) 一、将軍の命によって(中略)キリスト教徒は、何才だろうと処刑する事になっている。(中略)無理矢理キリスト教徒にさせられた者は幕府として命は助けてやる(中略)もちろんキリスト教を捨てられない者は城に留まろうが討ち死にしようが好きにしてもよい。(後略) 一、天草四郎が大将だという事はわかっている。だが十五・六の年齢の子供がこんな人数を集めておおがかりな事ができるわけない。四郎の名を使って悪だくみをしているやつが他にいるんじゃないか?と思っている。もし本当にそういうことなら、天草四郎が大将であっても、投稿しても幕府は罪を許そうと考えている。 一、こんな事を書いて迷惑に思わないでください。幕府は一揆軍の誰であろうと城から出たいという意思も尊重するし、また城に戻って戦って死にたいと言っても受け入れる。(後略) 実に誠意が溢れているのがわかる手紙だった。 この手紙と同時に天草四郎の母と姉からも城中の甚兵衛や天草四郎に同じ内容の手紙を送っていた。 四郎の母は洗礼名を「マルタ」と呼んでおり、天草四郎が蜂起した事に対して、熊本藩によって捕まったのだが「母の為に恐れる事無く立派に戦え」と四郎へ言った程の強い女である。 しかしここに至っては肉親の情が湧いて手紙を書いてしまったのだろう。 この二つの手紙の返事はその日の内に城内から帰って来た。 その手紙には「知っての通り他の宗教を信じてる人間を無理にキリスト教徒にしてません。城内の皆は自分の命を天主に捧げる覚悟をもっています」 と書かれてあった。 実際に城を抜けた者は三万人前後の中で三人の男と一名の女に過ぎず、信仰の力は天下の勢を前にしてゆらぐことはなかった。 この後に信綱自ら天草四郎へ降伏すべきという内容の手紙を送ったが、天草四郎の返事には松倉氏がいかに人を苦しめている政治を行っているかを延々と訴え、信仰を変える難しさを告げ、 「みんな極楽浄土に行く事を疑いようがありません、今生きている中でただひたすら願うばかりです」と結んでいる。
松平信綱の手紙に書かれている、幕府軍と島原軍の数で多いほうを教えてください。
松平信綱の手紙に書かれている、幕府軍と島原軍の数で多いほうは幕府軍で二十万です。
JCRRAG_018118
歴史
全軍三万と称したが、ほんとうは一万三四千人であったであろう。 幕軍の中心は、フランス伝習隊で、訓練もされており銃器も精鋭であった。それに、会津、桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。 京軍の方は、毛利内匠、山田市之丞、交野十郎の率いた八百の長軍、伊知地正治、野津七左衛門の率いた薩軍が主力で、それに屋張、越前、芸州等、勤王諸藩の兵が加わって一万足らずであったであろう。 幕軍は、伏見鳥羽の両道より進んだ。まだ、ハッキリ交戦状態でないのだから、威圧的に関門を突破して京都へ入るつもりであったのかも知れない。 鳥羽街道は、大目付滝川播磨守が先鋒となり京町奉行の組与力同心を引き連れていた。人数も、わずかに数人で、籠手やすね当てを付けて、手槍を持ち、小銃を持っているものは、わずかに数人で、大砲は一門もなかった。 鳥羽街道は、むかしの羅生門に通じる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に駐屯していた薩摩の兵が鳥羽街道を下って来るのとぶつかった。両方とも殺気立っているが、まだ戦争ではない。幕軍の方で、「徳川殿が上洛している、我々は前衛である」 といったが、藩の兵は「我々の方は、未だその命令がなければ通す事はできない」という。再三、押し問答の上、薩摩の兵の方では、「ならば、御所へ聞いてくるからしばらく待ってくれよ」という事になったので、滝川播磨守は、土地の豪家村岡某の家に入り休息していると、薩長の兵はいつの間にか村岡の家を包囲し、石橋の上には大砲二門を引き連れ、今にも発砲しそうな雰囲気を出したので、播磨守は形勢が悪くなる事を察して、引き退いた。 午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は、薩摩兵と中島、東池の辺で出会った。 桑名藩より、徳川殿がこのたび勅命により召寄せられる事により、先手の者は上京する由を告げたが、薩兵は聴かず、問答を重ねるうちに、薩州が突然に大砲を打ち出したが、最初の一発で桑名の兵が十数人も倒された。これが鳥羽伏見の戦いの最初の砲火である。両軍は銃火を交えて戦ったが、幕軍は行軍のままの隊形だったし、小銃が少なかったから、薩長に打ちすくめられて、死傷者がすこぶる多かった。 幕軍が下鳥羽まで退却して、夜の十時近く夜食を喰っているところを、京軍が更に夜襲して、一大激戦となったが、幕軍は再び敗れて退いた。だが、京軍の方でも、市木、大山、後藤等の諸将が倒れた。 伏見口の方には、最初から新選組が幕軍の前衛として、駐屯していた。 慶喜が二条城を去った後、永井玄蕃頭が二条城を預かり、大場一心斎の配下の水戸藩の兵二百人と、新選組百五十人が守備に回っていたが、大場は元来、勤王思想があって薩長と共鳴している様子があるので、近藤勇は憤慨して、十七日に二条を去って伏見に行って、その地の奉行所の衛兵と合同で警備の任に就いた。
午後四時を過ぎる頃、鳥羽街道を圧して上って来た藩兵が属している藩の数を教えてください。
午後四時を過ぎる頃、鳥羽街道を圧して上って来た藩兵が属している藩の数は3で、「桑名」、「高松」、「松山」です。
JCRRAG_018119
歴史
ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 コンスタンティヌス帝の治世 テオドシウス帝の治世 西ローマ帝国の滅亡 キリスト教 キリスト教の成立 伝道活動 迫害から国教化へ ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。 四帝統治(テトラルキア) 帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治 専制君主政(ドミナトゥス) 皇帝を神として礼拝させ、専制君主化 コンスタンティヌス帝の治世 コンスタンティヌス帝は、迫害されてきたキリスト教を公認し、帝国の統一を図りました。 330年、古代ギリシアの植民都市ビザンティウムをコンスタンティノープルと改称し、ローマより遷都しました。 コンスタンティヌス帝 315年、ローマに凱旋門がいせんもん を建造 改革を支える重税は、あいつぐ属州の反乱を招きました。 375年に始まるゲルマン人の大移動で帝国は混乱に陥りました。 テオドシウス帝の治世 395年、テオドシウス帝は、帝国を東西に分割して2子に分け与えました。 東:ビザンツ帝国(首都コンスタンティノープル) 西:西ローマ帝国(首都ローマ) 西ローマ帝国の滅亡 476年、西ローマ帝国はゲルマン人のオドアケルによって滅ぼされました。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 歴史・地理地理観光ガイド ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
ストラボンとキケロの違いを説明して下さい。
ストラボンは当時知られていた全世界の地誌を記述した人物ですが、 一方、キケロは優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立です。
JCRRAG_018120
歴史
江戸幕府12代将軍は、徳川家慶です。 徳川家慶は、その治世で「薩摩藩」(さつまはん)の「島津家」(しまづけ)に起こった継嗣問題「お由羅騒動」(おゆらそうどう)にも介入していました。 お由羅騒動とは、薩摩藩主「島津斉興」(しまづなりおき)の後継者を、嫡子「島津斉彬」(しまづなりあきら)にするか、側室の子「島津久光」(しまづひさみつ)にするかで起こったお家騒動です。 島津斉興の側室「お由羅の方」(おゆらのかた)は、自分の子供である島津久光が藩主になることを望んでおり、藩主である島津斉興や、家臣の多くも島津久光を藩主に推していたのです。 しかし、幕府老中・阿部正弘は、聡明な島津斉彬のことを高く評価しており、外国の事情にも詳しい島津斉彬の方が、今の時勢では藩主にふさわしいと考えました。島津斉彬が藩主にふさわしいと思っている者が多く、その考えを持つのは薩摩藩の若い藩士達にもいました。この若い藩士達のなかには、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)も含まれていました。 島津斉興が島津久光を次期藩主に指名してしまう前に、阿部正弘は島津斉興の隠居を命じるよう要請。徳川家慶はその願いを聞き入れ、島津斉興に隠居し、家督を島津斉彬に譲るよう取り計らいます。島津斉興も、将軍の命令とあっては断ることができず、隠居して藩主を島津斉彬に譲ることとなったのです。 薩摩藩重臣達の間では、島津久光を次期藩主にという流れができていたところでの介入となり、徳川家慶がこの騒動に関与しなければ、名君と名高い島津斉彬が薩摩藩主になることはなく、島津斉彬に見出された西郷隆盛や大久保利通の運命も変わっていたと言えます。 徳川家慶は自ら積極的に幕政を行なった訳ではありませんが、幕末の動乱期に活躍する、徳川慶喜や島津斉彬など重要な人物の手助けをしました。徳川家慶の政治力は高いとは言えませんでしたが、人物を見る目の確かさと、決断の早さには非凡なものがあったと言えます。現に、天保の改革で失敗した水野忠邦をすぐさま罷免し、若く実績の少ない阿部正弘を抜擢することは、なかなかできることではありません。上知令の撤回や三方領知替えの中止の決断も、徳川家慶がしたものです。 徳川家慶は、1853年(嘉永6年)の黒船来航の直後に死去。幕閣が黒船の対策に追われる中でのことでした。徳川家慶の心配の種であった息子・徳川家定は、13代将軍に任ぜられるも、父の懸念の通りその治世は長く続かず、5年という短い期間で死去しています。 そののち、最後の将軍となる15代将軍に、徳川家慶がその慧眼で見出した徳川慶喜が就任。江戸幕府は終わりを迎えることになります。明治維新・幕末の動乱の直前を生きた徳川家慶は、その最中で翻弄されつつも次の時代へとつなげたのです。父の徳川家斉とは確執があり、子の徳川家定の将来を心配した徳川家慶の人生は、父と子に悩まされた人生だったと言えます。
江戸幕府12代将軍は、いつ死去したか。
江戸幕府12代将軍は、1853年(嘉永6年)の黒船来航の直後に死去した。
JCRRAG_018121
歴史
松平信綱はさらに城の中にいる天草四郎の甥である小平を使って小左衛門の手紙を持たせて城内に入らせた。 その手紙の内容というのは、 一、幕府軍はもう二十万はいる。島原の軍は三万しかいないと聞いている。勝負は明らかだ。(中略)江戸からは、キリスト教徒達は殺さず生かして捕らえるように、無駄な戦闘は避けよ、柵の外で殺さず幕府のいう事を聞けと言われている。 一、(前略)城から逃げた者が三・四人いるが、殺さずに小判四枚と一朱銀を三つを渡して元の村に返して今年の農作業をさせるようにした(後略) 一、将軍の命によって(中略)キリスト教徒は、何才だろうと処刑する事になっている。(中略)無理矢理キリスト教徒にさせられた者は幕府として命は助けてやる(中略)もちろんキリスト教を捨てられない者は城に留まろうが討ち死にしようが好きにしてもよい。(後略) 一、天草四郎が大将だという事はわかっている。だが十五・六の年齢の子供がこんな人数を集めておおがかりな事ができるわけない。四郎の名を使って悪だくみをしているやつが他にいるんじゃないか?と思っている。もし本当にそういうことなら、天草四郎が大将であっても、投稿しても幕府は罪を許そうと考えている。 一、こんな事を書いて迷惑に思わないでください。幕府は一揆軍の誰であろうと城から出たいという意思も尊重するし、また城に戻って戦って死にたいと言っても受け入れる。(後略) 実に誠意が溢れているのがわかる手紙だった。 この手紙と同時に天草四郎の母と姉からも城中の甚兵衛や天草四郎に同じ内容の手紙を送っていた。 四郎の母は洗礼名を「マルタ」と呼んでおり、天草四郎が蜂起した事に対して、熊本藩によって捕まったのだが「母の為に恐れる事無く立派に戦え」と四郎へ言った程の強い女である。 しかしここに至っては肉親の情が湧いて手紙を書いてしまったのだろう。 この二つの手紙の返事はその日の内に城内から帰って来た。 その手紙には「知っての通り他の宗教を信じてる人間を無理にキリスト教徒にしてません。城内の皆は自分の命を天主に捧げる覚悟をもっています」 と書かれてあった。 実際に城を抜けた者は三万人前後の中で三人の男と一名の女に過ぎず、信仰の力は天下の勢を前にしてゆらぐことはなかった。 この後に信綱自ら天草四郎へ降伏すべきという内容の手紙を送ったが、天草四郎の返事には松倉氏がいかに人を苦しめている政治を行っているかを延々と訴え、信仰を変える難しさを告げ、 「みんな極楽浄土に行く事を疑いようがありません、今生きている中でただひたすら願うばかりです」と結んでいる。
松平信綱の手紙に書かれている、城から逃げた三・四人に渡される物のうち、より数が多い物を教えてください。
松平信綱の手紙に書かれている、城から逃げた三・四人に渡される物のうち、より数が多い物は小判で四枚です。
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歴史
ところが、以前に近藤勇に倒された勤王派に転向した伊東甲子太郎の残党なる鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納就雄などが、薩摩の伏見屋敷に庇護されていた。 十二月十八日、近藤が上京した帰途、伏見街道の藤森において突如物陰から狙撃され、その右肩に重傷を負った。むろん、伊東の残党の計画であるが、そのために近藤は鳥羽伏見戦争には参加することが出来なかったので、土方歳三が指揮をしていた。 新選組も、この頃は、剣ばかりではどうにもならないのを悟ったと見えて、幕軍の間宮鉄太郎の隊から大砲二門を借りて来ていた。 伏見の方は、戦前から両軍が対峙していたわけで、鳥羽口の砲声が、開戦の合図になった。 土方歳三は、伏見京橋口に陣を敷いていたが、鳥羽の砲声を聴くと、浜通りを東へ、京町を北へ進撃して戦った。ところが伏見の東方にある桃山は、彦根藩が守っており、幕軍は自分達の味方だと思っていたところに、薩藩は開戦となると、朝命をもって彦根勢を退去させ、その後に自軍の大砲を運び上げ、伏見の町を眼下に見おろして、打ちまくった。新選組は、伏見の奉行所の門前で戦っていたが、味方だと思っていた背後から撃たれたので、ひとたまりもなく敗れて、勇の養子周平外十七人が倒された。 この夜、十二時近くになって、戦線に到着した窪田備前守配下のフランス伝習隊は、幕軍の精鋭で、めざましい奪闘をして、薩藩を破り長州勢を破り、墨染まで北進したが、薩兵の伏兵によって、備前守が討死したため、遂に退却した。 この夜は終夜激しい半市街戦が行われ、両軍とも死傷が多かったが、結局幕軍不利で淀まで退却した。 翌日の四日、土方歳三は昨夜の敗戦に激怒して、千本松に陣を敷いた。ここは、右は淀川で、左は水沢ですこぶる要害の狭い難所であり、ここで京軍を支えようとしたが、薩長の兵は小銃隊をもって進撃してあっけなく新選組を打ち破った。そして、大衆文芸でおなじみの山崎蒸を初め三十人ばかりが討死した。剣では、どうにも仕方がなかったのであろう。 数年来新選組は、京洛の地において、薩長の志士と睨み合っていたが、その清算が今度の戦争で行われたわけである。 その後、江戸に来ていた近藤勇に、依田学海が「伏見の戦争はどうだった?」と訊いたところ、彼は傍の土方歳三を顧みて「この男に訊いてくれ」といった。土方が、「これからの戦争は、刀や槍では役に立たぬ。鉄砲には敵わない」と、苦笑しながら答えたのは、有名な話である。
近藤勇に倒された勤王派に転向した伊東甲子太郎の残党の数を教えてください。
近藤勇に倒された勤王派に転向した伊東甲子太郎の残党の数は3で、 「鈴木三樹三郎」 「篠原泰之進」 「加納就雄」 です。
JCRRAG_018123
歴史
ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 コンスタンティヌス帝の治世 テオドシウス帝の治世 西ローマ帝国の滅亡 キリスト教 キリスト教の成立 伝道活動 迫害から国教化へ ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。 四帝統治(テトラルキア) 帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治 専制君主政(ドミナトゥス) 皇帝を神として礼拝させ、専制君主化 コンスタンティヌス帝の治世 コンスタンティヌス帝は、迫害されてきたキリスト教を公認し、帝国の統一を図りました。 330年、古代ギリシアの植民都市ビザンティウムをコンスタンティノープルと改称し、ローマより遷都しました。 コンスタンティヌス帝 315年、ローマに凱旋門がいせんもん を建造 改革を支える重税は、あいつぐ属州の反乱を招きました。 375年に始まるゲルマン人の大移動で帝国は混乱に陥りました。 テオドシウス帝の治世 395年、テオドシウス帝は、帝国を東西に分割して2子に分け与えました。 東:ビザンツ帝国(首都コンスタンティノープル) 西:西ローマ帝国(首都ローマ) 西ローマ帝国の滅亡 476年、西ローマ帝国はゲルマン人のオドアケルによって滅ぼされました。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 歴史・地理地理観光ガイド ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
ストラボンとマルクス=アウレリウス=アントニヌスの違いを説明して下さい。
ストラボンは当時知られていた全世界の地誌を記述した人物ですが、 一方、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人で中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場しました。
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歴史
江戸幕府12代将軍は、徳川家慶です。 徳川家慶は、その治世で「薩摩藩」(さつまはん)の「島津家」(しまづけ)に起こった継嗣問題「お由羅騒動」(おゆらそうどう)にも介入していました。 お由羅騒動とは、薩摩藩主「島津斉興」(しまづなりおき)の後継者を、嫡子「島津斉彬」(しまづなりあきら)にするか、側室の子「島津久光」(しまづひさみつ)にするかで起こったお家騒動です。 島津斉興の側室「お由羅の方」(おゆらのかた)は、自分の子供である島津久光が藩主になることを望んでおり、藩主である島津斉興や、家臣の多くも島津久光を藩主に推していたのです。 しかし、幕府老中・阿部正弘は、聡明な島津斉彬のことを高く評価しており、外国の事情にも詳しい島津斉彬の方が、今の時勢では藩主にふさわしいと考えました。島津斉彬が藩主にふさわしいと思っている者が多く、その考えを持つのは薩摩藩の若い藩士達にもいました。この若い藩士達のなかには、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)も含まれていました。 島津斉興が島津久光を次期藩主に指名してしまう前に、阿部正弘は島津斉興の隠居を命じるよう要請。徳川家慶はその願いを聞き入れ、島津斉興に隠居し、家督を島津斉彬に譲るよう取り計らいます。島津斉興も、将軍の命令とあっては断ることができず、隠居して藩主を島津斉彬に譲ることとなったのです。 薩摩藩重臣達の間では、島津久光を次期藩主にという流れができていたところでの介入となり、徳川家慶がこの騒動に関与しなければ、名君と名高い島津斉彬が薩摩藩主になることはなく、島津斉彬に見出された西郷隆盛や大久保利通の運命も変わっていたと言えます。 徳川家慶は自ら積極的に幕政を行なった訳ではありませんが、幕末の動乱期に活躍する、徳川慶喜や島津斉彬など重要な人物の手助けをしました。徳川家慶の政治力は高いとは言えませんでしたが、人物を見る目の確かさと、決断の早さには非凡なものがあったと言えます。現に、天保の改革で失敗した水野忠邦をすぐさま罷免し、若く実績の少ない阿部正弘を抜擢することは、なかなかできることではありません。上知令の撤回や三方領知替えの中止の決断も、徳川家慶がしたものです。 徳川家慶は、1853年(嘉永6年)の黒船来航の直後に死去。幕閣が黒船の対策に追われる中でのことでした。徳川家慶の心配の種であった息子・徳川家定は、13代将軍に任ぜられるも、父の懸念の通りその治世は長く続かず、5年という短い期間で死去しています。 そののち、最後の将軍となる15代将軍に、徳川家慶がその慧眼で見出した徳川慶喜が就任。江戸幕府は終わりを迎えることになります。明治維新・幕末の動乱の直前を生きた徳川家慶は、その最中で翻弄されつつも次の時代へとつなげたのです。父の徳川家斉とは確執があり、子の徳川家定の将来を心配した徳川家慶の人生は、父と子に悩まされた人生だったと言えます。
島津斉彬が藩主にふさわしいと思っている者には、誰がいたか。
島津斉彬が藩主にふさわしいと思っている者には、西郷隆盛や大久保利通も含まれていた。
JCRRAG_018125
歴史
松平信綱はさらに城の中にいる天草四郎の甥である小平を使って小左衛門の手紙を持たせて城内に入らせた。 その手紙の内容というのは、 一、幕府軍はもう二十万はいる。島原の軍は三万しかいないと聞いている。勝負は明らかだ。(中略)江戸からは、キリスト教徒達は殺さず生かして捕らえるように、無駄な戦闘は避けよ、柵の外で殺さず幕府のいう事を聞けと言われている。 一、(前略)城から逃げた者が三・四人いるが、殺さずに小判四枚と一朱銀を三つを渡して元の村に返して今年の農作業をさせるようにした(後略) 一、将軍の命によって(中略)キリスト教徒は、何才だろうと処刑する事になっている。(中略)無理矢理キリスト教徒にさせられた者は幕府として命は助けてやる(中略)もちろんキリスト教を捨てられない者は城に留まろうが討ち死にしようが好きにしてもよい。(後略) 一、天草四郎が大将だという事はわかっている。だが十五・六の年齢の子供がこんな人数を集めておおがかりな事ができるわけない。四郎の名を使って悪だくみをしているやつが他にいるんじゃないか?と思っている。もし本当にそういうことなら、天草四郎が大将であっても、投稿しても幕府は罪を許そうと考えている。 一、こんな事を書いて迷惑に思わないでください。幕府は一揆軍の誰であろうと城から出たいという意思も尊重するし、また城に戻って戦って死にたいと言っても受け入れる。(後略) 実に誠意が溢れているのがわかる手紙だった。 この手紙と同時に天草四郎の母と姉からも城中の甚兵衛や天草四郎に同じ内容の手紙を送っていた。 四郎の母は洗礼名を「マルタ」と呼んでおり、天草四郎が蜂起した事に対して、熊本藩によって捕まったのだが「母の為に恐れる事無く立派に戦え」と四郎へ言った程の強い女である。 しかしここに至っては肉親の情が湧いて手紙を書いてしまったのだろう。 この二つの手紙の返事はその日の内に城内から帰って来た。 その手紙には「知っての通り他の宗教を信じてる人間を無理にキリスト教徒にしてません。城内の皆は自分の命を天主に捧げる覚悟をもっています」 と書かれてあった。 実際に城を抜けた者は三万人前後の中で三人の男と一名の女に過ぎず、信仰の力は天下の勢を前にしてゆらぐことはなかった。 この後に信綱自ら天草四郎へ降伏すべきという内容の手紙を送ったが、天草四郎の返事には松倉氏がいかに人を苦しめている政治を行っているかを延々と訴え、信仰を変える難しさを告げ、 「みんな極楽浄土に行く事を疑いようがありません、今生きている中でただひたすら願うばかりです」と結んでいる。
松平信綱の手紙を受けて城を抜けた者のうち、人数が多いほうの性別を教えてください。
松平信綱の手紙を受けて城を抜けた者のうち、人数が多いほうの性別は男で三人です。
JCRRAG_018126
歴史
ところが、以前に近藤勇に倒された勤王派に転向した伊東甲子太郎の残党なる鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納就雄などが、薩摩の伏見屋敷に庇護されていた。 十二月十八日、近藤が上京した帰途、伏見街道の藤森において突如物陰から狙撃され、その右肩に重傷を負った。むろん、伊東の残党の計画であるが、そのために近藤は鳥羽伏見戦争には参加することが出来なかったので、土方歳三が指揮をしていた。 新選組も、この頃は、剣ばかりではどうにもならないのを悟ったと見えて、幕軍の間宮鉄太郎の隊から大砲二門を借りて来ていた。 伏見の方は、戦前から両軍が対峙していたわけで、鳥羽口の砲声が、開戦の合図になった。 土方歳三は、伏見京橋口に陣を敷いていたが、鳥羽の砲声を聴くと、浜通りを東へ、京町を北へ進撃して戦った。ところが伏見の東方にある桃山は、彦根藩が守っており、幕軍は自分達の味方だと思っていたところに、薩藩は開戦となると、朝命をもって彦根勢を退去させ、その後に自軍の大砲を運び上げ、伏見の町を眼下に見おろして、打ちまくった。新選組は、伏見の奉行所の門前で戦っていたが、味方だと思っていた背後から撃たれたので、ひとたまりもなく敗れて、勇の養子周平外十七人が倒された。 この夜、十二時近くになって、戦線に到着した窪田備前守配下のフランス伝習隊は、幕軍の精鋭で、めざましい奪闘をして、薩藩を破り長州勢を破り、墨染まで北進したが、薩兵の伏兵によって、備前守が討死したため、遂に退却した。 この夜は終夜激しい半市街戦が行われ、両軍とも死傷が多かったが、結局幕軍不利で淀まで退却した。 翌日の四日、土方歳三は昨夜の敗戦に激怒して、千本松に陣を敷いた。ここは、右は淀川で、左は水沢ですこぶる要害の狭い難所であり、ここで京軍を支えようとしたが、薩長の兵は小銃隊をもって進撃してあっけなく新選組を打ち破った。そして、大衆文芸でおなじみの山崎蒸を初め三十人ばかりが討死した。剣では、どうにも仕方がなかったのであろう。 数年来新選組は、京洛の地において、薩長の志士と睨み合っていたが、その清算が今度の戦争で行われたわけである。 その後、江戸に来ていた近藤勇に、依田学海が「伏見の戦争はどうだった?」と訊いたところ、彼は傍の土方歳三を顧みて「この男に訊いてくれ」といった。土方が、「これからの戦争は、刀や槍では役に立たぬ。鉄砲には敵わない」と、苦笑しながら答えたのは、有名な話である。
土方歳三がこれからの戦争では役に立たないといった物の数を教えてください。
土方歳三がこれからの戦争では役に立たないといった物の数は2で、 「刀」 「槍」 です。
JCRRAG_018127
歴史
ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 コンスタンティヌス帝の治世 テオドシウス帝の治世 西ローマ帝国の滅亡 キリスト教 キリスト教の成立 伝道活動 迫害から国教化へ ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。 四帝統治(テトラルキア) 帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治 専制君主政(ドミナトゥス) 皇帝を神として礼拝させ、専制君主化 コンスタンティヌス帝の治世 コンスタンティヌス帝は、迫害されてきたキリスト教を公認し、帝国の統一を図りました。 330年、古代ギリシアの植民都市ビザンティウムをコンスタンティノープルと改称し、ローマより遷都しました。 コンスタンティヌス帝 315年、ローマに凱旋門がいせんもん を建造 改革を支える重税は、あいつぐ属州の反乱を招きました。 375年に始まるゲルマン人の大移動で帝国は混乱に陥りました。 テオドシウス帝の治世 395年、テオドシウス帝は、帝国を東西に分割して2子に分け与えました。 東:ビザンツ帝国(首都コンスタンティノープル) 西:西ローマ帝国(首都ローマ) 西ローマ帝国の滅亡 476年、西ローマ帝国はゲルマン人のオドアケルによって滅ぼされました。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 歴史・地理地理観光ガイド ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
キケロとマルクス=アウレリウス=アントニヌスの違いを説明して下さい。
キケロは優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立ですが、 一方、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人で中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場しました。
JCRRAG_018128
歴史
1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれたのは、「徳川家定」(とくがわいえさだ)です。 しかし徳川家定は、このときすでに3人の兄を亡くしていました。 生母は、徳川家慶の側室であった「お美津の方」(おみつのかた)のちの「本寿院」(ほんじゅいん)で、幼名は「政之助」(まさのすけ)です。 徳川家定は一説によれば、生まれつき脳性麻痺があったとされ、人前に出ることを極端に嫌い、乳母の「歌橋」(うたはし)にだけ、心を開いたと言われています。 徳川家定は1828年(文政11年)に元服し、名を政之助から「家祥」(いえさち/いえさき)に改めました。同年、徳川家定にとって最初の正室となる「摂関家」(せっかんけ)の「鷹司任子」(たかつかさあつこ)と、「納采の儀」(のうさいのぎ:皇族が結納を取り交わす儀式)を執り行なっています。 そして1831年(天保2年)、鷹司任子が江戸城本丸へ輿入れし、1841年(天保12年)に婚儀が行なわれました。徳川家定との縁組が正式に決まるまでには、鷹司任子が江戸入りしてから、約10年の月日を要したのです。 そんななか、徳川家定は1840年(天保11年)、疱瘡(ほうそう:現在の天然痘)を患いますが、全快。しかし、その目の辺りには、あばたが残ったと伝えられています。 そして、その翌年には、徳川家定の祖父であり、大御所であった11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)が亡くなりました。 その跡を継いで12代将軍となった徳川家慶は、「御三家」(ごさんけ)の次席であり、将軍の補佐を行なっていた「御三卿」(ごさんきょう)の「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)を、自身の世継ぎにしようと考えます。 しかし、将軍は長子相続でなければならないという主張を理由に、老中首座の「阿部正弘」(あべまさひろ)らが反対したため、徳川家定が正式に、12代将軍・徳川家慶の後継者となったのです。そして1848年(嘉永元年)、将軍の正室として「御簾中様」(ごれんじゅうさま:貴人の正妻を指す尊称)と呼ばれていた鷹司任子は、徳川家定も罹った疱瘡が原因となり、26歳の若さで亡くなっています。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、生まれた時すでに誰を亡くしていたか。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、生まれた時すでに3人の兄を亡くしていた。
JCRRAG_018129
歴史
城中のキリスト教徒も今日が最後になると覚悟したから、矢や銃弾を惜しまずに木石を落し器具に火をつけて投げ必死に防戦を繰り返した。 幕府軍はそこで石火矢を放った。城内は火や煙に包まれて、老人や子供の叫び声はひどいものだった。 ある部屋にいた老人五人と子供十人が燃え盛るさまは見るに堪えなかった。 板倉重矩は緋縅の鎧に十文字の槍をもち、石谷十蔵と共に城内に乗り込んで、 「我が父重昌の仇を取るために来た!天草四郎時貞!出てきて私と戦え!」と大きな声で叫んだ。 その言葉を聞いた宗徒の部将である有江休意は、黒髪赤顔で眼光鋭く人を射るように六尺の長身をおどらせて現れた。 重矩の従士は左右から槍を突き付けようとしたが、重矩は後方に下がって有江一対一で立ち向かった。 重矩の槍が休意の額を刺し、血が流れて眼に入ったので、休意は刀を抜いて斬りかかって来た。重矩は向かい合うと同時に、休意の右肩から斬り下してついに倒した。 その後信綱はこの事を知って褒めたたえ、水野勝成は自分が腰に下げていた宇多国房の刀を進呈したという。 細川の先鋒である長岡佐渡などの一隊は、そこら中で天草四郎時貞を求め探した。 その最中陣佐左衛門は、火煙をくぐって石塁の中に入って見ると、一人の少年が傷ついて倒れているのを発見した。 銃による傷が二つと刀による傷が四つ見られていた。 一人の少女がそばにいて嘆き悲しんでいる。 佐左衛門が中に入り込んで少年の首を斬って出ようとすると、少女が袖をつかんで放さない。 三宅半右衛門が来て、その少女も斬ってしまった。 忠利は「少年の首は時貞のものであろう」と信綱に見せる事にした。天草四郎時貞の母を呼んで首を見せると、その少年の首こそ四郎時貞の首であることがわかった。 かくて籠城以来、本丸にはためいていた聖餐の聖旗も地に落ちて、この乱も終わりを告げたのであった。
幕府軍はある部屋で石火矢を放ち人が燃え盛る中、より燃えた人数が多かったのはなんですか。
幕府軍はある部屋で石火矢を放ち人が燃え盛る中、より燃えた人数が多かったのは子供で十人です。
JCRRAG_018130
歴史
西郷降盛が兵を率いて鹿児島を出発したときの軍容は次の通りである。 大隊長 篠原 国幹 大隊長 村田 新八 大隊長 永山弥市郎 大隊長 桐野 利秋 大隊長 池上 四郎 大隊長 別府 晋介 大隊長はすべて、猛将ぞろいである。特に桐野利秋は中村半次郎という名で維新当時にも活躍した男である。各大隊は兵数ほぼ二千名位ずつであるから総軍一万二千である。各大隊には砲兵が加わっていたが、その持っている本数は、四斤砲二十八門、十二斤砲二門、臼砲三十門であった。そのほか後ろに薩摩国・大隅国と日向国で新たに徴集したもの及び、熊本、延岡、佐土原、竹田等の士族がきて投入したものが合わせて一万人あった。この兵力に加えるに当時赫々たる西郷の威望があるのだから、天下の耳目を驚かせたのは当然である。 薩軍が鹿児島を発った日から南国には珍しい大雪となって、連日紛々として絶えず、肥後との国境である大口の山路に来る頃には、積雪が腰にまで積もった程であった。しかし薩軍を悩ませたのは風雪だけであって、十八日から二十日までの間、無人の境を行くようにして肥後に入った。西郷が東上するとの声を聞いて、佐土原、延岡、飫肥、高鍋、福島の士族達は、各々数百名の徒党をくんでこれに応じて、熊本に来て合した。熊本の城下においてさえ、従うか背くかの議論が生じる有様で、ついに池辺吉十郎等千余人、薩軍に馳せ参ずることになった。 私学校の変に次いで、西郷起つとの報が東京に達すると、政府はみんな色を失った。大久保利通は、憂鬱の余りに、終夜眠る事が出来なかったという。そして自ら西下して、西郷を説得しようとしたが、周囲の者に止められた。岩倉具視も心配の極み、勝安房をして行って説得しようとした。これは江戸城明け渡しの因縁によって、それを逆に行こうというわけであったが、勝が「全権を余に委任するという事は、西郷の意をいれなければいけない。それでよろしいか」というに及んで、岩倉は黙り、ついにその事も行われなかった。
西郷降盛が兵を率いて鹿児島を出発したときの大隊長の数を教えてください。
西郷降盛が兵を率いて鹿児島を出発したときの大隊長の数は6で、 「篠原国幹」 「村田新八」 「永山弥市郎」 「桐野利秋」 「池上四郎」 「別府晋介」 です。
JCRRAG_018131
歴史
ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 コンスタンティヌス帝の治世 テオドシウス帝の治世 西ローマ帝国の滅亡 キリスト教 キリスト教の成立 伝道活動 迫害から国教化へ ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。 四帝統治(テトラルキア) 帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治 専制君主政(ドミナトゥス) 皇帝を神として礼拝させ、専制君主化 コンスタンティヌス帝の治世 コンスタンティヌス帝は、迫害されてきたキリスト教を公認し、帝国の統一を図りました。 330年、古代ギリシアの植民都市ビザンティウムをコンスタンティノープルと改称し、ローマより遷都しました。 コンスタンティヌス帝 315年、ローマに凱旋門がいせんもん を建造 改革を支える重税は、あいつぐ属州の反乱を招きました。 375年に始まるゲルマン人の大移動で帝国は混乱に陥りました。 テオドシウス帝の治世 395年、テオドシウス帝は、帝国を東西に分割して2子に分け与えました。 東:ビザンツ帝国(首都コンスタンティノープル) 西:西ローマ帝国(首都ローマ) 西ローマ帝国の滅亡 476年、西ローマ帝国はゲルマン人のオドアケルによって滅ぼされました。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 歴史・地理地理観光ガイド ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プリニウスとプトレマイオスの違いを説明して下さい。
プリニウスは百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物ですが、 一方、プトレマイオスは地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物です。
JCRRAG_018132
歴史
1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれたのは、「徳川家定」(とくがわいえさだ)です。 しかし徳川家定は、このときすでに3人の兄を亡くしていました。 生母は、徳川家慶の側室であった「お美津の方」(おみつのかた)のちの「本寿院」(ほんじゅいん)で、幼名は「政之助」(まさのすけ)です。 徳川家定は一説によれば、生まれつき脳性麻痺があったとされ、人前に出ることを極端に嫌い、乳母の「歌橋」(うたはし)にだけ、心を開いたと言われています。 徳川家定は1828年(文政11年)に元服し、名を政之助から「家祥」(いえさち/いえさき)に改めました。同年、徳川家定にとって最初の正室となる「摂関家」(せっかんけ)の「鷹司任子」(たかつかさあつこ)と、「納采の儀」(のうさいのぎ:皇族が結納を取り交わす儀式)を執り行なっています。 そして1831年(天保2年)、鷹司任子が江戸城本丸へ輿入れし、1841年(天保12年)に婚儀が行なわれました。徳川家定との縁組が正式に決まるまでには、鷹司任子が江戸入りしてから、約10年の月日を要したのです。 そんななか、徳川家定は1840年(天保11年)、疱瘡(ほうそう:現在の天然痘)を患いますが、全快。しかし、その目の辺りには、あばたが残ったと伝えられています。 そして、その翌年には、徳川家定の祖父であり、大御所であった11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)が亡くなりました。 その跡を継いで12代将軍となった徳川家慶は、「御三家」(ごさんけ)の次席であり、将軍の補佐を行なっていた「御三卿」(ごさんきょう)の「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)を、自身の世継ぎにしようと考えます。 しかし、将軍は長子相続でなければならないという主張を理由に、老中首座の「阿部正弘」(あべまさひろ)らが反対したため、徳川家定が正式に、12代将軍・徳川家慶の後継者となったのです。そして1848年(嘉永元年)、将軍の正室として「御簾中様」(ごれんじゅうさま:貴人の正妻を指す尊称)と呼ばれていた鷹司任子は、徳川家定も罹った疱瘡が原因となり、26歳の若さで亡くなっています。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、生まれつき何の病気があったとされていたか。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、生まれつき脳性麻痺があったとされていた。
JCRRAG_018133
歴史
城中のキリスト教徒も今日が最後になると覚悟したから、矢や銃弾を惜しまずに木石を落し器具に火をつけて投げ必死に防戦を繰り返した。 幕府軍はそこで石火矢を放った。城内は火や煙に包まれて、老人や子供の叫び声はひどいものだった。 ある部屋にいた老人五人と子供十人が燃え盛るさまは見るに堪えなかった。 板倉重矩は緋縅の鎧に十文字の槍をもち、石谷十蔵と共に城内に乗り込んで、 「我が父重昌の仇を取るために来た!天草四郎時貞!出てきて私と戦え!」と大きな声で叫んだ。 その言葉を聞いた宗徒の部将である有江休意は、黒髪赤顔で眼光鋭く人を射るように六尺の長身をおどらせて現れた。 重矩の従士は左右から槍を突き付けようとしたが、重矩は後方に下がって有江一対一で立ち向かった。 重矩の槍が休意の額を刺し、血が流れて眼に入ったので、休意は刀を抜いて斬りかかって来た。重矩は向かい合うと同時に、休意の右肩から斬り下してついに倒した。 その後信綱はこの事を知って褒めたたえ、水野勝成は自分が腰に下げていた宇多国房の刀を進呈したという。 細川の先鋒である長岡佐渡などの一隊は、そこら中で天草四郎時貞を求め探した。 その最中陣佐左衛門は、火煙をくぐって石塁の中に入って見ると、一人の少年が傷ついて倒れているのを発見した。 銃による傷が二つと刀による傷が四つ見られていた。 一人の少女がそばにいて嘆き悲しんでいる。 佐左衛門が中に入り込んで少年の首を斬って出ようとすると、少女が袖をつかんで放さない。 三宅半右衛門が来て、その少女も斬ってしまった。 忠利は「少年の首は時貞のものであろう」と信綱に見せる事にした。天草四郎時貞の母を呼んで首を見せると、その少年の首こそ四郎時貞の首であることがわかった。 かくて籠城以来、本丸にはためいていた聖餐の聖旗も地に落ちて、この乱も終わりを告げたのであった。
幕府軍はある部屋で石火矢を放ち人が燃え盛る中、より燃えた人数が少なかったのはなんですか。
幕府軍はある部屋で石火矢を放ち人が燃え盛る中、より燃えた人数が少なかったのは老人で五人です。
JCRRAG_018134
歴史
西郷降盛が兵を率いて鹿児島を出発したときの軍容は次の通りである。 大隊長 篠原 国幹 大隊長 村田 新八 大隊長 永山弥市郎 大隊長 桐野 利秋 大隊長 池上 四郎 大隊長 別府 晋介 大隊長はすべて、猛将ぞろいである。特に桐野利秋は中村半次郎という名で維新当時にも活躍した男である。各大隊は兵数ほぼ二千名位ずつであるから総軍一万二千である。各大隊には砲兵が加わっていたが、その持っている本数は、四斤砲二十八門、十二斤砲二門、臼砲三十門であった。そのほか後ろに薩摩国・大隅国と日向国で新たに徴集したもの及び、熊本、延岡、佐土原、竹田等の士族がきて投入したものが合わせて一万人あった。この兵力に加えるに当時赫々たる西郷の威望があるのだから、天下の耳目を驚かせたのは当然である。 薩軍が鹿児島を発った日から南国には珍しい大雪となって、連日紛々として絶えず、肥後との国境である大口の山路に来る頃には、積雪が腰にまで積もった程であった。しかし薩軍を悩ませたのは風雪だけであって、十八日から二十日までの間、無人の境を行くようにして肥後に入った。西郷が東上するとの声を聞いて、佐土原、延岡、飫肥、高鍋、福島の士族達は、各々数百名の徒党をくんでこれに応じて、熊本に来て合した。熊本の城下においてさえ、従うか背くかの議論が生じる有様で、ついに池辺吉十郎等千余人、薩軍に馳せ参ずることになった。 私学校の変に次いで、西郷起つとの報が東京に達すると、政府はみんな色を失った。大久保利通は、憂鬱の余りに、終夜眠る事が出来なかったという。そして自ら西下して、西郷を説得しようとしたが、周囲の者に止められた。岩倉具視も心配の極み、勝安房をして行って説得しようとした。これは江戸城明け渡しの因縁によって、それを逆に行こうというわけであったが、勝が「全権を余に委任するという事は、西郷の意をいれなければいけない。それでよろしいか」というに及んで、岩倉は黙り、ついにその事も行われなかった。
大隊には砲兵が加わっていたが、新たに砲を徴集した国の数を教えてください。
大隊には砲兵が加わっていたが、新たに砲を徴集した国の数は3で、 「薩摩国」 「大隅国」 「日向国」 です。
JCRRAG_018135
歴史
ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 コンスタンティヌス帝の治世 テオドシウス帝の治世 西ローマ帝国の滅亡 キリスト教 キリスト教の成立 伝道活動 迫害から国教化へ ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。 四帝統治(テトラルキア) 帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治 専制君主政(ドミナトゥス) 皇帝を神として礼拝させ、専制君主化 コンスタンティヌス帝の治世 コンスタンティヌス帝は、迫害されてきたキリスト教を公認し、帝国の統一を図りました。 330年、古代ギリシアの植民都市ビザンティウムをコンスタンティノープルと改称し、ローマより遷都しました。 コンスタンティヌス帝 315年、ローマに凱旋門がいせんもん を建造 改革を支える重税は、あいつぐ属州の反乱を招きました。 375年に始まるゲルマン人の大移動で帝国は混乱に陥りました。 テオドシウス帝の治世 395年、テオドシウス帝は、帝国を東西に分割して2子に分け与えました。 東:ビザンツ帝国(首都コンスタンティノープル) 西:西ローマ帝国(首都ローマ) 西ローマ帝国の滅亡 476年、西ローマ帝国はゲルマン人のオドアケルによって滅ぼされました。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 歴史・地理地理観光ガイド ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プリニウスとウェルギリウスの違いを説明して下さい。
プリニウスは百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物ですが、 一方、ウェルギリウスはローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物です。
JCRRAG_018136
歴史
1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれたのは、「徳川家定」(とくがわいえさだ)です。 しかし徳川家定は、このときすでに3人の兄を亡くしていました。 生母は、徳川家慶の側室であった「お美津の方」(おみつのかた)のちの「本寿院」(ほんじゅいん)で、幼名は「政之助」(まさのすけ)です。 徳川家定は一説によれば、生まれつき脳性麻痺があったとされ、人前に出ることを極端に嫌い、乳母の「歌橋」(うたはし)にだけ、心を開いたと言われています。 徳川家定は1828年(文政11年)に元服し、名を政之助から「家祥」(いえさち/いえさき)に改めました。同年、徳川家定にとって最初の正室となる「摂関家」(せっかんけ)の「鷹司任子」(たかつかさあつこ)と、「納采の儀」(のうさいのぎ:皇族が結納を取り交わす儀式)を執り行なっています。 そして1831年(天保2年)、鷹司任子が江戸城本丸へ輿入れし、1841年(天保12年)に婚儀が行なわれました。徳川家定との縁組が正式に決まるまでには、鷹司任子が江戸入りしてから、約10年の月日を要したのです。 そんななか、徳川家定は1840年(天保11年)、疱瘡(ほうそう:現在の天然痘)を患いますが、全快。しかし、その目の辺りには、あばたが残ったと伝えられています。 そして、その翌年には、徳川家定の祖父であり、大御所であった11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)が亡くなりました。 その跡を継いで12代将軍となった徳川家慶は、「御三家」(ごさんけ)の次席であり、将軍の補佐を行なっていた「御三卿」(ごさんきょう)の「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)を、自身の世継ぎにしようと考えます。 しかし、将軍は長子相続でなければならないという主張を理由に、老中首座の「阿部正弘」(あべまさひろ)らが反対したため、徳川家定が正式に、12代将軍・徳川家慶の後継者となったのです。そして1848年(嘉永元年)、将軍の正室として「御簾中様」(ごれんじゅうさま:貴人の正妻を指す尊称)と呼ばれていた鷹司任子は、徳川家定も罹った疱瘡が原因となり、26歳の若さで亡くなっています。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、誰にだけ心を開いたか。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、乳母の「歌橋」(うたはし)にだけ心を開いた。
JCRRAG_018137
歴史
城中のキリスト教徒も今日が最後になると覚悟したから、矢や銃弾を惜しまずに木石を落し器具に火をつけて投げ必死に防戦を繰り返した。 幕府軍はそこで石火矢を放った。城内は火や煙に包まれて、老人や子供の叫び声はひどいものだった。 ある部屋にいた老人五人と子供十人が燃え盛るさまは見るに堪えなかった。 板倉重矩は緋縅の鎧に十文字の槍をもち、石谷十蔵と共に城内に乗り込んで、 「我が父重昌の仇を取るために来た!天草四郎時貞!出てきて私と戦え!」と大きな声で叫んだ。 その言葉を聞いた宗徒の部将である有江休意は、黒髪赤顔で眼光鋭く人を射るように六尺の長身をおどらせて現れた。 重矩の従士は左右から槍を突き付けようとしたが、重矩は後方に下がって有江一対一で立ち向かった。 重矩の槍が休意の額を刺し、血が流れて眼に入ったので、休意は刀を抜いて斬りかかって来た。重矩は向かい合うと同時に、休意の右肩から斬り下してついに倒した。 その後信綱はこの事を知って褒めたたえ、水野勝成は自分が腰に下げていた宇多国房の刀を進呈したという。 細川の先鋒である長岡佐渡などの一隊は、そこら中で天草四郎時貞を求め探した。 その最中陣佐左衛門は、火煙をくぐって石塁の中に入って見ると、一人の少年が傷ついて倒れているのを発見した。 銃による傷が二つと刀による傷が四つ見られていた。 一人の少女がそばにいて嘆き悲しんでいる。 佐左衛門が中に入り込んで少年の首を斬って出ようとすると、少女が袖をつかんで放さない。 三宅半右衛門が来て、その少女も斬ってしまった。 忠利は「少年の首は時貞のものであろう」と信綱に見せる事にした。天草四郎時貞の母を呼んで首を見せると、その少年の首こそ四郎時貞の首であることがわかった。 かくて籠城以来、本丸にはためいていた聖餐の聖旗も地に落ちて、この乱も終わりを告げたのであった。
倒れている一人の少年に付いている傷のうち、より多い傷を教えてください。
倒れている一人の少年に付いている傷のうち、より多い傷は刀による傷で四つです。
JCRRAG_018138
歴史
西郷降盛が兵を率いて鹿児島を出発したときの軍容は次の通りである。 大隊長 篠原 国幹 大隊長 村田 新八 大隊長 永山弥市郎 大隊長 桐野 利秋 大隊長 池上 四郎 大隊長 別府 晋介 大隊長はすべて、猛将ぞろいである。特に桐野利秋は中村半次郎という名で維新当時にも活躍した男である。各大隊は兵数ほぼ二千名位ずつであるから総軍一万二千である。各大隊には砲兵が加わっていたが、その持っている本数は、四斤砲二十八門、十二斤砲二門、臼砲三十門であった。そのほか後ろに薩摩国・大隅国と日向国で新たに徴集したもの及び、熊本、延岡、佐土原、竹田等の士族がきて投入したものが合わせて一万人あった。この兵力に加えるに当時赫々たる西郷の威望があるのだから、天下の耳目を驚かせたのは当然である。 薩軍が鹿児島を発った日から南国には珍しい大雪となって、連日紛々として絶えず、肥後との国境である大口の山路に来る頃には、積雪が腰にまで積もった程であった。しかし薩軍を悩ませたのは風雪だけであって、十八日から二十日までの間、無人の境を行くようにして肥後に入った。西郷が東上するとの声を聞いて、佐土原、延岡、飫肥、高鍋、福島の士族達は、各々数百名の徒党をくんでこれに応じて、熊本に来て合した。熊本の城下においてさえ、従うか背くかの議論が生じる有様で、ついに池辺吉十郎等千余人、薩軍に馳せ参ずることになった。 私学校の変に次いで、西郷起つとの報が東京に達すると、政府はみんな色を失った。大久保利通は、憂鬱の余りに、終夜眠る事が出来なかったという。そして自ら西下して、西郷を説得しようとしたが、周囲の者に止められた。岩倉具視も心配の極み、勝安房をして行って説得しようとした。これは江戸城明け渡しの因縁によって、それを逆に行こうというわけであったが、勝が「全権を余に委任するという事は、西郷の意をいれなければいけない。それでよろしいか」というに及んで、岩倉は黙り、ついにその事も行われなかった。
西郷が東上するとの声を聞いて徒党を組んだ士族の種類の数を教えてください。
西郷が東上するとの声を聞いて徒党を組んだ士族の種類の数は5で、 「佐土原」 「延岡」 「飫肥」 「高鍋」 「福島」 です。
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歴史
ローマ帝国 事実上の皇帝独裁 前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。 アウグストゥス 「尊厳者」の意 アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。 このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。 以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。 ローマの平和(パクス=ロマーナ) 最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。 ネルウァ(在位96~98) トラヤヌス(在位98~117) ハドリアヌス(在位117~138) アントニヌス=ビウス(在位138~161) マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180) 五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。 ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。 ローマ帝国の最大領域 ローマ帝国の最大領域 ローマ帝国の支配と活動 ローマは都市を通して属州を支配しました。 都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。 他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。 全自由人の市民化 212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。 帝国の瓦解 五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。 3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。 また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。 農奴制の先駆 軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。 大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。 この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。 コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。 上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。 コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。 前の内容 ローマ共和政 次の内容 帝国の分裂とキリスト教 一覧 (C) ちとにとせ / since December 2.2013 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プリニウスとカエサルの違いを説明して下さい。
プリニウスは百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物ですが、 一方、カエサルは前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家です。
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歴史
1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれたのは、「徳川家定」(とくがわいえさだ)です。 しかし徳川家定は、このときすでに3人の兄を亡くしていました。 生母は、徳川家慶の側室であった「お美津の方」(おみつのかた)のちの「本寿院」(ほんじゅいん)で、幼名は「政之助」(まさのすけ)です。 徳川家定は一説によれば、生まれつき脳性麻痺があったとされ、人前に出ることを極端に嫌い、乳母の「歌橋」(うたはし)にだけ、心を開いたと言われています。 徳川家定は1828年(文政11年)に元服し、名を政之助から「家祥」(いえさち/いえさき)に改めました。同年、徳川家定にとって最初の正室となる「摂関家」(せっかんけ)の「鷹司任子」(たかつかさあつこ)と、「納采の儀」(のうさいのぎ:皇族が結納を取り交わす儀式)を執り行なっています。 そして1831年(天保2年)、鷹司任子が江戸城本丸へ輿入れし、1841年(天保12年)に婚儀が行なわれました。徳川家定との縁組が正式に決まるまでには、鷹司任子が江戸入りしてから、約10年の月日を要したのです。 そんななか、徳川家定は1840年(天保11年)、疱瘡(ほうそう:現在の天然痘)を患いますが、全快。しかし、その目の辺りには、あばたが残ったと伝えられています。 そして、その翌年には、徳川家定の祖父であり、大御所であった11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)が亡くなりました。 その跡を継いで12代将軍となった徳川家慶は、「御三家」(ごさんけ)の次席であり、将軍の補佐を行なっていた「御三卿」(ごさんきょう)の「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)を、自身の世継ぎにしようと考えます。 しかし、将軍は長子相続でなければならないという主張を理由に、老中首座の「阿部正弘」(あべまさひろ)らが反対したため、徳川家定が正式に、12代将軍・徳川家慶の後継者となったのです。そして1848年(嘉永元年)、将軍の正室として「御簾中様」(ごれんじゅうさま:貴人の正妻を指す尊称)と呼ばれていた鷹司任子は、徳川家定も罹った疱瘡が原因となり、26歳の若さで亡くなっています。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、1828年に元服し、名を政之助から何に改めたか。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、1828年に元服し、名を政之助から家祥に改めた。
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城中のキリスト教徒も今日が最後になると覚悟したから、矢や銃弾を惜しまずに木石を落し器具に火をつけて投げ必死に防戦を繰り返した。 幕府軍はそこで石火矢を放った。城内は火や煙に包まれて、老人や子供の叫び声はひどいものだった。 ある部屋にいた老人五人と子供十人が燃え盛るさまは見るに堪えなかった。 板倉重矩は緋縅の鎧に十文字の槍をもち、石谷十蔵と共に城内に乗り込んで、 「我が父重昌の仇を取るために来た!天草四郎時貞!出てきて私と戦え!」と大きな声で叫んだ。 その言葉を聞いた宗徒の部将である有江休意は、黒髪赤顔で眼光鋭く人を射るように六尺の長身をおどらせて現れた。 重矩の従士は左右から槍を突き付けようとしたが、重矩は後方に下がって有江一対一で立ち向かった。 重矩の槍が休意の額を刺し、血が流れて眼に入ったので、休意は刀を抜いて斬りかかって来た。重矩は向かい合うと同時に、休意の右肩から斬り下してついに倒した。 その後信綱はこの事を知って褒めたたえ、水野勝成は自分が腰に下げていた宇多国房の刀を進呈したという。 細川の先鋒である長岡佐渡などの一隊は、そこら中で天草四郎時貞を求め探した。 その最中陣佐左衛門は、火煙をくぐって石塁の中に入って見ると、一人の少年が傷ついて倒れているのを発見した。 銃による傷が二つと刀による傷が四つ見られていた。 一人の少女がそばにいて嘆き悲しんでいる。 佐左衛門が中に入り込んで少年の首を斬って出ようとすると、少女が袖をつかんで放さない。 三宅半右衛門が来て、その少女も斬ってしまった。 忠利は「少年の首は時貞のものであろう」と信綱に見せる事にした。天草四郎時貞の母を呼んで首を見せると、その少年の首こそ四郎時貞の首であることがわかった。 かくて籠城以来、本丸にはためいていた聖餐の聖旗も地に落ちて、この乱も終わりを告げたのであった。
倒れている一人の少年に付いている傷のうち、より少ない傷を教えてください。
倒れている一人の少年に付いている傷のうち、より少ない傷は銃による傷で二つです。
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この年の一月末、明治天皇は畝傍御参拝の為に軍艦に乗って神戸に着き、京都にあらせられた。陸軍中将山県有朋は、陛下に供奉して西下していたが、西南の急変を知るや、直ちに天子に申し上げて東京大阪広島の各鎮台兵に出動を命じた。そうして自ら戦略を決定したが、この山県の戦略が官軍勝利の遠因だったといってよい。山県は薩軍の戦略を想定して、 ・汽船にてただちに東京あるいは大阪に入るか ・長崎と熊本を襲い、九州を鎮圧した後に中原に出るか ・鹿児島に割拠し、全国の動揺をうかがった後、時機を見て中央に出るか これより他に作戦は無いと見ていた。これに対して官軍の方略は、敵がそのいずれの策に出ても気にすることなく、海陸から鹿児島を攻めることした。更に地方の騒乱を防ぐ為に、各鎮圧をして連絡し、厳戒態勢を取ることにした。以上が山県の策戦であるが、山県の想定に対して、薩軍はその第二想定のように堂々の正攻法をすることにしたのであった。 薩軍、軍を上らせる前に隆盛の弟である西郷小兵衛が作戦を論じた。曰く「軍を三道に分けて、一の軍は熊本を囲み、一の軍は豊前豊後に出でて沿海を制し、一は軍艦に乗じて長崎を襲う」と、いうのだ。ところが桐野利秋が反対して、 「堂々たる行軍をしてこそ、天下風を望むであろう。奇兵なぞを用いなくとも、百姓兵共、何ができる」といったのでそのままになった。小兵衛が出て「薩摩隼人をして快く一死を遂げることができるのは利秋である。また薩摩隼人をして一世を誤らせるのも利秋である」と嘆いたというが、これは確かに、後に至って何人もの想いにあった事に違いない。 東京政府の狼狽は非常であった。三条実美、伊藤博文等は平和論を主張していたし、朝廷においても、有栖川宮熾仁親王を勅使として遣わされようという議論さえあった。それなのに熊本からの知らせによれば、二十日か二十一日をもって開戦となろうとの事であるので、勅使の議はとり止めとなり、十九日には、征討の詔を下され、熾仁親王を征討総督に任ぜられた。山県参軍は二十五日に博多に着き、征討総督も川村参軍を従えて翌日に到着、本営を勝立寺に置いた。官軍がこの地に本営を置いた事は、策戦の上でどれ程有利な結果をもたらしたか知れないのである。海陸運輸の便があり、かつて、北条氏、足利氏等の九州征略の際にも、博多はその根拠地となった程である。薩軍にして、もし早くこの地を占めていたならば、戦局は、多少異なった方面に発展したに違いない。"
山県が薩軍の戦略を想定した数を教えてください。
山県が薩軍の戦略を想定した数は3で、 「汽船にてただちに東京あるいは大阪に入るか」 「長崎と熊本を襲い、九州を鎮圧した後に中原に出るか」 「鹿児島に割拠し、全国の動揺をうかがった後、時機を見て中央に出るか」 です。
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ローマ帝国 事実上の皇帝独裁 前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。 アウグストゥス 「尊厳者」の意 アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。 このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。 以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。 ローマの平和(パクス=ロマーナ) 最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。 ネルウァ(在位96~98) トラヤヌス(在位98~117) ハドリアヌス(在位117~138) アントニヌス=ビウス(在位138~161) マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180) 五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。 ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。 ローマ帝国の最大領域 ローマ帝国の最大領域 ローマ帝国の支配と活動 ローマは都市を通して属州を支配しました。 都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。 他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。 全自由人の市民化 212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。 帝国の瓦解 五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。 3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。 また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。 農奴制の先駆 軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。 大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。 この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。 コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。 上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。 コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。 前の内容 ローマ共和政 次の内容 帝国の分裂とキリスト教 一覧 (C) ちとにとせ / since December 2.2013 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プリニウスとリウィウスの違いを説明して下さい。
プリニウスは百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物ですが、 一方、リウィウスは歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物です。
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1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれたのは、「徳川家定」(とくがわいえさだ)です。 しかし徳川家定は、このときすでに3人の兄を亡くしていました。 生母は、徳川家慶の側室であった「お美津の方」(おみつのかた)のちの「本寿院」(ほんじゅいん)で、幼名は「政之助」(まさのすけ)です。 徳川家定は一説によれば、生まれつき脳性麻痺があったとされ、人前に出ることを極端に嫌い、乳母の「歌橋」(うたはし)にだけ、心を開いたと言われています。 徳川家定は1828年(文政11年)に元服し、名を政之助から「家祥」(いえさち/いえさき)に改めました。同年、徳川家定にとって最初の正室となる「摂関家」(せっかんけ)の「鷹司任子」(たかつかさあつこ)と、「納采の儀」(のうさいのぎ:皇族が結納を取り交わす儀式)を執り行なっています。 そして1831年(天保2年)、鷹司任子が江戸城本丸へ輿入れし、1841年(天保12年)に婚儀が行なわれました。徳川家定との縁組が正式に決まるまでには、鷹司任子が江戸入りしてから、約10年の月日を要したのです。 そんななか、徳川家定は1840年(天保11年)、疱瘡(ほうそう:現在の天然痘)を患いますが、全快。しかし、その目の辺りには、あばたが残ったと伝えられています。 そして、その翌年には、徳川家定の祖父であり、大御所であった11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)が亡くなりました。 その跡を継いで12代将軍となった徳川家慶は、「御三家」(ごさんけ)の次席であり、将軍の補佐を行なっていた「御三卿」(ごさんきょう)の「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ)のちの「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)を、自身の世継ぎにしようと考えます。 しかし、将軍は長子相続でなければならないという主張を理由に、老中首座の「阿部正弘」(あべまさひろ)らが反対したため、徳川家定が正式に、12代将軍・徳川家慶の後継者となったのです。そして1848年(嘉永元年)、将軍の正室として「御簾中様」(ごれんじゅうさま:貴人の正妻を指す尊称)と呼ばれていた鷹司任子は、徳川家定も罹った疱瘡が原因となり、26歳の若さで亡くなっています。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、1840年に何の病気を患ったか。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、1840年に疱瘡を患った。
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歴史
真田幸村の名前には、色々な説がある。 兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。 『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。 大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。 これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。 しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。 むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけていろいろと名前を変えたのだろう。 真田は信濃の名族である海野小太郎の最後に生まれた子で、相当な名族であり祖父の幸隆の時代に武田家に仕えたが、この幸隆が敵を同士討ちさせるアイディアを上手く出せる智将である。 真田三代記というが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。 真田幸村が豊臣家をひいきにしている武士というべきでもないのに、なぜ豊臣秀頼のために華々しき戦死を遂げたかという理由には、おそらく父の真田昌幸から徳川家といろいろあったのである。 上州の沼田は利根川の上流が片品川とくっつく所にあり、右に利根川左に片品川がある非常に敵を防ぐのに適している地であるが、関東管領の家が亡びた後に真田が自力で切り取った土地である。 武田家が亡びた後、真田家は表面上は徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時北条側の要求によって沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田家に「沼田を北条へ渡してくれ、その代わりお前には上田をやる」といった。 ところが真田昌幸は「上田は武田信玄時代から真田が持ってる場所だし、徳川から貰う筋合いはない。その上、沼田は俺が頑張って取った土地だ。理由もなく人にやるわけない」といって家康の要求を断り、さらにひそかに豊臣秀吉に使いを出して、手下にしてくれとお願いした。 家康は怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政達に攻めさせた。 それを昌幸が相当な軍略を使って撃退している。 小牧山の直後、秀吉と家康の関係がこじれていた時だから、秀吉が上杉景勝に命じて昌幸を応援させるはずだったという。 この競り合いが真田家が徳川家を相手にした最初の出来事である。と同時に真田が秀吉のひいきになる。 その後、家康が秀吉と和睦したので、真田昌幸も地勢の関係上家康と和睦した。 家康は昌幸の武勇は侮れないと思い、真田の長男である信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。 そして使いを出すと、真田昌幸は「お前のような使者の言う事は信じられない。聞き間違いだろう。帰ってもう一回聞いてこい」といって受けつけなかった。 徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと思いが良くわかる。 そこで家康が秀吉に相談すると、 「真田の言う事ももっともだ。中務が娘を育てている間に、私が婿に迎えるというなら引き受けるだろう」と、いったとある。 家康は即座に本多忠勝の娘を養女にして、信幸の嫁にさせた。 結局、真田信幸は女房の縁に引かれて、後に父や弟と別れて徳川家康に付いて従ったわけである。 ところが天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛しようと交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田を一部よこせというのである。 先年徳川と和平をした時に貰うハズであったが、真田家がわがままを言って貰えなかった。 今度はぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると提案した。この時の北条の使いが板部岡江雪斎という男だ。 北条としては沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうがそういう難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようというのであろう。 秀吉はすぐに、上州の領地のうち、全体の三分の二を北条家に譲り、残りの三分の一を真田家の領土とした。 そして沼田に対する所有権は徳川から真田に与えさせることにした。 江雪斎もそれを理解して帰った。 ところが、沼田の城代となった猪俣範直という武士がむちゃくちゃで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃城まで攻め取ってしまったのである。 昌幸がそれを豊臣秀吉に訴えた。豊臣秀吉は北条家の条約違反に怒って、ついに小田原征討を決心したのである。 昌幸からいえば自分の面目を立ててもらうために、北条征伐を秀吉が決めてくれたのでかなり嬉しかったに違いないだろうと思う。 関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、この時の感激を覚えていたのであろう。
秀吉によって上州の領地が北条家と真田家に分けられたが、分けられた領地の割合が多いほうを教えてください。
秀吉によって上州の領地が北条家と真田家に分けられたが、分けられた領地の割合が多いほうは北条家で全体の三分の二です。
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ローマ帝国 事実上の皇帝独裁 前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。 アウグストゥス 「尊厳者」の意 アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。 このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。 以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。 ローマの平和(パクス=ロマーナ) 最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。 ネルウァ(在位96~98) トラヤヌス(在位98~117) ハドリアヌス(在位117~138) アントニヌス=ビウス(在位138~161) マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180) 五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。 ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。 ローマ帝国の最大領域 ローマ帝国の最大領域 ローマ帝国の支配と活動 ローマは都市を通して属州を支配しました。 都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。 他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。 全自由人の市民化 212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。 帝国の瓦解 五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。 3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。 また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。 農奴制の先駆 軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。 大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。 この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。 コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。 上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。 コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。 前の内容 ローマ共和政 次の内容 帝国の分裂とキリスト教 一覧 (C) ちとにとせ / since December 2.2013 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プリニウスとタキトゥスの違いを説明して下さい。
プリニウスは百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物ですが、 一方、タキトゥスはゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物です。
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歴史
1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれたのは、「徳川家定」(とくがわいえさだ)です。 徳川家定は1849年(嘉永2年)、2人目の正室として左大臣の娘であった「一条秀子」(いちじょうひでこ)を迎えました。 しかし、一条秀子は24歳であったにもかかわらず、子どもほどの身長しかなかったと伝えられており、江戸時代後期の事件などをまとめた「藤岡屋日記」(ふじおかやにっき)の記述によれば、一条秀子の身長は1m弱しかなかったとされています。徳川家定は、子どものような一条秀子を気に入っていたと推測されていますが、一条秀子は1850年(嘉永3年)に発病し、この世を去ってしまったのです。 徳川家定は、2度も正室を亡くしたあとしばらくは正室を迎えようとはせず、身の回りの世話は、側室であった「志賀」(しが)がしていました。徳川家定にはこの当時嫡男がおらず、跡継ぎとなる男子を儲けるためにも、3人目の正室を誰にするかが、政治問題となったのです。 一条秀子が没した頃、大奥ではいわゆる「薩摩派」(さつまは)の女中達が動き出します。そのなかで、徳川家斉の正室であった「広大院」(こうだいいん:元薩摩藩8代藩主・島津重豪[しまづしげひで]の娘)に仕えている尼が居ました。 その尼が、薩摩藩11代藩主で江戸に住んでいた「島津斉彬」(しまづなりあきら)に、「島津家」(しまづけ)に年頃の娘が居るかどうかを尋ねてきました。 長生きで子宝に恵まれた広大院にあやかって、2度も正室を亡くした徳川家定に、島津家から正室を迎えようとしたのです。 しかしこれは徳川家定自身の考えと言うよりも、島津斉彬と老中首座の阿部正弘による画策であったと考えられています。 また、朝廷の摂関家筆頭である「近衛家」(このえけ)の27代当主「近衛忠煕」(このえただひろ)の正室「郁姫」(いくひめ)が、島津斉彬の叔母であったことから、近衛忠煕と島津斉彬は親密な関係を築いていました。 郁姫は、この徳川家定の正室問題が起こった1850年(嘉永3年)に亡くなりましたが、島津斉彬と近衛忠煕の仲は変わることがなかったため、近衛忠煕からも、島津家から徳川家定の正室候補を出すように島津斉彬に働きかけています。このとき近衛忠煕は、島津家の姫を近衛家の養女として迎え入れ、徳川家定の正室にしようと考えていたのです。 1851年(嘉永4年)薩摩藩主となった島津斉彬は、島津家正室候補の姫を、正式に近衛忠煕の養女とすることなどを近衛忠煕に相談。このとき、島津斉彬自身には娘がいなかったため、島津家分家の娘であり健康であった16歳の「一子」(かつこ)を正室候補に選んでいます。 1852年(嘉永5年)、江戸入りした島津斉彬は、養女の一子を「篤姫」(あつひめ)の名前で、実子として幕府に「丈夫届」(じょうぶとどけ:子どもが十分に成長した段階で届け出る出生届)を提出。 そして1853年(嘉永6年)、アメリカからペリー提督が率いる4隻の艦船が、浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市)に来航したのと同じ年に、12代将軍の徳川家慶が没すると、篤姫は鹿児島から京都に向けて出発。このとき正式に近衛忠煕の養女となり、その名を「藤原敬子」(ふじわらすみこ)に改めたのです。 その一方で、徳川家定が13代将軍に就任。藤原敬子は、江戸の薩摩藩邸へ入りましたが、徳川家慶の喪に服するなどの理由で、徳川家定と藤原敬子の婚儀は大幅に延期されることになりました。 1854年(安政元年)1月16日には、ペリー提督が再び浦賀沖に来航。このときには7隻もの艦船を率いており、徳川家慶が亡くなった混乱に乗じて「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)の締結を迫ったのです。そののち、江戸幕府は3月3日に日米和親条約に調印しています。 そんな情勢のなか、1854年(安政元年)、及び1855年(安政2年)に起こった「安政の大地震」(あんせいのだいじしん)により、徳川家定と藤原敬子の婚儀はさらに延期されることに。そして1856年(安政3年)に徳川家定と藤原敬子は、ようやく婚儀を挙げることができ、正式に夫婦となったのです。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、2人目の正室として誰を迎えたか。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、2人目の正室として一条秀子を迎えた。
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歴史
真田幸村の名前には、色々な説がある。 兄の真田信幸は「私の弟の本当の名前は武田信玄の舎弟である典厩と同じ名前だし字も同じだよ」と言っている信繁であることは確実だった。 『真田家古老物語』の著者である桃井友直は「考えた所最初は信繁と名乗りその後に幸重になり、後に信賀と名乗っているのだろう」と言っている。  大阪の陣の前後には幸村が名乗ったのだと思うが『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。 これで見ると徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。 しかし、とにかく真田幸村という名前が徳川時代の大衆文学者に採用されたためこの名前が圧倒的に有名になったのだろう。  むかしは姓名判断などはなかったのであるが幸村ほど智才優れた者は何かにつけていろいろと名前を変えたのだろう。  真田は信濃の名族である海野小太郎の最後に生まれた子で、相当な名族であり祖父の幸隆の時代に武田家に仕えたが、この幸隆が敵を同士討ちさせるアイディアを上手く出せる智将である。 真田三代記というが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。  真田幸村が豊臣家をひいきにしている武士というべきでもないのに、なぜ豊臣秀頼のために華々しき戦死を遂げたかという理由には、おそらく父の真田昌幸から徳川家といろいろあったのである。  上州の沼田は利根川の上流が片品川とくっつく所にあり、右に利根川左に片品川がある非常に敵を防ぐのに適している地であるが、関東管領の家が亡びた後に真田が自力で切り取った土地である。  武田家が亡びた後、真田家は表面上は徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時北条側の要求によって沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田家に「沼田を北条へ渡してくれ、その代わりお前には上田をやる」といった。  ところが真田昌幸は「上田は武田信玄時代から真田が持ってる場所だし、徳川から貰う筋合いはない。その上、沼田は俺が頑張って取った土地だ。理由もなく人にやるわけない」といって家康の要求を断り、さらにひそかに豊臣秀吉に使いを出して、手下にしてくれとお願いした。  家康は怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政達に攻めさせた。  それを昌幸が相当な軍略を使って撃退している。 小牧山の直後、秀吉と家康の関係がこじれていた時だから、秀吉が上杉景勝に命じて昌幸を応援させるはずだったという。  この競り合いが真田家が徳川家を相手にした最初の出来事である。と同時に真田が秀吉のひいきになる。  その後、家康が秀吉と和睦したので、真田昌幸も地勢の関係上家康と和睦した。  家康は昌幸の武勇は侮れないと思い、真田の長男である信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。 そして使いを出すと、真田昌幸は「お前のような使者の言う事は信じられない。聞き間違いだろう。帰ってもう一回聞いてこい」といって受けつけなかった。  徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと思いが良くわかる。  そこで家康が秀吉に相談すると、 「真田の言う事ももっともだ。中務が娘を育てている間に、私が婿に迎えるというなら引き受けるだろう」と、いったとある。  家康は即座に本多忠勝の娘を養女にして、信幸の嫁にさせた。 結局、真田信幸は女房の縁に引かれて、後に父や弟と別れて徳川家康に付いて従ったわけである。  ところが天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛しようと交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田を一部よこせというのである。 先年徳川と和平をした時に貰うハズであったが、真田家がわがままを言って貰えなかった。 今度はぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると提案した。この時の北条の使いが板部岡江雪斎という男だ。  北条としては沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうがそういう難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようというのであろう。  秀吉はすぐに、上州の領地のうち、全体の三分の二を北条家に譲り、残りの三分の一を真田家の領土とした。 そして沼田に対する所有権は徳川から真田に与えさせることにした。  江雪斎もそれを理解して帰った。 ところが、沼田の城代となった猪俣範直という武士がむちゃくちゃで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃城まで攻め取ってしまったのである。 昌幸がそれを豊臣秀吉に訴えた。豊臣秀吉は北条家の条約違反に怒って、ついに小田原征討を決心したのである。  昌幸からいえば自分の面目を立ててもらうために、北条征伐を秀吉が決めてくれたのでかなり嬉しかったに違いないだろうと思う。 関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、この時の感激を覚えていたのであろう。
秀吉によって上州の領地が北条家と真田家に分けられたが、分けられた領地の割合が少ないほうを教えてください。
秀吉によって上州の領地が北条家と真田家に分けられたが、分けられた領地の割合が少ないほうは真田家で全体の三分の一です。
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歴史
ローマ帝国 事実上の皇帝独裁 前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。 アウグストゥス 「尊厳者」の意 アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。 このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。 以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。 ローマの平和(パクス=ロマーナ) 最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。 ネルウァ(在位96~98) トラヤヌス(在位98~117) ハドリアヌス(在位117~138) アントニヌス=ビウス(在位138~161) マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180) 五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。 ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。 ローマ帝国の最大領域 ローマ帝国の最大領域 ローマ帝国の支配と活動 ローマは都市を通して属州を支配しました。 都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。 他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。 全自由人の市民化 212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。 帝国の瓦解 五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。 3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。 また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。 農奴制の先駆 軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。 大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。 この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。 コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。 上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。 コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。 前の内容 ローマ共和政 次の内容 帝国の分裂とキリスト教 一覧 (C) ちとにとせ / since December 2.2013 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プリニウスとプルタルコスの違いを説明して下さい。
プリニウスは百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物ですが、 一方、プルタルコスはギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物です。
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歴史
1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれたのは、「徳川家定」(とくがわいえさだ)です。 徳川家定は1849年(嘉永2年)、2人目の正室として左大臣の娘であった「一条秀子」(いちじょうひでこ)を迎えました。 しかし、一条秀子は24歳であったにもかかわらず、子どもほどの身長しかなかったと伝えられており、江戸時代後期の事件などをまとめた「藤岡屋日記」(ふじおかやにっき)の記述によれば、一条秀子の身長は1m弱しかなかったとされています。徳川家定は、子どものような一条秀子を気に入っていたと推測されていますが、一条秀子は1850年(嘉永3年)に発病し、この世を去ってしまったのです。 徳川家定は、2度も正室を亡くしたあとしばらくは正室を迎えようとはせず、身の回りの世話は、側室であった「志賀」(しが)がしていました。徳川家定にはこの当時嫡男がおらず、跡継ぎとなる男子を儲けるためにも、3人目の正室を誰にするかが、政治問題となったのです。 一条秀子が没した頃、大奥ではいわゆる「薩摩派」(さつまは)の女中達が動き出します。そのなかで、徳川家斉の正室であった「広大院」(こうだいいん:元薩摩藩8代藩主・島津重豪[しまづしげひで]の娘)に仕えている尼が居ました。 その尼が、薩摩藩11代藩主で江戸に住んでいた「島津斉彬」(しまづなりあきら)に、「島津家」(しまづけ)に年頃の娘が居るかどうかを尋ねてきました。 長生きで子宝に恵まれた広大院にあやかって、2度も正室を亡くした徳川家定に、島津家から正室を迎えようとしたのです。 しかしこれは徳川家定自身の考えと言うよりも、島津斉彬と老中首座の阿部正弘による画策であったと考えられています。 また、朝廷の摂関家筆頭である「近衛家」(このえけ)の27代当主「近衛忠煕」(このえただひろ)の正室「郁姫」(いくひめ)が、島津斉彬の叔母であったことから、近衛忠煕と島津斉彬は親密な関係を築いていました。 郁姫は、この徳川家定の正室問題が起こった1850年(嘉永3年)に亡くなりましたが、島津斉彬と近衛忠煕の仲は変わることがなかったため、近衛忠煕からも、島津家から徳川家定の正室候補を出すように島津斉彬に働きかけています。このとき近衛忠煕は、島津家の姫を近衛家の養女として迎え入れ、徳川家定の正室にしようと考えていたのです。 1851年(嘉永4年)薩摩藩主となった島津斉彬は、島津家正室候補の姫を、正式に近衛忠煕の養女とすることなどを近衛忠煕に相談。このとき、島津斉彬自身には娘がいなかったため、島津家分家の娘であり健康であった16歳の「一子」(かつこ)を正室候補に選んでいます。 1852年(嘉永5年)、江戸入りした島津斉彬は、養女の一子を「篤姫」(あつひめ)の名前で、実子として幕府に「丈夫届」(じょうぶとどけ:子どもが十分に成長した段階で届け出る出生届)を提出。 そして1853年(嘉永6年)、アメリカからペリー提督が率いる4隻の艦船が、浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市)に来航したのと同じ年に、12代将軍の徳川家慶が没すると、篤姫は鹿児島から京都に向けて出発。このとき正式に近衛忠煕の養女となり、その名を「藤原敬子」(ふじわらすみこ)に改めたのです。 その一方で、徳川家定が13代将軍に就任。藤原敬子は、江戸の薩摩藩邸へ入りましたが、徳川家慶の喪に服するなどの理由で、徳川家定と藤原敬子の婚儀は大幅に延期されることになりました。 1854年(安政元年)1月16日には、ペリー提督が再び浦賀沖に来航。このときには7隻もの艦船を率いており、徳川家慶が亡くなった混乱に乗じて「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)の締結を迫ったのです。そののち、江戸幕府は3月3日に日米和親条約に調印しています。 そんな情勢のなか、1854年(安政元年)、及び1855年(安政2年)に起こった「安政の大地震」(あんせいのだいじしん)により、徳川家定と藤原敬子の婚儀はさらに延期されることに。そして1856年(安政3年)に徳川家定と藤原敬子は、ようやく婚儀を挙げることができ、正式に夫婦となったのです。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、子どものような一条秀子をどのように思っていたと推測されていたか。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、子どものような一条秀子を気に入っていたと推測されていた。
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歴史
東西手切れとなった瞬間に真田幸村は城を出て東軍を迎え撃つべきだと力説した。 後藤又兵衛もまた真田幸村の説を採用するべきだと後押ししたが、大野や渡辺などが聞き入れてくれず、ついに籠城をするべきだという説が勝った。 籠城の準備として大阪城へ大軍が進むであろう道は南側しかないので、こっちの方面に砦を築く事になった。 玉造口を隔てて笹山があり、砦を築くには非常に好都合な所なのでさっそく砦の構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつの間にか「この出丸を堅固に守れる人は、真田幸村以外にいないだろう」と言い合って、いつの間にか真田丸という名前が付いてしまった。 城の中で会議した結果、真田幸村は守備の将をやるようにと命じられた。 しかし真田幸村は、自分には部下が七十人位しかいないのでという理由で辞退したが、後藤が「人夫どもまでが真田丸といっている以上、真田幸村が引受けないってのは良く無いんじゃないか?」と言ったので、「そういうことならば縄張りも自分にやらせてほしい」と言って引き受けた。 真田家というより真田昌幸から伝授された秘法によって、出丸を築いた。 真田幸村が「出丸の曲尺であっても兵家の秘法になる」と『慶元記参考』にある。 真田幸村は冬の陣の間中自分に付けられた真田軍として三千人を率いてこの危険な小さな砦を守り、徳川軍三万の大軍を四方から受けても恐れる事はなかった。 真田丸の砦は、大阪冬の陣中、遂に破られなかった。 講和を結んでから徳川家康は、幸村を勧誘しようとして幸村の叔父である隠岐守信尹を使いとして「信州の土地三万石をやるから」と言って、味方になるように誘った。 幸村は出丸の外に叔父の信尹を迎えて久しぶりの対面を喜んだが、徳川家に付く事だけはきっぱり断った。 信尹はやむなく引き返して、家康にその話を伝えると、家康は「では信濃一国を渡すからどうか頼むともう一回言って来てくれ」と言った。 信尹は再び幸村に対面してこういうと「信濃一国だけじゃなく天下を渡すと言われても、秀頼公に背いたり不義をするようなことはできない。またこんな事言いに来たら次は命の保証はしませんよ」と追い返した。 『常山紀談』の著者などは「この場合幸村が豊臣家のためにこのような義理を通そうとしたのを道理にかなってるとは言ってはならない」と言っている。 「豊臣家は真田家にとって長年にわたって君主になってるわけじゃない。もし彼が忠義を貫くべきというのなら、武田家が亡びた後に山中に隠れなければならないのはなんでだろうか?」 などと評している。
真田幸村が冬の陣の間真田丸を守った軍勢と、真田丸に攻め入った軍勢のうち、数が多いほうを教えてください。
真田幸村が冬の陣の間真田丸を守った軍勢と、真田丸に攻め入った軍勢のうち、数が多いほうは徳川軍で三万です。
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歴史
ローマ帝国 事実上の皇帝独裁 前27年、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥスの称号を与えられ、事実上のローマ皇帝となりました。 アウグストゥス 「尊厳者」の意 アウグストゥスは、共和政の伝統を尊重しつつも、政治・軍事の実権を握りました。 このように、名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重する帝政を元首政と呼びます。 以降約200年間の時代はローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼び、繁栄と平和が続きました。 ローマの平和(パクス=ロマーナ) 最盛期の98~180年には、次の5人の名君が現れ、五賢帝時代と呼ばれています。 ネルウァ(在位96~98) トラヤヌス(在位98~117) ハドリアヌス(在位117~138) アントニヌス=ビウス(在位138~161) マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180) 五賢帝の1人トラヤヌス帝のときにローマの領土は最大となりました。 ローマ風の都市が国境付近まで建設され、後にロンドン・パリなど近代都市になったものも多くありました。 ローマ帝国の最大領域 ローマ帝国の最大領域 ローマ帝国の支配と活動 ローマは都市を通して属州を支配しました。 都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。 他方、ローマ支配のもとで重税に苦しむ属州下層民もいました。 全自由人の市民化 212年、カラカラ帝のときには、帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。 帝国の瓦解 五賢帝最後の治世末期、ローマ帝国のいきづまりが露わになりました。 3世紀末、軍人出身の皇帝の擁立・退位が頻発し、軍人皇帝の時代と呼ばれます。 また、異民族が国境に侵入し、戦乱が止みませんでした。 農奴制の先駆 軍人皇帝の時代には、奴隷の供給が途絶え、その労働力に頼ったラティフンディアが行き詰まりました。 大土地所有者は、没落した自由農民やかつての奴隷などで構成された 小作人(コロヌス)を用いるようになりました。 この生産体制をコロナトゥスと呼び、従来のラティフンディアにとってかわりました。 コロヌスには、移動の自由が認められませんでした 。 上述のように、奴隷供給が困難となったことが、コロヌス制発展の一因となりました 。 コロヌス制は、西ヨーロッパ中世世界の農奴制の先駆形態となりました 。 前の内容 ローマ共和政 次の内容 帝国の分裂とキリスト教 一覧 (C) ちとにとせ / since December 2.2013 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プリニウスとストラボンの違いを説明して下さい。
プリニウスは百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物ですが、 一方、ストラボンは当時知られていた全世界の地誌を記述した人物です。
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歴史
1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれたのは、「徳川家定」(とくがわいえさだ)です。 徳川家定は1849年(嘉永2年)、2人目の正室として左大臣の娘であった「一条秀子」(いちじょうひでこ)を迎えました。 しかし、一条秀子は24歳であったにもかかわらず、子どもほどの身長しかなかったと伝えられており、江戸時代後期の事件などをまとめた「藤岡屋日記」(ふじおかやにっき)の記述によれば、一条秀子の身長は1m弱しかなかったとされています。徳川家定は、子どものような一条秀子を気に入っていたと推測されていますが、一条秀子は1850年(嘉永3年)に発病し、この世を去ってしまったのです。 徳川家定は、2度も正室を亡くしたあとしばらくは正室を迎えようとはせず、身の回りの世話は、側室であった「志賀」(しが)がしていました。徳川家定にはこの当時嫡男がおらず、跡継ぎとなる男子を儲けるためにも、3人目の正室を誰にするかが、政治問題となったのです。 一条秀子が没した頃、大奥ではいわゆる「薩摩派」(さつまは)の女中達が動き出します。そのなかで、徳川家斉の正室であった「広大院」(こうだいいん:元薩摩藩8代藩主・島津重豪[しまづしげひで]の娘)に仕えている尼が居ました。 その尼が、薩摩藩11代藩主で江戸に住んでいた「島津斉彬」(しまづなりあきら)に、「島津家」(しまづけ)に年頃の娘が居るかどうかを尋ねてきました。 長生きで子宝に恵まれた広大院にあやかって、2度も正室を亡くした徳川家定に、島津家から正室を迎えようとしたのです。 しかしこれは徳川家定自身の考えと言うよりも、島津斉彬と老中首座の阿部正弘による画策であったと考えられています。 また、朝廷の摂関家筆頭である「近衛家」(このえけ)の27代当主「近衛忠煕」(このえただひろ)の正室「郁姫」(いくひめ)が、島津斉彬の叔母であったことから、近衛忠煕と島津斉彬は親密な関係を築いていました。 郁姫は、この徳川家定の正室問題が起こった1850年(嘉永3年)に亡くなりましたが、島津斉彬と近衛忠煕の仲は変わることがなかったため、近衛忠煕からも、島津家から徳川家定の正室候補を出すように島津斉彬に働きかけています。このとき近衛忠煕は、島津家の姫を近衛家の養女として迎え入れ、徳川家定の正室にしようと考えていたのです。 1851年(嘉永4年)薩摩藩主となった島津斉彬は、島津家正室候補の姫を、正式に近衛忠煕の養女とすることなどを近衛忠煕に相談。このとき、島津斉彬自身には娘がいなかったため、島津家分家の娘であり健康であった16歳の「一子」(かつこ)を正室候補に選んでいます。 1852年(嘉永5年)、江戸入りした島津斉彬は、養女の一子を「篤姫」(あつひめ)の名前で、実子として幕府に「丈夫届」(じょうぶとどけ:子どもが十分に成長した段階で届け出る出生届)を提出。 そして1853年(嘉永6年)、アメリカからペリー提督が率いる4隻の艦船が、浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市)に来航したのと同じ年に、12代将軍の徳川家慶が没すると、篤姫は鹿児島から京都に向けて出発。このとき正式に近衛忠煕の養女となり、その名を「藤原敬子」(ふじわらすみこ)に改めたのです。 その一方で、徳川家定が13代将軍に就任。藤原敬子は、江戸の薩摩藩邸へ入りましたが、徳川家慶の喪に服するなどの理由で、徳川家定と藤原敬子の婚儀は大幅に延期されることになりました。 1854年(安政元年)1月16日には、ペリー提督が再び浦賀沖に来航。このときには7隻もの艦船を率いており、徳川家慶が亡くなった混乱に乗じて「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)の締結を迫ったのです。そののち、江戸幕府は3月3日に日米和親条約に調印しています。 そんな情勢のなか、1854年(安政元年)、及び1855年(安政2年)に起こった「安政の大地震」(あんせいのだいじしん)により、徳川家定と藤原敬子の婚儀はさらに延期されることに。そして1856年(安政3年)に徳川家定と藤原敬子は、ようやく婚儀を挙げることができ、正式に夫婦となったのです。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、2度も正室を亡くしたあと、身の回りの世話は誰に任せたか。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、2度も正室を亡くしたあとしばらくは正室を迎えようとせず、身の回りの世話は、側室であった志賀に任せた。
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歴史
真田昌幸と真田幸村は、信州へ引き返す途中に沼田へ立ち寄ろうとした。 沼田城は真田信幸の居城であり、信幸の妻たるあの本多忠勝の娘である小松姫が留守を守っていたが、昌幸が入城しようとすると 「すでに父と子が敵対関係となっている以上、たとえ父だろうと城に入れるわけにはいかない!」と城門を閉ざして女房共に武装させて、厩にいた葦毛の馬を玄関につなげた。 真田昌幸は怒るどころか感心して「さすが日本一と世にいえる本多忠勝の娘よ。弓取の妻はこうあるべきよ!」と寄らずに上田へ帰った。 本多平八郎忠勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山の役においてたった五百騎で、豊臣秀吉の二万の大軍を牽制して、豊臣秀吉を感嘆させた男である。 蜻蛉切りという長い槍を持っている随一の武功の男である。 ある時本多忠勝は子息である本多忠朝と、居城である桑名城の濠に船を浮かべて、本多忠朝に「櫂であの葦を薙ぎはらって見よ」と言った。 本多忠朝も強力無双の若者であるが、櫂を取って葦を払うと、一本の葦が切れた。本多忠勝はそれを見て「今の若者は手ぬるいなあ、私に貸せ」と、自身が櫂を持って横に払うと、五本の葦が切れたという。 とにかく秀吉に忠信の兜を受け継ぐものは、本多忠勝の外にないといわれたり「関東の本多忠勝、関西の立花宗茂」と比べられたりした典型的な武人である。
本多忠勝と本多忠朝が、居城である桑名城の濠の船で、切った葦の本数が多いほうを教えてください。
本多忠勝と本多忠朝が、居城である桑名城の濠の船で、切った葦の本数が多いほうは本多忠勝で五本です。
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歴史
ローマの共和政は、当初貴族が強い権力をもっていました。やがて平民が力をつけて身分闘争を展開し、市民による共和政へと移行します。またローマは、前2世紀には地中海をほぼ征服しました。この過程で経済的な格差が広がり、市民を土台としたローマの共和政が崩れていきます。 成立と変遷 前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住しました。 ティベル川のほとりに都市国家ローマが建設されました。 ローマは、はじめ先住民エトルリア人の王に支配されていました。 前6世紀末にエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政となりました。 ローマの身分 貴族(パトリキ) 土地と奴隷などの資産をもつ上位階層 平民(プレブス) パトリキ以外のローマ一般市民 国政の変遷 民会 全男性市民によって開催される議決機関 執政官(コンスル) 最高の役人で、民会によって貴族から任期1年で2名選出 元老院 終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関 国政全般に影響力をもち、民会での決定も元老院の承認が必要 平民は、重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになりました。 平民は貴族の政権独占に不満を抱き、身分闘争を起こしました。 前5世紀、平民を保護するために次の役職・機関・法が登場しました。 護民官 平民出身から選ばれる役職で、元老院やコンスルの決定に拒否権を行使可能 平民会 民会の1つとして新設され、平民だけで構成 十二表法 貴族による法知識の独占を破り、旧来の慣習法を成文化したもの 前367年、リキニウス・セクスティウス法 貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法 前287年、ホルテンシウス法 平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法 貴族と平民が法的に平等となり、身分闘争は終了しました。 ローマ共和政とギリシア民主政 次の3点で、ローマ共和政は、貧富関係なく市民が政治参加できたギリシア民主政と大きく異なりました。 ホルテンシウス法の制定後、一部の富裕な平民が貴族に加わり、新しい支配階層が成立して政権を独占 元老院が実質的に指導権を維持 非常時に独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使 ローマの征服事業 地中海征服 前3世紀前半、ローマは全イタリア半島を支配しました。 次の2つの方法で、ローマは広い領域の支配に成功しました。 分割統治 征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を付与し、被支配者の団結と反抗を阻止 服属した住民の一部にローマ市民権を付与(ポリスとの違い) 前264~前146年、ポエニ戦争 フェニキア人の植民市カルタゴとの3度にわたる衝突 イタリア半島以外のローマの征服地属州を獲得(最初はシチリア) カルタゴの将軍ハンニバルに一時追い込まれたが、後に戦局を挽回してローマが勝利 前2世紀半ば、マケドニアとギリシア諸ポリスを支配して地中海全体をほぼ制覇 ローマの変質 征服事業が続くうちに、次の人々に変化が生じ、経済的格差が広がりました。 中小農民 出征するうちに農地が荒廃して没落 属州からの安い穀物が生活を支えたので、いっそうの征服事業を渇望 元老院議員・騎士階層 属州統治を任されたり、徴税を請け負ったりして、莫大な富を獲得 公有地や農民が手放した土地を買い集め、戦争捕虜である奴隷を使って大規模に農業経営(ラティフンディア) ラティフンディアの農園跡 ラティフンディアの農園跡 前2世紀後半、市民の平等を原則としたローマの性格は変質し、共和政の土台が揺らぎました。 政治家は、次の2つの勢力にわかれて争いました。 閥族派 元老院の伝統的支配をまもろうとする勢力 平民派 無産市民や騎士が支持する勢力 内乱の1世紀 グラックス兄弟は、農民の没落による軍事力低下を心配しました。 兄弟は、あいついで護民官になり、大土地所有者の土地没収と無産市民への分配を考えました。 しかし、この改革は反対にあって失敗しました。 紀元前1世紀、有力政治家は配下を多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争い始めました。 この時期を「内乱の1世紀」と呼んでいます。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プリニウスとキケロの違いを説明して下さい。
プリニウスは百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物ですが、 一方、キケロは優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立です。
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歴史
1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれたのは、「徳川家定」(とくがわいえさだ)です。 徳川家定は1849年(嘉永2年)、2人目の正室として左大臣の娘であった「一条秀子」(いちじょうひでこ)を迎えました。 しかし、一条秀子は24歳であったにもかかわらず、子どもほどの身長しかなかったと伝えられており、江戸時代後期の事件などをまとめた「藤岡屋日記」(ふじおかやにっき)の記述によれば、一条秀子の身長は1m弱しかなかったとされています。徳川家定は、子どものような一条秀子を気に入っていたと推測されていますが、一条秀子は1850年(嘉永3年)に発病し、この世を去ってしまったのです。 徳川家定は、2度も正室を亡くしたあとしばらくは正室を迎えようとはせず、身の回りの世話は、側室であった「志賀」(しが)がしていました。徳川家定にはこの当時嫡男がおらず、跡継ぎとなる男子を儲けるためにも、3人目の正室を誰にするかが、政治問題となったのです。 一条秀子が没した頃、大奥ではいわゆる「薩摩派」(さつまは)の女中達が動き出します。そのなかで、徳川家斉の正室であった「広大院」(こうだいいん:元薩摩藩8代藩主・島津重豪[しまづしげひで]の娘)に仕えている尼が居ました。 その尼が、薩摩藩11代藩主で江戸に住んでいた「島津斉彬」(しまづなりあきら)に、「島津家」(しまづけ)に年頃の娘が居るかどうかを尋ねてきました。 長生きで子宝に恵まれた広大院にあやかって、2度も正室を亡くした徳川家定に、島津家から正室を迎えようとしたのです。 しかしこれは徳川家定自身の考えと言うよりも、島津斉彬と老中首座の阿部正弘による画策であったと考えられています。 また、朝廷の摂関家筆頭である「近衛家」(このえけ)の27代当主「近衛忠煕」(このえただひろ)の正室「郁姫」(いくひめ)が、島津斉彬の叔母であったことから、近衛忠煕と島津斉彬は親密な関係を築いていました。 郁姫は、この徳川家定の正室問題が起こった1850年(嘉永3年)に亡くなりましたが、島津斉彬と近衛忠煕の仲は変わることがなかったため、近衛忠煕からも、島津家から徳川家定の正室候補を出すように島津斉彬に働きかけています。このとき近衛忠煕は、島津家の姫を近衛家の養女として迎え入れ、徳川家定の正室にしようと考えていたのです。 1851年(嘉永4年)薩摩藩主となった島津斉彬は、島津家正室候補の姫を、正式に近衛忠煕の養女とすることなどを近衛忠煕に相談。このとき、島津斉彬自身には娘がいなかったため、島津家分家の娘であり健康であった16歳の「一子」(かつこ)を正室候補に選んでいます。 1852年(嘉永5年)、江戸入りした島津斉彬は、養女の一子を「篤姫」(あつひめ)の名前で、実子として幕府に「丈夫届」(じょうぶとどけ:子どもが十分に成長した段階で届け出る出生届)を提出。 そして1853年(嘉永6年)、アメリカからペリー提督が率いる4隻の艦船が、浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市)に来航したのと同じ年に、12代将軍の徳川家慶が没すると、篤姫は鹿児島から京都に向けて出発。このとき正式に近衛忠煕の養女となり、その名を「藤原敬子」(ふじわらすみこ)に改めたのです。 その一方で、徳川家定が13代将軍に就任。藤原敬子は、江戸の薩摩藩邸へ入りましたが、徳川家慶の喪に服するなどの理由で、徳川家定と藤原敬子の婚儀は大幅に延期されることになりました。 1854年(安政元年)1月16日には、ペリー提督が再び浦賀沖に来航。このときには7隻もの艦船を率いており、徳川家慶が亡くなった混乱に乗じて「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)の締結を迫ったのです。そののち、江戸幕府は3月3日に日米和親条約に調印しています。 そんな情勢のなか、1854年(安政元年)、及び1855年(安政2年)に起こった「安政の大地震」(あんせいのだいじしん)により、徳川家定と藤原敬子の婚儀はさらに延期されることに。そして1856年(安政3年)に徳川家定と藤原敬子は、ようやく婚儀を挙げることができ、正式に夫婦となったのです。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物には、この当時嫡男がいなかったため、どのようなことが政治問題となったか。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物には、この当時嫡男がいなかったため、跡継ぎとなる男子を儲けるためにも、3人目の正室を誰にするかが、政治問題となった。
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歴史
真田昌幸と真田幸村は、信州へ引き返す途中に沼田へ立ち寄ろうとした。 沼田城は真田信幸の居城であり、信幸の妻たるあの本多忠勝の娘である小松姫が留守を守っていたが、昌幸が入城しようとすると 「すでに父と子が敵対関係となっている以上、たとえ父だろうと城に入れるわけにはいかない!」と城門を閉ざして女房共に武装させて、厩にいた葦毛の馬を玄関につなげた。 真田昌幸は怒るどころか感心して「さすが日本一と世にいえる本多忠勝の娘よ。弓取の妻はこうあるべきよ!」と寄らずに上田へ帰った。 本多平八郎忠勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山の役においてたった五百騎で、豊臣秀吉の二万の大軍を牽制して、豊臣秀吉を感嘆させた男である。 蜻蛉切りという長い槍を持っている随一の武功の男である。 ある時本多忠勝は子息である本多忠朝と、居城である桑名城の濠に船を浮かべて、本多忠朝に「櫂であの葦を薙ぎはらって見よ」と言った。 本多忠朝も強力無双の若者であるが、櫂を取って葦を払うと、一本の葦が切れた。本多忠勝はそれを見て「今の若者は手ぬるいなあ、私に貸せ」と、自身が櫂を持って横に払うと、五本の葦が切れたという。 とにかく秀吉に忠信の兜を受け継ぐものは、本多忠勝の外にないといわれたり「関東の本多忠勝、関西の立花宗茂」と比べられたりした典型的な武人である。
本多忠勝と本多忠朝が、居城である桑名城の濠の船で、切った葦の本数が少ないほうを教えてください。
本多忠勝と本多忠朝が、居城である桑名城の濠の船で、切った葦の本数が少ないほうは本多忠朝で一本です。
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歴史
ローマの共和政は、当初貴族が強い権力をもっていました。やがて平民が力をつけて身分闘争を展開し、市民による共和政へと移行します。またローマは、前2世紀には地中海をほぼ征服しました。この過程で経済的な格差が広がり、市民を土台としたローマの共和政が崩れていきます。 成立と変遷 前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住しました。 ティベル川のほとりに都市国家ローマが建設されました。 ローマは、はじめ先住民エトルリア人の王に支配されていました。 前6世紀末にエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政となりました。 ローマの身分 貴族(パトリキ) 土地と奴隷などの資産をもつ上位階層 平民(プレブス) パトリキ以外のローマ一般市民 国政の変遷 民会 全男性市民によって開催される議決機関 執政官(コンスル) 最高の役人で、民会によって貴族から任期1年で2名選出 元老院 終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関 国政全般に影響力をもち、民会での決定も元老院の承認が必要 平民は、重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになりました。 平民は貴族の政権独占に不満を抱き、身分闘争を起こしました。 前5世紀、平民を保護するために次の役職・機関・法が登場しました。 護民官 平民出身から選ばれる役職で、元老院やコンスルの決定に拒否権を行使可能 平民会 民会の1つとして新設され、平民だけで構成 十二表法 貴族による法知識の独占を破り、旧来の慣習法を成文化したもの 前367年、リキニウス・セクスティウス法 貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法 前287年、ホルテンシウス法 平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法 貴族と平民が法的に平等となり、身分闘争は終了しました。 ローマ共和政とギリシア民主政 次の3点で、ローマ共和政は、貧富関係なく市民が政治参加できたギリシア民主政と大きく異なりました。 ホルテンシウス法の制定後、一部の富裕な平民が貴族に加わり、新しい支配階層が成立して政権を独占 元老院が実質的に指導権を維持 非常時に独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使 ローマの征服事業 地中海征服 前3世紀前半、ローマは全イタリア半島を支配しました。 次の2つの方法で、ローマは広い領域の支配に成功しました。 分割統治 征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を付与し、被支配者の団結と反抗を阻止 服属した住民の一部にローマ市民権を付与(ポリスとの違い) 前264~前146年、ポエニ戦争 フェニキア人の植民市カルタゴとの3度にわたる衝突 イタリア半島以外のローマの征服地属州を獲得(最初はシチリア) カルタゴの将軍ハンニバルに一時追い込まれたが、後に戦局を挽回してローマが勝利 前2世紀半ば、マケドニアとギリシア諸ポリスを支配して地中海全体をほぼ制覇 ローマの変質 征服事業が続くうちに、次の人々に変化が生じ、経済的格差が広がりました。 中小農民 出征するうちに農地が荒廃して没落 属州からの安い穀物が生活を支えたので、いっそうの征服事業を渇望 元老院議員・騎士階層 属州統治を任されたり、徴税を請け負ったりして、莫大な富を獲得 公有地や農民が手放した土地を買い集め、戦争捕虜である奴隷を使って大規模に農業経営(ラティフンディア) ラティフンディアの農園跡 ラティフンディアの農園跡 前2世紀後半、市民の平等を原則としたローマの性格は変質し、共和政の土台が揺らぎました。 政治家は、次の2つの勢力にわかれて争いました。 閥族派 元老院の伝統的支配をまもろうとする勢力 平民派 無産市民や騎士が支持する勢力 内乱の1世紀 グラックス兄弟は、農民の没落による軍事力低下を心配しました。 兄弟は、あいついで護民官になり、大土地所有者の土地没収と無産市民への分配を考えました。 しかし、この改革は反対にあって失敗しました。 紀元前1世紀、有力政治家は配下を多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争い始めました。 この時期を「内乱の1世紀」と呼んでいます。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プリニウスとマルクス=アウレリウス=アントニヌスの違いを説明して下さい。
プリニウスは百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物ですが、 一方、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人で中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場しました。
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歴史
1824年(文政7年)4月8日、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の四男として、「江戸城」(えどじょう)の西の丸で生まれたのは、「徳川家定」(とくがわいえさだ)です。 徳川家定は1849年(嘉永2年)、2人目の正室として左大臣の娘であった「一条秀子」(いちじょうひでこ)を迎えました。 しかし、一条秀子は24歳であったにもかかわらず、子どもほどの身長しかなかったと伝えられており、江戸時代後期の事件などをまとめた「藤岡屋日記」(ふじおかやにっき)の記述によれば、一条秀子の身長は1m弱しかなかったとされています。徳川家定は、子どものような一条秀子を気に入っていたと推測されていますが、一条秀子は1850年(嘉永3年)に発病し、この世を去ってしまったのです。 徳川家定は、2度も正室を亡くしたあとしばらくは正室を迎えようとはせず、身の回りの世話は、側室であった「志賀」(しが)がしていました。徳川家定にはこの当時嫡男がおらず、跡継ぎとなる男子を儲けるためにも、3人目の正室を誰にするかが、政治問題となったのです。 一条秀子が没した頃、大奥ではいわゆる「薩摩派」(さつまは)の女中達が動き出します。そのなかで、徳川家斉の正室であった「広大院」(こうだいいん:元薩摩藩8代藩主・島津重豪[しまづしげひで]の娘)に仕えている尼が居ました。 その尼が、薩摩藩11代藩主で江戸に住んでいた「島津斉彬」(しまづなりあきら)に、「島津家」(しまづけ)に年頃の娘が居るかどうかを尋ねてきました。 長生きで子宝に恵まれた広大院にあやかって、2度も正室を亡くした徳川家定に、島津家から正室を迎えようとしたのです。 しかしこれは徳川家定自身の考えと言うよりも、島津斉彬と老中首座の阿部正弘による画策であったと考えられています。 また、朝廷の摂関家筆頭である「近衛家」(このえけ)の27代当主「近衛忠煕」(このえただひろ)の正室「郁姫」(いくひめ)が、島津斉彬の叔母であったことから、近衛忠煕と島津斉彬は親密な関係を築いていました。 郁姫は、この徳川家定の正室問題が起こった1850年(嘉永3年)に亡くなりましたが、島津斉彬と近衛忠煕の仲は変わることがなかったため、近衛忠煕からも、島津家から徳川家定の正室候補を出すように島津斉彬に働きかけています。このとき近衛忠煕は、島津家の姫を近衛家の養女として迎え入れ、徳川家定の正室にしようと考えていたのです。 1851年(嘉永4年)薩摩藩主となった島津斉彬は、島津家正室候補の姫を、正式に近衛忠煕の養女とすることなどを近衛忠煕に相談。このとき、島津斉彬自身には娘がいなかったため、島津家分家の娘であり健康であった16歳の「一子」(かつこ)を正室候補に選んでいます。 1852年(嘉永5年)、江戸入りした島津斉彬は、養女の一子を「篤姫」(あつひめ)の名前で、実子として幕府に「丈夫届」(じょうぶとどけ:子どもが十分に成長した段階で届け出る出生届)を提出。 そして1853年(嘉永6年)、アメリカからペリー提督が率いる4隻の艦船が、浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市)に来航したのと同じ年に、12代将軍の徳川家慶が没すると、篤姫は鹿児島から京都に向けて出発。このとき正式に近衛忠煕の養女となり、その名を「藤原敬子」(ふじわらすみこ)に改めたのです。 その一方で、徳川家定が13代将軍に就任。藤原敬子は、江戸の薩摩藩邸へ入りましたが、徳川家慶の喪に服するなどの理由で、徳川家定と藤原敬子の婚儀は大幅に延期されることになりました。 1854年(安政元年)1月16日には、ペリー提督が再び浦賀沖に来航。このときには7隻もの艦船を率いており、徳川家慶が亡くなった混乱に乗じて「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)の締結を迫ったのです。そののち、江戸幕府は3月3日に日米和親条約に調印しています。 そんな情勢のなか、1854年(安政元年)、及び1855年(安政2年)に起こった「安政の大地震」(あんせいのだいじしん)により、徳川家定と藤原敬子の婚儀はさらに延期されることに。そして1856年(安政3年)に徳川家定と藤原敬子は、ようやく婚儀を挙げることができ、正式に夫婦となったのです。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、何に就任したか。
1824年、12代将軍徳川家慶の四男として、江戸城の西の丸で生まれた人物は、13代将軍に就任した。
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歴史
真田昌幸と真田幸村は、信州へ引き返す途中に沼田へ立ち寄ろうとした。 沼田城は真田信幸の居城であり、信幸の妻たるあの本多忠勝の娘である小松姫が留守を守っていたが、昌幸が入城しようとすると 「すでに父と子が敵対関係となっている以上、たとえ父だろうと城に入れるわけにはいかない!」と城門を閉ざして女房共に武装させて、厩にいた葦毛の馬を玄関につなげた。 真田昌幸は怒るどころか感心して「さすが日本一と世にいえる本多忠勝の娘よ。弓取の妻はこうあるべきよ!」と寄らずに上田へ帰った。 本多平八郎忠勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山の役においてたった五百騎で、豊臣秀吉の二万の大軍を牽制して、豊臣秀吉を感嘆させた男である。 蜻蛉切りという長い槍を持っている随一の武功の男である。 ある時本多忠勝は子息である本多忠朝と、居城である桑名城の濠に船を浮かべて、本多忠朝に「櫂であの葦を薙ぎはらって見よ」と言った。 本多忠朝も強力無双の若者であるが、櫂を取って葦を払うと、一本の葦が切れた。本多忠勝はそれを見て「今の若者は手ぬるいなあ、私に貸せ」と、自身が櫂を持って横に払うと、五本の葦が切れたという。 とにかく秀吉に忠信の兜を受け継ぐものは、本多忠勝の外にないといわれたり「関東の本多忠勝、関西の立花宗茂」と比べられたりした典型的な武人である。
小牧山の役において、本田忠勝の軍勢と豊臣秀吉の軍勢のうち、数が多いほうを教えてください。
小牧山の役において、本田忠勝の軍勢と豊臣秀吉の軍勢のうち、数が多いほうをは豊臣秀吉の軍勢で二万です。
JCRRAG_018161
歴史
ローマの共和政は、当初貴族が強い権力をもっていました。やがて平民が力をつけて身分闘争を展開し、市民による共和政へと移行します。またローマは、前2世紀には地中海をほぼ征服しました。この過程で経済的な格差が広がり、市民を土台としたローマの共和政が崩れていきます。 成立と変遷 前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住しました。 ティベル川のほとりに都市国家ローマが建設されました。 ローマは、はじめ先住民エトルリア人の王に支配されていました。 前6世紀末にエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政となりました。 ローマの身分 貴族(パトリキ) 土地と奴隷などの資産をもつ上位階層 平民(プレブス) パトリキ以外のローマ一般市民 国政の変遷 民会 全男性市民によって開催される議決機関 執政官(コンスル) 最高の役人で、民会によって貴族から任期1年で2名選出 元老院 終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関 国政全般に影響力をもち、民会での決定も元老院の承認が必要 平民は、重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになりました。 平民は貴族の政権独占に不満を抱き、身分闘争を起こしました。 前5世紀、平民を保護するために次の役職・機関・法が登場しました。 護民官 平民出身から選ばれる役職で、元老院やコンスルの決定に拒否権を行使可能 平民会 民会の1つとして新設され、平民だけで構成 十二表法 貴族による法知識の独占を破り、旧来の慣習法を成文化したもの 前367年、リキニウス・セクスティウス法 貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法 前287年、ホルテンシウス法 平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法 貴族と平民が法的に平等となり、身分闘争は終了しました。 ローマ共和政とギリシア民主政 次の3点で、ローマ共和政は、貧富関係なく市民が政治参加できたギリシア民主政と大きく異なりました。 ホルテンシウス法の制定後、一部の富裕な平民が貴族に加わり、新しい支配階層が成立して政権を独占 元老院が実質的に指導権を維持 非常時に独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使 ローマの征服事業 地中海征服 前3世紀前半、ローマは全イタリア半島を支配しました。 次の2つの方法で、ローマは広い領域の支配に成功しました。 分割統治 征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を付与し、被支配者の団結と反抗を阻止 服属した住民の一部にローマ市民権を付与(ポリスとの違い) 前264~前146年、ポエニ戦争 フェニキア人の植民市カルタゴとの3度にわたる衝突 イタリア半島以外のローマの征服地属州を獲得(最初はシチリア) カルタゴの将軍ハンニバルに一時追い込まれたが、後に戦局を挽回してローマが勝利 前2世紀半ば、マケドニアとギリシア諸ポリスを支配して地中海全体をほぼ制覇 ローマの変質 征服事業が続くうちに、次の人々に変化が生じ、経済的格差が広がりました。 中小農民 出征するうちに農地が荒廃して没落 属州からの安い穀物が生活を支えたので、いっそうの征服事業を渇望 元老院議員・騎士階層 属州統治を任されたり、徴税を請け負ったりして、莫大な富を獲得 公有地や農民が手放した土地を買い集め、戦争捕虜である奴隷を使って大規模に農業経営(ラティフンディア) ラティフンディアの農園跡 ラティフンディアの農園跡 前2世紀後半、市民の平等を原則としたローマの性格は変質し、共和政の土台が揺らぎました。 政治家は、次の2つの勢力にわかれて争いました。 閥族派 元老院の伝統的支配をまもろうとする勢力 平民派 無産市民や騎士が支持する勢力 内乱の1世紀 グラックス兄弟は、農民の没落による軍事力低下を心配しました。 兄弟は、あいついで護民官になり、大土地所有者の土地没収と無産市民への分配を考えました。 しかし、この改革は反対にあって失敗しました。 紀元前1世紀、有力政治家は配下を多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争い始めました。 この時期を「内乱の1世紀」と呼んでいます。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プリニウスとアウグスティヌスの違いを説明して下さい。
プリニウスは百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物ですが、 一方、アウグスティヌスは教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物です。
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歴史
藤原敬子と結婚したばかりの徳川家定でしたが、先立った2人の正室との間には子がいなかったため、将軍継嗣問題が早々に幕府での最重要問題となっていました。 将軍継嗣候補に挙げられた人物のひとりが、「権現様」(ごんげんさま:徳川家康[とくがわいえやす])の再来と評されるほど英明であり、御三卿であった「一橋徳川家」(ひとつばしとくがわけ)の徳川慶喜です。 徳川慶喜の実母は、徳川家慶の正室「喬子女王」(たかこじょおう)の妹であり、徳川家定にとって徳川慶喜は、従兄弟にあたります。 そして、もうひとりの候補は、11代将軍であった徳川家斉の孫であり、御三家のひとつに数えられる「紀州徳川家」(きしゅうとくがわけ)の「徳川慶福」(とくがわよしとみ)のちの「徳川家茂」(とくがわいえもち)。 血筋としては徳川慶福が有利でしたが、徳川慶喜の実父である水戸藩藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)や親藩の「松平慶永」(まつだいらよしなが)、島津斉彬、老中首座の阿部正弘などの「一橋派」(ひとつばしは)が、一橋慶喜の次期将軍就任を画策していました。 これに対して、徳川慶福を次期将軍候補として推したのは、「彦根藩」(ひこねはん)の15代藩主「井伊直弼」(いいなおすけ)など、多くの譜代大名や御三卿の「田安家」(たやすけ)の出身「徳川慶頼」(とくがわよしより)らで、「南紀派」(なんきは)と呼ばれていたのです。 一橋派の徳川斉昭は、大奥の浪費などに対して良い感情を持っていなかったなどの理由から、大奥の女性達から忌み嫌われており、また、徳川家定が徳川慶喜に劣等感を持っていました。そのため一橋派は、次期将軍候補について、幕府に直接話を持ち掛けることはせず、勅命(天皇の命令)に基づいて、朝廷から徳川慶喜へ後押しして貰うことを目論みます。 その結果、121代天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)は、「御年長英明の方」を、徳川家定の「養君」(ようくん:養い育てている君主)とするように勅命を下されたのです。この御年長英明の方とは、暗に徳川慶喜のことを指していたと考えられています。 そんななかで島津斉彬は藤原敬子に対し、徳川慶喜を養君にするべく徳川家定を説得する密命を与えていました。そこで大奥にいた藤原敬子は、徳川家定の生母である本寿院や大奥年寄の歌橋らに、次期将軍に徳川慶喜を推挙することについて相談します。しかし大奥は「反徳川斉昭派」(はんとくがわなりあきは)のため、藤原敬子の意見を退けたのです。 島津斉彬自身も、徳川家定に徳川慶喜を養君とすることを提案。「越前藩」(えちぜんはん)の藩士であった「中根雪江」(なかねせっこう)の日記「昨夢紀事」(さくむきじ)には、徳川家定が以下のように返答したと記されています。
将軍継嗣候補に挙げられた御三卿であった一橋徳川家の人物は、徳川家定とどのような関係であったか。
将軍継嗣候補に挙げられた御三卿であった一橋徳川家の人物は、徳川家定と従兄弟であった。
JCRRAG_018163
歴史
真田昌幸と真田幸村は、信州へ引き返す途中に沼田へ立ち寄ろうとした。 沼田城は真田信幸の居城であり、信幸の妻たるあの本多忠勝の娘である小松姫が留守を守っていたが、昌幸が入城しようとすると 「すでに父と子が敵対関係となっている以上、たとえ父だろうと城に入れるわけにはいかない!」と城門を閉ざして女房共に武装させて、厩にいた葦毛の馬を玄関につなげた。 真田昌幸は怒るどころか感心して「さすが日本一と世にいえる本多忠勝の娘よ。弓取の妻はこうあるべきよ!」と寄らずに上田へ帰った。 本多平八郎忠勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山の役においてたった五百騎で、豊臣秀吉の二万の大軍を牽制して、豊臣秀吉を感嘆させた男である。 蜻蛉切りという長い槍を持っている随一の武功の男である。 ある時本多忠勝は子息である本多忠朝と、居城である桑名城の濠に船を浮かべて、本多忠朝に「櫂であの葦を薙ぎはらって見よ」と言った。 本多忠朝も強力無双の若者であるが、櫂を取って葦を払うと、一本の葦が切れた。本多忠勝はそれを見て「今の若者は手ぬるいなあ、私に貸せ」と、自身が櫂を持って横に払うと、五本の葦が切れたという。 とにかく秀吉に忠信の兜を受け継ぐものは、本多忠勝の外にないといわれたり「関東の本多忠勝、関西の立花宗茂」と比べられたりした典型的な武人である。
小牧山の役において、本田忠勝の軍勢と豊臣秀吉の軍勢のうち、数が少ないほうを教えてください。
小牧山の役において、本田忠勝の軍勢と豊臣秀吉の軍勢のうち、数が少ないほうは本田忠勝の軍勢で五百です。
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歴史
ローマの共和政は、当初貴族が強い権力をもっていました。やがて平民が力をつけて身分闘争を展開し、市民による共和政へと移行します。またローマは、前2世紀には地中海をほぼ征服しました。この過程で経済的な格差が広がり、市民を土台としたローマの共和政が崩れていきます。 成立と変遷 前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住しました。 ティベル川のほとりに都市国家ローマが建設されました。 ローマは、はじめ先住民エトルリア人の王に支配されていました。 前6世紀末にエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政となりました。 ローマの身分 貴族(パトリキ) 土地と奴隷などの資産をもつ上位階層 平民(プレブス) パトリキ以外のローマ一般市民 国政の変遷 民会 全男性市民によって開催される議決機関 執政官(コンスル) 最高の役人で、民会によって貴族から任期1年で2名選出 元老院 終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関 国政全般に影響力をもち、民会での決定も元老院の承認が必要 平民は、重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになりました。 平民は貴族の政権独占に不満を抱き、身分闘争を起こしました。 前5世紀、平民を保護するために次の役職・機関・法が登場しました。 護民官 平民出身から選ばれる役職で、元老院やコンスルの決定に拒否権を行使可能 平民会 民会の1つとして新設され、平民だけで構成 十二表法 貴族による法知識の独占を破り、旧来の慣習法を成文化したもの 前367年、リキニウス・セクスティウス法 貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法 前287年、ホルテンシウス法 平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法 貴族と平民が法的に平等となり、身分闘争は終了しました。 ローマ共和政とギリシア民主政 次の3点で、ローマ共和政は、貧富関係なく市民が政治参加できたギリシア民主政と大きく異なりました。 ホルテンシウス法の制定後、一部の富裕な平民が貴族に加わり、新しい支配階層が成立して政権を独占 元老院が実質的に指導権を維持 非常時に独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使 ローマの征服事業 地中海征服 前3世紀前半、ローマは全イタリア半島を支配しました。 次の2つの方法で、ローマは広い領域の支配に成功しました。 分割統治 征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を付与し、被支配者の団結と反抗を阻止 服属した住民の一部にローマ市民権を付与(ポリスとの違い) 前264~前146年、ポエニ戦争 フェニキア人の植民市カルタゴとの3度にわたる衝突 イタリア半島以外のローマの征服地属州を獲得(最初はシチリア) カルタゴの将軍ハンニバルに一時追い込まれたが、後に戦局を挽回してローマが勝利 前2世紀半ば、マケドニアとギリシア諸ポリスを支配して地中海全体をほぼ制覇 ローマの変質 征服事業が続くうちに、次の人々に変化が生じ、経済的格差が広がりました。 中小農民 出征するうちに農地が荒廃して没落 属州からの安い穀物が生活を支えたので、いっそうの征服事業を渇望 元老院議員・騎士階層 属州統治を任されたり、徴税を請け負ったりして、莫大な富を獲得 公有地や農民が手放した土地を買い集め、戦争捕虜である奴隷を使って大規模に農業経営(ラティフンディア) ラティフンディアの農園跡 ラティフンディアの農園跡 前2世紀後半、市民の平等を原則としたローマの性格は変質し、共和政の土台が揺らぎました。 政治家は、次の2つの勢力にわかれて争いました。 閥族派 元老院の伝統的支配をまもろうとする勢力 平民派 無産市民や騎士が支持する勢力 内乱の1世紀 グラックス兄弟は、農民の没落による軍事力低下を心配しました。 兄弟は、あいついで護民官になり、大土地所有者の土地没収と無産市民への分配を考えました。 しかし、この改革は反対にあって失敗しました。 紀元前1世紀、有力政治家は配下を多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争い始めました。 この時期を「内乱の1世紀」と呼んでいます。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プトレマイオスとウェルギリウスの違いを説明して下さい。
プトレマイオスは地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物ですが、 一方、ウェルギリウスはローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物です。
JCRRAG_018165
歴史
江戸幕府13代将軍は、徳川家定です。 国内では、徳川家定の継嗣問題が起こっていた一方で、徳川家定は開国を迫る諸外国との関係にも頭を悩ませていました。 1857年(安政4年)、初代アメリカ駐日領事の「タウンゼント・ハリス」が、アメリカの国書を渡すため、江戸城に赴いて徳川家定に謁見。このとき、徳川家定は脳性麻痺の症状が出ていたと言われています。 しかし、11代将軍・徳川家斉以降の「徳川家」(とくがわけ)について記した、江戸幕府編纂の歴史書「続徳川実紀」(ぞくとくがわじっき)によれば、徳川家定はタウンゼント・ハリスに対して、「遠い所から使節として書面を差しよこし、満足に思う。なお、[日米が]幾久しく国交を結ぶと良い。このことを大統領へ宜しく申し述べるが良い」と立派に答えて、将軍らしい態度も見せたとも伝えられているのです。タウンゼント・ハリスも徳川家定の印象について、「堂々とした将軍だった」と好意的に捉えていたとされています。 1858年(安政5年)には、タウンゼント・ハリスから「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)への調印を求められました。そこで、「佐倉藩」(さくらはん)の藩主であり、老中首座であった「堀田正睦」(ほったまさよし)は、孝明天皇からの「条約勅許」(じょうやくちょっきょ:天皇の許可)を得るために上洛します。 しかし、孝明天皇から却下された堀田正睦は、江戸城に戻り、「松平慶永公を大老に就けて対処したい」と徳川家定に提案したのです。これに対して徳川家定は、譜代大名の筆頭である「井伊家」(いいけ)から大老を出すべきであり、能力から見ても松平慶永よりも井伊直弼のほうが大老にふさわしいと反対しています。 大老職は老中とは別格であり、就任できるのはひとりのみ。江戸幕府において、将軍に次ぐ最高職であった大老は、人物次第では将軍と同等の権限を持つことも有り得たのです。 この大老を選ぶ最終的な決定権を持つのは将軍のみでした。 徳川家定が大老職に任命したのは井伊直弼でした。 徳川家定は、1858年(安政5年)5月1日、井伊直弼や老中達を集めた席で、「紀州藩」(きしゅうはん)の藩主・徳川慶福を次期将軍に定めることを言い渡します。徳川家定が徳川慶福を次期将軍に定める決断を下したのも、井伊直弼の後押しがあったからだと伝えられているのです。 そして、井伊直弼は勅許を得ないで日米修好通商条約に調印することを反対し、やむを得ない場合は仕方ないとしても、できるだけ引き延ばすようにと交渉の担当者達に命じていました。しかしその担当者達は、この井伊直弼の言葉を「言質を取った」と見なし、6月19日に勅許を得ないままに調印してしまったのです。 そして6月24日、徳川斉昭と徳川慶喜の実兄である「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)親子、尾張藩14代藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)と松平慶永が、登城日でもないのに江戸城を訪ねます。これが、いわゆる「押しかけ登城」と呼ばれるできごと。勅許がないまま条約に調印したことを激しく非難し、将軍継嗣を勅命で暗に下された徳川慶喜に決定するように抗議します。条約調印は時流のため仕方がないと、多くの人が思っていましたが、この失態を井伊直弼の責任として訴えることで、将軍の継嗣問題をひっくり返そうと目論んだのです。 しかし、井伊直弼と老中の「太田資始」(おおたすけもと)は、徳川斉昭達の意見を論破。困った徳川斉昭は、松平慶永を呼び出すように訴えますが、御三家である徳川斉昭達と、そうではない松平慶永は家格が異なり、将軍に謁見する順番を待つ控席である「伺候席」(しこうせき)は別々の場所。松平慶永は同じ伺候席にいた老中の「久世広周」(くぜひろちか)と議論するだけで、他には成す術がなかったのです。 翌6月25日、井伊直弼らの幕閣が御三家や御三卿を始めとする諸大名に向けて、将軍継嗣を徳川慶福と定めることを公表し、徳川慶福は江戸城西の丸に入りました。 7月5日、井伊直弼は徳川家定の命として、押しかけ登城に対する処罰を下します。徳川斉昭や徳川慶勝、そして松平慶永らに「蟄居」(ちっきょ:閉門の上、自宅など一定の場所に謹慎させた刑罰)や隠居などの厳しい処分を科したのです。 そして7月6日、徳川慶篤が登城停止の処分に。これらは、徳川家定の「上意」(じょうい:支配者や主君の意見)が前面に押し出された処罰であったと推測されていますが、徳川家定は同日に35歳で亡くなっています。
江戸幕府13代将軍は、何の問題を抱えていたか。
江戸幕府13代将軍は、継嗣問題を抱えていた。
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歴史
真田幸村の最期の戦いは越前勢の大軍を真っ向に受ける形で開始された。天王寺・岡山の戦いである。 幸村は何度も越前勢をなやませながら、天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料として兵糧丸を二個や握り飯を一個、味噌玉を三個など渡して食べさせた。 幸村はここでひとまず休憩をいれて、その間に明石掃部助全登をして今宮表より阿部野へ迂回させて、家康の本陣を後より襲おうとしたが、この計画は松平武蔵守の軍勢に邪魔されてなかなかできなかった。 そこで、幸村は毛利勝永と話し合って、いよいよ秀頼公に出陣してもらう事をお願いしようと決めた。 秀頼公が御旗や御馬印を玉造口まで押し出して、敵の勢力を割いて明石の軍を目的地に進ませる計画だった。 真田の穴山小助、毛利の古林一平次達がその緊急の使者として城内へ走った。 この使者たちが行き来している不穏な動きを察知したのが、越前方の監使である榊原飛騨守である。 飛騨守は「今こそ攻撃する時だ、遅れたら必ず後ろから追撃されるだろう!」と松平忠直にアドバイスした。 松平忠直は早速、舎弟である伊予守忠昌、出羽守直次に左右の両軍を率いて、二万以上の騎馬を編成して押し寄せたが、真田幸村は「しばらく待って戦おう」と、味方の準備が整うのを待ちながら動かず戦っていた。 すると意外にも、本多忠政、松平忠明ら、渡辺大谷達が切り崩しながら真田の陣へ駆け込んで来た。 また水野勝成等も、昨日の敗北を取り返そうと、勝曼院の西の方から六百人ほど、鬨の声を挙げて攻めてきた。 幸村は、ついに三方から敵を受けたのである。 「もはやこれまでだな」と意を決して、兜の忍び緒を増花形結び、これは討ち死にする時の結び方である。馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より頂いた緋縮緬の陣羽織をさっと着流して、金の采配を手に取って敵に向かっていったと言う。 三方の軍勢を合わせて三万五千人、真田勢はわずかに二千人余り。 にも関わらず戦況がかんばしくないので、家康は気を揉んで、稲富喜三郎、田付兵庫達に鉄砲隊を連れて越前勢の横から真田勢を一斉射撃しろと命じたくらいである。 真田勢がいかに死闘を繰り広げていたかが良くわかるだろう。 幸村は三度の重賞を負ったところへ、この鉄砲隊の弾が左の首辺りに当たったので、落馬しそうになって鞍の前輪にしがみついた所を、忠直の部下の西尾仁右衛門が槍で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。 西尾はその首を取ったが、誰の首なのかわからなかった。 後にその兜が、かつて原隼人に話したとおりの物であったので、口を開いて確認してみると、前歯が二本欠けていたので、これこそが幸村の首級と分かった。 西尾はバカだったので、その時も太刀を取って帰らなかったが、太刀は後に越前家の斎藤勘四郎が、これを貰って帰った。 幸村の首級と太刀は、後に兄の信幸が受け取ったので、信幸は首級は高野山天徳院に埋葬し、太刀は自らが受け取り真田家の家宝としたと言う。 一子大助は、城中において、秀頼公の最期を見届けた後、父の言葉に従ってすぐに自害した。
真田幸村が天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料として与えたもののうち、もっとも数が多い物を教えてください。
真田幸村が天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料として与えたもののうち、もっとも数が多いのは味噌玉で三個です。
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歴史
ローマの共和政は、当初貴族が強い権力をもっていました。やがて平民が力をつけて身分闘争を展開し、市民による共和政へと移行します。またローマは、前2世紀には地中海をほぼ征服しました。この過程で経済的な格差が広がり、市民を土台としたローマの共和政が崩れていきます。 成立と変遷 前1000年頃、古代イタリア人がイタリア半島に定住しました。 ティベル川のほとりに都市国家ローマが建設されました。 ローマは、はじめ先住民エトルリア人の王に支配されていました。 前6世紀末にエトルリア人の王が追放され、ローマは共和政となりました。 ローマの身分 貴族(パトリキ) 土地と奴隷などの資産をもつ上位階層 平民(プレブス) パトリキ以外のローマ一般市民 国政の変遷 民会 全男性市民によって開催される議決機関 執政官(コンスル) 最高の役人で、民会によって貴族から任期1年で2名選出 元老院 終身議員で構成される、コンスルなど役人に助言を与える諮問機関 国政全般に影響力をもち、民会での決定も元老院の承認が必要 平民は、重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようになりました。 平民は貴族の政権独占に不満を抱き、身分闘争を起こしました。 前5世紀、平民を保護するために次の役職・機関・法が登場しました。 護民官 平民出身から選ばれる役職で、元老院やコンスルの決定に拒否権を行使可能 平民会 民会の1つとして新設され、平民だけで構成 十二表法 貴族による法知識の独占を破り、旧来の慣習法を成文化したもの 前367年、リキニウス・セクスティウス法 貴族の独占を破り、コンスルのうち1人を平民から選出することを決めた法 前287年、ホルテンシウス法 平民会の決定が元老院の承認なしにローマの国法となることを認めた法 貴族と平民が法的に平等となり、身分闘争は終了しました。 ローマ共和政とギリシア民主政 次の3点で、ローマ共和政は、貧富関係なく市民が政治参加できたギリシア民主政と大きく異なりました。 ホルテンシウス法の制定後、一部の富裕な平民が貴族に加わり、新しい支配階層が成立して政権を独占 元老院が実質的に指導権を維持 非常時に独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使 ローマの征服事業 地中海征服 前3世紀前半、ローマは全イタリア半島を支配しました。 次の2つの方法で、ローマは広い領域の支配に成功しました。 分割統治 征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を付与し、被支配者の団結と反抗を阻止 服属した住民の一部にローマ市民権を付与(ポリスとの違い) 前264~前146年、ポエニ戦争 フェニキア人の植民市カルタゴとの3度にわたる衝突 イタリア半島以外のローマの征服地属州を獲得(最初はシチリア) カルタゴの将軍ハンニバルに一時追い込まれたが、後に戦局を挽回してローマが勝利 前2世紀半ば、マケドニアとギリシア諸ポリスを支配して地中海全体をほぼ制覇 ローマの変質 征服事業が続くうちに、次の人々に変化が生じ、経済的格差が広がりました。 中小農民 出征するうちに農地が荒廃して没落 属州からの安い穀物が生活を支えたので、いっそうの征服事業を渇望 元老院議員・騎士階層 属州統治を任されたり、徴税を請け負ったりして、莫大な富を獲得 公有地や農民が手放した土地を買い集め、戦争捕虜である奴隷を使って大規模に農業経営(ラティフンディア) ラティフンディアの農園跡 ラティフンディアの農園跡 前2世紀後半、市民の平等を原則としたローマの性格は変質し、共和政の土台が揺らぎました。 政治家は、次の2つの勢力にわかれて争いました。 閥族派 元老院の伝統的支配をまもろうとする勢力 平民派 無産市民や騎士が支持する勢力 内乱の1世紀 グラックス兄弟は、農民の没落による軍事力低下を心配しました。 兄弟は、あいついで護民官になり、大土地所有者の土地没収と無産市民への分配を考えました。 しかし、この改革は反対にあって失敗しました。 紀元前1世紀、有力政治家は配下を多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争い始めました。 この時期を「内乱の1世紀」と呼んでいます。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プトレマイオスとカエサルが活躍した分野での違いを説明して下さい。
プトレマイオスは地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物ですが、 一方、カエサルは前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家です。
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歴史
江戸幕府13代将軍は、徳川家定です。 国内では、徳川家定の継嗣問題が起こっていた一方で、徳川家定は開国を迫る諸外国との関係にも頭を悩ませていました。 1857年(安政4年)、初代アメリカ駐日領事の「タウンゼント・ハリス」が、アメリカの国書を渡すため、江戸城に赴いて徳川家定に謁見。このとき、徳川家定は脳性麻痺の症状が出ていたと言われています。 しかし、11代将軍・徳川家斉以降の「徳川家」(とくがわけ)について記した、江戸幕府編纂の歴史書「続徳川実紀」(ぞくとくがわじっき)によれば、徳川家定はタウンゼント・ハリスに対して、「遠い所から使節として書面を差しよこし、満足に思う。なお、[日米が]幾久しく国交を結ぶと良い。このことを大統領へ宜しく申し述べるが良い」と立派に答えて、将軍らしい態度も見せたとも伝えられているのです。タウンゼント・ハリスも徳川家定の印象について、「堂々とした将軍だった」と好意的に捉えていたとされています。 1858年(安政5年)には、タウンゼント・ハリスから「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)への調印を求められました。そこで、「佐倉藩」(さくらはん)の藩主であり、老中首座であった「堀田正睦」(ほったまさよし)は、孝明天皇からの「条約勅許」(じょうやくちょっきょ:天皇の許可)を得るために上洛します。 しかし、孝明天皇から却下された堀田正睦は、江戸城に戻り、「松平慶永公を大老に就けて対処したい」と徳川家定に提案したのです。これに対して徳川家定は、譜代大名の筆頭である「井伊家」(いいけ)から大老を出すべきであり、能力から見ても松平慶永よりも井伊直弼のほうが大老にふさわしいと反対しています。 大老職は老中とは別格であり、就任できるのはひとりのみ。江戸幕府において、将軍に次ぐ最高職であった大老は、人物次第では将軍と同等の権限を持つことも有り得たのです。 この大老を選ぶ最終的な決定権を持つのは将軍のみでした。 徳川家定が大老職に任命したのは井伊直弼でした。 徳川家定は、1858年(安政5年)5月1日、井伊直弼や老中達を集めた席で、「紀州藩」(きしゅうはん)の藩主・徳川慶福を次期将軍に定めることを言い渡します。徳川家定が徳川慶福を次期将軍に定める決断を下したのも、井伊直弼の後押しがあったからだと伝えられているのです。 そして、井伊直弼は勅許を得ないで日米修好通商条約に調印することを反対し、やむを得ない場合は仕方ないとしても、できるだけ引き延ばすようにと交渉の担当者達に命じていました。しかしその担当者達は、この井伊直弼の言葉を「言質を取った」と見なし、6月19日に勅許を得ないままに調印してしまったのです。 そして6月24日、徳川斉昭と徳川慶喜の実兄である「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)親子、尾張藩14代藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)と松平慶永が、登城日でもないのに江戸城を訪ねます。これが、いわゆる「押しかけ登城」と呼ばれるできごと。勅許がないまま条約に調印したことを激しく非難し、将軍継嗣を勅命で暗に下された徳川慶喜に決定するように抗議します。条約調印は時流のため仕方がないと、多くの人が思っていましたが、この失態を井伊直弼の責任として訴えることで、将軍の継嗣問題をひっくり返そうと目論んだのです。 しかし、井伊直弼と老中の「太田資始」(おおたすけもと)は、徳川斉昭達の意見を論破。困った徳川斉昭は、松平慶永を呼び出すように訴えますが、御三家である徳川斉昭達と、そうではない松平慶永は家格が異なり、将軍に謁見する順番を待つ控席である「伺候席」(しこうせき)は別々の場所。松平慶永は同じ伺候席にいた老中の「久世広周」(くぜひろちか)と議論するだけで、他には成す術がなかったのです。 翌6月25日、井伊直弼らの幕閣が御三家や御三卿を始めとする諸大名に向けて、将軍継嗣を徳川慶福と定めることを公表し、徳川慶福は江戸城西の丸に入りました。 7月5日、井伊直弼は徳川家定の命として、押しかけ登城に対する処罰を下します。徳川斉昭や徳川慶勝、そして松平慶永らに「蟄居」(ちっきょ:閉門の上、自宅など一定の場所に謹慎させた刑罰)や隠居などの厳しい処分を科したのです。 そして7月6日、徳川慶篤が登城停止の処分に。これらは、徳川家定の「上意」(じょうい:支配者や主君の意見)が前面に押し出された処罰であったと推測されていますが、徳川家定は同日に35歳で亡くなっています。
江戸幕府13代将軍は、外国とのどのようなやりとりに頭を悩ませていたか。
江戸幕府13代将軍は、開国を迫る諸外国との関係に頭を悩ませていた。
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歴史
真田幸村の最期の戦いは越前勢の大軍を真っ向に受ける形で開始された。天王寺・岡山の戦いである。 幸村は何度も越前勢をなやませながら、天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料として兵糧丸を二個や握り飯を一個、味噌玉を三個など渡して食べさせた。 幸村はここでひとまず休憩をいれて、その間に明石掃部助全登をして今宮表より阿部野へ迂回させて、家康の本陣を後より襲おうとしたが、この計画は松平武蔵守の軍勢に邪魔されてなかなかできなかった。 そこで、幸村は毛利勝永と話し合って、いよいよ秀頼公に出陣してもらう事をお願いしようと決めた。 秀頼公が御旗や御馬印を玉造口まで押し出して、敵の勢力を割いて明石の軍を目的地に進ませる計画だった。 真田の穴山小助、毛利の古林一平次達がその緊急の使者として城内へ走った。 この使者たちが行き来している不穏な動きを察知したのが、越前方の監使である榊原飛騨守である。 飛騨守は「今こそ攻撃する時だ、遅れたら必ず後ろから追撃されるだろう!」と松平忠直にアドバイスした。 松平忠直は早速、舎弟である伊予守忠昌、出羽守直次に左右の両軍を率いて、二万以上の騎馬を編成して押し寄せたが、真田幸村は「しばらく待って戦おう」と、味方の準備が整うのを待ちながら動かず戦っていた。 すると意外にも、本多忠政、松平忠明ら、渡辺大谷達が切り崩しながら真田の陣へ駆け込んで来た。 また水野勝成等も、昨日の敗北を取り返そうと、勝曼院の西の方から六百人ほど、鬨の声を挙げて攻めてきた。 幸村は、ついに三方から敵を受けたのである。 「もはやこれまでだな」と意を決して、兜の忍び緒を増花形結び、これは討ち死にする時の結び方である。馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より頂いた緋縮緬の陣羽織をさっと着流して、金の采配を手に取って敵に向かっていったと言う。 三方の軍勢を合わせて三万五千人、真田勢はわずかに二千人余り。 にも関わらず戦況がかんばしくないので、家康は気を揉んで、稲富喜三郎、田付兵庫達に鉄砲隊を連れて越前勢の横から真田勢を一斉射撃しろと命じたくらいである。 真田勢がいかに死闘を繰り広げていたかが良くわかるだろう。 幸村は三度の重賞を負ったところへ、この鉄砲隊の弾が左の首辺りに当たったので、落馬しそうになって鞍の前輪にしがみついた所を、忠直の部下の西尾仁右衛門が槍で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。 西尾はその首を取ったが、誰の首なのかわからなかった。 後にその兜が、かつて原隼人に話したとおりの物であったので、口を開いて確認してみると、前歯が二本欠けていたので、これこそが幸村の首級と分かった。 西尾はバカだったので、その時も太刀を取って帰らなかったが、太刀は後に越前家の斎藤勘四郎が、これを貰って帰った。 幸村の首級と太刀は、後に兄の信幸が受け取ったので、信幸は首級は高野山天徳院に埋葬し、太刀は自らが受け取り真田家の家宝としたと言う。 一子大助は、城中において、秀頼公の最期を見届けた後、父の言葉に従ってすぐに自害した。
真田幸村が天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料として与えたもののうち、もっとも数が少ない物を教えてください。
真田幸村が天王寺と一心寺との間の竜の丸で待機して兵士達に食料として与えたもののうち、もっとも数が少ない物は握り飯で一個です。
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歴史
ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。 四帝統治(テトラルキア) 帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治 専制君主政(ドミナトゥス) 皇帝を神として礼拝させ、専制君主化 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プトレマイオスとリウィウスの違いを説明して下さい。
プトレマイオスは地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物ですが、 一方、リウィウスは歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物です。
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歴史
江戸幕府13代将軍は、徳川家定です。 国内では、徳川家定の継嗣問題が起こっていた一方で、徳川家定は開国を迫る諸外国との関係にも頭を悩ませていました。 1857年(安政4年)、初代アメリカ駐日領事の「タウンゼント・ハリス」が、アメリカの国書を渡すため、江戸城に赴いて徳川家定に謁見。このとき、徳川家定は脳性麻痺の症状が出ていたと言われています。 しかし、11代将軍・徳川家斉以降の「徳川家」(とくがわけ)について記した、江戸幕府編纂の歴史書「続徳川実紀」(ぞくとくがわじっき)によれば、徳川家定はタウンゼント・ハリスに対して、「遠い所から使節として書面を差しよこし、満足に思う。なお、[日米が]幾久しく国交を結ぶと良い。このことを大統領へ宜しく申し述べるが良い」と立派に答えて、将軍らしい態度も見せたとも伝えられているのです。タウンゼント・ハリスも徳川家定の印象について、「堂々とした将軍だった」と好意的に捉えていたとされています。 1858年(安政5年)には、タウンゼント・ハリスから「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)への調印を求められました。そこで、「佐倉藩」(さくらはん)の藩主であり、老中首座であった「堀田正睦」(ほったまさよし)は、孝明天皇からの「条約勅許」(じょうやくちょっきょ:天皇の許可)を得るために上洛します。 しかし、孝明天皇から却下された堀田正睦は、江戸城に戻り、「松平慶永公を大老に就けて対処したい」と徳川家定に提案したのです。これに対して徳川家定は、譜代大名の筆頭である「井伊家」(いいけ)から大老を出すべきであり、能力から見ても松平慶永よりも井伊直弼のほうが大老にふさわしいと反対しています。 大老職は老中とは別格であり、就任できるのはひとりのみ。江戸幕府において、将軍に次ぐ最高職であった大老は、人物次第では将軍と同等の権限を持つことも有り得たのです。 この大老を選ぶ最終的な決定権を持つのは将軍のみでした。 徳川家定が大老職に任命したのは井伊直弼でした。 徳川家定は、1858年(安政5年)5月1日、井伊直弼や老中達を集めた席で、「紀州藩」(きしゅうはん)の藩主・徳川慶福を次期将軍に定めることを言い渡します。徳川家定が徳川慶福を次期将軍に定める決断を下したのも、井伊直弼の後押しがあったからだと伝えられているのです。 そして、井伊直弼は勅許を得ないで日米修好通商条約に調印することを反対し、やむを得ない場合は仕方ないとしても、できるだけ引き延ばすようにと交渉の担当者達に命じていました。しかしその担当者達は、この井伊直弼の言葉を「言質を取った」と見なし、6月19日に勅許を得ないままに調印してしまったのです。 そして6月24日、徳川斉昭と徳川慶喜の実兄である「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)親子、尾張藩14代藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)と松平慶永が、登城日でもないのに江戸城を訪ねます。これが、いわゆる「押しかけ登城」と呼ばれるできごと。勅許がないまま条約に調印したことを激しく非難し、将軍継嗣を勅命で暗に下された徳川慶喜に決定するように抗議します。条約調印は時流のため仕方がないと、多くの人が思っていましたが、この失態を井伊直弼の責任として訴えることで、将軍の継嗣問題をひっくり返そうと目論んだのです。 しかし、井伊直弼と老中の「太田資始」(おおたすけもと)は、徳川斉昭達の意見を論破。困った徳川斉昭は、松平慶永を呼び出すように訴えますが、御三家である徳川斉昭達と、そうではない松平慶永は家格が異なり、将軍に謁見する順番を待つ控席である「伺候席」(しこうせき)は別々の場所。松平慶永は同じ伺候席にいた老中の「久世広周」(くぜひろちか)と議論するだけで、他には成す術がなかったのです。 翌6月25日、井伊直弼らの幕閣が御三家や御三卿を始めとする諸大名に向けて、将軍継嗣を徳川慶福と定めることを公表し、徳川慶福は江戸城西の丸に入りました。 7月5日、井伊直弼は徳川家定の命として、押しかけ登城に対する処罰を下します。徳川斉昭や徳川慶勝、そして松平慶永らに「蟄居」(ちっきょ:閉門の上、自宅など一定の場所に謹慎させた刑罰)や隠居などの厳しい処分を科したのです。 そして7月6日、徳川慶篤が登城停止の処分に。これらは、徳川家定の「上意」(じょうい:支配者や主君の意見)が前面に押し出された処罰であったと推測されていますが、徳川家定は同日に35歳で亡くなっています。
江戸幕府13代将軍が大老職に任命したのは誰か。
江戸幕府13代将軍が大老職に任命したのは井伊直弼である。
JCRRAG_018172
歴史
メンデルが僧院の庭で長い年月をかけていろいろと苦心した上にようやく見つけ出したメンデルの法則というのは、どういうものかということを、ここでなるべくわかり易く説明してみましょう。 それはまず親から子に遺伝する性質のなかには、優性と劣性として区別される二種類の性質があって、優性をもっているものと、劣性をもっているものと交配させると、それから生まれてくるものは大体において優性をそなえているというのです。これを優性の法則といいます。しかしこのようにして出来た雑種をもう一度おたがいに交配させると、今度は優性と劣性とが分離して現れ、優性のもの1に対して劣牲のもの1という割合で第二代目の雑種が生ずるのです。これはメンデルの分離の法則といわれていますが、さらにこの第二代目の雑種のうち優性を示している三つの中の一つは純粋の優性でありますけれども、その他の二つには優性と同時に劣性が幾らか含まれているということも明らかにされました。もちろん、この場合にも何が優性であり、何が劣性であるかということについては、めいめいの動物や植物についてよく観察してそれを定めてゆかなくてはならないのですが、いつもこのような一般的な法則が成立つということを見つけ出したのは、実にメンデルの偉大な業績であります。 この他に、メンデルは再結合の法則というのを見つけ出しました。メンデルの実験を行ったえんどうのなかには、種子が円くて黄いろい色をしたのと、しわがあって、緑色をしたのとがありましたが、これらを交配させてみると、それから生じた第一代雑種の結んだ実はすべて円くて黄いろいものでありました。この事で、円くて黄いろいのは優性で、しわがあって緑いろなのは劣性であることがわかったのです。ところがこの第一代雑種の種子をまいて、今度はそれについて自花授精をさせてみると、それで出来た第二代雑種のなかには、四種類のちがったものが現れました。この四種類というのは、つまり次の四つで、それらの数の割合は下の数字で示した通りです。 黄いろくて円いものが 9 緑いろで円いものが 3 黄いろくて皺のあるものが 3 緑いろで皺のあるものが 1 この結果を見ると、優性と劣性との割合はやはり3と1とになっていますが、最初には黄いろいことと円いこととが伴なって結びついており、緑いろと皺のあるのともそうであったのに、ここではこれ等の性質が離れてしまって、かえって他の性質と結びついて現れることのあるのが、明らかにわかるのです。つまり個々の性質はそれぞれ独立のものであって、それらが分離して再び他のものと結合するということが、これで示されたので、その意味でこれを再結合の法則、または独立結合の法則というのです。
メンデルがえんどうを配合した結果、第二代雑種で四種類のちがったものが現れましたが、その中で最も多く現れた物と数を教えてください。
メンデルがえんどうを配合した結果、第二代雑種で四種類のちがったものが現れましたが、その中で最も多く現れたのは黄いろくて円いもので9個です。
JCRRAG_018173
歴史
ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。 四帝統治(テトラルキア) 帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治 専制君主政(ドミナトゥス) 皇帝を神として礼拝させ、専制君主化 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プトレマイオスとタキトゥスの違いを説明して下さい。
プトレマイオスは地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物ですが、 一方、タキトゥスはゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物です。
JCRRAG_018174
歴史
江戸幕府13代将軍は、徳川家定です。 国内では、徳川家定の継嗣問題が起こっていた一方で、徳川家定は開国を迫る諸外国との関係にも頭を悩ませていました。 1857年(安政4年)、初代アメリカ駐日領事の「タウンゼント・ハリス」が、アメリカの国書を渡すため、江戸城に赴いて徳川家定に謁見。このとき、徳川家定は脳性麻痺の症状が出ていたと言われています。 しかし、11代将軍・徳川家斉以降の「徳川家」(とくがわけ)について記した、江戸幕府編纂の歴史書「続徳川実紀」(ぞくとくがわじっき)によれば、徳川家定はタウンゼント・ハリスに対して、「遠い所から使節として書面を差しよこし、満足に思う。なお、[日米が]幾久しく国交を結ぶと良い。このことを大統領へ宜しく申し述べるが良い」と立派に答えて、将軍らしい態度も見せたとも伝えられているのです。タウンゼント・ハリスも徳川家定の印象について、「堂々とした将軍だった」と好意的に捉えていたとされています。 1858年(安政5年)には、タウンゼント・ハリスから「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)への調印を求められました。そこで、「佐倉藩」(さくらはん)の藩主であり、老中首座であった「堀田正睦」(ほったまさよし)は、孝明天皇からの「条約勅許」(じょうやくちょっきょ:天皇の許可)を得るために上洛します。 しかし、孝明天皇から却下された堀田正睦は、江戸城に戻り、「松平慶永公を大老に就けて対処したい」と徳川家定に提案したのです。これに対して徳川家定は、譜代大名の筆頭である「井伊家」(いいけ)から大老を出すべきであり、能力から見ても松平慶永よりも井伊直弼のほうが大老にふさわしいと反対しています。 大老職は老中とは別格であり、就任できるのはひとりのみ。江戸幕府において、将軍に次ぐ最高職であった大老は、人物次第では将軍と同等の権限を持つことも有り得たのです。 この大老を選ぶ最終的な決定権を持つのは将軍のみでした。 徳川家定が大老職に任命したのは井伊直弼でした。 徳川家定は、1858年(安政5年)5月1日、井伊直弼や老中達を集めた席で、「紀州藩」(きしゅうはん)の藩主・徳川慶福を次期将軍に定めることを言い渡します。徳川家定が徳川慶福を次期将軍に定める決断を下したのも、井伊直弼の後押しがあったからだと伝えられているのです。 そして、井伊直弼は勅許を得ないで日米修好通商条約に調印することを反対し、やむを得ない場合は仕方ないとしても、できるだけ引き延ばすようにと交渉の担当者達に命じていました。しかしその担当者達は、この井伊直弼の言葉を「言質を取った」と見なし、6月19日に勅許を得ないままに調印してしまったのです。 そして6月24日、徳川斉昭と徳川慶喜の実兄である「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)親子、尾張藩14代藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)と松平慶永が、登城日でもないのに江戸城を訪ねます。これが、いわゆる「押しかけ登城」と呼ばれるできごと。勅許がないまま条約に調印したことを激しく非難し、将軍継嗣を勅命で暗に下された徳川慶喜に決定するように抗議します。条約調印は時流のため仕方がないと、多くの人が思っていましたが、この失態を井伊直弼の責任として訴えることで、将軍の継嗣問題をひっくり返そうと目論んだのです。 しかし、井伊直弼と老中の「太田資始」(おおたすけもと)は、徳川斉昭達の意見を論破。困った徳川斉昭は、松平慶永を呼び出すように訴えますが、御三家である徳川斉昭達と、そうではない松平慶永は家格が異なり、将軍に謁見する順番を待つ控席である「伺候席」(しこうせき)は別々の場所。松平慶永は同じ伺候席にいた老中の「久世広周」(くぜひろちか)と議論するだけで、他には成す術がなかったのです。 翌6月25日、井伊直弼らの幕閣が御三家や御三卿を始めとする諸大名に向けて、将軍継嗣を徳川慶福と定めることを公表し、徳川慶福は江戸城西の丸に入りました。 7月5日、井伊直弼は徳川家定の命として、押しかけ登城に対する処罰を下します。徳川斉昭や徳川慶勝、そして松平慶永らに「蟄居」(ちっきょ:閉門の上、自宅など一定の場所に謹慎させた刑罰)や隠居などの厳しい処分を科したのです。 そして7月6日、徳川慶篤が登城停止の処分に。これらは、徳川家定の「上意」(じょうい:支配者や主君の意見)が前面に押し出された処罰であったと推測されていますが、徳川家定は同日に35歳で亡くなっています。
江戸幕府13代将軍は、1858年(安政5年)5月1日、井伊直弼や老中達を集めた席で、誰を次期将軍に定めることを言い渡したか。
江戸幕府13代将軍は、1858年(安政5年)5月1日、井伊直弼や老中達を集めた席で、紀州藩の藩主・徳川慶福を次期将軍に定めることを言い渡した。
JCRRAG_018175
歴史
メンデルが僧院の庭で長い年月をかけていろいろと苦心した上にようやく見つけ出したメンデルの法則というのは、どういうものかということを、ここでなるべくわかり易く説明してみましょう。 それはまず親から子に遺伝する性質のなかには、優性と劣性として区別される二種類の性質があって、優性をもっているものと、劣性をもっているものと交配させると、それから生まれてくるものは大体において優性をそなえているというのです。これを優性の法則といいます。しかしこのようにして出来た雑種をもう一度おたがいに交配させると、今度は優性と劣性とが分離して現れ、優性のもの1に対して劣牲のもの1という割合で第二代目の雑種が生ずるのです。これはメンデルの分離の法則といわれていますが、さらにこの第二代目の雑種のうち優性を示している三つの中の一つは純粋の優性でありますけれども、その他の二つには優性と同時に劣性が幾らか含まれているということも明らかにされました。もちろん、この場合にも何が優性であり、何が劣性であるかということについては、めいめいの動物や植物についてよく観察してそれを定めてゆかなくてはならないのですが、いつもこのような一般的な法則が成立つということを見つけ出したのは、実にメンデルの偉大な業績であります。 この他に、メンデルは再結合の法則というのを見つけ出しました。メンデルの実験を行ったえんどうのなかには、種子が円くて黄いろい色をしたのと、しわがあって、緑色をしたのとがありましたが、これらを交配させてみると、それから生じた第一代雑種の結んだ実はすべて円くて黄いろいものでありました。この事で、円くて黄いろいのは優性で、しわがあって緑いろなのは劣性であることがわかったのです。ところがこの第一代雑種の種子をまいて、今度はそれについて自花授精をさせてみると、それで出来た第二代雑種のなかには、四種類のちがったものが現れました。この四種類というのは、つまり次の四つで、それらの数の割合は下の数字で示した通りです。 黄いろくて円いものが 9 緑いろで円いものが 3 黄いろくて皺のあるものが 3 緑いろで皺のあるものが 1 この結果を見ると、優性と劣性との割合はやはり3と1とになっていますが、最初には黄いろいことと円いこととが伴なって結びついており、緑いろと皺のあるのともそうであったのに、ここではこれ等の性質が離れてしまって、かえって他の性質と結びついて現れることのあるのが、明らかにわかるのです。つまり個々の性質はそれぞれ独立のものであって、それらが分離して再び他のものと結合するということが、これで示されたので、その意味でこれを再結合の法則、または独立結合の法則というのです。
メンデルがえんどうを配合した結果、第二代雑種で四種類のちがったものが現れましたが、その中で最も少なく現れた物と数を教えてください。
メンデルがえんどうを配合した結果、第二代雑種で四種類のちがったものが現れましたが、その中で最も少なく現れたのは緑いろで皺のあるもので、1個です。
JCRRAG_018176
歴史
ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。 四帝統治(テトラルキア) 帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治 専制君主政(ドミナトゥス) 皇帝を神として礼拝させ、専制君主化 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プトレマイオスとプルタルコスの違いを説明して下さい。
プトレマイオスは地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物ですが、 一方、プルタルコスはギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物です。
JCRRAG_018177
歴史
江戸幕府13代将軍は、徳川家定です。 国内では、徳川家定の継嗣問題が起こっていた一方で、徳川家定は開国を迫る諸外国との関係にも頭を悩ませていました。 1857年(安政4年)、初代アメリカ駐日領事の「タウンゼント・ハリス」が、アメリカの国書を渡すため、江戸城に赴いて徳川家定に謁見。このとき、徳川家定は脳性麻痺の症状が出ていたと言われています。 しかし、11代将軍・徳川家斉以降の「徳川家」(とくがわけ)について記した、江戸幕府編纂の歴史書「続徳川実紀」(ぞくとくがわじっき)によれば、徳川家定はタウンゼント・ハリスに対して、「遠い所から使節として書面を差しよこし、満足に思う。なお、[日米が]幾久しく国交を結ぶと良い。このことを大統領へ宜しく申し述べるが良い」と立派に答えて、将軍らしい態度も見せたとも伝えられているのです。タウンゼント・ハリスも徳川家定の印象について、「堂々とした将軍だった」と好意的に捉えていたとされています。 1858年(安政5年)には、タウンゼント・ハリスから「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)への調印を求められました。そこで、「佐倉藩」(さくらはん)の藩主であり、老中首座であった「堀田正睦」(ほったまさよし)は、孝明天皇からの「条約勅許」(じょうやくちょっきょ:天皇の許可)を得るために上洛します。 しかし、孝明天皇から却下された堀田正睦は、江戸城に戻り、「松平慶永公を大老に就けて対処したい」と徳川家定に提案したのです。これに対して徳川家定は、譜代大名の筆頭である「井伊家」(いいけ)から大老を出すべきであり、能力から見ても松平慶永よりも井伊直弼のほうが大老にふさわしいと反対しています。 大老職は老中とは別格であり、就任できるのはひとりのみ。江戸幕府において、将軍に次ぐ最高職であった大老は、人物次第では将軍と同等の権限を持つことも有り得たのです。 この大老を選ぶ最終的な決定権を持つのは将軍のみでした。 徳川家定が大老職に任命したのは井伊直弼でした。 徳川家定は、1858年(安政5年)5月1日、井伊直弼や老中達を集めた席で、「紀州藩」(きしゅうはん)の藩主・徳川慶福を次期将軍に定めることを言い渡します。徳川家定が徳川慶福を次期将軍に定める決断を下したのも、井伊直弼の後押しがあったからだと伝えられているのです。 そして、井伊直弼は勅許を得ないで日米修好通商条約に調印することを反対し、やむを得ない場合は仕方ないとしても、できるだけ引き延ばすようにと交渉の担当者達に命じていました。しかしその担当者達は、この井伊直弼の言葉を「言質を取った」と見なし、6月19日に勅許を得ないままに調印してしまったのです。 そして6月24日、徳川斉昭と徳川慶喜の実兄である「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)親子、尾張藩14代藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)と松平慶永が、登城日でもないのに江戸城を訪ねます。これが、いわゆる「押しかけ登城」と呼ばれるできごと。勅許がないまま条約に調印したことを激しく非難し、将軍継嗣を勅命で暗に下された徳川慶喜に決定するように抗議します。条約調印は時流のため仕方がないと、多くの人が思っていましたが、この失態を井伊直弼の責任として訴えることで、将軍の継嗣問題をひっくり返そうと目論んだのです。 しかし、井伊直弼と老中の「太田資始」(おおたすけもと)は、徳川斉昭達の意見を論破。困った徳川斉昭は、松平慶永を呼び出すように訴えますが、御三家である徳川斉昭達と、そうではない松平慶永は家格が異なり、将軍に謁見する順番を待つ控席である「伺候席」(しこうせき)は別々の場所。松平慶永は同じ伺候席にいた老中の「久世広周」(くぜひろちか)と議論するだけで、他には成す術がなかったのです。 翌6月25日、井伊直弼らの幕閣が御三家や御三卿を始めとする諸大名に向けて、将軍継嗣を徳川慶福と定めることを公表し、徳川慶福は江戸城西の丸に入りました。 7月5日、井伊直弼は徳川家定の命として、押しかけ登城に対する処罰を下します。徳川斉昭や徳川慶勝、そして松平慶永らに「蟄居」(ちっきょ:閉門の上、自宅など一定の場所に謹慎させた刑罰)や隠居などの厳しい処分を科したのです。 そして7月6日、徳川慶篤が登城停止の処分に。これらは、徳川家定の「上意」(じょうい:支配者や主君の意見)が前面に押し出された処罰であったと推測されていますが、徳川家定は同日に35歳で亡くなっています。
江戸幕府13代将軍が徳川慶福を次期将軍に定める決断を下したのは、誰の後押しがあったからか。
江戸幕府13代将軍が徳川慶福を次期将軍に定める決断を下したのは、井伊直弼の後押しがあったからである。
JCRRAG_018178
歴史
"前にも述べたように、ちょうどこの頃我が国の沿海にロシアの艦船などが出没し、ようやく騒がしくなって来ましたので、寛政十二年になると、幕府が忠敬に命じてまず蝦夷の測量を行わせることになりました。この頃の蝦夷といえば、まだまるで拓けてもいなかったので、その地を旅するだけでもなかなかの難事であったのでしたが、忠敬は既に五十六歳にもなる身でほとんど一年間を費してその土地測量を行い、その年の十二月に蝦夷の地図をつくり上げたということです。この蝦夷の地で、忠敬は間宮倫宗に出会い、それから倫宗と親しく交友したのでした。 蝦夷の測量を終わってから、忠敬は更に日本全国の測量を志し、それから実に十八年の長い間到るところに旅してこの大きな仕事を果たしたというのは、まことに驚くべきことであるといわなければなりますまい。その間に文化元年には尾張、越前より東に当たる地図を完成し、同四年にはその後の測量にかかる地図をつくり、文化六年に大体において日本輿地全図をつくり上げました。この中には全国の大図、中図、小図の三種類のものがありましたが、それらはそれぞれ三万六千分の一、二十一万六千分の一、四十三万二千分の一の大きさに相当するものです。いずれにしてもこれだけのものを、僅かに幾人かの門弟と共に完全につくり上げた功績はまことにすばらしいことであるといわなければなりません。 忠敬はともかくもこのようにして自分の志した大きな事業を成し遂げた上で、文政元年の四月十三日に江戸八丁堀亀島町の邸で亡くなりました。その際には、特に遺言して、自分がこのように日本全国を測量するという大きな仕事をなし遂げることのできたのも、全く高橋作左衞門師のおかげであったのであるから、その恩を深く感謝するためにせめてその墓側に葬ってくれといったとのことです。高橋至時は既にそれ以前の文化元年に亡くなって、浅草の源空寺に葬られていましたので、忠敬の遺骸もこの遺言に従ってその墓側に葬られました。しかしこの時には、その日本輿地全図と、ならびにそれに付随している輿地実測録がまだ完全に出来上がっていなかったので、その完成を見るまでは忠敬の喪を公に発表しないでおいたということで、これらが出来上がった後に、文政四年の九月四日に喪を発したのでした。 忠敬の著した書物としては、「国郡昼夜時刻対数表」、「記源術並びに用法」、「求割円八線表」、「割円八線表源法」、「地球測遠術問答」、「仏国暦衆編斥妄」などというのがあります。この他に「測量日記」二十八巻、「大日本沿海実測録」十四巻などがあり、これらはその測量の実際を知る上で、特に重要なものであります。下総の佐原町には、忠敬の旧宅が今でも残っていて、これらの書物や、測量に使った器械道具なども保存されているので、これはまことに貴重な記念物です。 忠敬のすばらしい功績については、今日一般によく認められているのですが、明治十六年には正四位を追贈させられましたし、また明治二十二年には東京地学協会で芝公園の円山に記念碑を立て、それには「贈正四位伊能忠敬先生遺功碑」としるしてあります。またその後、帝国学士院では、大谷亮吉氏に依嘱して、忠敬の事績を詳しく調査し、これが「伊能忠敬」と題する一書となって刊行されています。このようにして忠敬の遺した仕事はいつまでも大きな意味をもって記憶されてゆくことを考えますと、はやく学問の道を志した彼もまた安心して亡くなったのでありましょう。"
忠敬の著した書物のうち、巻数がより多い書物を教えてください。
忠敬の著した書物のうち、巻数がより多い書物は「測量日記」で二十八巻です。
JCRRAG_018179
歴史
ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。 四帝統治(テトラルキア) 帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治 専制君主政(ドミナトゥス) 皇帝を神として礼拝させ、専制君主化 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プトレマイオスとストラボンの違いを説明して下さい。
プトレマイオスは地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物ですが、 一方、ストラボンは当時知られていた全世界の地誌を記述した人物です。
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歴史
中国の三国時代に活躍した東呉の名将であり、孫権の右腕として知られている人物は、周瑜である。彼は「美周郎」と称されるほどの美貌と、卓越した知略を兼ね備えた人物でした。その生涯は、三国志の中で重要な役割を果たし、特に赤壁の戦いでの功績によって歴史に名を刻んでいます。本記事では、周瑜の生涯、彼の功績、そしてその死後の評価について掘り下げていきます。 周瑜の若き日々 周瑜は、揚州廬江郡の富裕な家に生まれました。若い頃から才能と魅力に恵まれ、音楽にも優れた素養を持っていたとされています。彼の性格は温和でありながらも自信に満ちており、同時代の人々から信頼を得ていました。 彼の転機は、孫策(孫権の兄)との出会いでした。孫策と周瑜は若くして友情を結び、周瑜は孫策が基盤を築く際に大きく貢献しました。この友情は「周郎曲」として後世にまで語り継がれるほど強いものでした。孫策が東呉の支配を固める中、周瑜は常に重要な役割を担い、やがて孫権政権の中心人物となります。 赤壁の戦い:周瑜の最高の功績 周瑜といえば、赤壁の戦いが欠かせません。この戦いは、三国志演義の中でも最も有名な戦いであり、曹操率いる大軍を孫権・劉備連合軍が破るという劇的な展開でした。 周瑜はこの戦いで総指揮官を務め、火攻めという大胆な戦略を成功させました。彼は曹操軍の弱点を見抜き、風向きや地形を利用して効果的な攻撃を仕掛けました。特に「借風計」と呼ばれる策略では、風の向きを利用して火計を成功させたことが知られています。この功績により、周瑜は「軍略の天才」と称されることとなりました。 周瑜の戦略のポイントは以下の通りです: 曹操軍の兵力過多を逆手に取り、補給不足を誘発させた。 蜀(劉備)との同盟を結び、効果的な連携を実現。 風向きの変化を計算に入れた火計を準備し、奇襲を成功させた。 赤壁の戦いは、三国時代の勢力図を大きく変える転機となり、東呉の独立性を守る結果となりました。 周瑜の最期とその影響 しかし、周瑜の人生は短く、210年にわずか36歳で亡くなりました。その死因については、戦いによる負傷や過労、または持病が悪化したとする説があります。また、「三国志演義」では、諸葛亮との知略対決に敗北し、悔しさから病を悪化させたという物語的な要素が加えられていますが、これは史実ではありません。 周瑜の死は孫権陣営にとって大きな痛手となりました。彼は単なる軍略家ではなく、孫権の信頼を一身に集め、軍事と内政の両方に優れた才能を発揮していたからです。そのため、周瑜の死後、呉の政治的・軍事的な安定には大きな影響が出ました。 周瑜の人間像:美貌と才能を兼ね備えた英雄 周瑜はただの軍人ではなく、音楽や文化にも精通した多才な人物でした。彼は琴の演奏に優れており、その教養と魅力から「美周郎」と称されるほどの人気を誇りました。一方で、彼の自信やプライドの高さが、時には他者との衝突を生む原因ともなりました。 また、彼はリーダーとしてのカリスマ性に加え、人々を惹きつける温かい人間性を持っていたと言われています。彼のこうした性格が、孫策や孫権の信頼を勝ち取る一因となったことは間違いありません。 周瑜の死後の評価 後世の歴史家や文学者は、周瑜を「知勇兼備の英雄」として評価しています。特に「三国志演義」における彼の活躍は、物語としての面白さを引き立てていますが、史実の彼もまた非常に優れた軍略家でした。 彼の赤壁の戦いでの勝利は、孫権政権を三国時代の中心勢力の一つに押し上げた功績として、今でも語り継がれています。
孫権の右腕として知られている人物は、赤壁の戦いで何を実行したか。
孫権の右腕として知られている人物は、赤壁の戦いで火攻めを実行した。
JCRRAG_018181
歴史
"前にも述べたように、ちょうどこの頃我が国の沿海にロシアの艦船などが出没し、ようやく騒がしくなって来ましたので、寛政十二年になると、幕府が忠敬に命じてまず蝦夷の測量を行わせることになりました。この頃の蝦夷といえば、まだまるで拓けてもいなかったので、その地を旅するだけでもなかなかの難事であったのでしたが、忠敬は既に五十六歳にもなる身でほとんど一年間を費してその土地測量を行い、その年の十二月に蝦夷の地図をつくり上げたということです。この蝦夷の地で、忠敬は間宮倫宗に出会い、それから倫宗と親しく交友したのでした。 蝦夷の測量を終わってから、忠敬は更に日本全国の測量を志し、それから実に十八年の長い間到るところに旅してこの大きな仕事を果たしたというのは、まことに驚くべきことであるといわなければなりますまい。その間に文化元年には尾張、越前より東に当たる地図を完成し、同四年にはその後の測量にかかる地図をつくり、文化六年に大体において日本輿地全図をつくり上げました。この中には全国の大図、中図、小図の三種類のものがありましたが、それらはそれぞれ三万六千分の一、二十一万六千分の一、四十三万二千分の一の大きさに相当するものです。いずれにしてもこれだけのものを、僅かに幾人かの門弟と共に完全につくり上げた功績はまことにすばらしいことであるといわなければなりません。 忠敬はともかくもこのようにして自分の志した大きな事業を成し遂げた上で、文政元年の四月十三日に江戸八丁堀亀島町の邸で亡くなりました。その際には、特に遺言して、自分がこのように日本全国を測量するという大きな仕事をなし遂げることのできたのも、全く高橋作左衞門師のおかげであったのであるから、その恩を深く感謝するためにせめてその墓側に葬ってくれといったとのことです。高橋至時は既にそれ以前の文化元年に亡くなって、浅草の源空寺に葬られていましたので、忠敬の遺骸もこの遺言に従ってその墓側に葬られました。しかしこの時には、その日本輿地全図と、ならびにそれに付随している輿地実測録がまだ完全に出来上がっていなかったので、その完成を見るまでは忠敬の喪を公に発表しないでおいたということで、これらが出来上がった後に、文政四年の九月四日に喪を発したのでした。 忠敬の著した書物としては、「国郡昼夜時刻対数表」、「記源術並びに用法」、「求割円八線表」、「割円八線表源法」、「地球測遠術問答」、「仏国暦衆編斥妄」などというのがあります。この他に「測量日記」二十八巻、「大日本沿海実測録」十四巻などがあり、これらはその測量の実際を知る上で、特に重要なものであります。下総の佐原町には、忠敬の旧宅が今でも残っていて、これらの書物や、測量に使った器械道具なども保存されているので、これはまことに貴重な記念物です。 忠敬のすばらしい功績については、今日一般によく認められているのですが、明治十六年には正四位を追贈させられましたし、また明治二十二年には東京地学協会で芝公園の円山に記念碑を立て、それには「贈正四位伊能忠敬先生遺功碑」としるしてあります。またその後、帝国学士院では、大谷亮吉氏に依嘱して、忠敬の事績を詳しく調査し、これが「伊能忠敬」と題する一書となって刊行されています。このようにして忠敬の遺した仕事はいつまでも大きな意味をもって記憶されてゆくことを考えますと、はやく学問の道を志した彼もまた安心して亡くなったのでありましょう。"
日本輿地全図の縮図のうち、もっとも縮尺が大きいものを教えてください。
日本輿地全図の縮図のうち、もっとも縮尺が大きいのは四十三万二千分の一です。
JCRRAG_018182
歴史
ローマ帝国の東西分割 ディオクレティアヌス帝の治世 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は次のことを始め、ローマの分裂を回避しました。 四帝統治(テトラルキア) 帝国を東と西に分け、それぞれの正帝・副帝が統治 専制君主政(ドミナトゥス) 皇帝を神として礼拝させ、専制君主化 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 法 ローマが様々な習慣をもつ多くの民族を支配するようになると、万人が従う普遍的な法律が必要になりました。 ローマ法が成立し、はじめはローマ市民だけに適用されました。 やがて対象を拡大し、帝国に住む全ての人民に適用される万民法となりました。 6世紀、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス大帝が『ローマ法大全』を編纂させました。 暦 エジプトの太陽暦を受け継いで、カエサルは太陽暦のユリウス暦を作りました。 のちに改良を加えられ、現在も用いられるグレゴリウス暦になりました。 ラテン文学 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 カエサル 前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プトレマイオスとキケロの違いを説明して下さい。
プトレマイオスは地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物ですが、 一方、キケロは優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立です。
JCRRAG_018183
歴史
中国の三国時代に活躍した東呉の名将であり、孫権の右腕として知られている人物は、周瑜である。彼は「美周郎」と称されるほどの美貌と、卓越した知略を兼ね備えた人物でした。その生涯は、三国志の中で重要な役割を果たし、特に赤壁の戦いでの功績によって歴史に名を刻んでいます。本記事では、周瑜の生涯、彼の功績、そしてその死後の評価について掘り下げていきます。 周瑜の若き日々 周瑜は、揚州廬江郡の富裕な家に生まれました。若い頃から才能と魅力に恵まれ、音楽にも優れた素養を持っていたとされています。彼の性格は温和でありながらも自信に満ちており、同時代の人々から信頼を得ていました。 彼の転機は、孫策(孫権の兄)との出会いでした。孫策と周瑜は若くして友情を結び、周瑜は孫策が基盤を築く際に大きく貢献しました。この友情は「周郎曲」として後世にまで語り継がれるほど強いものでした。孫策が東呉の支配を固める中、周瑜は常に重要な役割を担い、やがて孫権政権の中心人物となります。 赤壁の戦い:周瑜の最高の功績 周瑜といえば、赤壁の戦いが欠かせません。この戦いは、三国志演義の中でも最も有名な戦いであり、曹操率いる大軍を孫権・劉備連合軍が破るという劇的な展開でした。 周瑜はこの戦いで総指揮官を務め、火攻めという大胆な戦略を成功させました。彼は曹操軍の弱点を見抜き、風向きや地形を利用して効果的な攻撃を仕掛けました。特に「借風計」と呼ばれる策略では、風の向きを利用して火計を成功させたことが知られています。この功績により、周瑜は「軍略の天才」と称されることとなりました。 周瑜の戦略のポイントは以下の通りです: 曹操軍の兵力過多を逆手に取り、補給不足を誘発させた。 蜀(劉備)との同盟を結び、効果的な連携を実現。 風向きの変化を計算に入れた火計を準備し、奇襲を成功させた。 赤壁の戦いは、三国時代の勢力図を大きく変える転機となり、東呉の独立性を守る結果となりました。 周瑜の最期とその影響 しかし、周瑜の人生は短く、210年にわずか36歳で亡くなりました。その死因については、戦いによる負傷や過労、または持病が悪化したとする説があります。また、「三国志演義」では、諸葛亮との知略対決に敗北し、悔しさから病を悪化させたという物語的な要素が加えられていますが、これは史実ではありません。 周瑜の死は孫権陣営にとって大きな痛手となりました。彼は単なる軍略家ではなく、孫権の信頼を一身に集め、軍事と内政の両方に優れた才能を発揮していたからです。そのため、周瑜の死後、呉の政治的・軍事的な安定には大きな影響が出ました。 周瑜の人間像:美貌と才能を兼ね備えた英雄 周瑜はただの軍人ではなく、音楽や文化にも精通した多才な人物でした。彼は琴の演奏に優れており、その教養と魅力から「美周郎」と称されるほどの人気を誇りました。一方で、彼の自信やプライドの高さが、時には他者との衝突を生む原因ともなりました。 また、彼はリーダーとしてのカリスマ性に加え、人々を惹きつける温かい人間性を持っていたと言われています。彼のこうした性格が、孫策や孫権の信頼を勝ち取る一因となったことは間違いありません。 周瑜の死後の評価 後世の歴史家や文学者は、周瑜を「知勇兼備の英雄」として評価しています。特に「三国志演義」における彼の活躍は、物語としての面白さを引き立てていますが、史実の彼もまた非常に優れた軍略家でした。 彼の赤壁の戦いでの勝利は、孫権政権を三国時代の中心勢力の一つに押し上げた功績として、今でも語り継がれています。
孫権の右腕として知られている人物は、どうやって奇襲を成功させたか。
孫権の右腕として知られている人物は、風向きの変化を計算に入れた火計を準備し、奇襲を成功させた。
JCRRAG_018184
歴史
"前にも述べたように、ちょうどこの頃我が国の沿海にロシアの艦船などが出没し、ようやく騒がしくなって来ましたので、寛政十二年になると、幕府が忠敬に命じてまず蝦夷の測量を行わせることになりました。この頃の蝦夷といえば、まだまるで拓けてもいなかったので、その地を旅するだけでもなかなかの難事であったのでしたが、忠敬は既に五十六歳にもなる身でほとんど一年間を費してその土地測量を行い、その年の十二月に蝦夷の地図をつくり上げたということです。この蝦夷の地で、忠敬は間宮倫宗に出会い、それから倫宗と親しく交友したのでした。 蝦夷の測量を終わってから、忠敬は更に日本全国の測量を志し、それから実に十八年の長い間到るところに旅してこの大きな仕事を果たしたというのは、まことに驚くべきことであるといわなければなりますまい。その間に文化元年には尾張、越前より東に当たる地図を完成し、同四年にはその後の測量にかかる地図をつくり、文化六年に大体において日本輿地全図をつくり上げました。この中には全国の大図、中図、小図の三種類のものがありましたが、それらはそれぞれ三万六千分の一、二十一万六千分の一、四十三万二千分の一の大きさに相当するものです。いずれにしてもこれだけのものを、僅かに幾人かの門弟と共に完全につくり上げた功績はまことにすばらしいことであるといわなければなりません。 忠敬はともかくもこのようにして自分の志した大きな事業を成し遂げた上で、文政元年の四月十三日に江戸八丁堀亀島町の邸で亡くなりました。その際には、特に遺言して、自分がこのように日本全国を測量するという大きな仕事をなし遂げることのできたのも、全く高橋作左衞門師のおかげであったのであるから、その恩を深く感謝するためにせめてその墓側に葬ってくれといったとのことです。高橋至時は既にそれ以前の文化元年に亡くなって、浅草の源空寺に葬られていましたので、忠敬の遺骸もこの遺言に従ってその墓側に葬られました。しかしこの時には、その日本輿地全図と、ならびにそれに付随している輿地実測録がまだ完全に出来上がっていなかったので、その完成を見るまでは忠敬の喪を公に発表しないでおいたということで、これらが出来上がった後に、文政四年の九月四日に喪を発したのでした。 忠敬の著した書物としては、「国郡昼夜時刻対数表」、「記源術並びに用法」、「求割円八線表」、「割円八線表源法」、「地球測遠術問答」、「仏国暦衆編斥妄」などというのがあります。この他に「測量日記」二十八巻、「大日本沿海実測録」十四巻などがあり、これらはその測量の実際を知る上で、特に重要なものであります。下総の佐原町には、忠敬の旧宅が今でも残っていて、これらの書物や、測量に使った器械道具なども保存されているので、これはまことに貴重な記念物です。 忠敬のすばらしい功績については、今日一般によく認められているのですが、明治十六年には正四位を追贈させられましたし、また明治二十二年には東京地学協会で芝公園の円山に記念碑を立て、それには「贈正四位伊能忠敬先生遺功碑」としるしてあります。またその後、帝国学士院では、大谷亮吉氏に依嘱して、忠敬の事績を詳しく調査し、これが「伊能忠敬」と題する一書となって刊行されています。このようにして忠敬の遺した仕事はいつまでも大きな意味をもって記憶されてゆくことを考えますと、はやく学問の道を志した彼もまた安心して亡くなったのでありましょう。"
日本輿地全図の縮図のうち、もっとも縮尺が小さいものを教えてください。
日本輿地全図の縮図のうち、もっとも縮尺が小さいのは三万六千分の一です。
JCRRAG_018185
歴史
395年、ローマ帝国が東西に分割されました。西ローマ帝国は1世紀も経たずに滅ぼされましたが、東ローマ帝国ことビザンツ帝国はおよそ1000年続きました。ビザンツ帝国ではローマ帝国からキリスト教を国教として継承し、独自に発展させました。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プトレマイオスとマルクス=アウレリウス=アントニヌスの違いを説明して下さい。
プトレマイオスは地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物ですが、 一方、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人で中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場しました。
JCRRAG_018186
歴史
中国の三国時代に活躍した東呉の名将であり、孫権の右腕として知られている人物は、周瑜である。彼は「美周郎」と称されるほどの美貌と、卓越した知略を兼ね備えた人物でした。その生涯は、三国志の中で重要な役割を果たし、特に赤壁の戦いでの功績によって歴史に名を刻んでいます。本記事では、周瑜の生涯、彼の功績、そしてその死後の評価について掘り下げていきます。 周瑜の若き日々 周瑜は、揚州廬江郡の富裕な家に生まれました。若い頃から才能と魅力に恵まれ、音楽にも優れた素養を持っていたとされています。彼の性格は温和でありながらも自信に満ちており、同時代の人々から信頼を得ていました。 彼の転機は、孫策(孫権の兄)との出会いでした。孫策と周瑜は若くして友情を結び、周瑜は孫策が基盤を築く際に大きく貢献しました。この友情は「周郎曲」として後世にまで語り継がれるほど強いものでした。孫策が東呉の支配を固める中、周瑜は常に重要な役割を担い、やがて孫権政権の中心人物となります。 赤壁の戦い:周瑜の最高の功績 周瑜といえば、赤壁の戦いが欠かせません。この戦いは、三国志演義の中でも最も有名な戦いであり、曹操率いる大軍を孫権・劉備連合軍が破るという劇的な展開でした。 周瑜はこの戦いで総指揮官を務め、火攻めという大胆な戦略を成功させました。彼は曹操軍の弱点を見抜き、風向きや地形を利用して効果的な攻撃を仕掛けました。特に「借風計」と呼ばれる策略では、風の向きを利用して火計を成功させたことが知られています。この功績により、周瑜は「軍略の天才」と称されることとなりました。 周瑜の戦略のポイントは以下の通りです: 曹操軍の兵力過多を逆手に取り、補給不足を誘発させた。 蜀(劉備)との同盟を結び、効果的な連携を実現。 風向きの変化を計算に入れた火計を準備し、奇襲を成功させた。 赤壁の戦いは、三国時代の勢力図を大きく変える転機となり、東呉の独立性を守る結果となりました。 周瑜の最期とその影響 しかし、周瑜の人生は短く、210年にわずか36歳で亡くなりました。その死因については、戦いによる負傷や過労、または持病が悪化したとする説があります。また、「三国志演義」では、諸葛亮との知略対決に敗北し、悔しさから病を悪化させたという物語的な要素が加えられていますが、これは史実ではありません。 周瑜の死は孫権陣営にとって大きな痛手となりました。彼は単なる軍略家ではなく、孫権の信頼を一身に集め、軍事と内政の両方に優れた才能を発揮していたからです。そのため、周瑜の死後、呉の政治的・軍事的な安定には大きな影響が出ました。 周瑜の人間像:美貌と才能を兼ね備えた英雄 周瑜はただの軍人ではなく、音楽や文化にも精通した多才な人物でした。彼は琴の演奏に優れており、その教養と魅力から「美周郎」と称されるほどの人気を誇りました。一方で、彼の自信やプライドの高さが、時には他者との衝突を生む原因ともなりました。 また、彼はリーダーとしてのカリスマ性に加え、人々を惹きつける温かい人間性を持っていたと言われています。彼のこうした性格が、孫策や孫権の信頼を勝ち取る一因となったことは間違いありません。 周瑜の死後の評価 後世の歴史家や文学者は、周瑜を「知勇兼備の英雄」として評価しています。特に「三国志演義」における彼の活躍は、物語としての面白さを引き立てていますが、史実の彼もまた非常に優れた軍略家でした。 彼の赤壁の戦いでの勝利は、孫権政権を三国時代の中心勢力の一つに押し上げた功績として、今でも語り継がれています。
孫権の右腕として知られている人物は、赤壁の戦いで何を務めたか。
孫権の右腕として知られている人物は、赤壁の戦いで総指揮官を務めた。
JCRRAG_018187
歴史
科学の上の学説や理論のうちで、今日までに広く世間一般の問題にされたものはいろいろありますが、そのなかである方面から強い反対を受け、それをとなえる学者に社会的な迫害を与えるほどになったものとして、古くはコペルニクスの地動説があり、近代になってはダーウィンの生物進化論のあることは、多分皆さんも知られていることでありましょう。この反対の主要な原因は宗教的な信仰によるのでありまして、ことに西洋では古くからキリスト教の信仰が深くふだんの生活のなかにまでしみ込んでいるので、その聖書のなかに記されていることをそのまま真実として信じることになるのでした。本当に考えるならば、聖書の字句は、まだ発達しなかったごく古い時代の人達に教えるためにできたのでありますから、科学の真理がだんだんに明らかにされて来るに従って、それを適宜に解釈しなおしてゆかなくてはならないのですが、それほどの深い考えをもたない人たちは、単にその形式に捉われてしまうことにもなるのです。それでコペルニクスの地動説などは、その頃の宗教家からはげしい反対をうけて、科学的にそれを本当であるとしたガリレイなどもひどく迫害されたことは、すでにここでもお話ししたのでしたが、ダーウィンの生物進化論もやはり同じ運命であったのでした。このダーウィンの学説の出たのは十九世紀の半ば頃のことで、この時代には古いコペルニクスやガリレイの頃とはちがって、科学が著しく進んでおり、それのあらゆる適用が世間に広まって、すべての人たちがその利便をしみじみと感じていることも確かであったのですが、それでいてダーウィンの学説が出ると、宗教的な立場からそれへの反対がおこるというのですから、実に人間の心理というものはふしぎであると言わなければなりません。もちろん、物事を正しく考えてゆきさえすれば、そんなはずはあり得ないのですけれども、それが出来ないところに人間の弱点があるのでしょう。ごく近頃になってさえ、アメリカのあるところで進化論を学校で教えることを禁止したというような話が伝えられましたし、またそれとはよほど立場がちがってはいるものの、我が国でも思想の上から進化論に反対する人たちがあると聞きます。しかしすべてこれらは科学の本当の意味を理解しないことから起こるので、これでは一方でしきりに科学振興などを叫んでも、そこに大きな矛盾のあることをみずから暴露しているようなことになります。科学の学説や理論は、自然のいろいろな事実を理解してゆくために、ぜひとも必要なのであって、それらはもちろん現在のままで完全であるとは限りませんけれども、だんだんにそれらを完全に導いてゆくことが、科学の進歩を持ち来たすものであるということを、十分によく悟らなくてはなりません。宗教や思想などはいうまでもなくそれとは無関係のものであるべきはずなのです。 さて、生物の進化論はどうして現れて来たのかということについて、まずごく簡単な説明を述べておきましょう。根本的にいえば、生命をもっている生物がどうしてこの地球の上に生じて来たかという問題が、今日でもまだ全く解かれていない極めてふしぎな事なのでありますが、それはしばらくおくとしても、生物に関してはふしぎな問題が非常にたくさんあるのです。第一に、生物の種類、それを学問の上では「種」と名づけていますが、この種が実に数多くあります。ダーウィンの時代にはもう五十万の種が知られていたのですが、今日では百万にも及んでいます。それほどたくさんの種がどうして生まれて来たかということが、ともかくふしぎな事に違いありません。昔の人たちは、とかく物事を大ざっぱに考えたので、我が国などでも蛆虫のようなものは汚いごみのなかから自然に湧いて生まれてくるようにいいならわしたり、昆虫は草の葉の露から生まれるなどとも考えたのでした。ごく古い頃にエジプトの人々は、鼠がナイル河の泥から生まれると信じていたという話も伝わっています。学問を修めた人のなかにも、普通の物質のなかから熱などの関係で生まれてくるのではないかと、まじめに考えたこともあるのです。ましてバクテリヤのような小さな生物になると、それの自然発生ということがかなり近頃まで考えられたのでした。しかし少し理窟を追って考えてゆくならば、無生物からしてひょっくりと生物が生まれてくるはずのないことは、むしろ当然であると思われるのです。 さて、それならばたくさんの生物の種類がどうして出て来たかということが、科学の上で極めて重要な問題となるわけです。 生物の種類を分けてゆく研究を最初に行なった人は、スウェーデンの名だかい学者カル・フォン・リンネで、まず植物を分類した著書を一七三五年に公刊し、その後動物の分類をも行ったのでしたが、その際に人間を動物のなかの霊長類の一つの種類となし、高等な猿類と並べたのでした。それでこの事がすでにその頃の宗教家の非難の的となり、これは人間が人間自身を侮辱し、かつ神の威光を汚すけしからぬことだとされました。 それでもリンネは生物を科学的に分類してゆけば、そうならなくてはならないというように信じていたのでした。もっとも最初の頃には、生物の種類のたくさんに存在することに対しては、これらは神が創造したものであって、それがいつまでも不変に保たれていると考えたのでしたが、後にはそれらの種類もだんだんに進化してゆくということを許すようになったといわれています。 それにしてもまだこの頃には生物の進化に関する証拠が何もなかったのですから、これが科学的には本当の価値をもたなかったのでした。
生物の種類、それを学問の上では「種」と名づけていますが、この種のうち、より多い数を教えてください。
生物の種類、それを学問の上では「種」と名づけていますが、この種のうち、より多い数は百万です。
JCRRAG_018188
歴史
395年、ローマ帝国が東西に分割されました。西ローマ帝国は1世紀も経たずに滅ぼされましたが、東ローマ帝国ことビザンツ帝国はおよそ1000年続きました。ビザンツ帝国ではローマ帝国からキリスト教を国教として継承し、独自に発展させました。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
プトレマイオスとアウグスティヌスの違いを説明して下さい。
プトレマイオスは地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物ですが、 一方、アウグスティヌスは教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物です。
JCRRAG_018189
歴史
中国の三国時代に活躍した東呉の名将であり、孫権の右腕として知られている人物は、周瑜である。彼は「美周郎」と称されるほどの美貌と、卓越した知略を兼ね備えた人物でした。その生涯は、三国志の中で重要な役割を果たし、特に赤壁の戦いでの功績によって歴史に名を刻んでいます。本記事では、周瑜の生涯、彼の功績、そしてその死後の評価について掘り下げていきます。 周瑜の若き日々 周瑜は、揚州廬江郡の富裕な家に生まれました。若い頃から才能と魅力に恵まれ、音楽にも優れた素養を持っていたとされています。彼の性格は温和でありながらも自信に満ちており、同時代の人々から信頼を得ていました。 彼の転機は、孫策(孫権の兄)との出会いでした。孫策と周瑜は若くして友情を結び、周瑜は孫策が基盤を築く際に大きく貢献しました。この友情は「周郎曲」として後世にまで語り継がれるほど強いものでした。孫策が東呉の支配を固める中、周瑜は常に重要な役割を担い、やがて孫権政権の中心人物となります。 赤壁の戦い:周瑜の最高の功績 周瑜といえば、赤壁の戦いが欠かせません。この戦いは、三国志演義の中でも最も有名な戦いであり、曹操率いる大軍を孫権・劉備連合軍が破るという劇的な展開でした。 周瑜はこの戦いで総指揮官を務め、火攻めという大胆な戦略を成功させました。彼は曹操軍の弱点を見抜き、風向きや地形を利用して効果的な攻撃を仕掛けました。特に「借風計」と呼ばれる策略では、風の向きを利用して火計を成功させたことが知られています。この功績により、周瑜は「軍略の天才」と称されることとなりました。 周瑜の戦略のポイントは以下の通りです: 曹操軍の兵力過多を逆手に取り、補給不足を誘発させた。 蜀(劉備)との同盟を結び、効果的な連携を実現。 風向きの変化を計算に入れた火計を準備し、奇襲を成功させた。 赤壁の戦いは、三国時代の勢力図を大きく変える転機となり、東呉の独立性を守る結果となりました。 周瑜の最期とその影響 しかし、周瑜の人生は短く、210年にわずか36歳で亡くなりました。その死因については、戦いによる負傷や過労、または持病が悪化したとする説があります。また、「三国志演義」では、諸葛亮との知略対決に敗北し、悔しさから病を悪化させたという物語的な要素が加えられていますが、これは史実ではありません。 周瑜の死は孫権陣営にとって大きな痛手となりました。彼は単なる軍略家ではなく、孫権の信頼を一身に集め、軍事と内政の両方に優れた才能を発揮していたからです。そのため、周瑜の死後、呉の政治的・軍事的な安定には大きな影響が出ました。 周瑜の人間像:美貌と才能を兼ね備えた英雄 周瑜はただの軍人ではなく、音楽や文化にも精通した多才な人物でした。彼は琴の演奏に優れており、その教養と魅力から「美周郎」と称されるほどの人気を誇りました。一方で、彼の自信やプライドの高さが、時には他者との衝突を生む原因ともなりました。 また、彼はリーダーとしてのカリスマ性に加え、人々を惹きつける温かい人間性を持っていたと言われています。彼のこうした性格が、孫策や孫権の信頼を勝ち取る一因となったことは間違いありません。 周瑜の死後の評価 後世の歴史家や文学者は、周瑜を「知勇兼備の英雄」として評価しています。特に「三国志演義」における彼の活躍は、物語としての面白さを引き立てていますが、史実の彼もまた非常に優れた軍略家でした。 彼の赤壁の戦いでの勝利は、孫権政権を三国時代の中心勢力の一つに押し上げた功績として、今でも語り継がれています。
孫権の右腕として知られている人物は、どの分野にも優れた素養を持っていたか。
孫権の右腕として知られている人物は、音楽にも優れた素養を持っていた。
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歴史
自然科学のいろいろな部門がすべてそうであったように、医学もまた我が国でだんだんに発達して来たのは明治以後のことでありますが、しかしそうなるまでにはやはり江戸時代の終わり頃に多くの蘭学者たちによって西洋の医学がさかんに輸入されたことを見のがしてはならないのです。もちろんそれ以前にも我が国に医術というものが無かったわけではないのですが、それらはただ個々の経験を集めたようなものであって、まだ全く学問として系統立ってはいなかったのでありましたし、またわれわれ人間のからだのなかのいろいろな器官がどんなものであり、どんな働きをしているかというようなことは、まるでわかっていなかったのですから、本当の意味での医学が発達するのには、どうしても西洋の医学を輸入する必要があったのでした。ところでこれを実際に行った人々のなかで、ここにお話ししようとする杉田玄白やまた前野蘭化などというのが特に名だかいのですが、それに続いてたくさんの蘭学医が出たので、今日の人々はこれらの先駆者たちの並々ならぬ苦心とその功績とを忘れてはならないのでありましょう。 もっとも杉田玄白よりも少し以前に、京都に山脇東洋という名だかい医者がいました。その父の清水東軒という人も同じく医者で、山脇玄修という人について医学を修めたのでしたが、後に東洋がその養子となって山脇と名のったのだということです。しかしこの医学というのはその頃古医方といわれていたもので、上に述べた西洋の医学とはちがったものであったのですが、山脇東洋は人体の本当の有様を知るのには、どうしてもこれを実際に解剖して真相を見きわめなくてはならないと感じ、長い間それを念願していたのでした。 それでもこの頃は屍体の解剖などが厳禁だったので、一日でかわうそを二匹や犬を一匹などを解剖してそれをしらべたりしていましたが、これでは人体のことはまだよくわかりません。そこで十五年の歳月を費して機会を待っているうちに、ようやく寳暦四年になって死刑屍の解剖が許されることになり、その年の閏三月七日に行われた死刑者の屍を請いうけてその解剖を実行したのでした。この時、山脇東洋と共に若狭の酒井侯の侍医であった小杉玄適という人もそれを実見して、ここに初めて内臓の有様が明らかになったということです。東洋はこの結果を記して、「臧志」という一書にまとめました。今から見れば、それには幾らかの誤りもないではありませんが、しかしともかくもこれは我が国で人体内臓のことを記した最初の書物として、重要な意味をもっているのです。 東洋と共に屍体解剖を実見した小杉玄適と同じく、杉田玄白もまた酒井侯の侍医であり、互いに親しい間柄であったことは注目するに足りることで、そこで東洋の書物からも大きな刺激をうけて、後に玄白が同様にそれの実見を行ったことは、この時代の医学の上に重要な意味をもつ事であったといわなければなりません。
屍体の解剖などが厳禁だったころに、一日で解剖していた代わりの動物のうち、数が多いほうを教えてください。
屍体の解剖などが厳禁だったころに、一日で解剖していた代わりの動物のうち、数が多いほうはかわうそで二匹です。
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歴史
395年、ローマ帝国が東西に分割されました。西ローマ帝国は1世紀も経たずに滅ぼされましたが、東ローマ帝国ことビザンツ帝国はおよそ1000年続きました。ビザンツ帝国ではローマ帝国からキリスト教を国教として継承し、独自に発展させました。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ウェルギリウス ローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
アウグスティヌスとウェルギリウスの違いを説明して下さい。
アウグスティヌスは教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物ですが、 一方、ウェルギリウスはローマ建国までをうたった叙事詩『アエネイス』を著した人物です。
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歴史
中国の三国時代に活躍した東呉の名将であり、孫権の右腕として知られている人物は、周瑜である。彼は「美周郎」と称されるほどの美貌と、卓越した知略を兼ね備えた人物でした。その生涯は、三国志の中で重要な役割を果たし、特に赤壁の戦いでの功績によって歴史に名を刻んでいます。本記事では、周瑜の生涯、彼の功績、そしてその死後の評価について掘り下げていきます。 周瑜の若き日々 周瑜は、揚州廬江郡の富裕な家に生まれました。若い頃から才能と魅力に恵まれ、音楽にも優れた素養を持っていたとされています。彼の性格は温和でありながらも自信に満ちており、同時代の人々から信頼を得ていました。 彼の転機は、孫策(孫権の兄)との出会いでした。孫策と周瑜は若くして友情を結び、周瑜は孫策が基盤を築く際に大きく貢献しました。この友情は「周郎曲」として後世にまで語り継がれるほど強いものでした。孫策が東呉の支配を固める中、周瑜は常に重要な役割を担い、やがて孫権政権の中心人物となります。 赤壁の戦い:周瑜の最高の功績 周瑜といえば、赤壁の戦いが欠かせません。この戦いは、三国志演義の中でも最も有名な戦いであり、曹操率いる大軍を孫権・劉備連合軍が破るという劇的な展開でした。 周瑜はこの戦いで総指揮官を務め、火攻めという大胆な戦略を成功させました。彼は曹操軍の弱点を見抜き、風向きや地形を利用して効果的な攻撃を仕掛けました。特に「借風計」と呼ばれる策略では、風の向きを利用して火計を成功させたことが知られています。この功績により、周瑜は「軍略の天才」と称されることとなりました。 周瑜の戦略のポイントは以下の通りです: 曹操軍の兵力過多を逆手に取り、補給不足を誘発させた。 蜀(劉備)との同盟を結び、効果的な連携を実現。 風向きの変化を計算に入れた火計を準備し、奇襲を成功させた。 赤壁の戦いは、三国時代の勢力図を大きく変える転機となり、東呉の独立性を守る結果となりました。 周瑜の最期とその影響 しかし、周瑜の人生は短く、210年にわずか36歳で亡くなりました。その死因については、戦いによる負傷や過労、または持病が悪化したとする説があります。また、「三国志演義」では、諸葛亮との知略対決に敗北し、悔しさから病を悪化させたという物語的な要素が加えられていますが、これは史実ではありません。 周瑜の死は孫権陣営にとって大きな痛手となりました。彼は単なる軍略家ではなく、孫権の信頼を一身に集め、軍事と内政の両方に優れた才能を発揮していたからです。そのため、周瑜の死後、呉の政治的・軍事的な安定には大きな影響が出ました。 周瑜の人間像:美貌と才能を兼ね備えた英雄 周瑜はただの軍人ではなく、音楽や文化にも精通した多才な人物でした。彼は琴の演奏に優れており、その教養と魅力から「美周郎」と称されるほどの人気を誇りました。一方で、彼の自信やプライドの高さが、時には他者との衝突を生む原因ともなりました。 また、彼はリーダーとしてのカリスマ性に加え、人々を惹きつける温かい人間性を持っていたと言われています。彼のこうした性格が、孫策や孫権の信頼を勝ち取る一因となったことは間違いありません。 周瑜の死後の評価 後世の歴史家や文学者は、周瑜を「知勇兼備の英雄」として評価しています。特に「三国志演義」における彼の活躍は、物語としての面白さを引き立てていますが、史実の彼もまた非常に優れた軍略家でした。 彼の赤壁の戦いでの勝利は、孫権政権を三国時代の中心勢力の一つに押し上げた功績として、今でも語り継がれています。
孫権の右腕として知られている人物は、いつ亡くなったか。
孫権の右腕として知られている人物は、210年にわずか36歳で亡くなりました。
JCRRAG_018193
歴史
自然科学のいろいろな部門がすべてそうであったように、医学もまた我が国でだんだんに発達して来たのは明治以後のことでありますが、しかしそうなるまでにはやはり江戸時代の終わり頃に多くの蘭学者たちによって西洋の医学がさかんに輸入されたことを見のがしてはならないのです。もちろんそれ以前にも我が国に医術というものが無かったわけではないのですが、それらはただ個々の経験を集めたようなものであって、まだ全く学問として系統立ってはいなかったのでありましたし、またわれわれ人間のからだのなかのいろいろな器官がどんなものであり、どんな働きをしているかというようなことは、まるでわかっていなかったのですから、本当の意味での医学が発達するのには、どうしても西洋の医学を輸入する必要があったのでした。ところでこれを実際に行った人々のなかで、ここにお話ししようとする杉田玄白やまた前野蘭化などというのが特に名だかいのですが、それに続いてたくさんの蘭学医が出たので、今日の人々はこれらの先駆者たちの並々ならぬ苦心とその功績とを忘れてはならないのでありましょう。 もっとも杉田玄白よりも少し以前に、京都に山脇東洋という名だかい医者がいました。その父の清水東軒という人も同じく医者で、山脇玄修という人について医学を修めたのでしたが、後に東洋がその養子となって山脇と名のったのだということです。しかしこの医学というのはその頃古医方といわれていたもので、上に述べた西洋の医学とはちがったものであったのですが、山脇東洋は人体の本当の有様を知るのには、どうしてもこれを実際に解剖して真相を見きわめなくてはならないと感じ、長い間それを念願していたのでした。 それでもこの頃は屍体の解剖などが厳禁だったので、一日でかわうそを二匹や犬を一匹などを解剖してそれをしらべたりしていましたが、これでは人体のことはまだよくわかりません。そこで十五年の歳月を費して機会を待っているうちに、ようやく寳暦四年になって死刑屍の解剖が許されることになり、その年の閏三月七日に行われた死刑者の屍を請いうけてその解剖を実行したのでした。この時、山脇東洋と共に若狭の酒井侯の侍医であった小杉玄適という人もそれを実見して、ここに初めて内臓の有様が明らかになったということです。東洋はこの結果を記して、「臧志」という一書にまとめました。今から見れば、それには幾らかの誤りもないではありませんが、しかしともかくもこれは我が国で人体内臓のことを記した最初の書物として、重要な意味をもっているのです。 東洋と共に屍体解剖を実見した小杉玄適と同じく、杉田玄白もまた酒井侯の侍医であり、互いに親しい間柄であったことは注目するに足りることで、そこで東洋の書物からも大きな刺激をうけて、後に玄白が同様にそれの実見を行ったことは、この時代の医学の上に重要な意味をもつ事であったといわなければなりません。
屍体の解剖などが厳禁だったころに、一日で解剖していた代わりの動物のうち、数が少ないほうを教えてください。
屍体の解剖などが厳禁だったころに、一日で解剖していた代わりの動物のうち、数が少ないほうは犬で一匹です。
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歴史
395年、ローマ帝国が東西に分割されました。西ローマ帝国は1世紀も経たずに滅ぼされましたが、東ローマ帝国ことビザンツ帝国はおよそ1000年続きました。ビザンツ帝国ではローマ帝国からキリスト教を国教として継承し、独自に発展させました。 ローマ人は高度な精神文化ではギリシアの模倣に留まりましたが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化においては優れた能力を見せました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界にギリシア・ローマの古典文化を広めたことにあります。 ローマの文化 言語 ローマ人の話したラテン語は、近代まで聖職者や知識人の共通語でした。 土木・建築 ローマの実用的文化は次の建物に表れました。 コロッセウム(円形闘技場、円形劇場) ローマ最大の闘技場(劇場)で、剣闘士を戦わせるなどの見世物を開催 パンテオン(万神殿ばんしんでん) 多神教のローマにおいて様々な神を祀るところ アッピア街道 ローマ人がつくったもっとも有名な道路 歴史・地理地理観光ガイド リウィウス 歴史書『ローマ建国史(ローマ史)』を著した人物 タキトゥス ゲルマン人の生活・習慣を描く『ゲルマニア』を著し、政治家としても活躍した人物 プルタルコス ギリシア・ローマの英雄的人物を比較評論した『対比列伝』を著した人物 ストラボン 当時知られていた全世界の地誌を記述した人物 哲学・思想 キケロ 優れた弁論家で、政治家としてはカエサルと対立 マルクス=アウレリウス=アントニヌス ストア派理念に基づく『自省録』を著した哲学者で、五賢帝の1人 中国の歴史書に、「大秦王安敦あんとん」の名で登場 自然科学 プリニウス 百科全書的な知識の集大成である『博物誌』を著した人物 プトレマイオス 地球中心の天動説を唱え、後のヨーロッパの天文学に大きな影響を与えた人物 キリスト教思想 『新約聖書』 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典 アウグスティヌス 神と教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物
アウグスティヌスとカエサルの違いを説明して下さい。
アウグスティヌスは教会への信仰が瀕死のローマ帝国を救うとする『神の国』を著したローマ帝政末期の人物ですが、 一方、カエサルは前58~前51年のガリア遠征における自身の記録『ガリア戦記』を著した政治家です。
JCRRAG_018195
歴史
孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した呂蒙。幼いころから勇猛果敢だった彼は、さまざまな戦いで功績を残し、最後には戦わずして関羽を捕らえるという偉業を成し遂げました。その裏には、字が読めないところから猛勉強するといった努力があり、この出来事は故事成語にもなっています。 うまれから出世するまで 呂蒙はどのような出自なのでしょうか?うまれから出世するまでについて振り返ります。 呉の孫策に取り立てられる 呂蒙は豫州汝南郡富陂県の出身といわれており、字は子明(しめい)といいます。15歳のころ孫策の部将だった姉の夫・鄧当(とうとう)の山越討伐軍にこっそりついて行き、鄧当に叱られるも家に戻らないという勇猛果敢な少年でした。その後、鄧当に仕えていた役人から馬鹿にされ、その役人を殺すという事件を起こします。呂蒙は逃亡したものの、校尉の袁雄を頼って自首。これを聞いた孫策は、呂蒙の非凡さを見抜いて側近に取り立てます。そして数年後、鄧当が亡くなると、張昭の推薦により鄧当の任務を引き継ぎ、別部司馬に任じられました。 次々と戦功をあげる 建安5年(200)孫策が死去し、弟・孫権が跡を継ぎます。呂蒙は孫権に仕え、丹陽討伐や黄祖との戦いで戦功をあげました。建安13年(208)の赤壁の戦いでは、周瑜や程普とともに曹操軍を撃破し、南郡で曹仁を包囲。しかし、周瑜の命令により甘寧が夷陵を占拠すると、曹仁は軍を割いて夷陵に攻撃を仕掛けました。呂蒙は夷陵への救援を進言し、猛攻に耐えていた甘寧を救出。また、夷陵の曹仁軍を敗走させることにも成功します。こうして呉が南郡を占拠して荊州を平定すると、呂蒙は偏将軍に任命されました。 孫権軍の重鎮としての活躍 呂蒙はその後も孫権軍の重鎮として君臨し続けます。彼はどのような活躍をしたのでしょうか? 濡須口の戦い 建安18年(213)曹操が約40万人の軍勢で濡須に侵攻すると、孫権は約7万人の軍勢で迎撃しました。この濡須口の戦いでは、呂蒙の献策によりあらかじめ築いていた防壁が奏功します。曹操は盧江太守・朱光を派遣して皖に本営を置くと、水田の開墾や魏への内応を計画。そこで呂蒙は皖城を落とすための計略を進言し、突撃隊長の甘寧とともに精鋭を率いて進軍します。これにより皖城の敵は敗退し、呂蒙は盧江太守に任命されました。 劉備と対立する 孫権は赤壁の戦いで劉備と手を組んだあと、荊州の諸郡を貸していました。その後、劉備が益州を手にいれたため、貸していた荊州諸郡の返却を要求します。ところが劉備は暗に拒否し、関羽に守りを固めさせて荊州全域を一人占めしようと企みます。劉備の思惑を悟った孫権は、呂蒙・魯粛らを派遣し荊州を攻撃。魯粛は劉備軍の荊州の軍事総督・関羽をけん制し、呂蒙は長沙・桂陽を降伏させます。その後、関羽と魯粛の会談でお互いが領有する土地を決め、孫権と劉備は和解しました。この荊州戦役の後、孫権軍は引き続き合肥城へ遠征します。曹操が漢中に出征した隙をついて攻撃をしかけたこの「合肥の戦い」では、曹操軍の武将・張遼の追撃を受けましたが、呂蒙・凌統らが殿軍として孫権を守りぬきました。
中国の三国時代に孫策・孫権に仕えた呉の武将である人物はどうやって出世したか。
孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した人物は、非凡さを見抜かれ、側近に取り立てられた。
JCRRAG_018196
歴史
杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなり有名な人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳齋又は九幸翁と名乗りました。 若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などという医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺激させられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を究めようとしたのでした。 そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したということです。前野良沢というのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。 玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、たまたま明和八年三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。 ちょうどその三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分と言い伝えられた名だかい事実になっているのです。 ところで玄白と良沢とは、ここで西洋医学の正しいのに感服して、この書物を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかに中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、ついに安永三年八月に至ってその仕事を一先ず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。 杉田玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」一巻など他に八冊の偉大な書物があります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病死しました。玄白の功績を追賞されて、明治四十年に正四位を追賞されたことは、彼の一代の光栄というべきでしょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事跡は決してすくなくはなかったと言わなければなりません。
杉田玄白が書いた書物として挙げられているもののうち、もっとも巻数が多い書物を教えてください。
杉田玄白が書いた書物として挙げられているもののうち、もっとも巻数が多い書物は解体新書で四巻です。
JCRRAG_018197
歴史
それにしてもフロレンスは何故そのような執着をもって社会衛生に関係した仕事などに情熱を感じたのであろうか。 無責任な幾多の伝記者は、ここであの犬のエピソードを思い出し、ナイチンゲール嬢の天使の心を描き出すのであるが、現実はもっと強力複雑な動機を時代の空気としてもっていた。その事実は、私たちにとってまじめに理解されなければならない。フロレンスが、物心ついて世の中を眺めはじめた一八四五年代は、イギリスがヴィクトーリア女皇の統治の下に近代社会として未曾有の発展をとげた画期的な時期であった。商工業の急激な進歩、産業界全面の革新は一方に大英国の富をつみ上げてゆくと一緒に、その大都会の他の一方に猛烈な勢いで百の貧民窟と二百の救民院の無力な活動と犯罪率の上昇とを生み出した歴史的な一時代であった。心あるイギリス人は、この富と貧との新しい社会悲惨の図絵に無関心でいられず、ひろがる犯罪、流行病から自分の家族を安全にあらせようと願えば勢い都市の衛生、都市の施設というものを議会の問題とせずにはいられなかった。文学の世界で、写実主義がおこってディッケンズがあらわれ、作風としてはロンドンの下層の生活の悲惨さを描いたのがこの時代であった。サッカレイが「虚栄の市」「ペンデニス」「ニューコム一家」などの書物で当時上流を占めた投資家貴族の生活を辛辣に描き出した作風で世に現れたのもこの時代であった。ロシアではツルゲーネフがその時代の若いロシアの青年男女の姿を「その前夜」「処女地」など二冊に渡って描いた時代である。よりよい社会への願望、研究、行動が空想的であった前世紀の理想社会への憧れから科学的な社会主義の方向に高まりつつ、世界の卓抜な才能と思想とを方向づけていた巨大な一時代であった。たとえ、淑女らしさという金縛りを身にうけてはいても、その時代の先進国であったイギリス生まれの知識婦人であったフロレンス・ナイチンゲールが、社会衛生、道徳改善の事業にその規模の大きい現実的な精力の対象を見出したということは、決して不思議ではなかったのであった。"
ディッケンズとサッカレイが描いた作風の違いを教えてください。
ディッケンズは、ロンドンの下層の生活の悲惨さを描きました。 一方、サッカレイは当時の上流を占めた投資家貴族の生活を辛辣に描きました。
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歴史
孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した呂蒙。幼いころから勇猛果敢だった彼は、さまざまな戦いで功績を残し、最後には戦わずして関羽を捕らえるという偉業を成し遂げました。その裏には、字が読めないところから猛勉強するといった努力があり、この出来事は故事成語にもなっています。 うまれから出世するまで 呂蒙はどのような出自なのでしょうか?うまれから出世するまでについて振り返ります。 呉の孫策に取り立てられる 呂蒙は豫州汝南郡富陂県の出身といわれており、字は子明(しめい)といいます。15歳のころ孫策の部将だった姉の夫・鄧当(とうとう)の山越討伐軍にこっそりついて行き、鄧当に叱られるも家に戻らないという勇猛果敢な少年でした。その後、鄧当に仕えていた役人から馬鹿にされ、その役人を殺すという事件を起こします。呂蒙は逃亡したものの、校尉の袁雄を頼って自首。これを聞いた孫策は、呂蒙の非凡さを見抜いて側近に取り立てます。そして数年後、鄧当が亡くなると、張昭の推薦により鄧当の任務を引き継ぎ、別部司馬に任じられました。 次々と戦功をあげる 建安5年(200)孫策が死去し、弟・孫権が跡を継ぎます。呂蒙は孫権に仕え、丹陽討伐や黄祖との戦いで戦功をあげました。建安13年(208)の赤壁の戦いでは、周瑜や程普とともに曹操軍を撃破し、南郡で曹仁を包囲。しかし、周瑜の命令により甘寧が夷陵を占拠すると、曹仁は軍を割いて夷陵に攻撃を仕掛けました。呂蒙は夷陵への救援を進言し、猛攻に耐えていた甘寧を救出。また、夷陵の曹仁軍を敗走させることにも成功します。こうして呉が南郡を占拠して荊州を平定すると、呂蒙は偏将軍に任命されました。 孫権軍の重鎮としての活躍 呂蒙はその後も孫権軍の重鎮として君臨し続けます。彼はどのような活躍をしたのでしょうか? 濡須口の戦い 建安18年(213)曹操が約40万人の軍勢で濡須に侵攻すると、孫権は約7万人の軍勢で迎撃しました。この濡須口の戦いでは、呂蒙の献策によりあらかじめ築いていた防壁が奏功します。曹操は盧江太守・朱光を派遣して皖に本営を置くと、水田の開墾や魏への内応を計画。そこで呂蒙は皖城を落とすための計略を進言し、突撃隊長の甘寧とともに精鋭を率いて進軍します。これにより皖城の敵は敗退し、呂蒙は盧江太守に任命されました。 劉備と対立する 孫権は赤壁の戦いで劉備と手を組んだあと、荊州の諸郡を貸していました。その後、劉備が益州を手にいれたため、貸していた荊州諸郡の返却を要求します。ところが劉備は暗に拒否し、関羽に守りを固めさせて荊州全域を一人占めしようと企みます。劉備の思惑を悟った孫権は、呂蒙・魯粛らを派遣し荊州を攻撃。魯粛は劉備軍の荊州の軍事総督・関羽をけん制し、呂蒙は長沙・桂陽を降伏させます。その後、関羽と魯粛の会談でお互いが領有する土地を決め、孫権と劉備は和解しました。この荊州戦役の後、孫権軍は引き続き合肥城へ遠征します。曹操が漢中に出征した隙をついて攻撃をしかけたこの「合肥の戦い」では、曹操軍の武将・張遼の追撃を受けましたが、呂蒙・凌統らが殿軍として孫権を守りぬきました。
中国の三国時代に孫策・孫権に仕えた呉の武将である人物は建安13年に誰を包囲したか。
孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した人物は、赤壁の戦いに参加し、南郡で曹仁を包囲した。
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歴史
杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなり有名な人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳齋又は九幸翁と名乗りました。 若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などという医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺激させられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を究めようとしたのでした。 そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したということです。前野良沢というのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。 玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、たまたま明和八年三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。 ちょうどその三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分と言い伝えられた名だかい事実になっているのです。 ところで玄白と良沢とは、ここで西洋医学の正しいのに感服して、この書物を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかに中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、ついに安永三年八月に至ってその仕事を一先ず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。 杉田玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」一巻など他に八冊の偉大な書物があります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病死しました。玄白の功績を追賞されて、明治四十年に正四位を追賞されたことは、彼の一代の光栄というべきでしょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事跡は決してすくなくはなかったと言わなければなりません。
杉田玄白が書いた書物のうち、もっとも巻数が少ない書物を教えてください。
杉田玄白が書いた書物のうち、もっとも巻数が少ない書物は「瘍家大成」で一巻です。
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歴史
けれども、この雄々しい活動の人を夜鶯ナイチンゲールめ!と罵る人間もいた。 その筆頭はスクータリー病院の院長ホール博士と連隊長連であった。女と戦争と何の関係があるのか。 彼らはこの観念から抜けられなかった。 軍医、看護卒、看護婦たちは、ナイチンゲールを天使と考えていた人々の群であった。 おそろしい無秩序と官僚風のしみとおったスクータリーへ、新しい敷布を一とおり行きわたらせるためにでもナイチンゲールは、厳格な方法、きっちりした規律、些細な事をゆるがせにしない厳密な注意、不断の努力、不屈の意志と断固とした決心が入用であった。彼女の平静な表情の下に燃えさかっている情熱、澄んだ静かな声の中にこもっていて一旦その声に命じられたら服従せずにいられない一種独特な権威、それらは臆病の夜鶯ナイチンゲールの持ちものであるはずはない。 おだやかな優しさや、いわゆる女らしい自己否定で、彼女はクリミアでの業績をなしとげたのではなかった。 この一行がはじめコンスタンチノープルに近づいた時、一人の看護婦が「上陸しましたらすぐ可哀相な人々の看護をはじめましょう」といったに対して、「一番丈夫な人たちは洗濯ダライにかかって貰いましょう」と答えた彼女の実際の鋭い洞察も、記憶さるべきところではないだろうか。 戦争が終わって四ヵ月後の一八五六年の夏、フロレンス・ナイチンゲールはクリミアの天使として民衆の熱狂に迎えられながらイギリスに帰って来た。ヴィクトーリア女皇が贈ったブローチを白レースの襟の上に飾ったナイチンゲールの肖像は世界の隅々にまで広がった。 世間的な名声は、クリミアでの英雄的な行為の記憶によって、世の人々の間に生きた。 が、それから後の三十年間に、ナイチンゲールがほとんど長椅子の上にねたきりで完成した事の意義こそは、更に重大であった。 ナイチンゲールにとってクリミアでの成果は彼女の経歴の有益な踏み石に過ぎず、それは世界を働かせる為の梃子台であった。 クリミアでの激働ですっかり健康を害してイギリスに着いた彼女は、心臓衰弱に襲われ、たえず気絶の発作と全身の衰弱に悩まされた。 医師は極力静養を求める。ナイチンゲールにとって、どうして今休養などをとっていられよう。今こそ好機が到来したのだ。 鉄は熱い中にこそ打つべきだ。長椅子の上であえぎながら、彼女は報告を読み、手紙を口述し、激しい動悸の合間には熱病的な冗談をとばした。 ナイチンゲールは、イギリスの陸軍病院の全組織の改善という大計画につかれているのであった。 自分の体のままにならないフロレンスは間もなく自分の周囲に献身的な人々の小さい群をもった。 もっとも重要なのは後に陸軍大臣となったシドニー・ハーバートとその夫人とであった。 きわめて柔軟で同情に富む天質をもって生まれ、従ってその時代の人間性を強調する息吹きにも感じ易かったシドニー・ハーバートは、フロレンスの指揮と指導の性質にひきよせられ、公共の目的のためには全く献身的な独特な友情を保った。 そのほか、このグループの中にはハリー・バーネー卿がおり、詩人のクラッフがおり、クリミアへも一緒に行ったメー叔母さんもいた。 そして、三十年以上彼女の最も緊密な秘書として働いたサザーランド博士がいた。当時の社会が婦人の登場を許していなかったあらゆる政治的関係、役所関係の間へ、ナイチンゲールは彼女のあらゆる条件を活用して、ハーバートを動かし、バーネー卿を活動させた。 ナイチンゲールに役立とうとして仕事をはじめたこれらの人々は、やがて真剣にその能力と忍耐との極限まで彼女のためにはかたむけつくさなければならないことを知った。寝台の上に真っ蒼になって息をきらしながら、なお仕事を捨てないフロレンスを見て、彼女が骨身を惜しんでいるといえる者は一人もいないのであった。
ナイチンゲールに対して、罵る人と天使と考えていた人の違いを教えてください。
ナイチンゲールを罵る人間は、スクータリー病院の院長ホール博士と連隊長連です。 一方、軍医、看護卒、看護婦たちは、ナイチンゲールを天使と考えていました。