ID stringlengths 13 13 | Category stringclasses 12 values | Context stringlengths 1 4.96k | Question stringlengths 7 248 | GroundtruthAnswer stringlengths 2 663 |
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JCRRAG_018201 | 歴史 | 孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した呂蒙。幼いころから勇猛果敢だった彼は、さまざまな戦いで功績を残し、最後には戦わずして関羽を捕らえるという偉業を成し遂げました。その裏には、字が読めないところから猛勉強するといった努力があり、この出来事は故事成語にもなっています。
うまれから出世するまで
呂蒙はどのような出自なのでしょうか?うまれから出世するまでについて振り返ります。
呉の孫策に取り立てられる
呂蒙は豫州汝南郡富陂県の出身といわれており、字は子明(しめい)といいます。15歳のころ孫策の部将だった姉の夫・鄧当(とうとう)の山越討伐軍にこっそりついて行き、鄧当に叱られるも家に戻らないという勇猛果敢な少年でした。その後、鄧当に仕えていた役人から馬鹿にされ、その役人を殺すという事件を起こします。呂蒙は逃亡したものの、校尉の袁雄を頼って自首。これを聞いた孫策は、呂蒙の非凡さを見抜いて側近に取り立てます。そして数年後、鄧当が亡くなると、張昭の推薦により鄧当の任務を引き継ぎ、別部司馬に任じられました。
次々と戦功をあげる
建安5年(200)孫策が死去し、弟・孫権が跡を継ぎます。呂蒙は孫権に仕え、丹陽討伐や黄祖との戦いで戦功をあげました。建安13年(208)の赤壁の戦いでは、周瑜や程普とともに曹操軍を撃破し、南郡で曹仁を包囲。しかし、周瑜の命令により甘寧が夷陵を占拠すると、曹仁は軍を割いて夷陵に攻撃を仕掛けました。呂蒙は夷陵への救援を進言し、猛攻に耐えていた甘寧を救出。また、夷陵の曹仁軍を敗走させることにも成功します。こうして呉が南郡を占拠して荊州を平定すると、呂蒙は偏将軍に任命されました。
孫権軍の重鎮としての活躍
呂蒙はその後も孫権軍の重鎮として君臨し続けます。彼はどのような活躍をしたのでしょうか?
濡須口の戦い
建安18年(213)曹操が約40万人の軍勢で濡須に侵攻すると、孫権は約7万人の軍勢で迎撃しました。この濡須口の戦いでは、呂蒙の献策によりあらかじめ築いていた防壁が奏功します。曹操は盧江太守・朱光を派遣して皖に本営を置くと、水田の開墾や魏への内応を計画。そこで呂蒙は皖城を落とすための計略を進言し、突撃隊長の甘寧とともに精鋭を率いて進軍します。これにより皖城の敵は敗退し、呂蒙は盧江太守に任命されました。
劉備と対立する
孫権は赤壁の戦いで劉備と手を組んだあと、荊州の諸郡を貸していました。その後、劉備が益州を手にいれたため、貸していた荊州諸郡の返却を要求します。ところが劉備は暗に拒否し、関羽に守りを固めさせて荊州全域を一人占めしようと企みます。劉備の思惑を悟った孫権は、呂蒙・魯粛らを派遣し荊州を攻撃。魯粛は劉備軍の荊州の軍事総督・関羽をけん制し、呂蒙は長沙・桂陽を降伏させます。その後、関羽と魯粛の会談でお互いが領有する土地を決め、孫権と劉備は和解しました。この荊州戦役の後、孫権軍は引き続き合肥城へ遠征します。曹操が漢中に出征した隙をついて攻撃をしかけたこの「合肥の戦い」では、曹操軍の武将・張遼の追撃を受けましたが、呂蒙・凌統らが殿軍として孫権を守りぬきました。 | 中国の三国時代に孫策・孫権に仕えた呉の武将である人物は濡須口の戦いの後どうなったか。 | 孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した人物は、皖城の敵を敗退させ、盧江太守に任命された。 |
JCRRAG_018202 | 歴史 | 「解体新書」は、上にもお話ししましたように杉田玄白等の四年にわたる苦心の結果で出来あがったものであり、その頃の我が国の医学に非常に役立った書物なのでありますが、この書をつくり上げるまでに玄白等がどれほど骨折ったかは、後に玄白が著した「蘭学事始」という書の中に詳しく記してあります。「解体新書」の出来あがったのは安永三年でありましたが、「蘭学事始」はそれからおよそ五十年を経て玄白の死した文化十四年よりも三年程以前に玄白が書きのこしておいたもので、それも久しく世に知られなかったのでしたが、明治維新の直前になって神田孝平および福沢諭吉によってふとそれが見つけ出されたので、それで玄白等の異常な苦心も明らかにされるようになったのは、まことにめずらしい事でもあると思われます。またその外に、玄白が建部清庵という人との間にとりかわした手簡文を集めた「和蘭医事問答」や、随筆集である「形影夜話」のなかにも同様なことが記してあるので、ともかくも「解体新書」四巻ができ上がるまでに彼が非常に大きな努力を費したことは確かであります。
「解体新書」はクルムスの原著の翻訳にはちがいないのですが、そのほかにオランダの解剖書をたくさんに参照してその図を採ったり、またいろいろの説をも引用しているばかりでなく、東洋での古来の説をも時々まじえて、それに玄白の経験を基にした考えをも記しているので、全体としては単なる翻訳以上に出ているのでした。しかし玄白も漸次年を経るに従って更さらに完全なものをつくり上げようと考え、この「解体新書」をもう一度改刻しようと志していたのでしたが、老年になるに従って自分の手ではそれを果たすことが困難になって来たので、そこで門人の大槻玄沢に依嘱してこの仕事を行うことに決心したのでした。玄沢はそこでクルムスの原著を改めてよく調べたり、また書類を多く参照したりして、それに十年の歳月を費し、稿を改めること三回に及んで、文政九年に至り「重訂解体新書」なるものを完成したのでした。それには杉田玄白先生新訳、大槻玄沢先生重訂と記されていますが、玄沢がこのために大いに苦心努力したのは言うまでもないのです。全体で十三巻から成り、最初の四巻は解体新書を重訂して新たに九巻分を加えたものでありますが、そのほかのものは玄沢が、註釈として付け加えたもので、そのなかにいろいろな大切な事が記されていました。玄白はこの書の稿が成ったときに、それに次の文を寄せているのです。このなかに門人茂質とあるのは大槻玄沢の名であります。 | 解体新書を新たに作り直した「重訂解体新書」全十三巻のうち、既存の解体新書の分と新たに書き加えた分で巻数が多いほうを教えてください。 | 解体新書を新たに作り直した「重訂解体新書」全十三巻のうち、既存の解体新書の分と新たに書き加えた分で巻数が多いほうは新たに加えた分で九巻です。 |
JCRRAG_018203 | 歴史 | パストゥールの経歴
ルイ・パストゥールは一八二二年の十二月二十七日にフランスのドールという小さな町で生まれました。
父親はジャン・ジョセフという名で、なめし皮をつくる仕事をしていました。
母親は裁縫の仕事をして稼いでいました。
それだけだったので家も貧しく、みすぼらしい生活をしていました。
ルイが生まれて数年後にはマルノーという町に移り、間もなく仕事の都合でアルボアの町に転じました。
この町でルイは小学校に入り、次いで自分で苦学しながらブザンソンの中学校を終えてから、パリへ赴いて高等師範学校に入学し、一八四七年にそこを卒業しました。
ルイは幼少の頃には、さほどの特徴もなく、ただパステル画に巧みであって、その頃描いたものが今でも残っているのですが、その後学業が進むにつれて、だんだんに科学の研究に興味を感ずるようになり、師範学校を終える際には自分の科学上の研究を立派な論文にまとめるまでになりました。
高等師範を卒業してからも、そこでなお熱心に研究を進めている中に、酒石酸の結晶に関する論文が、パリの科学学士院会員として著名なビオーたちに認められ、それからはいつもその恩顧を受けるようになりました。
間もなくディジョン中学の物理学の教師に任命されましたが、そこでは研究ができないので、それをひどく悲しんでむしろパリに帰ることを望んでいたところへ、ビオー等の奔走によってストラスブルグの大学の助教授に任命されたのでした。
そのときには彼はどんなにうれしく感じたかわからない程で、早速そこへ赴きました。これは一八四九年一月のことです。
この時からルイ・パストゥールの熱心な、そして疲れることを知らない学問上の研究がその軌道に乗ったのでしたが、彼のすぐれた頭脳によってそれがいつも輝かしい成功を収めて行ったのでした。
かくて六年後にはリール大学の教授となり、一八五七年には母校であったパリの高等師範学校長に任命されました。
ここでますます研究を積んで学界に重んぜられていたのでしたが、一八七〇年に普仏戦争が起こって、パリの都も混乱に陥ったので、止むなく郷里に帰って不自由ながらも研究を続けていました。
そして戦争の終わった一八七四年にはパリのソルボンヌ大学の教授となり、それからさらに世界を驚かすような業績を挙げました。
それで一八八八年には世界のあらゆる場所からばくだいな資金が集められ、彼の名を附した立派なパストゥール研究所がパリに建設されて、その所長となりました。
この資金の寄附者のなかには、ロシアの皇帝が金貨一万、トルコの国王が金貨二百万などもあり、それからささやかな農夫が二枚の金貨というような、ありとあらゆる階級の人々を含んでいたということです。そして当時のフランスの大統領カルノーがこの研究所の開始の祝辞を述べたのに対して、パストゥールはつつましい言葉をもって、「この研究所の仕事こそは世界のすべての人々の幸福のためになされるものでなければなりません」と答えたということです。
この時から今日までこの研究所にはすぐれた学者が集まってすばらしい研究を行いつづけています。
これもパストゥールの偉大な仕事のおかげであるといわなければなりません。
また一八九二年には、彼の七十歳の祝賀の式がソルボンヌ大学で盛大に行われましたが、これこそパリの歴史のなかで最も美しい一ページをなすものだと評価されたとのことです。
そして一八九五年の九月二十八日に病が重なってこの偉大な大学者はついにこの世を去りました。
フランスでは彼を尊重して、ノートルダムの聖堂で国葬を行ってこの上もない哀惜の念を表したのでした。
なおフランスの国民がどれほど彼を尊敬しているかということについては、パリのある新聞社でフランスの偉人投票を行った際に、パストゥールに集まった投票の数があの名だかいナポレオンが千票入ったとすればはるかにとび超えて三千票位の絶対的な第一位を占めたということでもよくわかるのです。
そしてこの事はまた国民が学問を尊重する念の強いことを示す点で、フランスの一つの特質をも示していると見てよいのでしょう。 | パストゥールの父と母の仕事の違いを教えてください。 | ルイ・パストゥールの父は、なめし皮をつくる仕事をしていました。
一方、母は裁縫の仕事をして稼いでいました。 |
JCRRAG_018204 | 歴史 | 孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した呂蒙。幼いころから勇猛果敢だった彼は、さまざまな戦いで功績を残し、最後には戦わずして関羽を捕らえるという偉業を成し遂げました。その裏には、字が読めないところから猛勉強するといった努力があり、この出来事は故事成語にもなっています。
うまれから出世するまで
呂蒙はどのような出自なのでしょうか?うまれから出世するまでについて振り返ります。
呉の孫策に取り立てられる
呂蒙は豫州汝南郡富陂県の出身といわれており、字は子明(しめい)といいます。15歳のころ孫策の部将だった姉の夫・鄧当(とうとう)の山越討伐軍にこっそりついて行き、鄧当に叱られるも家に戻らないという勇猛果敢な少年でした。その後、鄧当に仕えていた役人から馬鹿にされ、その役人を殺すという事件を起こします。呂蒙は逃亡したものの、校尉の袁雄を頼って自首。これを聞いた孫策は、呂蒙の非凡さを見抜いて側近に取り立てます。そして数年後、鄧当が亡くなると、張昭の推薦により鄧当の任務を引き継ぎ、別部司馬に任じられました。
次々と戦功をあげる
建安5年(200)孫策が死去し、弟・孫権が跡を継ぎます。呂蒙は孫権に仕え、丹陽討伐や黄祖との戦いで戦功をあげました。建安13年(208)の赤壁の戦いでは、周瑜や程普とともに曹操軍を撃破し、南郡で曹仁を包囲。しかし、周瑜の命令により甘寧が夷陵を占拠すると、曹仁は軍を割いて夷陵に攻撃を仕掛けました。呂蒙は夷陵への救援を進言し、猛攻に耐えていた甘寧を救出。また、夷陵の曹仁軍を敗走させることにも成功します。こうして呉が南郡を占拠して荊州を平定すると、呂蒙は偏将軍に任命されました。
孫権軍の重鎮としての活躍
呂蒙はその後も孫権軍の重鎮として君臨し続けます。彼はどのような活躍をしたのでしょうか?
濡須口の戦い
建安18年(213)曹操が約40万人の軍勢で濡須に侵攻すると、孫権は約7万人の軍勢で迎撃しました。この濡須口の戦いでは、呂蒙の献策によりあらかじめ築いていた防壁が奏功します。曹操は盧江太守・朱光を派遣して皖に本営を置くと、水田の開墾や魏への内応を計画。そこで呂蒙は皖城を落とすための計略を進言し、突撃隊長の甘寧とともに精鋭を率いて進軍します。これにより皖城の敵は敗退し、呂蒙は盧江太守に任命されました。
劉備と対立する
孫権は赤壁の戦いで劉備と手を組んだあと、荊州の諸郡を貸していました。その後、劉備が益州を手にいれたため、貸していた荊州諸郡の返却を要求します。ところが劉備は暗に拒否し、関羽に守りを固めさせて荊州全域を一人占めしようと企みます。劉備の思惑を悟った孫権は、呂蒙・魯粛らを派遣し荊州を攻撃。魯粛は劉備軍の荊州の軍事総督・関羽をけん制し、呂蒙は長沙・桂陽を降伏させます。その後、関羽と魯粛の会談でお互いが領有する土地を決め、孫権と劉備は和解しました。この荊州戦役の後、孫権軍は引き続き合肥城へ遠征します。曹操が漢中に出征した隙をついて攻撃をしかけたこの「合肥の戦い」では、曹操軍の武将・張遼の追撃を受けましたが、呂蒙・凌統らが殿軍として孫権を守りぬきました。 | 中国の三国時代に孫策・孫権に仕えた呉の武将である人物は夷陵の戦いでどのような活躍をしたか。 | 孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した人物は、夷陵への救援を進言し、甘寧を救出した。 |
JCRRAG_018205 | 歴史 | 「解体新書」は、上にもお話ししましたように杉田玄白等の四年にわたる苦心の結果で出来あがったものであり、その頃の我が国の医学に非常に役立った書物なのでありますが、この書をつくり上げるまでに玄白等がどれほど骨折ったかは、後に玄白が著した「蘭学事始」という書の中に詳しく記してあります。「解体新書」の出来あがったのは安永三年でありましたが、「蘭学事始」はそれからおよそ五十年を経て玄白の死した文化十四年よりも三年程以前に玄白が書きのこしておいたもので、それも久しく世に知られなかったのでしたが、明治維新の直前になって神田孝平および福沢諭吉によってふとそれが見つけ出されたので、それで玄白等の異常な苦心も明らかにされるようになったのは、まことにめずらしい事でもあると思われます。またその外に、玄白が建部清庵という人との間にとりかわした手簡文を集めた「和蘭医事問答」や、随筆集である「形影夜話」のなかにも同様なことが記してあるので、ともかくも「解体新書」四巻ができ上がるまでに彼が非常に大きな努力を費したことは確かであります。
「解体新書」はクルムスの原著の翻訳にはちがいないのですが、そのほかにオランダの解剖書をたくさんに参照してその図を採ったり、またいろいろの説をも引用しているばかりでなく、東洋での古来の説をも時々まじえて、それに玄白の経験を基にした考えをも記しているので、全体としては単なる翻訳以上に出ているのでした。しかし玄白も漸次年を経るに従って更さらに完全なものをつくり上げようと考え、この「解体新書」をもう一度改刻しようと志していたのでしたが、老年になるに従って自分の手ではそれを果たすことが困難になって来たので、そこで門人の大槻玄沢に依嘱してこの仕事を行うことに決心したのでした。玄沢はそこでクルムスの原著を改めてよく調べたり、また書類を多く参照したりして、それに十年の歳月を費し、稿を改めること三回に及んで、文政九年に至り「重訂解体新書」なるものを完成したのでした。それには杉田玄白先生新訳、大槻玄沢先生重訂と記されていますが、玄沢がこのために大いに苦心努力したのは言うまでもないのです。全体で十三巻から成り、最初の四巻は解体新書を重訂して新たに九巻分を加えたものでありますが、そのほかのものは玄沢が、註釈として付け加えたもので、そのなかにいろいろな大切な事が記されていました。玄白はこの書の稿が成ったときに、それに次の文を寄せているのです。このなかに門人茂質とあるのは大槻玄沢の名であります。 | 解体新書を新たに作り直した「重訂解体新書」全十三巻のうち、既存の解体新書の分と新たに書き加えた分で巻数が少ないほうを教えてください。 | 解体新書を新たに作り直した「重訂解体新書」全十三巻のうち、既存の解体新書の分と新たに書き加えた分で巻数が少ないのは既存の解体新書の分で四巻です。 |
JCRRAG_018206 | 歴史 | パストゥールはこれに続いていろいろな伝染病の予防の方法を熱心に研究しましたが、それには結局免疫という事実を利用するのが最も適切であることを見つけ出しました。
免疫というのは、かなり古くから知られている事実で、例えば天然痘にかかった人が癒えてしまうと、今度は二度とかかることがめったにないというのは、それであります。
それでずいぶん昔からインドや中国では、天然痘にかかった人の膿汁をとってそれを傷口に入れて免疫するという方法が行われていたということで、それが十七世紀頃にヨーロッパにも伝えられましたが、十八世紀の末にイギリスのエドワード・ジェンナーという医者がこれを応用してついに種痘法の効力のあることを見つけ出しました。
これは天然痘にかかった牛からその病菌を含んだ痘苗というものをつくり、それを人間に植えつける方法なのです。
このおかげで天然痘に対する免疫が広く行われるようになり、その流行も大いに減るようになったのでしたが、パストゥールはこれをいろいろな病気に応用しようとして、研究を進めたのでした。
ちょうど一八七九年の頃のことでした。アメリカで鶏コレラと豚の感染症がひどく流行して、非常な損害を生じました。
場所によっては鶏コレラで一日に一万、あるいは二万羽死んでしまうような事態になりました。
豚の感染症も場所によっては日に五千、大きな飼育場が集まった所では一万二千も死んでしまうようになりました。
パストゥールはたくさんの実験を行って、まずそれらの病原体を見つけ出し、それから予防法をも考え出してそれに成功したのでした。
ことに脾脱疽病という家畜の病気のおかげでフランスでも羊や牝牛がたおれることが多かったので、その予防接種の方法をパストゥールが完成したことは、羊毛の生産や牛の増産の上にも非常に役立ったのでした。
これは一八八一年のことで、パストゥールは多くの人々の眼前でその実地試験を行い、効果の著しいことについて人々を驚かしました。
パストゥールは、その外にビールの変質を防ぐ方法をも見つけ出したり、その他のいろいろな研究にも成功しましたが、全人類のために貢献した彼の最大の仕事といわれているのは、恐水病の病毒を発見し、そしてその予防法を考案してそれに成功したことであります。
恐水病というのは、狂犬に噛まれた際におこる恐ろしい病気で、これを救う治療法はそれまで全くなかったのでしたが、パストゥールの熱心な研究の結果としてそれが見つけ出されたということは、じつに特筆するに足りることなのでありました。
もっともパストゥールはこの予防法を考え出したときに、動物試験にはほぼ成功したものの、それでもこれを人間に施して果して危険がないかどうかが最初はわからないのでしたから、実際に使用するのには少からず躊躇しました。
ところが一八八五年の夏近くなった頃、アルサスの小さな町から狂犬に咬まれたという九歳の子供が母親に伴なわれてパリに出て来て、その母親からパストゥールに治療を懇願したという偶然の機会がめぐって来ました。
それでもパストゥールは危険を恐れて大いにためらいましたが、ついに同情の念に動かされてその治療を試みることに決心し、予防接種を行いました。しかしその結果がわかるまでは心配してひどくなやみ続け、もしこれがうまくゆかなかったら、一人の子供の生命がうしなわれるのだと思うと、とても平静な気分ではいられなくなり、幾日も幾日も眠れない夜が続いたということでした。
ところが四十日程も経ってその療法がまず成功を収めたということが確かになって来ましたので、これで彼の心の中がどれほど明るくなったことでしたでしょう。
その後この子供の病気が完全になおったので、彼は始めて安心して、よろこんだのでした。
実際にこの予防法によって今までは全く治療の方法のなかった恐水病が癒やされるようになったということは、医学の歴史の上でいかにも輝かしい出来事であるといってよいのです。パストゥールのたくさんの研究のおかげでことに恐ろしい病気に対する医療の方法が進んで来たということを思うと、さすがに学問の尊さをたたえなければならないでしょう。 | 天然痘における、昔のインドや中国と、イギリスとの治療法の違いを教えてください。 | インドや中国では、天然痘にかかった人の膿汁をとってそれを傷口に入れて免疫するという方法が昔から行われていた。
一方、十八世紀の末にイギリスのエドワード・ジェンナーが応用して天然痘にかかった牛からその病菌を含んだ痘苗というものをつくり、それを人間に植えつける方法を見つけ出しました。 |
JCRRAG_018207 | 歴史 | 孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した呂蒙。幼いころから勇猛果敢だった彼は、さまざまな戦いで功績を残し、最後には戦わずして関羽を捕らえるという偉業を成し遂げました。その裏には、字が読めないところから猛勉強するといった努力があり、この出来事は故事成語にもなっています。
うまれから出世するまで
呂蒙はどのような出自なのでしょうか?うまれから出世するまでについて振り返ります。
呉の孫策に取り立てられる
呂蒙は豫州汝南郡富陂県の出身といわれており、字は子明(しめい)といいます。15歳のころ孫策の部将だった姉の夫・鄧当(とうとう)の山越討伐軍にこっそりついて行き、鄧当に叱られるも家に戻らないという勇猛果敢な少年でした。その後、鄧当に仕えていた役人から馬鹿にされ、その役人を殺すという事件を起こします。呂蒙は逃亡したものの、校尉の袁雄を頼って自首。これを聞いた孫策は、呂蒙の非凡さを見抜いて側近に取り立てます。そして数年後、鄧当が亡くなると、張昭の推薦により鄧当の任務を引き継ぎ、別部司馬に任じられました。
次々と戦功をあげる
建安5年(200)孫策が死去し、弟・孫権が跡を継ぎます。呂蒙は孫権に仕え、丹陽討伐や黄祖との戦いで戦功をあげました。建安13年(208)の赤壁の戦いでは、周瑜や程普とともに曹操軍を撃破し、南郡で曹仁を包囲。しかし、周瑜の命令により甘寧が夷陵を占拠すると、曹仁は軍を割いて夷陵に攻撃を仕掛けました。呂蒙は夷陵への救援を進言し、猛攻に耐えていた甘寧を救出。また、夷陵の曹仁軍を敗走させることにも成功します。こうして呉が南郡を占拠して荊州を平定すると、呂蒙は偏将軍に任命されました。
孫権軍の重鎮としての活躍
呂蒙はその後も孫権軍の重鎮として君臨し続けます。彼はどのような活躍をしたのでしょうか?
濡須口の戦い
建安18年(213)曹操が約40万人の軍勢で濡須に侵攻すると、孫権は約7万人の軍勢で迎撃しました。この濡須口の戦いでは、呂蒙の献策によりあらかじめ築いていた防壁が奏功します。曹操は盧江太守・朱光を派遣して皖に本営を置くと、水田の開墾や魏への内応を計画。そこで呂蒙は皖城を落とすための計略を進言し、突撃隊長の甘寧とともに精鋭を率いて進軍します。これにより皖城の敵は敗退し、呂蒙は盧江太守に任命されました。
劉備と対立する
孫権は赤壁の戦いで劉備と手を組んだあと、荊州の諸郡を貸していました。その後、劉備が益州を手にいれたため、貸していた荊州諸郡の返却を要求します。ところが劉備は暗に拒否し、関羽に守りを固めさせて荊州全域を一人占めしようと企みます。劉備の思惑を悟った孫権は、呂蒙・魯粛らを派遣し荊州を攻撃。魯粛は劉備軍の荊州の軍事総督・関羽をけん制し、呂蒙は長沙・桂陽を降伏させます。その後、関羽と魯粛の会談でお互いが領有する土地を決め、孫権と劉備は和解しました。この荊州戦役の後、孫権軍は引き続き合肥城へ遠征します。曹操が漢中に出征した隙をついて攻撃をしかけたこの「合肥の戦い」では、曹操軍の武将・張遼の追撃を受けましたが、呂蒙・凌統らが殿軍として孫権を守りぬきました。 | 中国の三国時代に孫策・孫権に仕えた呉の武将である人物は合肥の戦いで何をしたか。 | 孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した人物は、殿軍を務め、孫権を守りぬいた。 |
JCRRAG_018208 | 歴史 | 科学が昔からどんな風に進んで、またその影響をどう社会に及ぼして来たかという歴史をよく見てゆくと、なかなかおもしろいのです。科学は学問として絶えず進んでゆくのですが、それに伴れていろいろな便利な機械が発明されて来るので、そうすれば世のなかの人々はどうしてもそういう機械を利用しないではいられなくなります。すると機械の発達に従ってすべての物の生産や、また交通の有様などがちがって来ますから、つまりはそれが人間の社会の有様を変えてゆくことになるので、このようにして昔から今日に至るまで文化が発達して来たのだといってもよいのでしょう。このように考えてゆくと、人間の社会にとって科学がどれほど重要なものであるかということも、初めて本当にわかって来るのでしょう。
さて科学の発達につれて社会の有様がいちじるしく変ったのは、いつ頃からであるかといいますと、それは勿論もちろん古い時代にもいくらかずつはあったに違いありませんが、歴史の上で最も目立っているのは、十八世紀の末から十九世紀の初めにかけてのことであります。それ以前にも機械の利用はいろいろあったのは確かですが、ちょうどこの頃に以前よりもずっと便利ないろいろな機械が発明されたので、それを盛んに産業の上で使うようになったからであります。そのなかには織物の紡績につかう機械やそのほかのものもありましたが、なかでもいちばん重要なのは蒸気のはたらきを利用する蒸気機関であって、これがここでお話ししようとするジェームズ・ワットによってその当時としてはいかにもすばらしいものに改良されたのでした。それ以前には水や風の力を利用する水車や風車が主な機械であって、その外には人間の手足の力とか、牛馬をつかうぐらいがせいぜいであったので、これでは大きな工業などが発達しなかったのも当然なのでありましたが、一度蒸気機関が現れると、これはいかにも便利なものでありましたから、たちまちあらゆる方面に利用させられて、諸所に大きな工場が建てられるようにもなりました。そうなると今までは多くの人々が主に家庭のなかで働いていたのに引きかえに、工場に雇われていろいろな生産労働に従事するようになりました。
百人の工員がいれば六十人が男で四十人が女など、女性も働きにでるようになりました。
から、社会の全体の有様もそれに伴れて大いに変わって来ました。それから蒸気機関を据えつけて、汽車や汽船が動き出すようになると、諸所の交通もそれまでとは比べられないほど便利になり、これも社会の有様を変えてゆきました。世界の歴史の上では、この著しい変わりかたを名づけて、産業革命と言っているのですが、ともかくもこれはそれ以前に見られなかった重要な変化なのでありました。ところがそれがワットのつくった蒸気機関のおかげであったことを思って見ますと、ワットが世界の歴史をこの方向に向けたのだといってもよいほどに、それは重要な発明であったと見なければなりません。ですからすばらしい機械の発明というものは、それ自身のすぐれた価値のほかに、世界の歴史をも運命づけるというほどに重大な意味をもっていることが、これではっきりとわかるのでしょう。 | 百人の工員のうち、数が多いほうの性別を教えてください。 | 百人の工員のうち、数が多いほうの性別は男で六十人です。 |
JCRRAG_018209 | 歴史 | 日本に「アヘン」はどのくらい入ってきていたのか? 江戸時代には「疲労回復」の秘薬だった
ケシの実からつくられる麻薬・アヘン。19世紀にはイギリスが中国(清)にもたらしたアヘンをめぐってアヘン戦争も起きており、清では中毒者の急増が深刻な社会問題となった。日本でも江戸時代、津軽地方でアヘンが栽培されていたのだが、日本人にとってアヘンはどのようなものだったのだろうか?
■江戸時代には漢方として用いられたアヘン
麻薬と言えば、コカイン、モルヒネ、ヘロインなどが有名で、どれも植物を原料とする。コカインがコカという植物の葉に含まれるアルカロイド(天然由来の有機化合物)を主成分とするのに対し、モルヒネとヘロインはアヘンという麻薬を、アヘンはケシという植物の実から採取されるアルカロイドを主成分とする。
アヘンには鎮痛作用があるため、東アジアでは古くから医療現場で利用され、戦国時代に南蛮船によってケシの種がもたらされると、津軽地方(現・青森県)でケシの栽培が試みられた。
津軽の気候・土壌に合ったのか、江戸時代には「一粒金丹」という漢方薬が発明され、気分高揚、疲労回復、解熱、下痢止めなどの効果が認められた。当初は藩関係者にのみ下賜される秘薬だったが、のちには出入りの業者や特許商人にも卸されるようになった。
■アヘンの蔓延がもたらした破壊的な影響
だが、薬になるか毒になるかは紙一重の違いで、隣の清国(中国)ではイギリスが絹や陶磁器を輸入する代価としてインド産のアヘンを利用したことから、身分の上下に関係なく、清国全体にアヘンの吸引が広まるようになった。
日頃、栄養豊富な食生活を送り、高品質なアヘンを適度に吸うぶんには害はないが、ろくに食事も摂らず、低品質のアヘンばかりを吸い、アヘンなしには生きられない依存症に陥ってしまうと、精神的な混乱や身体機能の低下で死期が早まるのは避けられなかった。
アヘン中毒患者の増加は大きな社会問題となり、輸入量の増加に伴い、代価として銀の国外流出が加速すると、深刻な貿易摩擦が生じ、その果てに起きたのが二度に及ぶアヘン戦争で、清国が列強の半植民地と化すきっかけとなった。
■江戸幕府はアヘンの使用を制限したが、一定数は流通
清のこうした状況はオランダを通じて日本にも伝えられていたため、幕府も諸藩もアヘンの使用を医療行為に限るよう徹底させた。仮に日本と清国の位置が逆であったなら、重度のアヘン中毒者を多数抱えさせられたのは日本であったかもしれず、アジアの東端にあること、それも島国であることが幸いした形だった。
幕末の武士や商人は清国の轍を踏むまいと、麻薬としてのアヘンの吸引と販売に消極的だったが、いつの世にも好奇心が強すぎて抑えの利かない者、利益があがるなら売らない手はないと考える商人はいて、戦前・戦中の日本にも一定数のアヘン中患者が存在した。
他に強力な麻薬が登場してもアヘンの需要がゼロになることはなく、モルヒネやヘロイン、コカイン、大麻などとは比較にならないほど少数だが、現在の日本でもアヘン中毒患者が年間千人単位で確認されている。 | 麻薬の主成分において、コカインと、モルヒネとヘロインのアルカロイドの違いを教えてください。 | コカインは、コカという植物の葉に含まれるアルカロイド(天然由来の有機化合物)を主成分とします。
一方、モルヒネとヘロインはアヘンという麻薬から生まれ、アヘンはケシという植物の実から採取されるアルカロイドを主成分しています。 |
JCRRAG_018210 | 歴史 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、馬超である。
馬超はいわゆる名門の出身だったようです。うまれから青年期までの馬超について振り返ります。
名将・馬援の子孫として生まれる
馬超は扶風郡茂陵県の出身で、熹平5年(176)に誕生しました。後漢時代に活躍した名将・馬援の子孫にあたり、『蜀志』に記録があります。父・馬騰(ばとう)が羌族との混血だったため、その血を受け継ぐ馬超も漢王朝の支配を受けない民族から厚く信望されました。涼州では後漢の霊帝時代末期ごろから羌族などの反乱が頻発していましたが、やがて馬騰と韓遂(かんすい)の勢力が台頭。二人は義兄弟になったものの、やがて対立関係に転じ、馬超は韓遂の部下に殺されかけました。そのような状況を見た曹操は、関中の混乱を収めようと司隷校尉・鍾繇(しょうよう)を派遣します。仲裁を受けて和解した馬騰と韓遂は、曹操に人質を差し出して帰順しました。
漢中の独立軍閥の長となる
建安7年(202)、馬超は曹操への援軍として出陣し、平陽県の郭援・高幹を討伐することになります。司隷校尉の督軍従事に任命された馬超は、父の部下・龐徳(ほうとく)ら1万人ほどの兵を率いて戦い、みずから郭援の首級をあげました。このとき馬超は足に矢を受けたものの、袋で足を覆って戦い続けたといいます。その後、馬超は徐州刺史に就任。建安13年(208)、馬騰と韓遂が再び不仲になったため馬騰が入朝すると、偏将軍に任命された馬超は西涼に留まり、父の軍勢を引き継ぎました。
潼関の戦いでの奮闘
曹操に服属していた馬超はやがて反旗を翻します。曹操と敵対した彼はどのような道を辿ったのでしょうか?
曹操と敵対し挙兵する
建安16年(211)、曹操は鍾繇・夏侯淵(かこうえん)らに漢中の張魯(ちょうろ)を討伐させようと画策しました。馬超をはじめとする諸将らは、張魯と馬超の領土が地理的に近いこともあり、自分達が攻められるのではないかと危機感を募らせます。反乱を決意した馬超は、「鍾繇たちは信用できない。自分は父を捨てて韓遂を父とするので、韓遂も子を捨てて自分を子と思って欲しい」と韓遂に申し出ました。韓遂は、「涼州の諸将は意を同じくしており、これは天命だ」と反旗を翻すことに同調。曹操と敵対した馬超と韓遂が挙兵すると、それに呼応する者が相次ぎました。この「潼関の戦い(どうかんのたたかい)」で、馬超は10万人の軍勢を率いて曹操軍と激突します。
曹操軍を追いつめるが……
馬超は曹操軍の先鋒を撃破し、黄河の南岸に布陣した曹操と対峙しました。潼関から北に黄河を渡ろうと考えていた曹操は、兵を先に進ませ許褚の率いる軍勢とともに殿軍となります。馬超はここに猛攻撃をしかけ、曹操軍を大混乱に陥れました。このとき許褚がいなければ曹操は命を落としていたともいわれています。最終的に曹操は渡河に成功し、その後も両者の攻防は続きましたが、戦いがこう着状態になると会談の場が設けられました。しかし、曹操軍の「離間の計(りかんのけい)」にはまり、馬超と韓遂はお互いを疑うようになります。曹操はこの隙をついて攻撃し、馬超らは大敗して逃走しました。
一族の処刑、そして再起
建安17年(212)5月、馬超が起こした反乱の連帯責任として、父と一族200人あまりが処刑されます。これに対し、馬超が羌族の兵たちを集めて蜂起すると、多くの郡や県が呼応しました。涼州刺史・韋康に開城させた冀城を拠点に味方を増やした馬超は、曹操軍の救援にやってきた夏侯淵を撃破。氐族も味方につけ勢力を盛り返しましたが、やがて馬超に降伏していた楊阜(ようふ)らが反旗を翻し、馬超の妻子が斬殺される事態に陥ります。いさかいはその後も続きましたが、最終的に馬超は漢中の張魯を頼って落ち延びました。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、誰の首級をあげたか。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、みずから郭援の首級をあげました。 |
JCRRAG_018211 | 歴史 | 科学が昔からどんな風に進んで、またその影響をどう社会に及ぼして来たかという歴史をよく見てゆくと、なかなかおもしろいのです。科学は学問として絶えず進んでゆくのですが、それに伴れていろいろな便利な機械が発明されて来るので、そうすれば世のなかの人々はどうしてもそういう機械を利用しないではいられなくなります。すると機械の発達に従ってすべての物の生産や、また交通の有様などがちがって来ますから、つまりはそれが人間の社会の有様を変えてゆくことになるので、このようにして昔から今日に至るまで文化が発達して来たのだといってもよいのでしょう。このように考えてゆくと、人間の社会にとって科学がどれほど重要なものであるかということも、初めて本当にわかって来るのでしょう。
さて科学の発達につれて社会の有様がいちじるしく変ったのは、いつ頃からであるかといいますと、それは勿論もちろん古い時代にもいくらかずつはあったに違いありませんが、歴史の上で最も目立っているのは、十八世紀の末から十九世紀の初めにかけてのことであります。それ以前にも機械の利用はいろいろあったのは確かですが、ちょうどこの頃に以前よりもずっと便利ないろいろな機械が発明されたので、それを盛んに産業の上で使うようになったからであります。そのなかには織物の紡績につかう機械やそのほかのものもありましたが、なかでもいちばん重要なのは蒸気のはたらきを利用する蒸気機関であって、これがここでお話ししようとするジェームズ・ワットによってその当時としてはいかにもすばらしいものに改良されたのでした。それ以前には水や風の力を利用する水車や風車が主な機械であって、その外には人間の手足の力とか、牛馬をつかうぐらいがせいぜいであったので、これでは大きな工業などが発達しなかったのも当然なのでありましたが、一度蒸気機関が現れると、これはいかにも便利なものでありましたから、たちまちあらゆる方面に利用させられて、諸所に大きな工場が建てられるようにもなりました。そうなると今までは多くの人々が主に家庭のなかで働いていたのに引きかえに、工場に雇われていろいろな生産労働に従事するようになりました。
百人の工員がいれば六十人が男で四十人が女など、女性も働きにでるようになりました。
から、社会の全体の有様もそれに伴れて大いに変わって来ました。それから蒸気機関を据えつけて、汽車や汽船が動き出すようになると、諸所の交通もそれまでとは比べられないほど便利になり、これも社会の有様を変えてゆきました。世界の歴史の上では、この著しい変わりかたを名づけて、産業革命と言っているのですが、ともかくもこれはそれ以前に見られなかった重要な変化なのでありました。ところがそれがワットのつくった蒸気機関のおかげであったことを思って見ますと、ワットが世界の歴史をこの方向に向けたのだといってもよいほどに、それは重要な発明であったと見なければなりません。ですからすばらしい機械の発明というものは、それ自身のすぐれた価値のほかに、世界の歴史をも運命づけるというほどに重大な意味をもっていることが、これではっきりとわかるのでしょう。 | 百人の工員のうち、数が少ないほうの性別を教えてください。 | 百人の工員のうち、数が少ないほうの性別は女で四十人です。 |
JCRRAG_018212 | 歴史 | 日本に「アヘン」はどのくらい入ってきていたのか? 江戸時代には「疲労回復」の秘薬だった
ケシの実からつくられる麻薬・アヘン。19世紀にはイギリスが中国(清)にもたらしたアヘンをめぐってアヘン戦争も起きており、清では中毒者の急増が深刻な社会問題となった。日本でも江戸時代、津軽地方でアヘンが栽培されていたのだが、日本人にとってアヘンはどのようなものだったのだろうか?
■江戸時代には漢方として用いられたアヘン
麻薬と言えば、コカイン、モルヒネ、ヘロインなどが有名で、どれも植物を原料とする。コカインがコカという植物の葉に含まれるアルカロイド(天然由来の有機化合物)を主成分とするのに対し、モルヒネとヘロインはアヘンという麻薬を、アヘンはケシという植物の実から採取されるアルカロイドを主成分とする。
アヘンには鎮痛作用があるため、東アジアでは古くから医療現場で利用され、戦国時代に南蛮船によってケシの種がもたらされると、津軽地方(現・青森県)でケシの栽培が試みられた。
津軽の気候・土壌に合ったのか、江戸時代には「一粒金丹」という漢方薬が発明され、気分高揚、疲労回復、解熱、下痢止めなどの効果が認められた。当初は藩関係者にのみ下賜される秘薬だったが、のちには出入りの業者や特許商人にも卸されるようになった。
■アヘンの蔓延がもたらした破壊的な影響
だが、薬になるか毒になるかは紙一重の違いで、隣の清国(中国)ではイギリスが絹や陶磁器を輸入する代価としてインド産のアヘンを利用したことから、身分の上下に関係なく、清国全体にアヘンの吸引が広まるようになった。
日頃、栄養豊富な食生活を送り、高品質なアヘンを適度に吸うぶんには害はないが、ろくに食事も摂らず、低品質のアヘンばかりを吸い、アヘンなしには生きられない依存症に陥ってしまうと、精神的な混乱や身体機能の低下で死期が早まるのは避けられなかった。
アヘン中毒患者の増加は大きな社会問題となり、輸入量の増加に伴い、代価として銀の国外流出が加速すると、深刻な貿易摩擦が生じ、その果てに起きたのが二度に及ぶアヘン戦争で、清国が列強の半植民地と化すきっかけとなった。
■江戸幕府はアヘンの使用を制限したが、一定数は流通
清のこうした状況はオランダを通じて日本にも伝えられていたため、幕府も諸藩もアヘンの使用を医療行為に限るよう徹底させた。仮に日本と清国の位置が逆であったなら、重度のアヘン中毒者を多数抱えさせられたのは日本であったかもしれず、アジアの東端にあること、それも島国であることが幸いした形だった。
幕末の武士や商人は清国の轍を踏むまいと、麻薬としてのアヘンの吸引と販売に消極的だったが、いつの世にも好奇心が強すぎて抑えの利かない者、利益があがるなら売らない手はないと考える商人はいて、戦前・戦中の日本にも一定数のアヘン中患者が存在した。
他に強力な麻薬が登場してもアヘンの需要がゼロになることはなく、モルヒネやヘロイン、コカイン、大麻などとは比較にならないほど少数だが、現在の日本でもアヘン中毒患者が年間千人単位で確認されている。 | 江戸時代の日本と清国でのアヘンの違いを教えてください。 | 江戸時代にはアヘンを用いた「一粒金丹」という漢方薬が発明され、気分高揚、疲労回復、解熱、下痢止めなどの効果が認められた。
一方、 清国ではイギリスがアヘンを広め、清国全体にアヘンの吸引が広まるようになり、アヘン中毒患者の増加は大きな社会問題となった。 |
JCRRAG_018213 | 歴史 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、馬超である。
馬超はいわゆる名門の出身だったようです。うまれから青年期までの馬超について振り返ります。
名将・馬援の子孫として生まれる
馬超は扶風郡茂陵県の出身で、熹平5年(176)に誕生しました。後漢時代に活躍した名将・馬援の子孫にあたり、『蜀志』に記録があります。父・馬騰(ばとう)が羌族との混血だったため、その血を受け継ぐ馬超も漢王朝の支配を受けない民族から厚く信望されました。涼州では後漢の霊帝時代末期ごろから羌族などの反乱が頻発していましたが、やがて馬騰と韓遂(かんすい)の勢力が台頭。二人は義兄弟になったものの、やがて対立関係に転じ、馬超は韓遂の部下に殺されかけました。そのような状況を見た曹操は、関中の混乱を収めようと司隷校尉・鍾繇(しょうよう)を派遣します。仲裁を受けて和解した馬騰と韓遂は、曹操に人質を差し出して帰順しました。
漢中の独立軍閥の長となる
建安7年(202)、馬超は曹操への援軍として出陣し、平陽県の郭援・高幹を討伐することになります。司隷校尉の督軍従事に任命された馬超は、父の部下・龐徳(ほうとく)ら1万人ほどの兵を率いて戦い、みずから郭援の首級をあげました。このとき馬超は足に矢を受けたものの、袋で足を覆って戦い続けたといいます。その後、馬超は徐州刺史に就任。建安13年(208)、馬騰と韓遂が再び不仲になったため馬騰が入朝すると、偏将軍に任命された馬超は西涼に留まり、父の軍勢を引き継ぎました。
潼関の戦いでの奮闘
曹操に服属していた馬超はやがて反旗を翻します。曹操と敵対した彼はどのような道を辿ったのでしょうか?
曹操と敵対し挙兵する
建安16年(211)、曹操は鍾繇・夏侯淵(かこうえん)らに漢中の張魯(ちょうろ)を討伐させようと画策しました。馬超をはじめとする諸将らは、張魯と馬超の領土が地理的に近いこともあり、自分達が攻められるのではないかと危機感を募らせます。反乱を決意した馬超は、「鍾繇たちは信用できない。自分は父を捨てて韓遂を父とするので、韓遂も子を捨てて自分を子と思って欲しい」と韓遂に申し出ました。韓遂は、「涼州の諸将は意を同じくしており、これは天命だ」と反旗を翻すことに同調。曹操と敵対した馬超と韓遂が挙兵すると、それに呼応する者が相次ぎました。この「潼関の戦い(どうかんのたたかい)」で、馬超は10万人の軍勢を率いて曹操軍と激突します。
曹操軍を追いつめるが……
馬超は曹操軍の先鋒を撃破し、黄河の南岸に布陣した曹操と対峙しました。潼関から北に黄河を渡ろうと考えていた曹操は、兵を先に進ませ許褚の率いる軍勢とともに殿軍となります。馬超はここに猛攻撃をしかけ、曹操軍を大混乱に陥れました。このとき許褚がいなければ曹操は命を落としていたともいわれています。最終的に曹操は渡河に成功し、その後も両者の攻防は続きましたが、戦いがこう着状態になると会談の場が設けられました。しかし、曹操軍の「離間の計(りかんのけい)」にはまり、馬超と韓遂はお互いを疑うようになります。曹操はこの隙をついて攻撃し、馬超らは大敗して逃走しました。
一族の処刑、そして再起
建安17年(212)5月、馬超が起こした反乱の連帯責任として、父と一族200人あまりが処刑されます。これに対し、馬超が羌族の兵たちを集めて蜂起すると、多くの郡や県が呼応しました。涼州刺史・韋康に開城させた冀城を拠点に味方を増やした馬超は、曹操軍の救援にやってきた夏侯淵を撃破。氐族も味方につけ勢力を盛り返しましたが、やがて馬超に降伏していた楊阜(ようふ)らが反旗を翻し、馬超の妻子が斬殺される事態に陥ります。いさかいはその後も続きましたが、最終的に馬超は漢中の張魯を頼って落ち延びました。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、曹操軍と何の戦いで激突したか。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、潼関の戦いで曹操軍と激突します。 |
JCRRAG_018214 | 歴史 | 慈悲の女神、天使として、フロレンス・ナイチンゲールは生きているうちから、なかば伝説につつまれた存在であった。後の時代になれば聖女めいた色彩は一層濃くされて、天上のものが人間界の苦しみうめいているなかへ下りてきた姿のように語られ描かれているが、フロレンス・ナイチンゲールの長い現実の生活は、はたしてそんな慈悲の香炉から立ちのぼる匂いのようなものであったろうか。
人間のために何事かをなし得た人々は、今も昔もきわめて人間らしさの激しくきつい人々、その情熱も智力も意志もひとしおつよい人々ではなかったのだろうか。
フロレンス・ナイチンゲールは一八二〇年にイギリスの由緒ある上流の娘として誕生した。一八二〇年といえば日本では徳川時代の文政三年、一茶だの塙保己一だのという人が活躍した時代、イギリスは植民地インドからの富でますます豊かになりながら、一方にうめることのできない貧富の差を示してきたヴィクトーリア女皇の時代である。
少女としてのフロレンスの毎日は、上流家庭の娘たちがみなそうであったように立派な家庭教師についてフランス語、ラテン語などの語学を勉強したり、音楽、舞踊、絵画、手芸などをはじめ、若い貴婦人として社交界に出たとき、狩猟の折にこまらないようにと乗馬などまで、規則正しく仕込まれていたに違いない。小さいこの上流の令嬢が、あるとき一匹の犬が負傷しているのを見て大層かわいそうがって、折からそこにいあわせた牧師を大人のように命令して手伝わせながら、その傷の手当をするために三つの包帯と二本の添え木をつけてやるまでは満足しなかったというエピソードが、生まれながら慈悲の女神であったフロレンスの逸話のようにつたえられている。が、このエピソードがもし実際あったことなら、本当の面白さは後から粉飾された小天使めいた解釈とは別のところにあると思われる。小さい犬をかわいそうがる心は、子供にとって普通といえる自然の感情だけれども、その感情を徹底的に表現して、犬の脚に添え木をつけるまでやらなければ承知できなかったフロレンスの実際的で、行動的な性質こそ、彼女の生涯を左右した一つの大きな特色であったと思う。そしてまた、その小さい少女の彼女が、牧師を終わりまで手伝わさせねばおかなかった独特の人を支配してゆく力、それもやはりこの婦人の生涯をつらぬいた特徴ある一つの天性の才能であった。 | フロレンスが負傷した一匹の犬を手当てする時に使ったもののうち、数が少ないほうを教えてください。 | フロレンスが負傷した一匹の犬を手当てする時に使ったもののうち、数が少ないほうは添え木で二本です。 |
JCRRAG_018215 | 歴史 | 日本に「アヘン」はどのくらい入ってきていたのか? 江戸時代には「疲労回復」の秘薬だった
ケシの実からつくられる麻薬・アヘン。19世紀にはイギリスが中国(清)にもたらしたアヘンをめぐってアヘン戦争も起きており、清では中毒者の急増が深刻な社会問題となった。日本でも江戸時代、津軽地方でアヘンが栽培されていたのだが、日本人にとってアヘンはどのようなものだったのだろうか?
■江戸時代には漢方として用いられたアヘン
麻薬と言えば、コカイン、モルヒネ、ヘロインなどが有名で、どれも植物を原料とする。コカインがコカという植物の葉に含まれるアルカロイド(天然由来の有機化合物)を主成分とするのに対し、モルヒネとヘロインはアヘンという麻薬を、アヘンはケシという植物の実から採取されるアルカロイドを主成分とする。
アヘンには鎮痛作用があるため、東アジアでは古くから医療現場で利用され、戦国時代に南蛮船によってケシの種がもたらされると、津軽地方(現・青森県)でケシの栽培が試みられた。
津軽の気候・土壌に合ったのか、江戸時代には「一粒金丹」という漢方薬が発明され、気分高揚、疲労回復、解熱、下痢止めなどの効果が認められた。当初は藩関係者にのみ下賜される秘薬だったが、のちには出入りの業者や特許商人にも卸されるようになった。
■アヘンの蔓延がもたらした破壊的な影響
だが、薬になるか毒になるかは紙一重の違いで、隣の清国(中国)ではイギリスが絹や陶磁器を輸入する代価としてインド産のアヘンを利用したことから、身分の上下に関係なく、清国全体にアヘンの吸引が広まるようになった。
日頃、栄養豊富な食生活を送り、高品質なアヘンを適度に吸うぶんには害はないが、ろくに食事も摂らず、低品質のアヘンばかりを吸い、アヘンなしには生きられない依存症に陥ってしまうと、精神的な混乱や身体機能の低下で死期が早まるのは避けられなかった。
アヘン中毒患者の増加は大きな社会問題となり、輸入量の増加に伴い、代価として銀の国外流出が加速すると、深刻な貿易摩擦が生じ、その果てに起きたのが二度に及ぶアヘン戦争で、清国が列強の半植民地と化すきっかけとなった。
■江戸幕府はアヘンの使用を制限したが、一定数は流通
清のこうした状況はオランダを通じて日本にも伝えられていたため、幕府も諸藩もアヘンの使用を医療行為に限るよう徹底させた。仮に日本と清国の位置が逆であったなら、重度のアヘン中毒者を多数抱えさせられたのは日本であったかもしれず、アジアの東端にあること、それも島国であることが幸いした形だった。
幕末の武士や商人は清国の轍を踏むまいと、麻薬としてのアヘンの吸引と販売に消極的だったが、いつの世にも好奇心が強すぎて抑えの利かない者、利益があがるなら売らない手はないと考える商人はいて、戦前・戦中の日本にも一定数のアヘン中患者が存在した。
他に強力な麻薬が登場してもアヘンの需要がゼロになることはなく、モルヒネやヘロイン、コカイン、大麻などとは比較にならないほど少数だが、現在の日本でもアヘン中毒患者が年間千人単位で確認されている。 | 幕末と戦前戦中のアヘンの扱いの違いを教えてください。 | 幕末の武士や商人は清国の轍を踏むまいと、麻薬としてのアヘンの吸引と販売に消極的だった。幕府も諸藩もアヘンの使用を医療行為に限るよう徹底させていました。
一方、戦前・戦中の日本では好奇心が強すぎて抑えの利かない者、利益になるなら売らない手はないと考える商人がいて、一定数のアヘン中患者が存在しました。 |
JCRRAG_018216 | 歴史 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、馬超である。
馬超はいわゆる名門の出身だったようです。うまれから青年期までの馬超について振り返ります。
名将・馬援の子孫として生まれる
馬超は扶風郡茂陵県の出身で、熹平5年(176)に誕生しました。後漢時代に活躍した名将・馬援の子孫にあたり、『蜀志』に記録があります。父・馬騰(ばとう)が羌族との混血だったため、その血を受け継ぐ馬超も漢王朝の支配を受けない民族から厚く信望されました。涼州では後漢の霊帝時代末期ごろから羌族などの反乱が頻発していましたが、やがて馬騰と韓遂(かんすい)の勢力が台頭。二人は義兄弟になったものの、やがて対立関係に転じ、馬超は韓遂の部下に殺されかけました。そのような状況を見た曹操は、関中の混乱を収めようと司隷校尉・鍾繇(しょうよう)を派遣します。仲裁を受けて和解した馬騰と韓遂は、曹操に人質を差し出して帰順しました。
漢中の独立軍閥の長となる
建安7年(202)、馬超は曹操への援軍として出陣し、平陽県の郭援・高幹を討伐することになります。司隷校尉の督軍従事に任命された馬超は、父の部下・龐徳(ほうとく)ら1万人ほどの兵を率いて戦い、みずから郭援の首級をあげました。このとき馬超は足に矢を受けたものの、袋で足を覆って戦い続けたといいます。その後、馬超は徐州刺史に就任。建安13年(208)、馬騰と韓遂が再び不仲になったため馬騰が入朝すると、偏将軍に任命された馬超は西涼に留まり、父の軍勢を引き継ぎました。
潼関の戦いでの奮闘
曹操に服属していた馬超はやがて反旗を翻します。曹操と敵対した彼はどのような道を辿ったのでしょうか?
曹操と敵対し挙兵する
建安16年(211)、曹操は鍾繇・夏侯淵(かこうえん)らに漢中の張魯(ちょうろ)を討伐させようと画策しました。馬超をはじめとする諸将らは、張魯と馬超の領土が地理的に近いこともあり、自分達が攻められるのではないかと危機感を募らせます。反乱を決意した馬超は、「鍾繇たちは信用できない。自分は父を捨てて韓遂を父とするので、韓遂も子を捨てて自分を子と思って欲しい」と韓遂に申し出ました。韓遂は、「涼州の諸将は意を同じくしており、これは天命だ」と反旗を翻すことに同調。曹操と敵対した馬超と韓遂が挙兵すると、それに呼応する者が相次ぎました。この「潼関の戦い(どうかんのたたかい)」で、馬超は10万人の軍勢を率いて曹操軍と激突します。
曹操軍を追いつめるが……
馬超は曹操軍の先鋒を撃破し、黄河の南岸に布陣した曹操と対峙しました。潼関から北に黄河を渡ろうと考えていた曹操は、兵を先に進ませ許褚の率いる軍勢とともに殿軍となります。馬超はここに猛攻撃をしかけ、曹操軍を大混乱に陥れました。このとき許褚がいなければ曹操は命を落としていたともいわれています。最終的に曹操は渡河に成功し、その後も両者の攻防は続きましたが、戦いがこう着状態になると会談の場が設けられました。しかし、曹操軍の「離間の計(りかんのけい)」にはまり、馬超と韓遂はお互いを疑うようになります。曹操はこの隙をついて攻撃し、馬超らは大敗して逃走しました。
一族の処刑、そして再起
建安17年(212)5月、馬超が起こした反乱の連帯責任として、父と一族200人あまりが処刑されます。これに対し、馬超が羌族の兵たちを集めて蜂起すると、多くの郡や県が呼応しました。涼州刺史・韋康に開城させた冀城を拠点に味方を増やした馬超は、曹操軍の救援にやってきた夏侯淵を撃破。氐族も味方につけ勢力を盛り返しましたが、やがて馬超に降伏していた楊阜(ようふ)らが反旗を翻し、馬超の妻子が斬殺される事態に陥ります。いさかいはその後も続きましたが、最終的に馬超は漢中の張魯を頼って落ち延びました。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、父と一族に何をされたか。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、父と一族200人あまりが処刑されます。 |
JCRRAG_018217 | 歴史 | 慈悲の女神、天使として、フロレンス・ナイチンゲールは生きているうちから、なかば伝説につつまれた存在であった。後の時代になれば聖女めいた色彩は一層濃くされて、天上のものが人間界の苦しみうめいているなかへ下りてきた姿のように語られ描かれているが、フロレンス・ナイチンゲールの長い現実の生活は、はたしてそんな慈悲の香炉から立ちのぼる匂いのようなものであったろうか。
人間のために何事かをなし得た人々は、今も昔もきわめて人間らしさの激しくきつい人々、その情熱も智力も意志もひとしおつよい人々ではなかったのだろうか。
フロレンス・ナイチンゲールは一八二〇年にイギリスの由緒ある上流の娘として誕生した。一八二〇年といえば日本では徳川時代の文政三年、一茶だの塙保己一だのという人が活躍した時代、イギリスは植民地インドからの富でますます豊かになりながら、一方にうめることのできない貧富の差を示してきたヴィクトーリア女皇の時代である。
少女としてのフロレンスの毎日は、上流家庭の娘たちがみなそうであったように立派な家庭教師についてフランス語、ラテン語などの語学を勉強したり、音楽、舞踊、絵画、手芸などをはじめ、若い貴婦人として社交界に出たとき、狩猟の折にこまらないようにと乗馬などまで、規則正しく仕込まれていたに違いない。小さいこの上流の令嬢が、あるとき一匹の犬が負傷しているのを見て大層かわいそうがって、折からそこにいあわせた牧師を大人のように命令して手伝わせながら、その傷の手当をするために三つの包帯と二本の添え木をつけてやるまでは満足しなかったというエピソードが、生まれながら慈悲の女神であったフロレンスの逸話のようにつたえられている。が、このエピソードがもし実際あったことなら、本当の面白さは後から粉飾された小天使めいた解釈とは別のところにあると思われる。小さい犬をかわいそうがる心は、子供にとって普通といえる自然の感情だけれども、その感情を徹底的に表現して、犬の脚に添え木をつけるまでやらなければ承知できなかったフロレンスの実際的で、行動的な性質こそ、彼女の生涯を左右した一つの大きな特色であったと思う。そしてまた、その小さい少女の彼女が、牧師を終わりまで手伝わさせねばおかなかった独特の人を支配してゆく力、それもやはりこの婦人の生涯をつらぬいた特徴ある一つの天性の才能であった。 | フロレンスが負傷した一匹の犬を手当てする時に使ったもののうち、数が多いほうを教えてください。 | フロレンスが負傷した一匹の犬を手当てする時に使ったもののうち、数が多いほうは包帯で三つです。 |
JCRRAG_018218 | 歴史 | 歌舞伎の原点・出雲阿国
歌舞伎の草創は1603年(慶長八年)、出雲大社の巫女・阿国(おくに)が京都の五条や三条、北野神社で興行を始めたのが最初とされています。阿国の興行では、黒い法衣に首から吊った鉦(かね)を叩きながら念仏踊を踊ったり、派手な衣装で男装をして胸に十字架を付けて踊ったりと、現代の「歌舞伎」とはちょっと違いました。また、そのころは「歌舞伎」ではなく「かぶき踊」と呼ばれます。
そして、ちょうどこの頃、京都を中心に「かぶき者」と呼ばれる若者が増えていました。「かぶき」とは、「傾(かぶ)く」という意味で、つまり、江戸幕府の体制や規範を拒否したアウトローたちのことです。幕府にとっては悩みの種である彼らは、しかし、庶民には恰好よく思われ人気がありました。
阿国が演じた「かぶき踊」は、まさに、この「かぶき者」を模したものであり、さらにそこに男装など性別的倒錯が加わって、彼女の踊りは爆発的な大ヒットとなります。四年後には、江戸城中で勧進(お寺の建立、修繕の寄付を募ること)のための「かぶき踊」を演じるまでになったのです。
遊女歌舞伎、若衆歌舞伎の登場
阿国の人気にあやかって登場したのが遊女歌舞伎です。六条三筋町の遊郭の楼主たちがお抱えの遊女たちを男装させ、四条河原に作った劇場で演じさせました。遊女歌舞伎には当時最新の楽器だった三味線や、高級な虎の毛皮などが使われています。この贅沢さが人々に受け、多くの観客が激情に足を運びました。遊女歌舞伎はこれまでの阿国歌舞伎に取って変わって大流行したのです。
また、遊女歌舞伎と同時期に若衆歌舞伎も登場しています。「若衆」というのはいわゆる美少年のことであり、遊女と同じような立場の少年たちでした。
しかし、遊女歌舞伎と若衆歌舞伎は、遊女や若衆が演じるものであり、目的は廓に通ってもらうことです。そのため、彼らを巡っての喧嘩や風紀上のトラブルが絶えず、1629年(寛永六年)に徳川幕府によって遊女歌舞伎・若衆歌舞伎の一切が禁止されてしまいます。
成人男性男性限定の野郎歌舞伎
ここまできてようやく現代に続く野郎歌舞伎が登場します。若衆たちは前髪を垂らした少年だったのに対し、野郎歌舞伎の役者たちは前髪を落として、月代(さかやき)を剃りました。この「野郎頭」の男子しか、舞台に上がることを許されなかったのです。
若衆たちのシンボルだった前髪を落としたので、若衆歌舞伎のような官能的な踊りだけでは当然流行りません。そこで役者たちは技芸を磨きはじめます。初期の阿国のかぶき踊などは短い踊りと寸劇、フィナーレの大踊りという構成でしたが、野郎歌舞伎に移行した後は寸劇は長い芝居へと変化していきました。 | かぶき踊と遊女歌舞伎の違いを教えてください。 | かぶき踊とは、出雲大社の巫女・阿国が当時の若者文化だったかぶき者を模して、男装など性別的倒錯を加わえた人気を得た踊りのことです。
一方、遊女歌舞伎は、阿国の人気にあやかって遊郭の楼主たちがお抱えの遊女たちを男装させ、四条河原に作った劇場で演じさせたものを指します。遊女歌舞伎は人々に受け、多くの観客が激情に足を運び大流行しました。 |
JCRRAG_018219 | 歴史 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、馬超である。
馬超はいわゆる名門の出身だったようです。うまれから青年期までの馬超について振り返ります。
名将・馬援の子孫として生まれる
馬超は扶風郡茂陵県の出身で、熹平5年(176)に誕生しました。後漢時代に活躍した名将・馬援の子孫にあたり、『蜀志』に記録があります。父・馬騰(ばとう)が羌族との混血だったため、その血を受け継ぐ馬超も漢王朝の支配を受けない民族から厚く信望されました。涼州では後漢の霊帝時代末期ごろから羌族などの反乱が頻発していましたが、やがて馬騰と韓遂(かんすい)の勢力が台頭。二人は義兄弟になったものの、やがて対立関係に転じ、馬超は韓遂の部下に殺されかけました。そのような状況を見た曹操は、関中の混乱を収めようと司隷校尉・鍾繇(しょうよう)を派遣します。仲裁を受けて和解した馬騰と韓遂は、曹操に人質を差し出して帰順しました。
漢中の独立軍閥の長となる
建安7年(202)、馬超は曹操への援軍として出陣し、平陽県の郭援・高幹を討伐することになります。司隷校尉の督軍従事に任命された馬超は、父の部下・龐徳(ほうとく)ら1万人ほどの兵を率いて戦い、みずから郭援の首級をあげました。このとき馬超は足に矢を受けたものの、袋で足を覆って戦い続けたといいます。その後、馬超は徐州刺史に就任。建安13年(208)、馬騰と韓遂が再び不仲になったため馬騰が入朝すると、偏将軍に任命された馬超は西涼に留まり、父の軍勢を引き継ぎました。
潼関の戦いでの奮闘
曹操に服属していた馬超はやがて反旗を翻します。曹操と敵対した彼はどのような道を辿ったのでしょうか?
曹操と敵対し挙兵する
建安16年(211)、曹操は鍾繇・夏侯淵(かこうえん)らに漢中の張魯(ちょうろ)を討伐させようと画策しました。馬超をはじめとする諸将らは、張魯と馬超の領土が地理的に近いこともあり、自分達が攻められるのではないかと危機感を募らせます。反乱を決意した馬超は、「鍾繇たちは信用できない。自分は父を捨てて韓遂を父とするので、韓遂も子を捨てて自分を子と思って欲しい」と韓遂に申し出ました。韓遂は、「涼州の諸将は意を同じくしており、これは天命だ」と反旗を翻すことに同調。曹操と敵対した馬超と韓遂が挙兵すると、それに呼応する者が相次ぎました。この「潼関の戦い(どうかんのたたかい)」で、馬超は10万人の軍勢を率いて曹操軍と激突します。
曹操軍を追いつめるが……
馬超は曹操軍の先鋒を撃破し、黄河の南岸に布陣した曹操と対峙しました。潼関から北に黄河を渡ろうと考えていた曹操は、兵を先に進ませ許褚の率いる軍勢とともに殿軍となります。馬超はここに猛攻撃をしかけ、曹操軍を大混乱に陥れました。このとき許褚がいなければ曹操は命を落としていたともいわれています。最終的に曹操は渡河に成功し、その後も両者の攻防は続きましたが、戦いがこう着状態になると会談の場が設けられました。しかし、曹操軍の「離間の計(りかんのけい)」にはまり、馬超と韓遂はお互いを疑うようになります。曹操はこの隙をついて攻撃し、馬超らは大敗して逃走しました。
一族の処刑、そして再起
建安17年(212)5月、馬超が起こした反乱の連帯責任として、父と一族200人あまりが処刑されます。これに対し、馬超が羌族の兵たちを集めて蜂起すると、多くの郡や県が呼応しました。涼州刺史・韋康に開城させた冀城を拠点に味方を増やした馬超は、曹操軍の救援にやってきた夏侯淵を撃破。氐族も味方につけ勢力を盛り返しましたが、やがて馬超に降伏していた楊阜(ようふ)らが反旗を翻し、馬超の妻子が斬殺される事態に陥ります。いさかいはその後も続きましたが、最終的に馬超は漢中の張魯を頼って落ち延びました。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、妻子に何をされたか。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、妻子が斬殺される事態に陥ります。 |
JCRRAG_018220 | 歴史 | ロンドンの住居は、当時社交界のよりぬきの人々が住んでいたメイフェアにあった。ダービーシアに別邸があり、次第に若い令嬢として成長して来たフロレンスの生活は、子供部屋から客間へ、舞踏の広間へと移って行った。どこか気性に独創的なところのある、富裕な教養たかいこの令嬢のまわりには、当然崇拝者の何人かが動いていただろう。
三人の男性の崇拝者と四人の女性の崇拝者がいたという。
しかしまたどこの社会でも共通なように、彼女の両親の社会的な地位により多くの魅惑を感じている青年やその親たちが、月並のお世辞で彼女をとりまいてもいたであろう。だが、フロレンスの両親はやがてこの才色兼備のわが娘の素振りに、少しずつ疑問を抱きはじめた。
世間では親も娘もそれを唯一の目的として心を砕いている婿選びに興味をもつ素振りもないし、社交界に出たばかりの娘たちを有頂天にさせる華美な遊楽や交際も、フロレンスはただ生まれ合わせた境遇の義務の一つとして、それに従っているというだけのように見える。フロレンスの心がそこで満たされていないということは、ふとしたおりおりにフロレンスの表情ににじむ何ともいえない倦怠感から十分察せられる。何不自由ない淑女であるフロレンスがもとめているものは、一体何なのだろう。
彼女は自分のうちに、正に燃え立って焔となろうと願っている一つの激しくせつない欲望を感じているのであった。一人の女として、自分の全心をうちこんでやれるような意義のある何事かをしたいという情熱、自分の生涯をその火に賭して悔いない仕事、それをこのヴィクトーリア時代の淑女はさがし求めて、毎日のなまぬるいしきたりずくめの上流生活の空気の中であえいでいるのであった。
全身全霊にうちこめる何かがやりたい。この願望は、おそらく活発な心をもって生まれた千万人の若い女の胸に、今日もなお湧きつつある思いではないだろうか。だが、そのうち何人かは、そういう仕事を自分の行く手に見出すことに成功するだろう。よしんばそれらしいものを見出したとして、果してそのうちの幾人が、自分の最初の希望を、人生の終わりまでつらぬきとおすことができるだろうか。
若い婦人にとって何よりの敵である境遇の重荷は、フロレンスの若い首筋にもずっしりとのしかかっているのであった。第一は、彼女が生まれた時代のイギリスの習慣の保守的な重み、第二は彼女が特に上流の淑女であるという重み、その二つの石は、やっとフロレンスが自分の人生に目的を見出して、看護婦になりたいといい出した時、先ず母夫人の驚愕、涙となってあらわれた。フロレンスは、二十五歳で、看護婦の仕事こそ自分の全力を傾注するに足る社会的な事業だと思いきめたのであった。
十九世紀中葉のその時代のイギリスで、看護婦として病人の看護をするような女は、
十人のうち六人が他のまともな正業には従えない女、四人がもう往来を歩くには年をとりすぎたアルコール中毒の婆さんたちであった。
こういう看護婦というものがどんな不徳、冷血、不潔でおそろしいものであったかはディッケンズの小説によく描き出されている。病院の看護婦といえば、風紀のみだれたもの、という代名詞のように思われていた。酒気を帯びないで勤務している者は一人もないという状態であった。他ならぬそういう看護婦の中に入って行こうというのであるから、フロレンスの周囲が驚倒したのもいわばもっとものことであったろう。
フロレンスの申し出は、断然反対された。 | 若い令嬢として成長して来たフロレンスについた崇拝者のうち、数が多いほうの性別を教えてください。 | 若い令嬢として成長して来たフロレンスについた崇拝者のうち、数が多いほうの性別は女性で四人です。 |
JCRRAG_018221 | 歴史 | 歌舞伎の原点・出雲阿国
歌舞伎の草創は1603年(慶長八年)、出雲大社の巫女・阿国(おくに)が京都の五条や三条、北野神社で興行を始めたのが最初とされています。阿国の興行では、黒い法衣に首から吊った鉦(かね)を叩きながら念仏踊を踊ったり、派手な衣装で男装をして胸に十字架を付けて踊ったりと、現代の「歌舞伎」とはちょっと違いました。また、そのころは「歌舞伎」ではなく「かぶき踊」と呼ばれます。
そして、ちょうどこの頃、京都を中心に「かぶき者」と呼ばれる若者が増えていました。「かぶき」とは、「傾(かぶ)く」という意味で、つまり、江戸幕府の体制や規範を拒否したアウトローたちのことです。幕府にとっては悩みの種である彼らは、しかし、庶民には恰好よく思われ人気がありました。
阿国が演じた「かぶき踊」は、まさに、この「かぶき者」を模したものであり、さらにそこに男装など性別的倒錯が加わって、彼女の踊りは爆発的な大ヒットとなります。四年後には、江戸城中で勧進(お寺の建立、修繕の寄付を募ること)のための「かぶき踊」を演じるまでになったのです。
遊女歌舞伎、若衆歌舞伎の登場
阿国の人気にあやかって登場したのが遊女歌舞伎です。六条三筋町の遊郭の楼主たちがお抱えの遊女たちを男装させ、四条河原に作った劇場で演じさせました。遊女歌舞伎には当時最新の楽器だった三味線や、高級な虎の毛皮などが使われています。この贅沢さが人々に受け、多くの観客が激情に足を運びました。遊女歌舞伎はこれまでの阿国歌舞伎に取って変わって大流行したのです。
また、遊女歌舞伎と同時期に若衆歌舞伎も登場しています。「若衆」というのはいわゆる美少年のことであり、遊女と同じような立場の少年たちでした。
しかし、遊女歌舞伎と若衆歌舞伎は、遊女や若衆が演じるものであり、目的は廓に通ってもらうことです。そのため、彼らを巡っての喧嘩や風紀上のトラブルが絶えず、1629年(寛永六年)に徳川幕府によって遊女歌舞伎・若衆歌舞伎の一切が禁止されてしまいます。
成人男性男性限定の野郎歌舞伎
ここまできてようやく現代に続く野郎歌舞伎が登場します。若衆たちは前髪を垂らした少年だったのに対し、野郎歌舞伎の役者たちは前髪を落として、月代(さかやき)を剃りました。この「野郎頭」の男子しか、舞台に上がることを許されなかったのです。
若衆たちのシンボルだった前髪を落としたので、若衆歌舞伎のような官能的な踊りだけでは当然流行りません。そこで役者たちは技芸を磨きはじめます。初期の阿国のかぶき踊などは短い踊りと寸劇、フィナーレの大踊りという構成でしたが、野郎歌舞伎に移行した後は寸劇は長い芝居へと変化していきました。 | 若衆歌舞伎と野郎歌舞伎の違いを教えてください。 | 若衆歌舞伎とは、若衆と呼ばれる遊女と同じような立場の少年たちを踊らせたものを指します。若衆とは美少年という意味です。
一方、野郎歌舞伎とは、現代にまで続く歌舞伎を指します。若衆たちは前髪を垂らした少年だったのに対し、野郎歌舞伎の役者たちは前髪を落として、月代(さかやき)を剃っていました。 |
JCRRAG_018222 | 歴史 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、馬超である。
馬超はいわゆる名門の出身だったようです。うまれから青年期までの馬超について振り返ります。
名将・馬援の子孫として生まれる
馬超は扶風郡茂陵県の出身で、熹平5年(176)に誕生しました。後漢時代に活躍した名将・馬援の子孫にあたり、『蜀志』に記録があります。父・馬騰(ばとう)が羌族との混血だったため、その血を受け継ぐ馬超も漢王朝の支配を受けない民族から厚く信望されました。涼州では後漢の霊帝時代末期ごろから羌族などの反乱が頻発していましたが、やがて馬騰と韓遂(かんすい)の勢力が台頭。二人は義兄弟になったものの、やがて対立関係に転じ、馬超は韓遂の部下に殺されかけました。そのような状況を見た曹操は、関中の混乱を収めようと司隷校尉・鍾繇(しょうよう)を派遣します。仲裁を受けて和解した馬騰と韓遂は、曹操に人質を差し出して帰順しました。
漢中の独立軍閥の長となる
建安7年(202)、馬超は曹操への援軍として出陣し、平陽県の郭援・高幹を討伐することになります。司隷校尉の督軍従事に任命された馬超は、父の部下・龐徳(ほうとく)ら1万人ほどの兵を率いて戦い、みずから郭援の首級をあげました。このとき馬超は足に矢を受けたものの、袋で足を覆って戦い続けたといいます。その後、馬超は徐州刺史に就任。建安13年(208)、馬騰と韓遂が再び不仲になったため馬騰が入朝すると、偏将軍に任命された馬超は西涼に留まり、父の軍勢を引き継ぎました。
潼関の戦いでの奮闘
曹操に服属していた馬超はやがて反旗を翻します。曹操と敵対した彼はどのような道を辿ったのでしょうか?
曹操と敵対し挙兵する
建安16年(211)、曹操は鍾繇・夏侯淵(かこうえん)らに漢中の張魯(ちょうろ)を討伐させようと画策しました。馬超をはじめとする諸将らは、張魯と馬超の領土が地理的に近いこともあり、自分達が攻められるのではないかと危機感を募らせます。反乱を決意した馬超は、「鍾繇たちは信用できない。自分は父を捨てて韓遂を父とするので、韓遂も子を捨てて自分を子と思って欲しい」と韓遂に申し出ました。韓遂は、「涼州の諸将は意を同じくしており、これは天命だ」と反旗を翻すことに同調。曹操と敵対した馬超と韓遂が挙兵すると、それに呼応する者が相次ぎました。この「潼関の戦い(どうかんのたたかい)」で、馬超は10万人の軍勢を率いて曹操軍と激突します。
曹操軍を追いつめるが……
馬超は曹操軍の先鋒を撃破し、黄河の南岸に布陣した曹操と対峙しました。潼関から北に黄河を渡ろうと考えていた曹操は、兵を先に進ませ許褚の率いる軍勢とともに殿軍となります。馬超はここに猛攻撃をしかけ、曹操軍を大混乱に陥れました。このとき許褚がいなければ曹操は命を落としていたともいわれています。最終的に曹操は渡河に成功し、その後も両者の攻防は続きましたが、戦いがこう着状態になると会談の場が設けられました。しかし、曹操軍の「離間の計(りかんのけい)」にはまり、馬超と韓遂はお互いを疑うようになります。曹操はこの隙をついて攻撃し、馬超らは大敗して逃走しました。
一族の処刑、そして再起
建安17年(212)5月、馬超が起こした反乱の連帯責任として、父と一族200人あまりが処刑されます。これに対し、馬超が羌族の兵たちを集めて蜂起すると、多くの郡や県が呼応しました。涼州刺史・韋康に開城させた冀城を拠点に味方を増やした馬超は、曹操軍の救援にやってきた夏侯淵を撃破。氐族も味方につけ勢力を盛り返しましたが、やがて馬超に降伏していた楊阜(ようふ)らが反旗を翻し、馬超の妻子が斬殺される事態に陥ります。いさかいはその後も続きましたが、最終的に馬超は漢中の張魯を頼って落ち延びました。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、誰を頼って落ち延びましたか。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、漢中の張魯を頼って落ち延びました。 |
JCRRAG_018223 | 歴史 | ロンドンの住居は、当時社交界のよりぬきの人々が住んでいたメイフェアにあった。ダービーシアに別邸があり、次第に若い令嬢として成長して来たフロレンスの生活は、子供部屋から客間へ、舞踏の広間へと移って行った。どこか気性に独創的なところのある、富裕な教養たかいこの令嬢のまわりには、当然崇拝者の何人かが動いていただろう。
三人の男性の崇拝者と四人の女性の崇拝者がいたという。
しかしまたどこの社会でも共通なように、彼女の両親の社会的な地位により多くの魅惑を感じている青年やその親たちが、月並のお世辞で彼女をとりまいてもいたであろう。だが、フロレンスの両親はやがてこの才色兼備のわが娘の素振りに、少しずつ疑問を抱きはじめた。
世間では親も娘もそれを唯一の目的として心を砕いている婿選びに興味をもつ素振りもないし、社交界に出たばかりの娘たちを有頂天にさせる華美な遊楽や交際も、フロレンスはただ生まれ合わせた境遇の義務の一つとして、それに従っているというだけのように見える。フロレンスの心がそこで満たされていないということは、ふとしたおりおりにフロレンスの表情ににじむ何ともいえない倦怠感から十分察せられる。何不自由ない淑女であるフロレンスがもとめているものは、一体何なのだろう。
彼女は自分のうちに、正に燃え立って焔となろうと願っている一つの激しくせつない欲望を感じているのであった。一人の女として、自分の全心をうちこんでやれるような意義のある何事かをしたいという情熱、自分の生涯をその火に賭して悔いない仕事、それをこのヴィクトーリア時代の淑女はさがし求めて、毎日のなまぬるいしきたりずくめの上流生活の空気の中であえいでいるのであった。
全身全霊にうちこめる何かがやりたい。この願望は、おそらく活発な心をもって生まれた千万人の若い女の胸に、今日もなお湧きつつある思いではないだろうか。だが、そのうち何人かは、そういう仕事を自分の行く手に見出すことに成功するだろう。よしんばそれらしいものを見出したとして、果してそのうちの幾人が、自分の最初の希望を、人生の終わりまでつらぬきとおすことができるだろうか。
若い婦人にとって何よりの敵である境遇の重荷は、フロレンスの若い首筋にもずっしりとのしかかっているのであった。第一は、彼女が生まれた時代のイギリスの習慣の保守的な重み、第二は彼女が特に上流の淑女であるという重み、その二つの石は、やっとフロレンスが自分の人生に目的を見出して、看護婦になりたいといい出した時、先ず母夫人の驚愕、涙となってあらわれた。フロレンスは、二十五歳で、看護婦の仕事こそ自分の全力を傾注するに足る社会的な事業だと思いきめたのであった。
十九世紀中葉のその時代のイギリスで、看護婦として病人の看護をするような女は、
十人のうち六人が他のまともな正業には従えない女、四人がもう往来を歩くには年をとりすぎたアルコール中毒の婆さんたちであった。
こういう看護婦というものがどんな不徳、冷血、不潔でおそろしいものであったかはディッケンズの小説によく描き出されている。病院の看護婦といえば、風紀のみだれたもの、という代名詞のように思われていた。酒気を帯びないで勤務している者は一人もないという状態であった。他ならぬそういう看護婦の中に入って行こうというのであるから、フロレンスの周囲が驚倒したのもいわばもっとものことであったろう。
フロレンスの申し出は、断然反対された。 | 若い令嬢として成長して来たフロレンスについた崇拝者のうち、数が少ないほうの性別を教えてください。 | 若い令嬢として成長して来たフロレンスについた崇拝者のうち、数が少ないほうの性別は男性で三人です。 |
JCRRAG_018224 | 歴史 | 発展する歌舞伎とジャンルの確立
「市川團十郎」は現代でもとても有名な歌舞伎役者さんですね。その一番最初、初代市川團十郎が登場したのが元禄年間(1688年~1704年)、徳川綱吉の時代です。元禄は政治的、経済的に安定した期間であり、文芸・文学・芸術部門が非常に発展した時期でもあります。
歌舞伎は成人男性中心の野郎歌舞伎へと移行しましたが、その中でお芝居のジャンルがふたつに分かれていきました。ひとつは、上方で流行した「和事」です。これは、阿国歌舞伎のころから行ってきたような男女の恋慕や濡場の様子を題材にしたお芝居でした。もうひとつは「荒事」。初代市川團十郎を中心として創始された雄々しい芸風です。荒事は江戸の活気溢れる場や関東人の荒々しい気質とがマッチして大変なヒットとなりました。
スター誕生! 市川團十郎から近松門左衛門まで
元禄文化では小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浮世絵の菱川師宣など様々な芸能者たちが生まれました。歌舞伎においても、初代市川團十郎をはじめ、初代坂田藤十郎、初代芳沢あやめなどのスターが誕生します。三人とも現代に残る名前であり、今もご襲名された役者さんがいらっしゃいますね。市川團十郎は今や当たり前となった隈取や六方の足拍子、見得を切る所作などを演じて人気を博します。初代坂田藤十郎は貴人流離譚系の「やつし事」や「和事」を得意とし、和事を完成させたと言われたほどの大人物でした。初代芳沢あやめは女形として活躍しました。普段の生活から女性になりきって女性以上に女性らしく暮らしていたといわれたほどの女形です。
役者が揃う一方、シナリオもしっかりしたものでなければ観客は離れてしまいます。それまで浄瑠璃で執筆していた近松門左衛門が新作、あるいは既存の作品を歌舞伎で演じられるようにしたりして人気の作品となりました。それはもうとんでもない人気で、近松門左衛門らの心中物語に触発された心中が流行ってしまったため、幕府が心中を扱う舞台の上演を禁止したほどでした。
赤穂事件による影響
歌舞伎の中でも一、二を争う有名演目「仮名手本忠臣蔵」。この演目は江戸で起こった赤穂事件をもとにして書かれた作品でした。ざっくり説明しますと、江戸城内松之大廊下で起こった刃傷沙汰で切腹を言い渡された赤穂藩主・浅野内匠頭の仇を討つため、大石内蔵助率いる47人の元赤穂藩の武士たちが仇の吉良上野介の屋敷に討ち入りするというもの。天下泰平であるはずの江戸城内で刀が抜かれたことはもちろん、吉良邸討ち入り後に首級を下げた武士たちが町を歩くなど幕府にとって非常にショッキングな事件でした。
しかし、庶民にとってこんなニュースはありません。さっそく歌舞伎や浄瑠璃での演目になりそうなところで、事件の脚色や風刺を嫌った幕府から規制がかかったのです。そこで作家たちは登場人物の実名や時代を変え、この作品はフィクションだというていで発表するようになりました。 | 歌舞伎のジャンルである、和事と荒事の違いを教えてください。 | 和事は、阿国歌舞伎のころから行ってきたような男女の恋慕や濡場の様子を題材にしたお芝居でした。
一方、荒事とは、初代市川團十郎を中心として創始された雄々しい芸風です。荒事は江戸の活気溢れる場や関東人の荒々しい気質とがマッチして大変なヒットとなりました。 |
JCRRAG_018225 | 歴史 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、馬超である。
劉備への降伏
張魯のもとに亡命した馬超は、その後、劉備に降伏します。蜀の武将となった馬超はどのように最期を迎えたのでしょうか?
漢中を出奔し、劉備のもとへ
馬超は張魯から兵を借りて失地回復を試みたものの、夏侯淵らに阻まれるなど失敗を繰り返しました。張魯軍は涼州奪還に失敗した馬超の能力を非難するようになり、馬超も張魯に不満を抱くようになります。そこで馬超は、荊州の劉備に降伏して出奔。劉備はすぐに使者を送って彼を歓迎し、これが益州の未来を変えることになります。これより前のこと、益州の劉璋は曹操や張魯に対抗するため、劉備に張魯征伐をさせようとしていました。ところが、劉備と劉璋は争うようになり、優勢になった劉備は劉璋の本拠・成都を包囲。このような状況で馬超が劉備に降伏したため、劉璋は恐れをなして降伏します。こうして劉備は蜀を掌握し、馬超は平西将軍に任命されました。
従弟を託して死去
建安22年(217)、馬超は劉備の漢中攻略戦に従軍しますが、目立った戦功をあげることなく撤退しました。それでも劉備陣営での馬超の評価は高かったようで、諸葛亮をはじめ多くの人が賞賛の言葉を残しています。建安24年(219)には仮節・左将軍に任命され、章武元年(221)には驃騎将軍・涼州刺史になるなど累進。しかし、翌年の章武2年(222)にこの世を去り、子・馬承が跡を継ぎました。死の間際に馬超は、「自分の一族は曹操に殺され従弟・馬岱(ばたい)だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を彼に継承させてください」と劉備に告げたといわれています。
『三国志演義』での馬超とは?
名将の血筋をもち勇猛果敢に生きた馬超ですが、『三国志演義』ではどのように描かれているのでしょうか?
「錦馬超」と称えられた屈強な姿
馬超の容姿は、「顔色は冠の玉のようで、目つきは流星のよう、虎のような体躯に猿のような臂、腹は彪(ひょう)のようで、腰は狼のようである」と描写され、「錦馬超(きんばちょう)」として称えられています。曹操の視点では「人を圧倒するような雄姿」、劉備の視点では「威風にあふれ人品また群を抜く」となっており、屈強な美丈夫だったことがうかがえます。
挙兵時期が『正史』と逆転している?
馬超の見せ場ともいえる潼関の戦いでは多くの脚色が入っているようです。史実では馬超の挙兵後に一族が皆殺しになっていますが、『三国志演義』では皆殺しになった一族の復讐のために挙兵したことになっています。これは、「劉備に味方する悲劇の英傑」としてのイメージにつながっているといえるでしょう。
許褚との一騎打ちで勇猛ぶりを発揮
馬超は勇猛ぶりが際立つように脚色されており、潼関の戦いでは上半身裸になった許褚との一騎打ちのシーンが描かれています。張魯のもとに身を寄せたあとは、劉璋軍の援軍として劉備軍の張飛と一騎打ちするシーンもあります。
五虎大将軍として活躍!
『三国志演義』の馬超は、劉備のもとで五虎大将軍に任命され、漢中攻略戦で活躍します。また、曹操の子・曹丕が蜀を攻撃するとき、その一部を担う予定だった羌族が馬超を恐れて攻め込まなかったという逸話もあり、馬超は史実より長生きしたようです。死の場面は描かれていませんが、北伐の際に諸葛亮が馬超の墓を訪れるシーンが盛り込まれています。
曹操に反旗を翻し戦い続けた
父の地位と軍勢を受け継いで台頭したものの、曹操と対立して一族を殺されるという悲しい道を辿った馬超。曹操をあと一歩というところまで追いつめたことから、馬超はその勇猛さを天下に知らしめることになりました。しかし、劉備に降伏して以降は目立った戦功はなく、累進してその生涯を終えます。もし「離間の計」にはまらず曹操を倒していたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、任命されて何になったか。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、平西将軍に任命されました。 |
JCRRAG_018226 | 歴史 | ロンドンの住居は、当時社交界のよりぬきの人々が住んでいたメイフェアにあった。ダービーシアに別邸があり、次第に若い令嬢として成長して来たフロレンスの生活は、子供部屋から客間へ、舞踏の広間へと移って行った。どこか気性に独創的なところのある、富裕な教養たかいこの令嬢のまわりには、当然崇拝者の何人かが動いていただろう。
三人の男性の崇拝者と四人の女性の崇拝者がいたという。
しかしまたどこの社会でも共通なように、彼女の両親の社会的な地位により多くの魅惑を感じている青年やその親たちが、月並のお世辞で彼女をとりまいてもいたであろう。だが、フロレンスの両親はやがてこの才色兼備のわが娘の素振りに、少しずつ疑問を抱きはじめた。
世間では親も娘もそれを唯一の目的として心を砕いている婿選びに興味をもつ素振りもないし、社交界に出たばかりの娘たちを有頂天にさせる華美な遊楽や交際も、フロレンスはただ生まれ合わせた境遇の義務の一つとして、それに従っているというだけのように見える。フロレンスの心がそこで満たされていないということは、ふとしたおりおりにフロレンスの表情ににじむ何ともいえない倦怠感から十分察せられる。何不自由ない淑女であるフロレンスがもとめているものは、一体何なのだろう。
彼女は自分のうちに、正に燃え立って焔となろうと願っている一つの激しくせつない欲望を感じているのであった。一人の女として、自分の全心をうちこんでやれるような意義のある何事かをしたいという情熱、自分の生涯をその火に賭して悔いない仕事、それをこのヴィクトーリア時代の淑女はさがし求めて、毎日のなまぬるいしきたりずくめの上流生活の空気の中であえいでいるのであった。
全身全霊にうちこめる何かがやりたい。この願望は、おそらく活発な心をもって生まれた千万人の若い女の胸に、今日もなお湧きつつある思いではないだろうか。だが、そのうち何人かは、そういう仕事を自分の行く手に見出すことに成功するだろう。よしんばそれらしいものを見出したとして、果してそのうちの幾人が、自分の最初の希望を、人生の終わりまでつらぬきとおすことができるだろうか。
若い婦人にとって何よりの敵である境遇の重荷は、フロレンスの若い首筋にもずっしりとのしかかっているのであった。第一は、彼女が生まれた時代のイギリスの習慣の保守的な重み、第二は彼女が特に上流の淑女であるという重み、その二つの石は、やっとフロレンスが自分の人生に目的を見出して、看護婦になりたいといい出した時、先ず母夫人の驚愕、涙となってあらわれた。フロレンスは、二十五歳で、看護婦の仕事こそ自分の全力を傾注するに足る社会的な事業だと思いきめたのであった。
十九世紀中葉のその時代のイギリスで、看護婦として病人の看護をするような女は、
十人のうち六人が他のまともな正業には従えない女、四人がもう往来を歩くには年をとりすぎたアルコール中毒の婆さんたちであった。
こういう看護婦というものがどんな不徳、冷血、不潔でおそろしいものであったかはディッケンズの小説によく描き出されている。病院の看護婦といえば、風紀のみだれたもの、という代名詞のように思われていた。酒気を帯びないで勤務している者は一人もないという状態であった。他ならぬそういう看護婦の中に入って行こうというのであるから、フロレンスの周囲が驚倒したのもいわばもっとものことであったろう。
フロレンスの申し出は、断然反対された。 | 十九世紀中葉のその時代のイギリスで看護婦をするような女が十人いるうち、数が多いほうを教えてください。 | 十九世紀中葉のその時代のイギリスで看護婦をするような女が十人いるうち、数が多いほうは、他のまともな正業には従えない女で、六人です。 |
JCRRAG_018227 | 歴史 | 発展する歌舞伎とジャンルの確立
「市川團十郎」は現代でもとても有名な歌舞伎役者さんですね。その一番最初、初代市川團十郎が登場したのが元禄年間(1688年~1704年)、徳川綱吉の時代です。元禄は政治的、経済的に安定した期間であり、文芸・文学・芸術部門が非常に発展した時期でもあります。
歌舞伎は成人男性中心の野郎歌舞伎へと移行しましたが、その中でお芝居のジャンルがふたつに分かれていきました。ひとつは、上方で流行した「和事」です。これは、阿国歌舞伎のころから行ってきたような男女の恋慕や濡場の様子を題材にしたお芝居でした。もうひとつは「荒事」。初代市川團十郎を中心として創始された雄々しい芸風です。荒事は江戸の活気溢れる場や関東人の荒々しい気質とがマッチして大変なヒットとなりました。
スター誕生! 市川團十郎から近松門左衛門まで
元禄文化では小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浮世絵の菱川師宣など様々な芸能者たちが生まれました。歌舞伎においても、初代市川團十郎をはじめ、初代坂田藤十郎、初代芳沢あやめなどのスターが誕生します。三人とも現代に残る名前であり、今もご襲名された役者さんがいらっしゃいますね。市川團十郎は今や当たり前となった隈取や六方の足拍子、見得を切る所作などを演じて人気を博します。初代坂田藤十郎は貴人流離譚系の「やつし事」や「和事」を得意とし、和事を完成させたと言われたほどの大人物でした。初代芳沢あやめは女形として活躍しました。普段の生活から女性になりきって女性以上に女性らしく暮らしていたといわれたほどの女形です。
役者が揃う一方、シナリオもしっかりしたものでなければ観客は離れてしまいます。それまで浄瑠璃で執筆していた近松門左衛門が新作、あるいは既存の作品を歌舞伎で演じられるようにしたりして人気の作品となりました。それはもうとんでもない人気で、近松門左衛門らの心中物語に触発された心中が流行ってしまったため、幕府が心中を扱う舞台の上演を禁止したほどでした。 | 初代坂田藤十郎と初代芳沢あやめの違いを教えてください。 | 初代坂田藤十郎は貴人流離譚系の「やつし事」や「和事」を得意とし、和事を完成させたと言われたほどの大人物でした。
一方、初代芳沢あやめ、は女形として活躍していました。普段の生活から女性になりきって女性以上に女性らしく暮らしていたといわれたほどの女形です。 |
JCRRAG_018228 | 歴史 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、馬超である。
劉備への降伏
張魯のもとに亡命した馬超は、その後、劉備に降伏します。蜀の武将となった馬超はどのように最期を迎えたのでしょうか?
漢中を出奔し、劉備のもとへ
馬超は張魯から兵を借りて失地回復を試みたものの、夏侯淵らに阻まれるなど失敗を繰り返しました。張魯軍は涼州奪還に失敗した馬超の能力を非難するようになり、馬超も張魯に不満を抱くようになります。そこで馬超は、荊州の劉備に降伏して出奔。劉備はすぐに使者を送って彼を歓迎し、これが益州の未来を変えることになります。これより前のこと、益州の劉璋は曹操や張魯に対抗するため、劉備に張魯征伐をさせようとしていました。ところが、劉備と劉璋は争うようになり、優勢になった劉備は劉璋の本拠・成都を包囲。このような状況で馬超が劉備に降伏したため、劉璋は恐れをなして降伏します。こうして劉備は蜀を掌握し、馬超は平西将軍に任命されました。
従弟を託して死去
建安22年(217)、馬超は劉備の漢中攻略戦に従軍しますが、目立った戦功をあげることなく撤退しました。それでも劉備陣営での馬超の評価は高かったようで、諸葛亮をはじめ多くの人が賞賛の言葉を残しています。建安24年(219)には仮節・左将軍に任命され、章武元年(221)には驃騎将軍・涼州刺史になるなど累進。しかし、翌年の章武2年(222)にこの世を去り、子・馬承が跡を継ぎました。死の間際に馬超は、「自分の一族は曹操に殺され従弟・馬岱(ばたい)だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を彼に継承させてください」と劉備に告げたといわれています。
『三国志演義』での馬超とは?
名将の血筋をもち勇猛果敢に生きた馬超ですが、『三国志演義』ではどのように描かれているのでしょうか?
「錦馬超」と称えられた屈強な姿
馬超の容姿は、「顔色は冠の玉のようで、目つきは流星のよう、虎のような体躯に猿のような臂、腹は彪(ひょう)のようで、腰は狼のようである」と描写され、「錦馬超(きんばちょう)」として称えられています。曹操の視点では「人を圧倒するような雄姿」、劉備の視点では「威風にあふれ人品また群を抜く」となっており、屈強な美丈夫だったことがうかがえます。
挙兵時期が『正史』と逆転している?
馬超の見せ場ともいえる潼関の戦いでは多くの脚色が入っているようです。史実では馬超の挙兵後に一族が皆殺しになっていますが、『三国志演義』では皆殺しになった一族の復讐のために挙兵したことになっています。これは、「劉備に味方する悲劇の英傑」としてのイメージにつながっているといえるでしょう。
許褚との一騎打ちで勇猛ぶりを発揮
馬超は勇猛ぶりが際立つように脚色されており、潼関の戦いでは上半身裸になった許褚との一騎打ちのシーンが描かれています。張魯のもとに身を寄せたあとは、劉璋軍の援軍として劉備軍の張飛と一騎打ちするシーンもあります。
五虎大将軍として活躍!
『三国志演義』の馬超は、劉備のもとで五虎大将軍に任命され、漢中攻略戦で活躍します。また、曹操の子・曹丕が蜀を攻撃するとき、その一部を担う予定だった羌族が馬超を恐れて攻め込まなかったという逸話もあり、馬超は史実より長生きしたようです。死の場面は描かれていませんが、北伐の際に諸葛亮が馬超の墓を訪れるシーンが盛り込まれています。
曹操に反旗を翻し戦い続けた
父の地位と軍勢を受け継いで台頭したものの、曹操と対立して一族を殺されるという悲しい道を辿った馬超。曹操をあと一歩というところまで追いつめたことから、馬超はその勇猛さを天下に知らしめることになりました。しかし、劉備に降伏して以降は目立った戦功はなく、累進してその生涯を終えます。もし「離間の計」にはまらず曹操を倒していたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、章武元年に驃騎将軍・涼州刺史となったか。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、章武元年に驃騎将軍・涼州刺史となった。 |
JCRRAG_018229 | 歴史 | フロレンスはこの第一歩の挫折を、決して自分の生涯の計画の挫折としてはうけとらなかった。
それから後の八年という歳月は、フロレンスの上流令嬢としての生活の底におそるべき不屈な努力と実力の蓄積とをはらんで進行した。
この表面の挫折に遭うまでのフロレンスは、何といっても自分の境遇の条件にしばられている一方であったが、この八年に、彼女は不撓な精神で、自分の境遇の条件を一貫した目的に従わせ、そのために活かしてつかって行くという生涯の態度を学んだのであった。
この期間にフロレンスは医学調査会の報告や、衛生局のパンフレットや、病院、孤児院などの沿革をむさぼり読んだ。
ロンドンの社交季節の暇をぬすんで十の貧民学校や二十の救護所の見学をした。
両親との贅沢な外国旅行の間に、暇を見つけては十三か所の病院めぐりをし、十五か所の貧民窟めぐりをし、ヨーロッパの大都会の病院と貧民窟とでフロレンスの知らないところはないという位になった。
ドイツのカイゼルスウェールト温泉へ母と姉とで滞在したとき、フロレンスは二人の貴婦人たちが入湯や社交に日を消している間をぬけ出して、同地の看護婦養成所に三ヵ月以上も滞在した。「これこそ彼女の生涯を支配した重大事件であった」と、興味深い伝記作者のリットン・ストレーチーは、記録している。
同じころ、更にもう一つの重大事件というべきものが、フロレンスの生活をその根から揺り動かした。やがて三十歳になろうとしている婦人の強烈な情感が一人の優秀な青年にひきつけられたのであった。フロレンスにとってこの情感のなみは全く新しいものであり、その激しい生まれつきにふさわしく並々ならない動揺を来したように見える。当時のしきたりは、生粋の上流人であるフロレンスの感情の秩序にもしみこんでいるのであるから、彼女にとって恋愛の心は結婚の門に通じている一本道の上だけで自身に向かって承認されるものである。当時の日記にはフロレンスの苦しい心持ちがまざまざとのこされている。「私には満足を求める知的な性質がある。その満足はあの人から得られる。私には満足を求める情熱的な性質がある。その満足もあの人から得られる。私には満足を要求する道徳的、行動的な性質がある。その満足はあの人の生活中には得られない。時には私もともかく情熱的な性質を満足させようと考えないでもないが……」しかし、フロレンスは自分の本心を知っている。
そういう自分の心があるとき自分に涙をこぼさせるものであったとしても、やはり「私の現在の生活の延長と誇張とに釘づけにされ、自分にとって真実な豊かな生活を築く好機会を永久に逃してしまうこと」はとてもできないとわかっている。
フロレンスは、苦しくても本心の声に従わずにはいられない。彼女はその青年との結婚を断念することで、自分の愛の火の上にもふたをきせてしまった。これほどまでに人生的な大望に身をこがす一人の成熟しきった女性にとって、活動の機会を与えられず過ぎてゆく日々はいかに苦悩そのものであったかは、彼女の正直な次の告白が語っている。「人生三十一年、好ましいと思われるものは死ばかりである」と。 | フロレンスがロンドンの社交季節の暇をぬすんで見学しにいったところのうち、より数が多かったところを教えてください。 | フロレンスがロンドンの社交季節の暇をぬすんで見学しにいったところのうち、より数が多かったところは救護所で二十です。 |
JCRRAG_018230 | 歴史 | 歌舞伎舞台の進化、三大歌舞伎の登場
江島生島事件による劇場の取潰し
時代は五代将軍綱吉から七代将軍家継に移り変わって1714年(正徳四年)、歌舞伎界を揺るがすスキャンダルが駆け抜けます。
江戸城の奥、将軍の正室や側室たちが住まう「大奥」。このころの大奥総取締役だったのは江島という女性です。スキャンダルとなる「江島生島事件」は、彼女が家継の母・月光院の名代としてお寺に参詣した帰り、江戸四座の山村座に寄ったことに端を発します。興行の後、彼女は部下たちと共に山村座の役者たちを招いての宴会を開いたために、大奥の門限に間に合わず門番と口論になってしまったのです。ただの言い争いは瞬く間に江戸城中に伝わり、エスカレートした挙句に評定所(最高裁判所)にまで持ち込まれることとなりました。審議の過程で江島と、山村座の看板スターだった生島新五郎の密会が疑われ、また大奥内の規律の緩みなどが明るみとなり、その咎を受けて江島には流罪の判決が下ります。
罰を受けたのは江島本人だけではありません。彼女の兄は斬首、弟は重追放。さらに、関係があったとされる生島新五郎は三宅島(伊豆諸島)へと流罪になり、彼の所属する山村座の座長・山村長太夫もまた伊豆大島に流罪、そして官許の芝居小屋だった山村座は廃座とされてしまいます。しかし、歌舞伎界への影響はそれだけにとどまりません。江戸で興行していた多くの芝居小屋は巻き添いをくらう形で簡素な劇場へと改築させられ、夕方の興行が禁止となってしまったのです。
舞台装置の進化と魅力的なシナリオ
江戸四座から三座へ減らされるという不遇を受けた歌舞伎界。しかし、それで庶民たちからの人気が萎えたわけではありません。四年後の1718年、享保年間に入ると芝居小屋の建築が進化し、それまで青空の下で行われていた舞台に屋根がつき、さらに花道やせり上げ、回り舞台など、現代と変わらない舞台装置が整っていくのです。
この進化により、それまで平面的だった舞台に奥行が生まれ、屋根を使った宙吊りや暗転による表現の拡張、花道によって役者と観客の距離感を縮めるなどして更なる人気を獲得していきました。
もちろん、シナリオ面も舞台に負けてはいません。人形浄瑠璃の演目だった「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」が歌舞伎でも上演されはじめます。
「義経千本桜」は源平合戦後に兄・頼朝に追われ、都落ちする義経をめぐる周囲の人々や、実は生きていた平家武者たちの更なる悲劇を題材とした作品です。そして、「仮名手本忠臣蔵」は先述の通り、赤穂浪士47人による主君の仇討物語。「菅原伝授手習鑑」は菅原道真をモデルとした管丞相を主人公に、菅原道真の失脚事件「昌泰の変」を描いたものでした。この三つの演目は現代でも上演されています。
赤穂事件による影響
歌舞伎の中でも一、二を争う有名演目「仮名手本忠臣蔵」。この演目は江戸で起こった赤穂事件をもとにして書かれた作品でした。ざっくり説明しますと、江戸城内松之大廊下で起こった刃傷沙汰で切腹を言い渡された赤穂藩主・浅野内匠頭の仇を討つため、大石内蔵助率いる47人の元赤穂藩の武士たちが仇の吉良上野介の屋敷に討ち入りするというもの。天下泰平であるはずの江戸城内で刀が抜かれたことはもちろん、吉良邸討ち入り後に首級を下げた武士たちが町を歩くなど幕府にとって非常にショッキングな事件でした。 | 江島生島事件において、生島新五郎と山村長太夫の流罪の違いを教えてください。 | 江島生島事件において、生島新五郎は三宅島へと流罪になりました。
さらに、山村長太夫は伊豆大島へ流罪になりました。 |
JCRRAG_018231 | 歴史 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、馬超である。
劉備への降伏
張魯のもとに亡命した馬超は、その後、劉備に降伏します。蜀の武将となった馬超はどのように最期を迎えたのでしょうか?
漢中を出奔し、劉備のもとへ
馬超は張魯から兵を借りて失地回復を試みたものの、夏侯淵らに阻まれるなど失敗を繰り返しました。張魯軍は涼州奪還に失敗した馬超の能力を非難するようになり、馬超も張魯に不満を抱くようになります。そこで馬超は、荊州の劉備に降伏して出奔。劉備はすぐに使者を送って彼を歓迎し、これが益州の未来を変えることになります。これより前のこと、益州の劉璋は曹操や張魯に対抗するため、劉備に張魯征伐をさせようとしていました。ところが、劉備と劉璋は争うようになり、優勢になった劉備は劉璋の本拠・成都を包囲。このような状況で馬超が劉備に降伏したため、劉璋は恐れをなして降伏します。こうして劉備は蜀を掌握し、馬超は平西将軍に任命されました。
従弟を託して死去
建安22年(217)、馬超は劉備の漢中攻略戦に従軍しますが、目立った戦功をあげることなく撤退しました。それでも劉備陣営での馬超の評価は高かったようで、諸葛亮をはじめ多くの人が賞賛の言葉を残しています。建安24年(219)には仮節・左将軍に任命され、章武元年(221)には驃騎将軍・涼州刺史になるなど累進。しかし、翌年の章武2年(222)にこの世を去り、子・馬承が跡を継ぎました。死の間際に馬超は、「自分の一族は曹操に殺され従弟・馬岱(ばたい)だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を彼に継承させてください」と劉備に告げたといわれています。
『三国志演義』での馬超とは?
名将の血筋をもち勇猛果敢に生きた馬超ですが、『三国志演義』ではどのように描かれているのでしょうか?
「錦馬超」と称えられた屈強な姿
馬超の容姿は、「顔色は冠の玉のようで、目つきは流星のよう、虎のような体躯に猿のような臂、腹は彪(ひょう)のようで、腰は狼のようである」と描写され、「錦馬超(きんばちょう)」として称えられています。曹操の視点では「人を圧倒するような雄姿」、劉備の視点では「威風にあふれ人品また群を抜く」となっており、屈強な美丈夫だったことがうかがえます。
挙兵時期が『正史』と逆転している?
馬超の見せ場ともいえる潼関の戦いでは多くの脚色が入っているようです。史実では馬超の挙兵後に一族が皆殺しになっていますが、『三国志演義』では皆殺しになった一族の復讐のために挙兵したことになっています。これは、「劉備に味方する悲劇の英傑」としてのイメージにつながっているといえるでしょう。
許褚との一騎打ちで勇猛ぶりを発揮
馬超は勇猛ぶりが際立つように脚色されており、潼関の戦いでは上半身裸になった許褚との一騎打ちのシーンが描かれています。張魯のもとに身を寄せたあとは、劉璋軍の援軍として劉備軍の張飛と一騎打ちするシーンもあります。
五虎大将軍として活躍!
『三国志演義』の馬超は、劉備のもとで五虎大将軍に任命され、漢中攻略戦で活躍します。また、曹操の子・曹丕が蜀を攻撃するとき、その一部を担う予定だった羌族が馬超を恐れて攻め込まなかったという逸話もあり、馬超は史実より長生きしたようです。死の場面は描かれていませんが、北伐の際に諸葛亮が馬超の墓を訪れるシーンが盛り込まれています。
曹操に反旗を翻し戦い続けた
父の地位と軍勢を受け継いで台頭したものの、曹操と対立して一族を殺されるという悲しい道を辿った馬超。曹操をあと一歩というところまで追いつめたことから、馬超はその勇猛さを天下に知らしめることになりました。しかし、劉備に降伏して以降は目立った戦功はなく、累進してその生涯を終えます。もし「離間の計」にはまらず曹操を倒していたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、劉備の漢中攻略戦に従軍したか。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、劉備の漢中攻略戦に従軍した。 |
JCRRAG_018232 | 歴史 | フロレンスはこの第一歩の挫折を、決して自分の生涯の計画の挫折としてはうけとらなかった。
それから後の八年という歳月は、フロレンスの上流令嬢としての生活の底におそるべき不屈な努力と実力の蓄積とをはらんで進行した。
この表面の挫折に遭うまでのフロレンスは、何といっても自分の境遇の条件にしばられている一方であったが、この八年に、彼女は不撓な精神で、自分の境遇の条件を一貫した目的に従わせ、そのために活かしてつかって行くという生涯の態度を学んだのであった。
この期間にフロレンスは医学調査会の報告や、衛生局のパンフレットや、病院、孤児院などの沿革をむさぼり読んだ。
ロンドンの社交季節の暇をぬすんで十の貧民学校や二十の救護所の見学をした。
両親との贅沢な外国旅行の間に、暇を見つけては十三か所の病院めぐりをし、十五か所の貧民窟めぐりをし、ヨーロッパの大都会の病院と貧民窟とでフロレンスの知らないところはないという位になった。
ドイツのカイゼルスウェールト温泉へ母と姉とで滞在したとき、フロレンスは二人の貴婦人たちが入湯や社交に日を消している間をぬけ出して、同地の看護婦養成所に三ヵ月以上も滞在した。「これこそ彼女の生涯を支配した重大事件であった」と、興味深い伝記作者のリットン・ストレーチーは、記録している。
同じころ、更にもう一つの重大事件というべきものが、フロレンスの生活をその根から揺り動かした。やがて三十歳になろうとしている婦人の強烈な情感が一人の優秀な青年にひきつけられたのであった。フロレンスにとってこの情感のなみは全く新しいものであり、その激しい生まれつきにふさわしく並々ならない動揺を来したように見える。当時のしきたりは、生粋の上流人であるフロレンスの感情の秩序にもしみこんでいるのであるから、彼女にとって恋愛の心は結婚の門に通じている一本道の上だけで自身に向かって承認されるものである。当時の日記にはフロレンスの苦しい心持ちがまざまざとのこされている。「私には満足を求める知的な性質がある。その満足はあの人から得られる。私には満足を求める情熱的な性質がある。その満足もあの人から得られる。私には満足を要求する道徳的、行動的な性質がある。その満足はあの人の生活中には得られない。時には私もともかく情熱的な性質を満足させようと考えないでもないが……」しかし、フロレンスは自分の本心を知っている。
そういう自分の心があるとき自分に涙をこぼさせるものであったとしても、やはり「私の現在の生活の延長と誇張とに釘づけにされ、自分にとって真実な豊かな生活を築く好機会を永久に逃してしまうこと」はとてもできないとわかっている。
フロレンスは、苦しくても本心の声に従わずにはいられない。彼女はその青年との結婚を断念することで、自分の愛の火の上にもふたをきせてしまった。これほどまでに人生的な大望に身をこがす一人の成熟しきった女性にとって、活動の機会を与えられず過ぎてゆく日々はいかに苦悩そのものであったかは、彼女の正直な次の告白が語っている。「人生三十一年、好ましいと思われるものは死ばかりである」と。 | フロレンスがロンドンの社交季節の暇をぬすんで見学しにいったところのうち、より数が少なかったところを教えてください。 | フロレンスがロンドンの社交季節の暇をぬすんで見学しにいったところのうち、より数が少なかったところは貧民学校で十です。 |
JCRRAG_018233 | 歴史 | 歌舞伎舞台の進化、三大歌舞伎の登場
江島生島事件による劇場の取潰し
時代は五代将軍綱吉から七代将軍家継に移り変わって1714年(正徳四年)、歌舞伎界を揺るがすスキャンダルが駆け抜けます。
江戸城の奥、将軍の正室や側室たちが住まう「大奥」。このころの大奥総取締役だったのは江島という女性です。スキャンダルとなる「江島生島事件」は、彼女が家継の母・月光院の名代としてお寺に参詣した帰り、江戸四座の山村座に寄ったことに端を発します。興行の後、彼女は部下たちと共に山村座の役者たちを招いての宴会を開いたために、大奥の門限に間に合わず門番と口論になってしまったのです。ただの言い争いは瞬く間に江戸城中に伝わり、エスカレートした挙句に評定所(最高裁判所)にまで持ち込まれることとなりました。審議の過程で江島と、山村座の看板スターだった生島新五郎の密会が疑われ、また大奥内の規律の緩みなどが明るみとなり、その咎を受けて江島には流罪の判決が下ります。
罰を受けたのは江島本人だけではありません。彼女の兄は斬首、弟は重追放。さらに、関係があったとされる生島新五郎は三宅島(伊豆諸島)へと流罪になり、彼の所属する山村座の座長・山村長太夫もまた伊豆大島に流罪、そして官許の芝居小屋だった山村座は廃座とされてしまいます。しかし、歌舞伎界への影響はそれだけにとどまりません。江戸で興行していた多くの芝居小屋は巻き添いをくらう形で簡素な劇場へと改築させられ、夕方の興行が禁止となってしまったのです。
舞台装置の進化と魅力的なシナリオ
江戸四座から三座へ減らされるという不遇を受けた歌舞伎界。しかし、それで庶民たちからの人気が萎えたわけではありません。四年後の1718年、享保年間に入ると芝居小屋の建築が進化し、それまで青空の下で行われていた舞台に屋根がつき、さらに花道やせり上げ、回り舞台など、現代と変わらない舞台装置が整っていくのです。
この進化により、それまで平面的だった舞台に奥行が生まれ、屋根を使った宙吊りや暗転による表現の拡張、花道によって役者と観客の距離感を縮めるなどして更なる人気を獲得していきました。
もちろん、シナリオ面も舞台に負けてはいません。人形浄瑠璃の演目だった「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」が歌舞伎でも上演されはじめます。
「義経千本桜」は源平合戦後に兄・頼朝に追われ、都落ちする義経をめぐる周囲の人々や、実は生きていた平家武者たちの更なる悲劇を題材とした作品です。そして、「仮名手本忠臣蔵」は先述の通り、赤穂浪士47人による主君の仇討物語。「菅原伝授手習鑑」は菅原道真をモデルとした管丞相を主人公に、菅原道真の失脚事件「昌泰の変」を描いたものでした。この三つの演目は現代でも上演されています。
赤穂事件による影響
歌舞伎の中でも一、二を争う有名演目「仮名手本忠臣蔵」。この演目は江戸で起こった赤穂事件をもとにして書かれた作品でした。ざっくり説明しますと、江戸城内松之大廊下で起こった刃傷沙汰で切腹を言い渡された赤穂藩主・浅野内匠頭の仇を討つため、大石内蔵助率いる47人の元赤穂藩の武士たちが仇の吉良上野介の屋敷に討ち入りするというもの。天下泰平であるはずの江戸城内で刀が抜かれたことはもちろん、吉良邸討ち入り後に首級を下げた武士たちが町を歩くなど幕府にとって非常にショッキングな事件でした。 | 人形浄瑠璃の演目だった「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」の説明をしてください。 | 義経千本桜、は源平合戦後に兄・頼朝に追われ、都落ちする義経をめぐる周囲の人々や、実は生きていた平家武者たちの更なる悲劇を題材とした作品です。
一方、「仮名手本忠臣蔵」は、江戸城内松之大廊下で起こった刃傷沙汰で切腹を言い渡された赤穂藩主・浅野内匠頭の仇を討つため、大石内蔵助率いる47人の元赤穂藩の武士たちが仇の吉良上野介の屋敷に討ち入りするという物語です。 |
JCRRAG_018234 | 歴史 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、馬超である。
劉備への降伏
張魯のもとに亡命した馬超は、その後、劉備に降伏します。蜀の武将となった馬超はどのように最期を迎えたのでしょうか?
漢中を出奔し、劉備のもとへ
馬超は張魯から兵を借りて失地回復を試みたものの、夏侯淵らに阻まれるなど失敗を繰り返しました。張魯軍は涼州奪還に失敗した馬超の能力を非難するようになり、馬超も張魯に不満を抱くようになります。そこで馬超は、荊州の劉備に降伏して出奔。劉備はすぐに使者を送って彼を歓迎し、これが益州の未来を変えることになります。これより前のこと、益州の劉璋は曹操や張魯に対抗するため、劉備に張魯征伐をさせようとしていました。ところが、劉備と劉璋は争うようになり、優勢になった劉備は劉璋の本拠・成都を包囲。このような状況で馬超が劉備に降伏したため、劉璋は恐れをなして降伏します。こうして劉備は蜀を掌握し、馬超は平西将軍に任命されました。
従弟を託して死去
建安22年(217)、馬超は劉備の漢中攻略戦に従軍しますが、目立った戦功をあげることなく撤退しました。それでも劉備陣営での馬超の評価は高かったようで、諸葛亮をはじめ多くの人が賞賛の言葉を残しています。建安24年(219)には仮節・左将軍に任命され、章武元年(221)には驃騎将軍・涼州刺史になるなど累進。しかし、翌年の章武2年(222)にこの世を去り、子・馬承が跡を継ぎました。死の間際に馬超は、「自分の一族は曹操に殺され従弟・馬岱(ばたい)だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を彼に継承させてください」と劉備に告げたといわれています。
『三国志演義』での馬超とは?
名将の血筋をもち勇猛果敢に生きた馬超ですが、『三国志演義』ではどのように描かれているのでしょうか?
「錦馬超」と称えられた屈強な姿
馬超の容姿は、「顔色は冠の玉のようで、目つきは流星のよう、虎のような体躯に猿のような臂、腹は彪(ひょう)のようで、腰は狼のようである」と描写され、「錦馬超(きんばちょう)」として称えられています。曹操の視点では「人を圧倒するような雄姿」、劉備の視点では「威風にあふれ人品また群を抜く」となっており、屈強な美丈夫だったことがうかがえます。
挙兵時期が『正史』と逆転している?
馬超の見せ場ともいえる潼関の戦いでは多くの脚色が入っているようです。史実では馬超の挙兵後に一族が皆殺しになっていますが、『三国志演義』では皆殺しになった一族の復讐のために挙兵したことになっています。これは、「劉備に味方する悲劇の英傑」としてのイメージにつながっているといえるでしょう。
許褚との一騎打ちで勇猛ぶりを発揮
馬超は勇猛ぶりが際立つように脚色されており、潼関の戦いでは上半身裸になった許褚との一騎打ちのシーンが描かれています。張魯のもとに身を寄せたあとは、劉璋軍の援軍として劉備軍の張飛と一騎打ちするシーンもあります。
五虎大将軍として活躍!
『三国志演義』の馬超は、劉備のもとで五虎大将軍に任命され、漢中攻略戦で活躍します。また、曹操の子・曹丕が蜀を攻撃するとき、その一部を担う予定だった羌族が馬超を恐れて攻め込まなかったという逸話もあり、馬超は史実より長生きしたようです。死の場面は描かれていませんが、北伐の際に諸葛亮が馬超の墓を訪れるシーンが盛り込まれています。
曹操に反旗を翻し戦い続けた
父の地位と軍勢を受け継いで台頭したものの、曹操と対立して一族を殺されるという悲しい道を辿った馬超。曹操をあと一歩というところまで追いつめたことから、馬超はその勇猛さを天下に知らしめることになりました。しかし、劉備に降伏して以降は目立った戦功はなく、累進してその生涯を終えます。もし「離間の計」にはまらず曹操を倒していたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、死の間際に従弟の馬岱への祭祀継承を願い出たか。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、死の間際に従弟の馬岱への祭祀継承を願い出た。 |
JCRRAG_018235 | 歴史 | フロレンスはこの第一歩の挫折を、決して自分の生涯の計画の挫折としてはうけとらなかった。
それから後の八年という歳月は、フロレンスの上流令嬢としての生活の底におそるべき不屈な努力と実力の蓄積とをはらんで進行した。
この表面の挫折に遭うまでのフロレンスは、何といっても自分の境遇の条件にしばられている一方であったが、この八年に、彼女は不撓な精神で、自分の境遇の条件を一貫した目的に従わせ、そのために活かしてつかって行くという生涯の態度を学んだのであった。
この期間にフロレンスは医学調査会の報告や、衛生局のパンフレットや、病院、孤児院などの沿革をむさぼり読んだ。
ロンドンの社交季節の暇をぬすんで十の貧民学校や二十の救護所の見学をした。
両親との贅沢な外国旅行の間に、暇を見つけては十三か所の病院めぐりをし、十五か所の貧民窟めぐりをし、ヨーロッパの大都会の病院と貧民窟とでフロレンスの知らないところはないという位になった。
ドイツのカイゼルスウェールト温泉へ母と姉とで滞在したとき、フロレンスは二人の貴婦人たちが入湯や社交に日を消している間をぬけ出して、同地の看護婦養成所に三ヵ月以上も滞在した。「これこそ彼女の生涯を支配した重大事件であった」と、興味深い伝記作者のリットン・ストレーチーは、記録している。
同じころ、更にもう一つの重大事件というべきものが、フロレンスの生活をその根から揺り動かした。やがて三十歳になろうとしている婦人の強烈な情感が一人の優秀な青年にひきつけられたのであった。フロレンスにとってこの情感のなみは全く新しいものであり、その激しい生まれつきにふさわしく並々ならない動揺を来したように見える。当時のしきたりは、生粋の上流人であるフロレンスの感情の秩序にもしみこんでいるのであるから、彼女にとって恋愛の心は結婚の門に通じている一本道の上だけで自身に向かって承認されるものである。当時の日記にはフロレンスの苦しい心持ちがまざまざとのこされている。「私には満足を求める知的な性質がある。その満足はあの人から得られる。私には満足を求める情熱的な性質がある。その満足もあの人から得られる。私には満足を要求する道徳的、行動的な性質がある。その満足はあの人の生活中には得られない。時には私もともかく情熱的な性質を満足させようと考えないでもないが……」しかし、フロレンスは自分の本心を知っている。
そういう自分の心があるとき自分に涙をこぼさせるものであったとしても、やはり「私の現在の生活の延長と誇張とに釘づけにされ、自分にとって真実な豊かな生活を築く好機会を永久に逃してしまうこと」はとてもできないとわかっている。
フロレンスは、苦しくても本心の声に従わずにはいられない。彼女はその青年との結婚を断念することで、自分の愛の火の上にもふたをきせてしまった。これほどまでに人生的な大望に身をこがす一人の成熟しきった女性にとって、活動の機会を与えられず過ぎてゆく日々はいかに苦悩そのものであったかは、彼女の正直な次の告白が語っている。「人生三十一年、好ましいと思われるものは死ばかりである」と。 | 両親との贅沢な外国旅行の間に、暇を見つけてはめぐっていたところのうち、より数が多かった場所を教えてください。 | 両親との贅沢な外国旅行の間に、暇を見つけてはめぐっていたところのうち、より数が多かった場所は貧民窟で十五か所です。 |
JCRRAG_018236 | 歴史 | これが明治の暗号盤
明治2年8月9日(1869年9月14日に相当)、東京・横浜間で開業した電信は明治10年代半ばには日本列島主要部に延伸した。当時最新の高速メディアとして行政(特に公安)・経済情報の伝達に重宝がられたが、電信には一つ問題点がある。それは情報の中身を第三者の電信局員に見られてしまうということである。大デュマの「モンテ・クリスト伯」には局員(電信局ではなく、腕木信号所だが)を買収して僞信を送らせるという一節があるが、見知らぬ局員に通信内容を見られるのは何とも不安である。そこで電信開業直後から暗号で電信を送ることが公認され、広く行われて来た。明治後期には相場用語を満載した経済情報送受信用の暗号集が市販されていたほどだ。
大隈重信
『近世名士写真』 所収
行政情報の伝達でも暗号が使われ、明治8年ころから史料に散見する。「三島通庸関係文書」には内務省・大蔵省と県庁の間の交信のための暗号表が数点残されているが、それらはすべて本来の文字に対して暗号文字を一つずつ割り振ったものである。初めのうちはイロハ順に対して末尾から逆にイロハを配したり、アイウエオ順をあてはめただけの単純なものだったが、明治12年3月のものは不規則に暗字を配置して解読されにくいように工夫を施している。これら行政暗号の中でひときわ目につくのが明治12年11月制定の暗号盤である。大小2つの円盤に実字と暗字が配してあり、小円盤には窓が開けられている。この窓には壹から五までの漢数字が覗くようになっており、5通りの暗号表として使えるという代物である。しかも実字のすぐ外側に暗字が対応表示されるという便利さである。ローテク時代のすぐれ物と言いたいところだが、実字がイロハの右回り、暗字が左回りという単純さが折角の工夫を損ねている。昭和30年代後半の『少年』の付録「少年探偵セット」にも同様の暗号盤がついて来たが、もっと暗号強度が高かったような気がする。 | 三島通庸関係文書にある暗号表と、明治12年11月制定の暗号盤の違いを教えてください。 | 三島通庸関係文書に残されている暗号表は、それらはすべて本来の文字に対して暗号文字を一つずつ割り振ったものでした。イロハ順に対して末尾から逆にイロハを配したり、アイウエオ順をあてはめただけの単純なものでした。
一方、明治12年11月制定の暗号盤は大小2つの円盤に実字と暗字が配してあり、小円盤には窓が開けられています。この窓には壹から五までの漢数字が覗くようになっており、5通りの暗号表として使えるという代物でした。しかも実字のすぐ外側に暗字が対応表示されるという便利さもありました。 |
JCRRAG_018237 | 歴史 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、馬超である。
劉備への降伏
張魯のもとに亡命した馬超は、その後、劉備に降伏します。蜀の武将となった馬超はどのように最期を迎えたのでしょうか?
漢中を出奔し、劉備のもとへ
馬超は張魯から兵を借りて失地回復を試みたものの、夏侯淵らに阻まれるなど失敗を繰り返しました。張魯軍は涼州奪還に失敗した馬超の能力を非難するようになり、馬超も張魯に不満を抱くようになります。そこで馬超は、荊州の劉備に降伏して出奔。劉備はすぐに使者を送って彼を歓迎し、これが益州の未来を変えることになります。これより前のこと、益州の劉璋は曹操や張魯に対抗するため、劉備に張魯征伐をさせようとしていました。ところが、劉備と劉璋は争うようになり、優勢になった劉備は劉璋の本拠・成都を包囲。このような状況で馬超が劉備に降伏したため、劉璋は恐れをなして降伏します。こうして劉備は蜀を掌握し、馬超は平西将軍に任命されました。
従弟を託して死去
建安22年(217)、馬超は劉備の漢中攻略戦に従軍しますが、目立った戦功をあげることなく撤退しました。それでも劉備陣営での馬超の評価は高かったようで、諸葛亮をはじめ多くの人が賞賛の言葉を残しています。建安24年(219)には仮節・左将軍に任命され、章武元年(221)には驃騎将軍・涼州刺史になるなど累進。しかし、翌年の章武2年(222)にこの世を去り、子・馬承が跡を継ぎました。死の間際に馬超は、「自分の一族は曹操に殺され従弟・馬岱(ばたい)だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を彼に継承させてください」と劉備に告げたといわれています。
『三国志演義』での馬超とは?
名将の血筋をもち勇猛果敢に生きた馬超ですが、『三国志演義』ではどのように描かれているのでしょうか?
「錦馬超」と称えられた屈強な姿
馬超の容姿は、「顔色は冠の玉のようで、目つきは流星のよう、虎のような体躯に猿のような臂、腹は彪(ひょう)のようで、腰は狼のようである」と描写され、「錦馬超(きんばちょう)」として称えられています。曹操の視点では「人を圧倒するような雄姿」、劉備の視点では「威風にあふれ人品また群を抜く」となっており、屈強な美丈夫だったことがうかがえます。
挙兵時期が『正史』と逆転している?
馬超の見せ場ともいえる潼関の戦いでは多くの脚色が入っているようです。史実では馬超の挙兵後に一族が皆殺しになっていますが、『三国志演義』では皆殺しになった一族の復讐のために挙兵したことになっています。これは、「劉備に味方する悲劇の英傑」としてのイメージにつながっているといえるでしょう。
許褚との一騎打ちで勇猛ぶりを発揮
馬超は勇猛ぶりが際立つように脚色されており、潼関の戦いでは上半身裸になった許褚との一騎打ちのシーンが描かれています。張魯のもとに身を寄せたあとは、劉璋軍の援軍として劉備軍の張飛と一騎打ちするシーンもあります。
五虎大将軍として活躍!
『三国志演義』の馬超は、劉備のもとで五虎大将軍に任命され、漢中攻略戦で活躍します。また、曹操の子・曹丕が蜀を攻撃するとき、その一部を担う予定だった羌族が馬超を恐れて攻め込まなかったという逸話もあり、馬超は史実より長生きしたようです。死の場面は描かれていませんが、北伐の際に諸葛亮が馬超の墓を訪れるシーンが盛り込まれています。
曹操に反旗を翻し戦い続けた
父の地位と軍勢を受け継いで台頭したものの、曹操と対立して一族を殺されるという悲しい道を辿った馬超。曹操をあと一歩というところまで追いつめたことから、馬超はその勇猛さを天下に知らしめることになりました。しかし、劉備に降伏して以降は目立った戦功はなく、累進してその生涯を終えます。もし「離間の計」にはまらず曹操を倒していたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、仮節・左将軍に任命されたか。 | その雄姿の見事さから「錦馬超(きんばちょう)」の異名がつけられた人物は、仮節・左将軍に任命された。 |
JCRRAG_018238 | 歴史 | それにしてもフロレンスは何故そのような執着をもって社会衛生に関係した仕事などに情熱を感じたのであろうか。
無責任な幾多の伝記者は、ここであの犬のエピソードを思い出し、ナイチンゲール嬢の天使の心を描き出すのであるが、現実はもっと強力複雑な動機を時代の空気としてもっていた。その事実は、私たちにとってまじめに理解されなければならない。フロレンスが、物心ついて世の中を眺めはじめた一八四五、六年代は、イギリスがヴィクトーリア女皇の統治の下に近代社会として未曾有の発展をとげた画期的な時期であった。商工業の急激な進歩、産業界全面の革新は一方に大英国の富をつみ上げてゆくと一緒に、その大都会の他の一方に猛烈な勢いで百の貧民窟と二百の救民院の無力な活動と犯罪率の上昇とを生み出した歴史的な一時代であった。心あるイギリス人は、この富と貧との新しい社会悲惨の図絵に無関心でいられず、ひろがる犯罪、流行病から自分の家族を安全にあらせようと願えば勢い都市の衛生、都市の施設というものを議会の問題とせずにはいられなかった。文学の世界で、写実主義がおこってディッケンズがあらわれ、ロンドンの下層の生活の悲惨さを描いたのがこの時代であった。サッカレイが「虚栄の市」「ペンデニス」「ニューコム一家」など三冊の書物で当時上流を占めた投資家貴族の生活を辛辣に描き出したのもこの時代であった。ロシアではツルゲーネフがその時代の若いロシアの青年男女の姿を「その前夜」「処女地」など二冊に渡って描いた時代である。よりよい社会への願望、研究、行動が空想的であった前世紀の理想社会への憧れから科学的な社会主義の方向に高まりつつ、世界の卓抜な才能と思想とを方向づけていた巨大な一時代であった。たとえ、淑女らしさという金縛りを身にうけてはいても、その時代の先進国であったイギリス生まれの知識婦人であったフロレンス・ナイチンゲールが、社会衛生、道徳改善の事業にその規模の大きい現実的な精力の対象を見出したということは、決して不思議ではなかったのであった。 | イギリスが産業界全面の革新で一方に大英国の富をつみ上げてゆく反面、無力な活動と犯罪率の上昇を生み出したもののうち、数が多いほうを教えてください。 | イギリスが産業界全面の革新で一方に大英国の富をつみ上げてゆく反面、無力な活動と犯罪率の上昇を生み出したもののうち、数が多いほうは救民院で二百です。 |
JCRRAG_018239 | 歴史 | 第一次世界大戦と第二次世界大戦について
世界の歴史を振り返ると、過去に2度の大戦が行われてきました。ご存じのとおり、第一次世界大戦と第二次世界大戦です。この2度の大戦は国同士の争いから多くの人民の命を奪うことになりました。
今回は第一次世界大戦と第二次世界大戦の歴史を振り返り、使われてきた武器の変遷をご紹介します。
第一次世界大戦について
第一次世界大戦とは、1914年7月から1918年11月まで続いた人類最初の世界戦争です。第一次世界大戦の原因は、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐる対立と言われています。
そのきっかけとなったのが、1914年の6月に発生したサラエボ事件です。この事件をきっかけに、ドイツ・オーストリア・イタリアを中心とした同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした連合国の二陣営に分裂して戦争に発展しました。
戦闘はヨーロッパで展開されましたが、遠く離れた西アジアやアフリカなどにも戦争が広がることになりました。
初期の想定に反して戦闘は長期化することとなり、参戦国は戦闘力を維持するためにも国家を挙げて総力戦という形をとらざるを得なくなりました。そのため、数々の武器や兵器が開発、投入されることになりました。
第一次世界大戦の結果は連合国の勝利で終結しました。
1914年6月 28日,オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が,自領ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国の首都サラエボで,陸軍大演習の統監途上,セルビアの一青年 G.プリンチプによって暗殺された事件。大セルビア主義者の秘密結社の計画によるものであった。 19世紀末からバルカンでは,オーストリアの南下政策 (汎ゲルマン主義) と,汎スラブ主義を背景とするセルビア人の民族運動 (→大セルビア主義 ) の対立が強まっていた。 08年のオーストリアによるボスニア=ヘルツェゴビナ併合は,セルビア人の反オーストリア感情を激化させ,フェルディナント暗殺に発展,セルビア政府は責任回避のあらゆる方便をとったが,同年7月 23日オーストリア=ハンガリー政府は最後通牒を突きつけ,次いで同月 28日セルビアに宣戦を布告し,第1次世界大戦の直接的契機となった。
第二次世界大戦について
第二次世界大戦とは、1939年のドイツによるポーランド侵攻を発端として始まり、日本・ドイツ・イギリスからなる枢軸国とアメリカ・イギリス・ソ連からなる連合国との間で行われた世界規模の大戦です。
この大戦は欧州戦線と太平洋戦線に分かれており、太平洋戦線は日本軍の真珠湾攻撃を発端としてアメリカに宣戦布告したことで始まったとされています。
欧州戦線は1945年5月にドイツが連合国側に無条件降伏したことで終結しました。また、太平洋戦線については、ご存じのとおり1945年の8月に世界で初めての核兵器が利用されることとなりました。そして1945年8月15日のポツダム宣言を日本が受諾したことによって終結しました。
日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国とアメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの連合国との間で行われた世界的規模の戦争。1939年のドイツのポーランド侵入によって始まり、イギリス・フランスの対独戦争、独ソ戦争、太平洋戦争と拡大した。初め、枢軸国が優勢であったが、のち、連合国が優位に立ち、1943年イタリアが降伏、1945年5月ドイツが降伏。また、日本もソ連の対日参戦とアメリカによる広島・長崎への原子爆弾投下によって、同年8月に降伏し、大戦は終結した。第二次大戦。WWⅡ(World War Ⅱ)。" | 第一次世界大戦における、同盟国と連合国の陣営の違いを教えてください。 | 同盟国はドイツ・オーストリア・イタリアを中心とした陣営です。
一方、連合国はイギリス・フランス・ロシアを中心とした陣営となっています。 |
JCRRAG_018240 | 歴史 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、孫権である。彼は父・孫堅と兄・孫策が築いた勢力を引き継ぎ、さらなる領土拡大を果たして呉を治めました。優秀な配下をもつ孫権は人を見る目があったともいわれていますが、晩年は求心力を失い国力衰退を招いたようです。
うまれから政権を担うまで
孫権はなぜ政権を担うことになったのでしょうか?うまれから家督を継承するまでについて振り返ります。
孫堅の次男として誕生
孫権は、光和5年(182)呉郡において孫堅の次男として誕生しました。しかし光和7年(184)には、父・孫堅は家族を残し、太平道の張角がおこした黄巾の乱の鎮圧のために戦っていたといいます。中平6年(189)、残された母や孫権らは、兄・孫策に連れられ廬江郡舒県にある周瑜(しゅうゆ)の屋敷に移住。孫堅の死後、孫策は袁術の旗下に入って力量を発揮していきます。
兄・孫策の遺命で家督相続
興平2年(195)、孫策は袁術からの自立をもくろみ江東で挙兵しました。これに付き従った孫権は、父の仇・黄祖との交戦で大勝を収め、江東平定に貢献します。そして建安5年(200)、孫策が暗殺によってこの世を去ると、遺命により家督を継承。若くして江東一帯を制することになった孫権は、父や兄の代から仕える周瑜・程普(ていふ)・呂範(りょはん)や、周瑜から推薦された魯粛(ろしゅく)といった優秀な人材を登用し、国内の安定に努めました。こうして力をつけた孫権はついに父の仇・黄祖を破り、江夏郡南部の制圧に成功します。
荊州・交州の獲得を目指して
勢力拡大を目指す孫権は、魏の曹操や蜀の劉備と対立していきました。赤壁の戦いから関羽討伐にいたるまで、孫権はどのような動きをしたのでしょうか?
赤壁の戦いで曹操軍に勝利!
江夏郡南部を落とした年の年末、曹操が大軍を率いて南下し、孫権は抗戦するか降伏するかの選択を迫られました。軍内では意見が割れましたが、孫権は周瑜ら交戦派の意見を受け入れ開戦を決断します。これは孫権の領地に逃亡してきた劉備と手を組んで抗戦するというものでした。
孫権軍は劉備軍と合流して曹操と戦い、赤壁の戦いで曹操の水軍を打ち破ります。周瑜の予想通り、曹操軍は江南の気候や地勢に慣れておらず、疫病に苦しめられていました。また武将・黄蓋の進言による火攻めも奏功し、陣営が燃え上がり不利に陥った曹操軍は撤退。こうして、孫権・劉備連合軍は荊州の大部分を奪うことに成功します。
周瑜の死と劉備との対立
赤壁の戦いのあと、孫権は荊州南部5郡を領有しました。劉備は人々を養うために荊州数郡を借りたいと孫権に頼みますが、周瑜は劉備を警戒して反対したそうです。しかし、孫権は周瑜の意見をきかず、劉備に荊州を分け与えました。その後、劉備に「共同で益州を奪取しよう」ともちかけますが、単独での益州奪取を考えていた劉備に拒否されてしまいます。やがて周瑜は益州進攻の遠征途上で急逝し、あとを継いだ魯粛が劉備との協力を提案したことから、孫権は荊州3郡を劉備に貸すこととなりました。
その後、孫権は曹操との戦いで勢いを増し、劉備も益州の劉璋を攻めて益州を領有しました。孫権は荊州3郡の返還を求めましたが、劉備が暗にこれを拒否したことから対立し全面戦争寸前に陥ります。しかし、曹操が劉備の領地に侵攻したため、両者は和解して停戦しました。
荊州を奪還し、関羽を討つ
孫権と曹操は重要拠点となる濡須口(じゅしゅこう)をめぐって戦い続けており、孫権は4回も曹操軍の侵攻を食い止めていました。しかし、孫権はそれまでとは政策方針を変え、漢王朝に偽りの臣従を申し出て曹操と休戦します。
そんな中、建安24年(219)、劉備のもとで荊州を任されていた関羽が北進を始めました。孫権は呂蒙(りょもう)・陸遜(りくそん)らに攻撃を命じ、陸遜らは荊州の劉備領を次々に攻略します。窮地に立った関羽は降伏勧告に応じるふりをして逃走するも捕まり、孫権は関羽の能力を惜しみながらも配下の進言を受けて斬首しました。 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、若くしてどこを制したか。 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、若くして江東一帯を制することになった。 |
JCRRAG_018241 | 歴史 | それにしてもフロレンスは何故そのような執着をもって社会衛生に関係した仕事などに情熱を感じたのであろうか。
無責任な幾多の伝記者は、ここであの犬のエピソードを思い出し、ナイチンゲール嬢の天使の心を描き出すのであるが、現実はもっと強力複雑な動機を時代の空気としてもっていた。その事実は、私たちにとってまじめに理解されなければならない。フロレンスが、物心ついて世の中を眺めはじめた一八四五、六年代は、イギリスがヴィクトーリア女皇の統治の下に近代社会として未曾有の発展をとげた画期的な時期であった。商工業の急激な進歩、産業界全面の革新は一方に大英国の富をつみ上げてゆくと一緒に、その大都会の他の一方に猛烈な勢いで百の貧民窟と二百の救民院の無力な活動と犯罪率の上昇とを生み出した歴史的な一時代であった。心あるイギリス人は、この富と貧との新しい社会悲惨の図絵に無関心でいられず、ひろがる犯罪、流行病から自分の家族を安全にあらせようと願えば勢い都市の衛生、都市の施設というものを議会の問題とせずにはいられなかった。文学の世界で、写実主義がおこってディッケンズがあらわれ、ロンドンの下層の生活の悲惨さを描いたのがこの時代であった。サッカレイが「虚栄の市」「ペンデニス」「ニューコム一家」など三冊の書物で当時上流を占めた投資家貴族の生活を辛辣に描き出したのもこの時代であった。ロシアではツルゲーネフがその時代の若いロシアの青年男女の姿を「その前夜」「処女地」など二冊に渡って描いた時代である。よりよい社会への願望、研究、行動が空想的であった前世紀の理想社会への憧れから科学的な社会主義の方向に高まりつつ、世界の卓抜な才能と思想とを方向づけていた巨大な一時代であった。たとえ、淑女らしさという金縛りを身にうけてはいても、その時代の先進国であったイギリス生まれの知識婦人であったフロレンス・ナイチンゲールが、社会衛生、道徳改善の事業にその規模の大きい現実的な精力の対象を見出したということは、決して不思議ではなかったのであった。 | イギリスが産業界全面の革新で一方に大英国の富をつみ上げてゆく反面、無力な活動と犯罪率の上昇を生み出したもののうち、数が少ないほうを教えてください。 | イギリスが産業界全面の革新で一方に大英国の富をつみ上げてゆく反面、無力な活動と犯罪率の上昇を生み出したもののうち、数が少ないほうは貧民窟で百です。 |
JCRRAG_018242 | 歴史 | 第一次世界大戦と第二次世界大戦について
世界の歴史を振り返ると、過去に2度の大戦が行われてきました。ご存じのとおり、第一次世界大戦と第二次世界大戦です。この2度の大戦は国同士の争いから多くの人民の命を奪うことになりました。
今回は第一次世界大戦と第二次世界大戦の歴史を振り返り、使われてきた武器の変遷をご紹介します。
第一次世界大戦について
第一次世界大戦とは、1914年7月から1918年11月まで続いた人類最初の世界戦争です。第一次世界大戦の原因は、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐる対立と言われています。
そのきっかけとなったのが、1914年の6月に発生したサラエボ事件です。この事件をきっかけに、ドイツ・オーストリア・イタリアを中心とした同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした連合国の二陣営に分裂して戦争に発展しました。
戦闘はヨーロッパで展開されましたが、遠く離れた西アジアやアフリカなどにも戦争が広がることになりました。
初期の想定に反して戦闘は長期化することとなり、参戦国は戦闘力を維持するためにも国家を挙げて総力戦という形をとらざるを得なくなりました。そのため、数々の武器や兵器が開発、投入されることになりました。
第一次世界大戦の結果は連合国の勝利で終結しました。
1914年6月 28日,オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が,自領ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国の首都サラエボで,陸軍大演習の統監途上,セルビアの一青年 G.プリンチプによって暗殺された事件。大セルビア主義者の秘密結社の計画によるものであった。 19世紀末からバルカンでは,オーストリアの南下政策 (汎ゲルマン主義) と,汎スラブ主義を背景とするセルビア人の民族運動 (→大セルビア主義 ) の対立が強まっていた。 08年のオーストリアによるボスニア=ヘルツェゴビナ併合は,セルビア人の反オーストリア感情を激化させ,フェルディナント暗殺に発展,セルビア政府は責任回避のあらゆる方便をとったが,同年7月 23日オーストリア=ハンガリー政府は最後通牒を突きつけ,次いで同月 28日セルビアに宣戦を布告し,第1次世界大戦の直接的契機となった。
第二次世界大戦について
第二次世界大戦とは、1939年のドイツによるポーランド侵攻を発端として始まり、日本・ドイツ・イギリスからなる枢軸国とアメリカ・イギリス・ソ連からなる連合国との間で行われた世界規模の大戦です。
この大戦は欧州戦線と太平洋戦線に分かれており、太平洋戦線は日本軍の真珠湾攻撃を発端としてアメリカに宣戦布告したことで始まったとされています。
欧州戦線は1945年5月にドイツが連合国側に無条件降伏したことで終結しました。また、太平洋戦線については、ご存じのとおり1945年の8月に世界で初めての核兵器が利用されることとなりました。そして1945年8月15日のポツダム宣言を日本が受諾したことによって終結しました。
日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国とアメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの連合国との間で行われた世界的規模の戦争。1939年のドイツのポーランド侵入によって始まり、イギリス・フランスの対独戦争、独ソ戦争、太平洋戦争と拡大した。初め、枢軸国が優勢であったが、のち、連合国が優位に立ち、1943年イタリアが降伏、1945年5月ドイツが降伏。また、日本もソ連の対日参戦とアメリカによる広島・長崎への原子爆弾投下によって、同年8月に降伏し、大戦は終結した。第二次大戦。WWⅡ(World War Ⅱ)。" | 第二次世界大戦における、枢軸国と連合国の陣営の違いを教えてください。 | 枢軸国は日本・ドイツ・イギリスからなる陣営です。
一方連合国は、アメリカ・イギリス・ソ連からなる陣営です。 |
JCRRAG_018243 | 歴史 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、孫権である。彼は父・孫堅と兄・孫策が築いた勢力を引き継ぎ、さらなる領土拡大を果たして呉を治めました。優秀な配下をもつ孫権は人を見る目があったともいわれていますが、晩年は求心力を失い国力衰退を招いたようです。
うまれから政権を担うまで
孫権はなぜ政権を担うことになったのでしょうか?うまれから家督を継承するまでについて振り返ります。
孫堅の次男として誕生
孫権は、光和5年(182)呉郡において孫堅の次男として誕生しました。しかし光和7年(184)には、父・孫堅は家族を残し、太平道の張角がおこした黄巾の乱の鎮圧のために戦っていたといいます。中平6年(189)、残された母や孫権らは、兄・孫策に連れられ廬江郡舒県にある周瑜(しゅうゆ)の屋敷に移住。孫堅の死後、孫策は袁術の旗下に入って力量を発揮していきます。
兄・孫策の遺命で家督相続
興平2年(195)、孫策は袁術からの自立をもくろみ江東で挙兵しました。これに付き従った孫権は、父の仇・黄祖との交戦で大勝を収め、江東平定に貢献します。そして建安5年(200)、孫策が暗殺によってこの世を去ると、遺命により家督を継承。若くして江東一帯を制することになった孫権は、父や兄の代から仕える周瑜・程普(ていふ)・呂範(りょはん)や、周瑜から推薦された魯粛(ろしゅく)といった優秀な人材を登用し、国内の安定に努めました。こうして力をつけた孫権はついに父の仇・黄祖を破り、江夏郡南部の制圧に成功します。
荊州・交州の獲得を目指して
勢力拡大を目指す孫権は、魏の曹操や蜀の劉備と対立していきました。赤壁の戦いから関羽討伐にいたるまで、孫権はどのような動きをしたのでしょうか?
赤壁の戦いで曹操軍に勝利!
江夏郡南部を落とした年の年末、曹操が大軍を率いて南下し、孫権は抗戦するか降伏するかの選択を迫られました。軍内では意見が割れましたが、孫権は周瑜ら交戦派の意見を受け入れ開戦を決断します。これは孫権の領地に逃亡してきた劉備と手を組んで抗戦するというものでした。
孫権軍は劉備軍と合流して曹操と戦い、赤壁の戦いで曹操の水軍を打ち破ります。周瑜の予想通り、曹操軍は江南の気候や地勢に慣れておらず、疫病に苦しめられていました。また武将・黄蓋の進言による火攻めも奏功し、陣営が燃え上がり不利に陥った曹操軍は撤退。こうして、孫権・劉備連合軍は荊州の大部分を奪うことに成功します。
周瑜の死と劉備との対立
赤壁の戦いのあと、孫権は荊州南部5郡を領有しました。劉備は人々を養うために荊州数郡を借りたいと孫権に頼みますが、周瑜は劉備を警戒して反対したそうです。しかし、孫権は周瑜の意見をきかず、劉備に荊州を分け与えました。その後、劉備に「共同で益州を奪取しよう」ともちかけますが、単独での益州奪取を考えていた劉備に拒否されてしまいます。やがて周瑜は益州進攻の遠征途上で急逝し、あとを継いだ魯粛が劉備との協力を提案したことから、孫権は荊州3郡を劉備に貸すこととなりました。
その後、孫権は曹操との戦いで勢いを増し、劉備も益州の劉璋を攻めて益州を領有しました。孫権は荊州3郡の返還を求めましたが、劉備が暗にこれを拒否したことから対立し全面戦争寸前に陥ります。しかし、曹操が劉備の領地に侵攻したため、両者は和解して停戦しました。
荊州を奪還し、関羽を討つ
孫権と曹操は重要拠点となる濡須口(じゅしゅこう)をめぐって戦い続けており、孫権は4回も曹操軍の侵攻を食い止めていました。しかし、孫権はそれまでとは政策方針を変え、漢王朝に偽りの臣従を申し出て曹操と休戦します。
そんな中、建安24年(219)、劉備のもとで荊州を任されていた関羽が北進を始めました。孫権は呂蒙(りょもう)・陸遜(りくそん)らに攻撃を命じ、陸遜らは荊州の劉備領を次々に攻略します。窮地に立った関羽は降伏勧告に応じるふりをして逃走するも捕まり、孫権は関羽の能力を惜しみながらも配下の進言を受けて斬首しました。 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、赤壁の戦いで誰の水軍を打ち破ったか。 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、赤壁の戦いで曹操の水軍を打ち破ります。 |
JCRRAG_018244 | 歴史 | それにしてもフロレンスは何故そのような執着をもって社会衛生に関係した仕事などに情熱を感じたのであろうか。
無責任な幾多の伝記者は、ここであの犬のエピソードを思い出し、ナイチンゲール嬢の天使の心を描き出すのであるが、現実はもっと強力複雑な動機を時代の空気としてもっていた。その事実は、私たちにとってまじめに理解されなければならない。フロレンスが、物心ついて世の中を眺めはじめた一八四五、六年代は、イギリスがヴィクトーリア女皇の統治の下に近代社会として未曾有の発展をとげた画期的な時期であった。商工業の急激な進歩、産業界全面の革新は一方に大英国の富をつみ上げてゆくと一緒に、その大都会の他の一方に猛烈な勢いで百の貧民窟と二百の救民院の無力な活動と犯罪率の上昇とを生み出した歴史的な一時代であった。心あるイギリス人は、この富と貧との新しい社会悲惨の図絵に無関心でいられず、ひろがる犯罪、流行病から自分の家族を安全にあらせようと願えば勢い都市の衛生、都市の施設というものを議会の問題とせずにはいられなかった。文学の世界で、写実主義がおこってディッケンズがあらわれ、ロンドンの下層の生活の悲惨さを描いたのがこの時代であった。サッカレイが「虚栄の市」「ペンデニス」「ニューコム一家」など三冊の書物で当時上流を占めた投資家貴族の生活を辛辣に描き出したのもこの時代であった。ロシアではツルゲーネフがその時代の若いロシアの青年男女の姿を「その前夜」「処女地」など二冊に渡って描いた時代である。よりよい社会への願望、研究、行動が空想的であった前世紀の理想社会への憧れから科学的な社会主義の方向に高まりつつ、世界の卓抜な才能と思想とを方向づけていた巨大な一時代であった。たとえ、淑女らしさという金縛りを身にうけてはいても、その時代の先進国であったイギリス生まれの知識婦人であったフロレンス・ナイチンゲールが、社会衛生、道徳改善の事業にその規模の大きい現実的な精力の対象を見出したということは、決して不思議ではなかったのであった。 | 文学の世界で、サッカレイとツルゲーネフがこの時代を表した小説を書いたが、冊数が多いほうを教えてください。 | 文学の世界で、サッカレイとツルゲーネフがこの時代を表した小説を書いたが、冊数が多いほうはサッカレイで三冊です。 |
JCRRAG_018245 | 歴史 | 第一次世界大戦と第二次世界大戦について
世界の歴史を振り返ると、過去に2度の大戦が行われてきました。ご存じのとおり、第一次世界大戦と第二次世界大戦です。この2度の大戦は国同士の争いから多くの人民の命を奪うことになりました。
今回は第一次世界大戦と第二次世界大戦の歴史を振り返り、使われてきた武器の変遷をご紹介します。
第一次世界大戦について
第一次世界大戦とは、1914年7月から1918年11月まで続いた人類最初の世界戦争です。第一次世界大戦の原因は、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐる対立と言われています。
そのきっかけとなったのが、1914年の6月に発生したサラエボ事件です。この事件をきっかけに、ドイツ・オーストリア・イタリアを中心とした同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした連合国の二陣営に分裂して戦争に発展しました。
戦闘はヨーロッパで展開されましたが、遠く離れた西アジアやアフリカなどにも戦争が広がることになりました。
初期の想定に反して戦闘は長期化することとなり、参戦国は戦闘力を維持するためにも国家を挙げて総力戦という形をとらざるを得なくなりました。そのため、数々の武器や兵器が開発、投入されることになりました。
第一次世界大戦の結果は連合国の勝利で終結しました。
1914年6月 28日,オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が,自領ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国の首都サラエボで,陸軍大演習の統監途上,セルビアの一青年 G.プリンチプによって暗殺された事件。大セルビア主義者の秘密結社の計画によるものであった。 19世紀末からバルカンでは,オーストリアの南下政策 (汎ゲルマン主義) と,汎スラブ主義を背景とするセルビア人の民族運動 (→大セルビア主義 ) の対立が強まっていた。 08年のオーストリアによるボスニア=ヘルツェゴビナ併合は,セルビア人の反オーストリア感情を激化させ,フェルディナント暗殺に発展,セルビア政府は責任回避のあらゆる方便をとったが,同年7月 23日オーストリア=ハンガリー政府は最後通牒を突きつけ,次いで同月 28日セルビアに宣戦を布告し,第1次世界大戦の直接的契機となった。
第二次世界大戦について
第二次世界大戦とは、1939年のドイツによるポーランド侵攻を発端として始まり、日本・ドイツ・イギリスからなる枢軸国とアメリカ・イギリス・ソ連からなる連合国との間で行われた世界規模の大戦です。
この大戦は欧州戦線と太平洋戦線に分かれており、太平洋戦線は日本軍の真珠湾攻撃を発端としてアメリカに宣戦布告したことで始まったとされています。
欧州戦線は1945年5月にドイツが連合国側に無条件降伏したことで終結しました。また、太平洋戦線については、ご存じのとおり1945年の8月に世界で初めての核兵器が利用されることとなりました。そして1945年8月15日のポツダム宣言を日本が受諾したことによって終結しました。
日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国とアメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの連合国との間で行われた世界的規模の戦争。1939年のドイツのポーランド侵入によって始まり、イギリス・フランスの対独戦争、独ソ戦争、太平洋戦争と拡大した。初め、枢軸国が優勢であったが、のち、連合国が優位に立ち、1943年イタリアが降伏、1945年5月ドイツが降伏。また、日本もソ連の対日参戦とアメリカによる広島・長崎への原子爆弾投下によって、同年8月に降伏し、大戦は終結した。第二次大戦。WWⅡ(World War Ⅱ)。 | 第二次世界大戦の欧州戦線と太平洋戦線の終結の違いを教えてください。 | 欧州戦線はドイツが連合国側に無条件降伏したことで終結しました。一方、太平洋戦線については、世界で初めての核兵器が利用されることとなり、そしてポツダム宣言を日本が受諾したことによって終結しました。 |
JCRRAG_018246 | 歴史 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、孫権である。彼は父・孫堅と兄・孫策が築いた勢力を引き継ぎ、さらなる領土拡大を果たして呉を治めました。優秀な配下をもつ孫権は人を見る目があったともいわれていますが、晩年は求心力を失い国力衰退を招いたようです。
うまれから政権を担うまで
孫権はなぜ政権を担うことになったのでしょうか?うまれから家督を継承するまでについて振り返ります。
孫堅の次男として誕生
孫権は、光和5年(182)呉郡において孫堅の次男として誕生しました。しかし光和7年(184)には、父・孫堅は家族を残し、太平道の張角がおこした黄巾の乱の鎮圧のために戦っていたといいます。中平6年(189)、残された母や孫権らは、兄・孫策に連れられ廬江郡舒県にある周瑜(しゅうゆ)の屋敷に移住。孫堅の死後、孫策は袁術の旗下に入って力量を発揮していきます。
兄・孫策の遺命で家督相続
興平2年(195)、孫策は袁術からの自立をもくろみ江東で挙兵しました。これに付き従った孫権は、父の仇・黄祖との交戦で大勝を収め、江東平定に貢献します。そして建安5年(200)、孫策が暗殺によってこの世を去ると、遺命により家督を継承。若くして江東一帯を制することになった孫権は、父や兄の代から仕える周瑜・程普(ていふ)・呂範(りょはん)や、周瑜から推薦された魯粛(ろしゅく)といった優秀な人材を登用し、国内の安定に努めました。こうして力をつけた孫権はついに父の仇・黄祖を破り、江夏郡南部の制圧に成功します。
荊州・交州の獲得を目指して
勢力拡大を目指す孫権は、魏の曹操や蜀の劉備と対立していきました。赤壁の戦いから関羽討伐にいたるまで、孫権はどのような動きをしたのでしょうか?
赤壁の戦いで曹操軍に勝利!
江夏郡南部を落とした年の年末、曹操が大軍を率いて南下し、孫権は抗戦するか降伏するかの選択を迫られました。軍内では意見が割れましたが、孫権は周瑜ら交戦派の意見を受け入れ開戦を決断します。これは孫権の領地に逃亡してきた劉備と手を組んで抗戦するというものでした。
孫権軍は劉備軍と合流して曹操と戦い、赤壁の戦いで曹操の水軍を打ち破ります。周瑜の予想通り、曹操軍は江南の気候や地勢に慣れておらず、疫病に苦しめられていました。また武将・黄蓋の進言による火攻めも奏功し、陣営が燃え上がり不利に陥った曹操軍は撤退。こうして、孫権・劉備連合軍は荊州の大部分を奪うことに成功します。
周瑜の死と劉備との対立
赤壁の戦いのあと、孫権は荊州南部5郡を領有しました。劉備は人々を養うために荊州数郡を借りたいと孫権に頼みますが、周瑜は劉備を警戒して反対したそうです。しかし、孫権は周瑜の意見をきかず、劉備に荊州を分け与えました。その後、劉備に「共同で益州を奪取しよう」ともちかけますが、単独での益州奪取を考えていた劉備に拒否されてしまいます。やがて周瑜は益州進攻の遠征途上で急逝し、あとを継いだ魯粛が劉備との協力を提案したことから、孫権は荊州3郡を劉備に貸すこととなりました。
その後、孫権は曹操との戦いで勢いを増し、劉備も益州の劉璋を攻めて益州を領有しました。孫権は荊州3郡の返還を求めましたが、劉備が暗にこれを拒否したことから対立し全面戦争寸前に陥ります。しかし、曹操が劉備の領地に侵攻したため、両者は和解して停戦しました。
荊州を奪還し、関羽を討つ
孫権と曹操は重要拠点となる濡須口(じゅしゅこう)をめぐって戦い続けており、孫権は4回も曹操軍の侵攻を食い止めていました。しかし、孫権はそれまでとは政策方針を変え、漢王朝に偽りの臣従を申し出て曹操と休戦します。
そんな中、建安24年(219)、劉備のもとで荊州を任されていた関羽が北進を始めました。孫権は呂蒙(りょもう)・陸遜(りくそん)らに攻撃を命じ、陸遜らは荊州の劉備領を次々に攻略します。窮地に立った関羽は降伏勧告に応じるふりをして逃走するも捕まり、孫権は関羽の能力を惜しみながらも配下の進言を受けて斬首しました。 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、荊州のいくつの郡を劉備に貸したか。 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、荊州3郡を劉備に貸すこととなりました。 |
JCRRAG_018247 | 歴史 | それにしてもフロレンスは何故そのような執着をもって社会衛生に関係した仕事などに情熱を感じたのであろうか。
無責任な幾多の伝記者は、ここであの犬のエピソードを思い出し、ナイチンゲール嬢の天使の心を描き出すのであるが、現実はもっと強力複雑な動機を時代の空気としてもっていた。その事実は、私たちにとってまじめに理解されなければならない。フロレンスが、物心ついて世の中を眺めはじめた一八四五、六年代は、イギリスがヴィクトーリア女皇の統治の下に近代社会として未曾有の発展をとげた画期的な時期であった。商工業の急激な進歩、産業界全面の革新は一方に大英国の富をつみ上げてゆくと一緒に、その大都会の他の一方に猛烈な勢いで百の貧民窟と二百の救民院の無力な活動と犯罪率の上昇とを生み出した歴史的な一時代であった。心あるイギリス人は、この富と貧との新しい社会悲惨の図絵に無関心でいられず、ひろがる犯罪、流行病から自分の家族を安全にあらせようと願えば勢い都市の衛生、都市の施設というものを議会の問題とせずにはいられなかった。文学の世界で、写実主義がおこってディッケンズがあらわれ、ロンドンの下層の生活の悲惨さを描いたのがこの時代であった。サッカレイが「虚栄の市」「ペンデニス」「ニューコム一家」など三冊の書物で当時上流を占めた投資家貴族の生活を辛辣に描き出したのもこの時代であった。ロシアではツルゲーネフがその時代の若いロシアの青年男女の姿を「その前夜」「処女地」など二冊に渡って描いた時代である。よりよい社会への願望、研究、行動が空想的であった前世紀の理想社会への憧れから科学的な社会主義の方向に高まりつつ、世界の卓抜な才能と思想とを方向づけていた巨大な一時代であった。たとえ、淑女らしさという金縛りを身にうけてはいても、その時代の先進国であったイギリス生まれの知識婦人であったフロレンス・ナイチンゲールが、社会衛生、道徳改善の事業にその規模の大きい現実的な精力の対象を見出したということは、決して不思議ではなかったのであった。 | 文学の世界で、サッカレイとツルゲーネフがこの時代を表した小説を書いたが、冊数が少ないほうを教えてください。 | 文学の世界で、サッカレイとツルゲーネフがこの時代を表した小説を書いたが、冊数が少ないほうはツルゲーネフで二冊です。 |
JCRRAG_018248 | 歴史 | 第一次世界大戦の武器の一覧
第一次世界大戦ではさまざまな武器や兵器が開発、戦地へ導入されていきました。ここでは、第一次世界大戦において使用された武器を一覧にまとめました。
武器名:戦車
特徴:1916年から投入。現在のように砲台はついていないが、戦場を進むのに役立った。性能は低い。
武器名:機関銃
特徴:敵軍兵士を素早く大量に倒すのに効率的だった。ホッチキス Mle1914重機関銃は、フランスの兵器メーカーであったオチキス社によって開発され、フランス軍の標準的な重機関銃だった。
武器名:戦闘機
特徴:地形の偵察や敵の位置把握のために使用。性能は高くない。
武器名:毒ガス
特徴:1915年にドイツがフランスに対して使用。比較的簡単に開発できるだけでなく、一度に多くの被害をもたらすことができた。
武器名:潜水艦
特徴:ドイツが開発した。主な任務は敵の商船を攻撃すること
第一次世界大戦は世界を巻き込んだ史上初の戦争であり、かつてない規模だったため、その被害が非戦闘員にも及ぶという現在でいう戦争形態の始まりとなりました。
第一次世界大戦中に世界で使われていた武器は前述のように、戦争を早期終結させるために開発・投入されてきましたが、結果的には大量兵器が浸透し、「戦争=戦闘員だけでなく非戦闘員を含む広範囲な犠牲を及ぼす」ものとして捉えられるようになりました。
日露戦争の教訓から武器は発展
第一次世界大戦で使われた武器は、先の日露戦争での経験から発展したものでした。日露戦争は工業技術の発達において武器がどんどん発展していた時期に勃発しました。ヨーロッパ諸国は日露戦争に注目し、情報集を行っていました。ヨーロッパ諸国が日露戦争から学んだ教訓は、火力(特に重機関銃と重砲の重要性)でした。
日本が使っていた武器について
ここからは第一次世界大戦に参戦した日本が使用していた武器について紹介します。
機関銃
日本が第一次世界大戦で使っていた武器で最もメジャーなのが【機関銃】です。機関銃は日露戦争で初めて大規模に使用されたのですが、第一次世界大戦では機関銃を使った戦闘方法が基本となりました。
さまざまな開発者がその技術を競い、地上用の機関銃だけでなく航空機用や車両用、船舶用など用途に合わせたものが開発されるようになりました。また、地上用であれば従来の固定発射のタイプの機関銃が、持ち運んで発射できるものといったように発達していきました。
軍用機
ご存じのとおり日本は島国であり、世界で有数の海軍大国でした。軍用機の発展は第一次世界大戦で劇的な進化を遂げることになりました。欧州戦線には参戦しませんでしたが、航空機を初めて導入しました。
世界で使われていた第二次世界大戦の武器
新しい武器・兵器・技術
第二次世界大戦では、特に航空機の性能向上が著しく、【レーダー】の性能向上・保持が参戦国にとって重要となっていました。レーダーは技術革新によって小型化され、最終的には航空機に搭載されるようになりました。
また、第二次世界大戦中期から暗号解読と弾道計算のためにコンピュータが開発されるようになりました。
核兵器
第二次世界大戦で使われた武器の中で、最も忘れてはならないのが【核兵器】です。日本は1945年8月6日午前8時15分に広島、1945年8月9日午前11時2分に長崎に投下され、人類最初の原爆の被害を負うことになりました。アメリカの原爆投下は対日戦線を早期終結させることを目的とされていますが、他の核開発国に対して実用化を進めたかったとも言われています。
核兵器は第二次世界大戦中にアメリカが最初に開発を開始しました。1945年の原爆投下をきっかけに核兵器の威力が世界中に広がり、第二次世界大戦終結後の世界において、核開発競争の激化に繋がってます。
日本が使っていた第二次世界大戦の武器
潜水艦
日本は島国であり、海軍の力が強かった。それをきっかけに史上最大規模の三隻の潜水艦を建造しました。潜水艦は第一次世界大戦に実用化が本格的に進んだため、大型化・多機能化が見られました。その後、兵器を格納する技術が発達するとともにミサイルを搭載する潜水艦に進化していきました。
零式艦上戦闘機
第二次世界大戦の日本軍と言えば有名なのが、零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦ではないでしょうか。ゼロ戦は日本を代表する軍用機で、三菱重工業によって開発されていました。当時の世界における戦闘機のスペックの中では、ゼロ戦のスペックは航続距離と運動性能において別格だと言われていました。 | 第一次世界大戦と第二次世界大戦で使っていた日本の兵器の違いを教えてください。 | 第一次世界大戦で日本が使っていた武器は、機関銃と軍用機です。
一方第二次世界大戦で日本が使っていた武器は、潜水艦と零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦です。 |
JCRRAG_018249 | 歴史 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、孫権である。彼は父・孫堅と兄・孫策が築いた勢力を引き継ぎ、さらなる領土拡大を果たして呉を治めました。優秀な配下をもつ孫権は人を見る目があったともいわれていますが、晩年は求心力を失い国力衰退を招いたようです。
うまれから政権を担うまで
孫権はなぜ政権を担うことになったのでしょうか?うまれから家督を継承するまでについて振り返ります。
孫堅の次男として誕生
孫権は、光和5年(182)呉郡において孫堅の次男として誕生しました。しかし光和7年(184)には、父・孫堅は家族を残し、太平道の張角がおこした黄巾の乱の鎮圧のために戦っていたといいます。中平6年(189)、残された母や孫権らは、兄・孫策に連れられ廬江郡舒県にある周瑜(しゅうゆ)の屋敷に移住。孫堅の死後、孫策は袁術の旗下に入って力量を発揮していきます。
兄・孫策の遺命で家督相続
興平2年(195)、孫策は袁術からの自立をもくろみ江東で挙兵しました。これに付き従った孫権は、父の仇・黄祖との交戦で大勝を収め、江東平定に貢献します。そして建安5年(200)、孫策が暗殺によってこの世を去ると、遺命により家督を継承。若くして江東一帯を制することになった孫権は、父や兄の代から仕える周瑜・程普(ていふ)・呂範(りょはん)や、周瑜から推薦された魯粛(ろしゅく)といった優秀な人材を登用し、国内の安定に努めました。こうして力をつけた孫権はついに父の仇・黄祖を破り、江夏郡南部の制圧に成功します。
荊州・交州の獲得を目指して
勢力拡大を目指す孫権は、魏の曹操や蜀の劉備と対立していきました。赤壁の戦いから関羽討伐にいたるまで、孫権はどのような動きをしたのでしょうか?
赤壁の戦いで曹操軍に勝利!
江夏郡南部を落とした年の年末、曹操が大軍を率いて南下し、孫権は抗戦するか降伏するかの選択を迫られました。軍内では意見が割れましたが、孫権は周瑜ら交戦派の意見を受け入れ開戦を決断します。これは孫権の領地に逃亡してきた劉備と手を組んで抗戦するというものでした。
孫権軍は劉備軍と合流して曹操と戦い、赤壁の戦いで曹操の水軍を打ち破ります。周瑜の予想通り、曹操軍は江南の気候や地勢に慣れておらず、疫病に苦しめられていました。また武将・黄蓋の進言による火攻めも奏功し、陣営が燃え上がり不利に陥った曹操軍は撤退。こうして、孫権・劉備連合軍は荊州の大部分を奪うことに成功します。
周瑜の死と劉備との対立
赤壁の戦いのあと、孫権は荊州南部5郡を領有しました。劉備は人々を養うために荊州数郡を借りたいと孫権に頼みますが、周瑜は劉備を警戒して反対したそうです。しかし、孫権は周瑜の意見をきかず、劉備に荊州を分け与えました。その後、劉備に「共同で益州を奪取しよう」ともちかけますが、単独での益州奪取を考えていた劉備に拒否されてしまいます。やがて周瑜は益州進攻の遠征途上で急逝し、あとを継いだ魯粛が劉備との協力を提案したことから、孫権は荊州3郡を劉備に貸すこととなりました。
その後、孫権は曹操との戦いで勢いを増し、劉備も益州の劉璋を攻めて益州を領有しました。孫権は荊州3郡の返還を求めましたが、劉備が暗にこれを拒否したことから対立し全面戦争寸前に陥ります。しかし、曹操が劉備の領地に侵攻したため、両者は和解して停戦しました。
荊州を奪還し、関羽を討つ
孫権と曹操は重要拠点となる濡須口(じゅしゅこう)をめぐって戦い続けており、孫権は4回も曹操軍の侵攻を食い止めていました。しかし、孫権はそれまでとは政策方針を変え、漢王朝に偽りの臣従を申し出て曹操と休戦します。
そんな中、建安24年(219)、劉備のもとで荊州を任されていた関羽が北進を始めました。孫権は呂蒙(りょもう)・陸遜(りくそん)らに攻撃を命じ、陸遜らは荊州の劉備領を次々に攻略します。窮地に立った関羽は降伏勧告に応じるふりをして逃走するも捕まり、孫権は関羽の能力を惜しみながらも配下の進言を受けて斬首しました。 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、濡須口の戦いで何回曹操軍の侵攻を食い止めたか。 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、4回も曹操軍の侵攻を食い止めていました。 |
JCRRAG_018250 | 歴史 | けれども、この雄々しい活動の人を夜鶯ナイチンゲールめ!と罵る人間もいた。
その筆頭はスクータリー病院の院長ホール博士と連隊長連であった。女と戦争と何の関係があるのか。
彼らはこの観念から抜けられなかった。
十人の軍医、十五人の看護卒、三十人の看護婦たちも、ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群であった。
おそろしい無秩序と官僚風のしみとおったスクータリーへ、新しい敷布を一とおり行きわたらせるためにでもナイチンゲールは、厳格な方法、きっちりした規律、些細な事をゆるがせにしない厳密な注意、不断の努力、不屈の意志と断固とした決心が入用であった。彼女の平静な表情の下に燃えさかっている情熱、澄んだ静かな声の中にこもっていて一旦その声に命じられたら服従せずにいられない一種独特な権威、それらは臆病の夜鶯ナイチンゲールの持ちものであるはずはない。
おだやかな優しさや、いわゆる女らしい自己否定で、彼女はクリミアでの業績をなしとげたのではなかった。
この一行がはじめコンスタンチノープルに近づいた時、一人の看護婦が「上陸しましたらすぐ可哀相な人々の看護をはじめましょう」といったに対して、「一番丈夫な人たちは洗濯ダライにかかって貰いましょう」と答えた彼女の実際の鋭い洞察も、記憶さるべきところではないだろうか。
戦争が終わって四ヵ月後の一八五六年の夏、フロレンス・ナイチンゲールはクリミアの天使として民衆の熱狂に迎えられながらイギリスに帰って来た。ヴィクトーリア女皇が贈ったブローチを白レースの襟の上に飾ったナイチンゲールの肖像は世界の隅々にまで広がった。
世間的な名声は、クリミアでの英雄的な行為の記憶によって、世の人々の間に生きた。
が、それから後の三十年間に、ナイチンゲールがほとんど長椅子の上にねたきりで完成した事の意義こそは、更に重大であった。
ナイチンゲールにとってクリミアでの成果は彼女の経歴の有益な踏み石に過ぎず、それは世界を働かせる為の梃子台であった。
クリミアでの激働ですっかり健康を害してイギリスに着いた彼女は、心臓衰弱に襲われ、たえず気絶の発作と全身の衰弱に悩まされた。
医師は極力静養を求める。ナイチンゲールにとって、どうして今休養などをとっていられよう。今こそ好機が到来したのだ。
鉄は熱い中にこそ打つべきだ。長椅子の上であえぎながら、彼女は報告を読み、手紙を口述し、激しい動悸の合間には熱病的な冗談をとばした。
ナイチンゲールは、イギリスの陸軍病院の全組織の改善という大計画につかれているのであった。
自分の体のままにならないフロレンスは間もなく自分の周囲に献身的な人々の小さい群をもった。
もっとも重要なのは後に陸軍大臣となったシドニー・ハーバートとその夫人とであった。
きわめて柔軟で同情に富む天質をもって生まれ、従ってその時代の人間性を強調する息吹きにも感じ易かったシドニー・ハーバートは、フロレンスの指揮と指導の性質にひきよせられ、公共の目的のためには全く献身的な独特な友情を保った。
そのほか、このグループの中にはハリー・バーネー卿がおり、詩人のクラッフがおり、クリミアへも一緒に行ったメー叔母さんもいた。
そして、三十年以上彼女の最も緊密な秘書として働いたサザーランド博士がいた。当時の社会が婦人の登場を許していなかったあらゆる政治的関係、役所関係の間へ、ナイチンゲールは彼女のあらゆる条件を活用して、ハーバートを動かし、バーネー卿を活動させた。
ナイチンゲールに役立とうとして仕事をはじめたこれらの人々は、やがて真剣にその能力と忍耐との極限まで彼女のためにはかたむけつくさなければならないことを知った。寝台の上に真っ蒼になって息をきらしながら、なお仕事を捨てないフロレンスを見て、彼女が骨身を惜しんでいるといえる者は一人もいないのであった。 | ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群のうち、もっとも人数が多い者を教えてください。 | ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群のうち、もっとも人数が多い者は看護婦で三十人です。 |
JCRRAG_018251 | 歴史 | イラク戦争が起きた原因
原因:大量破壊兵器の開発疑惑
アメリカが公式に開戦理由としたのは、イラクが大量破壊兵器を開発・保有しているということでした。ここでいう大量破壊兵器とは、大きな破壊力を持ち施設や人間に大ダメージを負わせる兵器のこと。具体的には生物兵器、化学兵器、核兵器、放射能兵器などのことですね。
湾岸戦争終結後、国連安全保障理事会はイラクに生物兵器や化学兵器、核兵器の大量破壊兵器や長距離ミサイルなどの廃棄を義務付けました。これを安保理決議687といいます。アメリカはイラクがこの決議に違反していると主張しました。
しかし、アメリカはイラクが大量破壊兵器を開発・保有していた証拠をつかんでいません。戦後の調査で大量破壊兵器の存在を発見できなかったことから、アメリカの主張は信憑性が低かったことが分かってしまいました。
原因:アメリカがフセイン政権打倒を望んだ
アメリカ、特にブッシュ政権内のネオコン(新保守主義者)はフセイン政権の打倒を望んでいました。ネオコンとは、自由主義や民主主義といったアメリカの価値観を重視し、アメリカの国益を守るためには武力介入も辞さない考え方を持つ人々のことです。
イラク戦争当時では、国防長官のラムズフェルドや国務次官のボルトンがネオコンとされます。彼らはフセイン政権を打倒することでイラクを民主化し、親米国家としようと考えました。
原因:アメリカがイラクの石油利権を狙った
アメリカのイラク攻撃の理由として、イラクの石油利権を狙ったという説があります。イラクはサウジアラビアやロシアにつぐ世界3位の石油埋蔵量を誇る国だったからです。これらの油田を反米のフセイン政権に握らせておくことはアメリカの国益に反すると考えました。
また、石油の生産・販売で大きな影響力を持つアメリカの国際石油資本からすればイラク北部の石油採掘権を得ることはビジネスの拡大につながります。これらはいずれも推定に過ぎませんが、イラク戦争開戦の理由として十分な説得力を持つといえるでしょう。 | イラク戦争が起きた原因とされる、「大量破壊兵器の開発疑惑」「アメリカがフセイン政権打倒を望んだ」の説明をお願いします。 | 「大量破壊兵器の開発疑惑」は、アメリカが公式に開戦理由としていました。イラクが大量破壊兵器を開発・保有しているということで、湾岸戦争終結後、イラクに生物兵器や化学兵器、核兵器の大量破壊兵器や長距離ミサイルなどの廃棄を義務付けましたが、アメリカはイラクがこの決議に違反していると主張しました。
一方、アメリカがフセイン政権打倒を望んだ点については、ブッシュ政権内のネオコンがフセイン政権の打倒を望んでいました。彼らはフセイン政権を打倒することでイラクを民主化し、親米国家としようと考えていました。 |
JCRRAG_018252 | 歴史 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、孫権である。彼は父・孫堅と兄・孫策が築いた勢力を引き継ぎ、さらなる領土拡大を果たして呉を治めました。優秀な配下をもつ孫権は人を見る目があったともいわれていますが、晩年は求心力を失い国力衰退を招いたようです。
うまれから政権を担うまで
孫権はなぜ政権を担うことになったのでしょうか?うまれから家督を継承するまでについて振り返ります。
孫堅の次男として誕生
孫権は、光和5年(182)呉郡において孫堅の次男として誕生しました。しかし光和7年(184)には、父・孫堅は家族を残し、太平道の張角がおこした黄巾の乱の鎮圧のために戦っていたといいます。中平6年(189)、残された母や孫権らは、兄・孫策に連れられ廬江郡舒県にある周瑜(しゅうゆ)の屋敷に移住。孫堅の死後、孫策は袁術の旗下に入って力量を発揮していきます。
兄・孫策の遺命で家督相続
興平2年(195)、孫策は袁術からの自立をもくろみ江東で挙兵しました。これに付き従った孫権は、父の仇・黄祖との交戦で大勝を収め、江東平定に貢献します。そして建安5年(200)、孫策が暗殺によってこの世を去ると、遺命により家督を継承。若くして江東一帯を制することになった孫権は、父や兄の代から仕える周瑜・程普(ていふ)・呂範(りょはん)や、周瑜から推薦された魯粛(ろしゅく)といった優秀な人材を登用し、国内の安定に努めました。こうして力をつけた孫権はついに父の仇・黄祖を破り、江夏郡南部の制圧に成功します。
荊州・交州の獲得を目指して
勢力拡大を目指す孫権は、魏の曹操や蜀の劉備と対立していきました。赤壁の戦いから関羽討伐にいたるまで、孫権はどのような動きをしたのでしょうか?
赤壁の戦いで曹操軍に勝利!
江夏郡南部を落とした年の年末、曹操が大軍を率いて南下し、孫権は抗戦するか降伏するかの選択を迫られました。軍内では意見が割れましたが、孫権は周瑜ら交戦派の意見を受け入れ開戦を決断します。これは孫権の領地に逃亡してきた劉備と手を組んで抗戦するというものでした。
孫権軍は劉備軍と合流して曹操と戦い、赤壁の戦いで曹操の水軍を打ち破ります。周瑜の予想通り、曹操軍は江南の気候や地勢に慣れておらず、疫病に苦しめられていました。また武将・黄蓋の進言による火攻めも奏功し、陣営が燃え上がり不利に陥った曹操軍は撤退。こうして、孫権・劉備連合軍は荊州の大部分を奪うことに成功します。
周瑜の死と劉備との対立
赤壁の戦いのあと、孫権は荊州南部5郡を領有しました。劉備は人々を養うために荊州数郡を借りたいと孫権に頼みますが、周瑜は劉備を警戒して反対したそうです。しかし、孫権は周瑜の意見をきかず、劉備に荊州を分け与えました。その後、劉備に「共同で益州を奪取しよう」ともちかけますが、単独での益州奪取を考えていた劉備に拒否されてしまいます。やがて周瑜は益州進攻の遠征途上で急逝し、あとを継いだ魯粛が劉備との協力を提案したことから、孫権は荊州3郡を劉備に貸すこととなりました。
その後、孫権は曹操との戦いで勢いを増し、劉備も益州の劉璋を攻めて益州を領有しました。孫権は荊州3郡の返還を求めましたが、劉備が暗にこれを拒否したことから対立し全面戦争寸前に陥ります。しかし、曹操が劉備の領地に侵攻したため、両者は和解して停戦しました。
荊州を奪還し、関羽を討つ
孫権と曹操は重要拠点となる濡須口(じゅしゅこう)をめぐって戦い続けており、孫権は4回も曹操軍の侵攻を食い止めていました。しかし、孫権はそれまでとは政策方針を変え、漢王朝に偽りの臣従を申し出て曹操と休戦します。
そんな中、建安24年(219)、劉備のもとで荊州を任されていた関羽が北進を始めました。孫権は呂蒙(りょもう)・陸遜(りくそん)らに攻撃を命じ、陸遜らは荊州の劉備領を次々に攻略します。窮地に立った関羽は降伏勧告に応じるふりをして逃走するも捕まり、孫権は関羽の能力を惜しみながらも配下の進言を受けて斬首しました。 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、関羽に対してどのような判断を下したか。 | 三国時代、呉の初代皇帝となった人物は、関羽の能力を惜しみながらも配下の進言を受けて斬首しました。 |
JCRRAG_018253 | 歴史 | けれども、この雄々しい活動の人を夜鶯ナイチンゲールめ!と罵る人間もいた。
その筆頭はスクータリー病院の院長ホール博士と連隊長連であった。女と戦争と何の関係があるのか。
彼らはこの観念から抜けられなかった。
十人の軍医、十五人の看護卒、三十人の看護婦たちも、ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群であった。
おそろしい無秩序と官僚風のしみとおったスクータリーへ、新しい敷布を一とおり行きわたらせるためにでもナイチンゲールは、厳格な方法、きっちりした規律、些細な事をゆるがせにしない厳密な注意、不断の努力、不屈の意志と断固とした決心が入用であった。彼女の平静な表情の下に燃えさかっている情熱、澄んだ静かな声の中にこもっていて一旦その声に命じられたら服従せずにいられない一種独特な権威、それらは臆病の夜鶯ナイチンゲールの持ちものであるはずはない。
おだやかな優しさや、いわゆる女らしい自己否定で、彼女はクリミアでの業績をなしとげたのではなかった。
この一行がはじめコンスタンチノープルに近づいた時、一人の看護婦が「上陸しましたらすぐ可哀相な人々の看護をはじめましょう」といったに対して、「一番丈夫な人たちは洗濯ダライにかかって貰いましょう」と答えた彼女の実際の鋭い洞察も、記憶さるべきところではないだろうか。
戦争が終わって四ヵ月後の一八五六年の夏、フロレンス・ナイチンゲールはクリミアの天使として民衆の熱狂に迎えられながらイギリスに帰って来た。ヴィクトーリア女皇が贈ったブローチを白レースの襟の上に飾ったナイチンゲールの肖像は世界の隅々にまで広がった。
世間的な名声は、クリミアでの英雄的な行為の記憶によって、世の人々の間に生きた。
が、それから後の三十年間に、ナイチンゲールがほとんど長椅子の上にねたきりで完成した事の意義こそは、更に重大であった。
ナイチンゲールにとってクリミアでの成果は彼女の経歴の有益な踏み石に過ぎず、それは世界を働かせる為の梃子台であった。
クリミアでの激働ですっかり健康を害してイギリスに着いた彼女は、心臓衰弱に襲われ、たえず気絶の発作と全身の衰弱に悩まされた。
医師は極力静養を求める。ナイチンゲールにとって、どうして今休養などをとっていられよう。今こそ好機が到来したのだ。
鉄は熱い中にこそ打つべきだ。長椅子の上であえぎながら、彼女は報告を読み、手紙を口述し、激しい動悸の合間には熱病的な冗談をとばした。
ナイチンゲールは、イギリスの陸軍病院の全組織の改善という大計画につかれているのであった。
自分の体のままにならないフロレンスは間もなく自分の周囲に献身的な人々の小さい群をもった。
もっとも重要なのは後に陸軍大臣となったシドニー・ハーバートとその夫人とであった。
きわめて柔軟で同情に富む天質をもって生まれ、従ってその時代の人間性を強調する息吹きにも感じ易かったシドニー・ハーバートは、フロレンスの指揮と指導の性質にひきよせられ、公共の目的のためには全く献身的な独特な友情を保った。
そのほか、このグループの中にはハリー・バーネー卿がおり、詩人のクラッフがおり、クリミアへも一緒に行ったメー叔母さんもいた。
そして、三十年以上彼女の最も緊密な秘書として働いたサザーランド博士がいた。当時の社会が婦人の登場を許していなかったあらゆる政治的関係、役所関係の間へ、ナイチンゲールは彼女のあらゆる条件を活用して、ハーバートを動かし、バーネー卿を活動させた。
ナイチンゲールに役立とうとして仕事をはじめたこれらの人々は、やがて真剣にその能力と忍耐との極限まで彼女のためにはかたむけつくさなければならないことを知った。寝台の上に真っ蒼になって息をきらしながら、なお仕事を捨てないフロレンスを見て、彼女が骨身を惜しんでいるといえる者は一人もいないのであった。 | ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群のうち、もっとも人数が少ない者を教えてください。 | ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群のうち、もっとも人数が少ない者は軍医で十人です。 |
JCRRAG_018254 | 歴史 | イラク戦争が与えた2つの影響
影響1:多数の死者を出し、世論が硬化
イラク戦争はアメリカ軍の最新兵器や効果的な戦術のおかげで比較的短期間で終結します。しかし、戦争終了後の占領統治はうまくいきませんでした。壊滅した旧イラク軍が各地に潜伏し、占領する有志連合軍に対しテロ攻撃を仕掛けてきたからです。
そのため、戦争そのものは終結したはずなのに、戦闘が継続。各地で死者が積みあがりました。アメリカ国内では、遠い異国の戦争でアメリカ兵が消耗し戦死者が増えることに対する強い不満が生まれます。2011年、オバマ政権は独立を回復したイラク政府権限を委譲し、小規模なイラク駐留軍をのぞき占領軍を撤退させました。
また、この戦争で民間人にも多数の犠牲者が出ます。カウントの方法によって死者数は前後しますが、少なくとも50万人前後は犠牲になったとされました。多くの死者が出たことでイラク戦争は強く批判されるようになります。
影響2:中東でのアメリカの影響力が低下
イラク戦争はアメリカの勝利に終わりましたが、戦後のイラク統治が混乱したことによってアメリカの威信が揺らぎ、中東での影響力が低下しました。もともと、イラクはスンナ派とシーア派が入り混じった国で統一が難しい状態でした。加えて北部にはクルド人が多数生活しています。
それをフセイン率いるバース党の政権が独裁によってまとめていたという側面がありました。フセインというたがが外れたイラクは各勢力がバラバラに動き回る混乱状態となります。この混乱に拍車をかけてのがイラク北部からシリアにかけての地域を占拠したISIL(イスラミックステート)です。日本では一時期「イスラム国」と呼ばれていましたね。
多くの死者を出したアメリカは世論の反発を恐れ、ISILに積極的な攻撃を仕掛けません。これをいいことにISILは勢力を拡大しました。中東の混乱を拡大・助長させるアメリカの姿勢は周辺国に不審の念を抱かせ、中東でのアメリカの影響力が低下する要因となります。
湾岸戦争とイラク戦争の違い
湾岸戦争とイラク戦争の違いは2つ。1つ目は湾岸戦争がイラクの侵略戦争であり、イラク戦争は有志連合によるイラク攻撃であることです。つまり、湾岸戦争はイラクの先制攻撃で始まり、イラク戦争ではイラクが攻め込まれたということになりますね。
2つ目は国連安保理の決議の有無です。湾岸戦争において、国連安全保障理事会は「武力行使容認決議」を採択しました。これにより、アメリカを中心とする多国籍軍は「国連の承認を得た」という錦の御旗をたてることができます。しかし、イラク戦争ではこうした決議はなく、アメリカの主張に賛同する「有志」がイラクを攻撃したにすぎませんでした。 | 湾岸戦争とイラク戦争における国連安保理の決議の違いを教えてください。 | 湾岸戦争において、国連安全保障理事会は武力行使容認決議を採択しました。これにより、アメリカを中心とする多国籍軍は国連の承認を得た、という錦の御旗をたてることができました。
一方、イラク戦争では国連安全保障理事会の決議はなく、アメリカの主張に賛同する有志がイラクを攻撃したにすぎませんでした。 |
JCRRAG_018255 | 歴史 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、董卓である。
地方官としての働き
暴君といわれる董卓も、もとは悪い人間ではなかったようです。董卓の地方官として働きについて振り返ります。
郡の役人になり力量を発揮
董卓は涼州隴西郡臨洮県の出身で、腕力が強く武芸に秀でていたといわれています。若いころは男伊達で、羌族など異民族の土地を放浪して有力者たちと交流しました。のちに故郷で畑作業に従事しますが、有力者たちが訪問すると農耕用の牛を殺して宴会でもてなし感激させたといいます。その後、董卓は郡の役人になり、盗賊を取り締まったり、胡(北方・西方民族)を討伐したりと力量を発揮。これらの活躍により中央の役所に推挙されました。
羌族との戦いで圧勝する
延熹9年(166)六郡の良家の子弟から郎を選ぶことになり、董卓は羽林騎に就任します。この職は天子の身辺を守る名誉職で、洛陽の大学で学んだ文武両道の人が就任していました。そのため董卓も賢い人物だったといえるでしょう。董卓は張奐率いる并州征伐軍に司馬として従い大勝します。この功績により絹9000匹を賜りましたが、すべて部下に分け与えました。董卓は配下の兵から感謝され、その後も累進して并州刺史・河東太守などを歴任しました。
中郎将として涼州で活躍
光和7年(184)3月、宗教組織・太平道の蜂起により黄巾の乱が勃発します。中郎将に昇進した董卓は討伐に向かい、太平道の創始者・張角と戦うも敗退し罷免されました。翌年、辺章と韓遂が「宦官誅殺」を掲げて反乱を起こすと再び中郎将に任命され、左車騎将軍・皇甫嵩(こうほすう)の副将として討伐にあたります。董卓は反乱を鎮め辺章と韓遂を追撃。この戦いで後漢軍のほとんどは敗北しましたが、董卓軍は大きな損害を受けませんでした。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、何をして力量を発揮したか。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、盗賊を取り締まったり、胡(北方・西方民族)を討伐したりと力量を発揮した。 |
JCRRAG_018256 | 歴史 | パストゥールの経歴
ルイ・パストゥールは一八二二年の十二月二十七日にフランスのドールという小さな町で生まれました。
父はジャン・ジョセフという名で、なめし皮をつくる仕事をしていたので、それだけに家も貧しく、みすぼらしい生活をしていました。
ルイが生まれて数年後にはマルノーという町に移り、間もなく仕事の都合でアルボアの町に転じました。
この町でルイは小学校に入り、次いで自分で苦学しながらブザンソンの中学校を終えてから、パリへ赴いて高等師範学校に入学し、一八四七年にそこを卒業しました。
ルイは幼少の頃には、さほどの特徴もなく、ただパステル画に巧みであって、その頃描いたものが今でも残っているのですが、その後学業が進むにつれて、だんだんに科学の研究に興味を感ずるようになり、師範学校を終える際には自分の科学上の研究を立派な論文にまとめるまでになりました。
高等師範を卒業してからも、そこでなお熱心に研究を進めている中に、酒石酸の結晶に関する論文が、パリの科学学士院会員として著名なビオーたちに認められ、それからはいつもその恩顧を受けるようになりました。
間もなくディジョン中学の物理学の教師に任命されましたが、そこでは研究ができないので、それをひどく悲しんでむしろパリに帰ることを望んでいたところへ、ビオー等の奔走によってストラスブルグの大学の助教授に任命されたのでした。
そのときには彼はどんなにうれしく感じたかわからない程で、早速そこへ赴きました。これは一八四九年一月のことです。
この時からルイ・パストゥールの熱心な、そして疲れることを知らない学問上の研究がその軌道に乗ったのでしたが、彼のすぐれた頭脳によってそれがいつも輝かしい成功を収めて行ったのでした。
かくて六年後にはリール大学の教授となり、一八五七年には母校であったパリの高等師範学校長に任命されました。
ここでますます研究を積んで学界に重んぜられていたのでしたが、一八七〇年に普仏戦争が起こって、パリの都も混乱に陥ったので、止むなく郷里に帰って不自由ながらも研究を続けていました。
そして戦争の終わった一八七四年にはパリのソルボンヌ大学の教授となり、それからさらに世界を驚かすような業績を挙げました。
それで一八八八年には世界のあらゆる場所からばくだいな資金が集められ、彼の名を附した立派なパストゥール研究所がパリに建設されて、その所長となりました。
この資金の寄附者のなかには、ロシアの皇帝が金貨一万、トルコの国王が金貨二百万などもあり、それからささやかな農夫が二枚の金貨というような、ありとあらゆる階級の人々を含んでいたということです。そして当時のフランスの大統領カルノーがこの研究所の開始の祝辞を述べたのに対して、パストゥールはつつましい言葉をもって、「この研究所の仕事こそは世界のすべての人々の幸福のためになされるものでなければなりません」と答えたということです。
この時から今日までこの研究所にはすぐれた学者が集まってすばらしい研究を行いつづけています。
これもパストゥールの偉大な仕事のおかげであるといわなければなりません。
また一八九二年には、彼の七十歳の祝賀の式がソルボンヌ大学で盛大に行われましたが、これこそパリの歴史のなかで最も美しい一ページをなすものだと評価されたとのことです。
そして一八九五年の九月二十八日に病が重なってこの偉大な大学者はついにこの世を去りました。
フランスでは彼を尊重して、ノートルダムの聖堂で国葬を行ってこの上もない哀惜の念を表したのでした。
なおフランスの国民がどれほど彼を尊敬しているかということについては、パリのある新聞社でフランスの偉人投票を行った際に、パストゥールに集まった投票の数があの名だかいナポレオンが千票入ったとすればはるかにとび超えて三千票位の絶対的な第一位を占めたということでもよくわかるのです。
そしてこの事はまた国民が学問を尊重する念の強いことを示す点で、フランスの一つの特質をも示していると見てよいのでしょう。 | パストゥール研究所に寄附された寄附金のうち、もっとも寄付金が多かった者を教えてください。 | パストゥール研究所に寄附された寄附金のうち、もっとも寄付金が多かった者はトルコの国王で金貨二百万です。 |
JCRRAG_018257 | 歴史 | イラク戦争が与えた2つの影響
影響1:多数の死者を出し、世論が硬化
イラク戦争はアメリカ軍の最新兵器や効果的な戦術のおかげで比較的短期間で終結します。しかし、戦争終了後の占領統治はうまくいきませんでした。壊滅した旧イラク軍が各地に潜伏し、占領する有志連合軍に対しテロ攻撃を仕掛けてきたからです。
そのため、戦争そのものは終結したはずなのに、戦闘が継続。各地で死者が積みあがりました。アメリカ国内では、遠い異国の戦争でアメリカ兵が消耗し戦死者が増えることに対する強い不満が生まれます。2011年、オバマ政権は独立を回復したイラク政府権限を委譲し、小規模なイラク駐留軍をのぞき占領軍を撤退させました。
また、この戦争で民間人にも多数の犠牲者が出ます。カウントの方法によって死者数は前後しますが、少なくとも50万人前後は犠牲になったとされました。多くの死者が出たことでイラク戦争は強く批判されるようになります。
影響2:中東でのアメリカの影響力が低下
イラク戦争はアメリカの勝利に終わりましたが、戦後のイラク統治が混乱したことによってアメリカの威信が揺らぎ、中東での影響力が低下しました。もともと、イラクはスンナ派とシーア派が入り混じった国で統一が難しい状態でした。加えて北部にはクルド人が多数生活しています。
それをフセイン率いるバース党の政権が独裁によってまとめていたという側面がありました。フセインというたがが外れたイラクは各勢力がバラバラに動き回る混乱状態となります。この混乱に拍車をかけてのがイラク北部からシリアにかけての地域を占拠したISIL(イスラミックステート)です。日本では一時期「イスラム国」と呼ばれていましたね。
多くの死者を出したアメリカは世論の反発を恐れ、ISILに積極的な攻撃を仕掛けません。これをいいことにISILは勢力を拡大しました。中東の混乱を拡大・助長させるアメリカの姿勢は周辺国に不審の念を抱かせ、中東でのアメリカの影響力が低下する要因となります。
湾岸戦争とイラク戦争の違い
湾岸戦争とイラク戦争の違いは2つ。1つ目は湾岸戦争がイラクの侵略戦争であり、イラク戦争は有志連合によるイラク攻撃であることです。つまり、湾岸戦争はイラクの先制攻撃で始まり、イラク戦争ではイラクが攻め込まれたということになりますね。
2つ目は国連安保理の決議の有無です。湾岸戦争において、国連安全保障理事会は「武力行使容認決議」を採択しました。これにより、アメリカを中心とする多国籍軍は「国連の承認を得た」という錦の御旗をたてることができます。しかし、イラク戦争ではこうした決議はなく、アメリカの主張に賛同する「有志」がイラクを攻撃したにすぎませんでした。 | 湾岸戦争とイラク戦争におけるイラクの立場の違いを教えてください。 | 湾岸戦争はイラクの侵略戦争であり、湾岸戦争はイラクが先制攻撃する立場として始まりました。
一方、イラク戦争は有志連合によるイラクへの攻撃です。イラク戦争においてはイラクが攻め込まれた立場として始まりました。 |
JCRRAG_018258 | 歴史 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、董卓である。
地方官としての働き
暴君といわれる董卓も、もとは悪い人間ではなかったようです。董卓の地方官として働きについて振り返ります。
郡の役人になり力量を発揮
董卓は涼州隴西郡臨洮県の出身で、腕力が強く武芸に秀でていたといわれています。若いころは男伊達で、羌族など異民族の土地を放浪して有力者たちと交流しました。のちに故郷で畑作業に従事しますが、有力者たちが訪問すると農耕用の牛を殺して宴会でもてなし感激させたといいます。その後、董卓は郡の役人になり、盗賊を取り締まったり、胡(北方・西方民族)を討伐したりと力量を発揮。これらの活躍により中央の役所に推挙されました。
羌族との戦いで圧勝する
延熹9年(166)六郡の良家の子弟から郎を選ぶことになり、董卓は羽林騎に就任します。この職は天子の身辺を守る名誉職で、洛陽の大学で学んだ文武両道の人が就任していました。そのため董卓も賢い人物だったといえるでしょう。董卓は張奐率いる并州征伐軍に司馬として従い大勝します。この功績により絹9000匹を賜りましたが、すべて部下に分け与えました。董卓は配下の兵から感謝され、その後も累進して并州刺史・河東太守などを歴任しました。
中郎将として涼州で活躍
光和7年(184)3月、宗教組織・太平道の蜂起により黄巾の乱が勃発します。中郎将に昇進した董卓は討伐に向かい、太平道の創始者・張角と戦うも敗退し罷免されました。翌年、辺章と韓遂が「宦官誅殺」を掲げて反乱を起こすと再び中郎将に任命され、左車騎将軍・皇甫嵩(こうほすう)の副将として討伐にあたります。董卓は反乱を鎮め辺章と韓遂を追撃。この戦いで後漢軍のほとんどは敗北しましたが、董卓軍は大きな損害を受けませんでした。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、何に従い大勝したか。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、張奐率いる并州征伐軍に司馬として従い大勝した。 |
JCRRAG_018259 | 歴史 | パストゥールの経歴
ルイ・パストゥールは一八二二年の十二月二十七日にフランスのドールという小さな町で生まれました。
父はジャン・ジョセフという名で、なめし皮をつくる仕事をしていたので、それだけに家も貧しく、みすぼらしい生活をしていました。
ルイが生まれて数年後にはマルノーという町に移り、間もなく仕事の都合でアルボアの町に転じました。
この町でルイは小学校に入り、次いで自分で苦学しながらブザンソンの中学校を終えてから、パリへ赴いて高等師範学校に入学し、一八四七年にそこを卒業しました。
ルイは幼少の頃には、さほどの特徴もなく、ただパステル画に巧みであって、その頃描いたものが今でも残っているのですが、その後学業が進むにつれて、だんだんに科学の研究に興味を感ずるようになり、師範学校を終える際には自分の科学上の研究を立派な論文にまとめるまでになりました。
高等師範を卒業してからも、そこでなお熱心に研究を進めている中に、酒石酸の結晶に関する論文が、パリの科学学士院会員として著名なビオーたちに認められ、それからはいつもその恩顧を受けるようになりました。
間もなくディジョン中学の物理学の教師に任命されましたが、そこでは研究ができないので、それをひどく悲しんでむしろパリに帰ることを望んでいたところへ、ビオー等の奔走によってストラスブルグの大学の助教授に任命されたのでした。
そのときには彼はどんなにうれしく感じたかわからない程で、早速そこへ赴きました。これは一八四九年一月のことです。
この時からルイ・パストゥールの熱心な、そして疲れることを知らない学問上の研究がその軌道に乗ったのでしたが、彼のすぐれた頭脳によってそれがいつも輝かしい成功を収めて行ったのでした。
かくて六年後にはリール大学の教授となり、一八五七年には母校であったパリの高等師範学校長に任命されました。
ここでますます研究を積んで学界に重んぜられていたのでしたが、一八七〇年に普仏戦争が起こって、パリの都も混乱に陥ったので、止むなく郷里に帰って不自由ながらも研究を続けていました。
そして戦争の終わった一八七四年にはパリのソルボンヌ大学の教授となり、それからさらに世界を驚かすような業績を挙げました。
それで一八八八年には世界のあらゆる場所からばくだいな資金が集められ、彼の名を附した立派なパストゥール研究所がパリに建設されて、その所長となりました。
この資金の寄附者のなかには、ロシアの皇帝が金貨一万、トルコの国王が金貨二百万などもあり、それからささやかな農夫が二枚の金貨というような、ありとあらゆる階級の人々を含んでいたということです。そして当時のフランスの大統領カルノーがこの研究所の開始の祝辞を述べたのに対して、パストゥールはつつましい言葉をもって、「この研究所の仕事こそは世界のすべての人々の幸福のためになされるものでなければなりません」と答えたということです。
この時から今日までこの研究所にはすぐれた学者が集まってすばらしい研究を行いつづけています。
これもパストゥールの偉大な仕事のおかげであるといわなければなりません。
また一八九二年には、彼の七十歳の祝賀の式がソルボンヌ大学で盛大に行われましたが、これこそパリの歴史のなかで最も美しい一ページをなすものだと評価されたとのことです。
そして一八九五年の九月二十八日に病が重なってこの偉大な大学者はついにこの世を去りました。
フランスでは彼を尊重して、ノートルダムの聖堂で国葬を行ってこの上もない哀惜の念を表したのでした。
なおフランスの国民がどれほど彼を尊敬しているかということについては、パリのある新聞社でフランスの偉人投票を行った際に、パストゥールに集まった投票の数があの名だかいナポレオンが千票入ったとすればはるかにとび超えて三千票位の絶対的な第一位を占めたということでもよくわかるのです。
そしてこの事はまた国民が学問を尊重する念の強いことを示す点で、フランスの一つの特質をも示していると見てよいのでしょう。 | パストゥール研究所に寄附された寄附金のうち、もっとも寄付金が少なかった者を教えてください。 | パストゥール研究所に寄附された寄附金のうち、もっとも寄付金が少なかった者は農夫で金貨二枚です。 |
JCRRAG_018260 | 歴史 | アロー戦争は1856年から1860年に、イギリス・フランスの連合軍と中国の清との間に起きた戦争です。戦争のきっかけが、清が帆船アロー号を海賊船として取り締まった「アロー号事件」に始まるため、そのように呼ばれています。
南京条約でイギリスと清が対立
アロー戦争の前哨戦となるのが、1840年から始まったアヘン戦争。イギリスが清に輸出して巨額の利益を得ていたアヘンを、清が禁輸したことに反発したイギリスと清との間の戦争です。
アヘン戦争では最終的にイギリスが勝利する形となり、その講和条約として1842年に南京条約が結ばれました。
南京条約では、イギリスへ香港を譲ることや多額の賠償金など、清にとって不満が溜まる内容となっていました。さらにイギリスは、この条約の中で清に貿易の自由化を求め、広州、福州、厦門、寧波、上海の5港を開港することになりました。
開港に成功したイギリスは、自国の製品をここぞと清へ売り込みますが、なかなか売れません。というのも、清国内では外国人排斥運動が高まりを見せていて、イギリスに対する反発が強まっていたからです。
広州をめぐる二国間の駆け引き
特に排斥運動が過熱していたのが、アヘン戦争で一時イギリスに占領されていたこともある広州です。広州には城壁に囲まれた中国人街があり、イギリス人が入城しようとする度に暴動が起きていました。
このような排斥運動の高まりに対して、イギリス政府は清朝政府に対して強く抗議するものの、事態は一向に収まる様子を見せませんでした。
イギリス政府は清の中央政府との直接交渉を求めましたが、清は広州に常駐している広東欽差大臣を通してのみ交渉を受け付けるとしました。清としては、外交や貿易分野の専門的な知識や権限を持っている欽差大臣に対処してもらったほうが都合が良く、イギリスの要望とは相容れない結果となってしまいました。
このようにお互いの意見がかみ合わない状況に対して、イギリスは清で商売を行うイギリス国民を守ることを口実に、武力行使も視野に入れた対応を考えるようになってきました。
1856年10月、広州港に停泊中の帆船「アロー号」に対して、清が海賊容疑で捜査したところアヘン密輸船であることがわかり、船員である清国人を逮捕するという事件が起きました。
これがアロー号事件です。
この出来事に対してイギリスは、「船はイギリス船籍で、捜査時に船に掲げられていたイギリス国旗を引きずり下ろし、国家を侮辱した」と抗議。
清側は「捜査時に船には国旗は掲げられていなかったし、そもそもイギリス船籍は失効しているため、中国船を取り締まっただけで何ら問題ない」と反論しました。
お互いが相手の意見を受け入れない状況が続く中、まずイギリスが「軽めの」先手を打ちます。
アロー号事件がアロー戦争に発展
アロー号をめぐる騒動で抗議の意思を示すため、イギリスは海軍を広州へ派遣し、広州周辺の砲台を占拠するという強硬策に出ました。これに激怒した広州の人々は、外国人居留地を焼き払ってしまいます。
この状況に対し、対話で無理なら武力で応じるしかないということになり、ここに「第二次アヘン戦争」とも呼ばれるアロー戦争が開幕するのでした。
フランス・イギリスが天津を侵攻
イギリス首相・パーマストン子爵は遠征軍5,000人を現地に派遣し、同時にフランスに参戦を打診しました。実は数月前、フランス人宣教師が、外国人の渡航が許可されていない広西西林地区へ侵入してキリスト教を布教したとして、処刑されるという事件が発生していました。
これを口実にフランスのナポレオン3世も出兵を決め、イギリスとフランスの連合軍による侵攻が行われました。
まず広州を攻めた連合軍は、1957年12月にアロー号事件を担当していた欽差大臣の葉名琛(しょうめいちん)を捕えます。南京条約の改正を求めましたが清朝と折り合いがつかず、連合軍は圧力をかけるためさらに北上し、当時の首都であった北京のすぐ手前にある天津を占領。
これに屈服した清朝は降伏し、新たな条約を締結する場を設けることとなりました。
条約の締結はイギリス・フランスに加えて、アメリカとロシアも参加した連合軍と清朝の間で取り交わされました。条約では新たに6港4市を開港し、外国人が中国内地で自由に旅行や商売ができることを認めることとしました。
また、これまで禁止されていたキリスト教の布教を認め、宣教師を保護するという条文も設けられ、経済面だけでなく文化面でも中国を取り入れようとしました。
しかし、「外交官を北京に常駐させることを許可する」という条文が問題を引き起こします。これは、香港、上海、広州のみで常駐が許可されていた外交官を北京に置けるようにすることで、中央政府と諸外国が直接交渉できるようにしようという項目でした。
しかし、「皇帝の近くに夷狄(いてき・外国人の蔑称)が入る」という意見が清朝内部で高まり、条約の内容に反発する動きが見えるようになってきました。
戦争再開と北京の占領
イギリスとフランスの使節が北京に向かうと、そこには障害物が設けてあり、清朝政府が北京入りを阻止している状況。仕方なく天津近くに待機し圧力をかけつつ、障害物を撤去していると、突然清軍から発砲され、イギリス・フランス軍は撤退することとなります。
とはいえ、そのまま黙っているわけもなく、翌年には大艦隊を引き連れて進軍し、清との交渉の機会を設けます。
しかし、清との交渉にあたっていた連合軍の使節団が捕えられ、殺害されるという事件が起こり、交渉は決裂。連合軍は北京へ進軍・占領し、かつての離宮であった円明園に放火したり、略奪を行ったりするなど、徹底的な破壊活動を繰り広げました。
アロー戦争の結果とその後
北京条約を締結
完膚無きまでに打ちのめされた清朝は、新たな条約を結ぶことで事態を収めます。貿易関連では、開港地に新たに天津を追加し、首都・北京に近い都市での貿易の活性化が図られました。
さらに、イギリスに対しては香港島の北に位置する九龍半島南部を割譲。ロシアに対しては、沿海州の領有を認め、ここにロシアにとっては貴重な凍らない港である「ウラジオストク港」が建設されました。
太平天国の乱が沈静化
さらに中国本土での実権を握りたい列強諸国は、中国での内乱に目を付けます。アロー戦争と同時期、キリスト教信者の洪秀全は清朝社会への反発により、独立国家「太平天国」を樹立。貧困層の農民などの支持を集めて挙兵した後、南京を占拠して新たに「天京」とするなど、中国の南半分を占めるまでに勢力を拡大していました。
この民族闘争が後々厄介になると考えた列強は、太平天国を制圧するために清軍と協力することにします。西洋式の銃や大砲、外国人の傭兵、さらにはイギリス軍の指揮官が清軍をサポートし、それまで負け続きだった太平天国軍に連勝します。
その最中、洪秀全が病死し、求心力を失った太平天国は陥落。長期に渡った太平天国の乱は鎮圧されたのでした。" | 清が海賊容疑で捜査したところアヘン密輸船であることがわかり、船員である清国人を逮捕するというアロー号事件における、イギリスと清の言い分の違いを教えてください。 | イギリスはアロー号事件において、船はイギリス船籍で、捜査時に船に掲げられていたイギリス国旗を引きずり下ろし、国家を侮辱した、と抗議しました。
一方、清は、捜査時に船には国旗は掲げられておらず、イギリス船籍は失効しているため、中国船を取り締まっただけで何ら問題ない、と反論しました。 |
JCRRAG_018261 | 歴史 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、董卓である。
地方官としての働き
暴君といわれる董卓も、もとは悪い人間ではなかったようです。董卓の地方官として働きについて振り返ります。
郡の役人になり力量を発揮
董卓は涼州隴西郡臨洮県の出身で、腕力が強く武芸に秀でていたといわれています。若いころは男伊達で、羌族など異民族の土地を放浪して有力者たちと交流しました。のちに故郷で畑作業に従事しますが、有力者たちが訪問すると農耕用の牛を殺して宴会でもてなし感激させたといいます。その後、董卓は郡の役人になり、盗賊を取り締まったり、胡(北方・西方民族)を討伐したりと力量を発揮。これらの活躍により中央の役所に推挙されました。
羌族との戦いで圧勝する
延熹9年(166)六郡の良家の子弟から郎を選ぶことになり、董卓は羽林騎に就任します。この職は天子の身辺を守る名誉職で、洛陽の大学で学んだ文武両道の人が就任していました。そのため董卓も賢い人物だったといえるでしょう。董卓は張奐率いる并州征伐軍に司馬として従い大勝します。この功績により絹9000匹を賜りましたが、すべて部下に分け与えました。董卓は配下の兵から感謝され、その後も累進して并州刺史・河東太守などを歴任しました。
中郎将として涼州で活躍
光和7年(184)3月、宗教組織・太平道の蜂起により黄巾の乱が勃発します。中郎将に昇進した董卓は討伐に向かい、太平道の創始者・張角と戦うも敗退し罷免されました。翌年、辺章と韓遂が「宦官誅殺」を掲げて反乱を起こすと再び中郎将に任命され、左車騎将軍・皇甫嵩(こうほすう)の副将として討伐にあたります。董卓は反乱を鎮め辺章と韓遂を追撃。この戦いで後漢軍のほとんどは敗北しましたが、董卓軍は大きな損害を受けませんでした。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、何をすべて部下に分け与えたか。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、絹9000匹を賜りましたが、すべて部下に分け与えた。 |
JCRRAG_018262 | 歴史 | パストゥールの経歴
ルイ・パストゥールは一八二二年の十二月二十七日にフランスのドールという小さな町で生まれました。
父はジャン・ジョセフという名で、なめし皮をつくる仕事をしていたので、それだけに家も貧しく、みすぼらしい生活をしていました。
ルイが生まれて数年後にはマルノーという町に移り、間もなく仕事の都合でアルボアの町に転じました。
この町でルイは小学校に入り、次いで自分で苦学しながらブザンソンの中学校を終えてから、パリへ赴いて高等師範学校に入学し、一八四七年にそこを卒業しました。
ルイは幼少の頃には、さほどの特徴もなく、ただパステル画に巧みであって、その頃描いたものが今でも残っているのですが、その後学業が進むにつれて、だんだんに科学の研究に興味を感ずるようになり、師範学校を終える際には自分の科学上の研究を立派な論文にまとめるまでになりました。
高等師範を卒業してからも、そこでなお熱心に研究を進めている中に、酒石酸の結晶に関する論文が、パリの科学学士院会員として著名なビオーたちに認められ、それからはいつもその恩顧を受けるようになりました。
間もなくディジョン中学の物理学の教師に任命されましたが、そこでは研究ができないので、それをひどく悲しんでむしろパリに帰ることを望んでいたところへ、ビオー等の奔走によってストラスブルグの大学の助教授に任命されたのでした。
そのときには彼はどんなにうれしく感じたかわからない程で、早速そこへ赴きました。これは一八四九年一月のことです。
この時からルイ・パストゥールの熱心な、そして疲れることを知らない学問上の研究がその軌道に乗ったのでしたが、彼のすぐれた頭脳によってそれがいつも輝かしい成功を収めて行ったのでした。
かくて六年後にはリール大学の教授となり、一八五七年には母校であったパリの高等師範学校長に任命されました。
ここでますます研究を積んで学界に重んぜられていたのでしたが、一八七〇年に普仏戦争が起こって、パリの都も混乱に陥ったので、止むなく郷里に帰って不自由ながらも研究を続けていました。
そして戦争の終わった一八七四年にはパリのソルボンヌ大学の教授となり、それからさらに世界を驚かすような業績を挙げました。
それで一八八八年には世界のあらゆる場所からばくだいな資金が集められ、彼の名を附した立派なパストゥール研究所がパリに建設されて、その所長となりました。
この資金の寄附者のなかには、ロシアの皇帝が金貨一万、トルコの国王が金貨二百万などもあり、それからささやかな農夫が二枚の金貨というような、ありとあらゆる階級の人々を含んでいたということです。そして当時のフランスの大統領カルノーがこの研究所の開始の祝辞を述べたのに対して、パストゥールはつつましい言葉をもって、「この研究所の仕事こそは世界のすべての人々の幸福のためになされるものでなければなりません」と答えたということです。
この時から今日までこの研究所にはすぐれた学者が集まってすばらしい研究を行いつづけています。
これもパストゥールの偉大な仕事のおかげであるといわなければなりません。
また一八九二年には、彼の七十歳の祝賀の式がソルボンヌ大学で盛大に行われましたが、これこそパリの歴史のなかで最も美しい一ページをなすものだと評価されたとのことです。
そして一八九五年の九月二十八日に病が重なってこの偉大な大学者はついにこの世を去りました。
フランスでは彼を尊重して、ノートルダムの聖堂で国葬を行ってこの上もない哀惜の念を表したのでした。
なおフランスの国民がどれほど彼を尊敬しているかということについては、パリのある新聞社でフランスの偉人投票を行った際に、パストゥールに集まった投票の数があの名だかいナポレオンが千票入ったとすればはるかにとび超えて三千票位の絶対的な第一位を占めたということでもよくわかるのです。
そしてこの事はまた国民が学問を尊重する念の強いことを示す点で、フランスの一つの特質をも示していると見てよいのでしょう。 | パリのある新聞社でフランスの偉人投票を行った際に、より票が入った人物を教えてください。 | パリのある新聞社でフランスの偉人投票を行った際に、より票が入った人物はパストゥールで三千票です。 |
JCRRAG_018263 | 歴史 | 南北戦争とは
争った期間
1861年4月12日〜1865年4月9日
争った勢力
アメリカ合衆国(北部)
指揮官エイブラハム・リンカーン(アメリカ合衆国の大統領)
アメリカ連合国(南部)
ジェファーソン・デイヴィス(アメリカ連合国の大統領)
アメリカ連合国とは
1861年から1865年までにアメリカ南部地域の州で形成されていた国家。奴隷制度に反対していたリンカーン大統領の当選を機にアメリカ合衆国から分離する形で成立した。
ジェファーソンが大統領となったが、南北戦争で北部のアメリカ合衆国が勝利したため、大統領もアメリカ連合国も1865年に消滅している。
南北戦争をわかりやすく説明すると…
南北戦争とは、1861年から1865年にかけて起こったアメリカの内戦です。きっかけは、国の貿易制度と奴隷制度を巡ってアメリカの南部と北部が対立したことにあります。
農業経済を維持したい南部は自由貿易と奴隷制度の存続を望み、商工業による工業経済を進めたい北部は保護貿易と奴隷制度の廃止を望んでいました。
多くの死傷者を出しながらも、最終的にはリンカーン大統領率いる北部側が勝利。黒人奴隷たちは解放され、アメリカは更なる工業発展を遂げて大国へと成長したのです。
*自由貿易と保護貿易
・自由貿易
国家が輸出入に対して関税などの規制をしない貿易。
・保護貿易
国内産業の発展を促すために保護関税などを課す貿易。 | 南北戦争における、アメリカ合衆国とアメリカ連合国の指揮官の違いを教えてください。 | アメリカ合衆国の指揮官は、アメリカ合衆国の大統領であるエイブラハム・リンカーンです。
一方、アメリカ連合国の指揮官は、アメリカ連合国の大統領であるジェファーソン・デイヴィスです。 |
JCRRAG_018264 | 歴史 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、董卓である。
地方官としての働き
暴君といわれる董卓も、もとは悪い人間ではなかったようです。董卓の地方官として働きについて振り返ります。
郡の役人になり力量を発揮
董卓は涼州隴西郡臨洮県の出身で、腕力が強く武芸に秀でていたといわれています。若いころは男伊達で、羌族など異民族の土地を放浪して有力者たちと交流しました。のちに故郷で畑作業に従事しますが、有力者たちが訪問すると農耕用の牛を殺して宴会でもてなし感激させたといいます。その後、董卓は郡の役人になり、盗賊を取り締まったり、胡(北方・西方民族)を討伐したりと力量を発揮。これらの活躍により中央の役所に推挙されました。
羌族との戦いで圧勝する
延熹9年(166)六郡の良家の子弟から郎を選ぶことになり、董卓は羽林騎に就任します。この職は天子の身辺を守る名誉職で、洛陽の大学で学んだ文武両道の人が就任していました。そのため董卓も賢い人物だったといえるでしょう。董卓は張奐率いる并州征伐軍に司馬として従い大勝します。この功績により絹9000匹を賜りましたが、すべて部下に分け与えました。董卓は配下の兵から感謝され、その後も累進して并州刺史・河東太守などを歴任しました。
中郎将として涼州で活躍
光和7年(184)3月、宗教組織・太平道の蜂起により黄巾の乱が勃発します。中郎将に昇進した董卓は討伐に向かい、太平道の創始者・張角と戦うも敗退し罷免されました。翌年、辺章と韓遂が「宦官誅殺」を掲げて反乱を起こすと再び中郎将に任命され、左車騎将軍・皇甫嵩(こうほすう)の副将として討伐にあたります。董卓は反乱を鎮め辺章と韓遂を追撃。この戦いで後漢軍のほとんどは敗北しましたが、董卓軍は大きな損害を受けませんでした。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、何を歴任したか。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、その後も累進して并州刺史・河東太守などを歴任した。 |
JCRRAG_018265 | 歴史 | パストゥールの学問上の仕事は非常にたくさんあって、ここでそれを一々こまかくお話ししているわけにはゆきませんが、ごく大体をいえば微生物に関する研究と、それで起される病気からの免疫の方法を明らかにしたことであります。
まず微生物が自然に発生するものではないということに対しては、たとえ空気があっても、それが完全にきれいであれば微生物が決して発生しないということを、実験で示しました。
普通の空気のなかにはどこにでも腐敗をおこさせる細菌がいるのですが、場所によってはそれの少ない処もあるので、人家から離れたへんぴな場所や高い山の上ではそうであることを実験で示しました。
そして高さ千メートルの山よりも、三千メートルもあるモンブランの山の頂きでは腐敗がほとんど起らないことも確かめました。
またこの実験に続いて、酒類を醗酵させる働きがすべて微生物によること、しかもその際にも微生物にいろいろの種類があって、その働きのめいめいちがうことなどを明らかにしました。
これらの研究で腐敗とか醗酵とかのはたらきがすべて微生物によって起されることが確かになったので、これは学問の上で大きな功績の一つであります。またパストゥールは、このような醗酵がいつもある温度の範囲のなかでのみ起こることを示したので、実用の上に意外に大きな効果を挙げるようになったのでした。
それは元来フランスでは葡萄酒の醸造が盛んに行われていて、それが重要な産物となっていたのでしたが、醸造家が時々失敗して腐敗させたり風味をそこなわせることがあって困っていたのに、パストゥールはそれが醗酵菌の作用によることを示し、摂氏五十度ないし六十度の温度に数分間熱しさえすればこの菌を取り除くことのできるのを明らかにしたからです。
それまでは葡萄酒を保存するのに止むを得ずアルコールを混ぜていたのでしたが、それでは値段も高くなり、また健康にも害があったのです。ところがパストゥールの方法で醗酵菌を除いてしまえば、ごく簡単に保存が出来るので、醸造家にはこの上もなく都合よくなり、以来この方法はパストゥーリゼーションと呼ばれて広く行われるようになりました。
またこの頃フランスには蚕にペブラン病と名づけられた一種の病気が流行し出してだんだんに全国にひろがってそのおかげで養蚕業がまるでみじめな有様になり、ある地方では桑を植えることもやめてしまったので、土地も荒れ果てるほどになりました。
それで政府ではこの対策を講ずる必要に迫られ、パストゥールにその病気の研究を依嘱したので、彼はそれから五年間いろいろな苦心を重ねてこれをしらべた末に、ついに蚕から出る蛾のからだのなかに病原となる微生物のあるのを見つけ出し、その後この病気の予防法をも明らかにしました。このおかげでフランスの養蚕業も以前のように回復して再び盛んになったのは、フランスの産業に対する大きな貢献であったといわなければなりませんが、それと共に学問の上でも、病原体としての微生物を確実にした点ですばらしい功績を示したのでありました。
実際にこの時までは微生物がいろいろな病原になるということもよくわかっていなかったのですから、医者が外科手術を行う場合にも一向に消毒を行わないで平気ですましていたのでしたが、ここで消毒の必要であることもわかり、そこで消毒には石炭酸をつかえばよいということをイギリスの外科医ジョセフ・リスターが見つけ出しました。これは一八六七年のことでしたが、その後数年経って普仏戦争が起こったので、そのおりの負傷者の手当にはそれが非常に役立ったのでした。 | パストゥールは葡萄酒の腐敗や風味をそこなわせることが醗酵菌の作用によることを示し、数分間熱した際の温度のうち、より高い温度を教えてください。 | パストゥールは葡萄酒の腐敗や風味をそこなわせることが醗酵菌の作用によることを示し、数分間熱した際の温度のうち、より高い温度は六十度です。 |
JCRRAG_018266 | 歴史 | 南北戦争とは
争った期間
1861年4月12日〜1865年4月9日
争った勢力
アメリカ合衆国(北部)
指揮官エイブラハム・リンカーン(アメリカ合衆国の大統領)
アメリカ連合国(南部)
ジェファーソン・デイヴィス(アメリカ連合国の大統領)
アメリカ連合国とは
1861年から1865年までにアメリカ南部地域の州で形成されていた国家。奴隷制度に反対していたリンカーン大統領の当選を機にアメリカ合衆国から分離する形で成立した。
ジェファーソンが大統領となったが、南北戦争で北部のアメリカ合衆国が勝利したため、大統領もアメリカ連合国も1865年に消滅している。
南北戦争をわかりやすく説明すると…
南北戦争とは、1861年から1865年にかけて起こったアメリカの内戦です。きっかけは、国の貿易制度と奴隷制度を巡ってアメリカの南部と北部が対立したことにあります。
農業経済を維持したい南部は自由貿易と奴隷制度の存続を望み、商工業による工業経済を進めたい北部は保護貿易と奴隷制度の廃止を望んでいました。
多くの死傷者を出しながらも、最終的にはリンカーン大統領率いる北部側が勝利。黒人奴隷たちは解放され、アメリカは更なる工業発展を遂げて大国へと成長したのです。
*自由貿易と保護貿易
・自由貿易
国家が輸出入に対して関税などの規制をしない貿易。
・保護貿易
国内産業の発展を促すために保護関税などを課す貿易。 | 自由貿易と保護貿易の違いを教えてください。 | 自由貿易とは、国家が輸出入に対して関税などの規制をしない貿易のことを指します。
一方、保護貿易は、国内産業の発展を促すために保護関税などを課す貿易のことを指します。 |
JCRRAG_018267 | 歴史 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、董卓である。
地方官としての働き
暴君といわれる董卓も、もとは悪い人間ではなかったようです。董卓の地方官として働きについて振り返ります。
郡の役人になり力量を発揮
董卓は涼州隴西郡臨洮県の出身で、腕力が強く武芸に秀でていたといわれています。若いころは男伊達で、羌族など異民族の土地を放浪して有力者たちと交流しました。のちに故郷で畑作業に従事しますが、有力者たちが訪問すると農耕用の牛を殺して宴会でもてなし感激させたといいます。その後、董卓は郡の役人になり、盗賊を取り締まったり、胡(北方・西方民族)を討伐したりと力量を発揮。これらの活躍により中央の役所に推挙されました。
羌族との戦いで圧勝する
延熹9年(166)六郡の良家の子弟から郎を選ぶことになり、董卓は羽林騎に就任します。この職は天子の身辺を守る名誉職で、洛陽の大学で学んだ文武両道の人が就任していました。そのため董卓も賢い人物だったといえるでしょう。董卓は張奐率いる并州征伐軍に司馬として従い大勝します。この功績により絹9000匹を賜りましたが、すべて部下に分け与えました。董卓は配下の兵から感謝され、その後も累進して并州刺史・河東太守などを歴任しました。
中郎将として涼州で活躍
光和7年(184)3月、宗教組織・太平道の蜂起により黄巾の乱が勃発します。中郎将に昇進した董卓は討伐に向かい、太平道の創始者・張角と戦うも敗退し罷免されました。翌年、辺章と韓遂が「宦官誅殺」を掲げて反乱を起こすと再び中郎将に任命され、左車騎将軍・皇甫嵩(こうほすう)の副将として討伐にあたります。董卓は反乱を鎮め辺章と韓遂を追撃。この戦いで後漢軍のほとんどは敗北しましたが、董卓軍は大きな損害を受けませんでした。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、誰と戦うも敗退し罷免されたか。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、討伐に向かい、太平道の創始者・張角と戦うも敗退し罷免された。 |
JCRRAG_018268 | 歴史 | パストゥールの学問上の仕事は非常にたくさんあって、ここでそれを一々こまかくお話ししているわけにはゆきませんが、ごく大体をいえば微生物に関する研究と、それで起される病気からの免疫の方法を明らかにしたことであります。
まず微生物が自然に発生するものではないということに対しては、たとえ空気があっても、それが完全にきれいであれば微生物が決して発生しないということを、実験で示しました。
普通の空気のなかにはどこにでも腐敗をおこさせる細菌がいるのですが、場所によってはそれの少ない処もあるので、人家から離れたへんぴな場所や高い山の上ではそうであることを実験で示しました。
そして高さ千メートルの山よりも、三千メートルもあるモンブランの山の頂きでは腐敗がほとんど起らないことも確かめました。
またこの実験に続いて、酒類を醗酵させる働きがすべて微生物によること、しかもその際にも微生物にいろいろの種類があって、その働きのめいめいちがうことなどを明らかにしました。
これらの研究で腐敗とか醗酵とかのはたらきがすべて微生物によって起されることが確かになったので、これは学問の上で大きな功績の一つであります。またパストゥールは、このような醗酵がいつもある温度の範囲のなかでのみ起こることを示したので、実用の上に意外に大きな効果を挙げるようになったのでした。
それは元来フランスでは葡萄酒の醸造が盛んに行われていて、それが重要な産物となっていたのでしたが、醸造家が時々失敗して腐敗させたり風味をそこなわせることがあって困っていたのに、パストゥールはそれが醗酵菌の作用によることを示し、摂氏五十度ないし六十度の温度に数分間熱しさえすればこの菌を取り除くことのできるのを明らかにしたからです。
それまでは葡萄酒を保存するのに止むを得ずアルコールを混ぜていたのでしたが、それでは値段も高くなり、また健康にも害があったのです。ところがパストゥールの方法で醗酵菌を除いてしまえば、ごく簡単に保存が出来るので、醸造家にはこの上もなく都合よくなり、以来この方法はパストゥーリゼーションと呼ばれて広く行われるようになりました。
またこの頃フランスには蚕にペブラン病と名づけられた一種の病気が流行し出してだんだんに全国にひろがってそのおかげで養蚕業がまるでみじめな有様になり、ある地方では桑を植えることもやめてしまったので、土地も荒れ果てるほどになりました。
それで政府ではこの対策を講ずる必要に迫られ、パストゥールにその病気の研究を依嘱したので、彼はそれから五年間いろいろな苦心を重ねてこれをしらべた末に、ついに蚕から出る蛾のからだのなかに病原となる微生物のあるのを見つけ出し、その後この病気の予防法をも明らかにしました。このおかげでフランスの養蚕業も以前のように回復して再び盛んになったのは、フランスの産業に対する大きな貢献であったといわなければなりませんが、それと共に学問の上でも、病原体としての微生物を確実にした点ですばらしい功績を示したのでありました。
実際にこの時までは微生物がいろいろな病原になるということもよくわかっていなかったのですから、医者が外科手術を行う場合にも一向に消毒を行わないで平気ですましていたのでしたが、ここで消毒の必要であることもわかり、そこで消毒には石炭酸をつかえばよいということをイギリスの外科医ジョセフ・リスターが見つけ出しました。これは一八六七年のことでしたが、その後数年経って普仏戦争が起こったので、そのおりの負傷者の手当にはそれが非常に役立ったのでした。 | パストゥールは葡萄酒の腐敗や風味をそこなわせることが醗酵菌の作用によることを示し、数分間熱した際の温度のうち、より低い温度を教えてください。 | パストゥールは葡萄酒の腐敗や風味をそこなわせることが醗酵菌の作用によることを示し、数分間熱した際の温度のうち、より低い温度は五十度です。 |
JCRRAG_018269 | 歴史 | 南部と北部の違い
〇南部
経済体制:プランテーション農業によるモノカルチャー経済
貿易体制:自由貿易
奴隷制度に対する見解:賛成
連邦制度に対する見解:反対(分離的な独立を目指す)
北部
経済体制:商工業を中心とした資本主義経済
貿易体制:保護貿易
奴隷制度に対する見解:反対
連邦制度に対する見解:賛成(国家の統一を目指す)
南北戦争当時のアメリカ南部とアメリカ北部には、政治から経済にいたるまで様々な違いが見受けられます。
南部では綿花を栽培する農業が経済の中心であり、関税を必要としない自由貿易による綿花の輸出で社会が成り立っていました。特に、当時はイギリスの産業革命が加速しており、綿工業の原材料である綿花は主要な輸出品だったのです。そして、綿花農園の労働力は大半が黒人奴隷だったため、南部は奴隷制度を強く支持しました。
一方で北部は産業革命ならび米英戦争の影響を受けて、アメリカ国内における工業化が急速に拡大。商工業を発展するために保護貿易を促し、奴隷制度ではなく賃金労働体制を支持します。そして、奴隷制度を禁じた州「自由州」までも作り上げていきました。
農業と工業、自由貿易と保護貿易、奴隷と非奴隷。あらゆる点において違いが浮き彫りとなった南北は、内戦の一途を辿るほかなかったのでしょう。 | 南部と北部の経済体制の違いを教えてください。 | 南部の経済体制は、プランテーション農業によるモノカルチャー経済です。
一方、北部の経済体制は商工業を中心とした資本主義経済です。 |
JCRRAG_018270 | 歴史 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、董卓である。
朝廷の命に逆らい、軍を率い続ける
中平5年(188)韓遂らに備えて軍を駐屯し続けた董卓は前将軍に任命されます。そのころ漢陽郡の王国が挙兵し、韓遂らと合流して勢力を拡大していました。董卓は皇甫嵩とともに討伐に向かいますが、二人の意見は割れ、結果的に皇甫嵩が勝利をおさめて功績をものにします。『皇甫嵩伝』によれば、董卓の作戦は的を射ていないと言われる始末だったようです。その後、董卓は軍を手放して帰還するよう2度も命じられますが、ことごとく拒否して駐屯し続けました。『董卓伝』などによれば、これは時勢をうかがっていたからのようです。
権力を手にした董卓
中平6年(189)4月、霊帝が崩御し少帝が即位します。董卓は軍事力によって昇進を重ね、大きな権力を手にしました。
少帝と陳留王を救出する
霊帝没後、少帝と縁戚関係にある大将軍・何進は、司隷校尉・袁紹らとともに十常侍ら宦官の一掃をもくろみます。何進は地方の軍事指揮官を召集し、それに応じた董卓は首都・洛陽を攻めました。何進は宦官の反撃により殺され、袁紹らは宮中で宦官たちを誅殺していきます。そんななか、宦官の一人が少帝とその弟・陳留王(劉協)を連れ去る事件が起きました。董卓はこの宦官を追撃して少帝と陳留王を救出し、洛陽に帰還します。
政権掌握し、献帝を皇帝に
皇太子を手に入れた董卓は、軍事力で政権を手に入れるべく何進ら殺された有力者の軍勢を取り込みます。また、董卓と同じく何進に召集された丁原(ていげん)の軍も取り込もうと、丁原の暗殺を企てました。董卓は武勇に優れる丁原の部下・呂布を調略し、彼に丁原を殺害させ父子の契りを結びます。こうして強大な戦力を手に入れた董卓は、洛陽で唯一軍事力を持つ存在となりました。董卓は袁紹らを封じ込め、少帝を廃して弘農王に、陳留王を皇帝(献帝)に即位させます。また、少帝の生母・何太后の権力を剥奪し、幽閉して殺害。董卓は権力をほしいままにしたのです。
極悪非道の限りを尽くす!
永漢元年(189)9月、董卓は太尉となり、次いで相国(宰相)に就任しました。廷臣の最高位にまで上り詰めた董卓は、洛陽の富豪の邸宅を襲って金品を強奪したり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、毎夜女官を凌辱したりと暴虐の限りを尽くします。また、故人の棺を暴いて死体を解体し道端に投げすてたり、自分の前で剣を帯びたままだった者を撲殺したりもしました。政権については名士として名高い人物を登用し、能力のない者や不正を働いた者を糾弾。董卓に反発して洛陽から逃げた袁紹については、地位を与え懐柔を図りました。
袁紹・袁術ら反董卓連合軍との対立
初平元年(190)董卓の専横に対し、袁紹・袁術を盟主とする反董卓連合が結成されます。董卓は袁氏一門を誅殺して弘農王を毒殺。強制的に長安に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を奪い、宮殿や民家を焼きはらいました。このとき、袁紹らとの融和策をとっていた者も殺害されています。周囲の反対を押し切って遷都した董卓でしたが、自らは洛陽郊外に駐屯し反董卓連合軍を迎え撃ちました。しかし、初平2年(191)呂布らが率いる董卓軍が孫堅との戦いで大敗。そのため董卓は洛陽を焼き払い長安へと撤退しました。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、誰を皇帝に即位させたか。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、陳留王を皇帝(献帝)に即位させた。 |
JCRRAG_018271 | 歴史 | パストゥールはこれに続いていろいろな伝染病の予防の方法を熱心に研究しましたが、それには結局免疫という事実を利用するのが最も適切であることを見つけ出しました。
免疫というのは、かなり古くから知られている事実で、例えば天然痘にかかった人が癒えてしまうと、今度は二度とかかることがめったにないというのは、それであります。
それでずいぶん昔からインドや中国では、天然痘にかかった人の膿汁をとってそれを傷口に入れて免疫するという方法が行われていたということで、それが十七世紀頃にヨーロッパにも伝えられましたが、十八世紀の末にイギリスのエドワード・ジェンナーという医者がこれを応用してついに種痘法の効力のあることを見つけ出しました。
これは天然痘にかかった牛からその病菌を含んだ痘苗というものをつくり、それを人間に植えつける方法なのです。
このおかげで天然痘に対する免疫が広く行われるようになり、その流行も大いに減るようになったのでしたが、パストゥールはこれをいろいろな病気に応用しようとして、研究を進めたのでした。
ちょうど一八七九年の頃のことでした。アメリカで鶏コレラと豚の感染症がひどく流行して、非常な損害を生じました。
場所によっては鶏コレラで一日に一万、あるいは二万羽死んでしまうような事態になりました。
豚の感染症も場所によっては日に五千、大きな飼育場が集まった所では一万二千も死んでしまうようになりました。
パストゥールはたくさんの実験を行って、まずそれらの病原体を見つけ出し、それから予防法をも考え出してそれに成功したのでした。
ことに脾脱疽病という家畜の病気のおかげでフランスでも羊や牝牛がたおれることが多かったので、その予防接種の方法をパストゥールが完成したことは、羊毛の生産や牛の増産の上にも非常に役立ったのでした。
これは一八八一年のことで、パストゥールは多くの人々の眼前でその実地試験を行い、効果の著しいことについて人々を驚かしました。
パストゥールは、その外にビールの変質を防ぐ方法をも見つけ出したり、その他のいろいろな研究にも成功しましたが、全人類のために貢献した彼の最大の仕事といわれているのは、恐水病の病毒を発見し、そしてその予防法を考案してそれに成功したことであります。
恐水病というのは、狂犬に噛まれた際におこる恐ろしい病気で、これを救う治療法はそれまで全くなかったのでしたが、パストゥールの熱心な研究の結果としてそれが見つけ出されたということは、じつに特筆するに足りることなのでありました。
もっともパストゥールはこの予防法を考え出したときに、動物試験にはほぼ成功したものの、それでもこれを人間に施して果して危険がないかどうかが最初はわからないのでしたから、実際に使用するのには少からず躊躇しました。
ところが一八八五年の夏近くなった頃、アルサスの小さな町から狂犬に咬かまれたという九歳の子供が母親に伴なわれてパリに出て来て、その母親からパストゥールに治療を懇願したという偶然の機会がめぐって来ました。
それでもパストゥールは危険を恐れて大いにためらいましたが、ついに同情の念に動かされてその治療を試みることに決心し、予防接種を行いました。しかしその結果がわかるまでは心配してひどくなやみ続け、もしこれがうまくゆかなかったら、一人の子供の生命がうしなわれるのだと思うと、とても平静な気分ではいられなくなり、幾日も幾日も眠れない夜が続いたということでした。
ところが四十日程も経ってその療法がまず成功を収めたということが確かになって来ましたので、これで彼の心の中がどれほど明るくなったことでしたでしょう。
その後この子供の病気が完全になおったので、彼は始めて安心して、よろこんだのでした。
実際にこの予防法によって今までは全く治療の方法のなかった恐水病が癒やされるようになったということは、医学の歴史の上でいかにも輝かしい出来事であるといってよいのです。パストゥールのたくさんの研究のおかげでことに恐ろしい病気に対する医療の方法が進んで来たということを思うと、さすがに学問の尊さをたたえなければならないでしょう。" | 一八七九年の頃にアメリカで発生した鶏コレラによって、一日でより死んでしまった鶏の数を教えてください。 | 一八七九年の頃にアメリカで発生した鶏コレラによって、一日でより死んでしまった鶏の数は二万羽です。 |
JCRRAG_018272 | 歴史 | 南部と北部の違い
〇南部
経済体制:プランテーション農業によるモノカルチャー経済
貿易体制:自由貿易
奴隷制度に対する見解:賛成
連邦制度に対する見解:反対(分離的な独立を目指す)
北部
経済体制:商工業を中心とした資本主義経済
貿易体制:保護貿易
奴隷制度に対する見解:反対
連邦制度に対する見解:賛成(国家の統一を目指す)
南北戦争当時のアメリカ南部とアメリカ北部には、政治から経済にいたるまで様々な違いが見受けられます。
南部では綿花を栽培する農業が経済の中心であり、関税を必要としない自由貿易による綿花の輸出で社会が成り立っていました。特に、当時はイギリスの産業革命が加速しており、綿工業の原材料である綿花は主要な輸出品だったのです。そして、綿花農園の労働力は大半が黒人奴隷だったため、南部は奴隷制度を強く支持しました。
一方で北部は産業革命ならび米英戦争の影響を受けて、アメリカ国内における工業化が急速に拡大。商工業を発展するために保護貿易を促し、奴隷制度ではなく賃金労働体制を支持します。そして、奴隷制度を禁じた州「自由州」までも作り上げていきました。
農業と工業、自由貿易と保護貿易、奴隷と非奴隷。あらゆる点において違いが浮き彫りとなった南北は、内戦の一途を辿るほかなかったのでしょう。 | 南部と北部の貿易体制の違いを教えてください。 | 南部の貿易体制は、関税を必要としない自由貿易です。
一方、北部の貿易体制は商工業を発展するために保護貿易となっています。 |
JCRRAG_018273 | 歴史 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、董卓である。
朝廷の命に逆らい、軍を率い続ける
中平5年(188)韓遂らに備えて軍を駐屯し続けた董卓は前将軍に任命されます。そのころ漢陽郡の王国が挙兵し、韓遂らと合流して勢力を拡大していました。董卓は皇甫嵩とともに討伐に向かいますが、二人の意見は割れ、結果的に皇甫嵩が勝利をおさめて功績をものにします。『皇甫嵩伝』によれば、董卓の作戦は的を射ていないと言われる始末だったようです。その後、董卓は軍を手放して帰還するよう2度も命じられますが、ことごとく拒否して駐屯し続けました。『董卓伝』などによれば、これは時勢をうかがっていたからのようです。
権力を手にした董卓
中平6年(189)4月、霊帝が崩御し少帝が即位します。董卓は軍事力によって昇進を重ね、大きな権力を手にしました。
少帝と陳留王を救出する
霊帝没後、少帝と縁戚関係にある大将軍・何進は、司隷校尉・袁紹らとともに十常侍ら宦官の一掃をもくろみます。何進は地方の軍事指揮官を召集し、それに応じた董卓は首都・洛陽を攻めました。何進は宦官の反撃により殺され、袁紹らは宮中で宦官たちを誅殺していきます。そんななか、宦官の一人が少帝とその弟・陳留王(劉協)を連れ去る事件が起きました。董卓はこの宦官を追撃して少帝と陳留王を救出し、洛陽に帰還します。
政権掌握し、献帝を皇帝に
皇太子を手に入れた董卓は、軍事力で政権を手に入れるべく何進ら殺された有力者の軍勢を取り込みます。また、董卓と同じく何進に召集された丁原(ていげん)の軍も取り込もうと、丁原の暗殺を企てました。董卓は武勇に優れる丁原の部下・呂布を調略し、彼に丁原を殺害させ父子の契りを結びます。こうして強大な戦力を手に入れた董卓は、洛陽で唯一軍事力を持つ存在となりました。董卓は袁紹らを封じ込め、少帝を廃して弘農王に、陳留王を皇帝(献帝)に即位させます。また、少帝の生母・何太后の権力を剥奪し、幽閉して殺害。董卓は権力をほしいままにしたのです。
極悪非道の限りを尽くす!
永漢元年(189)9月、董卓は太尉となり、次いで相国(宰相)に就任しました。廷臣の最高位にまで上り詰めた董卓は、洛陽の富豪の邸宅を襲って金品を強奪したり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、毎夜女官を凌辱したりと暴虐の限りを尽くします。また、故人の棺を暴いて死体を解体し道端に投げすてたり、自分の前で剣を帯びたままだった者を撲殺したりもしました。政権については名士として名高い人物を登用し、能力のない者や不正を働いた者を糾弾。董卓に反発して洛陽から逃げた袁紹については、地位を与え懐柔を図りました。
袁紹・袁術ら反董卓連合軍との対立
初平元年(190)董卓の専横に対し、袁紹・袁術を盟主とする反董卓連合が結成されます。董卓は袁氏一門を誅殺して弘農王を毒殺。強制的に長安に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を奪い、宮殿や民家を焼きはらいました。このとき、袁紹らとの融和策をとっていた者も殺害されています。周囲の反対を押し切って遷都した董卓でしたが、自らは洛陽郊外に駐屯し反董卓連合軍を迎え撃ちました。しかし、初平2年(191)呂布らが率いる董卓軍が孫堅との戦いで大敗。そのため董卓は洛陽を焼き払い長安へと撤退しました。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、誰を幽閉して殺害したか。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、少帝の生母・何太后の権力を剥奪し、幽閉して殺害した。 |
JCRRAG_018274 | 歴史 | パストゥールはこれに続いていろいろな伝染病の予防の方法を熱心に研究しましたが、それには結局免疫という事実を利用するのが最も適切であることを見つけ出しました。
免疫というのは、かなり古くから知られている事実で、例えば天然痘にかかった人が癒えてしまうと、今度は二度とかかることがめったにないというのは、それであります。
それでずいぶん昔からインドや中国では、天然痘にかかった人の膿汁をとってそれを傷口に入れて免疫するという方法が行われていたということで、それが十七世紀頃にヨーロッパにも伝えられましたが、十八世紀の末にイギリスのエドワード・ジェンナーという医者がこれを応用してついに種痘法の効力のあることを見つけ出しました。
これは天然痘にかかった牛からその病菌を含んだ痘苗というものをつくり、それを人間に植えつける方法なのです。
このおかげで天然痘に対する免疫が広く行われるようになり、その流行も大いに減るようになったのでしたが、パストゥールはこれをいろいろな病気に応用しようとして、研究を進めたのでした。
ちょうど一八七九年の頃のことでした。アメリカで鶏コレラと豚の感染症がひどく流行して、非常な損害を生じました。
場所によっては鶏コレラで一日に一万、あるいは二万羽死んでしまうような事態になりました。
豚の感染症も場所によっては日に五千、大きな飼育場が集まった所では一万二千も死んでしまうようになりました。
パストゥールはたくさんの実験を行って、まずそれらの病原体を見つけ出し、それから予防法をも考え出してそれに成功したのでした。
ことに脾脱疽病という家畜の病気のおかげでフランスでも羊や牝牛がたおれることが多かったので、その予防接種の方法をパストゥールが完成したことは、羊毛の生産や牛の増産の上にも非常に役立ったのでした。
これは一八八一年のことで、パストゥールは多くの人々の眼前でその実地試験を行い、効果の著しいことについて人々を驚かしました。
パストゥールは、その外にビールの変質を防ぐ方法をも見つけ出したり、その他のいろいろな研究にも成功しましたが、全人類のために貢献した彼の最大の仕事といわれているのは、恐水病の病毒を発見し、そしてその予防法を考案してそれに成功したことであります。
恐水病というのは、狂犬に噛まれた際におこる恐ろしい病気で、これを救う治療法はそれまで全くなかったのでしたが、パストゥールの熱心な研究の結果としてそれが見つけ出されたということは、じつに特筆するに足りることなのでありました。
もっともパストゥールはこの予防法を考え出したときに、動物試験にはほぼ成功したものの、それでもこれを人間に施して果して危険がないかどうかが最初はわからないのでしたから、実際に使用するのには少からず躊躇しました。
ところが一八八五年の夏近くなった頃、アルサスの小さな町から狂犬に咬かまれたという九歳の子供が母親に伴なわれてパリに出て来て、その母親からパストゥールに治療を懇願したという偶然の機会がめぐって来ました。
それでもパストゥールは危険を恐れて大いにためらいましたが、ついに同情の念に動かされてその治療を試みることに決心し、予防接種を行いました。しかしその結果がわかるまでは心配してひどくなやみ続け、もしこれがうまくゆかなかったら、一人の子供の生命がうしなわれるのだと思うと、とても平静な気分ではいられなくなり、幾日も幾日も眠れない夜が続いたということでした。
ところが四十日程も経ってその療法がまず成功を収めたということが確かになって来ましたので、これで彼の心の中がどれほど明るくなったことでしたでしょう。
その後この子供の病気が完全になおったので、彼は始めて安心して、よろこんだのでした。
実際にこの予防法によって今までは全く治療の方法のなかった恐水病が癒やされるようになったということは、医学の歴史の上でいかにも輝かしい出来事であるといってよいのです。パストゥールのたくさんの研究のおかげでことに恐ろしい病気に対する医療の方法が進んで来たということを思うと、さすがに学問の尊さをたたえなければならないでしょう。" | 一八七九年の頃にアメリカで発生した鶏コレラによって、一日で死んでしまった鶏の数のうち、より少ない数を教えてください。 | 一八七九年の頃にアメリカで発生した鶏コレラによって、一日で死んでしまった鶏の数のうち、より少ない数は一万羽です。 |
JCRRAG_018275 | 歴史 | 南部と北部の違い
〇南部
経済体制:プランテーション農業によるモノカルチャー経済
貿易体制:自由貿易
奴隷制度に対する見解:賛成
連邦制度に対する見解:反対(分離的な独立を目指す)
北部
経済体制:商工業を中心とした資本主義経済
貿易体制:保護貿易
奴隷制度に対する見解:反対
連邦制度に対する見解:賛成(国家の統一を目指す)
南北戦争当時のアメリカ南部とアメリカ北部には、政治から経済にいたるまで様々な違いが見受けられます。
南部では綿花を栽培する農業が経済の中心であり、関税を必要としない自由貿易による綿花の輸出で社会が成り立っていました。特に、当時はイギリスの産業革命が加速しており、綿工業の原材料である綿花は主要な輸出品だったのです。そして、綿花農園の労働力は大半が黒人奴隷だったため、南部は奴隷制度を強く支持しました。
一方で北部は産業革命ならび米英戦争の影響を受けて、アメリカ国内における工業化が急速に拡大。商工業を発展するために保護貿易を促し、奴隷制度ではなく賃金労働体制を支持します。そして、奴隷制度を禁じた州「自由州」までも作り上げていきました。
農業と工業、自由貿易と保護貿易、奴隷と非奴隷。あらゆる点において違いが浮き彫りとなった南北は、内戦の一途を辿るほかなかったのでしょう。 | 南部と北部の奴隷制度に対する見解の違いを教えてください。 | 南部は、奴隷制度に賛成し、強く支持しました。綿花農園の労働力は大半が黒人奴隷だったためです。一方、北部は奴隷制度に反対し、奴隷制度ではなく賃金労働体制を支持ししています。 |
JCRRAG_018276 | 歴史 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、董卓である。
朝廷の命に逆らい、軍を率い続ける
中平5年(188)韓遂らに備えて軍を駐屯し続けた董卓は前将軍に任命されます。そのころ漢陽郡の王国が挙兵し、韓遂らと合流して勢力を拡大していました。董卓は皇甫嵩とともに討伐に向かいますが、二人の意見は割れ、結果的に皇甫嵩が勝利をおさめて功績をものにします。『皇甫嵩伝』によれば、董卓の作戦は的を射ていないと言われる始末だったようです。その後、董卓は軍を手放して帰還するよう2度も命じられますが、ことごとく拒否して駐屯し続けました。『董卓伝』などによれば、これは時勢をうかがっていたからのようです。
権力を手にした董卓
中平6年(189)4月、霊帝が崩御し少帝が即位します。董卓は軍事力によって昇進を重ね、大きな権力を手にしました。
少帝と陳留王を救出する
霊帝没後、少帝と縁戚関係にある大将軍・何進は、司隷校尉・袁紹らとともに十常侍ら宦官の一掃をもくろみます。何進は地方の軍事指揮官を召集し、それに応じた董卓は首都・洛陽を攻めました。何進は宦官の反撃により殺され、袁紹らは宮中で宦官たちを誅殺していきます。そんななか、宦官の一人が少帝とその弟・陳留王(劉協)を連れ去る事件が起きました。董卓はこの宦官を追撃して少帝と陳留王を救出し、洛陽に帰還します。
政権掌握し、献帝を皇帝に
皇太子を手に入れた董卓は、軍事力で政権を手に入れるべく何進ら殺された有力者の軍勢を取り込みます。また、董卓と同じく何進に召集された丁原(ていげん)の軍も取り込もうと、丁原の暗殺を企てました。董卓は武勇に優れる丁原の部下・呂布を調略し、彼に丁原を殺害させ父子の契りを結びます。こうして強大な戦力を手に入れた董卓は、洛陽で唯一軍事力を持つ存在となりました。董卓は袁紹らを封じ込め、少帝を廃して弘農王に、陳留王を皇帝(献帝)に即位させます。また、少帝の生母・何太后の権力を剥奪し、幽閉して殺害。董卓は権力をほしいままにしたのです。
極悪非道の限りを尽くす!
永漢元年(189)9月、董卓は太尉となり、次いで相国(宰相)に就任しました。廷臣の最高位にまで上り詰めた董卓は、洛陽の富豪の邸宅を襲って金品を強奪したり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、毎夜女官を凌辱したりと暴虐の限りを尽くします。また、故人の棺を暴いて死体を解体し道端に投げすてたり、自分の前で剣を帯びたままだった者を撲殺したりもしました。政権については名士として名高い人物を登用し、能力のない者や不正を働いた者を糾弾。董卓に反発して洛陽から逃げた袁紹については、地位を与え懐柔を図りました。
袁紹・袁術ら反董卓連合軍との対立
初平元年(190)董卓の専横に対し、袁紹・袁術を盟主とする反董卓連合が結成されます。董卓は袁氏一門を誅殺して弘農王を毒殺。強制的に長安に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を奪い、宮殿や民家を焼きはらいました。このとき、袁紹らとの融和策をとっていた者も殺害されています。周囲の反対を押し切って遷都した董卓でしたが、自らは洛陽郊外に駐屯し反董卓連合軍を迎え撃ちました。しかし、初平2年(191)呂布らが率いる董卓軍が孫堅との戦いで大敗。そのため董卓は洛陽を焼き払い長安へと撤退しました。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、どこに遷都したか。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、強制的に長安に遷都した。 |
JCRRAG_018277 | 歴史 | パストゥールはこれに続いていろいろな伝染病の予防の方法を熱心に研究しましたが、それには結局免疫という事実を利用するのが最も適切であることを見つけ出しました。
免疫というのは、かなり古くから知られている事実で、例えば天然痘にかかった人が癒えてしまうと、今度は二度とかかることがめったにないというのは、それであります。
それでずいぶん昔からインドや中国では、天然痘にかかった人の膿汁をとってそれを傷口に入れて免疫するという方法が行われていたということで、それが十七世紀頃にヨーロッパにも伝えられましたが、十八世紀の末にイギリスのエドワード・ジェンナーという医者がこれを応用してついに種痘法の効力のあることを見つけ出しました。
これは天然痘にかかった牛からその病菌を含んだ痘苗というものをつくり、それを人間に植えつける方法なのです。
このおかげで天然痘に対する免疫が広く行われるようになり、その流行も大いに減るようになったのでしたが、パストゥールはこれをいろいろな病気に応用しようとして、研究を進めたのでした。
ちょうど一八七九年の頃のことでした。アメリカで鶏コレラと豚の感染症がひどく流行して、非常な損害を生じました。
場所によっては鶏コレラで一日に一万、あるいは二万羽死んでしまうような事態になりました。
豚の感染症も場所によっては日に五千、大きな飼育場が集まった所では一万二千も死んでしまうようになりました。
パストゥールはたくさんの実験を行って、まずそれらの病原体を見つけ出し、それから予防法をも考え出してそれに成功したのでした。
ことに脾脱疽病という家畜の病気のおかげでフランスでも羊や牝牛がたおれることが多かったので、その予防接種の方法をパストゥールが完成したことは、羊毛の生産や牛の増産の上にも非常に役立ったのでした。
これは一八八一年のことで、パストゥールは多くの人々の眼前でその実地試験を行い、効果の著しいことについて人々を驚かしました。
パストゥールは、その外にビールの変質を防ぐ方法をも見つけ出したり、その他のいろいろな研究にも成功しましたが、全人類のために貢献した彼の最大の仕事といわれているのは、恐水病の病毒を発見し、そしてその予防法を考案してそれに成功したことであります。
恐水病というのは、狂犬に噛まれた際におこる恐ろしい病気で、これを救う治療法はそれまで全くなかったのでしたが、パストゥールの熱心な研究の結果としてそれが見つけ出されたということは、じつに特筆するに足りることなのでありました。
もっともパストゥールはこの予防法を考え出したときに、動物試験にはほぼ成功したものの、それでもこれを人間に施して果して危険がないかどうかが最初はわからないのでしたから、実際に使用するのには少からず躊躇しました。
ところが一八八五年の夏近くなった頃、アルサスの小さな町から狂犬に咬かまれたという九歳の子供が母親に伴なわれてパリに出て来て、その母親からパストゥールに治療を懇願したという偶然の機会がめぐって来ました。
それでもパストゥールは危険を恐れて大いにためらいましたが、ついに同情の念に動かされてその治療を試みることに決心し、予防接種を行いました。しかしその結果がわかるまでは心配してひどくなやみ続け、もしこれがうまくゆかなかったら、一人の子供の生命がうしなわれるのだと思うと、とても平静な気分ではいられなくなり、幾日も幾日も眠れない夜が続いたということでした。
ところが四十日程も経ってその療法がまず成功を収めたということが確かになって来ましたので、これで彼の心の中がどれほど明るくなったことでしたでしょう。
その後この子供の病気が完全になおったので、彼は始めて安心して、よろこんだのでした。
実際にこの予防法によって今までは全く治療の方法のなかった恐水病が癒やされるようになったということは、医学の歴史の上でいかにも輝かしい出来事であるといってよいのです。パストゥールのたくさんの研究のおかげでことに恐ろしい病気に対する医療の方法が進んで来たということを思うと、さすがに学問の尊さをたたえなければならないでしょう。" | 一八七九年の頃にアメリカで発生した豚の感染症によって、一日でより多く死んでしまった豚の数を教えてください。 | 一八七九年の頃にアメリカで発生した豚の感染症によって、一日でより多く死んでしまった豚の数は一万二千頭です。 |
JCRRAG_018278 | 歴史 | 南部と北部の違い
〇南部
経済体制:プランテーション農業によるモノカルチャー経済
貿易体制:自由貿易
奴隷制度に対する見解:賛成
連邦制度に対する見解:反対(分離的な独立を目指す)
北部
経済体制:商工業を中心とした資本主義経済
貿易体制:保護貿易
奴隷制度に対する見解:反対
連邦制度に対する見解:賛成(国家の統一を目指す)
南北戦争当時のアメリカ南部とアメリカ北部には、政治から経済にいたるまで様々な違いが見受けられます。
南部では綿花を栽培する農業が経済の中心であり、関税を必要としない自由貿易による綿花の輸出で社会が成り立っていました。特に、当時はイギリスの産業革命が加速しており、綿工業の原材料である綿花は主要な輸出品だったのです。そして、綿花農園の労働力は大半が黒人奴隷だったため、南部は奴隷制度を強く支持しました。
一方で北部は産業革命ならび米英戦争の影響を受けて、アメリカ国内における工業化が急速に拡大。商工業を発展するために保護貿易を促し、奴隷制度ではなく賃金労働体制を支持します。そして、奴隷制度を禁じた州「自由州」までも作り上げていきました。
農業と工業、自由貿易と保護貿易、奴隷と非奴隷。あらゆる点において違いが浮き彫りとなった南北は、内戦の一途を辿るほかなかったのでしょう。 | 南部と北部の連邦制度に対する見解の違いを教えてください。 | 南部の連邦制度に対する見解としては、分離的な独立を目指すために反対の立場にありました。
一方、北部の連邦制度に対する見解は、国家の統一を目指すために賛成の立場にありました。 |
JCRRAG_018279 | 歴史 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、董卓である。
朝廷の命に逆らい、軍を率い続ける
中平5年(188)韓遂らに備えて軍を駐屯し続けた董卓は前将軍に任命されます。そのころ漢陽郡の王国が挙兵し、韓遂らと合流して勢力を拡大していました。董卓は皇甫嵩とともに討伐に向かいますが、二人の意見は割れ、結果的に皇甫嵩が勝利をおさめて功績をものにします。『皇甫嵩伝』によれば、董卓の作戦は的を射ていないと言われる始末だったようです。その後、董卓は軍を手放して帰還するよう2度も命じられますが、ことごとく拒否して駐屯し続けました。『董卓伝』などによれば、これは時勢をうかがっていたからのようです。
権力を手にした董卓
中平6年(189)4月、霊帝が崩御し少帝が即位します。董卓は軍事力によって昇進を重ね、大きな権力を手にしました。
少帝と陳留王を救出する
霊帝没後、少帝と縁戚関係にある大将軍・何進は、司隷校尉・袁紹らとともに十常侍ら宦官の一掃をもくろみます。何進は地方の軍事指揮官を召集し、それに応じた董卓は首都・洛陽を攻めました。何進は宦官の反撃により殺され、袁紹らは宮中で宦官たちを誅殺していきます。そんななか、宦官の一人が少帝とその弟・陳留王(劉協)を連れ去る事件が起きました。董卓はこの宦官を追撃して少帝と陳留王を救出し、洛陽に帰還します。
政権掌握し、献帝を皇帝に
皇太子を手に入れた董卓は、軍事力で政権を手に入れるべく何進ら殺された有力者の軍勢を取り込みます。また、董卓と同じく何進に召集された丁原(ていげん)の軍も取り込もうと、丁原の暗殺を企てました。董卓は武勇に優れる丁原の部下・呂布を調略し、彼に丁原を殺害させ父子の契りを結びます。こうして強大な戦力を手に入れた董卓は、洛陽で唯一軍事力を持つ存在となりました。董卓は袁紹らを封じ込め、少帝を廃して弘農王に、陳留王を皇帝(献帝)に即位させます。また、少帝の生母・何太后の権力を剥奪し、幽閉して殺害。董卓は権力をほしいままにしたのです。
極悪非道の限りを尽くす!
永漢元年(189)9月、董卓は太尉となり、次いで相国(宰相)に就任しました。廷臣の最高位にまで上り詰めた董卓は、洛陽の富豪の邸宅を襲って金品を強奪したり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、毎夜女官を凌辱したりと暴虐の限りを尽くします。また、故人の棺を暴いて死体を解体し道端に投げすてたり、自分の前で剣を帯びたままだった者を撲殺したりもしました。政権については名士として名高い人物を登用し、能力のない者や不正を働いた者を糾弾。董卓に反発して洛陽から逃げた袁紹については、地位を与え懐柔を図りました。
袁紹・袁術ら反董卓連合軍との対立
初平元年(190)董卓の専横に対し、袁紹・袁術を盟主とする反董卓連合が結成されます。董卓は袁氏一門を誅殺して弘農王を毒殺。強制的に長安に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を奪い、宮殿や民家を焼きはらいました。このとき、袁紹らとの融和策をとっていた者も殺害されています。周囲の反対を押し切って遷都した董卓でしたが、自らは洛陽郊外に駐屯し反董卓連合軍を迎え撃ちました。しかし、初平2年(191)呂布らが率いる董卓軍が孫堅との戦いで大敗。そのため董卓は洛陽を焼き払い長安へと撤退しました。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、何によって昇進を重ね、大きな権力を手にしたか。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、軍事力によって昇進を重ね、大きな権力を手にした。 |
JCRRAG_018280 | 歴史 | パストゥールはこれに続いていろいろな伝染病の予防の方法を熱心に研究しましたが、それには結局免疫という事実を利用するのが最も適切であることを見つけ出しました。
免疫というのは、かなり古くから知られている事実で、例えば天然痘にかかった人が癒えてしまうと、今度は二度とかかることがめったにないというのは、それであります。
それでずいぶん昔からインドや中国では、天然痘にかかった人の膿汁をとってそれを傷口に入れて免疫するという方法が行われていたということで、それが十七世紀頃にヨーロッパにも伝えられましたが、十八世紀の末にイギリスのエドワード・ジェンナーという医者がこれを応用してついに種痘法の効力のあることを見つけ出しました。
これは天然痘にかかった牛からその病菌を含んだ痘苗というものをつくり、それを人間に植えつける方法なのです。
このおかげで天然痘に対する免疫が広く行われるようになり、その流行も大いに減るようになったのでしたが、パストゥールはこれをいろいろな病気に応用しようとして、研究を進めたのでした。
ちょうど一八七九年の頃のことでした。アメリカで鶏コレラと豚の感染症がひどく流行して、非常な損害を生じました。
場所によっては鶏コレラで一日に一万、あるいは二万羽死んでしまうような事態になりました。
豚の感染症も場所によっては日に五千、大きな飼育場が集まった所では一万二千も死んでしまうようになりました。
パストゥールはたくさんの実験を行って、まずそれらの病原体を見つけ出し、それから予防法をも考え出してそれに成功したのでした。
ことに脾脱疽病という家畜の病気のおかげでフランスでも羊や牝牛がたおれることが多かったので、その予防接種の方法をパストゥールが完成したことは、羊毛の生産や牛の増産の上にも非常に役立ったのでした。
これは一八八一年のことで、パストゥールは多くの人々の眼前でその実地試験を行い、効果の著しいことについて人々を驚かしました。
パストゥールは、その外にビールの変質を防ぐ方法をも見つけ出したり、その他のいろいろな研究にも成功しましたが、全人類のために貢献した彼の最大の仕事といわれているのは、恐水病の病毒を発見し、そしてその予防法を考案してそれに成功したことであります。
恐水病というのは、狂犬に噛まれた際におこる恐ろしい病気で、これを救う治療法はそれまで全くなかったのでしたが、パストゥールの熱心な研究の結果としてそれが見つけ出されたということは、じつに特筆するに足りることなのでありました。
もっともパストゥールはこの予防法を考え出したときに、動物試験にはほぼ成功したものの、それでもこれを人間に施して果して危険がないかどうかが最初はわからないのでしたから、実際に使用するのには少からず躊躇しました。
ところが一八八五年の夏近くなった頃、アルサスの小さな町から狂犬に咬かまれたという九歳の子供が母親に伴なわれてパリに出て来て、その母親からパストゥールに治療を懇願したという偶然の機会がめぐって来ました。
それでもパストゥールは危険を恐れて大いにためらいましたが、ついに同情の念に動かされてその治療を試みることに決心し、予防接種を行いました。しかしその結果がわかるまでは心配してひどくなやみ続け、もしこれがうまくゆかなかったら、一人の子供の生命がうしなわれるのだと思うと、とても平静な気分ではいられなくなり、幾日も幾日も眠れない夜が続いたということでした。
ところが四十日程も経ってその療法がまず成功を収めたということが確かになって来ましたので、これで彼の心の中がどれほど明るくなったことでしたでしょう。
その後この子供の病気が完全になおったので、彼は始めて安心して、よろこんだのでした。
実際にこの予防法によって今までは全く治療の方法のなかった恐水病が癒やされるようになったということは、医学の歴史の上でいかにも輝かしい出来事であるといってよいのです。パストゥールのたくさんの研究のおかげでことに恐ろしい病気に対する医療の方法が進んで来たということを思うと、さすがに学問の尊さをたたえなければならないでしょう。" | 一八七九年の頃にアメリカで発生した豚の感染症によって、一日で死んでしまった豚の数のうち、より少ない数を教えてください。 | 一八七九年の頃にアメリカで発生した豚の感染症によって、一日で死んでしまった豚の数のうち、より少ない数は五千です。 |
JCRRAG_018281 | 歴史 | 南北戦争後のアメリカに起こった3つの変化
南北戦争は保護貿易と奴隷解放を唱えた北部の勝利によって終結。それによって、アメリカ国内では様々な変化が起こりました。良い変化もあれば悪い変化もあります。代表的な3つの変化を紹介しましょう。
①黒人奴隷の解放
南北戦争後の1番大きな変化は「黒人奴隷の解放」ですね。イギリス植民地時代から200年近く続いてきた奴隷制度が南北戦争によって遂に廃止されました。
白人に所有されてきた黒人奴隷たちは自由の身となり、アメリカ合衆国の連邦政府によって社会的自立を支援されるようになります。
南部の州には元奴隷たちの人権回復を援護する政府機関「解放民局」が置かれ、徐々に黒人の就職率も増えていきました。そして遂には、奴隷制度時代ではあり得なかった公職の黒人も誕生するようになったのです。
②近代的な武器の使用
南北戦争がもたらした変化には、軍事的な要素もありました。戦争における「近代的な武器の使用」です。南北戦争時には、それ以前より改良された高性能の武器が数多く使用されました。
北軍は回転式の連発銃であるリボルバーモデルの銃や小銃でありながら射程距離が長いスプリングフィールド銃などを利用。南軍では、命中率が高く深い致命傷を与えられることで有名なエンフィールド銃を利用していました。
他にも、装填時間が短く軽量型の大砲「アームストロング砲」なども活躍。南北戦争では、近代的な武器の使用が多大な犠牲者をもたらしました。特に、エンフィールド銃は銃弾が特殊な形で撃ち込まれるため酷い銃創を負い、それが元で亡くなる人が多かったのです。
南北戦争で近代的な武器の威力が証明されることになってしまいました。その結果、その後の工業発展では第一次・第二次世界大戦に向けた「最新兵器の生産」という暗い一面も担うようになってしまったのです。
南北戦争後に起きた変化として、最後に紹介するのは「国家基盤の強化」になります。南北戦争の原因①で述べたように、北部ではアメリカが一体となることを目指していました。
その北部が南北戦争に勝利したことで連邦国家としての基盤が強化され、連邦政府の権限が確固たるものとなります。各州の自主権は弱まり、アメリカ市民権や通貨なども州ではなく国家が発行するようになりました。
バラバラだったアメリカは、南北戦争を経てアメリカ合衆国という一つの国家基盤を強固なものにしたといえるでしょう。 | 南北戦争の前後における奴隷制度の違いを教えてください。 | 南北戦争前までは奴隷制度はイギリス植民地時代から200年続いていました。
一方、南北戦争後は奴隷制度は廃止され、黒人奴隷たちは自由の身となり、南部の州には元奴隷たちの人権回復を援護する政府機関「解放民局」が置かれ、公職の黒人も誕生するようになったのです。 |
JCRRAG_018282 | 歴史 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、董卓である。
朝廷の命に逆らい、軍を率い続ける
中平5年(188)韓遂らに備えて軍を駐屯し続けた董卓は前将軍に任命されます。そのころ漢陽郡の王国が挙兵し、韓遂らと合流して勢力を拡大していました。董卓は皇甫嵩とともに討伐に向かいますが、二人の意見は割れ、結果的に皇甫嵩が勝利をおさめて功績をものにします。『皇甫嵩伝』によれば、董卓の作戦は的を射ていないと言われる始末だったようです。その後、董卓は軍を手放して帰還するよう2度も命じられますが、ことごとく拒否して駐屯し続けました。『董卓伝』などによれば、これは時勢をうかがっていたからのようです。
権力を手にした董卓
中平6年(189)4月、霊帝が崩御し少帝が即位します。董卓は軍事力によって昇進を重ね、大きな権力を手にしました。
少帝と陳留王を救出する
霊帝没後、少帝と縁戚関係にある大将軍・何進は、司隷校尉・袁紹らとともに十常侍ら宦官の一掃をもくろみます。何進は地方の軍事指揮官を召集し、それに応じた董卓は首都・洛陽を攻めました。何進は宦官の反撃により殺され、袁紹らは宮中で宦官たちを誅殺していきます。そんななか、宦官の一人が少帝とその弟・陳留王(劉協)を連れ去る事件が起きました。董卓はこの宦官を追撃して少帝と陳留王を救出し、洛陽に帰還します。
政権掌握し、献帝を皇帝に
皇太子を手に入れた董卓は、軍事力で政権を手に入れるべく何進ら殺された有力者の軍勢を取り込みます。また、董卓と同じく何進に召集された丁原(ていげん)の軍も取り込もうと、丁原の暗殺を企てました。董卓は武勇に優れる丁原の部下・呂布を調略し、彼に丁原を殺害させ父子の契りを結びます。こうして強大な戦力を手に入れた董卓は、洛陽で唯一軍事力を持つ存在となりました。董卓は袁紹らを封じ込め、少帝を廃して弘農王に、陳留王を皇帝(献帝)に即位させます。また、少帝の生母・何太后の権力を剥奪し、幽閉して殺害。董卓は権力をほしいままにしたのです。
極悪非道の限りを尽くす!
永漢元年(189)9月、董卓は太尉となり、次いで相国(宰相)に就任しました。廷臣の最高位にまで上り詰めた董卓は、洛陽の富豪の邸宅を襲って金品を強奪したり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、毎夜女官を凌辱したりと暴虐の限りを尽くします。また、故人の棺を暴いて死体を解体し道端に投げすてたり、自分の前で剣を帯びたままだった者を撲殺したりもしました。政権については名士として名高い人物を登用し、能力のない者や不正を働いた者を糾弾。董卓に反発して洛陽から逃げた袁紹については、地位を与え懐柔を図りました。
袁紹・袁術ら反董卓連合軍との対立
初平元年(190)董卓の専横に対し、袁紹・袁術を盟主とする反董卓連合が結成されます。董卓は袁氏一門を誅殺して弘農王を毒殺。強制的に長安に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を奪い、宮殿や民家を焼きはらいました。このとき、袁紹らとの融和策をとっていた者も殺害されています。周囲の反対を押し切って遷都した董卓でしたが、自らは洛陽郊外に駐屯し反董卓連合軍を迎え撃ちました。しかし、初平2年(191)呂布らが率いる董卓軍が孫堅との戦いで大敗。そのため董卓は洛陽を焼き払い長安へと撤退しました。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、どのような暴虐の限りを尽くしたか。 | 三国時代において最悪の暴君といわれる人物は、洛陽の富豪の邸宅を襲って金品を強奪したり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、毎夜女官を凌辱したりと暴虐の限りを尽くした。 |
JCRRAG_018283 | 歴史 | 山々から五箇荘を見た輝元の目には、はるか沖合いに白いカモメが三羽飛び、水鳥が五羽飛んでいた。
小さな漁船が三隻、大きな漁船が一隻浮かんでおり、仁保島などがはるかにかすんで見えたことであろう。
同年四月十五日、築城のクワ入れが行なわれ、輝元の叔父にあたる二宮就辰、穂田元清が普請奉行となって工事が始まり、町人頭の平田屋惣右衛門も召し出されて、城下町建設に一役買った。
築城の際に輝元は、明星院山で腹臣の福島大和守に、「五箇荘のいずれの地名を採用しても差し当たりがあるので、祖先の大江広元の広と、なんじの福島の島を合わせて広島と名付ける」といったと伝えられているが、城を作った地点がもっとも広い島だったので、広島としたというのが自然のようである。
綱引きと川通りもち
築城の際、佐東郡毛木村出身の佐々木太郎右衛門も、土木工事の腕を買われて輝元に召し出され、普請奉行二宮太郎右衛門を助けることになった。
この両太郎右衛門が本城の出来上がったとき、祝賀の白島での綱引きで指揮者になった。この白島の綱引きの行事は、明治時代まで伝えられた。毛利氏時代の風習としては、この綱引きのほかには、毎年旧の十二月朔日の「川通りもち」があるだけであった。
旧暦の十二月朔日といえば、大体に正月も終わったころで、寒風の吹くようになった夜、広島の町を流してゆく「かわどうり、かわどうり」という売り声を聞くと、さすがの広島の冬も深くなったものだと思わされた。
売り声は、大体がこどもの声であるが、時にはサビのある大人の声も聞こえた。こどもたちは、比治山町の中野というもち屋から受けて売り歩いたようである。そして、薬研堀とか大須賀町、さては西地方町、天満町あたりにあったもち屋には、半紙三枚くらいをつなぎ合わせた即製の「川通りもち」の旗が店先につり下げられたものである。
「川通りもち」を入れたもろぶたを肩にしたあのころの姿がなつかしい。とくに花街を流していく売り声には、広島ならではの季節感があった。
この「川通りもち」の由来は、「芸藩通志」「芸備今昔話」「陰徳太平記」にそれぞれ書いてあるが、あらましはつぎのとおりである。 | 山々から五箇荘を見た輝元の目に映っていた鳥のうち、数が多いほうを教えてください。 | 山々から五箇荘を見た輝元の目に映っていた鳥のうち、数が多いほうは水鳥で五羽です。 |
JCRRAG_018284 | 歴史 | 南北戦争後のアメリカに起こった3つの変化
南北戦争は保護貿易と奴隷解放を唱えた北部の勝利によって終結。それによって、アメリカ国内では様々な変化が起こりました。良い変化もあれば悪い変化もあります。代表的な3つの変化を紹介しましょう。
①黒人奴隷の解放
南北戦争後の1番大きな変化は「黒人奴隷の解放」ですね。イギリス植民地時代から200年近く続いてきた奴隷制度が南北戦争によって遂に廃止されました。
白人に所有されてきた黒人奴隷たちは自由の身となり、アメリカ合衆国の連邦政府によって社会的自立を支援されるようになります。
南部の州には元奴隷たちの人権回復を援護する政府機関「解放民局」が置かれ、徐々に黒人の就職率も増えていきました。そして遂には、奴隷制度時代ではあり得なかった公職の黒人も誕生するようになったのです。
②近代的な武器の使用
南北戦争がもたらした変化には、軍事的な要素もありました。戦争における「近代的な武器の使用」です。南北戦争時には、それ以前より改良された高性能の武器が数多く使用されました。
北軍は回転式の連発銃であるリボルバーモデルの銃や小銃でありながら射程距離が長いスプリングフィールド銃などを利用。南軍では、命中率が高く深い致命傷を与えられることで有名なエンフィールド銃を利用していました。
他にも、装填時間が短く軽量型の大砲「アームストロング砲」なども活躍。南北戦争では、近代的な武器の使用が多大な犠牲者をもたらしました。特に、エンフィールド銃は銃弾が特殊な形で撃ち込まれるため酷い銃創を負い、それが元で亡くなる人が多かったのです。
南北戦争で近代的な武器の威力が証明されることになってしまいました。その結果、その後の工業発展では第一次・第二次世界大戦に向けた「最新兵器の生産」という暗い一面も担うようになってしまったのです。
南北戦争後に起きた変化として、最後に紹介するのは「国家基盤の強化」になります。南北戦争の原因①で述べたように、北部ではアメリカが一体となることを目指していました。
その北部が南北戦争に勝利したことで連邦国家としての基盤が強化され、連邦政府の権限が確固たるものとなります。各州の自主権は弱まり、アメリカ市民権や通貨なども州ではなく国家が発行するようになりました。
バラバラだったアメリカは、南北戦争を経てアメリカ合衆国という一つの国家基盤を強固なものにしたといえるでしょう。 | 南北戦争で使用されていた、北軍と南軍の銃の違いを教えてください。 | 南北戦争において、北軍は、回転式の連発銃であるリボルバーモデルの銃や小銃でありながら射程距離が長いスプリングフィールド銃などを使用していました。
一方、南軍では、命中率が高く深い致命傷を与えられることで有名なエンフィールド銃を使用していました。 |
JCRRAG_018285 | 歴史 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲である。
劉備のもとでの活躍
趙雲と劉備はどのようにして出会ったのでしょうか?出会いから主騎としての活躍までを振り返ります。
公孫瓚の部下から劉備の主騎に
趙雲は冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人といわれており、もともとは群雄のひとり・公孫瓚(こうそんさん)の部下でした。字は子龍。劉備は流浪時代、公孫瓚に能力を認められて厚遇された時期があり、趙雲はこのころ劉備に出会ったようです。二人で戦いに出ることもあったといわれていることから、親交も深めていたのでしょう。その後の建安5年(200)、劉備は独立したものの曹操に敗れ、袁紹のもとへ身を寄せました。そこに趙雲が訪ね、劉備に召し抱えられ主騎になったといわれています。この前年、公孫瓚が滅んで趙雲は流浪の身になっていたのです。
長坂の戦いで劉備の妻子を救出!
このころ、漢の丞相・曹操は華北を平定し、荊州方面へと目を向けていました。最後の敵だった荊州牧・劉表への攻撃を決めた曹操は、荊州進出のため大軍を引き連れて南下。荊州の客将だった劉備はこれを支えきれず逃亡しました。曹操は少数精鋭で追撃し、南郡当陽県の長坂で劉備に追いつきます。このとき劉備は妻子を捨てて逃げ出し、殿軍を引き受けた張飛の活躍により無事に江夏へ敗走。趙雲は残された嫡子・劉禅を抱え、その生母である甘夫人を保護しました。劉備の娘2人は捕獲されたものの、趙雲の活躍により劉備夫人と劉禅は助かったのです。この長坂の戦いのあと、趙雲は牙門将軍に昇進しました。
益州平定後、翊軍将軍に就任
三顧の礼により仲間に引き入れた軍師・諸葛亮(孔明)の戦略により、劉備軍は赤壁の戦いで勝利を収めます。その後、劉備は荊州南部を占拠し、家臣たちに推されて荊州牧になりました。建安16年(211)蜀の主・劉璋から戦いに加勢してもらうために劉備軍を益州に入れてほしいとの要請があり、劉備は蜀に入ります。劉備が承諾した裏には、この機に蜀を乗っ取ろうという目論見がありました。劉璋の部下である張松・法正はすでに劉璋を見限っており、この機に益州を獲るよう劉備に打診。渋る劉備でしたが、軍師中郎将・龐統(ほうとう)の進言により蜀の乗っ取りを決断します。このとき趙雲は荊州に留まっていましたが、劉備が蜀の首都・成都に侵攻すると、諸葛亮・張飛らとともに入蜀して益州の各郡県を平定。江州から西進して江陽を攻略し、益州平定後は翊軍将軍に就任しました。
北伐への従軍と最期
勢力を拡大していった劉備軍でしたが、劉備は志半ばにして死に、諸葛亮による北伐が行われます。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、どこに留まっていたか。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、荊州に留まっていた。 |
JCRRAG_018286 | 歴史 | 山々から五箇荘を見た輝元の目には、はるか沖合いに白いカモメが三羽飛び、水鳥が五羽飛んでいた。
小さな漁船が三隻、大きな漁船が一隻浮かんでおり、仁保島などがはるかにかすんで見えたことであろう。
同年四月十五日、築城のクワ入れが行なわれ、輝元の叔父にあたる二宮就辰、穂田元清が普請奉行となって工事が始まり、町人頭の平田屋惣右衛門も召し出されて、城下町建設に一役買った。
築城の際に輝元は、明星院山で腹臣の福島大和守に、「五箇荘のいずれの地名を採用しても差し当たりがあるので、祖先の大江広元の広と、なんじの福島の島を合わせて広島と名付ける」といったと伝えられているが、城を作った地点がもっとも広い島だったので、広島としたというのが自然のようである。
綱引きと川通りもち
築城の際、佐東郡毛木村出身の佐々木太郎右衛門も、土木工事の腕を買われて輝元に召し出され、普請奉行二宮太郎右衛門を助けることになった。
この両太郎右衛門が本城の出来上がったとき、祝賀の白島での綱引きで指揮者になった。この白島の綱引きの行事は、明治時代まで伝えられた。毛利氏時代の風習としては、この綱引きのほかには、毎年旧の十二月朔日の「川通りもち」があるだけであった。
旧暦の十二月朔日といえば、大体に正月も終わったころで、寒風の吹くようになった夜、広島の町を流してゆく「かわどうり、かわどうり」という売り声を聞くと、さすがの広島の冬も深くなったものだと思わされた。
売り声は、大体がこどもの声であるが、時にはサビのある大人の声も聞こえた。こどもたちは、比治山町の中野というもち屋から受けて売り歩いたようである。そして、薬研堀とか大須賀町、さては西地方町、天満町あたりにあったもち屋には、半紙三枚くらいをつなぎ合わせた即製の「川通りもち」の旗が店先につり下げられたものである。
「川通りもち」を入れたもろぶたを肩にしたあのころの姿がなつかしい。とくに花街を流していく売り声には、広島ならではの季節感があった。
この「川通りもち」の由来は、「芸藩通志」「芸備今昔話」「陰徳太平記」にそれぞれ書いてあるが、あらましはつぎのとおりである。 | 山々から五箇荘を見た輝元の目に映っていた鳥のうち、数が少ないほうを教えてください。 | 山々から五箇荘を見た輝元の目に映っていた鳥のうち、数が少ないほうはカモメで三羽です。 |
JCRRAG_018287 | 歴史 | 南北戦争が日本に与えた3つの影響
南北戦争はアメリカから遠く離れた日本へも影響を及ぼしました。当時の日本は、アメリカと日米和親条約、日米修好通商条約を結び開国したばかりです。南北戦争を挟んだアメリカと日本の関係はどういったものになったのか。3つの事柄に分けて解説しましょう。
①英仏が日本への進出を開始
②最先端兵器の流行
③明治維新の加速
①英仏が日本への進出を開始
1854年にアメリカと日米和親条約を結び、日本は開国への道を選びました。その後、1858年には日米修好通商条約を締結してアメリカとの貿易が開始されます。
しかし、このタイミングで南北戦争が勃発してしまい、日本とアメリカの貿易関係は一時的に中断してしまいました。これを機に、アメリカの代わりとしてイギリスやフランスが日本への進出を開始したのです。
英仏は日本と「安政の5カ国条約*」を結んでおり、アメリカと同じく自国に有利な立場を持っていました。イギリス在日公使やフランス在日公使が日本に住み、日本と西洋列強との外交問題に意見するようになります。
南北戦争では近代的な武器が使用されたと述べましたが、実はそれらの武器は遠く離れた日本へと輸入されていました。
南北戦争終結後、兵士たちが使っていた銃や大砲などが払い下げられて中国や日本へと輸入されていたのです。中でも、南北戦争後の変化②で述べたエンフィールド銃は戊辰戦争において最も多く使われました。
また、南北戦争にて北軍に利用されたスペンサー騎兵銃も輸入され戊辰戦争にて使われています。スペンサー騎兵銃は騎兵用の小型の銃であり、連続して撃てる仕組みを持つライフルでもありました。他にも大砲や軍艦なども日本に輸入されています。
輸入されたいずれの兵器も元々は南北戦争にて使うためにイギリスやフランスから買い求めたものが大半でした。新しく殺傷能力の高い兵器が南北戦争によって流行し、日本の戦争の在り方も変化していったのですね。
③明治維新の加速
南北戦争は日本の大きな変革である明治維新の加速化にも大きな影響を与えています。
明治維新とは、江戸幕府の体制が崩れて資本主義的な変革へ移行したことです。大政奉還や戊辰戦争を経て明治政府という新たな政府が樹立しました。
そんな明治維新に対して南北戦争は「兵器」と「社会構造」の面から、知らないうちに支援していたのです。まず、「兵器」に関しては②でも述べたように南北戦争にて使っていた最新鋭の兵器が次々と日本に輸入されてきました。
南軍が発注した砲艦をはじめとする最新の兵器を新政府軍が手に入れたことで、土方歳三が活躍した函館戦争において新政府軍が勝利することとなったのです。
また、「社会構造」の面では北部の通貨制度を政治家の伊藤博文が調査し、国立銀行条例の設立に役立てました。このように様々な視点から見ると、南北戦争は現代の日本につながる影響を残したといえるでしょう。 | 南北戦争後に、日本に払い下げられて戊辰戦争で使われたエンフィールド銃とスペンサー騎兵銃の違いを教えてください。 | エンフィールド銃は、命中率が高く、銃弾が特殊な形で撃ち込まれるため酷い銃創を負い、それが元で亡くなる人が多かった銃です。エンフィールド銃は戊辰戦争において最も多く使われました。
一方、スペンサー騎兵銃も輸入され戊辰戦争にて使われています。スペンサー騎兵銃は騎兵用の小型の銃であり、連続して撃てる仕組みを持つライフルでした。 |
JCRRAG_018288 | 歴史 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲である。
劉備のもとでの活躍
趙雲と劉備はどのようにして出会ったのでしょうか?出会いから主騎としての活躍までを振り返ります。
公孫瓚の部下から劉備の主騎に
趙雲は冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人といわれており、もともとは群雄のひとり・公孫瓚(こうそんさん)の部下でした。字は子龍。劉備は流浪時代、公孫瓚に能力を認められて厚遇された時期があり、趙雲はこのころ劉備に出会ったようです。二人で戦いに出ることもあったといわれていることから、親交も深めていたのでしょう。その後の建安5年(200)、劉備は独立したものの曹操に敗れ、袁紹のもとへ身を寄せました。そこに趙雲が訪ね、劉備に召し抱えられ主騎になったといわれています。この前年、公孫瓚が滅んで趙雲は流浪の身になっていたのです。
長坂の戦いで劉備の妻子を救出!
このころ、漢の丞相・曹操は華北を平定し、荊州方面へと目を向けていました。最後の敵だった荊州牧・劉表への攻撃を決めた曹操は、荊州進出のため大軍を引き連れて南下。荊州の客将だった劉備はこれを支えきれず逃亡しました。曹操は少数精鋭で追撃し、南郡当陽県の長坂で劉備に追いつきます。このとき劉備は妻子を捨てて逃げ出し、殿軍を引き受けた張飛の活躍により無事に江夏へ敗走。趙雲は残された嫡子・劉禅を抱え、その生母である甘夫人を保護しました。劉備の娘2人は捕獲されたものの、趙雲の活躍により劉備夫人と劉禅は助かったのです。この長坂の戦いのあと、趙雲は牙門将軍に昇進しました。
益州平定後、翊軍将軍に就任
三顧の礼により仲間に引き入れた軍師・諸葛亮(孔明)の戦略により、劉備軍は赤壁の戦いで勝利を収めます。その後、劉備は荊州南部を占拠し、家臣たちに推されて荊州牧になりました。建安16年(211)蜀の主・劉璋から戦いに加勢してもらうために劉備軍を益州に入れてほしいとの要請があり、劉備は蜀に入ります。劉備が承諾した裏には、この機に蜀を乗っ取ろうという目論見がありました。劉璋の部下である張松・法正はすでに劉璋を見限っており、この機に益州を獲るよう劉備に打診。渋る劉備でしたが、軍師中郎将・龐統(ほうとう)の進言により蜀の乗っ取りを決断します。このとき趙雲は荊州に留まっていましたが、劉備が蜀の首都・成都に侵攻すると、諸葛亮・張飛らとともに入蜀して益州の各郡県を平定。江州から西進して江陽を攻略し、益州平定後は翊軍将軍に就任しました。
北伐への従軍と最期
勢力を拡大していった劉備軍でしたが、劉備は志半ばにして死に、諸葛亮による北伐が行われます。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、何に昇進したか。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、牙門将軍に昇進した。 |
JCRRAG_018289 | 歴史 | 山々から五箇荘を見た輝元の目には、はるか沖合いに白いカモメが三羽飛び、水鳥が五羽飛んでいた。
小さな漁船が三隻、大きな漁船が一隻浮かんでおり、仁保島などがはるかにかすんで見えたことであろう。
同年四月十五日、築城のクワ入れが行なわれ、輝元の叔父にあたる二宮就辰、穂田元清が普請奉行となって工事が始まり、町人頭の平田屋惣右衛門も召し出されて、城下町建設に一役買った。
築城の際に輝元は、明星院山で腹臣の福島大和守に、「五箇荘のいずれの地名を採用しても差し当たりがあるので、祖先の大江広元の広と、なんじの福島の島を合わせて広島と名付ける」といったと伝えられているが、城を作った地点がもっとも広い島だったので、広島としたというのが自然のようである。
綱引きと川通りもち
築城の際、佐東郡毛木村出身の佐々木太郎右衛門も、土木工事の腕を買われて輝元に召し出され、普請奉行二宮太郎右衛門を助けることになった。
この両太郎右衛門が本城の出来上がったとき、祝賀の白島での綱引きで指揮者になった。この白島の綱引きの行事は、明治時代まで伝えられた。毛利氏時代の風習としては、この綱引きのほかには、毎年旧の十二月朔日の「川通りもち」があるだけであった。
旧暦の十二月朔日といえば、大体に正月も終わったころで、寒風の吹くようになった夜、広島の町を流してゆく「かわどうり、かわどうり」という売り声を聞くと、さすがの広島の冬も深くなったものだと思わされた。
売り声は、大体がこどもの声であるが、時にはサビのある大人の声も聞こえた。こどもたちは、比治山町の中野というもち屋から受けて売り歩いたようである。そして、薬研堀とか大須賀町、さては西地方町、天満町あたりにあったもち屋には、半紙三枚くらいをつなぎ合わせた即製の「川通りもち」の旗が店先につり下げられたものである。
「川通りもち」を入れたもろぶたを肩にしたあのころの姿がなつかしい。とくに花街を流していく売り声には、広島ならではの季節感があった。
この「川通りもち」の由来は、「芸藩通志」「芸備今昔話」「陰徳太平記」にそれぞれ書いてあるが、あらましはつぎのとおりである。 | 山々から五箇荘を見た輝元の目に映っていた漁船のうち、数が多いほうを教えてください。 | 山々から五箇荘を見た輝元の目に映っていた漁船のうち、数が多いほうは小さな漁船で三隻です。 |
JCRRAG_018290 | 歴史 | 第2次世界大戦終結後、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4カ国が朝鮮半島を信託統治(国連の信託を受けた国が、独立していない国を治め、秩序ある状態にすること)すると決定していました。
ところが1945年8月、ソ連は日本との戦闘のために満州国に侵攻、さらには当時日本領だった朝鮮の清津市に上陸しました。この状態に、半社会主義の傾向が強かったアメリカは朝鮮半島全土がソ連に掌握されるのではないかと恐れます。
そこでアメリカはソ連に朝鮮半島の南北分割占領を提案、これをソ連が了承したために、北緯38度線から北をソ連、南をアメリカが占領することになりました。アメリカの恐れが南北を分断、そして戦争への道を進めたと言えるでしょう。
第2次世界大戦終結で政情が不安定に
1910年から1945年まで朝鮮半島は日本による統治を受けていましたが、第2次世界大戦の終結で終了しました。統治が終わると朝鮮半島は混乱に陥ります。
朝鮮半島が混乱した原因は日本の軍・政府・警察が撤退したためです。日本企業も撤退したため、経済面ではインフレが進行し、失業者が急増、半島南部では日本の後を引き継いだアメリカ軍政権に批判が集まりました。
アメリカ軍に抗議する人々は各地で暴動を起こしました。中でも1946年に起こった「大邸10月事件」には230万人が参加して大きな騒ぎとなりました。
後に韓国政府を作る韓国民主党とアメリカは武力で暴動を抑えようとしたために、半島南部ではアメリカへの不信の念が一層高まりました。
朝鮮戦争に関わった主要人物
北朝鮮の中心人物・金日成
ソ連の支援を受けて北朝鮮の指導者になった金日成。1948年にアメリカの支援で朝鮮半島南部に大韓民国が成立したため、北部には朝鮮民主主義人民共和国が誕生し、金日成は首相に就任しました。
現在では、朝鮮戦争は彼による綿密に計画された侵略だったことが明らかになっています。金日成が朝鮮半島を統一できなかった理由は、侵攻した地域で民衆を虐殺、粛清したため、民衆の指示が得られなかったからと言われています。
朝鮮戦争で退任?ダグラス・マッカーサー
アメリカの軍人であったダグラス・マッカーサー。日本では連合軍最高司令官として有名です。朝鮮戦争のときには、国連軍総司令官を務め、仁川上陸作戦を発案しました。
朝鮮戦争では北朝鮮に有利な状況が続き、韓国軍・アメリカ軍は朝鮮半島の東南端の都市・釜山に追い詰められていました。そこでマッカーサーはソウル近郊の仁川に奇襲上陸して、北朝鮮の補給路を絶ち、同時に釜山の軍勢を前進させて、南北から北朝鮮を挟み撃ちにしようとしました。これが仁川上陸作戦です。
この作戦は成功して、国連軍はソウルを奪還しました。それまで劣勢だった国連軍が勢いに乗ったと思われましたが、マッカーサーは中国が参戦することを予測できず、この後国連軍は窮地に立たされます。当時彼は70代、これがきっかけとなり、退役することになります。
反米思想が戦争勃発へとつながった
アメリカ軍は混乱の責任は共産主義者にあるとし、彼らは北朝鮮に逃れて行くことになりました。対立が激化する中、北朝鮮の金日成は半島南部との決裂を覚悟します。
その現れとして、彼は南への送電を中止しますが、半島南部では共産主義を排斥した選挙が行われ、正式な国家・後の大韓民国が樹立することが決定します。
さらに共産主義者が起こしたデモに警察が発砲、一般市民の命が犠牲になる事件も起きました。朝鮮半島での北と南、社会主義と自由主義の対立は決定的となり、朝鮮戦争の勃発へとつながって行きました。
北朝鮮は戦いに有利な状態だった
朝鮮戦争の直前、軍事的に有利だったのは北朝鮮です。韓国はアメリカとの軍事協定で重装備はまったくない状態だった上、独立以来、北朝鮮からのゲリラ攻撃で訓練も不足していました。
北朝鮮は充実した軍備、豊富な人員に加えて、ソ連や中国から実戦経験のある兵士が補充されました。さらに1分間に投射できる弾の量、主力砲の射程のどちらも圧倒的に優れていました。そして当時の発電は北朝鮮に頼るところが多かったため、韓国への送電を止めることもできました。
北朝鮮がソ連の援助を受けてアメリカを半島から追放できると考えても不思議ではなかったのです。 | 朝鮮戦争直前の北朝鮮と韓国の戦力の違いを教えてください。 | 朝鮮戦争の直前、韓国はアメリカとの軍事協定で重装備はまったくない状態だった上、独立以来、北朝鮮からのゲリラ攻撃で訓練も不足していました。
一方、北朝鮮は充実した軍備、豊富な人員に加えて、ソ連や中国から実戦経験のある兵士が補充されました。さらに1分間に投射できる弾の量、主力砲の射程のどちらも圧倒的に優れていました。 |
JCRRAG_018291 | 歴史 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲である。
劉備のもとでの活躍
趙雲と劉備はどのようにして出会ったのでしょうか?出会いから主騎としての活躍までを振り返ります。
公孫瓚の部下から劉備の主騎に
趙雲は冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人といわれており、もともとは群雄のひとり・公孫瓚(こうそんさん)の部下でした。字は子龍。劉備は流浪時代、公孫瓚に能力を認められて厚遇された時期があり、趙雲はこのころ劉備に出会ったようです。二人で戦いに出ることもあったといわれていることから、親交も深めていたのでしょう。その後の建安5年(200)、劉備は独立したものの曹操に敗れ、袁紹のもとへ身を寄せました。そこに趙雲が訪ね、劉備に召し抱えられ主騎になったといわれています。この前年、公孫瓚が滅んで趙雲は流浪の身になっていたのです。
長坂の戦いで劉備の妻子を救出!
このころ、漢の丞相・曹操は華北を平定し、荊州方面へと目を向けていました。最後の敵だった荊州牧・劉表への攻撃を決めた曹操は、荊州進出のため大軍を引き連れて南下。荊州の客将だった劉備はこれを支えきれず逃亡しました。曹操は少数精鋭で追撃し、南郡当陽県の長坂で劉備に追いつきます。このとき劉備は妻子を捨てて逃げ出し、殿軍を引き受けた張飛の活躍により無事に江夏へ敗走。趙雲は残された嫡子・劉禅を抱え、その生母である甘夫人を保護しました。劉備の娘2人は捕獲されたものの、趙雲の活躍により劉備夫人と劉禅は助かったのです。この長坂の戦いのあと、趙雲は牙門将軍に昇進しました。
益州平定後、翊軍将軍に就任
三顧の礼により仲間に引き入れた軍師・諸葛亮(孔明)の戦略により、劉備軍は赤壁の戦いで勝利を収めます。その後、劉備は荊州南部を占拠し、家臣たちに推されて荊州牧になりました。建安16年(211)蜀の主・劉璋から戦いに加勢してもらうために劉備軍を益州に入れてほしいとの要請があり、劉備は蜀に入ります。劉備が承諾した裏には、この機に蜀を乗っ取ろうという目論見がありました。劉璋の部下である張松・法正はすでに劉璋を見限っており、この機に益州を獲るよう劉備に打診。渋る劉備でしたが、軍師中郎将・龐統(ほうとう)の進言により蜀の乗っ取りを決断します。このとき趙雲は荊州に留まっていましたが、劉備が蜀の首都・成都に侵攻すると、諸葛亮・張飛らとともに入蜀して益州の各郡県を平定。江州から西進して江陽を攻略し、益州平定後は翊軍将軍に就任しました。
北伐への従軍と最期
勢力を拡大していった劉備軍でしたが、劉備は志半ばにして死に、諸葛亮による北伐が行われます。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、江州から西進してどこを攻略したか。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、江州から西進して江陽を攻略しました。 |
JCRRAG_018292 | 歴史 | 日本はきわめて名字の数の多い国
多くの日本人が想像するように、昔というものが現代と無関係のものでないということを証明するために、名字の話をしようと思う。
我々が十人寄れば多くの場合には十の名字があって、鈴木とか渡辺とかありふれた名は別として、その他の人にあっては、旅行先または国際交流の場において同じ名字の人に出合えば、お互いに珍しがるのが普通でありましょう。すなわち日本人の名字の数はそれほど変化が多くて、少なくとも家の数の百分の一ないし八十分の一、少なくて八万、多くて十万はあろうと思われる、日本はきわめて名字の数の多い国であります。
なぜ多くの名字ができたか
さて何ゆえにこのように多くの名字がわが国にできたか、高きも低きもいっせいに、日の神の子孫であるところの大和民族が、いかなる必要があってかくのごとく分かれて行ったか。今までこれを考えた人は少ないけれども、実はとても面白い問題です。もちろん太郎という名の人が数人あり、清という名の人が数人あるのを区別する目的といえばそれまでであるけれども、それだけのためならばことさらに珍しい面倒な名字を作る必要はないので、一号の清とか二号の太郎とかいうような、下足札のような分類でないことはいうまでもないことであります。
ならばいかなる生活上の必要があってこのような名字を伝えるようになったか、これはやや古い時代の社会を研究してみなければ、明白なる解答を与えることができないのです。
地名と名字との関係
これはおそらく誰もが知っていることであろうと思いますが、多くの名字は地名と同じだということです。たとえば京都から移住して来られた旧華族の家々の名と同じ地名が、京都の町にはとても多いのです。我々の郷里の附近には、たとえ同じ所でないとしてもしばしば名字と同じ地名がある。たとえば鹿児島県に行ってみると、鹿児島藩士の一種変わった名字は、十の内、九までが薩摩、大隈、日向という国の郷の名であることがわかる。そうして我々の名字はどういう訳でこのように、地名と関連して共通するものであるか。地名によって名字を付けるならば、なぜ自分の住んでいる村の名を名字にしなくて、五里や十里離れた所の地名、またははるかに遠方の地名を持っているのか。この問題を少し説明してみようと思う。 | 日本人の名字の数のうち、より少ない数を教えてください。 | 日本人の名字の数のうち、より少ない数は八万です。 |
JCRRAG_018293 | 歴史 | 南北戦争が世界に遺した3つの後遺症
南北戦争はアメリカや日本だけでなく、全世界に対して大きな影響力を持っていました。それは良いものばかりではなく、ときには人を傷つけ悩ませる後遺症のようなものになります。ここでは、南北戦争が世界に残した後遺症を3つ紹介していきますね。
①黒人への人種差別が悪化
②ナポレオン3世のメキシコ出兵
③綿花不足による綿工業の大損失
①黒人への人種差別が悪化
連邦国家としてアメリカがまとまり、黒人奴隷たちは解放されたと上記で述べてきました。彼らは連邦政府の支援を受けながらも自立しようとしていきます。
しかし、長年虐げられ学問もろくに身につけることができなかった黒人奴隷たち。そんな簡単には社会的に自立することはできませんでした。貧困にあえぎつつ、地主から土地を借りて農業に勤しむ小作人生活を送る者がほとんどだったのです。
さらには、リンカーン大統領暗殺後に南部の指導者たちが次々と公務に復帰。1877年には南部の復興が完了したと考えた当時の大統領ヘイズによって連邦軍が南部から去ることになりました。
すると、南部での黒人への人種差別が悪化したのです。白人至上主義の秘密組織KKK(クー・クラックス・クラン)が勢力を拡大し、差別による弾圧は酷くなっていきました。黒人の選挙投票を阻止する法案の成立や隔離政策まで始めたのです。
南北戦争は確か黒人奴隷たちを解放しましたが、奴隷という枠から解放されても彼らの真の自由は遠いものでした。
②ナポレオン3世のメキシコ出兵
国外においては日本の他に、フランスのナポレオン3世のメキシコ出兵を促してしまいます。ナポレオン3世は南北戦争の混乱に乗じて、アメリカが手を出せないのをいいことに領土拡大を狙ってメキシコに出兵しました。
ナポレオン3世はメキシコが内戦によって利息の支払いを停止したことを理由に出兵します。しかし、戦争の費用がフランス財政を圧迫した上にメキシコ軍の抵抗が強かったため撤退せざるをえなくなりました
さらには、南北戦争を終えたアメリカに批判されたことも撤退理由の1つです。そのうえ、オーストリア皇帝の弟であるマクシミリアンをメキシコ皇帝へとするものの、彼自身が撤退を拒否したためマクシミリアンは処刑されてしまいます。
南北戦争理由に戦争した結果が、ナポレオン3世自身の外交成績に大きな傷をつけるだけでなくオーストリア皇帝の弟を失うことになってしまったのです。
③綿花不足による綿工業の大損失
このように見てみると、南北戦争はアメリカや日本、フランスに対して強く影響があります。しかし、貿易という点においては全世界に対して大きな後遺症を残してしまいました。
何度も述べているように、南部は綿花のプランテーション運営が主な経済力です。当然のことながら、南北戦争当時もアメリカの輸出する綿花はイギリスをはじめとする綿工業の大きな鍵となっていました。
しかし、南北戦争勃発によってアメリカの綿花輸出が途絶えてしまいます。その結果、世界は綿花不足による綿工業の大損失を受けました。そこで急遽アメリカの代わりとして中国やインド、日本が綿花の供給源となったのです。 | 南北戦争前と南北戦争後における、全世界の綿花の供給源の違いを教えてください。 | 南北戦争前までは、アメリカ南部で生産され、輸出されていた綿花はイギリスをはじめとする綿工業の大きな鍵となっていました。
一方、南北戦争勃発によってアメリカの綿花輸出が途絶えてしまい、世界は綿花不足による綿工業の大損失を受けました。そこで、アメリカの代わりとして中国やインド、日本が綿花の供給源となりました。 |
JCRRAG_018294 | 歴史 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲である。
劉備のもとでの活躍
趙雲と劉備はどのようにして出会ったのでしょうか?出会いから主騎としての活躍までを振り返ります。
公孫瓚の部下から劉備の主騎に
趙雲は冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人といわれており、もともとは群雄のひとり・公孫瓚(こうそんさん)の部下でした。字は子龍。劉備は流浪時代、公孫瓚に能力を認められて厚遇された時期があり、趙雲はこのころ劉備に出会ったようです。二人で戦いに出ることもあったといわれていることから、親交も深めていたのでしょう。その後の建安5年(200)、劉備は独立したものの曹操に敗れ、袁紹のもとへ身を寄せました。そこに趙雲が訪ね、劉備に召し抱えられ主騎になったといわれています。この前年、公孫瓚が滅んで趙雲は流浪の身になっていたのです。
長坂の戦いで劉備の妻子を救出!
このころ、漢の丞相・曹操は華北を平定し、荊州方面へと目を向けていました。最後の敵だった荊州牧・劉表への攻撃を決めた曹操は、荊州進出のため大軍を引き連れて南下。荊州の客将だった劉備はこれを支えきれず逃亡しました。曹操は少数精鋭で追撃し、南郡当陽県の長坂で劉備に追いつきます。このとき劉備は妻子を捨てて逃げ出し、殿軍を引き受けた張飛の活躍により無事に江夏へ敗走。趙雲は残された嫡子・劉禅を抱え、その生母である甘夫人を保護しました。劉備の娘2人は捕獲されたものの、趙雲の活躍により劉備夫人と劉禅は助かったのです。この長坂の戦いのあと、趙雲は牙門将軍に昇進しました。
益州平定後、翊軍将軍に就任
三顧の礼により仲間に引き入れた軍師・諸葛亮(孔明)の戦略により、劉備軍は赤壁の戦いで勝利を収めます。その後、劉備は荊州南部を占拠し、家臣たちに推されて荊州牧になりました。建安16年(211)蜀の主・劉璋から戦いに加勢してもらうために劉備軍を益州に入れてほしいとの要請があり、劉備は蜀に入ります。劉備が承諾した裏には、この機に蜀を乗っ取ろうという目論見がありました。劉璋の部下である張松・法正はすでに劉璋を見限っており、この機に益州を獲るよう劉備に打診。渋る劉備でしたが、軍師中郎将・龐統(ほうとう)の進言により蜀の乗っ取りを決断します。このとき趙雲は荊州に留まっていましたが、劉備が蜀の首都・成都に侵攻すると、諸葛亮・張飛らとともに入蜀して益州の各郡県を平定。江州から西進して江陽を攻略し、益州平定後は翊軍将軍に就任しました。
北伐への従軍と最期
勢力を拡大していった劉備軍でしたが、劉備は志半ばにして死に、諸葛亮による北伐が行われます。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、益州平定後は何に就任したか。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、益州平定後は翊軍将軍に就任した。 |
JCRRAG_018295 | 歴史 | 日本はきわめて名字の数の多い国
多くの日本人が想像するように、昔というものが現代と無関係のものでないということを証明するために、名字の話をしようと思う。
我々が十人寄れば多くの場合には十の名字があって、鈴木とか渡辺とかありふれた名は別として、その他の人にあっては、旅行先または国際交流の場において同じ名字の人に出合えば、お互いに珍しがるのが普通でありましょう。すなわち日本人の名字の数はそれほど変化が多くて、少なくとも家の数の百分の一ないし八十分の一、少なくて八万、多くて十万はあろうと思われる、日本はきわめて名字の数の多い国であります。
なぜ多くの名字ができたか
さて何ゆえにこのように多くの名字がわが国にできたか、高きも低きもいっせいに、日の神の子孫であるところの大和民族が、いかなる必要があってかくのごとく分かれて行ったか。今までこれを考えた人は少ないけれども、実はとても面白い問題です。もちろん太郎という名の人が数人あり、清という名の人が数人あるのを区別する目的といえばそれまでであるけれども、それだけのためならばことさらに珍しい面倒な名字を作る必要はないので、一号の清とか二号の太郎とかいうような、下足札のような分類でないことはいうまでもないことであります。
ならばいかなる生活上の必要があってこのような名字を伝えるようになったか、これはやや古い時代の社会を研究してみなければ、明白なる解答を与えることができないのです。
地名と名字との関係
これはおそらく誰もが知っていることであろうと思いますが、多くの名字は地名と同じだということです。たとえば京都から移住して来られた旧華族の家々の名と同じ地名が、京都の町にはとても多いのです。我々の郷里の附近には、たとえ同じ所でないとしてもしばしば名字と同じ地名がある。たとえば鹿児島県に行ってみると、鹿児島藩士の一種変わった名字は、十の内、九までが薩摩、大隈、日向という国の郷の名であることがわかる。そうして我々の名字はどういう訳でこのように、地名と関連して共通するものであるか。地名によって名字を付けるならば、なぜ自分の住んでいる村の名を名字にしなくて、五里や十里離れた所の地名、またははるかに遠方の地名を持っているのか。この問題を少し説明してみようと思う。 | 日本人の名字の数のうち、より多い数を教えてください。 | 日本人の名字の数のうち、より多い数は十万です。 |
JCRRAG_018296 | 歴史 | 普墺戦争とは、1866年にプロイセンとオーストリアの間でおきた戦争です。両国はデンマーク戦争で共闘したのち、デンマークから獲得したシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州の扱いをめぐって対立し、戦争に発展しました。
普墺戦争後、戦争に勝利したプロイセンはドイツ統一の主導権を握りました。ドイツ統一から排除されたオーストリアはオーストリア=ハンガリー二重帝国となりました。
今回は普墺戦争がどのような戦争か、普墺戦争の原因は何か、普墺戦争が周辺国に与えた影響などについて解説します。
普墺戦争とは、1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国との間でおきた戦争です。両国は、プロイセンが急成長したことやドイツ統一の時に、プロイセンとオーストリアのどちらが中心となるべきかという問題などで対立を深めます。
1864年に起きたデンマーク戦争では、共同で出兵し勝利をおさめ、シュレスヴィヒ州とホルシュタイン州を獲得しました。しかし、両州の戦後処理をめぐってプロイセンとオーストリアが対立します。
プロイセンの宰相ビスマルクはオーストリアを挑発し戦争となりました。これが、普墺戦争です。また、オーストリアを北イタリアから追い出したいイタリアはプロイセン側として普墺戦争に参戦します。
普墺戦争は軍事力に勝るプロイセン軍の圧勝に終わりました。戦争後、プロイセンはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州を併合し、ドイツ統一問題でも主導権を握ります。
ドイツ統一から排除されたオーストリアはハンガリーと二重帝国を形成しました。
普墺戦争勃発までの背景
プロイセンの強大化
18世紀の初め、プロイセンを治めるホーエンツォレルン家はスペイン継承戦争でハプスブルク家に協力しました。その見返りとして、ホーエンツォレルン家はプロイセン国王の称号を得ます。
軍事力を強化したプロイセンは、18世紀半ばのオーストリア継承戦争屋七年戦争に勝利して豊かなシュレジェン地方を領土に加えます。さらに、18世紀後半のポーランド分割にも参加して東方に領土を拡大しました。
フランス革命の時、ナポレオン軍との戦いに敗れ多くの領土を失いました。しかし、国内改革で国力を回復しワーテルローの戦いに参加しました。この勝利によりプロイセンは大国に復帰します。
1862年、プロイセンの首相となったビスマルクは「鉄血政策」とよばれる富国強兵策を進めました。ビスマルクは議会の反対を抑え、軍備を拡張します。
ドイツ統一問題
1848年、フランスで起きた二月革命は他のヨーロッパ諸国にも強い影響を与えました。プロイセンやオーストリアでは三月革命が勃発し、保守的なウィーン体制が崩壊します。革命のさなか、ドイツも統一国家を作るべきだという機運が高まりました。
1848年5月、フランクフルトでドイツ統一と憲法制定を目指すフランクフルト国民議会が開かれました。しかし、統一ドイツの政体を君主政とするか、共和政とするかで対立します。
皇帝や国王などの、君主と呼ばれる存在が国家元首となって統治する政治体制を君主制と言います。
国家元首に君主を持たない政体であり、より正確には主権が君主以外にある政治体制を共和制と言います。
さらに、オーストリアのドイツ人居住地域を加えて統一ドイツ国家を作ろうとする「大ドイツ主義」とオーストリアを除き、プロイセンを中心としてドイツ人国家を作ろうとする「小ドイツ主義」の対立がおきました。
オーストリアとしては大ドイツ主義では自国がドイツ人地域と非ドイツ人地域に分断され弱体化します。小ドイツ主義では、プロイセンを中心とする大国ドイツが出来上がってしまいます。どちらにしても、オーストリアに不利だったのでドイツ統一に反対の立場でした。
オーストリアの反対を踏まえ、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義を採用し、プロイセン王をドイツ皇帝に選出しました。ところが、プロイセン王は議会によって皇帝に選出されることを拒否してしまいます。結局、フランクフルト国民議会は解散せざるを得ませんでした。 | 君主制と共和制の違いを教えてください。 | 君主制とは、皇帝や国王などの、君主と呼ばれる存在が国家元首となって統治する政治体制を指します。
一方、共和制は、国家元首に君主を持たない政治体制であり、主権が君主以外にある政治体制を指します。 |
JCRRAG_018297 | 歴史 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲である。
劉備のもとでの活躍
趙雲と劉備はどのようにして出会ったのでしょうか?出会いから主騎としての活躍までを振り返ります。
公孫瓚の部下から劉備の主騎に
趙雲は冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人といわれており、もともとは群雄のひとり・公孫瓚(こうそんさん)の部下でした。字は子龍。劉備は流浪時代、公孫瓚に能力を認められて厚遇された時期があり、趙雲はこのころ劉備に出会ったようです。二人で戦いに出ることもあったといわれていることから、親交も深めていたのでしょう。その後の建安5年(200)、劉備は独立したものの曹操に敗れ、袁紹のもとへ身を寄せました。そこに趙雲が訪ね、劉備に召し抱えられ主騎になったといわれています。この前年、公孫瓚が滅んで趙雲は流浪の身になっていたのです。
長坂の戦いで劉備の妻子を救出!
このころ、漢の丞相・曹操は華北を平定し、荊州方面へと目を向けていました。最後の敵だった荊州牧・劉表への攻撃を決めた曹操は、荊州進出のため大軍を引き連れて南下。荊州の客将だった劉備はこれを支えきれず逃亡しました。曹操は少数精鋭で追撃し、南郡当陽県の長坂で劉備に追いつきます。このとき劉備は妻子を捨てて逃げ出し、殿軍を引き受けた張飛の活躍により無事に江夏へ敗走。趙雲は残された嫡子・劉禅を抱え、その生母である甘夫人を保護しました。劉備の娘2人は捕獲されたものの、趙雲の活躍により劉備夫人と劉禅は助かったのです。この長坂の戦いのあと、趙雲は牙門将軍に昇進しました。
益州平定後、翊軍将軍に就任
三顧の礼により仲間に引き入れた軍師・諸葛亮(孔明)の戦略により、劉備軍は赤壁の戦いで勝利を収めます。その後、劉備は荊州南部を占拠し、家臣たちに推されて荊州牧になりました。建安16年(211)蜀の主・劉璋から戦いに加勢してもらうために劉備軍を益州に入れてほしいとの要請があり、劉備は蜀に入ります。劉備が承諾した裏には、この機に蜀を乗っ取ろうという目論見がありました。劉璋の部下である張松・法正はすでに劉璋を見限っており、この機に益州を獲るよう劉備に打診。渋る劉備でしたが、軍師中郎将・龐統(ほうとう)の進言により蜀の乗っ取りを決断します。このとき趙雲は荊州に留まっていましたが、劉備が蜀の首都・成都に侵攻すると、諸葛亮・張飛らとともに入蜀して益州の各郡県を平定。江州から西進して江陽を攻略し、益州平定後は翊軍将軍に就任しました。
北伐への従軍と最期
勢力を拡大していった劉備軍でしたが、劉備は志半ばにして死に、諸葛亮による北伐が行われます。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、劉備に召し抱えられ何になったか。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、劉備に召し抱えられ主騎になった。 |
JCRRAG_018298 | 歴史 | 今日の多くの人の命名の由来
曾我五郎・十郎の頃になると、そろそろ壊れはじめ、ほぼ今日の通称に類似して来ましたけれども、それでも原則としてはまず前述の方法を採用して、近世に及んだことは人の知る通りであります。しかし人がようやく増えて来て、一つの村落に五十戸や八十戸や百戸の人家が集まり、または三里離れた村や五里離れた隣村と交際するようになっては、そもそもこのような単純な方法では、同年輩の若者を弁別することができなくなりました。それでも京都に住んでいる官吏はもちろん、良い家柄のものならば、一代に二度三度京都に勤番をして、名誉官を拝命して帰って来るから、当然これをもって他人と区別することができたけれども、そのへんの平民に至っては、やはり八丈島ないしはロシア・ノルウェーの古い慣習のように、父の名でも頭に付けなければまずわかりません。そこでわが国にも次郎三郎、四郎五郎等の名前がだんだんできて来たのであります。また父が達者でいる間に悴の太郎が成人して、世間の交際を初めるようになると、仕方がないから家柄の家でも、区別するために太郎太郎ともいえぬから小太郎、新太郎などといっております。そのまた悴が世に出れば孫太郎、そのまた子が世に出れば、まさか曾祖父と混同されることもないけれども、死んだ太郎や父の孫太郎、祖父の小太郎に対して区別をするために、彦太郎と名を付ける。これが今日の多くの人の名というものの由来です。
通称のたびたび変更する京都の貴族
ついでに今少し名の話をするならば、京都の貴族は名字になると、一代に十度も十五度も昇進して、いずれの官が終極という事がないから、通称がたびたび変更されるのです。昨日まで四位少将であった人が今日は三位中将殿になっている。翌年は文官に転じて中納言殿と称えられなければならないようになるので、それが果たして字であるやら、はたまた我々官吏が長官に向かって、長官といい局長というと同じ意味の通称やら、区別することができない。" | 一つの村落に集まる人家の数のうち、もっとも多い数を教えてください。 | 一つの村落に集まる人家の数のうち、もっとも多い数は百戸です。 |
JCRRAG_018299 | 歴史 | 普墺戦争とは、1866年にプロイセンとオーストリアの間でおきた戦争です。両国はデンマーク戦争で共闘したのち、デンマークから獲得したシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州の扱いをめぐって対立し、戦争に発展しました。
普墺戦争後、戦争に勝利したプロイセンはドイツ統一の主導権を握りました。ドイツ統一から排除されたオーストリアはオーストリア=ハンガリー二重帝国となりました。
今回は普墺戦争がどのような戦争か、普墺戦争の原因は何か、普墺戦争が周辺国に与えた影響などについて解説します。
普墺戦争とは、1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国との間でおきた戦争です。両国は、プロイセンが急成長したことやドイツ統一の時に、プロイセンとオーストリアのどちらが中心となるべきかという問題などで対立を深めます。
1864年に起きたデンマーク戦争では、共同で出兵し勝利をおさめ、シュレスヴィヒ州とホルシュタイン州を獲得しました。しかし、両州の戦後処理をめぐってプロイセンとオーストリアが対立します。
プロイセンの宰相ビスマルクはオーストリアを挑発し戦争となりました。これが、普墺戦争です。また、オーストリアを北イタリアから追い出したいイタリアはプロイセン側として普墺戦争に参戦します。
普墺戦争は軍事力に勝るプロイセン軍の圧勝に終わりました。戦争後、プロイセンはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州を併合し、ドイツ統一問題でも主導権を握ります。
ドイツ統一から排除されたオーストリアはハンガリーと二重帝国を形成しました。
普墺戦争勃発までの背景
プロイセンの強大化
18世紀の初め、プロイセンを治めるホーエンツォレルン家はスペイン継承戦争でハプスブルク家に協力しました。その見返りとして、ホーエンツォレルン家はプロイセン国王の称号を得ます。
軍事力を強化したプロイセンは、18世紀半ばのオーストリア継承戦争屋七年戦争に勝利して豊かなシュレジェン地方を領土に加えます。さらに、18世紀後半のポーランド分割にも参加して東方に領土を拡大しました。
フランス革命の時、ナポレオン軍との戦いに敗れ多くの領土を失いました。しかし、国内改革で国力を回復しワーテルローの戦いに参加しました。この勝利によりプロイセンは大国に復帰します。
1862年、プロイセンの首相となったビスマルクは「鉄血政策」とよばれる富国強兵策を進めました。ビスマルクは議会の反対を抑え、軍備を拡張します。
ドイツ統一問題
1848年、フランスで起きた二月革命は他のヨーロッパ諸国にも強い影響を与えました。プロイセンやオーストリアでは三月革命が勃発し、保守的なウィーン体制が崩壊します。革命のさなか、ドイツも統一国家を作るべきだという機運が高まりました。
1848年5月、フランクフルトでドイツ統一と憲法制定を目指すフランクフルト国民議会が開かれました。しかし、統一ドイツの政体を君主政とするか、共和政とするかで対立します。
皇帝や国王などの、君主と呼ばれる存在が国家元首となって統治する政治体制を君主制と言います。
国家元首に君主を持たない政体であり、より正確には主権が君主以外にある政治体制を共和制と言います。
さらに、オーストリアのドイツ人居住地域を加えて統一ドイツ国家を作ろうとする「大ドイツ主義」とオーストリアを除き、プロイセンを中心としてドイツ人国家を作ろうとする「小ドイツ主義」の対立がおきました。
オーストリアとしては大ドイツ主義では自国がドイツ人地域と非ドイツ人地域に分断され弱体化します。小ドイツ主義では、プロイセンを中心とする大国ドイツが出来上がってしまいます。どちらにしても、オーストリアに不利だったのでドイツ統一に反対の立場でした。
オーストリアの反対を踏まえ、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義を採用し、プロイセン王をドイツ皇帝に選出しました。ところが、プロイセン王は議会によって皇帝に選出されることを拒否してしまいます。結局、フランクフルト国民議会は解散せざるを得ませんでした。 | 大ドイツ主義と小ドイツ主義の違いを教えてください。 | 大ドイツ主義とは、オーストリアのドイツ人居住地域だけで統一ドイツ国家を作ろうとすることを指します。
一方、小ドイツ主義とは、オーストリアを除き、プロイセンを中心としてドイツ人国家を作ろうと進められたことを指します。 |
JCRRAG_018300 | 歴史 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲である。
劉備の死、劉禅の即位
劉備の蜀の乗っ取りが成功すると、諸葛亮が発案した天下三分の形勢がほぼ定まりました。しかし、蜀を奪って勢力を拡大させた劉備は孫権から警戒され、荊州の諸郡の返還を求められます。劉備はこれを拒否し、両者は対立。孫権は荊州を奪還すべく曹操と同盟を組んで荊州本拠を襲撃し、関羽を破って荊州を手に入れました。このころ劉備は漢中を手に入れ「漢中王」を自称していましたが、蜀の群臣に推され建安26年(221)蜀漢の皇帝に就任します。
同年、関羽の弔い合戦として夷陵の戦いで孫権を攻めるも、最終的に陸遜の火計策により大敗。章武3年(223)劉備の死に伴い17歳の劉禅が即位すると、趙雲は劉禅のもと、昇進を重ねて鎮東将軍となりました。
北伐で敗北を喫する
劉禅が皇帝に即位した後、蜀の政治を任されたのは諸葛亮でした。諸葛亮は関羽の死によってこじれた呉との関係を修復し、北に位置する魏への進攻(北伐)を計画。建興6年(228)ついに北伐が開始されます。魏の第2代皇帝・曹叡は曹真に軍の指揮を命じ、趙雲と対峙することになりました。兵力は趙雲の方が上だったものの、曹真軍は強く敗北を喫してしまいます。趙雲はみずから殿軍を務めて退却し大敗を逃れましたが、これにより降格または禄を減らされたようです。こうして晩年まで戦場で奮闘した趙雲は、建興7年(229)に死去。子・趙統が跡を継ぎました。
『三国志演義』での描かれ方
劉備、そして劉禅のもとで戦い抜いた趙雲ですが、『三国志演義』での彼はどのように描かれているのでしょうか?
五虎大将軍として関羽・張飛と同格に
関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の5人は、蜀を代表する武将「五虎大将」とされています。これは『三国志演義』における創作ですが、『正史』で5人の伝記が1つにまとめられていることから「五虎大将」ができたと考えられます。『正史』では、関羽・黄忠・馬超・張飛はそれぞれ前後左右の将軍位ですが、趙雲は翊軍将軍のため、5人の中で最も位が低い武将です。しかし『三国志演義』ではほかの4人と同格に位置付けられています。
3メートルの槍を使いこなす
『三国志演義』での趙雲は、約3メートルもある「涯角槍」(がいかくそう)という槍が得意な人物として描かれています。変わった名前ですが、この由来は「生涯に敵う者なし」という意味で趙雲が名付けたのだとか。また、『三国志演義』では、趙雲がこの槍で張飛と互角に一騎討ちをしたというエピソードもあります。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、いつ死去したか。 | 劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、建興7年(229)に死去した。 |
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