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歴史
今日の多くの人の命名の由来 曾我五郎・十郎の頃になると、そろそろ壊れはじめ、ほぼ今日の通称に類似して来ましたけれども、それでも原則としてはまず前述の方法を採用して、近世に及んだことは人の知る通りであります。しかし人がようやく増えて来て、一つの村落に五十戸や八十戸や百戸の人家が集まり、または三里離れた村や五里離れた隣村と交際するようになっては、そもそもこのような単純な方法では、同年輩の若者を弁別することができなくなりました。それでも京都に住んでいる官吏はもちろん、良い家柄のものならば、一代に二度三度京都に勤番をして、名誉官を拝命して帰って来るから、当然これをもって他人と区別することができたけれども、そのへんの平民に至っては、やはり八丈島ないしはロシア・ノルウェーの古い慣習のように、父の名でも頭に付けなければまずわかりません。そこでわが国にも次郎三郎、四郎五郎等の名前がだんだんできて来たのであります。また父が達者でいる間に悴の太郎が成人して、世間の交際を初めるようになると、仕方がないから家柄の家でも、区別するために太郎太郎ともいえぬから小太郎、新太郎などといっております。そのまた悴が世に出れば孫太郎、そのまた子が世に出れば、まさか曾祖父と混同されることもないけれども、死んだ太郎や父の孫太郎、祖父の小太郎に対して区別をするために、彦太郎と名を付ける。これが今日の多くの人の名というものの由来です。 通称のたびたび変更する京都の貴族 ついでに今少し名の話をするならば、京都の貴族は名字になると、一代に十度も十五度も昇進して、いずれの官が終極という事がないから、通称がたびたび変更されるのです。昨日まで四位少将であった人が今日は三位中将殿になっている。翌年は文官に転じて中納言殿と称えられなければならないようになるので、それが果たして字であるやら、はたまた我々官吏が長官に向かって、長官といい局長というと同じ意味の通称やら、区別することができない。"
一つの村落に集まる人家の数のうち、もっとも少ない数を教えてください。
一つの村落に集まる人家の数のうち、もっとも少ない数は五十戸です。
JCRRAG_018302
歴史
普墺戦争とは、1866年にプロイセンとオーストリアの間でおきた戦争です。両国はデンマーク戦争で共闘したのち、デンマークから獲得したシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州の扱いをめぐって対立し、戦争に発展しました。 普墺戦争後、戦争に勝利したプロイセンはドイツ統一の主導権を握りました。ドイツ統一から排除されたオーストリアはオーストリア=ハンガリー二重帝国となりました。 今回は普墺戦争がどのような戦争か、普墺戦争の原因は何か、普墺戦争が周辺国に与えた影響などについて解説します。 普墺戦争とは、1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国との間でおきた戦争です。両国は、プロイセンが急成長したことやドイツ統一の時に、プロイセンとオーストリアのどちらが中心となるべきかという問題などで対立を深めます。 1864年に起きたデンマーク戦争では、共同で出兵し勝利をおさめ、シュレスヴィヒ州とホルシュタイン州を獲得しました。しかし、両州の戦後処理をめぐってプロイセンとオーストリアが対立します。 プロイセンの宰相ビスマルクはオーストリアを挑発し戦争となりました。これが、普墺戦争です。また、オーストリアを北イタリアから追い出したいイタリアはプロイセン側として普墺戦争に参戦します。 普墺戦争は軍事力に勝るプロイセン軍の圧勝に終わりました。戦争後、プロイセンはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州を併合し、ドイツ統一問題でも主導権を握ります。 ドイツ統一から排除されたオーストリアはハンガリーと二重帝国を形成しました。 普墺戦争勃発までの背景 プロイセンの強大化 18世紀の初め、プロイセンを治めるホーエンツォレルン家はスペイン継承戦争でハプスブルク家に協力しました。その見返りとして、ホーエンツォレルン家はプロイセン国王の称号を得ます。 軍事力を強化したプロイセンは、18世紀半ばのオーストリア継承戦争屋七年戦争に勝利して豊かなシュレジェン地方を領土に加えます。さらに、18世紀後半のポーランド分割にも参加して東方に領土を拡大しました。 フランス革命の時、ナポレオン軍との戦いに敗れ多くの領土を失いました。しかし、国内改革で国力を回復しワーテルローの戦いに参加しました。この勝利によりプロイセンは大国に復帰します。 1862年、プロイセンの首相となったビスマルクは「鉄血政策」とよばれる富国強兵策を進めました。ビスマルクは議会の反対を抑え、軍備を拡張します。 ドイツ統一問題 1848年、フランスで起きた二月革命は他のヨーロッパ諸国にも強い影響を与えました。プロイセンやオーストリアでは三月革命が勃発し、保守的なウィーン体制が崩壊します。革命のさなか、ドイツも統一国家を作るべきだという機運が高まりました。 1848年5月、フランクフルトでドイツ統一と憲法制定を目指すフランクフルト国民議会が開かれました。しかし、統一ドイツの政体を君主政とするか、共和政とするかで対立します。 皇帝や国王などの、君主と呼ばれる存在が国家元首となって統治する政治体制を君主制と言います。 国家元首に君主を持たない政体であり、より正確には主権が君主以外にある政治体制を共和制と言います。 さらに、オーストリアのドイツ人居住地域を加えて統一ドイツ国家を作ろうとする「大ドイツ主義」とオーストリアを除き、プロイセンを中心としてドイツ人国家を作ろうとする「小ドイツ主義」の対立がおきました。 オーストリアとしては大ドイツ主義では自国がドイツ人地域と非ドイツ人地域に分断され弱体化します。小ドイツ主義では、プロイセンを中心とする大国ドイツが出来上がってしまいます。どちらにしても、オーストリアに不利だったのでドイツ統一に反対の立場でした。 オーストリアの反対を踏まえ、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義を採用し、プロイセン王をドイツ皇帝に選出しました。ところが、プロイセン王は議会によって皇帝に選出されることを拒否してしまいます。結局、フランクフルト国民議会は解散せざるを得ませんでした。
オーストリアが、大ドイツ主義と小ドイツ主義に反対する理由の違いを教えてください。
大ドイツ主義にオーストリアが反対する理由は、オーストリアがドイツ人地域と非ドイツ人地域に分断され弱体化してしまうからです。一方の小ドイツ主義にオーストリアが反対する理由は、プロイセンを中心とする大国ドイツが出来上がってしまうからです。
JCRRAG_018303
歴史
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲である。 劉備の死、劉禅の即位 劉備の蜀の乗っ取りが成功すると、諸葛亮が発案した天下三分の形勢がほぼ定まりました。しかし、蜀を奪って勢力を拡大させた劉備は孫権から警戒され、荊州の諸郡の返還を求められます。劉備はこれを拒否し、両者は対立。孫権は荊州を奪還すべく曹操と同盟を組んで荊州本拠を襲撃し、関羽を破って荊州を手に入れました。このころ劉備は漢中を手に入れ「漢中王」を自称していましたが、蜀の群臣に推され建安26年(221)蜀漢の皇帝に就任します。 同年、関羽の弔い合戦として夷陵の戦いで孫権を攻めるも、最終的に陸遜の火計策により大敗。章武3年(223)劉備の死に伴い17歳の劉禅が即位すると、趙雲は劉禅のもと、昇進を重ねて鎮東将軍となりました。 北伐で敗北を喫する 劉禅が皇帝に即位した後、蜀の政治を任されたのは諸葛亮でした。諸葛亮は関羽の死によってこじれた呉との関係を修復し、北に位置する魏への進攻(北伐)を計画。建興6年(228)ついに北伐が開始されます。魏の第2代皇帝・曹叡は曹真に軍の指揮を命じ、趙雲と対峙することになりました。兵力は趙雲の方が上だったものの、曹真軍は強く敗北を喫してしまいます。趙雲はみずから殿軍を務めて退却し大敗を逃れましたが、これにより降格または禄を減らされたようです。こうして晩年まで戦場で奮闘した趙雲は、建興7年(229)に死去。子・趙統が跡を継ぎました。 『三国志演義』での描かれ方 劉備、そして劉禅のもとで戦い抜いた趙雲ですが、『三国志演義』での彼はどのように描かれているのでしょうか? 五虎大将軍として関羽・張飛と同格に 関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の5人は、蜀を代表する武将「五虎大将」とされています。これは『三国志演義』における創作ですが、『正史』で5人の伝記が1つにまとめられていることから「五虎大将」ができたと考えられます。『正史』では、関羽・黄忠・馬超・張飛はそれぞれ前後左右の将軍位ですが、趙雲は翊軍将軍のため、5人の中で最も位が低い武将です。しかし『三国志演義』ではほかの4人と同格に位置付けられています。 3メートルの槍を使いこなす 『三国志演義』での趙雲は、約3メートルもある「涯角槍」(がいかくそう)という槍が得意な人物として描かれています。変わった名前ですが、この由来は「生涯に敵う者なし」という意味で趙雲が名付けたのだとか。また、『三国志演義』では、趙雲がこの槍で張飛と互角に一騎討ちをしたというエピソードもあります。
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、劉禅のもと、昇進を重ねて何になったか。
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、劉禅のもと、昇進を重ねて鎮東将軍となった。
JCRRAG_018304
歴史
今日の多くの人の命名の由来 曾我五郎・十郎の頃になると、そろそろ壊れはじめ、ほぼ今日の通称に類似して来ましたけれども、それでも原則としてはまず前述の方法を採用して、近世に及んだことは人の知る通りであります。しかし人がようやく増えて来て、一つの村落に五十戸や八十戸や百戸の人家が集まり、または三里離れた村や五里離れた隣村と交際するようになっては、そもそもこのような単純な方法では、同年輩の若者を弁別することができなくなりました。それでも京都に住んでいる官吏はもちろん、良い家柄のものならば、一代に二度三度京都に勤番をして、名誉官を拝命して帰って来るから、当然これをもって他人と区別することができたけれども、そのへんの平民に至っては、やはり八丈島ないしはロシア・ノルウェーの古い慣習のように、父の名でも頭に付けなければまずわかりません。そこでわが国にも次郎三郎、四郎五郎等の名前がだんだんできて来たのであります。また父が達者でいる間に悴の太郎が成人して、世間の交際を初めるようになると、仕方がないから家柄の家でも、区別するために太郎太郎ともいえぬから小太郎、新太郎などといっております。そのまた悴が世に出れば孫太郎、そのまた子が世に出れば、まさか曾祖父と混同されることもないけれども、死んだ太郎や父の孫太郎、祖父の小太郎に対して区別をするために、彦太郎と名を付ける。これが今日の多くの人の名というものの由来です。 通称のたびたび変更する京都の貴族 ついでに今少し名の話をするならば、京都の貴族は名字になると、一代に十度も十五度も昇進して、いずれの官が終極という事がないから、通称がたびたび変更されるのです。昨日まで四位少将であった人が今日は三位中将殿になっている。翌年は文官に転じて中納言殿と称えられなければならないようになるので、それが果たして字であるやら、はたまた我々官吏が長官に向かって、長官といい局長というと同じ意味の通称やら、区別することができない。"
京都の貴族が一代に昇進する数のうち、より多い数を教えてください。
京都の貴族が一代に昇進する数のうち、より多い数は十五です。
JCRRAG_018305
歴史
普墺戦争の直接的な2つの原因とは? デンマーク戦争 ユトランド半島南部にシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国という国がありました。両国はデンマークの支配下にありましたが、住民の多くはドイツ系です。プロイセンは両国の帰属をめぐりデンマークと対立しました。 1863年、デンマーク王に即位したクリスチャン9世はシュレスヴィヒをデンマークに併合すると表明しました。これに対し、シュレスヴィヒの住民はホルシュタインとともに独自の公をたててデンマークの併合に反対します。 プロイセンの首相ビスマルクは、同じドイツ人国家であるオーストリアに共同出兵を持ち掛けます。これにオーストリアが同意したため、プロイセン・オーストリアの連合軍はデンマーク戦争を始めました。 戦いは質量ともに勝るプロイセン・オーストリア連合軍はデンマーク軍を圧倒します。デンマーク戦争はプロイセン・オーストリア連合軍の勝利に終わりました。 シュレスヴィヒ・ホルシュタインの処分問題 1865年、デンマークとプロイセン・オーストリアは講和条約を結びます。この条約で、シュレスヴィヒはプロイセンが、ホルシュタインはオーストリアが、それぞれ支配することになりました。 プロイセンのビスマルク首相は、この機にプロイセン領と接するホルシュタインの獲得も狙います。ホルシュタインには、バルト海に面する重要な港のキールがあったことも狙いの一つでしょう。 プロイセン軍はホルシュタインのオーストリア軍をしきりに挑発します。1866年の6月7日には、プロイセン軍が東ホルシュタインに進出しました。もはや、プロイセンとオーストリアの戦いは回避不能な状況になりました。
デンマークとプロイセン・オーストリアは講和条約を結んだことで、プロイセンとオーストリアが支配することになった国の違いを教えてください。
講和条約を結んだ結果、シュレスヴィヒはプロイセンが支配することになりました。 一方、ホルシュタインは講和条約を結んだ結果、オーストリアが支配することになりました。
JCRRAG_018306
歴史
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲である。 劉備の死、劉禅の即位 劉備の蜀の乗っ取りが成功すると、諸葛亮が発案した天下三分の形勢がほぼ定まりました。しかし、蜀を奪って勢力を拡大させた劉備は孫権から警戒され、荊州の諸郡の返還を求められます。劉備はこれを拒否し、両者は対立。孫権は荊州を奪還すべく曹操と同盟を組んで荊州本拠を襲撃し、関羽を破って荊州を手に入れました。このころ劉備は漢中を手に入れ「漢中王」を自称していましたが、蜀の群臣に推され建安26年(221)蜀漢の皇帝に就任します。 同年、関羽の弔い合戦として夷陵の戦いで孫権を攻めるも、最終的に陸遜の火計策により大敗。章武3年(223)劉備の死に伴い17歳の劉禅が即位すると、趙雲は劉禅のもと、昇進を重ねて鎮東将軍となりました。 北伐で敗北を喫する 劉禅が皇帝に即位した後、蜀の政治を任されたのは諸葛亮でした。諸葛亮は関羽の死によってこじれた呉との関係を修復し、北に位置する魏への進攻(北伐)を計画。建興6年(228)ついに北伐が開始されます。魏の第2代皇帝・曹叡は曹真に軍の指揮を命じ、趙雲と対峙することになりました。兵力は趙雲の方が上だったものの、曹真軍は強く敗北を喫してしまいます。趙雲はみずから殿軍を務めて退却し大敗を逃れましたが、これにより降格または禄を減らされたようです。こうして晩年まで戦場で奮闘した趙雲は、建興7年(229)に死去。子・趙統が跡を継ぎました。 『三国志演義』での描かれ方 劉備、そして劉禅のもとで戦い抜いた趙雲ですが、『三国志演義』での彼はどのように描かれているのでしょうか? 五虎大将軍として関羽・張飛と同格に 関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の5人は、蜀を代表する武将「五虎大将」とされています。これは『三国志演義』における創作ですが、『正史』で5人の伝記が1つにまとめられていることから「五虎大将」ができたと考えられます。『正史』では、関羽・黄忠・馬超・張飛はそれぞれ前後左右の将軍位ですが、趙雲は翊軍将軍のため、5人の中で最も位が低い武将です。しかし『三国志演義』ではほかの4人と同格に位置付けられています。 3メートルの槍を使いこなす 『三国志演義』での趙雲は、約3メートルもある「涯角槍」(がいかくそう)という槍が得意な人物として描かれています。変わった名前ですが、この由来は「生涯に敵う者なし」という意味で趙雲が名付けたのだとか。また、『三国志演義』では、趙雲がこの槍で張飛と互角に一騎討ちをしたというエピソードもあります。
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、みずから殿軍を務めて退却し大敗を逃れましたが、これによりどうなったか。
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、みずから殿軍を務めて退却し大敗を逃れましたが、これにより降格または禄を減らされた。
JCRRAG_018307
歴史
地方の豪族武士の称呼 これに反して地方の豪族武士なるものは、その実力においては優に京官を驚かすに足るものがあったけれども、その官階は気の毒なほど低い。これが中央政府の地方を制馭した政策であって、非常に功労がない限りは関東八州などに住んでいた大地主は、何度京都へ参勤しても父または祖父の任せられた以上の官に、任せられる見込みはほとんとなかった。すなわち家々には栄誉の極点、昔の語で言えば前途というものがあって、通例、尉という武官に任ぜられる事であります。 右衛門尉 左衛門尉 右兵衛尉 左兵衛尉 というものが実際は空官であったけれども、地方の武士を奨励する唯一の栄典であったのです。それでも地方人は素朴なもので、これをもらうためにいかなる労をも辞せぬという傾向があったので、頼朝が鎌倉に幕府を開いてからは、地方人の任官を非常に制限して、必ず将軍を経由して上奏をしなければ任命せられてはならぬことに定めました。ゆえに本家の家督相続人一人を除くほかは、相応な家柄の息子でも、やはりただの次郎三郎で一生を終えることになったのであります。そうなって来ると、有名無実の一微官たる左衛門尉・右衛門尉もいよいよもって涙のこぼれるほどありがたいものとなり、従って国に帰ってもしすでに左衛門尉となっている太郎殿を、太郎左衛門尉と呼ばずに間違えて、ただ、太郎殿と呼ぼうものなら、もちろん決闘くらいは申し込んだのであります。 何左衛門・何兵衛という通称の多い理由 以上の説明で今日の地方人に、何左衛門・何兵衛の通称が多い理由は、ほぼ想像ができるであろうと思う。ただ尉という文字はいつとなく取り落とされてしまったけれども、つい近来まで表立った場合には尉の字をくっつけたのです。四五百年来の太郎左衛門・三郎兵衛は、言うまでもなく朝廷から授けられたものではありませぬ。親がその名であったから悴も差し支えないことと思い、隣村の地主がそれであったから自分もそれにしようくらいに、だんだん自分で勝手につける事になってしまって、三万の太郎左衛門、五万の三郎兵衛を生ずるに至ったのであります。 明治維新の行政庁は、名義を正す目的をもって、かくのごとき官名の僭称の嫌いある字は一時禁じられたことがあります。その後いつとなくその禁は解けたけれども、今日に源在文・文恵茂・何平などいう通称を持った四十歳や五十歳の年輩の人がいるのは、まったくその禁令の結果文字だけを取り換えたものである。
親がその名であったから悴も差し支えないことと思い、隣村の地主がそれであったから自分もそれにしようくらいに、だんだん自分で勝手につける事になってしまって、太郎左衛門、三郎兵衛という名前のものが増えたが、より多かったほうの名前を教えてください。
より多かったほうの名前は五万の三郎兵衛です。
JCRRAG_018308
歴史
プロイセンの勝因は? プロイセンの勝因は4つあります。 一つ目は、オーストリア軍より優れた銃を持っていたことです。銃の先端から弾をこめる先ごめ銃を使っていたオーストリア軍は1分間に2発程度しか発射できません。プロイセン軍のドライゼ銃は銃身の後ろから弾を込めることができるので、1分間に5発以上の発射が可能でした。 二つ目は、鉄道や電信の有効活用です。プロイセン軍は国内に張り巡らされた鉄道を使い、軍を高速移動させることが可能でした。また、電信網も整備され、情報伝達のスピードもオーストリア軍と桁違いの速さでした。 三つ目は名将モルトケの存在です。モルトケは鉄道を利用した兵力の高速移動を行い、オーストリア軍をほんろうします。ケーニヒグレーツの戦いの序盤、プロイセン軍が不利だった時も全く動じず、好みの葉巻を選ぶ余裕を見 せ同行していたビスマルクを安堵させます。 四つ目はイタリアとの同盟でした。イタリアはオーストリアを攻撃しました。戦争終結後、イタリアはオーストリアからヴェネツィアを獲得します。 普墺戦争が周辺国に与えた影響とは? 普墺戦争の結果、プロイセンはドイツ統一の中心となりました。これにより、ドイツ統一は「小ドイツ主義」で進められることが決まります。 一方、ドイツ統一から排除されたオーストリアは帝国内第2の民族であるハンガリーとの連携を強化し、オーストリア=ハンガリー二重帝国を成立させました。オーストリアがハンガリーの自治を大幅に認めたため「アウスグライヒ(妥協)」といわれます。 プロイセンを中心とした統一ドイツ出現を恐れたのがフランス皇帝ナポレオン3世でした。ビスマルクもドイツ統一の最後の障害をフランスと考えます。普墺戦争後、プロイセンとフランスの関係は目に見えて悪化し、1870年の普仏戦争を迎えます。
普墺戦争における、プロイセンとオーストリア軍の銃の違いを教えてください。
オーストリア軍は、銃の先端から弾をこめる先ごめ銃を使っていました。 一方、プロイセン軍が使っていたドライゼ銃は、銃身の後ろから弾を込めることができるので、オーストリア軍の先ごめ銃の倍以上の速度で発射することができました。
JCRRAG_018309
歴史
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲である。 劉備の死、劉禅の即位 劉備の蜀の乗っ取りが成功すると、諸葛亮が発案した天下三分の形勢がほぼ定まりました。しかし、蜀を奪って勢力を拡大させた劉備は孫権から警戒され、荊州の諸郡の返還を求められます。劉備はこれを拒否し、両者は対立。孫権は荊州を奪還すべく曹操と同盟を組んで荊州本拠を襲撃し、関羽を破って荊州を手に入れました。このころ劉備は漢中を手に入れ「漢中王」を自称していましたが、蜀の群臣に推され建安26年(221)蜀漢の皇帝に就任します。 同年、関羽の弔い合戦として夷陵の戦いで孫権を攻めるも、最終的に陸遜の火計策により大敗。章武3年(223)劉備の死に伴い17歳の劉禅が即位すると、趙雲は劉禅のもと、昇進を重ねて鎮東将軍となりました。 北伐で敗北を喫する 劉禅が皇帝に即位した後、蜀の政治を任されたのは諸葛亮でした。諸葛亮は関羽の死によってこじれた呉との関係を修復し、北に位置する魏への進攻(北伐)を計画。建興6年(228)ついに北伐が開始されます。魏の第2代皇帝・曹叡は曹真に軍の指揮を命じ、趙雲と対峙することになりました。兵力は趙雲の方が上だったものの、曹真軍は強く敗北を喫してしまいます。趙雲はみずから殿軍を務めて退却し大敗を逃れましたが、これにより降格または禄を減らされたようです。こうして晩年まで戦場で奮闘した趙雲は、建興7年(229)に死去。子・趙統が跡を継ぎました。 『三国志演義』での描かれ方 劉備、そして劉禅のもとで戦い抜いた趙雲ですが、『三国志演義』での彼はどのように描かれているのでしょうか? 五虎大将軍として関羽・張飛と同格に 関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の5人は、蜀を代表する武将「五虎大将」とされています。これは『三国志演義』における創作ですが、『正史』で5人の伝記が1つにまとめられていることから「五虎大将」ができたと考えられます。『正史』では、関羽・黄忠・馬超・張飛はそれぞれ前後左右の将軍位ですが、趙雲は翊軍将軍のため、5人の中で最も位が低い武将です。しかし『三国志演義』ではほかの4人と同格に位置付けられています。 3メートルの槍を使いこなす 『三国志演義』での趙雲は、約3メートルもある「涯角槍」(がいかくそう)という槍が得意な人物として描かれています。変わった名前ですが、この由来は「生涯に敵う者なし」という意味で趙雲が名付けたのだとか。また、『三国志演義』では、趙雲がこの槍で張飛と互角に一騎討ちをしたというエピソードもあります。
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、何が得意な人物として描かれたか。
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲は、約3メートルもある「涯角槍」(がいかくそう)という槍が得意な人物として描かれた。
JCRRAG_018310
歴史
同じ通称の区別法 一地方において三人とか五人の衛門尉、二人か四人かの兵衛尉がいた時は、その頭に太郎・次郎を付けさえすれば、字、すなわち個人を差別する方法としては、目的を達したようであるけれども、年代を経、人数の多くなるとともに、故人までも合せればぜんぜんとその数が多くなって来て、ついには同じ通称のものがそちらこちらにできて来る、いうまでもなく官名を持たぬただの太郎次郎に至っては、初めから親の名前くらいでは充分な区別をすることができなかったから、さらにその上に何かの差別法を設けなければならぬ。そこで立ち戻って自分の家の姓によって、源氏の家の太郎ならば源太といい、平家の三郎ならば平三というのも一つの方法であったのであります。今日行われている名頭というもの、すなわち人の通称の吉というのは橘氏です。勘というのは菅原氏、弥というのは小野氏、清というのは清原氏、忠というのは中原氏、藤はもちろん藤原氏です。 これらは皆多数の次郎・三郎を区別するために菅太・野三・橘六・中七等と称えた遺風です。しかし一地方に植民をして来るものは多くは同一家であって、その姓を同じくしているのが普通であるから、一族蔓延の場合にはこれもまた区別になりにくい。ここにおいてか第四の方法として、居住地をもって称呼とするのはきわめて自然の順序でありました。今日でも庄兵衛というものが二人いれば、川端の庄兵衛とか上屋敷の庄兵衛とかいうのが普通の例であります。 また背丈が四尺二寸の庄兵衛と五尺の庄兵衛がいれば高いほうの庄兵衛や低いほうの庄兵衛とも言えますがさすがに低いほうに罰がわるいでしょう。 これは決して近代に始まったことではなく、おおよそ日本人が村をなしてともに住み、郷党が交を結ぶ場合には、もし互いの実名を呼ぶのを避けるとすれば、かくのごとくするほかはなかったのであります。 山城の京遷都の始め頃にできた『日本霊異記』という書には、紀州の百姓で字を上田の三郎といったものがあります。今日の語で言えば上田は氏名であるけれどもこの男にも別に親の付けてくれた尊い名告はあったので、その名告と上田の三郎とを合せたものを名字と言うのもすでに誤りであるが、家の号ばかりを名字というようになったのは、いよいよもって誤用転訛と見なければならぬ。しかしながらこのような時勢の変遷は、必ずしも昔に引き戻すことを必要とせぬ。ことに今日では通称と名告とを二つ持つことは法律の許さざるところでもあるし、いったん戸籍に登録されたる自分の名前は三郎兵衛・太郎左衛門と言うごとき昔の意味でいう字に当たるものも、または堅苦しい漢字の二つ繋がった名の訓に相応するものでも、皆字ではなくして真実の「名」であって、しかも西洋風にこれを呼びかけることを諱いまない時節となったのであるからして、新しい風俗に従って字というものを捨ててしまわなければならぬ。そうなって来れば今日の会話語で、家号のことを名字といっても、どこにも差支えることがないのであります。 さて前段がはなはだ長くなったけれども、昔の人の字の中でも一人一人について変って行く部分、すなわち通称についてはだいたい説明を終りましたから、この次には一人一人について変らぬ部分、すなわち家号、今日の語で言えば名字の話を、今少ししてみようと思う。
一地方において、より衛門尉の多い数を教えてください。
一地方において、より衛門尉の多い数は五人です。
JCRRAG_018311
歴史
プロイセンの圧勝 普仏戦争ではフランスやプロイセン各地で戦争が行われましたが、中でもフランスが勝ったのは最初の1回のみで後の戦いは全てプロイセンが圧勝を収めています。 最後に行われたパリ攻囲戦ではフランスは完全にお手上げ状態で降伏し、戦争後に結ばれたフランクフルト講和条約もプロイセンに有利な条件で結ばれたので戦勝国はプロイセンで、フランスは敗戦国という結果に終わりました。 これには、両国の兵力の差が影響しています。当時のフランスとプロイセンの力国で軍制度がそれぞれ異なっていて、フランス軍は常備兵、プロイセン軍は徴兵制で軍を維持していました。 常備兵とはいわゆる職業軍人と呼ばれる、仕事として軍人をしている国民が兵役を務める軍制度で、有事の際にも軍をすぐに動かせるというメリットを持っています。そのため、フランスが宣戦布告してすぐに進軍し、ザールブリュッケンを占拠できたのもこれが勝因となっています。 しかし、常備兵は職業として軍人をしている人間で構成されているので、数に限りがあるというデメリットがありました。 これに対して、プロイセン軍の徴兵制は男子であれば必ず兵役をこなさなけばならないという法律をもとに作られた義務でした。そのため、常備兵よりも圧倒的に数が多いというメリットがあったのです。このような理由から、普仏戦争でもフランスの兵力の2倍近くの動員数で反撃が出来たのでどの戦いでも勝利を収められたと言われています。 またプロイセン軍は、参謀本部を設置しています。参謀とは指揮官のサポートのことで、プロイセンはこの参謀を独立した専門職にし、参謀の考えた作戦を指揮官に提示するシステムを確立したのです。 このシステムの採用により指揮官の独断で動くことを防ぎ、効率的に作戦を遂行できるようになったのでした。 フランスの敗因 普仏戦争におけるフランスの敗因は戦争への準備不足にあります。当時のドイツ諸国はプロイセンとそのほか南ドイツの4つの国が敵対していて、フランスは戦争になっても他国が協力してプロイセンを叩いてくれることを期待していました。 しかし、頼みの綱であった南ドイツの諸国はビスマルクの外交手腕の力もあり、フランスではなくプロイセンの味方をしたり中立的立場をとってしまいます。さらに、オーストリアやハンガリー軍は普墺戦争のダメージが抜けきっておらず、南ドイツの諸国がフランスに付いたら味方しようと思っていたようです。結果として南ドイツ諸国がフランスにつかなかったので中立を決め込んでしまったため、フランスは孤立してしまったのです。 また、プロイセンは戦争に備えて兵士を迅速に移動できるために鉄道を6つ作り参謀本部を設置し、スパイを放って敵の動向を探っていたりと、周到に準備を行っていました。 これに対してフランスは参謀本部も無く、鉄道の数は1本のみで戦争が始まってみると圧倒的に不利です。つまり、普仏戦争は戦争が起こる前までに設備や制度を整えていたプロイセンの作戦勝ちとも言えます。"
普仏戦争における、フランス軍の常備兵、プロイセン軍の徴兵制のメリットの違いを教えてください。
フランス軍の常備兵とは、職業軍人と呼ばれる、仕事として軍人をしている国民が兵役を務める軍制度で、有事の際にも軍をすぐに動かせるというメリットがあります。 プロイセン軍の徴兵制とは、男子は必ず兵役をこなさなけばならないという法律をもとに作られた義務でした。そのため、常備兵よりも圧倒的に数が多いというメリットがあります。
JCRRAG_018312
歴史
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、趙雲である。 劉備の死、劉禅の即位 劉備の蜀の乗っ取りが成功すると、諸葛亮が発案した天下三分の形勢がほぼ定まりました。しかし、蜀を奪って勢力を拡大させた劉備は孫権から警戒され、荊州の諸郡の返還を求められます。劉備はこれを拒否し、両者は対立。孫権は荊州を奪還すべく曹操と同盟を組んで荊州本拠を襲撃し、関羽を破って荊州を手に入れました。このころ劉備は漢中を手に入れ「漢中王」を自称していましたが、蜀の群臣に推され建安26年(221)蜀漢の皇帝に就任します。 同年、関羽の弔い合戦として夷陵の戦いで孫権を攻めるも、最終的に陸遜の火計策により大敗。章武3年(223)劉備の死に伴い17歳の劉禅が即位すると、趙雲は劉禅のもと、昇進を重ねて鎮東将軍となりました。 北伐で敗北を喫する 劉禅が皇帝に即位した後、蜀の政治を任されたのは諸葛亮でした。諸葛亮は関羽の死によってこじれた呉との関係を修復し、北に位置する魏への進攻(北伐)を計画。建興6年(228)ついに北伐が開始されます。魏の第2代皇帝・曹叡は曹真に軍の指揮を命じ、趙雲と対峙することになりました。兵力は趙雲の方が上だったものの、曹真軍は強く敗北を喫してしまいます。趙雲はみずから殿軍を務めて退却し大敗を逃れましたが、これにより降格または禄を減らされたようです。こうして晩年まで戦場で奮闘した趙雲は、建興7年(229)に死去。子・趙統が跡を継ぎました。 『三国志演義』での描かれ方 劉備、そして劉禅のもとで戦い抜いた趙雲ですが、『三国志演義』での彼はどのように描かれているのでしょうか? 五虎大将軍として関羽・張飛と同格に 関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の5人は、蜀を代表する武将「五虎大将」とされています。これは『三国志演義』における創作ですが、『正史』で5人の伝記が1つにまとめられていることから「五虎大将」ができたと考えられます。『正史』では、関羽・黄忠・馬超・張飛はそれぞれ前後左右の将軍位ですが、趙雲は翊軍将軍のため、5人の中で最も位が低い武将です。しかし『三国志演義』ではほかの4人と同格に位置付けられています。 3メートルの槍を使いこなす 『三国志演義』での趙雲は、約3メートルもある「涯角槍」(がいかくそう)という槍が得意な人物として描かれています。変わった名前ですが、この由来は「生涯に敵う者なし」という意味で趙雲が名付けたのだとか。また、『三国志演義』では、趙雲がこの槍で張飛と互角に一騎討ちをしたというエピソードもあります。
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、五虎大将軍の一人とされているか。
劉備の息子・劉禅を救ったことで知られている人物は、五虎大将軍の一人とされている。
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同じ通称の区別法 一地方において三人とか五人の衛門尉、二人か四人かの兵衛尉がいた時は、その頭に太郎・次郎を付けさえすれば、字、すなわち個人を差別する方法としては、目的を達したようであるけれども、年代を経、人数の多くなるとともに、故人までも合せればぜんぜんとその数が多くなって来て、ついには同じ通称のものがそちらこちらにできて来る、いうまでもなく官名を持たぬただの太郎次郎に至っては、初めから親の名前くらいでは充分な区別をすることができなかったから、さらにその上に何かの差別法を設けなければならぬ。そこで立ち戻って自分の家の姓によって、源氏の家の太郎ならば源太といい、平家の三郎ならば平三というのも一つの方法であったのであります。今日行われている名頭というもの、すなわち人の通称の吉というのは橘氏です。勘というのは菅原氏、弥というのは小野氏、清というのは清原氏、忠というのは中原氏、藤はもちろん藤原氏です。 これらは皆多数の次郎・三郎を区別するために菅太・野三・橘六・中七等と称えた遺風です。しかし一地方に植民をして来るものは多くは同一家であって、その姓を同じくしているのが普通であるから、一族蔓延の場合にはこれもまた区別になりにくい。ここにおいてか第四の方法として、居住地をもって称呼とするのはきわめて自然の順序でありました。今日でも庄兵衛というものが二人いれば、川端の庄兵衛とか上屋敷の庄兵衛とかいうのが普通の例であります。 また背丈が四尺二寸の庄兵衛と五尺の庄兵衛がいれば高いほうの庄兵衛や低いほうの庄兵衛とも言えますがさすがに低いほうに罰がわるいでしょう。 これは決して近代に始まったことではなく、おおよそ日本人が村をなしてともに住み、郷党が交を結ぶ場合には、もし互いの実名を呼ぶのを避けるとすれば、かくのごとくするほかはなかったのであります。 山城の京遷都の始め頃にできた『日本霊異記』という書には、紀州の百姓で字を上田の三郎といったものがあります。今日の語で言えば上田は氏名であるけれどもこの男にも別に親の付けてくれた尊い名告はあったので、その名告と上田の三郎とを合せたものを名字と言うのもすでに誤りであるが、家の号ばかりを名字というようになったのは、いよいよもって誤用転訛と見なければならぬ。しかしながらこのような時勢の変遷は、必ずしも昔に引き戻すことを必要とせぬ。ことに今日では通称と名告とを二つ持つことは法律の許さざるところでもあるし、いったん戸籍に登録されたる自分の名前は三郎兵衛・太郎左衛門と言うごとき昔の意味でいう字に当たるものも、または堅苦しい漢字の二つ繋がった名の訓に相応するものでも、皆字ではなくして真実の「名」であって、しかも西洋風にこれを呼びかけることを諱いまない時節となったのであるからして、新しい風俗に従って字というものを捨ててしまわなければならぬ。そうなって来れば今日の会話語で、家号のことを名字といっても、どこにも差支えることがないのであります。 さて前段がはなはだ長くなったけれども、昔の人の字の中でも一人一人について変って行く部分、すなわち通称についてはだいたい説明を終りましたから、この次には一人一人について変らぬ部分、すなわち家号、今日の語で言えば名字の話を、今少ししてみようと思う。
二人の庄兵衛のうち、背丈の低い庄兵衛の身長を教えてください。
二人の庄兵衛のうち、背丈の低い庄兵衛の身長は四尺二寸です。
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プロイセンの圧勝 普仏戦争ではフランスやプロイセン各地で戦争が行われましたが、中でもフランスが勝ったのは最初の1回のみで後の戦いは全てプロイセンが圧勝を収めています。 最後に行われたパリ攻囲戦ではフランスは完全にお手上げ状態で降伏し、戦争後に結ばれたフランクフルト講和条約もプロイセンに有利な条件で結ばれたので戦勝国はプロイセンで、フランスは敗戦国という結果に終わりました。 これには、両国の兵力の差が影響しています。当時のフランスとプロイセンの力国で軍制度がそれぞれ異なっていて、フランス軍は常備兵、プロイセン軍は徴兵制で軍を維持していました。 常備兵とはいわゆる職業軍人と呼ばれる、仕事として軍人をしている国民が兵役を務める軍制度で、有事の際にも軍をすぐに動かせるというメリットを持っています。そのため、フランスが宣戦布告してすぐに進軍し、ザールブリュッケンを占拠できたのもこれが勝因となっています。 しかし、常備兵は職業として軍人をしている人間で構成されているので、数に限りがあるというデメリットがありました。 これに対して、プロイセン軍の徴兵制は男子であれば必ず兵役をこなさなけばならないという法律をもとに作られた義務でした。そのため、常備兵よりも圧倒的に数が多いというメリットがあったのです。このような理由から、普仏戦争でもフランスの兵力の2倍近くの動員数で反撃が出来たのでどの戦いでも勝利を収められたと言われています。 またプロイセン軍は、参謀本部を設置しています。参謀とは指揮官のサポートのことで、プロイセンはこの参謀を独立した専門職にし、参謀の考えた作戦を指揮官に提示するシステムを確立したのです。 このシステムの採用により指揮官の独断で動くことを防ぎ、効率的に作戦を遂行できるようになったのでした。 フランスの敗因 普仏戦争におけるフランスの敗因は戦争への準備不足にあります。当時のドイツ諸国はプロイセンとそのほか南ドイツの4つの国が敵対していて、フランスは戦争になっても他国が協力してプロイセンを叩いてくれることを期待していました。 しかし、頼みの綱であった南ドイツの諸国はビスマルクの外交手腕の力もあり、フランスではなくプロイセンの味方をしたり中立的立場をとってしまいます。さらに、オーストリアやハンガリー軍は普墺戦争のダメージが抜けきっておらず、南ドイツの諸国がフランスに付いたら味方しようと思っていたようです。結果として南ドイツ諸国がフランスにつかなかったので中立を決め込んでしまったため、フランスは孤立してしまったのです。 また、プロイセンは戦争に備えて兵士を迅速に移動できるために鉄道を6つ作り参謀本部を設置し、スパイを放って敵の動向を探っていたりと、周到に準備を行っていました。 これに対してフランスは参謀本部も無く、鉄道の数は1本のみで戦争が始まってみると圧倒的に不利です。つまり、普仏戦争は戦争が起こる前までに設備や制度を整えていたプロイセンの作戦勝ちとも言えます。"
普仏戦争において、フランスは他国の協力を期待していましたが、「南ドイツ諸国」や「オーストリアやハンガリー」が協力せず孤立してしまった理由の違いを教えてください。
普仏戦争において、南ドイツの諸国はビスマルクの外交手腕の力もあり、フランスではなくプロイセンの味方をしたり中立的立場をとってしまいます。 一方、オーストリアやハンガリー軍は普墺戦争のダメージが抜けきっておらず、南ドイツの諸国がフランスに付いたら味方しようと思っていたようです。
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関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、張飛である。 義勇兵からの飛躍 張飛は劉備と出会い、大きく飛躍していきました。義勇兵から劉備軍の主将になるまでの張飛について振り返ります。 関羽とともに劉備に従う 張飛は涿郡のうまれで、実家は肉屋を営んでいたといわれています。字は益徳、または翼徳。黄巾の乱の義勇兵として関羽とともに劉備の徒党に加わり、以後、劉備を主君として立てて護衛を務めました。3人は兄弟のような関係で、とくに張飛は劉備・関羽より年少だったため、2人を兄のように慕っていたようです。やがて劉備が公孫瓚(こうそんさん)に取り立てられて平原郡の相となると、張飛は別部司馬(武官の一種)に就任。関羽とともにそれぞれ軍の指揮を執る将となりました。 大失態!?留守を任されたが…… 興平元年(194)徐州に身を寄せていた劉備は、陶謙に位を譲られて徐州牧に就任。その後、徐州に侵攻してきた袁術と戦いになり、張飛は本拠地の下邳の留守を任されました。このとき劉備に身を寄せていた呂布が下邳を攻撃し、張飛と対立関係にあった下邳の相・曹豹がこれに呼応。この戦いに敗北にした張飛は、劉備の妻子を捕虜にされるという失態を犯してしまいます。その後、劉備は呂布と和睦するも再び対立し、曹操のもとに身を寄せました。曹操・劉備連合軍が呂布討伐を始めると、張飛はこれに参戦して功績をあげ、曹操から中郎将に任命されます。しかし、ほどなくして劉備が離反。曹操のもとを去った劉備は袁紹・劉表に身を寄せ、張飛もそれにつき従いました。 長坂の戦いで活躍! 建安13年(208)劉表の死により曹操が荊州に侵攻すると、劉備は江南へと逃亡します。曹操から逃れ当陽県・長坂に到着した劉備は、さらなる曹操の追撃に妻子を放棄して逃亡。このときわずかな兵で殿(しんがり)を引き受けた張飛は、敵軍を追い払うため橋を焼き落とし、「俺は張飛だ!俺と勝負したいやつは出てこい!」と豪語したといいます。これを聞いた曹操軍は、誰も張飛に近づこうとしないままに撤退。こうして劉備は無事に助かりました。 張飛、劉備軍の主将になる 建安16年(211)劉璋に招かれて益州に入った劉備は、翌年に益州奪取を計画します。諸葛亮・趙雲らとともに侵攻した張飛は、劉璋軍との戦いに勝利し郡県を平定しました。この功績が評価され、褒賞を得るとともに巴西郡の長官に就任。建安22年(217)の漢中侵攻では敵方の曹洪・曹休らに苦戦し撤退したものの、2年後に劉備は漢中攻略を果たします。このとき張飛は、前線である漢中の守備を一任されるものと思われましたが、周囲からの人望がないことを理由に守備から外されてしまいます。しかし、劉備が漢中王に就任した直後に右将軍・仮節に就任し、劉備が蜀漢を建国すると西郷侯に昇進しました。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、誰とともに義勇兵として劉備に従ったか。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、関羽とともに劉備の徒党に加わり、以後、劉備を主君として立てて護衛を務めました。
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同じ通称の区別法 一地方において三人とか五人の衛門尉、二人か四人かの兵衛尉がいた時は、その頭に太郎・次郎を付けさえすれば、字、すなわち個人を差別する方法としては、目的を達したようであるけれども、年代を経、人数の多くなるとともに、故人までも合せればぜんぜんとその数が多くなって来て、ついには同じ通称のものがそちらこちらにできて来る、いうまでもなく官名を持たぬただの太郎次郎に至っては、初めから親の名前くらいでは充分な区別をすることができなかったから、さらにその上に何かの差別法を設けなければならぬ。そこで立ち戻って自分の家の姓によって、源氏の家の太郎ならば源太といい、平家の三郎ならば平三というのも一つの方法であったのであります。今日行われている名頭というもの、すなわち人の通称の吉というのは橘氏です。勘というのは菅原氏、弥というのは小野氏、清というのは清原氏、忠というのは中原氏、藤はもちろん藤原氏です。 これらは皆多数の次郎・三郎を区別するために菅太・野三・橘六・中七等と称えた遺風です。しかし一地方に植民をして来るものは多くは同一家であって、その姓を同じくしているのが普通であるから、一族蔓延の場合にはこれもまた区別になりにくい。ここにおいてか第四の方法として、居住地をもって称呼とするのはきわめて自然の順序でありました。今日でも庄兵衛というものが二人いれば、川端の庄兵衛とか上屋敷の庄兵衛とかいうのが普通の例であります。 また背丈が四尺二寸の庄兵衛と五尺の庄兵衛がいれば高いほうの庄兵衛や低いほうの庄兵衛とも言えますがさすがに低いほうに罰がわるいでしょう。 これは決して近代に始まったことではなく、おおよそ日本人が村をなしてともに住み、郷党が交を結ぶ場合には、もし互いの実名を呼ぶのを避けるとすれば、かくのごとくするほかはなかったのであります。 山城の京遷都の始め頃にできた『日本霊異記』という書には、紀州の百姓で字を上田の三郎といったものがあります。今日の語で言えば上田は氏名であるけれどもこの男にも別に親の付けてくれた尊い名告はあったので、その名告と上田の三郎とを合せたものを名字と言うのもすでに誤りであるが、家の号ばかりを名字というようになったのは、いよいよもって誤用転訛と見なければならぬ。しかしながらこのような時勢の変遷は、必ずしも昔に引き戻すことを必要とせぬ。ことに今日では通称と名告とを二つ持つことは法律の許さざるところでもあるし、いったん戸籍に登録されたる自分の名前は三郎兵衛・太郎左衛門と言うごとき昔の意味でいう字に当たるものも、または堅苦しい漢字の二つ繋がった名の訓に相応するものでも、皆字ではなくして真実の「名」であって、しかも西洋風にこれを呼びかけることを諱いまない時節となったのであるからして、新しい風俗に従って字というものを捨ててしまわなければならぬ。そうなって来れば今日の会話語で、家号のことを名字といっても、どこにも差支えることがないのであります。 さて前段がはなはだ長くなったけれども、昔の人の字の中でも一人一人について変って行く部分、すなわち通称についてはだいたい説明を終りましたから、この次には一人一人について変らぬ部分、すなわち家号、今日の語で言えば名字の話を、今少ししてみようと思う。
同じ通称の区別法として、庄兵衛さん二人を背の高さで区別していますが、高いほうの身長を教えてください。
庄兵衛さん二人を背の高さで区別している例の高いほうの身長は五尺です。
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歴史
日清戦争を簡単に解説 日清戦争とは、日本と清(しん、当時大陸にあった満州人の国家)の間で行われた戦いです。その名が示す通り、日本と清の争いではありましたが、主な戦場は朝鮮半島でした。明治維新を皮切りに近代化の道を歩んできた日本が、初めて近代化された軍隊を駆使して戦った対外戦争でした。 詳細は「戦争の原因は?」の部分で後述しますが、当時の強国であったロシアが植民地政策の一環として南へ勢力拡大を図ってきました。このロシアの南下政策に対抗するため、日本としては朝鮮を独立した近代国家にする必要がありました。その際に、朝鮮を属国化していた清と、朝鮮半島を巡って争うことになったのです。 どちらが勝ったのか? ところで、日清戦争はどちらが勝ったのでしょうか?結論から言うと、日本の圧勝でした。清の海軍は日本の軍艦に接近し、乗り込んできて青龍刀を振り回す近接戦闘で挑みかかってきましたが、これは一昔前の海戦の方法でした。近代化した日本海軍は、清の船が近寄れない距離から砲撃を行い、清軍を圧倒しました。 日本は海戦、陸戦ともに連戦連勝で、一説には「戦いを通じて、日本人1人あたり平均して35発しか弾丸を使わなかった」とも言われています。 勝因はなんだったのか? 当時の清は、日本の経済規模の約5倍で、世界2位の経済大国でありながら日本に完敗しました。なぜ日本は、圧倒的な国力を誇る清に圧勝できたのでしょうか? 日本は、嘉永6年(1853年)の黒船来航に直面し、幕末動乱の時代を乗り切って明治維新を実現、約30年に渡り欧米列強に屈しない強い国づくり(富国強兵)を目指してきました。戊辰戦争で活躍し、近代陸軍の父と讃えられる「大村益次郎」以来、近代式の軍隊の育成に力を注ぎ、軍の規律や武装面で清をはるかに凌駕していました。このように準備してきた成果が、日清戦争で発揮されたのです。 「眠れる獅子」と恐れられた大国 清は、新興国の日本に大敗、その弱さを露呈してしまったことで、清の領土は欧米列強に侵食されていきました。一方の日本は、その存在を世界に示し、独立国としての立場を守り抜きました。危機意識を持って近代化を推し進めた日本、そして旧来の体制のまま変わることを拒んだ清の明暗が、はっきり結果として表れたのです。
日清戦争における、清と日本の軍の戦法の違いを教えてください。
清の海軍は日本の軍艦に接近し、乗り込んできて青龍刀を振り回す近接戦闘で挑みかかってきましたが、これは一昔前の海戦の方法でした。 一方、近代化していた日本海軍は、清の船が近寄れない距離から砲撃を行い、清軍を圧倒しました。一説には「戦いを通じて、日本の兵は平均してひとり数十発しか弾丸を使わなかった」とも言われています。
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関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、張飛である。 義勇兵からの飛躍 張飛は劉備と出会い、大きく飛躍していきました。義勇兵から劉備軍の主将になるまでの張飛について振り返ります。 関羽とともに劉備に従う 張飛は涿郡のうまれで、実家は肉屋を営んでいたといわれています。字は益徳、または翼徳。黄巾の乱の義勇兵として関羽とともに劉備の徒党に加わり、以後、劉備を主君として立てて護衛を務めました。3人は兄弟のような関係で、とくに張飛は劉備・関羽より年少だったため、2人を兄のように慕っていたようです。やがて劉備が公孫瓚(こうそんさん)に取り立てられて平原郡の相となると、張飛は別部司馬(武官の一種)に就任。関羽とともにそれぞれ軍の指揮を執る将となりました。 大失態!?留守を任されたが…… 興平元年(194)徐州に身を寄せていた劉備は、陶謙に位を譲られて徐州牧に就任。その後、徐州に侵攻してきた袁術と戦いになり、張飛は本拠地の下邳の留守を任されました。このとき劉備に身を寄せていた呂布が下邳を攻撃し、張飛と対立関係にあった下邳の相・曹豹がこれに呼応。この戦いに敗北にした張飛は、劉備の妻子を捕虜にされるという失態を犯してしまいます。その後、劉備は呂布と和睦するも再び対立し、曹操のもとに身を寄せました。曹操・劉備連合軍が呂布討伐を始めると、張飛はこれに参戦して功績をあげ、曹操から中郎将に任命されます。しかし、ほどなくして劉備が離反。曹操のもとを去った劉備は袁紹・劉表に身を寄せ、張飛もそれにつき従いました。 長坂の戦いで活躍! 建安13年(208)劉表の死により曹操が荊州に侵攻すると、劉備は江南へと逃亡します。曹操から逃れ当陽県・長坂に到着した劉備は、さらなる曹操の追撃に妻子を放棄して逃亡。このときわずかな兵で殿(しんがり)を引き受けた張飛は、敵軍を追い払うため橋を焼き落とし、「俺は張飛だ!俺と勝負したいやつは出てこい!」と豪語したといいます。これを聞いた曹操軍は、誰も張飛に近づこうとしないままに撤退。こうして劉備は無事に助かりました。 張飛、劉備軍の主将になる 建安16年(211)劉璋に招かれて益州に入った劉備は、翌年に益州奪取を計画します。諸葛亮・趙雲らとともに侵攻した張飛は、劉璋軍との戦いに勝利し郡県を平定しました。この功績が評価され、褒賞を得るとともに巴西郡の長官に就任。建安22年(217)の漢中侵攻では敵方の曹洪・曹休らに苦戦し撤退したものの、2年後に劉備は漢中攻略を果たします。このとき張飛は、前線である漢中の守備を一任されるものと思われましたが、周囲からの人望がないことを理由に守備から外されてしまいます。しかし、劉備が漢中王に就任した直後に右将軍・仮節に就任し、劉備が蜀漢を建国すると西郷侯に昇進しました。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、誰から中郎将に任命されたか。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、曹操から中郎将に任命されます。
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歴史
昔は一戸の人口が百にも達した 元来日本の家の制度は現在まれに飛騨の白川などに残っているように、一戸の人口が非常に多いものであったのであります。これは古代戸籍の制度の影響もあって、複雑な問題でこの際述べることもできないが、奈良の正倉院に残っている大宝時代の諸国の戸籍などを見ると、普通の百姓でも一戸の人口が、八十から九十から百に達するものも少なくないのであります。そしてこれらの一族が一つの大屋の下に、枕を並べて眠っていたかというに、これはとうてい想像しうる事でないので、一人一人がそれぞれ労働をするのに、あらゆる方角に、二キロ先や三キロ先と出て行って耕作をしなければならぬ。したがって広く山野の間に住宅が散在していて、たとえ他人は正当の氏を呼ぶとしても、家族相互の間では今日村々で中屋敷とか新屋敷とか呼ぶごとく、または日本橋辺で室町の御宅、小網町の旦那というように親類を呼ぶごとく、個々の別宅に何か名をつけておかなくてはならぬようになったのであります。 公卿華族の家名はことごとく京都の地名 これが武家発生時代、すなわち地方豪族が開墾の利益を独占した八幡太郎の頃になると、遺産相続の問題もこれに加わって、いよいよもって一家に属する個々の住宅が殖え、したがって名字に居住地を呼ぶ必要がにわかに増して来たものと察せられる。『尊卑分脈』などを見てもきわめて明白であるが、京都でも田舎でも一時に家号の増加したのはこの時である。たとえば藤原家でも基経・時平の頃までは、たとい分かれ分かれて住んでいても皆同じ藤原家の人々であることが明白に現われているが、それから次になるとだんだんと屋敷所在地の地名を家号に用いて、二条殿といい九条殿といい、それぞれ家が分かれて来ることになる。それ以前においてはこれだけ身分の高い貴族になると、他人からは決して藤原殿とも基経殿とも断じていわれない。その当時の官名とか屋敷の場所とか何か通称をもって呼んでいる。おそれ多い話であるが、わが国の皇族の今日の状態は、すなわちこの風習を永遠に継続させるものであって、それがわが国のとうといところであります。しかるに藤原家のごとく皇室に次いで顕栄を極めた家でも、財産を分ち兄弟同士で喧嘩するようになっては、たちまちにして家号というものが明白に樹立して、二条殿と九条殿と一条殿と近衛殿とは、別の家のような気がしてしまったのであります。今日のいわゆる公卿華族の家の名を見渡せば、すぐに気がつくことであるが、そのほとんと全部は京の町あるいはその附近の地名である。氏としては源平藤橘の数姓を出ず、とくに藤原氏はその八割を占めているけれども、それが今日のごとく多く別れて来たのであります。
一人一人がそれぞれ労働をするのに、あらゆる方角に出て行くうち、より遠い距離を教えてください。
一人一人がそれぞれ労働をするのに、あらゆる方角に出て行くうち、より遠い距離は三キロです。
JCRRAG_018320
歴史
日清戦争の原因は? 近代化を推し進めた日本 すでに述べた通り、嘉永6年(1853年)のマシュー・ペリー提督率いる黒船がやってきたことで、日本は幕末動乱の時代を迎えました。欧米列強との軍事力の差を目の当たりにした日本は、列強に追いつかんとし、古い体制である江戸幕府を倒し明治維新を成し遂げました。 欧米列強がアジア諸国を植民地化していく時代の真っただ中にあって、日本を独立国家として存続させるためには「近代化」は絶対に必要だったのです。近代化し富国強兵を行い、列強に負けない軍事力を持たなければ、日本の独立は守れません。つまり「日本の近代化」こそが、明治維新の最大の目的でした。そして、日本にとって地理的にも近く、最も脅威であった列強国がロシアでした。 ロシアの脅威 日本にとっての脅威だった北の大国ロシア。日清戦争というと、どうしても日本と清に目が行ってしまいますが、その背景にはロシアの存在が大きく関係していました。 当時の状況としては、ロシアが南へ勢力拡大を狙っている状態。ロシアは北方にあって寒いので、冬になると海が凍ってしまいます。なので、冬でも使える港「不凍港」が、ロシアは喉から手が出るほど欲しかったのです。ゆえに南下政策を推し進めていました。ロシアが南下した先には清があり朝鮮半島があります。そしてその先には日本があります。日本と朝鮮は隣の国なので、朝鮮半島がロシアの手に落ちた場合、日本はロシアの脅威をもろに受けてしまいます。つまり、いつロシアに侵略されてもおかしくない状況になってしまうのです。 ゆえに日本としては、清の属国だった朝鮮に独立国家になって近代化してもらい、ともにロシアに立ち向かってもらわなければならなかったのです。 朝鮮を従属国にしておきたかった清 しかし、朝鮮は清の属国なので、日本の思惑通りにはなりませんでした。この時の清は全盛期の勢いは失われていたものの、依然として大国であることには変わりがありません。また、体制の変化を嫌うのは人間の常であり、旧体制を守ろうとする勢力は、いつの時代もどこの国でも必ず存在します。 このような「清は朝鮮の宗主国である」という自負やプライドがあり、朝鮮が清から独立することを良しとしない勢力も一定数存在してました。この日本と清の朝鮮半島への対応の違いが、後に日本と清の軍事衝突へと発展していくのです。
日清戦争の原因となった、日本と清の立場の違いを教えてください。
日本は、朝鮮を通して日本へと南下しようとするロシアの脅威を恐れ、清の属国だった朝鮮に独立国家になって近代化してもらい、ともにロシアに立ち向かって欲しかったのです。 一方、朝鮮を属国としていた清としては、朝鮮が清から独立することを良しとするわけにはいきませんでした。結果として軍事衝突へと発展していくことになります。
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関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、張飛である。 義勇兵からの飛躍 張飛は劉備と出会い、大きく飛躍していきました。義勇兵から劉備軍の主将になるまでの張飛について振り返ります。 関羽とともに劉備に従う 張飛は涿郡のうまれで、実家は肉屋を営んでいたといわれています。字は益徳、または翼徳。黄巾の乱の義勇兵として関羽とともに劉備の徒党に加わり、以後、劉備を主君として立てて護衛を務めました。3人は兄弟のような関係で、とくに張飛は劉備・関羽より年少だったため、2人を兄のように慕っていたようです。やがて劉備が公孫瓚(こうそんさん)に取り立てられて平原郡の相となると、張飛は別部司馬(武官の一種)に就任。関羽とともにそれぞれ軍の指揮を執る将となりました。 大失態!?留守を任されたが…… 興平元年(194)徐州に身を寄せていた劉備は、陶謙に位を譲られて徐州牧に就任。その後、徐州に侵攻してきた袁術と戦いになり、張飛は本拠地の下邳の留守を任されました。このとき劉備に身を寄せていた呂布が下邳を攻撃し、張飛と対立関係にあった下邳の相・曹豹がこれに呼応。この戦いに敗北にした張飛は、劉備の妻子を捕虜にされるという失態を犯してしまいます。その後、劉備は呂布と和睦するも再び対立し、曹操のもとに身を寄せました。曹操・劉備連合軍が呂布討伐を始めると、張飛はこれに参戦して功績をあげ、曹操から中郎将に任命されます。しかし、ほどなくして劉備が離反。曹操のもとを去った劉備は袁紹・劉表に身を寄せ、張飛もそれにつき従いました。 長坂の戦いで活躍! 建安13年(208)劉表の死により曹操が荊州に侵攻すると、劉備は江南へと逃亡します。曹操から逃れ当陽県・長坂に到着した劉備は、さらなる曹操の追撃に妻子を放棄して逃亡。このときわずかな兵で殿(しんがり)を引き受けた張飛は、敵軍を追い払うため橋を焼き落とし、「俺は張飛だ!俺と勝負したいやつは出てこい!」と豪語したといいます。これを聞いた曹操軍は、誰も張飛に近づこうとしないままに撤退。こうして劉備は無事に助かりました。 張飛、劉備軍の主将になる 建安16年(211)劉璋に招かれて益州に入った劉備は、翌年に益州奪取を計画します。諸葛亮・趙雲らとともに侵攻した張飛は、劉璋軍との戦いに勝利し郡県を平定しました。この功績が評価され、褒賞を得るとともに巴西郡の長官に就任。建安22年(217)の漢中侵攻では敵方の曹洪・曹休らに苦戦し撤退したものの、2年後に劉備は漢中攻略を果たします。このとき張飛は、前線である漢中の守備を一任されるものと思われましたが、周囲からの人望がないことを理由に守備から外されてしまいます。しかし、劉備が漢中王に就任した直後に右将軍・仮節に就任し、劉備が蜀漢を建国すると西郷侯に昇進しました。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、長坂の戦いでどう敵軍を退けたか。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、敵軍を追い払うため橋を焼き落とした。
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歴史
昔は一戸の人口が百にも達した 元来日本の家の制度は現在まれに飛騨の白川などに残っているように、一戸の人口が非常に多いものであったのであります。これは古代戸籍の制度の影響もあって、複雑な問題でこの際述べることもできないが、奈良の正倉院に残っている大宝時代の諸国の戸籍などを見ると、普通の百姓でもって一戸の人口が奴婢までも併算すれば、八十から九十から百に達するものも少なくないのであります。そしてこれらの一族が一つの大屋の下に、枕を並べて眠っていたかというに、これはとうてい想像しうる事でないので、一人一人がそれぞれ労働をするのに、西に東に南に北に、二十町や三十町と出て行って耕作をしなければならぬ。したがって広く山野の間に住宅が散在していて、たとえ他人は正当の氏を呼ぶとしても、家族相互の間では今日村々で中屋敷とか新屋敷とか呼ぶごとく、または日本橋辺で室町の御宅、小網町の旦那というように親類を呼ぶごとく、個々の別宅に何か名をつけておかなくてはならぬようになったのであります。 公卿華族の家名はことごとく京都の地名 これが武家発生時代、すなわち地方豪族が開墾の利益を独占した八幡太郎の頃になると、遺産相続の問題もこれに加わって、いよいよもって一家に属する個々の住宅が殖え、したがって名字に居住地を呼ぶ必要がにわかに増して来たものと察せられる。『尊卑分脈』などを見てもきわめて明白であるが、京都でも田舎でも一時に家号の増加したのはこの時である。たとえば藤原家でも基経・時平の頃までは、たとい分かれ分かれて住んでいても皆同じ藤原家の人々であることが明白に現われているが、それから次になるとだんだんと屋敷所在地の地名を家号に用いて、二条殿といい九条殿といい、それぞれ家が分かれて来ることになる。それ以前においてはこれだけ身分の高い貴族になると、他人からは決して藤原殿とも基経殿とも断じていわれない。その当時の官名とか屋敷の場所とか何か通称をもって呼んでいる。おそれ多い話であるが、わが国の皇族の今日の状態は、すなわちこの風習を永遠に継続させるものであって、それがわが国のとうといところであります。しかるに藤原家のごとく皇室に次いで顕栄を極めた家でも、財産を分ち兄弟同士で喧嘩するようになっては、たちまちにして家号というものが明白に樹立して、二条殿と九条殿と一条殿と近衛殿とは、別の家のような気がしてしまったのであります。今日のいわゆる公卿華族の家の名を見渡せば、すぐに気がつくことであるが、そのほとんと全部は京の町あるいはその附近の地名である。氏としては源平藤橘の数姓を出ず、とくに藤原氏はその八割を占めているけれども、それが今日のごとく多く別れて来たのであります。"
一人一人がそれぞれ労働をするのに、あらゆる方角に出て行くうち、より近い距離を教えてください。
一人一人がそれぞれ労働をするのに、あらゆる方角に出て行くうち、より近い距離は二キロです。
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壬午軍乱と甲申政変で揺れる朝鮮半島 日清戦争とは、ロシアの脅威を背景とした、日本と清による朝鮮半島を巡る争いだったことはすでに述べました。なので、戦いの舞台となった朝鮮半島の情勢も確認しておきましょう。この頃の朝鮮半島では2つの大きな事件が起こっています。 明治15年(1882年)朝鮮半島では、朝鮮国王である高宗(こうそう)の妃「閔妃(びんひ)」と、高宗の父「大院君(だいいんくん)」による派閥抗争が起こっていました。つまり嫁と舅による内輪揉めです。この内輪揉めに介入してきたのが清でした。清の実権を握っていた西太后(せいたいごう)の命令により、袁世凱(えんせいがい)という人物が清の軍隊を率いて朝鮮の鎮圧に乗り出しました。これにより、朝鮮半島の内輪揉めは閔妃が勝利し、大院君は逮捕されてしまいました。この出来事を「壬午軍乱(じんごぐんらん)」、あるいは「壬午事変(じんごじへん)」と呼びます。これ以降、閔妃は急速に清へと接近していきました。 それから約2年後の明治17年(1884年)、清へとすり寄る閔妃に反発した「金玉均(きんぎょくきん)」や「朴泳孝(ぼくえいこう)」といった改革派の人物たちが、閔妃の専制政治を打破するため、日本のに援助を求めクーデターを起こしましす。しかし、またしても清が介入し、このクーデターは失敗に終わりました。この事件を「甲申政変」と呼びます。 天津条約の締結 このように、朝鮮半島内部では内輪揉めが起こっており、非常に不安定な状況でした。欧米列強の脅威に対し、朝鮮にも改革を推し進めようとする金玉均のような人物がいたのですが、旧来の体制を維持したい清、そして清にすり寄る閔妃によって、改革派はことごとく処刑されてしまいました。朝鮮を独立させたい日本と清の関係がどんどん不穏になっていきます。 この状況を懸念した日本は、清が朝鮮半島内の問題に介入しないようにするため、明治18年(1885年)、日本と清の間で「天津条約」を締結しました。天津条約では、「日本と清の両国は朝鮮へ勝手に軍隊を派遣しないこと、派遣する場合は互いに事前通告すること」を取り決めました。 日清戦争とは?原因や結果、結ばれた条約までわかりやすく解説 このような最中、一万円札紙幣の肖像で有名な「福沢諭吉」によって提唱されたのが「脱亜論(だつあろん)」でした。福沢諭吉は朝鮮の改革派だった金玉均を自宅に匿うなど、半島の独立を支援していました。しかし、甲申政変の後、清によって金玉均は無惨に処刑されてしまいました。 こうした事実を知った福沢諭吉が、新聞紙上で発表したのは脱亜論です。「欧米列強の脅威が東アジアに迫りくる中、国の独立を守るためには近代化するしかない。しかし、清や朝鮮には改革を成し遂げる意思も能力も無いと判断し、近隣諸国を見捨てでも日本は国力を貯え近代化すべきである」、というのが脱亜論の大まかな主張です。脱亜論が発表されたことで、清との戦いに臨む気運は高まっていきました。 朝鮮半島で発生した東学党の乱 明治27年(1894年)、朝鮮半島でまたしても事件が起こります。清にべったりな閔妃政権の独裁と腐敗に業を煮やした農民が大反乱を起こしたのです。この反乱は、新興宗教である「東学(とうがく)」の教徒たちによる農民反乱だったため、「東学党の乱(とうがくとうのらん)」と呼ばれています。あるいは「甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)」とも言います。 朝鮮は自力で乱を鎮めることもできず、またしても清に助けを求めました。この要求に対し清は呼応し軍を派遣します。ここで清が日本に事前通告をしないまま朝鮮に出兵し、軍を駐留させ続けました。つまり、日本と清の間で結ばれた天津条約違反です。 このままでは朝鮮が清に飲み込まれると判断した日本は、朝鮮半島にいる日本人の保護を名目に出兵を決意。欧米列強の脅威を退けるため朝鮮を独立国家にしたい日本と、近代化を望まず旧来のまま朝鮮を属国にしておきたい清の思惑は完全に決裂、こうして日清戦争へと突入していくのです。
朝鮮半島で起こった「壬午軍乱」と「甲申政変」を説明してください。
壬午軍乱とは、朝鮮国王である高宗の妃「閔妃」と、高宗の父「大院君」による派閥抗争に、清の西太后の命令により、清が軍隊を率いて朝鮮の鎮圧に乗り出たことを指します。結果閔妃が勝利し、大院君は逮捕されてしまいました。これ以降、閔妃は清へと接近していきました。 甲申政変とは、壬午軍乱から数年後、清へとすり寄る閔妃に反発した改革派の人物たちが、日本に援助を求めてクーデターを起こした事件を指します。またしても清が介入し、このクーデターは失敗に終わりました。
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関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、張飛である。 義勇兵からの飛躍 張飛は劉備と出会い、大きく飛躍していきました。義勇兵から劉備軍の主将になるまでの張飛について振り返ります。 関羽とともに劉備に従う 張飛は涿郡のうまれで、実家は肉屋を営んでいたといわれています。字は益徳、または翼徳。黄巾の乱の義勇兵として関羽とともに劉備の徒党に加わり、以後、劉備を主君として立てて護衛を務めました。3人は兄弟のような関係で、とくに張飛は劉備・関羽より年少だったため、2人を兄のように慕っていたようです。やがて劉備が公孫瓚(こうそんさん)に取り立てられて平原郡の相となると、張飛は別部司馬(武官の一種)に就任。関羽とともにそれぞれ軍の指揮を執る将となりました。 大失態!?留守を任されたが…… 興平元年(194)徐州に身を寄せていた劉備は、陶謙に位を譲られて徐州牧に就任。その後、徐州に侵攻してきた袁術と戦いになり、張飛は本拠地の下邳の留守を任されました。このとき劉備に身を寄せていた呂布が下邳を攻撃し、張飛と対立関係にあった下邳の相・曹豹がこれに呼応。この戦いに敗北にした張飛は、劉備の妻子を捕虜にされるという失態を犯してしまいます。その後、劉備は呂布と和睦するも再び対立し、曹操のもとに身を寄せました。曹操・劉備連合軍が呂布討伐を始めると、張飛はこれに参戦して功績をあげ、曹操から中郎将に任命されます。しかし、ほどなくして劉備が離反。曹操のもとを去った劉備は袁紹・劉表に身を寄せ、張飛もそれにつき従いました。 長坂の戦いで活躍! 建安13年(208)劉表の死により曹操が荊州に侵攻すると、劉備は江南へと逃亡します。曹操から逃れ当陽県・長坂に到着した劉備は、さらなる曹操の追撃に妻子を放棄して逃亡。このときわずかな兵で殿(しんがり)を引き受けた張飛は、敵軍を追い払うため橋を焼き落とし、「俺は張飛だ!俺と勝負したいやつは出てこい!」と豪語したといいます。これを聞いた曹操軍は、誰も張飛に近づこうとしないままに撤退。こうして劉備は無事に助かりました。 張飛、劉備軍の主将になる 建安16年(211)劉璋に招かれて益州に入った劉備は、翌年に益州奪取を計画します。諸葛亮・趙雲らとともに侵攻した張飛は、劉璋軍との戦いに勝利し郡県を平定しました。この功績が評価され、褒賞を得るとともに巴西郡の長官に就任。建安22年(217)の漢中侵攻では敵方の曹洪・曹休らに苦戦し撤退したものの、2年後に劉備は漢中攻略を果たします。このとき張飛は、前線である漢中の守備を一任されるものと思われましたが、周囲からの人望がないことを理由に守備から外されてしまいます。しかし、劉備が漢中王に就任した直後に右将軍・仮節に就任し、劉備が蜀漢を建国すると西郷侯に昇進しました。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、どの地位に就いたか。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、巴西郡の長官に就任した。
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殿との館様の起原 ついでに殿という字の意味を話すなら、殿は文字の示すごとく長者の建築物に対する敬号である。家号の属する土地である。建築物を呼んでその中に住んでいる人を直接呼ぶことを憚った意味である。すなわち御屋敷ということです。これがついに移り変わって、直接人の名を郡長殿、局長殿というように、人の名を意味するようになったのは、はなはだしい変転であります。南北朝頃の文書、ことに諸国の侍に大将から出した感状などを見ると、人の通称に殿の字を付けたものが表われかかっている。 一例をいえば河野武蔵守殿というようになっている。これが奥羽の方へ行くと何のなにがし館と書いてある。武士の住宅を館というのは東北地方の方言で、西国に行けば京都に私淑して武家も皆殿と呼んだのである。 それに比べればはるかに後の代の発生でありますが、様というのは方向を示す言葉がもとになっています。西様、東様というようなのはその例であります。人を呼ぶに様を使うのは、直接その人を呼ぶのが失礼であるから、わざと漠然とその方向を指したのである。今日我々があなた、そなたというのはまったくこれと同じ使い方です。したがって殿や様は君ということばとは非常に意味が違うのであります。ことに人を呼んで何の何兵衛氏と呼ぶのは、誰が始めたことかは知らないが、歴史的根拠も何もない無趣味の慣例といわなければならない。 家号製造の由来 そこでいよいよ本論に入りますが、地方の武家が百年、最高でも百五十年の間に、数万の名字を製造した由来は、まったく藤原家の分立したのと同じ理由であるといってよい。京都の貴族ならば官名で呼ぶ事もできれば、その時々の位で呼ぶ事もできたのに、なおこのように分かれて行ったのである。まして地方における無官の大夫達の名前においても、武蔵一国の平地にも五百の源太、二千の藤次、千五百の平太がいるので、とても何か今一段の区別法を作らずには交通ができなかった。それも一つの垣内と、一つの屋敷内に親子兄弟が共に住んでいる時ならば仕方がないが、家族の増加するに従って付近の村々に分家をさせて、新開をさせるようになってからは、それぞれの地名を呼ぶことが簡単になったことから、遠慮なく家というものが統一を害するといういささかの懸念もなしに、家号を製造して行ったのであります。
地方における無官の大夫達の名前において、武蔵一国の平地にいる名前でもっとも多いものを教えてください。
地方における無官の大夫達の名前において、武蔵一国の平地にいる名前でもっとも多いものは藤次で二千です。
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名前のインパクトがある「薔薇戦争」ですが、どういった戦争だったのかは日本ではあまり知られていません。「薔薇戦争」は後のイングランドの政治体制を決めるきっかけとなる戦争でした。 薔薇戦争の名前の由来 イギリス国の内乱が何故「薔薇戦争」という名前かというと、王位継承権を争った「ランカスター家」は「赤薔薇」、「ヨーク家」が「白薔薇」の家紋だったのに由来します。この名称は、後に「ウォルター・スコット」という人が「ガイアスタインのアン」という本を書き、そこで内乱を「薔薇戦争」と呼んだことから後世その呼び名で呼ばれるようになりました。 勝者は?薔薇戦争の結末は? ランカスター家とヨーク家という二つの王家の権力闘争で、最後に勝ったのはランカスター家の分家だったデューダ家でした。元々争っていたランカスター家でも、ヨーク家でもなく最終的には新しい勢力だったデューダ家だったのです。ヘンリー・デューダがヘンリー7世として即位し、絶対王政を確立していきました。 薔薇戦争の発端 1413年ヘンリー4世が亡くなり、息子のヘンリー5世が即位しました。しかしケンブリッジ伯リチャードがヘンリー5世を暗殺して、妻の弟のマーチ伯エドマンド・モーティマー(本来王位継承されるはずだった人)を国王として擁立しようとしました。これは多くの貴族も絡んでいましたが、旗頭としてたてられたエドマンド自身が王に密告し、ケンブリッジ伯リチャードは斬首されました。 国王への忠誠を示したエドマンドでしたが、子供ができないまま死去してしまい、王位継承権は姉のアンとケンブリッジ伯リチャードとの間に生まれたヨーク公リチャードに引き継がれていきます。そしてヘンリー5世が急死し、わずか9か月のヘンリー6世が即位しました。 そして百年戦争もオルレアンが解放されると、主戦派と和平派で対立します。 武力行使によって戦争を支持する派閥である主戦派の中心がヨーク公リチャードでした。 戦争を行わず、交渉や会談を行うことで和平を結ぼうとする和平派は、サマセット公エドムンド・ボーフォートという人物が中心にいました。 両者の権力争いは苛烈を極め追い詰められたヨーク公リチャードはヘンリー6世に対して反乱を起こしました。これが「薔薇戦争」の幕開けとなりました。 第一次内乱 第一次内乱は1455年から1468年まで続きます。頻拍した戦いが続く中、ヨーク派はヨーク公リチャードや次男のラクランド伯が死亡します。ランカスター派もエドムンド・ボーフォートなど主要人物が戦死しています。戦いの過程でランカスター派は略奪行為を頻繁に行い、ロンドン市民の支持を失っていきます。 その結果1461年にヨーク公リチャードの跡を継いだ長男ヨーク公エドワードがヘンリー6世に代わってエドワード4世として即位しました。薔薇戦争最大の戦いといわれる「タウトンの戦い」が起こり、ヨーク派が勝利し、ヘンリー6世は王妃を連れてスコットランドへ逃亡します。しかし1465年に捕らえられ、ロンドン塔に幽閉されてしまいました。こうして薔薇戦争の第一次内乱はヨーク派の勝利に終わったのです。 第二次内乱 第二次内乱は1469年から1471年まで続きます。この戦いではヨーク派の主要人物でウォリック公リチャード・ネヴェルという人物が要となります。ウォリック公は親フランス派でフランス王族の縁談を進めていましたが、エドワード4世はランカスター派のエリザベス・ウッドヴィルと結婚してしまいました。それからエリザベスの親族ばかり重用し、エドワード4世とウォリック公の関係は悪化していきました。 これに対してウォリック伯はエドワード4世の弟のクラレンス公ジョージと盟約を結び反旗を翻します。ウォレット伯はルイ11世の取りなしでランカスター派の中心人物であるマーガレット妃と和解しています。エドワード4世が反乱を収めるためにロンドンを離れている間に、ウォリック伯はロンドンを占拠して、幽閉されていたヘンリー6世を復位させてしまいます。 これによってエドワード4世はブルゴーニュへの亡命を余儀なくされましたが、ブルゴーニュ公シャルルの支援を受けて体制を立て直し1471年にイングランドに再上陸しました。ウォリック伯を見限ったクラレンス公と合流して、ヘンリー6世を捕らえます。エドワード4世とウォリック伯は「バーネットの戦い」を行いエドワード4世が勝利しました。ウォリック伯は戦死してしまいます。 またウォレット伯と手を結んでいたマーガレット妃とエドワード王子は「デュークスベリーの戦い」で壊滅し、マーガレット王妃はロンドン塔に幽閉され、エドワード王子は斬首されてしまいました。そして捕らえられたヘンリー6世も殺害されて、「第二次内乱」は終わりを告げました。
薔薇戦争の名前の由来にもなっている、ランカスター家とヨーク家の家紋の違いを教えてください。
王位継承権を争ったランカスター家は赤薔薇の家紋でした。 一方、ヨーク家が白薔薇の家紋でした。
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関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、張飛である。 義勇兵からの飛躍 張飛は劉備と出会い、大きく飛躍していきました。義勇兵から劉備軍の主将になるまでの張飛について振り返ります。 関羽とともに劉備に従う 張飛は涿郡のうまれで、実家は肉屋を営んでいたといわれています。字は益徳、または翼徳。黄巾の乱の義勇兵として関羽とともに劉備の徒党に加わり、以後、劉備を主君として立てて護衛を務めました。3人は兄弟のような関係で、とくに張飛は劉備・関羽より年少だったため、2人を兄のように慕っていたようです。やがて劉備が公孫瓚(こうそんさん)に取り立てられて平原郡の相となると、張飛は別部司馬(武官の一種)に就任。関羽とともにそれぞれ軍の指揮を執る将となりました。 大失態!?留守を任されたが…… 興平元年(194)徐州に身を寄せていた劉備は、陶謙に位を譲られて徐州牧に就任。その後、徐州に侵攻してきた袁術と戦いになり、張飛は本拠地の下邳の留守を任されました。このとき劉備に身を寄せていた呂布が下邳を攻撃し、張飛と対立関係にあった下邳の相・曹豹がこれに呼応。この戦いに敗北にした張飛は、劉備の妻子を捕虜にされるという失態を犯してしまいます。その後、劉備は呂布と和睦するも再び対立し、曹操のもとに身を寄せました。曹操・劉備連合軍が呂布討伐を始めると、張飛はこれに参戦して功績をあげ、曹操から中郎将に任命されます。しかし、ほどなくして劉備が離反。曹操のもとを去った劉備は袁紹・劉表に身を寄せ、張飛もそれにつき従いました。 長坂の戦いで活躍! 建安13年(208)劉表の死により曹操が荊州に侵攻すると、劉備は江南へと逃亡します。曹操から逃れ当陽県・長坂に到着した劉備は、さらなる曹操の追撃に妻子を放棄して逃亡。このときわずかな兵で殿(しんがり)を引き受けた張飛は、敵軍を追い払うため橋を焼き落とし、「俺は張飛だ!俺と勝負したいやつは出てこい!」と豪語したといいます。これを聞いた曹操軍は、誰も張飛に近づこうとしないままに撤退。こうして劉備は無事に助かりました。 張飛、劉備軍の主将になる 建安16年(211)劉璋に招かれて益州に入った劉備は、翌年に益州奪取を計画します。諸葛亮・趙雲らとともに侵攻した張飛は、劉璋軍との戦いに勝利し郡県を平定しました。この功績が評価され、褒賞を得るとともに巴西郡の長官に就任。建安22年(217)の漢中侵攻では敵方の曹洪・曹休らに苦戦し撤退したものの、2年後に劉備は漢中攻略を果たします。このとき張飛は、前線である漢中の守備を一任されるものと思われましたが、周囲からの人望がないことを理由に守備から外されてしまいます。しかし、劉備が漢中王に就任した直後に右将軍・仮節に就任し、劉備が蜀漢を建国すると西郷侯に昇進しました。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、劉備の即位後にどの官位に任じられたか。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、右将軍・仮節に就任し、劉備が蜀漢を建国すると西郷侯に昇進しました。
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歴史
殿との館様の起原 ついでに殿という字の意味を話すなら、殿は文字の示すごとく長者の建築物に対する敬号である。家号の属する土地である。建築物を呼んでその中に住んでいる人を直接呼ぶことを憚った意味である。すなわち御屋敷ということです。これがついに移り変わって、直接人の名を郡長殿、局長殿というように、人の名を意味するようになったのは、はなはだしい変転であります。南北朝頃の文書、ことに諸国の侍に大将から出した感状などを見ると、人の通称に殿の字を付けたものが表われかかっている。 一例をいえば河野武蔵守殿というようになっている。これが奥羽の方へ行くと何のなにがし館と書いてある。武士の住宅を館というのは東北地方の方言で、西国に行けば京都に私淑して武家も皆殿と呼んだのである。 それに比べればはるかに後の代の発生でありますが、様というのは方向を示す言葉がもとになっています。西様、東様というようなのはその例であります。人を呼ぶに様を使うのは、直接その人を呼ぶのが失礼であるから、わざと漠然とその方向を指したのである。今日我々があなた、そなたというのはまったくこれと同じ使い方です。したがって殿や様は君ということばとは非常に意味が違うのであります。ことに人を呼んで何の何兵衛氏と呼ぶのは、誰が始めたことかは知らないが、歴史的根拠も何もない無趣味の慣例といわなければならない。 家号製造の由来 そこでいよいよ本論に入りますが、地方の武家が百年、最高でも百五十年の間に、数万の名字を製造した由来は、まったく藤原家の分立したのと同じ理由であるといってよい。京都の貴族ならば官名で呼ぶ事もできれば、その時々の位で呼ぶ事もできたのに、なおこのように分かれて行ったのである。まして地方における無官の大夫達の名前においても、武蔵一国の平地にも五百の源太、二千の藤次、千五百の平太がいるので、とても何か今一段の区別法をらずに作は交通ができなかった。それも一つの垣内と、一つの屋敷内に親子兄弟が共に住んでいる時ならば仕方がないが、家族の増加するに従って付近の村々に分家をさせて、新開をさせるようになってからは、それぞれの地名を呼ぶことが簡単になったことから、遠慮なく家というものが統一を害するといういささかの懸念もなしに、家号を製造して行ったのであります。
地方における無官の大夫達の名前において、武蔵一国の平地にいる名前として挙げられているものの中でもっとも少ないものを教えてください。
地方における無官の大夫達の名前において、武蔵一国の平地にいる名前として挙げられているものの中でもっとも少ないものは源太で五百です。
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名前のインパクトがある「薔薇戦争」ですが、どういった戦争だったのかは日本ではあまり知られていません。「薔薇戦争」は後のイングランドの政治体制を決めるきっかけとなる戦争でした。 薔薇戦争の名前の由来 イギリス国の内乱が何故「薔薇戦争」という名前かというと、王位継承権を争った「ランカスター家」は「赤薔薇」、「ヨーク家」が「白薔薇」の家紋だったのに由来します。この名称は、後に「ウォルター・スコット」という人が「ガイアスタインのアン」という本を書き、そこで内乱を「薔薇戦争」と呼んだことから後世その呼び名で呼ばれるようになりました。 勝者は?薔薇戦争の結末は? ランカスター家とヨーク家という二つの王家の権力闘争で、最後に勝ったのはランカスター家の分家だったデューダ家でした。元々争っていたランカスター家でも、ヨーク家でもなく最終的には新しい勢力だったデューダ家だったのです。ヘンリー・デューダがヘンリー7世として即位し、絶対王政を確立していきました。 薔薇戦争の発端 1413年ヘンリー4世が亡くなり、息子のヘンリー5世が即位しました。しかしケンブリッジ伯リチャードがヘンリー5世を暗殺して、妻の弟のマーチ伯エドマンド・モーティマー(本来王位継承されるはずだった人)を国王として擁立しようとしました。これは多くの貴族も絡んでいましたが、旗頭としてたてられたエドマンド自身が王に密告し、ケンブリッジ伯リチャードは斬首されました。 国王への忠誠を示したエドマンドでしたが、子供ができないまま死去してしまい、王位継承権は姉のアンとケンブリッジ伯リチャードとの間に生まれたヨーク公リチャードに引き継がれていきます。そしてヘンリー5世が急死し、わずか9か月のヘンリー6世が即位しました。 そして百年戦争もオルレアンが解放されると、主戦派と和平派で対立します。 武力行使によって戦争を支持する派閥である主戦派の中心がヨーク公リチャードでした。 戦争を行わず、交渉や会談を行うことで和平を結ぼうとする和平派は、サマセット公エドムンド・ボーフォートという人物が中心にいました。 両者の権力争いは苛烈を極め追い詰められたヨーク公リチャードはヘンリー6世に対して反乱を起こしました。これが「薔薇戦争」の幕開けとなりました。 第一次内乱 第一次内乱は1455年から1468年まで続きます。頻拍した戦いが続く中、ヨーク派はヨーク公リチャードや次男のラクランド伯が死亡します。ランカスター派もエドムンド・ボーフォートなど主要人物が戦死しています。戦いの過程でランカスター派は略奪行為を頻繁に行い、ロンドン市民の支持を失っていきます。 その結果1461年にヨーク公リチャードの跡を継いだ長男ヨーク公エドワードがヘンリー6世に代わってエドワード4世として即位しました。薔薇戦争最大の戦いといわれる「タウトンの戦い」が起こり、ヨーク派が勝利し、ヘンリー6世は王妃を連れてスコットランドへ逃亡します。しかし1465年に捕らえられ、ロンドン塔に幽閉されてしまいました。こうして薔薇戦争の第一次内乱はヨーク派の勝利に終わったのです。 第二次内乱 第二次内乱は1469年から1471年まで続きます。この戦いではヨーク派の主要人物でウォリック公リチャード・ネヴェルという人物が要となります。ウォリック公は親フランス派でフランス王族の縁談を進めていましたが、エドワード4世はランカスター派のエリザベス・ウッドヴィルと結婚してしまいました。それからエリザベスの親族ばかり重用し、エドワード4世とウォリック公の関係は悪化していきました。 これに対してウォリック伯はエドワード4世の弟のクラレンス公ジョージと盟約を結び反旗を翻します。ウォレット伯はルイ11世の取りなしでランカスター派の中心人物であるマーガレット妃と和解しています。エドワード4世が反乱を収めるためにロンドンを離れている間に、ウォリック伯はロンドンを占拠して、幽閉されていたヘンリー6世を復位させてしまいます。 これによってエドワード4世はブルゴーニュへの亡命を余儀なくされましたが、ブルゴーニュ公シャルルの支援を受けて体制を立て直し1471年にイングランドに再上陸しました。ウォリック伯を見限ったクラレンス公と合流して、ヘンリー6世を捕らえます。エドワード4世とウォリック伯は「バーネットの戦い」を行いエドワード4世が勝利しました。ウォリック伯は戦死してしまいます。 またウォレット伯と手を結んでいたマーガレット妃とエドワード王子は「デュークスベリーの戦い」で壊滅し、マーガレット王妃はロンドン塔に幽閉され、エドワード王子は斬首されてしまいました。そして捕らえられたヘンリー6世も殺害されて、「第二次内乱」は終わりを告げました。
オルレアンが解放されたことにより、対立した主戦派と和平派の中心人物を説明してください。
主戦派とは、武力行使によって戦争を支持する派閥ですが、中心人物はヨーク公リチャードです。 一方、和平派は戦争を行わずに交渉や会談を行うことで和平を結ぼうとする派閥ですが、サマセット公エドムンド・ボーフォートという人物が中心にいました。
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歴史
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、張飛である。 張飛の最期 次々と昇進を果たした張飛ですが、やがて最期が訪れます。『正史』と『三国志演義』ではどのような違いがあるのでしょうか? 『正史』:突然の最期 章武元年(221)劉備が呉への侵攻を計画すると、張飛は1万の兵を引き連れ、江州で劉備と合流することになりました。しかしその準備中、部下の張達・范彊(はんきょう)に殺されてしまいます。劉備は張飛の部下から上奏文が届いた瞬間、内容を聞くまでもなく張飛の死を悟って嘆いたといいます。『正史』での張飛の最期はこれだけで、何が理由で殺されたのか実際のところはわかりません。知名度の高い武将にもかかわらず、実にあっさりとした描写だといえるでしょう。 『三国志演義』:関羽の死に荒れ… 一方、『三国志演義』には詳しい描写があります。孫権との戦いで死んだ関羽を思い号泣していた張飛は、酒に酔い、部下に鞭をふるって打ち殺すことがありました。やがて張飛は報復のために呉討伐を決心し、「3日以内に全軍白装束を整え出発する」と無理な命令を出します。とても間に合わないということで部下の張達・范疆が猶予を願い出ると、張飛は2人を鞭打ち「遅れたら首をはねる」と叱りつけました。2人は「どうせ死ぬなら……」と考え、泥酔して寝込んでいた張飛を刺殺。その首をもって呉に投降したのでした。 張飛の人物像とは 『三国志』では怪力の豪傑としても有名な張飛。彼はどのような人物だったのでしょうか? 1万の兵に匹敵する武勇 張飛は「1人で1万の兵に匹敵する」といわれるほど勇猛な人物で、曹操軍からも孫権軍からも高く評価されていました。『三国志演義』では、身長八尺(約184cm)でエラが張った顎に虎髭があり、雷のような声と暴れ馬のような勢いをもつ男として登場。ここでの張飛は蛇矛(だぼう)を自在に操る怪力の猛将として描かれています。また一騎討ちの名手という側面もあり、その剛勇さから呂布でさえ泥酔した張飛には警戒していたようです。 部下には厳しく冷酷だった? 張飛は低い身分から士大夫(したいふ、知識階級や官職)に出世しました。これを喜んだ彼は、知識人には紳士的な振る舞いをし、配下や身分の低い者には冷酷な態度をとったといいます。このような不遜な態度は、劉備からも常々注意されていたようです。『正史』で張飛が殺されたとあるのは、行き過ぎた処罰や振る舞いが常々あったからとも考えられています。 張飛のイメージとして切り離せないのが酒でしょう。下邳の留守を預かったときは酒の飲みすぎで失態を犯し、最後は泥酔したところを部下に殺される……このように酒での失敗エピソード満載の張飛ですが、実は『正史』には酒に関する記録はありません。そのため、酒豪で酒癖が悪いという人物像は『三国志演義』での脚色のようです。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、どうやって部下に殺されたか。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、鞭打ちの報復で部下に殺された。
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歴史
開墾奨励法 この話をするためには少しく王朝時代の開墾の事情を説かねばならぬ。最初は百姓が重税その他の理由から、土地を捨てて立ち退いた跡が荒れて行く恐れもあり、また政府としては収入の増加を謀る必要があったために、これらの荒地もしくは原野を開墾する者には、奨励として永くその田地を持たせるという開墾奨励法が出たのが元であって、地方の百姓の中で下人などの多く資本の余裕のあるものは、この奨励法に基づいて大分開墾したものがあったようであるが、実をいうとこれでは開墾をした楽しみが少ないので、以前通りに重く租税を取られて耕地を殖すのも張り合いが少ない。 荘園の増加 ところが大きな社や寺、または朝廷の大官が特別の思し召しをもって拝領する場合の開墾地は、常に租税の全部を免除してくださるのであるからして、以前のものに比べれば非常に有難味の多いものであれば、これが出てからはもはや通例の荒地開墾などは捨てて顧みるものもなくなったのであります。この第二の特別開墾は、もちろん弊害も多いことであるからして、表向きの法令では力つとめてこれを制限するようにしてあったが、実際は年とともに面積も増加すれば特権も増加して、ついには徴税権はもちろん、いっさいの地方官の行政権の及ばぬ国の中の国のごときものができてしまったのです。 これがすなわち荘園です。荘園の面積は少ないものでも三百平方キロメートルから五百平方キロメートル、千平方キロメートルを超えたものもあります。 そうして多くは厄介な地主でありました。境木を立てれば知らぬ間にこれを滑らせるし、面積を限っても地方官と慣れ合って縄延を多くする。要するに近代の北海道開墾の類の、今少しわがままで不公平なものであったのです。 地方豪族と荘園の下受開墾 さて、特許権を受けて新たに荘園を立てたものはいかにしてこれを開発して行くかというに、貴族はもちろん社寺の管理者でも、自分どもは京都におって安楽な生活をしていながら、収益だけを取ろうとするものが多かったのです。もともと貰い物であるがために多分の割引をも意とせずに、地方に住んでいる豪族どもに下受けをさせたのであります。もっともかりに真面目な荘園の領主があって、直接自分が開墾をしようと思っても、平素からそれだけの労働者をやとっておくこともできず、今日のごとく雇えば来てくれる労働者もないから、勢い地方の大家族の戸主と相談をするほかはなかったのであります。しかのみならず武蔵国にはこれだけの原野がある。上野の奥に何百町の空閑(耕さぬ地面)があるということを知らせてくれるものはやはり地方の居住者である。甚だしい事に社寺とか権門の名義だけを借りて、僅かな名義料を「本所」に納めて、実は自分が開墾を経営した場合も少なくないのです。
荘園の面積のうち、最も大きいものを教えてください。
荘園の面積のうち、最も大きいものは千平方キロメートルです。
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歴史
名前のインパクトがある「薔薇戦争」ですが、どういった戦争だったのかは日本ではあまり知られていません。「薔薇戦争」は後のイングランドの政治体制を決めるきっかけとなる戦争でした。 薔薇戦争の名前の由来 イギリス国の内乱が何故「薔薇戦争」という名前かというと、王位継承権を争った「ランカスター家」は「赤薔薇」、「ヨーク家」が「白薔薇」の家紋だったのに由来します。この名称は、後に「ウォルター・スコット」という人が「ガイアスタインのアン」という本を書き、そこで内乱を「薔薇戦争」と呼んだことから後世その呼び名で呼ばれるようになりました。 勝者は?薔薇戦争の結末は? ランカスター家とヨーク家という二つの王家の権力闘争で、最後に勝ったのはランカスター家の分家だったデューダ家でした。元々争っていたランカスター家でも、ヨーク家でもなく最終的には新しい勢力だったデューダ家だったのです。ヘンリー・デューダがヘンリー7世として即位し、絶対王政を確立していきました。 薔薇戦争の発端 1413年ヘンリー4世が亡くなり、息子のヘンリー5世が即位しました。しかしケンブリッジ伯リチャードがヘンリー5世を暗殺して、妻の弟のマーチ伯エドマンド・モーティマー(本来王位継承されるはずだった人)を国王として擁立しようとしました。これは多くの貴族も絡んでいましたが、旗頭としてたてられたエドマンド自身が王に密告し、ケンブリッジ伯リチャードは斬首されました。 国王への忠誠を示したエドマンドでしたが、子供ができないまま死去してしまい、王位継承権は姉のアンとケンブリッジ伯リチャードとの間に生まれたヨーク公リチャードに引き継がれていきます。そしてヘンリー5世が急死し、わずか9か月のヘンリー6世が即位しました。 そして百年戦争もオルレアンが解放されると、主戦派と和平派で対立します。 武力行使によって戦争を支持する派閥である主戦派の中心がヨーク公リチャードでした。 戦争を行わず、交渉や会談を行うことで和平を結ぼうとする和平派は、サマセット公エドムンド・ボーフォートという人物が中心にいました。 両者の権力争いは苛烈を極め追い詰められたヨーク公リチャードはヘンリー6世に対して反乱を起こしました。これが「薔薇戦争」の幕開けとなりました。 第一次内乱 第一次内乱は1455年から1468年まで続きます。頻拍した戦いが続く中、ヨーク派はヨーク公リチャードや次男のラクランド伯が死亡します。ランカスター派もエドムンド・ボーフォートなど主要人物が戦死しています。戦いの過程でランカスター派は略奪行為を頻繁に行い、ロンドン市民の支持を失っていきます。 その結果1461年にヨーク公リチャードの跡を継いだ長男ヨーク公エドワードがヘンリー6世に代わってエドワード4世として即位しました。薔薇戦争最大の戦いといわれる「タウトンの戦い」が起こり、ヨーク派が勝利し、ヘンリー6世は王妃を連れてスコットランドへ逃亡します。しかし1465年に捕らえられ、ロンドン塔に幽閉されてしまいました。こうして薔薇戦争の第一次内乱はヨーク派の勝利に終わったのです。 第二次内乱 第二次内乱は1469年から1471年まで続きます。この戦いではヨーク派の主要人物でウォリック公リチャード・ネヴェルという人物が要となります。ウォリック公は親フランス派でフランス王族の縁談を進めていましたが、エドワード4世はランカスター派のエリザベス・ウッドヴィルと結婚してしまいました。それからエリザベスの親族ばかり重用し、エドワード4世とウォリック公の関係は悪化していきました。 これに対してウォリック伯はエドワード4世の弟のクラレンス公ジョージと盟約を結び反旗を翻します。ウォレット伯はルイ11世の取りなしでランカスター派の中心人物であるマーガレット妃と和解しています。エドワード4世が反乱を収めるためにロンドンを離れている間に、ウォリック伯はロンドンを占拠して、幽閉されていたヘンリー6世を復位させてしまいます。 これによってエドワード4世はブルゴーニュへの亡命を余儀なくされましたが、ブルゴーニュ公シャルルの支援を受けて体制を立て直し1471年にイングランドに再上陸しました。ウォリック伯を見限ったクラレンス公と合流して、ヘンリー6世を捕らえます。エドワード4世とウォリック伯は「バーネットの戦い」を行いエドワード4世が勝利しました。ウォリック伯は戦死してしまいます。 またウォレット伯と手を結んでいたマーガレット妃とエドワード王子は「デュークスベリーの戦い」で壊滅し、マーガレット王妃はロンドン塔に幽閉され、エドワード王子は斬首されてしまいました。そして捕らえられたヘンリー6世も殺害されて、「第二次内乱」は終わりを告げました。
第一次内乱によって、ヨーク派とランカスター派の戦死した主要人物の違いを教えてください。
第一次内乱によって、ヨーク派は、ヨーク公リチャードや次男のラクランド伯が死亡します。 一方、ランカスター派はエドムンド・ボーフォートが死亡しています。
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関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、張飛である。 張飛の最期 次々と昇進を果たした張飛ですが、やがて最期が訪れます。『正史』と『三国志演義』ではどのような違いがあるのでしょうか? 『正史』:突然の最期 章武元年(221)劉備が呉への侵攻を計画すると、張飛は1万の兵を引き連れ、江州で劉備と合流することになりました。しかしその準備中、部下の張達・范彊(はんきょう)に殺されてしまいます。劉備は張飛の部下から上奏文が届いた瞬間、内容を聞くまでもなく張飛の死を悟って嘆いたといいます。『正史』での張飛の最期はこれだけで、何が理由で殺されたのか実際のところはわかりません。知名度の高い武将にもかかわらず、実にあっさりとした描写だといえるでしょう。 『三国志演義』:関羽の死に荒れ… 一方、『三国志演義』には詳しい描写があります。孫権との戦いで死んだ関羽を思い号泣していた張飛は、酒に酔い、部下に鞭をふるって打ち殺すことがありました。やがて張飛は報復のために呉討伐を決心し、「3日以内に全軍白装束を整え出発する」と無理な命令を出します。とても間に合わないということで部下の張達・范疆が猶予を願い出ると、張飛は2人を鞭打ち「遅れたら首をはねる」と叱りつけました。2人は「どうせ死ぬなら……」と考え、泥酔して寝込んでいた張飛を刺殺。その首をもって呉に投降したのでした。 張飛の人物像とは 『三国志』では怪力の豪傑としても有名な張飛。彼はどのような人物だったのでしょうか? 1万の兵に匹敵する武勇 張飛は「1人で1万の兵に匹敵する」といわれるほど勇猛な人物で、曹操軍からも孫権軍からも高く評価されていました。『三国志演義』では、身長八尺(約184cm)でエラが張った顎に虎髭があり、雷のような声と暴れ馬のような勢いをもつ男として登場。ここでの張飛は蛇矛(だぼう)を自在に操る怪力の猛将として描かれています。また一騎討ちの名手という側面もあり、その剛勇さから呂布でさえ泥酔した張飛には警戒していたようです。 部下には厳しく冷酷だった? 張飛は低い身分から士大夫(したいふ、知識階級や官職)に出世しました。これを喜んだ彼は、知識人には紳士的な振る舞いをし、配下や身分の低い者には冷酷な態度をとったといいます。このような不遜な態度は、劉備からも常々注意されていたようです。『正史』で張飛が殺されたとあるのは、行き過ぎた処罰や振る舞いが常々あったからとも考えられています。 張飛のイメージとして切り離せないのが酒でしょう。下邳の留守を預かったときは酒の飲みすぎで失態を犯し、最後は泥酔したところを部下に殺される……このように酒での失敗エピソード満載の張飛ですが、実は『正史』には酒に関する記録はありません。そのため、酒豪で酒癖が悪いという人物像は『三国志演義』での脚色のようです。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、誰に首を差し出されたか。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、呉に投降した部下に首を差し出された。
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歴史
開墾奨励法 この話をするためには少しく王朝時代の開墾の事情を説かねばならぬ。最初は百姓が重税その他の理由から、土地を捨てて立ち退いた跡が荒れて行く恐れもあり、また政府としては収入の増加を謀る必要があったために、これらの荒地もしくは原野を開墾する者には、奨励として永くその田地を持たせるという開墾奨励法が出たのが元であって、地方の百姓の中で下人などの多く資本の余裕のあるものは、この奨励法に基づいて大分開墾したものがあったようであるが、実をいうとこれでは開墾をした楽しみが少ないので、以前通りに重く租税を取られて耕地を殖すのも張り合いが少ない。 荘園の増加 ところが大きな社や寺、または朝廷の大官が特別の思し召しをもって拝領する場合の開墾地は、常に租税の全部を免除してくださるのであるからして、以前のものに比べれば非常に有難味の多いものであれば、これが出てからはもはや通例の荒地開墾などは捨てて顧みるものもなくなったのであります。この第二の特別開墾は、もちろん弊害も多いことであるからして、表向きの法令では力つとめてこれを制限するようにしてあったが、実際は年とともに面積も増加すれば特権も増加して、ついには徴税権はもちろん、いっさいの地方官の行政権の及ばぬ国の中の国のごときものができてしまったのです。 これがすなわち荘園です。荘園の面積は少ないものでも三百平方キロメートルから五百平方キロメートル、千平方キロメートルを超えたものもあります。 そうして多くは厄介な地主でありました。境木を立てれば知らぬ間にこれを滑らせるし、面積を限っても地方官と慣れ合って縄延を多くする。要するに近代の北海道開墾の類の、今少しわがままで不公平なものであったのです。 地方豪族と荘園の下受開墾 さて、特許権を受けて新たに荘園を立てたものはいかにしてこれを開発して行くかというに、貴族はもちろん社寺の管理者でも、自分どもは京都におって安楽な生活をしていながら、収益だけを取ろうとするものが多かったのです。もともと貰い物であるがために多分の割引をも意とせずに、地方に住んでいる豪族どもに下受けをさせたのであります。もっともかりに真面目な荘園の領主があって、直接自分が開墾をしようと思っても、平素からそれだけの労働者をやとっておくこともできず、今日のごとく雇えば来てくれる労働者もないから、勢い地方の大家族の戸主と相談をするほかはなかったのであります。しかのみならず武蔵国にはこれだけの原野がある。上野の奥に何百町の空閑(耕さぬ地面)があるということを知らせてくれるものはやはり地方の居住者である。甚だしい事に社寺とか権門の名義だけを借りて、僅かな名義料を「本所」に納めて、実は自分が開墾を経営した場合も少なくないのです。
荘園の面積のうち、最も小さいものを教えてください。
荘園の面積のうち、最も小さいものは三百平方キロメートルです。
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歴史
2つの宗派の違い カトリックとプロテスタントの2つの宗派の特に異なる点は信仰に姿勢や考え方です。カトリックでは聖書の内容や伝承などを教皇や聖職者たちが解釈して人々に伝えるという方式になっています。そのため、カトリックではローマ教皇の言葉はそのまま神の言葉として扱われることも多く、聖職者が強い権力を持っている宗派です。 しかし、プロテスタントでは信者1人1人が聖書を読み、その意味を解釈するので個人主義ともいえる考え方を持っています。このような理由からプロテスタントと一口に言っても考え方は色々で、それぞれ解釈の違いから様々な流派に細分化されています。 つまり、2つの宗派の考え方を説明するなら、カトリックはローマ教皇が伝える神の教えを信仰していて、プロテスタントは聖書に書いてある内容のみを信仰しているということです。 また、カトリックでは巡礼や寄付などの善行を積むことで神に救われるという教えを持っていますが、プロテスタントはどんな罪人でも信仰すれば救われると説いているのも大きな違いの一つですね。 30年戦争の勝敗 30年戦争は名目上は宗教戦争なのでカトリック側の国とプロテスタント側の国に分かれて戦争を行っていました。カトリック側の国は現在のオーストリアやドイツにあった神聖ローマ帝国とベーメン王国(現在のチェコ)、スペイン、デンマーク。プロテスタント側にはスウェーデンやフランス、オスマン帝国(現在のトルコ)、イギリスなどが加勢しています。 30年戦争は1648年に締結されたウエストファーレン条約で終結しました。この条約は2つの講和条約をまとめた総称です。条約はそれぞれ神聖ローマ帝国とスウェーデンの講和を内容としたオスナブリュック講和条約、神聖ローマ帝国とフランスの講和を内容としたミュンスター講和条約という名前があります。 この講和会議はドイツのウエストファーレン地方で開かれ、オスマン帝国とロシアを除いたヨーロッパほぼすべての国が参加していました。 ウエストファーレン条約ではプロテスタントの信仰の権利が認められて、カトリックとプロテスタントは同権であることが定められています。そのため、宗教的な観点で見ると30年戦争はプロテスタント側の勝利という結果になりました。 また、この条約ではプロテスタント側に味方したフランスは神聖ローマ帝国の領地の一部であったアルザス地方と、ロレーヌ地方のいくつかの都市を獲得しています。さらに、スウェーデンは賠償金と北ドイツの都市を獲得。当時神聖ローマ帝国の統治下にあったスイスとオランダはこれを期に独立を果たします。 特に、フランスは勢力拡大を目的として戦争に参加していたので、目論見は大成功しました。スウェーデンも神聖ローマ帝国の帝国議会への参加権を取得しています。そのため、30年戦争の戦勝国の中でも最も得をしたのはフランスとスウェーデンと言えるでしょう。
カトリックとプロテスタントの信仰の違いを教えてください。
カトリックでは聖書の内容や伝承などを教皇や聖職者たちが解釈して人々に伝えるという方式になっています。カトリックではローマ教皇の言葉はそのまま神の言葉として扱われることも多く、聖職者が強い権力を持っている宗派です。 一方、プロテスタントでは信者1人1人が聖書を読み、その意味を解釈するので個人主義ともいえる考え方を持っています。
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歴史
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、張飛である。 張飛の最期 次々と昇進を果たした張飛ですが、やがて最期が訪れます。『正史』と『三国志演義』ではどのような違いがあるのでしょうか? 『正史』:突然の最期 章武元年(221)劉備が呉への侵攻を計画すると、張飛は1万の兵を引き連れ、江州で劉備と合流することになりました。しかしその準備中、部下の張達・范彊(はんきょう)に殺されてしまいます。劉備は張飛の部下から上奏文が届いた瞬間、内容を聞くまでもなく張飛の死を悟って嘆いたといいます。『正史』での張飛の最期はこれだけで、何が理由で殺されたのか実際のところはわかりません。知名度の高い武将にもかかわらず、実にあっさりとした描写だといえるでしょう。 『三国志演義』:関羽の死に荒れ… 一方、『三国志演義』には詳しい描写があります。孫権との戦いで死んだ関羽を思い号泣していた張飛は、酒に酔い、部下に鞭をふるって打ち殺すことがありました。やがて張飛は報復のために呉討伐を決心し、「3日以内に全軍白装束を整え出発する」と無理な命令を出します。とても間に合わないということで部下の張達・范疆が猶予を願い出ると、張飛は2人を鞭打ち「遅れたら首をはねる」と叱りつけました。2人は「どうせ死ぬなら……」と考え、泥酔して寝込んでいた張飛を刺殺。その首をもって呉に投降したのでした。 張飛の人物像とは 『三国志』では怪力の豪傑としても有名な張飛。彼はどのような人物だったのでしょうか? 1万の兵に匹敵する武勇 張飛は「1人で1万の兵に匹敵する」といわれるほど勇猛な人物で、曹操軍からも孫権軍からも高く評価されていました。『三国志演義』では、身長八尺(約184cm)でエラが張った顎に虎髭があり、雷のような声と暴れ馬のような勢いをもつ男として登場。ここでの張飛は蛇矛(だぼう)を自在に操る怪力の猛将として描かれています。また一騎討ちの名手という側面もあり、その剛勇さから呂布でさえ泥酔した張飛には警戒していたようです。 部下には厳しく冷酷だった? 張飛は低い身分から士大夫(したいふ、知識階級や官職)に出世しました。これを喜んだ彼は、知識人には紳士的な振る舞いをし、配下や身分の低い者には冷酷な態度をとったといいます。このような不遜な態度は、劉備からも常々注意されていたようです。『正史』で張飛が殺されたとあるのは、行き過ぎた処罰や振る舞いが常々あったからとも考えられています。 張飛のイメージとして切り離せないのが酒でしょう。下邳の留守を預かったときは酒の飲みすぎで失態を犯し、最後は泥酔したところを部下に殺される……このように酒での失敗エピソード満載の張飛ですが、実は『正史』には酒に関する記録はありません。そのため、酒豪で酒癖が悪いという人物像は『三国志演義』での脚色のようです。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、どのような将として描かれているか。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、蛇矛を自在に操る猛将として描かれている。
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歴史
名主の名の起原 このようなありさまであるからして、下受人の特権も時と場合によって大小不同であるけれども、要するに下受人の中心となっている地方豪族の戸主は、一方には荘園の管理者たる名義で、かなり多くの管理料を天引きするほかに、下受管理者としての有利なる条件をもって、その開墾地を持つのであります。たとえば通例の百姓ならば領家で気に入らねばいつでも立ち退かせることができる場合にでも、この者ばかりは大罪を犯さなければ子孫の相続を確保してある。 年貢すなわち作米のように、普通の作人に比べれば三分の一にも五分の一にも満たなかったのであります。 しかのみならず、ごく地味の良い水がかりの良い処ばかりを選り取りしたに違いなかった。つまり京都の荘園の主人を良い旦那にしておったのです。この下受人の特権を名づけて名田職といい、その土地を名田といっている。これは今日の名主の名の起原であります。 名という語の意味 名という語はその本来は少し不明になっておりますが、自分の考えるところによれば区別開墾地という意味であろうと思う。すなわち、五百平方キロメートルの原野を開墾するに当たって、あらかじめ五平方キロメートルとか七平方キロメートルとかの面積に小さく割って事業の進歩に便乗したのである。これは近年の新田開墾にも常にあることで、一年で開墾が終わるほどの小面積であれば良いが、五年も六年もかかるとなると、一方で開墾を進めてゆくと同時に、他の一方では既墾の田地に食料を生産しなければならぬ。今日の村の字にしばしば一番割・二番割などという地名があるのはこのためです。同じくらいの身分のものが共同開墾をする場合には、それぞれの持場持場を決める必要がある。この小区割を名づけて名といったことは、今日ではもはや疑いようがありませぬ。多くの場合においては開墾者は、その家族の者に一つずつの名を分けてやったらしい、すなわち下受開墾者たる特権が不可分のものでなくして、土地に伴なっていたらしいのであります。 女が名主になった証拠 名という文字はいくつも今日の地名となって残っております。九州方面では、肥前北高来郡などでは、小字にはことごとく名の字が付いた所もある。東国の地名では妙に聞こえる公文名などという地名は、つまり荘園の書記の持っている名田の地ということです。同じ原野でも薪を刈りに、もしくは狩をしにしばしば人の往来する所では、従来の地名がありまして、そこに来住するものはただちに新宅の家号としてこれを採用しました。すなわち在名であります。しかし以前の人口の少なかった地方では、事によると五町七町の小区によっては地名のない所がある。このような場合には変則ではあるが、あべこべに貞季とか国知とかいうような人の実名を、地名につけたのである。しかし新名主はいずれ金持の子供であるからして、自分で土を耕す道具を手にする訳でないから、子供もあれば女もあるのであって、太郎丸とか次郎丸とかいう童名をただちに地名に付けたものもあるのであります。名古屋付近に一女子・二女子などという小字があるのは、女が名主になった証拠です。
五百平方キロメートルの原野を開墾するに当たって、小さく割る時の例として挙げられている面積で、より狭い面積のほうを教えてください。
五百平方キロメートルの原野を開墾するに当たって、小さく割る時の例として挙げられている面積で、より狭い面積のほうは五平方キロメートルです。
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2つの宗派の違い カトリックとプロテスタントの2つの宗派の特に異なる点は信仰に姿勢や考え方です。カトリックでは聖書の内容や伝承などを教皇や聖職者たちが解釈して人々に伝えるという方式になっています。そのため、カトリックではローマ教皇の言葉はそのまま神の言葉として扱われることも多く、聖職者が強い権力を持っている宗派です。 しかし、プロテスタントでは信者1人1人が聖書を読み、その意味を解釈するので個人主義ともいえる考え方を持っています。このような理由からプロテスタントと一口に言っても考え方は色々で、それぞれ解釈の違いから様々な流派に細分化されています。 つまり、2つの宗派の考え方を説明するなら、カトリックはローマ教皇が伝える神の教えを信仰していて、プロテスタントは聖書に書いてある内容のみを信仰しているということです。 また、カトリックでは巡礼や寄付などの善行を積むことで神に救われるという教えを持っていますが、プロテスタントはどんな罪人でも信仰すれば救われると説いているのも大きな違いの一つですね。 30年戦争の勝敗 30年戦争は名目上は宗教戦争なのでカトリック側の国とプロテスタント側の国に分かれて戦争を行っていました。カトリック側の国は現在のオーストリアやドイツにあった神聖ローマ帝国とベーメン王国(現在のチェコ)、スペイン、デンマーク。プロテスタント側にはスウェーデンやフランス、オスマン帝国(現在のトルコ)、イギリスなどが加勢しています。 30年戦争は1648年に締結されたウエストファーレン条約で終結しました。この条約は2つの講和条約をまとめた総称です。条約はそれぞれ神聖ローマ帝国とスウェーデンの講和を内容としたオスナブリュック講和条約、神聖ローマ帝国とフランスの講和を内容としたミュンスター講和条約という名前があります。 この講和会議はドイツのウエストファーレン地方で開かれ、オスマン帝国とロシアを除いたヨーロッパほぼすべての国が参加していました。 ウエストファーレン条約ではプロテスタントの信仰の権利が認められて、カトリックとプロテスタントは同権であることが定められています。そのため、宗教的な観点で見ると30年戦争はプロテスタント側の勝利という結果になりました。 また、この条約ではプロテスタント側に味方したフランスは神聖ローマ帝国の領地の一部であったアルザス地方と、ロレーヌ地方のいくつかの都市を獲得しています。さらに、スウェーデンは賠償金と北ドイツの都市を獲得。当時神聖ローマ帝国の統治下にあったスイスとオランダはこれを期に独立を果たします。 特に、フランスは勢力拡大を目的として戦争に参加していたので、目論見は大成功しました。スウェーデンも神聖ローマ帝国の帝国議会への参加権を取得しています。そのため、30年戦争の戦勝国の中でも最も得をしたのはフランスとスウェーデンと言えるでしょう。
カトリックとプロテスタントの教えの違いを教えてください。
カトリックでは巡礼や寄付などの善行を積むことで神に救われるという教えを持っています。 一方、プロテスタントはどんな罪人でも信仰すれば救われるという教えを説いています。
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関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、張飛である。 張飛の最期 次々と昇進を果たした張飛ですが、やがて最期が訪れます。『正史』と『三国志演義』ではどのような違いがあるのでしょうか? 『正史』:突然の最期 章武元年(221)劉備が呉への侵攻を計画すると、張飛は1万の兵を引き連れ、江州で劉備と合流することになりました。しかしその準備中、部下の張達・范彊(はんきょう)に殺されてしまいます。劉備は張飛の部下から上奏文が届いた瞬間、内容を聞くまでもなく張飛の死を悟って嘆いたといいます。『正史』での張飛の最期はこれだけで、何が理由で殺されたのか実際のところはわかりません。知名度の高い武将にもかかわらず、実にあっさりとした描写だといえるでしょう。 『三国志演義』:関羽の死に荒れ… 一方、『三国志演義』には詳しい描写があります。孫権との戦いで死んだ関羽を思い号泣していた張飛は、酒に酔い、部下に鞭をふるって打ち殺すことがありました。やがて張飛は報復のために呉討伐を決心し、「3日以内に全軍白装束を整え出発する」と無理な命令を出します。とても間に合わないということで部下の張達・范疆が猶予を願い出ると、張飛は2人を鞭打ち「遅れたら首をはねる」と叱りつけました。2人は「どうせ死ぬなら……」と考え、泥酔して寝込んでいた張飛を刺殺。その首をもって呉に投降したのでした。 張飛の人物像とは 『三国志』では怪力の豪傑としても有名な張飛。彼はどのような人物だったのでしょうか? 1万の兵に匹敵する武勇 張飛は「1人で1万の兵に匹敵する」といわれるほど勇猛な人物で、曹操軍からも孫権軍からも高く評価されていました。『三国志演義』では、身長八尺(約184cm)でエラが張った顎に虎髭があり、雷のような声と暴れ馬のような勢いをもつ男として登場。ここでの張飛は蛇矛(だぼう)を自在に操る怪力の猛将として描かれています。また一騎討ちの名手という側面もあり、その剛勇さから呂布でさえ泥酔した張飛には警戒していたようです。 部下には厳しく冷酷だった? 張飛は低い身分から士大夫(したいふ、知識階級や官職)に出世しました。これを喜んだ彼は、知識人には紳士的な振る舞いをし、配下や身分の低い者には冷酷な態度をとったといいます。このような不遜な態度は、劉備からも常々注意されていたようです。『正史』で張飛が殺されたとあるのは、行き過ぎた処罰や振る舞いが常々あったからとも考えられています。 張飛のイメージとして切り離せないのが酒でしょう。下邳の留守を預かったときは酒の飲みすぎで失態を犯し、最後は泥酔したところを部下に殺される……このように酒での失敗エピソード満載の張飛ですが、実は『正史』には酒に関する記録はありません。そのため、酒豪で酒癖が悪いという人物像は『三国志演義』での脚色のようです。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、配下にどのような態度だったか。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、配下に冷酷だった。
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歴史
名主の名の起原 このようなありさまであるからして、下受人の特権も時と場合によって大小不同であるけれども、要するに下受人の中心となっている地方豪族の戸主は、一方には荘園の管理者たる名義で、かなり多くの管理料を天引きするほかに、下受管理者としての有利なる条件をもって、その開墾地を持つのであります。たとえば通例の百姓ならば領家で気に入らねばいつでも立ち退かせることができる場合にでも、この者ばかりは大罪を犯さなければ子孫の相続を確保してある。 年貢すなわち作米のように、普通の作人に比べれば三分の一にも五分の一にも満たなかったのであります。 しかのみならず、ごく地味の良い水がかりの良い処ばかりを選り取りしたに違いなかった。つまり京都の荘園の主人を良い旦那にしておったのです。この下受人の特権を名づけて名田職といい、その土地を名田といっている。これは今日の名主の名の起原であります。 名という語の意味 名という語はその本来は少し不明になっておりますが、自分の考えるところによれば区別開墾地という意味であろうと思う。すなわち、五百平方キロメートルの原野を開墾するに当たって、あらかじめ五平方キロメートルとか七平方キロメートルとかの面積に小さく割って事業の進歩に便乗したのである。これは近年の新田開墾にも常にあることで、一年で開墾が終わるほどの小面積であれば良いが、五年も六年もかかるとなると、一方で開墾を進めてゆくと同時に、他の一方では既墾の田地に食料を生産しなければならぬ。今日の村の字にしばしば一番割・二番割などという地名があるのはこのためです。同じくらいの身分のものが共同開墾をする場合には、それぞれの持場持場を決める必要がある。この小区割を名づけて名といったことは、今日ではもはや疑いようがありませぬ。多くの場合においては開墾者は、その家族の者に一つずつの名を分けてやったらしい、すなわち下受開墾者たる特権が不可分のものでなくして、土地に伴なっていたらしいのであります。 女が名主になった証拠 名という文字はいくつも今日の地名となって残っております。九州方面では、肥前北高来郡などでは、小字にはことごとく名の字が付いた所もある。東国の地名では妙に聞こえる公文名などという地名は、つまり荘園の書記の持っている名田の地ということです。同じ原野でも薪を刈りに、もしくは狩をしにしばしば人の往来する所では、従来の地名がありまして、そこに来住するものはただちに新宅の家号としてこれを採用しました。すなわち在名であります。しかし以前の人口の少なかった地方では、事によると五町七町の小区によっては地名のない所がある。このような場合には変則ではあるが、あべこべに貞季とか国知とかいうような人の実名を、地名につけたのである。しかし新名主はいずれ金持の子供であるからして、自分で土を耕す道具を手にする訳でないから、子供もあれば女もあるのであって、太郎丸とか次郎丸とかいう童名をただちに地名に付けたものもあるのであります。名古屋付近に一女子・二女子などという小字があるのは、女が名主になった証拠です。
五百平方キロメートルの原野を開墾するに当たって、小さく割る際により大きい面積の数を教えてください。
五百平方キロメートルの原野を開墾するに当たって、小さく割る際により大きい面積の数は七平方キロメートルです。
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歴史
2つの宗派の違い カトリックとプロテスタントの2つの宗派の特に異なる点は信仰に姿勢や考え方です。カトリックでは聖書の内容や伝承などを教皇や聖職者たちが解釈して人々に伝えるという方式になっています。そのため、カトリックではローマ教皇の言葉はそのまま神の言葉として扱われることも多く、聖職者が強い権力を持っている宗派です。 しかし、プロテスタントでは信者1人1人が聖書を読み、その意味を解釈するので個人主義ともいえる考え方を持っています。このような理由からプロテスタントと一口に言っても考え方は色々で、それぞれ解釈の違いから様々な流派に細分化されています。 つまり、2つの宗派の考え方を説明するなら、カトリックはローマ教皇が伝える神の教えを信仰していて、プロテスタントは聖書に書いてある内容のみを信仰しているということです。 また、カトリックでは巡礼や寄付などの善行を積むことで神に救われるという教えを持っていますが、プロテスタントはどんな罪人でも信仰すれば救われると説いているのも大きな違いの一つですね。 30年戦争の勝敗 30年戦争は名目上は宗教戦争なのでカトリック側の国とプロテスタント側の国に分かれて戦争を行っていました。カトリック側の国は現在のオーストリアやドイツにあった神聖ローマ帝国とベーメン王国(現在のチェコ)、スペイン、デンマーク。プロテスタント側にはスウェーデンやフランス、オスマン帝国(現在のトルコ)、イギリスなどが加勢しています。 30年戦争は1648年に締結されたウエストファーレン条約で終結しました。この条約は2つの講和条約をまとめた総称です。条約はそれぞれ神聖ローマ帝国とスウェーデンの講和を内容としたオスナブリュック講和条約、神聖ローマ帝国とフランスの講和を内容としたミュンスター講和条約という名前があります。 この講和会議はドイツのウエストファーレン地方で開かれ、オスマン帝国とロシアを除いたヨーロッパほぼすべての国が参加していました。 ウエストファーレン条約ではプロテスタントの信仰の権利が認められて、カトリックとプロテスタントは同権であることが定められています。そのため、宗教的な観点で見ると30年戦争はプロテスタント側の勝利という結果になりました。 また、この条約ではプロテスタント側に味方したフランスは神聖ローマ帝国の領地の一部であったアルザス地方と、ロレーヌ地方のいくつかの都市を獲得しています。さらに、スウェーデンは賠償金と北ドイツの都市を獲得。当時神聖ローマ帝国の統治下にあったスイスとオランダはこれを期に独立を果たします。 特に、フランスは勢力拡大を目的として戦争に参加していたので、目論見は大成功しました。スウェーデンも神聖ローマ帝国の帝国議会への参加権を取得しています。そのため、30年戦争の戦勝国の中でも最も得をしたのはフランスとスウェーデンと言えるでしょう。
30年戦争における、カトリック側の国とプロテスタント側の国の陣営の違いを教えてください。
カトリック側の国は神聖ローマ帝国とベーメン王国、スペイン、デンマークなどの陣営となっています。 一方、プロテスタント側の国はスウェーデンやフランス、オスマン帝国、イギリスなどの陣営となっています。
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歴史
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、張飛である。 張飛の最期 次々と昇進を果たした張飛ですが、やがて最期が訪れます。『正史』と『三国志演義』ではどのような違いがあるのでしょうか? 『正史』:突然の最期 章武元年(221)劉備が呉への侵攻を計画すると、張飛は1万の兵を引き連れ、江州で劉備と合流することになりました。しかしその準備中、部下の張達・范彊(はんきょう)に殺されてしまいます。劉備は張飛の部下から上奏文が届いた瞬間、内容を聞くまでもなく張飛の死を悟って嘆いたといいます。『正史』での張飛の最期はこれだけで、何が理由で殺されたのか実際のところはわかりません。知名度の高い武将にもかかわらず、実にあっさりとした描写だといえるでしょう。 『三国志演義』:関羽の死に荒れ… 一方、『三国志演義』には詳しい描写があります。孫権との戦いで死んだ関羽を思い号泣していた張飛は、酒に酔い、部下に鞭をふるって打ち殺すことがありました。やがて張飛は報復のために呉討伐を決心し、「3日以内に全軍白装束を整え出発する」と無理な命令を出します。とても間に合わないということで部下の張達・范疆が猶予を願い出ると、張飛は2人を鞭打ち「遅れたら首をはねる」と叱りつけました。2人は「どうせ死ぬなら……」と考え、泥酔して寝込んでいた張飛を刺殺。その首をもって呉に投降したのでした。 張飛の人物像とは 『三国志』では怪力の豪傑としても有名な張飛。彼はどのような人物だったのでしょうか? 1万の兵に匹敵する武勇 張飛は「1人で1万の兵に匹敵する」といわれるほど勇猛な人物で、曹操軍からも孫権軍からも高く評価されていました。『三国志演義』では、身長八尺(約184cm)でエラが張った顎に虎髭があり、雷のような声と暴れ馬のような勢いをもつ男として登場。ここでの張飛は蛇矛(だぼう)を自在に操る怪力の猛将として描かれています。また一騎討ちの名手という側面もあり、その剛勇さから呂布でさえ泥酔した張飛には警戒していたようです。 部下には厳しく冷酷だった? 張飛は低い身分から士大夫(したいふ、知識階級や官職)に出世しました。これを喜んだ彼は、知識人には紳士的な振る舞いをし、配下や身分の低い者には冷酷な態度をとったといいます。このような不遜な態度は、劉備からも常々注意されていたようです。『正史』で張飛が殺されたとあるのは、行き過ぎた処罰や振る舞いが常々あったからとも考えられています。 張飛のイメージとして切り離せないのが酒でしょう。下邳の留守を預かったときは酒の飲みすぎで失態を犯し、最後は泥酔したところを部下に殺される……このように酒での失敗エピソード満載の張飛ですが、実は『正史』には酒に関する記録はありません。そのため、酒豪で酒癖が悪いという人物像は『三国志演義』での脚色のようです。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、劉備から何ついて注意を受けていたか。
関羽とともに劉備の片腕として活躍した人物は、劉備から振る舞いについて注意を受けていた。
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歴史
七党と称する大地主の団体 京都付近の国々では土地に余りが少なくて、下受け開墾の有難味も自然と薄かったかも知れないが、関東に来ると広漠たる原野を自由勝手に占有することができたために、京都の貴族に取り入って甘んじて家人の地位に下っても、実際の富を作り武力を養うに十分であったのであります。武蔵国の中央の平原に、七党と称する七人の大地主がいた。ほかに南には小山田とか稲毛という大地主が二人いて、北には秩父などいう豪族がいて、いざ開墾が始まるとなると、競って下受権を獲得し、どしどしと次男三男の輩を分家させたのであります。ゆえに今日になっても右の手に七党の系図を持って、左の手に精密な地図を持って当たって行くと、開墾の順序、分家のありさまがきわめて明瞭に分かるのであります。たとえば児玉家の総領は児玉の本荘、すなわち中仙道の本庄付近におり、横山の族長は今の八王子の北部に住んで、その分家は皆付近の村に住んでいた。 俵藤太秀郷の一族 関東から奥州にかけて有名であった秀郷流の藤原氏というのは(私もその子孫という名誉をもっているけれども)、実はこの特権開墾権の運動の都合上、藤原家の若殿を娘の婿に取った下野辺りの判任官位の家柄であって、ことによると「アイヌ」であるかとも思う。この中興の祖である秀郷のように、三上山の百足を退治した時代には、近江に近い山城の田原に住んでいて、藤原家であるところから田原の藤太秀郷と称していたが、その生国は下野であったために、名田の大部分はむしろ関東にあって、その子孫は上州の太田に住んで太田家となり、下野の小山に住んで小山家となり、下総の結城に行って結城家となったばかりでなく、さらに相州にも立派な根拠地を持って、今煙草のできる秦野に住んで波多野家となり、さらに山一つ越えて松田に住んで松田家を作り、さらにその西の河村を開墾して河村家を作ったのであります。河村はいま山北の停車場のある処で、その屋敷のあった河村山の北であったがゆえに、山北というのであります。私の家の系図はうそかまことか受け合われませんが、この河村からまた別れたとありまして、今日では大磯と二宮との中間にある「国府本郷」、すなわち旧地方庁所在地の氏神が柳田神社というのを見ると、あるいはあの辺に猫の額ほどの名田でもあったのではないかと思って、いつも汽車であの辺を通ることであります。煩わしいからたくさんの例は挙げませぬが、これらの一族が事あれば合体して進退を共にすること、たとえば鎌倉北条時代の和田の乱で二百、三浦の乱で三百の名字の人間が一時に腹を切ったのを見てもわかるごとく、名字の分立ということはどこまでも家の統一には害がなかったのであります。しかもいわゆる御先祖になるということは、初めて新しい家号を名字の頭にくっつけるということで、京都で出世のできない地方の荒武者どもにとってはこの数を増やして行くということがむしろ唯一の誇りであったのであります。この状態は私の考えでは、ほぼ吉野朝廷の時代まで続いたので、その前後から大分形勢が変わって、近代的な傾向があらわれ始めたのであります。
武蔵国においてより大地主の数が多いところを教えてください。
武蔵国においてより大地主の数が多いところは中央の平原で七人です。
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歴史
朝鮮戦争とは1950年に朝鮮半島で勃発した戦争です。 朝鮮半島は日本のすぐ近くにあるため、かねてより日本とは深い関わりがありました。しかし、朝鮮戦争は第2次世界大戦の終戦後に起こったにもかかわらず、日本ではよく知らない人が多く、学校の授業でも深くは触れていないようです。 朝鮮戦争は1950年6月25日に始まり、3年ほど続きました。朝鮮半島で現在の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(大韓民国)のどちらが主権を握るか、という民族同士の争いでしたが、この2つの国を援助するという名目で大国が介入してきました。 北朝鮮を援助していたソ連、ソ連と同盟関係にあった中国、そして韓国を援助していたアメリカの争いが朝鮮戦争だったとも言えます。これは社会主義と自由主義のぶつかり合いでもあり、世界の国々に大きな影響を与えました。 朝鮮戦争の参加国 朝鮮戦争は現在の北朝鮮と韓国の争いでした。しかし、この2つの国を援助していた大国の存在、さらには国連が介入したため、朝鮮戦争の参加国は多く、世界中に影響を与えていました。 北朝鮮側の参加国 朝鮮民主主義人民共和国 ソ連 中国 韓国側の参加国 大韓民国 アメリカ合衆国 国連軍 (イギリス、フィリピン、オーストラリア、カナダ、ベルギー、タイ王国など、計22カ国で構成されていた)
朝鮮戦争における、北朝鮮側の参加国と、韓国側の参加国の違いを教えてください。
北朝鮮側の参加国としては、朝鮮民主主義人民共和国 、ソ連、中国となっています。 一方、韓国側の参加国としては、大韓民国、アメリカ合衆国、国連軍となっています。
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歴史
隻眼の武将の異名を持つ人物は、夏侯惇である。 うまれから曹操に従うまで もともと夏侯惇は、曹操にとって近しいといえる存在でした。彼の出自や曹操に従うまでの経緯を振り返ります。 夏侯惇の出自とは? 夏侯惇は豫州沛国譙県(よしゅうはいこくしょうけん 現在の安徽省亳州市譙城区)の人で、前漢の高祖(劉邦)に仕えた夏侯嬰(かこうえい)の末裔といわれています。曹操の父親・曹嵩(そうすう)は夏侯惇の父の弟にあたり、夏侯氏からの養子でした。そのため夏侯惇と曹操は従兄弟同士で、血の繋がりがある親戚という関係です。また、同じく曹操に仕えて活躍した夏侯淵も従兄弟でした。 無名だった曹操に付き従う 14歳のころ学問の師を侮辱した男を殺害し、夏侯惇は名を知られるようになります。このような激しい気性をもつ一方、余分な資産は人に与えて学問に熱中するという清廉な人物で、部下や領民から慕われていたようです。夏侯惇はまだ無名だった曹操が挙兵したときから副将として従い、初平元年(190)曹操が奮武将軍を称すると司馬に任じられ別働隊を指揮しました。また、曹操が本拠地の兗州(えんしゅう)を得て勢力拡大に乗り出すと、白馬に駐屯して東郡太守に就任。このとき夏侯惇は、優れた人物を見出し部下に迎えたといいます。 昇進と活躍を重ねる その後も夏侯惇は曹操の重臣として活躍し、次々と昇進していきました。そしてついには、軍の最高職の地位を手に入れたのです。 呂布との交戦 曹操が徐州の陶謙と対立し遠征した際、東郡の守備を任されていた陳宮が張邈(ちょうばく)と呂布を引き入れ謀反を起こします。このとき夏侯惇は、残された曹操の家族を守るために急いで駆けつけ呂布と交戦しています。敵方の策にはまって捕らえられるなどの失態はあったものの部下の韓浩により無事救出され、最後には反乱者を逮捕し処刑しました。曹操の帰還後は呂布討伐に従軍し、流れ矢で左目を負傷。夏侯惇はこの怪我がもとで隻眼の武将と呼ばれるようになります。 要職を歴任する その後、夏侯惇は曹操の勢力拡大に伴い、陳留太守、済陰太守と行政官の地位を歴任します。このような昇進を続けていたにもかかわらず、治水工事などでは自ら土木作業に従事して民を助けました。 また、曹操が袁紹と敵対して河北に侵攻した際は後詰めを担当し、曹操の留守中に劉備が攻めてきたときには迎撃しています。そして建安9年(204)曹操が袁尚の本拠地・鄴(ぎょう)を平定すると、引き続き河南尹を任されると同時に伏波将軍に昇進。これにより、夏侯惇は自己判断での職務遂行も可能になりました。こうして目覚ましい躍進を遂げた夏侯惇の功績は朝廷からも認められ、所領は合計戸数2500へと増加しました。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、流れ矢でどこを負傷したか。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、流れ矢で左目を負傷した。
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歴史
七党と称する大地主の団体 京都付近の国々では土地に余りが少なくて、下受け開墾の有難味も自然と薄かったかも知れないが、関東に来ると広漠たる原野を自由勝手に占有することができたために、京都の貴族に取り入って甘んじて家人の地位に下っても、実際の富を作り武力を養うに十分であったのであります。武蔵国の中央の平原に、七党と称する七人の大地主がいた。ほかに南には小山田とか稲毛という大地主が二人いて、北には秩父などいう豪族がいて、いざ開墾が始まるとなると、競って下受権を獲得し、どしどしと次男三男の輩を分家させたのであります。ゆえに今日になっても右の手に七党の系図を持って、左の手に精密な地図を持って当たって行くと、開墾の順序、分家のありさまがきわめて明瞭に分かるのであります。たとえば児玉家の総領は児玉の本荘、すなわち中仙道の本庄付近におり、横山の族長は今の八王子の北部に住んで、その分家は皆付近の村に住んでいた。 俵藤太秀郷の一族 関東から奥州にかけて有名であった秀郷流の藤原氏というのは(私もその子孫という名誉をもっているけれども)、実はこの特権開墾権の運動の都合上、藤原家の若殿を娘の婿に取った下野辺りの判任官位の家柄であって、ことによると「アイヌ」であるかとも思う。この中興の祖である秀郷のように、三上山の百足を退治した時代には、近江に近い山城の田原に住んでいて、藤原家であるところから田原の藤太秀郷と称していたが、その生国は下野であったために、名田の大部分はむしろ関東にあって、その子孫は上州の太田に住んで太田家となり、下野の小山に住んで小山家となり、下総の結城に行って結城家となったばかりでなく、さらに相州にも立派な根拠地を持って、今煙草のできる秦野に住んで波多野家となり、さらに山一つ越えて松田に住んで松田家を作り、さらにその西の河村を開墾して河村家を作ったのであります。河村はいま山北の停車場のある処で、その屋敷のあった河村山の北であったがゆえに、山北というのであります。私の家の系図はうそかまことか受け合われませんが、この河村からまた別れたとありまして、今日では大磯と二宮との中間にある「国府本郷」、すなわち旧地方庁所在地の氏神が柳田神社というのを見ると、あるいはあの辺に猫の額ほどの名田でもあったのではないかと思って、いつも汽車であの辺を通ることであります。煩わしいからたくさんの例は挙げませぬが、これらの一族が事あれば合体して進退を共にすること、たとえば鎌倉北条時代の和田の乱で二百、三浦の乱で三百の名字の人間が一時に腹を切ったのを見てもわかるごとく、名字の分立ということはどこまでも家の統一には害がなかったのであります。しかもいわゆる御先祖になるということは、初めて新しい家号を名字の頭にくっつけるということで、京都で出世のできない地方の荒武者どもにとってはこの数を増やして行くということがむしろ唯一の誇りであったのであります。この状態は私の考えでは、ほぼ吉野朝廷の時代まで続いたので、その前後から大分形勢が変わって、近代的な傾向があらわれ始めたのであります。
鎌倉北条時代に起きた乱によって、より腹を切った人数が多い乱を教えてください。
鎌倉北条時代に起きた乱によって、より腹を切った人数が多い乱は三浦の乱で、三百名です。
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歴史
律令のなかの民衆 民衆の管理 複数の家族を成員25人程度にまとめて、戸という単位を編成しました。 民衆はいずれかの戸に所属する形で国家に管理されました。 戸 50戸で里長が管轄する行政区分「里(後に郷と改称)」を編成 戸の詳細な情報は、2種類の文書にまとめられました。 ①戸籍 6年に1度作成され、戸の構成員の名・年齢・性別を記載 6年ごとの班田収授の対象者を一目で把握可能 ②計帳 毎年作成され、戸籍の情報に加えてホクロなど身体的特徴も記載 年齢(20歳以上か未満かなど)で負担量が変わる税を把握可能 民衆の尊卑 民衆の身分は良民と賤民に二分されました。 賤民は官有の「陵戸・官戸・公奴婢 」と私有の「家人・私奴婢」に分かれ、まとめて五色の賤とも総称されました。 良民 貴族を含む官人も該当しますが、彼らは一般民衆と異なり税負担なし 田地に関する決まりごと 長さと面積の単位 長さ 1町=60歩(=現在の約109m) 面積 1段=10畝 =360歩(=現在の約11.3a) 1町=10段、1里=36町 田地に関する単位 条里制 碁盤状の田地で、東西の列を「1条、2条、3条…」、南北の列を「1里、2里、3里…」と数えます。 すると、特定の田地の位置を「○条×里」と示せます。 このような田地の位置管理を条里制と呼びます。 条坊制 条坊制は、碁盤状の京(藤原京など)で使用 南北の列を「1坊、2坊、3坊…」と数え、特定の区画の位置を「○条×坊」と表示 税制度の様相 田地の配給 班田収授法に従い、一定の田地口分田 が班給・収公されました。 班給:6年ごとの戸籍作成時、6以上の男女を対象 収公:6年ごとの戸籍作成時、班給された者で既に死去している者を対象 男性→2段(720歩) 女性→男性の2/3(480歩=1段120歩) 家人・私奴婢の男性→良民男性の1/3(240歩) 家人・私奴婢の女性→良民女性の1/3(160歩) 口分田を班給した残りの田地を乗田と呼び、期限・利子付きで貸し出し(賃租) 田地の種類には、大臣などに支給される職田 (不輸租田の一種)や、 五位以上の位階者に与えられる位田(輸租田の一種)などが存在 税の種類 税 正丁 (21~60歳の男) 次丁(老丁) (61~65歳の男) 少丁(中男) (17~20歳の男) 備考 調 郷土の特産を一定量 正丁の1/2 正丁の1/4 中央へ納入 京へ運ぶ運脚の負担は正丁 食料自弁 庸 京で労役(歳役)10日、または、布2丈6尺 正丁の1/2 なし 雑徭 年間最大60日の労役 (国の土木工事など) 正丁の1/2 正丁の1/4 租 男女問わず、口分田1段につき稲2束2把 (収獲の3%相当) 地方へ納入 中央へ一部納入 兵役 正丁3人から1人徴収され、諸国の軍団に所属 軍団内から選抜され、衛士 (京警備)を1年間または防人 (九州警備)を3年間勤務 慣例で防人は東国の者から選抜 武器・食料自弁 出挙 国府の財源確保に稲や粟を貸付け、利息5割での納入を要求 最も重い税 義倉 粟などを凶作に備えて貯蓄 1丈=10尺(約3m)、1束=10把(1把は片手で握れる稲の量)
良民と賤民の違いを説明してください。
賤民は官有の「陵戸・官戸・公奴婢 」と私有の「家人・私奴婢」に分かれ、まとめて五色の賤とも総称されました。 良民は貴族を含む官人も該当しますが、彼らは一般民衆と異なり税負担がありません。
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歴史
隻眼の武将の異名を持つ人物は、夏侯惇である。 うまれから曹操に従うまで もともと夏侯惇は、曹操にとって近しいといえる存在でした。彼の出自や曹操に従うまでの経緯を振り返ります。 夏侯惇の出自とは? 夏侯惇は豫州沛国譙県(よしゅうはいこくしょうけん 現在の安徽省亳州市譙城区)の人で、前漢の高祖(劉邦)に仕えた夏侯嬰(かこうえい)の末裔といわれています。曹操の父親・曹嵩(そうすう)は夏侯惇の父の弟にあたり、夏侯氏からの養子でした。そのため夏侯惇と曹操は従兄弟同士で、血の繋がりがある親戚という関係です。また、同じく曹操に仕えて活躍した夏侯淵も従兄弟でした。 無名だった曹操に付き従う 14歳のころ学問の師を侮辱した男を殺害し、夏侯惇は名を知られるようになります。このような激しい気性をもつ一方、余分な資産は人に与えて学問に熱中するという清廉な人物で、部下や領民から慕われていたようです。夏侯惇はまだ無名だった曹操が挙兵したときから副将として従い、初平元年(190)曹操が奮武将軍を称すると司馬に任じられ別働隊を指揮しました。また、曹操が本拠地の兗州(えんしゅう)を得て勢力拡大に乗り出すと、白馬に駐屯して東郡太守に就任。このとき夏侯惇は、優れた人物を見出し部下に迎えたといいます。 昇進と活躍を重ねる その後も夏侯惇は曹操の重臣として活躍し、次々と昇進していきました。そしてついには、軍の最高職の地位を手に入れたのです。 呂布との交戦 曹操が徐州の陶謙と対立し遠征した際、東郡の守備を任されていた陳宮が張邈(ちょうばく)と呂布を引き入れ謀反を起こします。このとき夏侯惇は、残された曹操の家族を守るために急いで駆けつけ呂布と交戦しています。敵方の策にはまって捕らえられるなどの失態はあったものの部下の韓浩により無事救出され、最後には反乱者を逮捕し処刑しました。曹操の帰還後は呂布討伐に従軍し、流れ矢で左目を負傷。夏侯惇はこの怪我がもとで隻眼の武将と呼ばれるようになります。 要職を歴任する その後、夏侯惇は曹操の勢力拡大に伴い、陳留太守、済陰太守と行政官の地位を歴任します。このような昇進を続けていたにもかかわらず、治水工事などでは自ら土木作業に従事して民を助けました。 また、曹操が袁紹と敵対して河北に侵攻した際は後詰めを担当し、曹操の留守中に劉備が攻めてきたときには迎撃しています。そして建安9年(204)曹操が袁尚の本拠地・鄴(ぎょう)を平定すると、引き続き河南尹を任されると同時に伏波将軍に昇進。これにより、夏侯惇は自己判断での職務遂行も可能になりました。こうして目覚ましい躍進を遂げた夏侯惇の功績は朝廷からも認められ、所領は合計戸数2500へと増加しました。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、誰の留守中に劉備を迎撃したか。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、曹操の留守中に劉備が攻めてきたときには迎撃した。
JCRRAG_018349
歴史
七党と称する大地主の団体 京都付近の国々では土地に余りが少なくて、下受け開墾の有難味も自然と薄かったかも知れないが、関東に来ると広漠たる原野を自由勝手に占有することができたために、京都の貴族に取り入って甘んじて家人の地位に下っても、実際の富を作り武力を養うに十分であったのであります。武蔵国の中央の平原に、七党と称する七人の大地主がいた。ほかに南には小山田とか稲毛という大地主が二人いて、北には秩父などいう豪族がいて、いざ開墾が始まるとなると、競って下受権を獲得し、どしどしと次男三男の輩を分家させたのであります。ゆえに今日になっても右の手に七党の系図を持って、左の手に精密な地図を持って当たって行くと、開墾の順序、分家のありさまがきわめて明瞭に分かるのであります。たとえば児玉家の総領は児玉の本荘、すなわち中仙道の本庄付近におり、横山の族長は今の八王子の北部に住んで、その分家は皆付近の村に住んでいた。 俵藤太秀郷の一族 関東から奥州にかけて有名であった秀郷流の藤原氏というのは(私もその子孫という名誉をもっているけれども)、実はこの特権開墾権の運動の都合上、藤原家の若殿を娘の婿に取った下野辺りの判任官位の家柄であって、ことによると「アイヌ」であるかとも思う。この中興の祖である秀郷のように、三上山の百足を退治した時代には、近江に近い山城の田原に住んでいて、藤原家であるところから田原の藤太秀郷と称していたが、その生国は下野であったために、名田の大部分はむしろ関東にあって、その子孫は上州の太田に住んで太田家となり、下野の小山に住んで小山家となり、下総の結城に行って結城家となったばかりでなく、さらに相州にも立派な根拠地を持って、今煙草のできる秦野に住んで波多野家となり、さらに山一つ越えて松田に住んで松田家を作り、さらにその西の河村を開墾して河村家を作ったのであります。河村はいま山北の停車場のある処で、その屋敷のあった河村山の北であったがゆえに、山北というのであります。私の家の系図はうそかまことか受け合われませんが、この河村からまた別れたとありまして、今日では大磯と二宮との中間にある「国府本郷」、すなわち旧地方庁所在地の氏神が柳田神社というのを見ると、あるいはあの辺に猫の額ほどの名田でもあったのではないかと思って、いつも汽車であの辺を通ることであります。煩わしいからたくさんの例は挙げませぬが、これらの一族が事あれば合体して進退を共にすること、たとえば鎌倉北条時代の和田の乱で二百、三浦の乱で三百の名字の人間が一時に腹を切ったのを見てもわかるごとく、名字の分立ということはどこまでも家の統一には害がなかったのであります。しかもいわゆる御先祖になるということは、初めて新しい家号を名字の頭にくっつけるということで、京都で出世のできない地方の荒武者どもにとってはこの数を増やして行くということがむしろ唯一の誇りであったのであります。この状態は私の考えでは、ほぼ吉野朝廷の時代まで続いたので、その前後から大分形勢が変わって、近代的な傾向があらわれ始めたのであります。
鎌倉北条時代に起きた乱によって、より腹を切った人数が少ない乱を教えてください。
鎌倉北条時代に起きた乱によって、より腹を切った人数が少ない乱は和田の乱で二百です。
JCRRAG_018350
歴史
律令のなかの民衆 民衆の管理 複数の家族を成員25人程度にまとめて、戸という単位を編成しました。 民衆はいずれかの戸に所属する形で国家に管理されました。 戸 50戸で里長が管轄する行政区分「里(後に郷と改称)」を編成 戸の詳細な情報は、2種類の文書にまとめられました。 ①戸籍 6年に1度作成され、戸の構成員の名・年齢・性別を記載 6年ごとの班田収授の対象者を一目で把握可能 ②計帳 毎年作成され、戸籍の情報に加えてホクロなど身体的特徴も記載 年齢(20歳以上か未満かなど)で負担量が変わる税を把握可能 民衆の尊卑 民衆の身分は良民と賤民に二分されました。 賤民は官有の「陵戸・官戸・公奴婢 」と私有の「家人・私奴婢」に分かれ、まとめて五色の賤とも総称されました。 良民 貴族を含む官人も該当しますが、彼らは一般民衆と異なり税負担なし 田地に関する決まりごと 長さと面積の単位 長さ 1町=60歩(=現在の約109m) 面積 1段=10畝 =360歩(=現在の約11.3a) 1町=10段、1里=36町 田地に関する単位 条里制 碁盤状の田地で、東西の列を「1条、2条、3条…」、南北の列を「1里、2里、3里…」と数えます。 すると、特定の田地の位置を「○条×里」と示せます。 このような田地の位置管理を条里制と呼びます。 条坊制 条坊制は、碁盤状の京(藤原京など)で使用 南北の列を「1坊、2坊、3坊…」と数え、特定の区画の位置を「○条×坊」と表示 税制度の様相 田地の配給 班田収授法に従い、一定の田地口分田 が班給・収公されました。 班給:6年ごとの戸籍作成時、6以上の男女を対象 収公:6年ごとの戸籍作成時、班給された者で既に死去している者を対象 男性→2段(720歩) 女性→男性の2/3(480歩=1段120歩) 家人・私奴婢の男性→良民男性の1/3(240歩) 家人・私奴婢の女性→良民女性の1/3(160歩) 口分田を班給した残りの田地を乗田と呼び、期限・利子付きで貸し出し(賃租) 田地の種類には、大臣などに支給される職田 (不輸租田の一種)や、 五位以上の位階者に与えられる位田(輸租田の一種)などが存在 税の種類 税 正丁 (21~60歳の男) 次丁(老丁) (61~65歳の男) 少丁(中男) (17~20歳の男) 備考 調 郷土の特産を一定量 正丁の1/2 正丁の1/4 中央へ納入 京へ運ぶ運脚の負担は正丁 食料自弁 庸 京で労役(歳役)10日、または、布2丈6尺 正丁の1/2 なし 雑徭 年間最大60日の労役 (国の土木工事など) 正丁の1/2 正丁の1/4 租 男女問わず、口分田1段につき稲2束2把 (収獲の3%相当) 地方へ納入 中央へ一部納入 兵役 正丁3人から1人徴収され、諸国の軍団に所属 軍団内から選抜され、衛士 (京警備)を1年間または防人 (九州警備)を3年間勤務 慣例で防人は東国の者から選抜 武器・食料自弁 出挙 国府の財源確保に稲や粟を貸付け、利息5割での納入を要求 最も重い税 義倉 粟などを凶作に備えて貯蓄 1丈=10尺(約3m)、1束=10把(1把は片手で握れる稲の量)
条里制と条坊制の違いを説明してください。
条里制は碁盤状の田地で、東西の列を「1条、2条、3条…」、南北の列を「1里、2里、3里…」と数えます。 すると、特定の田地の位置を「○条×里」と示せます。 条坊制は条坊制は、碁盤状の京(藤原京など)で使用され、南北の列を「1坊、2坊、3坊…」と数え、特定の区画の位置を「○条×坊」と表示できます。
JCRRAG_018351
歴史
隻眼の武将の異名を持つ人物は、夏侯惇である。 うまれから曹操に従うまで もともと夏侯惇は、曹操にとって近しいといえる存在でした。彼の出自や曹操に従うまでの経緯を振り返ります。 夏侯惇の出自とは? 夏侯惇は豫州沛国譙県(よしゅうはいこくしょうけん 現在の安徽省亳州市譙城区)の人で、前漢の高祖(劉邦)に仕えた夏侯嬰(かこうえい)の末裔といわれています。曹操の父親・曹嵩(そうすう)は夏侯惇の父の弟にあたり、夏侯氏からの養子でした。そのため夏侯惇と曹操は従兄弟同士で、血の繋がりがある親戚という関係です。また、同じく曹操に仕えて活躍した夏侯淵も従兄弟でした。 無名だった曹操に付き従う 14歳のころ学問の師を侮辱した男を殺害し、夏侯惇は名を知られるようになります。このような激しい気性をもつ一方、余分な資産は人に与えて学問に熱中するという清廉な人物で、部下や領民から慕われていたようです。夏侯惇はまだ無名だった曹操が挙兵したときから副将として従い、初平元年(190)曹操が奮武将軍を称すると司馬に任じられ別働隊を指揮しました。また、曹操が本拠地の兗州(えんしゅう)を得て勢力拡大に乗り出すと、白馬に駐屯して東郡太守に就任。このとき夏侯惇は、優れた人物を見出し部下に迎えたといいます。 昇進と活躍を重ねる その後も夏侯惇は曹操の重臣として活躍し、次々と昇進していきました。そしてついには、軍の最高職の地位を手に入れたのです。 呂布との交戦 曹操が徐州の陶謙と対立し遠征した際、東郡の守備を任されていた陳宮が張邈(ちょうばく)と呂布を引き入れ謀反を起こします。このとき夏侯惇は、残された曹操の家族を守るために急いで駆けつけ呂布と交戦しています。敵方の策にはまって捕らえられるなどの失態はあったものの部下の韓浩により無事救出され、最後には反乱者を逮捕し処刑しました。曹操の帰還後は呂布討伐に従軍し、流れ矢で左目を負傷。夏侯惇はこの怪我がもとで隻眼の武将と呼ばれるようになります。 要職を歴任する その後、夏侯惇は曹操の勢力拡大に伴い、陳留太守、済陰太守と行政官の地位を歴任します。このような昇進を続けていたにもかかわらず、治水工事などでは自ら土木作業に従事して民を助けました。 また、曹操が袁紹と敵対して河北に侵攻した際は後詰めを担当し、曹操の留守中に劉備が攻めてきたときには迎撃しています。そして建安9年(204)曹操が袁尚の本拠地・鄴(ぎょう)を平定すると、引き続き河南尹を任されると同時に伏波将軍に昇進。これにより、夏侯惇は自己判断での職務遂行も可能になりました。こうして目覚ましい躍進を遂げた夏侯惇の功績は朝廷からも認められ、所領は合計戸数2500へと増加しました。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、河南尹を任されると同時に何に昇進したか。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、河南尹を任されると同時に伏波将軍に昇進した。
JCRRAG_018352
歴史
家号を新領に持って行くことになった原因 このように家号を持って新領に引き移る風潮は、だんだんと増加して行ってついに名字の固着した今日の状態を養うに至ったが、一つの原因としては、吉野朝廷時代に地方地方の嫡庶の争いが、この機会を利用して宮方・武家方に立ち分かれ、所領の奪い合いを始めたために、その一の要求としていったん新たなる家号を持ったものも、改めて本家の名を名乗るという政治上の必要も、よほどこの傾向を手伝っていると思われる。これから以後は名字によって、その家の郷里を推測することのできるという、一方から見れば重宝な様子になって行ったのである。しかしいずれの家でも最初の本領というものがあって、不忠の心なく武家に仕えていたものは、まずは家号の地と連絡を絶つことはなかったがゆえに、足利氏の末の頃まで山田郷の山田殿というような武士は、たくさん全国にあったのであります。 東北の旧家たる佐藤・五十嵐・本間 ここでその一例をいうと、前にもお話した田原家の後である佐藤家である。現在の系図が真実とするならば、佐藤家は下野より北部に向かって非常な勢いをもって蔓延して行ったのである。九郎判官に仕えて忠義の戦死を遂げた佐藤嗣信・佐藤忠信の兄弟は、諸所にその遺跡というものがあって正確にはわからぬが、とにかく奥州の南方に領地を持っておった佐藤家であって、すでに源平時代においてその東北に植民を始めたのである。今日でも奥羽六県の間には佐藤という旧家が最も多く、いずれも秀郷流の藤原氏であると称している。自分は去年山形県を旅行して、面白い事実を発見した。出羽の庄内、ことに西田川郡の海岸部においては、佐藤という名字が三百、五十嵐という名字が五百と南北から入り交って、ここで双方の境界をなしている。この五十嵐家は系図は見たことがないけれども、何でも越後が本元で、新潟県の北部から山を越えて、出羽の方へも会津の方へも移住を試み、いずれの方面においても佐藤家の前進を喰い止めかつ喰い止められている。 酒田の本間家は現今の富豪であるが、この家号も広く出羽地方に播布しており、佐藤・五十嵐二勢力の外に屹立しているが、この家は佐渡の本間である。本間家と佐藤家の縁故はすこぶる深いもので、しかも一島の富を独占しておったがために、その余力をもって優に対岸の地に展開することができ、ここにはからずも山形県の隅に、三合の奇現象を残すことになったのであります。
出羽の庄内、西田川郡の海岸部においてより数が多い名字を教えてください。
出羽の庄内、西田川郡の海岸部においてより数が多い名字は五十嵐で五百です。
JCRRAG_018353
歴史
ピザというのは、イタリヤの中部からやや北方にある都会で、そこにはヅオモ大寺と呼ばれる大きな寺院があり、そのなかに名高い斜塔が立っています。十六七世紀頃にはかなり盛んな町であったのですが、ガリレイはこの町で一五六四年の二月十五日に生まれました。父はヴィンセンツォ・ガリレイという人で、その家は以前にはイタリアの貴族であってフィレンツェという都市に住んでいたのでしたが、この頃には零落してピザに移住していたのだと言われています。それで生活にも余裕がなかったので、父はその息子のガリレオが育つにつれて、将来は商人にでもして家を興してゆこうと考えたのでしたが、どうも息子が学問を好むので、ピザの大学で医学を学ばせることにしたのでした。ところがガリレオは医者になるのも好まなかったらしく、幼年の頃から好きな数学の講義を廊下で熱心に立ち聞きしているという有様なので、ある公爵家の家庭教師がそれを知って数学と物理学とを学ばせるように父親をも説得したということです。これで見てもガリレオが生来純粋の学問をどれほど望んでいたかがわかるわけです。それでガリレオは喜んで学業に励みましたが、一五八九年になって、ある侯爵の推薦でこのピザの大学の数学教授に任命されました。それが僅か二十五歳のことでありますから、彼の学才のいかに優れていたかが想察されるのです。 さてガリレイはその後一五九一年まで二年間この大学の教職に就いていましたが、その間に既にいろいろの研究にとりかかり、特に有名な自由落下の法則をまず最初に見つけ出しました。これはいろいろの物体が地球の上で自由に落ちる場合に、その速さがどう変ってゆくかを示す法則なのです。この問題について、その頃まで一般に昔のギリシャ時代の哲学者であったアリストテレスの説が信じられていたので、それによると比重の大きいものほど速く落ちるというので、例えば鉄片と木片とを同時に落すと、鉄片の方が遥かに速く落ちるということになりますが、ガリレイはそれを疑って、ともかく事実をたしかに突きとめなくてはならないと考えて、いろいろ実験を行って見たのでした。この実験をピザの斜塔で行ったということが話には伝わっていますが、それにはどうも確かな証拠はないようです。しかし、何にしても、そのような実験からガリレイが自由落下の法則を見つけ出したのには違いないのでしょう。つまりガリレイは最初から科学では自然の事実に基づかなくてはいけないという信念を強く持っていたのでした。 もう一つ有名な伝説として、ガリレイがピザの大寺院のなかでその天井から吊り下げられている吊灯の揺れるのを見て、その往復する時間が揺れ方の大小に係わらないことを見つけ出したということが話されて居り、これは彼の学生時代のことだと言われていますが、これもよほど疑わしいので、現在この寺院にある青銅の吊灯にある銘を見ると、それより数年後の日附が記されているのです。ですからこの伝説そのままはやはり信じられないのですが、同じく実験の上からガリレイが振子の揺れ方に関する法則を見つけ出したということだけは確かだと考えられています。ここでも彼は事実をいろいろ調べてその法則に到達したに違いないのです。 この頃には時計といってもごく粗雑なものしかなかったので、その後は医者が病人の脈搏の速さを測るのに、このような振子をつかった脈搏計というものをつくって、それを使ったそうで、これはなかなかおもしろい事がらだと思われます。
アリストテレスの説とガリレオの説の違いを説明してください。
アリストテレスの説は鉄片と木片とを同時に落すと、鉄片の方が遥かに速く落ちるという比重の大きいものほど速く落ちるという説です。 ガリレオの説は物体が地球の上で自由に落ちる場合に、その速さがどう変ってゆくかを示す法則を示す自由落下の法則です。
JCRRAG_018354
歴史
隻眼の武将の異名を持つ人物は、夏侯惇である。 うまれから曹操に従うまで もともと夏侯惇は、曹操にとって近しいといえる存在でした。彼の出自や曹操に従うまでの経緯を振り返ります。 夏侯惇の出自とは? 夏侯惇は豫州沛国譙県(よしゅうはいこくしょうけん 現在の安徽省亳州市譙城区)の人で、前漢の高祖(劉邦)に仕えた夏侯嬰(かこうえい)の末裔といわれています。曹操の父親・曹嵩(そうすう)は夏侯惇の父の弟にあたり、夏侯氏からの養子でした。そのため夏侯惇と曹操は従兄弟同士で、血の繋がりがある親戚という関係です。また、同じく曹操に仕えて活躍した夏侯淵も従兄弟でした。 無名だった曹操に付き従う 14歳のころ学問の師を侮辱した男を殺害し、夏侯惇は名を知られるようになります。このような激しい気性をもつ一方、余分な資産は人に与えて学問に熱中するという清廉な人物で、部下や領民から慕われていたようです。夏侯惇はまだ無名だった曹操が挙兵したときから副将として従い、初平元年(190)曹操が奮武将軍を称すると司馬に任じられ別働隊を指揮しました。また、曹操が本拠地の兗州(えんしゅう)を得て勢力拡大に乗り出すと、白馬に駐屯して東郡太守に就任。このとき夏侯惇は、優れた人物を見出し部下に迎えたといいます。 昇進と活躍を重ねる その後も夏侯惇は曹操の重臣として活躍し、次々と昇進していきました。そしてついには、軍の最高職の地位を手に入れたのです。 呂布との交戦 曹操が徐州の陶謙と対立し遠征した際、東郡の守備を任されていた陳宮が張邈(ちょうばく)と呂布を引き入れ謀反を起こします。このとき夏侯惇は、残された曹操の家族を守るために急いで駆けつけ呂布と交戦しています。敵方の策にはまって捕らえられるなどの失態はあったものの部下の韓浩により無事救出され、最後には反乱者を逮捕し処刑しました。曹操の帰還後は呂布討伐に従軍し、流れ矢で左目を負傷。夏侯惇はこの怪我がもとで隻眼の武将と呼ばれるようになります。 要職を歴任する その後、夏侯惇は曹操の勢力拡大に伴い、陳留太守、済陰太守と行政官の地位を歴任します。このような昇進を続けていたにもかかわらず、治水工事などでは自ら土木作業に従事して民を助けました。 また、曹操が袁紹と敵対して河北に侵攻した際は後詰めを担当し、曹操の留守中に劉備が攻めてきたときには迎撃しています。そして建安9年(204)曹操が袁尚の本拠地・鄴(ぎょう)を平定すると、引き続き河南尹を任されると同時に伏波将軍に昇進。これにより、夏侯惇は自己判断での職務遂行も可能になりました。こうして目覚ましい躍進を遂げた夏侯惇の功績は朝廷からも認められ、所領は合計戸数2500へと増加しました。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、どこに駐屯して東郡太守に就任したか。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、白馬に駐屯して東郡太守に就任した。
JCRRAG_018355
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家号を新領に持って行くことになった原因 このように家号を持って新領に引き移る風潮は、だんだんと増加して行ってついに名字の固着した今日の状態を養うに至ったが、一つの原因としては、吉野朝廷時代に地方地方の嫡庶の争いが、この機会を利用して宮方・武家方に立ち分かれ、所領の奪い合いを始めたために、その一の要求としていったん新たなる家号を持ったものも、改めて本家の名を名乗るという政治上の必要も、よほどこの傾向を手伝っていると思われる。これから以後は名字によって、その家の郷里を推測することのできるという、一方から見れば重宝な様子になって行ったのである。しかしいずれの家でも最初の本領というものがあって、不忠の心なく武家に仕えていたものは、まずは家号の地と連絡を絶つことはなかったがゆえに、足利氏の末の頃まで山田郷の山田殿というような武士は、たくさん全国にあったのであります。 東北の旧家たる佐藤・五十嵐・本間 ここでその一例をいうと、前にもお話した田原家の後である佐藤家である。現在の系図が真実とするならば、佐藤家は下野より北部に向かって非常な勢いをもって蔓延して行ったのである。九郎判官に仕えて忠義の戦死を遂げた佐藤嗣信・佐藤忠信の兄弟は、諸所にその遺跡というものがあって正確にはわからぬが、とにかく奥州の南方に領地を持っておった佐藤家であって、すでに源平時代においてその東北に植民を始めたのである。今日でも奥羽六県の間には佐藤という旧家が最も多く、いずれも秀郷流の藤原氏であると称している。自分は去年山形県を旅行して、面白い事実を発見した。出羽の庄内、ことに西田川郡の海岸部においては、佐藤という名字が三百、五十嵐という名字が五百と南北から入り交って、ここで双方の境界をなしている。この五十嵐家は系図は見たことがないけれども、何でも越後が本元で、新潟県の北部から山を越えて、出羽の方へも会津の方へも移住を試み、いずれの方面においても佐藤家の前進を喰い止めかつ喰い止められている。 酒田の本間家は現今の富豪であるが、この家号も広く出羽地方に播布しており、佐藤・五十嵐二勢力の外に屹立しているが、この家は佐渡の本間である。本間家と佐藤家の縁故はすこぶる深いもので、しかも一島の富を独占しておったがために、その余力をもって優に対岸の地に展開することができ、ここにはからずも山形県の隅に、三合の奇現象を残すことになったのであります。
出羽の庄内、西田川郡の海岸部においてより数が少ない名字を教えてください。
出羽の庄内、西田川郡の海岸部においてより数が少ない名字は佐藤で三百です。
JCRRAG_018356
歴史
ピザの大学でガリレイは教授ではありましたが、その俸給はごく少くて、ようやく自分一人が生活するにも足りない程度でした。ところが一五九一年に父が亡くなったので、その家族を扶養しなくてはならなくなり、そのままでは過ごすことができなくなったので、そこで以前にピザにゆく時に世話になった侯爵がまた彼のために奔走し、そのおかげで翌年バドーヴァの大学に転任することになりました。 パドーヴァの大学にはその後十八年間在職しましたが、この時期こそガリレイの生涯において最も幸福な、また最も精根を尽して研究に専心することのできた時代であったのでした。その頃彼の学識の高いことはヨーロッパの諸国に広く伝えられたので、その名声を慕って諸国からたくさんの学徒が集まって来て、その講義は千人を容れるだけの大講堂で行っても、なお狭くて収容しきれない程であったということでした。ところがそうなると、授業に費す時間がどうしても多くなって、それだけ自分の研究が妨げられるので、彼はもっと自由な時間をもつことのできるような地位を望むようになり、一六一〇年になって再びピザに戻り、今度はそこで最も名誉のある「大公国の第一哲学者」として迎えられました。 パドーヴァ時代にガリレイは、コペルニクスの書物を読んで、その学説の正しいことを感じ、自分でもこれを研究してみたいと望んだのでした。コペルニクスという人はポーランドの国の僧侶であったのですが、イタリアへ来て学問を修め、その後帰国してから、有名な地動説を称え、その書物は一五四三年に彼の没する直前に出版されて、それから世に広まったのでしたが、その頃の宗教家の激しい非難に遇って、ほとんど禁止の運命に置かれていたのでした。宗教家の反対というのはキリスト教の聖書に、我々人間は神にかたどって作られたものであり、そしてこの人間の住んでいる地球は宇宙の中心にあって、あらゆる天体はそれを巡っているということが記されているのに、コペルニクスの地動説では、太陽のまわりを地球が廻っていると説くので、これは神聖な聖書にそむく虚偽異端の説であるというのでした。ガリレイは併し、この宇宙の正しい事実を言いあらわす科学こそ神の栄光と偉大さとをいとも驚くべくもの語るものであって、これを禁圧するのは、それこそかえって神の意志に背くものであるという強固な信条のもとに、むしろコペルニクスの説を肯定しようとしたのでした。併しその頃の宗教家たちには、そのような優れた思想のわかる筈はありません。かえって自分たちの狭い考えに捉われて、依然としてこれに反対していました。 ところが、その当時ドイツにヨハンネス・ケプラーというすぐれた若い学者がいて、オーストリーのグラーツ大学で数学の講師をしていましたが、この人が惑星の軌道について研究した結果をガリレイの許に送って来ました。このケプラーは有名な惑星運動の法則を立てた人ですが、その仕事はずっと後に完成したので、この時の研究というのはそれ以前のものに過ぎなかったのですが、それでもガリレイはこれに非常な興味を感じ、彼に親愛に充ちた返書を送りました。そのなかには、「私はコペルニクスの運命を恐れています。彼は少数の人たちからは不朽の栄誉を得たとしても、愚者に充ちた大多数の民衆にとっては軽蔑と汚辱との対象にしか過ぎないでしょう」と言う言葉が記されています。 その後ガリレイは天体観測を自分で行おうと考え、オランダで発明された望遠鏡の話を聞いて、それと同様のものを製作し、望遠鏡でいろいろな星を観測しました。これは一六〇九年のことで、その結果として月に高い山のあることや、銀河がたくさんの星の集まりであること、木星には四つの月が附随していること、金星、水星が月と同じように満ち欠けを示すこと、太陽に黒点のあることなどを見つけ出し、それらの事がらからコペルニクスの説の真であることをますます確信するようになりました。
コペルニクスの説とキリスト教の聖書に記されている説の違いを説明してください。
コペルニクスの説は太陽のまわりを地球が廻っていると説く地動説です。 キリスト教の聖書には我々人間は神にかたどってつくられたものであり、そしてこの人間の住んでいる地球は宇宙の中心にあって、あらゆる天体はそれをめぐっているということが記されています。
JCRRAG_018357
歴史
隻眼の武将の異名を持つ人物は、夏侯惇である。 うまれから曹操に従うまで もともと夏侯惇は、曹操にとって近しいといえる存在でした。彼の出自や曹操に従うまでの経緯を振り返ります。 夏侯惇の出自とは? 夏侯惇は豫州沛国譙県(よしゅうはいこくしょうけん 現在の安徽省亳州市譙城区)の人で、前漢の高祖(劉邦)に仕えた夏侯嬰(かこうえい)の末裔といわれています。曹操の父親・曹嵩(そうすう)は夏侯惇の父の弟にあたり、夏侯氏からの養子でした。そのため夏侯惇と曹操は従兄弟同士で、血の繋がりがある親戚という関係です。また、同じく曹操に仕えて活躍した夏侯淵も従兄弟でした。 無名だった曹操に付き従う 14歳のころ学問の師を侮辱した男を殺害し、夏侯惇は名を知られるようになります。このような激しい気性をもつ一方、余分な資産は人に与えて学問に熱中するという清廉な人物で、部下や領民から慕われていたようです。夏侯惇はまだ無名だった曹操が挙兵したときから副将として従い、初平元年(190)曹操が奮武将軍を称すると司馬に任じられ別働隊を指揮しました。また、曹操が本拠地の兗州(えんしゅう)を得て勢力拡大に乗り出すと、白馬に駐屯して東郡太守に就任。このとき夏侯惇は、優れた人物を見出し部下に迎えたといいます。 昇進と活躍を重ねる その後も夏侯惇は曹操の重臣として活躍し、次々と昇進していきました。そしてついには、軍の最高職の地位を手に入れたのです。 呂布との交戦 曹操が徐州の陶謙と対立し遠征した際、東郡の守備を任されていた陳宮が張邈(ちょうばく)と呂布を引き入れ謀反を起こします。このとき夏侯惇は、残された曹操の家族を守るために急いで駆けつけ呂布と交戦しています。敵方の策にはまって捕らえられるなどの失態はあったものの部下の韓浩により無事救出され、最後には反乱者を逮捕し処刑しました。曹操の帰還後は呂布討伐に従軍し、流れ矢で左目を負傷。夏侯惇はこの怪我がもとで隻眼の武将と呼ばれるようになります。 要職を歴任する その後、夏侯惇は曹操の勢力拡大に伴い、陳留太守、済陰太守と行政官の地位を歴任します。このような昇進を続けていたにもかかわらず、治水工事などでは自ら土木作業に従事して民を助けました。 また、曹操が袁紹と敵対して河北に侵攻した際は後詰めを担当し、曹操の留守中に劉備が攻めてきたときには迎撃しています。そして建安9年(204)曹操が袁尚の本拠地・鄴(ぎょう)を平定すると、引き続き河南尹を任されると同時に伏波将軍に昇進。これにより、夏侯惇は自己判断での職務遂行も可能になりました。こうして目覚ましい躍進を遂げた夏侯惇の功績は朝廷からも認められ、所領は合計戸数2500へと増加しました。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、何をして民を助けたか。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、治水工事などでは自ら土木作業に従事して民を助けました。
JCRRAG_018358
歴史
家紋の数はあまりたくさんはない 話がここまで進むと、ついでに少し家紋のことを述べる必要がある。後世の家紋は、あるいは主君から拝領したもの、あるいは物好きから新たにこれを定めたものもあるのみならず、全然異なる家筋で同じ紋をつけることもあれば、一概に紋から家の先祖を定めることもできないが、中世の家族制度の特色、すなわち移住のために家号を変えてゆくことと、比較してみるとよほど面白い趣味がある。 諸家の紋帳の中でいちばん古いのは、『群書類従』に出ている「見聞諸家紋」であるが、ここに載っている紋の数は十二である。徳川時代の「紋帳」に顕れている紋の数も、その数六百である。今日でもまれに染物屋の難儀をするような紋もないではないが、だいたい紋書きが見たこともないという紋は、一生の中に七つか十しかないそうである。言い換えれば、源平時代の家号文化がほとんど極まるところを知らざるありさまであったものが、ある特種の原因から逆戻りをして、やや統一の傾向を示したのと同じように、紋もまたいったん無数に増加して行こうとしたが、ある程度に達して後再び減少の傾向を示したのである。戦争の盛んな時代には、何でも紋はきわめて目立ち、かつ特色のある無風流なものを選んだのであるが、今日になってはあまりに書きにくいとか、あまりに不細工だとか、汚れやすいとかはげやすいとかいう理由で、だんだんと世間にありふれた紋の方へ移って行く傾向がある。私の家の紋は、以前は丸に行書の大の字であったものを、五六十年以来女の紋に向かぬという理由から、五つの大の字を花の形に組み合せた紋に変更したため、世間によくある松葉桔梗の紋と、ほとんと同じになってしまいました。 一つの物体は一族を統括し個々の変化が各家を表わす 右の次第であるから、今日人の背中を見て家柄を想像することなどはまず不可能となったけれども、それでもなおこの間に、多少の意味と趣味とを認めることができる。幕末の学者で栗原柳庵(信充)という人は、五人も七人も初めてのお客が訪問した時に、名札と紋所を引き比べて「あなたが何さんですな」と言い当てたということである。 なるほど高橋とか和田とかいう名字が平凡であるがごとく、ほおずきや木瓜のようなありふれた紋ではいかんともすることができぬが、何か一所、形か物体かに特色のある紋なら、自然に家の由来を仮定できる材料となるのである。 ここで自分は形と物体ということを言ったが、かつて近年の紋帳にある四百種、多くても五百種の紋について分類を試みてみたのに、その種類の存外に単純であることを感じた。すなわち数十種の物体を十数通りに変形させたのが今日の紋である。たとえば井筒ならば井筒を菱にもすれば丸の中にも入れ、輪違いにもすれば四つ合せもするというように、一つの紋をいかほどにも変えて行くのである。これは徳川家の葵の紋が、主たる御分家筋はもちろん、酒井にも松平にも共通であって、ただその形状及び組合せの変化によって、家々を分かつのを見ても容易に想像できるように、一つの物体は一族を総括し、個々の変化が各家を代表した訳であろう。
諸家の紋帳に乗っている紋の数のうち、より数が多いものを教えてください。
諸家の紋帳に乗っている紋の数のうち、より数が多いものは徳川時代の「紋帳」で六百です。
JCRRAG_018359
歴史
ガリレイは併し、この宇宙の正しい事実を言いあらわす科学こそ神の栄光と偉大さとをいとも驚くべくもの語るものであって、これを禁圧するのは、それこそかえって神の意志に背くものであるという強固な信条のもとに、むしろコペルニクスの説を肯定しようとしたのでした。併しその頃の宗教家たちには、そのような優れた思想のわかる筈はありません。かえって自分たちの狭い考えに捉われて、依然としてこれに反対していました。 ところが一六一〇年に、ガリレイがピザに帰ってからは、その地がローマ法王の直接の管下に属するだけに、ますます宗教家たちの反対が強くなり、異端説を主張するのをひどく責めるようになりました。その間にガリレイは、その誤解を説き、また科学と宗教との異なることを示そうとしてあらゆる努力を費しましたが、それは到底当時の人々の耳には入らなかったので、また中にはガリレイの名声の高いのを嫉む人々の策謀などもそれに混って来て、遂には大僧正の命令で地動説を称えてはならないということを警告されました。これは一六一六年のことでしたが、その後も併しガリレイは自分の信念だけは変えませんでした。併しただ当分のうちはできるだけ事を荒立てないように黙って過ごしましたが、数年経てからは事情もいくらか違って来たので、一六二九年になって問答の形式で普通に「天文対話」と呼ばれている書物を著し一六三二年にこれを出版しました。 ところがこの書物についてある僧侶がローマ法王に讒言したので、法王は宗教裁判所に審査させることになり、その結果この讒言は通らなかったのでしたが、ガリレイはこれによって大僧正の以前の警告を無視しているという判決が下されて、ローマに出頭を命ぜられました。ガリレイはこの時既に七十歳に近い老年で、おまけに病身で衰弱していましたが、その冬の寒い季節に止むなく旅に出かけ、翌年の二月にようやくローマに到着しました。併し疲労が甚だしいので暫くの間静養が許され、四月になって裁判所で審問が始まりました。 この審判の結果は、ガリレイの書物の領布を禁じ、地動説を放棄することを条件として閑居を命ぜられたので、その宣告の日には自分でその判決文を読んで宣誓のために署名をさせられたのでした。それからガリレイはフィレンツェの自分の家に帰って、そこに閉じこもって晩年を送りましたが、この間の彼の生活は実に寂しい有様ですごされました。その一人娘のバージニアが彼の病苦を優しく慰めはしたものの、その後まもなく彼に先き立って亡くなりました。でも、ガリレイの唯一つの慰めはその科学上の研究にあったので、これまでに行ったいろいろな研究をまとめて、それを一六三八年に出版しました。これは普通に「力学対話」と呼ばれていますが、以前の「天文対話」と同じように問答の形式に書かれているので、そこに始めて科学研究の正しい道が示されている点で非常に重要な書物なのであります。 ところが、ガリレイ自身はそれ以前から眼をわずらっていて、この書物が出版された頃にはもはや両眼とも全く盲目になっていて、せっかくの自分の書物を見ることができなかったと言うのですから、実に惨ましい極みでもありました。それでも彼の精神は最後までしっかりしていたとのことで、以前からガリレイのためになみなみならぬ心尽しをされたトスカナの大公爵はいつも彼の病床を見舞われて慰問をなし、有名な詩人ミルトンなども彼を訪ずれました。そしてその病床には最も忠実な弟子であったヴィヴィアニ及びトリチェリが絶えず傍に侍していたということです。かくてガリレイは一六四二年の一月八日に、七十八歳の高齢でこの世を去りましたが、一生を科学のために尽した満足をもって安らかにその生を終ったのでありましょう。ガリレイの死後にも寺院はなお迫害を加えていたのですが、後の時代になってはかえってそれとは反対に誰しもがガリレイの不朽の功績をたたえるようになったのですから、この事はあらゆる人々にとっての絶大な教訓でなければなりません。つまりそれはガリレイが何等の私心もなく、ひたすらに真理のために尽した偉大な仕事のおかげによるのです。しかも科学の上での真理は永遠に消え失せることもなく、人間の社会が進めば進むほど、ますますそのなかにすばらしい輝きを増してくるようになるのです。今ではフィレンツェの聖十字院のなかにガリレイの立派な墓碑が立てられ、博物館にはその立像が置かれ、彼の製作した望遠鏡やその他の器械が陳列されて、そぞろに彼の面影を偲ばしめています。
天文対話と力学対話の違いを説明してください。
天文対話はこの宇宙の正しい事実を言いあらわす科学こそ神の栄光と偉大さとをいとも驚くべくもの語るものであって、これを禁圧するのは、それこそかえって神の意志に背くものであるという強固な信条のもとに、むしろコペルニクスの地動説を問答の形式で書物を著したものです。 力学対話はこれまでに行ったいろいろな研究をまとめた問答の形式で書かれている書物です。
JCRRAG_018360
歴史
隻眼の武将の異名を持つ人物は、夏侯惇である。 軍の最高職・大将軍に就任 建安21年(216)曹操が魏王に就任。その翌年の孫権との戦いの後、夏侯惇は揚州方面26軍の総指揮官を任されました。その後、曹操は劉備と再び対峙しましたが、夏侯淵が戦死するなど討伐に苦戦します。そして建安25年(220)正月、孫権が劉備軍の関羽を破り、ほどなくして曹操も死亡。曹操の息子・曹丕が魏王を継ぐと、夏侯惇は軍の最高職・大将軍に任命されましたが、同年4月、曹操の後を追うように病死しました。その後、曹叡の代になると、魏の功臣の中で素晴らしい功勲をもつ者として、曹操の廟庭に祭られたということです。 夏侯惇の人物像とは 曹操とともに生きた夏侯惇。彼の人物像がわかるエピソードをいくつかご紹介します。 文官としても優秀だった! 軍の最高職にまで上り詰めたことから武官としての印象が強いですが、戦いでは呂布の計略にかかり捕虜になるなど、失態を犯す場面もいくつかあったようです。一方、夏侯惇は曹操の遠征中に国政を監督したり、有能な人材の推挙や河南の知事も務めています。武官としても評価されていますが、実際は文官としての資質のほうが高かったようです。 君臣の節度を守り続けた 夏侯惇は曹操の臣下で唯一、許可なく曹操の寝室に出入りできる人物でした。曹操は彼に絶大な信頼をおき、臣下の礼をとらないでよい特別待遇を許しましたが、夏侯惇は恐れ多いとして君臣としての態度を崩さなかったといいます。彼の墓から発見された副葬品が剣1本だけだったことからも、彼の清廉潔白な性格がうかがえるでしょう。 隻眼にはコンプレックスも…… 呂布との戦いで左目を失った夏侯惇は、軍のなかで「盲夏侯(もうかこう)」と呼ばれました。これは夏侯淵と区別するためのあだ名でしたが、本人はその名称で呼ばれることを大層嫌ったといいます。また、鏡を見るたびに地面に叩きつけていたのだとか。トレードマークにも思える隻眼ですが、本人にとってはコンプレックスだったようです。 『三国志演義』での描かれ方は? 『三国志演義』において、夏侯惇は魏を代表する猛将として描かれています。呂布との戦いで左目を射抜かれた際は、矢が刺さったまま眼球を引き抜いて食べ、左目を奪った曹性の顔を突き刺しました。また、関羽とも一騎打ちをするという活躍を見せるなど、『正史』よりも豪快さが目立つ人物になっているようです。そのほかにも、病床の曹操を見舞ったとき、かつて曹操が殺害した人々の幽霊を見て昏倒したといったエピソードも描写されていました。 曹操から絶大な信頼を得た武将 夏侯惇は、曹操が無名のころからつき従い最後まで支えました。裏切りも多かったこの時代に曹操が全幅の信頼を置いたのは、彼が清廉潔白な性格であり、厚い忠義心の持ち主だったからだといえそうです。曹操の死から半年もたたず、追うように亡くなった夏侯惇。彼は曹操とともに埋葬されるにふさわしい功臣だったといえるでしょう。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、何に任命されたか。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、軍の最高職・大将軍に任命された。
JCRRAG_018361
歴史
諸侯の対地侍策 諸侯の地侍対策にも剛柔があった。無二無三に攻めつぶし、あるいは攻めがたいものは欺いて連れ出して縛り首を打ったけれども、これは決して容易な事業でないからして、多くの場合には幸いとして新たに召抱えの必要もある場合であるから、以前の通り刀をさしていたければ出て来て奉公をせよ、もしまた奉公がいやなら普通の長百姓の通りに年貢を納めよと、選択させた。 この場合における地侍の態度はたいてい一つであった。祖先伝来の槍や刀を捨てたくなかったので、兄弟または親子の一人は出て仕えた。また本領の土地を捨てた悲しさに、他の一人は止まって農となり、その末裔は多く名主または庄屋となった。後年諸侯が貧乏をして、田舎の豪農から献金などをさせ、その賞与としてほかにやるものもないから、名字を名乗ることを許し、あるいは刀をさすことを許したので、人民の方で非常にうれしがったのは深い仔細のあることで、いわゆる二字帯刀御免の制度は、地方の旧家をして久しく失っていた地侍の旧特権を、回復させたのだから嬉しかったのである。 名字と地名との関係断絶の理由 三百諸侯の中には、三百年の間同じ領地を保っていた家もないではないが、その大半は三度も五度も国替え、地域によっては二度や四度の城替えがあったのである。この場合には最初の領地から出て仕えた地侍の一族は、主人にしたがって西南北に移住して歩いた。 前田家は永くその領地を替えなかったけれども、その藩士の名字を見ると、加賀・能登・越中の地名を帯びているものももちろん多いけれども、そのほかにもあるいは越前在府の時に召し抱えられて越前の村の名を名字としている者、さらに尾州荒子の時代から仕えておった奥村家のような移住者もある。奥州の棚倉などいうような所へ、懲戒的に国替えさせられるような中大名にあっては、その藩士の漂泊生活というものは、明治の今日の軍人や裁判官も三舎を避けるくらいであった。このせいか名字と土地との関係は全然断絶してしまって、ついに現代のごとく数十人の太郎次郎を区別する符号のようになってしまったのである。 しかし彼等自身においては多くの場合、生まれた国を忘れるようなことはなかった。徳川末期の『武鑑』を見ても、江戸の旗本の名の下に生国三河と書いてあるのと同じく、彼等は決してその本国を忘却しなかった。しかのみならず数代以前に別れて来た郷里の本家とは、きわめて血の薄くなるまで音信を絶たず、よくよく双方いずれかが零落をせぬ限りは、名字の地または奉公先を互いに記憶しておったのであります。
三百諸侯の中において、三百年の間に国替えが起こった回数のうち、より多かった回数を教えてください。
三百諸侯の中において、三百年の間に国替えが起こった回数のうち、より多かった回数は五度です。
JCRRAG_018362
歴史
伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物のようなもの、伝説は植物のようなものであります。昔話は方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長して行くのであります。雀や頬白は皆同じ顔をしていますが、梅や椿は一本々々に枝振りが変っているので、見覚えがあります。可愛い昔話の小鳥は、多くは伝説の森、草むらの中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろな伝説の種子や花粉を、遠くまで運んでいるのも彼らであります。自然を愛する人たちは、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和とを面白がりますが、学問はこれを二つに分けて、考えて見ようとするのが始めであります。 諸君の村の広場や学校の庭が、今は空地になって、なんの伝説の花も咲いていないということを、悲しむことは不必要であります。もとはそこにも、さまざまのいい伝えが、茂り栄えていたことがありました。そうして同じ日本の一つの島の中であるからには、形は少しずつ違っても、やっぱりこれと同じ種類の植物しか、生えていなかったこともたしかであります。私はその標本のただ二つ三つを、集めて来て諸君に見せるのであります。 植物にはそれを養って大きく強くする力が、隠れてこの国の土と水と、日の光との中にあるのであります。歴史はちょうどこれを利用して、栽培する農業のようなものです。歴史の耕地が整頓して行けば、伝説の野山が狭くなるのも当り前であります。しかも日本の家の数は千五百万、家々の昔は三千年もあって、まだその片端のほんの少しだけが、歴史にひらかれているのであります。それ故に春は野に行き、藪にはいって、木の芽や草の花の名を問うような心持ちをもって、散らばっている伝説を比べて見るようにしなければなりません。 しかし、小さな人たちは、ただ面白いお話のところだけを読んでお置きになったらいいでしょう。これが伝説の一つの木の中で、ちょうど昔話の小鳥が来てとまる枝のようなものであります。私は地方の伝説をできるだけ有名にするために、詳しく土地の名を書いて置きました。そうして皆さんが後に今一度読んで見られるように、少しばかりの説明を加えて置きました。
伝説と昔話の違いについて説明してください。
伝説は植物のようなもので、一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長して行くのある。 昔話は動物のようなもので、方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来る。
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歴史
隻眼の武将の異名を持つ人物は、夏侯惇である。 軍の最高職・大将軍に就任 建安21年(216)曹操が魏王に就任。その翌年の孫権との戦いの後、夏侯惇は揚州方面26軍の総指揮官を任されました。その後、曹操は劉備と再び対峙しましたが、夏侯淵が戦死するなど討伐に苦戦します。そして建安25年(220)正月、孫権が劉備軍の関羽を破り、ほどなくして曹操も死亡。曹操の息子・曹丕が魏王を継ぐと、夏侯惇は軍の最高職・大将軍に任命されましたが、同年4月、曹操の後を追うように病死しました。その後、曹叡の代になると、魏の功臣の中で素晴らしい功勲をもつ者として、曹操の廟庭に祭られたということです。 夏侯惇の人物像とは 曹操とともに生きた夏侯惇。彼の人物像がわかるエピソードをいくつかご紹介します。 文官としても優秀だった! 軍の最高職にまで上り詰めたことから武官としての印象が強いですが、戦いでは呂布の計略にかかり捕虜になるなど、失態を犯す場面もいくつかあったようです。一方、夏侯惇は曹操の遠征中に国政を監督したり、有能な人材の推挙や河南の知事も務めています。武官としても評価されていますが、実際は文官としての資質のほうが高かったようです。 君臣の節度を守り続けた 夏侯惇は曹操の臣下で唯一、許可なく曹操の寝室に出入りできる人物でした。曹操は彼に絶大な信頼をおき、臣下の礼をとらないでよい特別待遇を許しましたが、夏侯惇は恐れ多いとして君臣としての態度を崩さなかったといいます。彼の墓から発見された副葬品が剣1本だけだったことからも、彼の清廉潔白な性格がうかがえるでしょう。 隻眼にはコンプレックスも…… 呂布との戦いで左目を失った夏侯惇は、軍のなかで「盲夏侯(もうかこう)」と呼ばれました。これは夏侯淵と区別するためのあだ名でしたが、本人はその名称で呼ばれることを大層嫌ったといいます。また、鏡を見るたびに地面に叩きつけていたのだとか。トレードマークにも思える隻眼ですが、本人にとってはコンプレックスだったようです。 『三国志演義』での描かれ方は? 『三国志演義』において、夏侯惇は魏を代表する猛将として描かれています。呂布との戦いで左目を射抜かれた際は、矢が刺さったまま眼球を引き抜いて食べ、左目を奪った曹性の顔を突き刺しました。また、関羽とも一騎打ちをするという活躍を見せるなど、『正史』よりも豪快さが目立つ人物になっているようです。そのほかにも、病床の曹操を見舞ったとき、かつて曹操が殺害した人々の幽霊を見て昏倒したといったエピソードも描写されていました。 曹操から絶大な信頼を得た武将 夏侯惇は、曹操が無名のころからつき従い最後まで支えました。裏切りも多かったこの時代に曹操が全幅の信頼を置いたのは、彼が清廉潔白な性格であり、厚い忠義心の持ち主だったからだといえそうです。曹操の死から半年もたたず、追うように亡くなった夏侯惇。彼は曹操とともに埋葬されるにふさわしい功臣だったといえるでしょう。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、許可なくどこに出入りできたか。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、許可なく曹操の寝室に出入りできた。
JCRRAG_018364
歴史
諸侯の対地侍策 諸侯の地侍対策にも剛柔があった。無二無三に攻めつぶし、あるいは攻めがたいものは欺いて連れ出して縛り首を打ったけれども、これは決して容易な事業でないからして、多くの場合には幸いとして新たに召抱えの必要もある場合であるから、以前の通り刀をさしていたければ出て来て奉公をせよ、もしまた奉公がいやなら普通の長百姓の通りに年貢を納めよと、選択させた。 この場合における地侍の態度はたいてい一つであった。祖先伝来の槍や刀を捨てたくなかったので、兄弟または親子の一人は出て仕えた。また本領の土地を捨てた悲しさに、他の一人は止まって農となり、その末裔は多く名主または庄屋となった。後年諸侯が貧乏をして、田舎の豪農から献金などをさせ、その賞与としてほかにやるものもないから、名字を名乗ることを許し、あるいは刀をさすことを許したので、人民の方で非常にうれしがったのは深い仔細のあることで、いわゆる二字帯刀御免の制度は、地方の旧家をして久しく失っていた地侍の旧特権を、回復させたのだから嬉しかったのである。 名字と地名との関係断絶の理由 三百諸侯の中には、三百年の間同じ領地を保っていた家もないではないが、その大半は三度も五度も国替え、地域によっては二度や四度の城替えがあったのである。この場合には最初の領地から出て仕えた地侍の一族は、主人にしたがって西南北に移住して歩いた。 前田家は永くその領地を替えなかったけれども、その藩士の名字を見ると、加賀・能登・越中の地名を帯びているものももちろん多いけれども、そのほかにもあるいは越前在府の時に召し抱えられて越前の村の名を名字としている者、さらに尾州荒子の時代から仕えておった奥村家のような移住者もある。奥州の棚倉などいうような所へ、懲戒的に国替えさせられるような中大名にあっては、その藩士の漂泊生活というものは、明治の今日の軍人や裁判官も三舎を避けるくらいであった。このせいか名字と土地との関係は全然断絶してしまって、ついに現代のごとく数十人の太郎次郎を区別する符号のようになってしまったのである。 しかし彼等自身においては多くの場合、生まれた国を忘れるようなことはなかった。徳川末期の『武鑑』を見ても、江戸の旗本の名の下に生国三河と書いてあるのと同じく、彼等は決してその本国を忘却しなかった。しかのみならず数代以前に別れて来た郷里の本家とは、きわめて血の薄くなるまで音信を絶たず、よくよく双方いずれかが零落をせぬ限りは、名字の地または奉公先を互いに記憶しておったのであります。
三百諸侯の中において、三百年の間に城替えが起こった回数のうち、より多かった回数を教えてください。
三百諸侯の中において、三百年の間に城替えが起こった回数のうち、より多かった回数は四回です。
JCRRAG_018365
歴史
昔は東京にも、たくさんの珍しい伝説がありました。その中で、皆さんに少しは関係のあるようなお話をしてみましょう。 本所の原庭町の証顕寺という寺の横町には、二尺ばかりのお婆さんの石の像があって、小さな人たちが咳が出て困る時に、このお婆さんに頼むと直に治るといいました。大きな石の笠をかぶったまま、しゃがんで両方の手で顎をささえ、鬼見たようなこわい顔をしてにらんでいましたが、いつも桃色の胸当てをしていたのは、治ったお礼に人が進上したものと思われます。子供たちは、これを咳のおば様と呼んでおりました。 百年ほど前までは、江戸にはまだ方々に、この石のおば様があったそうであります。築地二丁目の稲葉対馬守という大名の中屋敷にも、有名な咳の婆さんがあって、百日咳などで難儀をする児童の親は、そっと門番に頼んで、この御屋敷の内へその石を拝みにはいりました。もとは老女の形によく似た二尺余りの天然の石だったともいいますが、いつの頃よりか、ちゃんと彫刻した石の像になって、しかも爺さんの像と二つ揃そろっていました。婆さんの方は幾分か柔和で小さく、爺さんは大きくて恐ろしい顔をしていたそうですが、おかしいことには、両人は甚だ仲が悪く、一つ所に置くと、きっと爺さんの方が倒されていたといって、少し引き離して別々にしてありました。咳の願掛けに行く人は、必ず豆や霰餅の炒り物を持参して、煎じ茶と共にこれを両方の石の像に供えました。そうして最もよくきく頼み方は、始めに婆様に咳を治して下さいと一通り頼んでおいて、次ぎに爺様のところへ行ってこういうのだそうです。おじいさん、今あちらで咳の病気のことを頼んで来ましたが、どうも婆どのの手際では覚束ない。何分御前様にもよろしく願いますといって帰る。そうすると殊に早く全快するという評判でありました。(十方庵遊歴雑記五編) この仲のよくない爺婆の石像は、明治時代になって、暫しばらくどこへ行ったか行く方不明になっていましたが、後に隅田川東の牛島の弘福寺へ引っ越していることが分りました。この寺は稲葉家の菩提所で、築地の屋敷がなくなったから、ここへ持って行ったのでしたが、もうその時には喧嘩などはしないようになって二人仲よく並んでいました。そればかりでなく咳の婆様という名前も人が忘れてしまって、誰がいい出したものか、腰から下の病気を治してくれるといって、頼みに来る者が多くなっていました。そうしてお礼には履き物を持って来て上げるとよいということで、像の前にはいろいろの草履などが納めてあったそうです。(土俗談語) 食べ物を進上して口の病を治して貰った婆様に、後には足の病気を頼み、お礼に履き物を贈るようになったのは、ずいぶん面白い間違いだと思いますが、広島市の空鞘八幡というお社の脇にある道祖神のほこらには、子供の咳の病が治るように、願掛けに来る人が多く、そのお供え物は、いずれも馬の沓であったそうです(碌々ろくろく雑話)。道祖神は道の神また旅行の神で、その上に非常に子供のすきな神様でありました。昔は村中の子供は、皆この神の氏子でありました。馬に乗って方々のお産のある家を訪ねて来て、生れた子の運勢をきめるのは、この神様だという昔話もありました。すなわち子供を可愛がる為に、馬の沓が入り用であった神なのであります。路を通る人が馬の沓や草鞋を上げて行く神はどこに行ってもありますが、今では名前がいろいろにかわり、また土地によって話も少しずつ違って居ます。咳のおば様なども、もしかするとこの道祖神の御親類ではないか。それをこれから皆さんと共に私は少し考えて見たいのであります。 咳のおば様の石は東京だけでなく、元は他の県にもそちこちにありました。例えば川越の広済寺というお寺の中にも、しやぶぎばばの石塔があって、咳で難儀をするのでお参りに来る人がたくさんにあったそうですが、今ではその石がどれだか、もうわからなくなりました。しわぶきは古い言葉で、咳のことであります。(入間いるま郡誌。埼玉県川越市喜多町)
築地二丁目の稲葉対馬守という大名の中屋敷にある石と広島市の空鞘八幡というお社の脇にある道祖神のほこらのお供え物の違いについて説明してください。
築地二丁目の稲葉対馬守という大名の中屋敷にある石に咳の願掛けに行く人は、必ず豆や霰餅の炒り物を持参して、煎じ茶と共に石の像に供えました。 広島市の空鞘八幡というお社の脇にある道祖神のほこらに子供の咳の病が治るように願掛けに来る人は馬の沓を供えました。
JCRRAG_018366
歴史
隻眼の武将の異名を持つ人物は、夏侯惇である。 軍の最高職・大将軍に就任 建安21年(216)曹操が魏王に就任。その翌年の孫権との戦いの後、夏侯惇は揚州方面26軍の総指揮官を任されました。その後、曹操は劉備と再び対峙しましたが、夏侯淵が戦死するなど討伐に苦戦します。そして建安25年(220)正月、孫権が劉備軍の関羽を破り、ほどなくして曹操も死亡。曹操の息子・曹丕が魏王を継ぐと、夏侯惇は軍の最高職・大将軍に任命されましたが、同年4月、曹操の後を追うように病死しました。その後、曹叡の代になると、魏の功臣の中で素晴らしい功勲をもつ者として、曹操の廟庭に祭られたということです。 夏侯惇の人物像とは 曹操とともに生きた夏侯惇。彼の人物像がわかるエピソードをいくつかご紹介します。 文官としても優秀だった! 軍の最高職にまで上り詰めたことから武官としての印象が強いですが、戦いでは呂布の計略にかかり捕虜になるなど、失態を犯す場面もいくつかあったようです。一方、夏侯惇は曹操の遠征中に国政を監督したり、有能な人材の推挙や河南の知事も務めています。武官としても評価されていますが、実際は文官としての資質のほうが高かったようです。 君臣の節度を守り続けた 夏侯惇は曹操の臣下で唯一、許可なく曹操の寝室に出入りできる人物でした。曹操は彼に絶大な信頼をおき、臣下の礼をとらないでよい特別待遇を許しましたが、夏侯惇は恐れ多いとして君臣としての態度を崩さなかったといいます。彼の墓から発見された副葬品が剣1本だけだったことからも、彼の清廉潔白な性格がうかがえるでしょう。 隻眼にはコンプレックスも…… 呂布との戦いで左目を失った夏侯惇は、軍のなかで「盲夏侯(もうかこう)」と呼ばれました。これは夏侯淵と区別するためのあだ名でしたが、本人はその名称で呼ばれることを大層嫌ったといいます。また、鏡を見るたびに地面に叩きつけていたのだとか。トレードマークにも思える隻眼ですが、本人にとってはコンプレックスだったようです。 『三国志演義』での描かれ方は? 『三国志演義』において、夏侯惇は魏を代表する猛将として描かれています。呂布との戦いで左目を射抜かれた際は、矢が刺さったまま眼球を引き抜いて食べ、左目を奪った曹性の顔を突き刺しました。また、関羽とも一騎打ちをするという活躍を見せるなど、『正史』よりも豪快さが目立つ人物になっているようです。そのほかにも、病床の曹操を見舞ったとき、かつて曹操が殺害した人々の幽霊を見て昏倒したといったエピソードも描写されていました。 曹操から絶大な信頼を得た武将 夏侯惇は、曹操が無名のころからつき従い最後まで支えました。裏切りも多かったこの時代に曹操が全幅の信頼を置いたのは、彼が清廉潔白な性格であり、厚い忠義心の持ち主だったからだといえそうです。曹操の死から半年もたたず、追うように亡くなった夏侯惇。彼は曹操とともに埋葬されるにふさわしい功臣だったといえるでしょう。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、河南の何を務めたか。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、河南の知事を務めた。
JCRRAG_018367
歴史
二字免許の制度の由来 村々の農夫の歴史は文字に伝わっておらぬけれども、存外続いて久しいものであるらしい。彼等は戦乱に追われ、または天災に遭遇しても、真っ先に居村に引き返して荒地を再墾することに勤めたらしい。今日の新村というのは、よくよく以前から人の耕さなかった土地に外部から移住したものである。これに反して武家の方は数回の大移住のためによほどの混乱を生じ、少なくとも客観的にはその家号の由来が不明になっている。しかるに旧幕時代は普通の土民は、公に在名を称する事を禁じられた。二字ということは中世では名字を意味した。武士がある大家の家人となれば、名簿に二字を書いてこれを主人に呈し、実名を諱まずに呼んで下さいという儀式を行った。この制度が廃れてから、公に家号を名乗ることを二字の免許と称した。村々には長百姓と小百姓、もしくは地主と門男との階級があって、後者は武家の特権に対しても、または旧家門閥の威厳を維持する上からも、絶対に家号を唱うることを許されず、しかもその多くのものはとっくの昔に家号を忘却し、または最初から家号がなくして、十数代も何村何兵衛で通っておった。 一村ことごとく魚の名を家号にした伊予の漁村 明治の初年に在名の禁が解かれて、次いで戸籍にいわゆる姓氏を録せなければならぬことになった時に、村々の役場ではそれはそれは大騒動であった。数百戸の家号の無い人がとにかく何か名字を持たなければならぬことになった。旧家の零落したものまたは本家の明白なるものは、もちろん私にはこれを用いていたのであるからして面倒はなかったが、親代々の小百姓は皆困った。多くは譜代の関係を辿って出入りの家から名字を貰った。または相手方の故障を言わぬ限りその近村で聞こえた名字を名乗った。しかしそんな考えもないものは役人が付けてやった。役人に家の前に松の木があるから松下と付けろと言われて十の家が松下と名乗り、山の入口にあるから谷口と名乗れと役人に言われて十五の家が谷口を名乗ったり、中には頓狂な村役人などがあって、伊予の海岸の漁村などでは役人によって家々が魚の名を付けた家が三十戸。その隣村では役人によって野菜の名を名乗った家が四十戸とかいう例がいくらもあった。魚や野菜ならば珍しいから紛れもせぬが、松下とか谷口とかいう類に至っては、実際昔松下村の地頭であり、谷口村の名主であった家と、人から区別することが困難になった。ここでまた第三次の大混乱が起きました。 今日東京のごとき大都会においては、たいてい珍しいと思う名字が諸国から集まってほとんと区別もできぬから、名字は以前に比べて生活上の意味が薄くなり、これに伴なって各人の頭に、家という思想がだんだん微弱になって行くのは、実に是非もなき成り行きであります。
役人によって名字を付けられた家のうち、もっとも数が多いものを教えてください。
役人によって名字を付けられた家のうち、もっとも数が多いものは野菜の名を名乗った家で四十戸です。
JCRRAG_018368
歴史
昔の人たちは飲み水を見つけることが、今よりもずっと下手でありました。井戸を掘って地面の底の水を汲み上げることは、永い間知らなかったのであります。それだからわざわざ川や池に出かけたり、または筧というものを架けて、遠くから水を引いて来たので、あまり離れたところには家を建てて住むことが出来ませんでした。たまに思いがけない土地に泉を見出すと、喜んでそこに神様を祀り。それからおいおいにその周囲に村を作り、また旅人もそこを通って行きました。水がないので一番困ったのは旅の人でありますが、その中には水を見つけることが普通の人よりも上手な者がいて、土地の様子を見て地下に水のあることを察し、井戸を掘ることを教えたのも、彼等であったろうということであります。諸国の山や野を自由に歩いていた行脚の僧、ことに空也上人という人などが、多くの村々に良い飲み水を見つけて行ったということで、永く住民に感謝せられております。空也はわが国に念仏の教えを広めた元祖の上人でありました。後の世にその道を慕う人たちは、いつでも美しい清水を汲むたびに、必ずこの上人の名を想い出しました。阿弥陀の井という古い井戸が各地に多いのは、多分その水のほとりにおいて、しばしば念仏の行をしたためであろうと思います。空也派の念仏は多くの人が集って来て、踊り狂いつつ合唱する念仏でありました。念仏池の不思議が土地の人に注意せられるようになったのも、それにはそれだけの原因があったのであります。しかしそれだけの原因からでは、他のいろいろな驚き清水、おまんが井や阿満が池の伝説は出て来なかったろうと思います。念仏の僧たちが諸国を行脚してあるくよりもなお以前から、水の恵みを大切に感じて、そこに神様を祭ってそのお力を敬うていたことが、むしろ念仏の信仰を泉のへんに引きつけたのかも知れません。そうしてその神様が、後に姥神の名をもって知られた子安の神であったことは、まだこれからお話して見ようと思う多くの伝説によって、おいおいにわかって来るのであります。
昔の人たちと旅の人の水の見つけ方の違いについて説明してください。
昔の人たちは井戸を掘って地面の底の水を汲み上げることは、永い間知らず、わざわざ川や池に出かけたり、または筧というものを架けて、遠くから水を引いて来ていました。 旅の人の中には水を見つけることが普通の人よりも上手な者がいて、土地の様子を見て地下に水のあることを察し、井戸を掘ることを村の人たちに教えました。
JCRRAG_018369
歴史
隻眼の武将の異名を持つ人物は、夏侯惇である。 軍の最高職・大将軍に就任 建安21年(216)曹操が魏王に就任。その翌年の孫権との戦いの後、夏侯惇は揚州方面26軍の総指揮官を任されました。その後、曹操は劉備と再び対峙しましたが、夏侯淵が戦死するなど討伐に苦戦します。そして建安25年(220)正月、孫権が劉備軍の関羽を破り、ほどなくして曹操も死亡。曹操の息子・曹丕が魏王を継ぐと、夏侯惇は軍の最高職・大将軍に任命されましたが、同年4月、曹操の後を追うように病死しました。その後、曹叡の代になると、魏の功臣の中で素晴らしい功勲をもつ者として、曹操の廟庭に祭られたということです。 夏侯惇の人物像とは 曹操とともに生きた夏侯惇。彼の人物像がわかるエピソードをいくつかご紹介します。 文官としても優秀だった! 軍の最高職にまで上り詰めたことから武官としての印象が強いですが、戦いでは呂布の計略にかかり捕虜になるなど、失態を犯す場面もいくつかあったようです。一方、夏侯惇は曹操の遠征中に国政を監督したり、有能な人材の推挙や河南の知事も務めています。武官としても評価されていますが、実際は文官としての資質のほうが高かったようです。 君臣の節度を守り続けた 夏侯惇は曹操の臣下で唯一、許可なく曹操の寝室に出入りできる人物でした。曹操は彼に絶大な信頼をおき、臣下の礼をとらないでよい特別待遇を許しましたが、夏侯惇は恐れ多いとして君臣としての態度を崩さなかったといいます。彼の墓から発見された副葬品が剣1本だけだったことからも、彼の清廉潔白な性格がうかがえるでしょう。 隻眼にはコンプレックスも…… 呂布との戦いで左目を失った夏侯惇は、軍のなかで「盲夏侯(もうかこう)」と呼ばれました。これは夏侯淵と区別するためのあだ名でしたが、本人はその名称で呼ばれることを大層嫌ったといいます。また、鏡を見るたびに地面に叩きつけていたのだとか。トレードマークにも思える隻眼ですが、本人にとってはコンプレックスだったようです。 『三国志演義』での描かれ方は? 『三国志演義』において、夏侯惇は魏を代表する猛将として描かれています。呂布との戦いで左目を射抜かれた際は、矢が刺さったまま眼球を引き抜いて食べ、左目を奪った曹性の顔を突き刺しました。また、関羽とも一騎打ちをするという活躍を見せるなど、『正史』よりも豪快さが目立つ人物になっているようです。そのほかにも、病床の曹操を見舞ったとき、かつて曹操が殺害した人々の幽霊を見て昏倒したといったエピソードも描写されていました。 曹操から絶大な信頼を得た武将 夏侯惇は、曹操が無名のころからつき従い最後まで支えました。裏切りも多かったこの時代に曹操が全幅の信頼を置いたのは、彼が清廉潔白な性格であり、厚い忠義心の持ち主だったからだといえそうです。曹操の死から半年もたたず、追うように亡くなった夏侯惇。彼は曹操とともに埋葬されるにふさわしい功臣だったといえるでしょう。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、『三国志演義』で何を食べたか。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、眼球を引き抜いて食べた。
JCRRAG_018370
歴史
二字免許の制度の由来 村々の農夫の歴史は文字に伝わっておらぬけれども、存外続いて久しいものであるらしい。彼等は戦乱に追われ、または天災に遭遇しても、真っ先に居村に引き返して荒地を再墾することに勤めたらしい。今日の新村というのは、よくよく以前から人の耕さなかった土地に外部から移住したものである。これに反して武家の方は数回の大移住のためによほどの混乱を生じ、少なくとも客観的にはその家号の由来が不明になっている。しかるに旧幕時代は普通の土民は、公に在名を称する事を禁じられた。二字ということは中世では名字を意味した。武士がある大家の家人となれば、名簿に二字を書いてこれを主人に呈し、実名を諱まずに呼んで下さいという儀式を行った。この制度が廃れてから、公に家号を名乗ることを二字の免許と称した。村々には長百姓と小百姓、もしくは地主と門男との階級があって、後者は武家の特権に対しても、または旧家門閥の威厳を維持する上からも、絶対に家号を唱うることを許されず、しかもその多くのものはとっくの昔に家号を忘却し、または最初から家号がなくして、十数代も何村何兵衛で通っておった。 一村ことごとく魚の名を家号にした伊予の漁村 明治の初年に在名の禁が解かれて、次いで戸籍にいわゆる姓氏を録せなければならぬことになった時に、村々の役場ではそれはそれは大騒動であった。数百戸の家号の無い人がとにかく何か名字を持たなければならぬことになった。旧家の零落したものまたは本家の明白なるものは、もちろん私にはこれを用いていたのであるからして面倒はなかったが、親代々の小百姓は皆困った。多くは譜代の関係を辿って出入りの家から名字を貰った。または相手方の故障を言わぬ限りその近村で聞こえた名字を名乗った。しかしそんな考えもないものは役人が付けてやった。役人に家の前に松の木があるから松下と付けろと言われて十の家が松下と名乗り、山の入口にあるから谷口と名乗れと役人に言われて十五の家が谷口を名乗ったり、中には頓狂な村役人などがあって、伊予の海岸の漁村などでは役人によって家々が魚の名を付けた家が三十戸。その隣村では役人によって野菜の名を名乗った家が四十戸とかいう例がいくらもあった。魚や野菜ならば珍しいから紛れもせぬが、松下とか谷口とかいう類に至っては、実際昔松下村の地頭であり、谷口村の名主であった家と、人から区別することが困難になった。ここでまた第三次の大混乱が起きました。 今日東京のごとき大都会においては、たいてい珍しいと思う名字が諸国から集まってほとんと区別もできぬから、名字は以前に比べて生活上の意味が薄くなり、これに伴なって各人の頭に、家という思想がだんだん微弱になって行くのは、実に是非もなき成り行きであります。
役人によって名字を付けられた家のうち、もっとも数が少ないものを教えてください。
役人によって名字を付けられた家のうち、もっとも数が少ないものは松の木があるから松下と付けろと言われた家で十です。
JCRRAG_018371
歴史
彼と茶道の関係がいつから始まったのか定かではないが、茶道に熱心な兄・信長の影響を受けたものだろうから、永禄11年(1568)の上洛以降、早い時期が起点と考えられる。 天正18年(1590)、甥(信長次男)の織田信雄が秀吉に改易されたあとも、「御伽衆」(話し相手)のひとりとして秀吉に仕え、摂津で2千石の捨て扶持をもらい、「有楽斎」の号を名乗って茶湯の道に精進していく。 あるとき、秀吉は利休の「台子の法」の伝授権を自分が独占したが、有楽斎に対してだけは、「お前は名人だから特別だ」と利休からの直接伝授を許可した。利休は秀吉の前で有楽斎に法を直伝するのだが、直後利休は有楽斎に「極意を言い残した」と耳打ちし、「自分の創意工夫こそが本当の極意」と伝えたという(新井白石『紳書』)。 利休は独創性の無い秀吉には形式だけを教え、期待を寄せる有楽斎には、「他人に習うことなど何も無い」と茶人としての覚悟を説いたのだろう。 秀吉の死後、有楽斎は慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで徳川家康に従い、大和で3万2千石の大名となり、庶長子の長孝も美濃で1万石を与えられる。 秀吉の側室・淀殿は有楽斎にとって姪にあたるので、慶長19年(1614)、大坂冬の陣が起こると大坂城で後見役を務め、淀殿の子・豊臣秀頼を補佐して、幕府軍との和睦交渉をリードした。
利休が秀吉と有楽斎に教えたことの違いを説明してください。
独創性の無い秀吉には形式だけを教えた。 有楽斎には期待を寄せる有楽斎には、「他人に習うことなど何も無い」と茶人としての覚悟を説き、「極意を言い残した」と耳打ちし、利休は法の直伝後「自分の創意工夫こそが本当の極意」と伝えた。
JCRRAG_018372
歴史
隻眼の武将の異名を持つ人物は、夏侯惇である。 軍の最高職・大将軍に就任 建安21年(216)曹操が魏王に就任。その翌年の孫権との戦いの後、夏侯惇は揚州方面26軍の総指揮官を任されました。その後、曹操は劉備と再び対峙しましたが、夏侯淵が戦死するなど討伐に苦戦します。そして建安25年(220)正月、孫権が劉備軍の関羽を破り、ほどなくして曹操も死亡。曹操の息子・曹丕が魏王を継ぐと、夏侯惇は軍の最高職・大将軍に任命されましたが、同年4月、曹操の後を追うように病死しました。その後、曹叡の代になると、魏の功臣の中で素晴らしい功勲をもつ者として、曹操の廟庭に祭られたということです。 夏侯惇の人物像とは 曹操とともに生きた夏侯惇。彼の人物像がわかるエピソードをいくつかご紹介します。 文官としても優秀だった! 軍の最高職にまで上り詰めたことから武官としての印象が強いですが、戦いでは呂布の計略にかかり捕虜になるなど、失態を犯す場面もいくつかあったようです。一方、夏侯惇は曹操の遠征中に国政を監督したり、有能な人材の推挙や河南の知事も務めています。武官としても評価されていますが、実際は文官としての資質のほうが高かったようです。 君臣の節度を守り続けた 夏侯惇は曹操の臣下で唯一、許可なく曹操の寝室に出入りできる人物でした。曹操は彼に絶大な信頼をおき、臣下の礼をとらないでよい特別待遇を許しましたが、夏侯惇は恐れ多いとして君臣としての態度を崩さなかったといいます。彼の墓から発見された副葬品が剣1本だけだったことからも、彼の清廉潔白な性格がうかがえるでしょう。 隻眼にはコンプレックスも…… 呂布との戦いで左目を失った夏侯惇は、軍のなかで「盲夏侯(もうかこう)」と呼ばれました。これは夏侯淵と区別するためのあだ名でしたが、本人はその名称で呼ばれることを大層嫌ったといいます。また、鏡を見るたびに地面に叩きつけていたのだとか。トレードマークにも思える隻眼ですが、本人にとってはコンプレックスだったようです。 『三国志演義』での描かれ方は? 『三国志演義』において、夏侯惇は魏を代表する猛将として描かれています。呂布との戦いで左目を射抜かれた際は、矢が刺さったまま眼球を引き抜いて食べ、左目を奪った曹性の顔を突き刺しました。また、関羽とも一騎打ちをするという活躍を見せるなど、『正史』よりも豪快さが目立つ人物になっているようです。そのほかにも、病床の曹操を見舞ったとき、かつて曹操が殺害した人々の幽霊を見て昏倒したといったエピソードも描写されていました。 曹操から絶大な信頼を得た武将 夏侯惇は、曹操が無名のころからつき従い最後まで支えました。裏切りも多かったこの時代に曹操が全幅の信頼を置いたのは、彼が清廉潔白な性格であり、厚い忠義心の持ち主だったからだといえそうです。曹操の死から半年もたたず、追うように亡くなった夏侯惇。彼は曹操とともに埋葬されるにふさわしい功臣だったといえるでしょう。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、曹操の遠征中に何をしたか。
隻眼の武将の異名を持つ人物は、曹操の遠征中に国政を監督した。
JCRRAG_018373
歴史
ところが、以前に近藤勇に倒された勤王派に転向した伊東甲子太郎の残党なる鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納就雄などが、薩摩の伏見屋敷に庇護されていた。 十二月十八日、近藤が上京した帰途、伏見街道の藤森において突如物陰から狙撃され、その右肩に重傷を負った。むろん、伊東の残党の計画であるが、そのために近藤は鳥羽伏見戦争には参加することが出来なかったので、土方歳三が指揮をしていた。 新選組も、この頃は、剣ばかりではどうにもならないのを悟ったと見えて、幕軍の間宮鉄太郎の隊から大砲二門を借りて来ていた。 伏見の方は、戦前から両軍が対峙していたわけで、鳥羽口の砲声が、開戦の合図になった。 土方歳三は、伏見京橋口に陣を敷いていたが、鳥羽の砲声を聴くと、浜通りを東へ、京町を北へ進撃して戦った。ところが伏見の東方にある桃山は、彦根藩が守っており、幕軍は自分達の味方だと思っていたところに、薩藩は開戦となると、朝命をもって彦根勢を退去させ、その後に自軍の大砲を運び上げ、伏見の町を眼下に見おろして、打ちまくった。新選組は、伏見の奉行所の門前で戦っていたが、味方だと思っていた背後から撃たれたので、ひとたまりもなく敗れて、勇の養子である周平の他十七人が死んだ。 この夜、十二時近くになって、戦線に到着した窪田備前守配下のフランス伝習隊は、幕軍の精鋭で、めざましい奪闘をして、薩藩を破り長州勢を破り、墨染まで北進したが、薩兵の伏兵によって、備前守が討死したため、遂に退却した。 この夜は終夜激しい半市街戦が行われ、両軍とも死傷が多かったが、結局幕軍不利で淀まで退却した。 翌日の四日、土方歳三は昨夜の敗戦に激怒して、千本松に陣を敷いた。ここは、右は淀川で、左は水沢ですこぶる要害の狭い難所であり、ここで京軍を支えようとしたが、薩長の兵は小銃隊をもって進撃してあっけなく新選組を打ち破った。そして、大衆文芸でおなじみの山崎蒸を初め三十人が討死した。剣では、どうにも仕方がなかったのであろう。 数年来新選組は、京洛の地において、薩長の志士と睨み合っていたが、その清算が今度の戦争で行われたわけである。 その後、江戸に来ていた近藤勇に、依田学海が「鳥羽伏見戦争はどうだった?」と訊いたところ、彼は傍の土方歳三を顧みて「この男に訊いてくれ」といった。土方が、「これからの戦争は、刀や槍では役に立たぬ。鉄砲には敵わない」と、苦笑しながら答えたのは、有名な話である。
鳥羽伏見戦争において、新選組が多く戦死した数を教えてください。
鳥羽伏見戦争において、新選組が多く戦死した数は三十人です。
JCRRAG_018374
歴史
ツタンカーメンといえば「黄金のマスク」で有名で、少年王としてエジプトで最も知られるファラオでしょう。しかし、彼の墓やミイラ、副葬品などは歴史的発見であり、エジプトでも最も重要な観光資源であるものの、彼の人生はあまり知られていません。ツタンカーメンとはどういった人物だったのでしょうか? 今回はツタンカーメンがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、について具体的に理解できること間違いなし! まず、我々は彼のことを「ツタンカーメン」と呼びますが、これはあくまでも日本語的であり、厳密に表現するのなら「トゥトアンクアメン」。第18王朝(紀元前1570年頃〜紀元前1293年頃)のファラオであり、父のアメンホテプ4世(在位:紀元前1353年?〜紀元前1336年?)が亡くなっため、8〜9歳頃に即位しました。 第18王朝は初期から、テーベ(現在のルクソール)の守護神であり、豊穣神であるアメン神の信仰が強く、国家神であったため、神官は絶大な力を持っていました。父であるアメンホテプ4世は、その宗教的権力を王権と一つにするために唯一神「アテン」を信仰し、アクエンアテンと改名。その息子である彼も当初はアテンを含めた「トゥトアンク“アテン”」と名付られたのですが、父の死後は部下たちによって再びアメン神の信仰に戻されたため、「トゥトアンク“アメン”」にされたのです。
ツタンカーメンと父アメンホテプ4世の信仰の違いについて説明してください。
アメンホテプ4世は、その宗教的権力を王権と一つにするために唯一神「アテン」を信仰していた。 ツタンカーメンはテーベ(現在のルクソール)の守護神であり、豊穣神であるアメン神の信仰が強く、国家神であったため、神官は絶大な力を持っていた。
JCRRAG_018375
歴史
歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれている人物は、司馬懿である。 うまれから曹操に士官するまで 司馬懿は魏の曹操に仕えましたが、それは不本意なものでした。それでも士官に至った経緯について振り返ります。 名門・司馬氏にうまれる 司馬懿は名門・司馬家の出身で、河内郡温県孝敬里で誕生しました。妻は張春華で、息子には司馬師や司馬昭らがいます。司馬氏は代々高官を輩出した家柄だったため、司馬懿も幼いころから厳格な家風のもとで育ちました。8人兄弟は聡明な者ぞろいだったことから「司馬八達」と呼ばれ、司馬懿はとくに優れていたといいます。 仮病の末、やむを得ず曹操に仕える 優秀な司馬懿の噂は曹操の耳に入り、やがて出仕を求められるようになります。司馬懿は漢朝が衰えていることを鑑み、病気を理由に辞退しますが、仮病を見抜いた曹操が捕らえてでも連れてくるよう命令したため、やむを得ず出仕を決意しました。文官として仕えた司馬懿は、軍略の献策などで徐々に認められるようになります。 大将軍に昇進し諸葛亮と対決! 曹操のもとで頭角を現した司馬懿は、その後も活躍し順調に出世していきます。そして、諸葛亮と対決することになるのです。 曹丕・曹叡に重用される 曹操は司馬懿を警戒していましたが、曹操の子・曹丕は司馬懿と親しく、絶大な信頼をおいていました。建安25年(220)に曹操が死去すると、魏王を継いだ曹丕は献帝から禅譲され魏の皇帝に即位。ここで重用された司馬懿は、曹丕の四友とまでいわれるようになり、その子・曹叡が皇帝になった後も引き続き重用されました。 奇才・諸葛亮との戦い 太和4年(230)司馬懿は大将軍に昇進し、蜀漢との戦いの総司令を務めていた曹真の跡を継いで諸葛亮と対戦します。『晋書』によれば司馬懿は諸葛亮を追撃して大破したといいます。そして青龍2年(234)諸葛亮が5度目の北伐(軍事侵攻)をした際、長期にわたる対陣ののち諸葛亮が病死。蜀漢軍の撤退後、司馬懿はその陣跡を見て「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたそうです。『漢晋春秋』によれば、司馬懿は蜀漢軍を追撃しようとした際に、軍が反転して攻撃する構えを見せたため、諸葛亮が生きていると思い退却したといいます。これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす(優れた人物は死後にも生前の威力が保たれて、生きている者を恐れさせる)」という故事成語になりました。 公孫淵を征伐し武功を上げる 景初2年(238)遼東を拠点としていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は討伐にあたります。公孫淵は呉に援軍を求めるとともに籠城しましたが、やがて食糧が底をつき和議と助命を嘆願。公孫淵とその子・公孫脩は逃亡しましたが、司馬懿はこれを追撃して斬殺し、公孫淵の高官たちも処分して遼東を制圧しました。 クーデターで魏を滅ぼす さまざまな活躍をみせた司馬懿ですが、やがて魏に対するクーデターを起こします。そしてそれは、西晋の建国へとつながっていくのです。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、曹丕の何とまでいわれるようになったか。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、曹丕の四友とまでいわれるようになった。
JCRRAG_018376
歴史
ところが、以前に近藤勇に倒された勤王派に転向した伊東甲子太郎の残党なる鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納就雄などが、薩摩の伏見屋敷に庇護されていた。 十二月十八日、近藤が上京した帰途、伏見街道の藤森において突如物陰から狙撃され、その右肩に重傷を負った。むろん、伊東の残党の計画であるが、そのために近藤は鳥羽伏見戦争には参加することが出来なかったので、土方歳三が指揮をしていた。 新選組も、この頃は、剣ばかりではどうにもならないのを悟ったと見えて、幕軍の間宮鉄太郎の隊から大砲二門を借りて来ていた。 伏見の方は、戦前から両軍が対峙していたわけで、鳥羽口の砲声が、開戦の合図になった。 土方歳三は、伏見京橋口に陣を敷いていたが、鳥羽の砲声を聴くと、浜通りを東へ、京町を北へ進撃して戦った。ところが伏見の東方にある桃山は、彦根藩が守っており、幕軍は自分達の味方だと思っていたところに、薩藩は開戦となると、朝命をもって彦根勢を退去させ、その後に自軍の大砲を運び上げ、伏見の町を眼下に見おろして、打ちまくった。新選組は、伏見の奉行所の門前で戦っていたが、味方だと思っていた背後から撃たれたので、ひとたまりもなく敗れて、勇の養子である周平の他十七人が死んだ。 この夜、十二時近くになって、戦線に到着した窪田備前守配下のフランス伝習隊は、幕軍の精鋭で、めざましい奪闘をして、薩藩を破り長州勢を破り、墨染まで北進したが、薩兵の伏兵によって、備前守が討死したため、遂に退却した。 この夜は終夜激しい半市街戦が行われ、両軍とも死傷が多かったが、結局幕軍不利で淀まで退却した。 翌日の四日、土方歳三は昨夜の敗戦に激怒して、千本松に陣を敷いた。ここは、右は淀川で、左は水沢ですこぶる要害の狭い難所であり、ここで京軍を支えようとしたが、薩長の兵は小銃隊をもって進撃してあっけなく新選組を打ち破った。そして、大衆文芸でおなじみの山崎蒸を初め三十人が討死した。剣では、どうにも仕方がなかったのであろう。 数年来新選組は、京洛の地において、薩長の志士と睨み合っていたが、その清算が今度の戦争で行われたわけである。 その後、江戸に来ていた近藤勇に、依田学海が「鳥羽伏見戦争はどうだった?」と訊いたところ、彼は傍の土方歳三を顧みて「この男に訊いてくれ」といった。土方が、「これからの戦争は、刀や槍では役に立たぬ。鉄砲には敵わない」と、苦笑しながら答えたのは、有名な話である。
鳥羽伏見戦争において、新選組が少なく戦死した数を教えてください。
鳥羽伏見戦争において、新選組が少なく戦死した数は十七人です。
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歴史
アメンホテプ4世(アクエンアテン)とはどんな人物? 古代エジプト最大の宗教改革・アマルナ改革 アメンホテプ4世は、第18王朝(紀元前1570年頃〜紀元前1293年頃)のファラオであり、父である先代のアメンホテプ3世が亡くなっため、アメンホテプ4世として即位します。当時の第18王朝の時代は初期から、テーベ(現在のルクソール)の守護神であり、豊穣神であるアメン神の信仰が強く、国家神であったため、神官は絶大な力を持っていました。 それもあり、彼は即位すると神官たちを抑え、その宗教的権力を王権と一つにするために唯一神「アテン」を信仰する「一神教」(実際は他の神々を積極的に比定していなかったので「単一信教」という説も)を採用し、彼自身も「アクエンアテン(アテン神の有益な者)」と改名。 そして、テーベを放棄して、北に約400km離れたアマルナへと遷都。ここでは写実的な美術様式が発展し、王妃であったネフェルティティの胸像のような、芸術作品が多く建造され、古代エジプトの芸術の面まで革命が発生したのです。しかし、アメン神の神殿を破壊したり、アジアにおけるエジプトの領土を失うと国民から指示を失い、短期間で放棄されてしまいました。
テーベとアマルナの違いを説明してください。
豊穣神であるアメン神が守護神の土地がテーベである。 北に約400km離れたアマルナでは写実的な美術様式が発展し、古代エジプトの芸術の面まで革命が発生した。
JCRRAG_018378
歴史
歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれている人物は、司馬懿である。 うまれから曹操に士官するまで 司馬懿は魏の曹操に仕えましたが、それは不本意なものでした。それでも士官に至った経緯について振り返ります。 名門・司馬氏にうまれる 司馬懿は名門・司馬家の出身で、河内郡温県孝敬里で誕生しました。妻は張春華で、息子には司馬師や司馬昭らがいます。司馬氏は代々高官を輩出した家柄だったため、司馬懿も幼いころから厳格な家風のもとで育ちました。8人兄弟は聡明な者ぞろいだったことから「司馬八達」と呼ばれ、司馬懿はとくに優れていたといいます。 仮病の末、やむを得ず曹操に仕える 優秀な司馬懿の噂は曹操の耳に入り、やがて出仕を求められるようになります。司馬懿は漢朝が衰えていることを鑑み、病気を理由に辞退しますが、仮病を見抜いた曹操が捕らえてでも連れてくるよう命令したため、やむを得ず出仕を決意しました。文官として仕えた司馬懿は、軍略の献策などで徐々に認められるようになります。 大将軍に昇進し諸葛亮と対決! 曹操のもとで頭角を現した司馬懿は、その後も活躍し順調に出世していきます。そして、諸葛亮と対決することになるのです。 曹丕・曹叡に重用される 曹操は司馬懿を警戒していましたが、曹操の子・曹丕は司馬懿と親しく、絶大な信頼をおいていました。建安25年(220)に曹操が死去すると、魏王を継いだ曹丕は献帝から禅譲され魏の皇帝に即位。ここで重用された司馬懿は、曹丕の四友とまでいわれるようになり、その子・曹叡が皇帝になった後も引き続き重用されました。 奇才・諸葛亮との戦い 太和4年(230)司馬懿は大将軍に昇進し、蜀漢との戦いの総司令を務めていた曹真の跡を継いで諸葛亮と対戦します。『晋書』によれば司馬懿は諸葛亮を追撃して大破したといいます。そして青龍2年(234)諸葛亮が5度目の北伐(軍事侵攻)をした際、長期にわたる対陣ののち諸葛亮が病死。蜀漢軍の撤退後、司馬懿はその陣跡を見て「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたそうです。『漢晋春秋』によれば、司馬懿は蜀漢軍を追撃しようとした際に、軍が反転して攻撃する構えを見せたため、諸葛亮が生きていると思い退却したといいます。これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす(優れた人物は死後にも生前の威力が保たれて、生きている者を恐れさせる)」という故事成語になりました。 公孫淵を征伐し武功を上げる 景初2年(238)遼東を拠点としていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は討伐にあたります。公孫淵は呉に援軍を求めるとともに籠城しましたが、やがて食糧が底をつき和議と助命を嘆願。公孫淵とその子・公孫脩は逃亡しましたが、司馬懿はこれを追撃して斬殺し、公孫淵の高官たちも処分して遼東を制圧しました。 クーデターで魏を滅ぼす さまざまな活躍をみせた司馬懿ですが、やがて魏に対するクーデターを起こします。そしてそれは、西晋の建国へとつながっていくのです。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、誰を追撃して斬殺したか。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、公孫淵を追撃して斬殺した。
JCRRAG_018379
歴史
西郷降盛が兵を率いて鹿児島を出発したときの軍容は次の通りである。 大隊長はすべて、猛将ぞろいである。特に桐野利秋は中村半次郎という名で維新当時にも活躍した男である。各大隊は兵数ほぼ二千名位ずつであるから総軍一万二千である。各大隊には砲兵が加わっていたが、その持っている大砲の本数は、四斤砲二十八門、十二斤砲二門、臼砲三十門であった。そのほか後ろに薩摩国・大隅国と日向国で新たに徴集したもの及び、熊本、延岡、佐土原、竹田等の士族がきて投入したものが合わせて一万人あった。この兵力に加えるに当時赫々たる西郷の威望があるのだから、天下の耳目を驚かせたのは当然である。 薩軍が鹿児島を発った日から南国には珍しい大雪となって、連日紛々として絶えず、肥後との国境である大口の山路に来る頃には、積雪が腰にまで積もった程であった。しかし薩軍を悩ませたのは風雪だけであって、十八日から二十日までの間、無人の境を行くようにして肥後に入った。西郷が東上するとの声を聞いて、佐土原、延岡、飫肥、高鍋、福島の士族達は、各々数百名の徒党をくんでこれに応じて、熊本に来て合した。熊本の城下においてさえ、従うか背くかの議論が生じる有様で、ついに池辺吉十郎等千余人、薩軍に馳せ参ずることになった。 私学校の変に次いで、西郷起つとの報が東京に達すると、政府はみんな色を失った。大久保利通は、憂鬱の余りに、終夜眠る事が出来なかったという。そして自ら西下して、西郷を説得しようとしたが、周囲の者に止められた。岩倉具視も心配の極み、勝安房をして行って説得しようとした。これは江戸城明け渡しの因縁によって、それを逆に行こうというわけであったが、勝が「全権を余に委任するという事は、西郷の意をいれなければいけない。それでよろしいか」というに及んで、岩倉は黙り、ついにその事も行われなかった。
西郷降盛の軍が持っている大砲の本数のうち、もっとも数が多い本数を教えてください。
西郷降盛の軍が持っている大砲の本数のうち、もっとも数が多い本数は臼砲で三十門です。
JCRRAG_018380
歴史
メンカウラー王とはどんな人物? 首都カイロ市の南西部にあるギザの台地には、第4王朝(紀元前2613年頃〜紀元前2498年頃)のファラオであるクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドが並び、その中でもメンカウラー王のものは南西に位置します。 彼のピラミッドは他のピラミッドと比べると半分ほどの高さです。古代ギリシャ世界では祖父であるクフと父であるメンカウラーは暴君であり、彼自身は善政を行ったため、ピラミッドも小規模にしたという伝承がありますが、あくまでも彼が生きていた時代から2000年も経過した時の記録でもあり、疑わしいところ。治世の時期もはっきりとはしておらず、同時代の落書きからは22年以上は続いてたとされ、あまり長い期間ではなかったと考えられています。 一方、葬祭殿では彼を象った彫像やその破片が発見されていて、父のカフラー王と同じく、筋骨隆々の人物として刻まれていて、神々と並ぶその姿は絶大な権力を持つ君主の姿が見られます。 メンカウラー王のピラミッド/エジプト 現在の高さは62mと、他のピラミッドと比べると半分ほどの高さ。紀元前2510年ころに築かれたとされますが、12世紀にアイユーブ朝のスルタンによって破壊が命令され、切石が徐々に覗かれると、やがて北面に大きな垂直の裂け目ができるも破壊はできませんでした。 1837年にハワード・ヴァイスというイギリスの軍人が玄武岩の棺を発見し、中には遺体の一部が入っていたとされるも、現在は行方不明。しかし、これは後世に入れられたもので、それほど古くないと学者たちは推測しています。
メンカウラーとクフ、カフラーの政治の違いを説明してください。
メンカウラーは善政を行ったためプラミッドも小規模にしたという伝承がある。 クフ、カフラーは暴君である。
JCRRAG_018381
歴史
歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれている人物は、司馬懿である。 うまれから曹操に士官するまで 司馬懿は魏の曹操に仕えましたが、それは不本意なものでした。それでも士官に至った経緯について振り返ります。 名門・司馬氏にうまれる 司馬懿は名門・司馬家の出身で、河内郡温県孝敬里で誕生しました。妻は張春華で、息子には司馬師や司馬昭らがいます。司馬氏は代々高官を輩出した家柄だったため、司馬懿も幼いころから厳格な家風のもとで育ちました。8人兄弟は聡明な者ぞろいだったことから「司馬八達」と呼ばれ、司馬懿はとくに優れていたといいます。 仮病の末、やむを得ず曹操に仕える 優秀な司馬懿の噂は曹操の耳に入り、やがて出仕を求められるようになります。司馬懿は漢朝が衰えていることを鑑み、病気を理由に辞退しますが、仮病を見抜いた曹操が捕らえてでも連れてくるよう命令したため、やむを得ず出仕を決意しました。文官として仕えた司馬懿は、軍略の献策などで徐々に認められるようになります。 大将軍に昇進し諸葛亮と対決! 曹操のもとで頭角を現した司馬懿は、その後も活躍し順調に出世していきます。そして、諸葛亮と対決することになるのです。 曹丕・曹叡に重用される 曹操は司馬懿を警戒していましたが、曹操の子・曹丕は司馬懿と親しく、絶大な信頼をおいていました。建安25年(220)に曹操が死去すると、魏王を継いだ曹丕は献帝から禅譲され魏の皇帝に即位。ここで重用された司馬懿は、曹丕の四友とまでいわれるようになり、その子・曹叡が皇帝になった後も引き続き重用されました。 奇才・諸葛亮との戦い 太和4年(230)司馬懿は大将軍に昇進し、蜀漢との戦いの総司令を務めていた曹真の跡を継いで諸葛亮と対戦します。『晋書』によれば司馬懿は諸葛亮を追撃して大破したといいます。そして青龍2年(234)諸葛亮が5度目の北伐(軍事侵攻)をした際、長期にわたる対陣ののち諸葛亮が病死。蜀漢軍の撤退後、司馬懿はその陣跡を見て「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたそうです。『漢晋春秋』によれば、司馬懿は蜀漢軍を追撃しようとした際に、軍が反転して攻撃する構えを見せたため、諸葛亮が生きていると思い退却したといいます。これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす(優れた人物は死後にも生前の威力が保たれて、生きている者を恐れさせる)」という故事成語になりました。 公孫淵を征伐し武功を上げる 景初2年(238)遼東を拠点としていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は討伐にあたります。公孫淵は呉に援軍を求めるとともに籠城しましたが、やがて食糧が底をつき和議と助命を嘆願。公孫淵とその子・公孫脩は逃亡しましたが、司馬懿はこれを追撃して斬殺し、公孫淵の高官たちも処分して遼東を制圧しました。 クーデターで魏を滅ぼす さまざまな活躍をみせた司馬懿ですが、やがて魏に対するクーデターを起こします。そしてそれは、西晋の建国へとつながっていくのです。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、何に昇進したか。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、大将軍に昇進した。
JCRRAG_018382
歴史
西郷降盛が兵を率いて鹿児島を出発したときの軍容は次の通りである。 大隊長はすべて、猛将ぞろいである。特に桐野利秋は中村半次郎という名で維新当時にも活躍した男である。各大隊は兵数ほぼ二千名位ずつであるから総軍一万二千である。各大隊には砲兵が加わっていたが、その持っている大砲の本数は、四斤砲二十八門、十二斤砲二門、臼砲三十門であった。そのほか後ろに薩摩国・大隅国と日向国で新たに徴集したもの及び、熊本、延岡、佐土原、竹田等の士族がきて投入したものが合わせて一万人あった。この兵力に加えるに当時赫々たる西郷の威望があるのだから、天下の耳目を驚かせたのは当然である。 薩軍が鹿児島を発った日から南国には珍しい大雪となって、連日紛々として絶えず、肥後との国境である大口の山路に来る頃には、積雪が腰にまで積もった程であった。しかし薩軍を悩ませたのは風雪だけであって、十八日から二十日までの間、無人の境を行くようにして肥後に入った。西郷が東上するとの声を聞いて、佐土原、延岡、飫肥、高鍋、福島の士族達は、各々数百名の徒党をくんでこれに応じて、熊本に来て合した。熊本の城下においてさえ、従うか背くかの議論が生じる有様で、ついに池辺吉十郎等千余人、薩軍に馳せ参ずることになった。 私学校の変に次いで、西郷起つとの報が東京に達すると、政府はみんな色を失った。大久保利通は、憂鬱の余りに、終夜眠る事が出来なかったという。そして自ら西下して、西郷を説得しようとしたが、周囲の者に止められた。岩倉具視も心配の極み、勝安房をして行って説得しようとした。これは江戸城明け渡しの因縁によって、それを逆に行こうというわけであったが、勝が「全権を余に委任するという事は、西郷の意をいれなければいけない。それでよろしいか」というに及んで、岩倉は黙り、ついにその事も行われなかった。
西郷降盛の軍が持っている大砲の本数のうち、もっとも数が少ない本数を教えてください。
西郷降盛の軍が持っている大砲の本数のうち、もっとも数が少ない本数は十二斤砲で二門です。
JCRRAG_018383
歴史
カフラー王とはどんな人物? 首都カイロ市の南西部にあるギザの台地には、第4王朝(紀元前2613年頃〜紀元前2498年頃)のファラオであるクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドがあり、カフラー王のピラミッドは中央に位置します。その中でもカフラー王の高さは136mで、クフ王の現在のピラミッドよりも3mほど低いもの。 カフラー王は、第4王朝2代目のクフ王の息子の一人。紀元前3世紀の歴史家であるマネトは彼は即位から66年間もエジプトを治めたとされますが、他の歴史家たちの記録は即位の年数のバラツキがあり、現在の考古学調査では24〜26年程度だったと予測されています。 古代ギリシャ世界では暴君であったとされますが、明確な証拠はなく、カフラーはクフ王の王妃であるメリタテス1世の息子であり、碑文でもそれが記されていることから正統な後継者としてその権力を引き継いだと考えられます。そして、河岸神殿で発見されたカフラー王像では、筋骨隆々の姿をした高さ118cmの坐像にも見られることから、彼自身はたくましい人物であった可能性も。 カフラー王のピラミッド/エジプト 現在の高さは約136mとなっていて、頂上付近には他のピラミッドには残っていない化粧石が一部残っているというのが他のピラミッドとの違い。内部はクフ王のピラミッドと比べて複雑な構造はなく、2つの通路と玄室があるのみ。 入口は高さ11.54mの位置にあるものと、地下から入るものの2つの入口があり、これはもともとの建設計画が途中から変更され、入口も変更されたという説もありますが、はっきりとはしていません。
カフラー王のピラミッドと他のピラミッドの違いを説明してください。
カフラー王のピラミッドには化粧石が残っており、複雑な構造はなく、2つの通路と玄室があるのみだ。 他のピラミッドには化粧石が残っておらず、クフ王のピラミッドは内部が複雑である。
JCRRAG_018384
歴史
歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれている人物は、司馬懿である。 うまれから曹操に士官するまで 司馬懿は魏の曹操に仕えましたが、それは不本意なものでした。それでも士官に至った経緯について振り返ります。 名門・司馬氏にうまれる 司馬懿は名門・司馬家の出身で、河内郡温県孝敬里で誕生しました。妻は張春華で、息子には司馬師や司馬昭らがいます。司馬氏は代々高官を輩出した家柄だったため、司馬懿も幼いころから厳格な家風のもとで育ちました。8人兄弟は聡明な者ぞろいだったことから「司馬八達」と呼ばれ、司馬懿はとくに優れていたといいます。 仮病の末、やむを得ず曹操に仕える 優秀な司馬懿の噂は曹操の耳に入り、やがて出仕を求められるようになります。司馬懿は漢朝が衰えていることを鑑み、病気を理由に辞退しますが、仮病を見抜いた曹操が捕らえてでも連れてくるよう命令したため、やむを得ず出仕を決意しました。文官として仕えた司馬懿は、軍略の献策などで徐々に認められるようになります。 大将軍に昇進し諸葛亮と対決! 曹操のもとで頭角を現した司馬懿は、その後も活躍し順調に出世していきます。そして、諸葛亮と対決することになるのです。 曹丕・曹叡に重用される 曹操は司馬懿を警戒していましたが、曹操の子・曹丕は司馬懿と親しく、絶大な信頼をおいていました。建安25年(220)に曹操が死去すると、魏王を継いだ曹丕は献帝から禅譲され魏の皇帝に即位。ここで重用された司馬懿は、曹丕の四友とまでいわれるようになり、その子・曹叡が皇帝になった後も引き続き重用されました。 奇才・諸葛亮との戦い 太和4年(230)司馬懿は大将軍に昇進し、蜀漢との戦いの総司令を務めていた曹真の跡を継いで諸葛亮と対戦します。『晋書』によれば司馬懿は諸葛亮を追撃して大破したといいます。そして青龍2年(234)諸葛亮が5度目の北伐(軍事侵攻)をした際、長期にわたる対陣ののち諸葛亮が病死。蜀漢軍の撤退後、司馬懿はその陣跡を見て「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたそうです。『漢晋春秋』によれば、司馬懿は蜀漢軍を追撃しようとした際に、軍が反転して攻撃する構えを見せたため、諸葛亮が生きていると思い退却したといいます。これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす(優れた人物は死後にも生前の威力が保たれて、生きている者を恐れさせる)」という故事成語になりました。 公孫淵を征伐し武功を上げる 景初2年(238)遼東を拠点としていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は討伐にあたります。公孫淵は呉に援軍を求めるとともに籠城しましたが、やがて食糧が底をつき和議と助命を嘆願。公孫淵とその子・公孫脩は逃亡しましたが、司馬懿はこれを追撃して斬殺し、公孫淵の高官たちも処分して遼東を制圧しました。 クーデターで魏を滅ぼす さまざまな活躍をみせた司馬懿ですが、やがて魏に対するクーデターを起こします。そしてそれは、西晋の建国へとつながっていくのです。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、誰に警戒されたか。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、曹操に警戒された。
JCRRAG_018385
歴史
西南の役における官軍の編成は、旅団が単位となるが、一個旅団は二個連隊、四個大隊であり、これに砲工兵が各々一小隊が加わって、総員三千余人だった。野津少将の第一旅団、三好少将の第二旅団、総兵四千ばかりに、熊本鎮圧、歩兵第十四運隊のおよそ二千余が加わっていた。もちろんこれで薩軍に対抗は出来ないから、間もなく、 第三旅団 三浦少将 第四旅団 曾我少将 別働第一旅団、同第二旅団、大山少将 別働第三旅団 山田少将 等の編成が行われ、諸軍合わせて、歩兵は五十五大隊、砲兵六大隊、工兵一大隊、騎兵および補給兵若干、それにこの戦に特別の働きがあった警視庁巡査の九隊、総員およそ五万人である。 兵器は、薩軍の多くが口装式の旧式銃であるのに対して、底装式、スナイドル銃というものを持っていた。兵力兵器において差があり、官賊の名分またどうにもならないのだから、薩軍の不利は最初から明白であったが、しかし当時は西郷の威名と薩摩隼人の異名に慄いていたのであるから、朝野の人心戦戦恐恐たるものであったであろう。 熊本城においては、司令長官の谷干城少将以下兵二千、人夫千七百、決死して城を守る事になり、あらゆる準備を怠らなかった。これから有名な熊本籠城が始まるのである。二月十九日、大山県令から西郷の書を城中に致した。 城内の樺山資紀中佐は直ちに断然としてしりぞけた。二十日には別府晋介の大隊が川尻に到着して、其夜、鎮台の巡邏兵の四・五十人と衝突した。これが両軍開戦の最初である。 二月十四日、乃木少佐は、小倉第十四連隊の一部隊を率いて、午前六時におりからの風雪を冒して出発した。黒崎で昼食をしたが、ここからは靴を草鞋に代えて強行軍を続け、真っ暗になった午後六時に熊本に達する事が出来た。この強行軍の一部隊のごとしは、疲労の為に車馬を雇わざるを得ない程であった。乃木は更に福岡の大隊を指揮する為に、熊本を去ったが、熊本から、直ちに入城すべしという急電を受けるや、すぐ引き返した。二十二日午前六時南関を立って十一時高瀬で昼食したが、この時、少佐は軍医と計画を練って、酢を暖めて足を痛めているものを洗わせて、食後に酒を与えて意気を鼓舞した。午後一時ここを立って植木に向かったが、木葉駅に至る頃に賊軍は既に植木に入っているという知らせを受けたので、十数騎を前駆させて調査すると、敵は既に大窪に退いたという。ここにおいて、駅の西南に散兵を布いて形勢を窺う事にしたが、わずかに一個中隊の兵力であった。
官軍の大隊の数において、もっとも大隊の数の多い兵科を教えてください。
官軍の大隊の数において、もっとも大隊の数の多い兵科は歩兵で五十五大隊です。
JCRRAG_018386
歴史
首都カイロ市の南西部にあるギザの台地には、第4王朝(紀元前2613年頃〜紀元前2498年頃)のファラオであるクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドがあり、クフ王のピラミッドは北側に位置します。その中でもクフ王の高さは138.5m(完成時は146.6m)で、世界最大のピラミッド。 1837年にピラミッド内部から「クフ」という名前が発見されたため、現在はこのピラミッドはクフ王のものと特定されています。彼の名前は正しくはクヌム・クフという名前であるものの、カルトゥーシュと呼ばれるファラオの名前を囲まれた誕生名である「クフ」という名前が一般的。とはいえ、ファラオは5つの称号を持つとされ、クフも「メジェドゥ」というホルス名で当時の記録では用いられています。 これだけ大きなピラミッドを築いたクフ王は、第4王朝の2代目の王であり、絶大な権力を持っていたとされるものの、彼の正式な記録はほとんどなく、ギザのネクロポリスで発見された碑文と、エジプト各地で残るレリーフや発見されたパピルス、後世の文学作品などから、かろうじて人物像が分かる程度。ほぼ完全な形で現存する像も小さな立像のみと謎の多い人物です。 ちなみに、立像はエジプト考古学博物館で展示されていたもので、あまりにも小さいことからお守りのようなものであったと推測されていて、中王国(紀元前2040年頃〜紀元前18世紀頃)に造られたという説もあります。
クフとメジェドゥという名前の違いを説明してください。
クフ王の正しくはクヌム・クフという名前であるものの、カルトゥーシュと呼ばれるファラオの名前を囲まれた誕生名である「クフ」という名前が一般的である。 ファラオは5つの称号を持つとされ、クフも「メジェドゥ」というホルス名で当時の記録では用いられている。
JCRRAG_018387
歴史
歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれている人物は、司馬懿である。 うまれから曹操に士官するまで 司馬懿は魏の曹操に仕えましたが、それは不本意なものでした。それでも士官に至った経緯について振り返ります。 名門・司馬氏にうまれる 司馬懿は名門・司馬家の出身で、河内郡温県孝敬里で誕生しました。妻は張春華で、息子には司馬師や司馬昭らがいます。司馬氏は代々高官を輩出した家柄だったため、司馬懿も幼いころから厳格な家風のもとで育ちました。8人兄弟は聡明な者ぞろいだったことから「司馬八達」と呼ばれ、司馬懿はとくに優れていたといいます。 仮病の末、やむを得ず曹操に仕える 優秀な司馬懿の噂は曹操の耳に入り、やがて出仕を求められるようになります。司馬懿は漢朝が衰えていることを鑑み、病気を理由に辞退しますが、仮病を見抜いた曹操が捕らえてでも連れてくるよう命令したため、やむを得ず出仕を決意しました。文官として仕えた司馬懿は、軍略の献策などで徐々に認められるようになります。 大将軍に昇進し諸葛亮と対決! 曹操のもとで頭角を現した司馬懿は、その後も活躍し順調に出世していきます。そして、諸葛亮と対決することになるのです。 曹丕・曹叡に重用される 曹操は司馬懿を警戒していましたが、曹操の子・曹丕は司馬懿と親しく、絶大な信頼をおいていました。建安25年(220)に曹操が死去すると、魏王を継いだ曹丕は献帝から禅譲され魏の皇帝に即位。ここで重用された司馬懿は、曹丕の四友とまでいわれるようになり、その子・曹叡が皇帝になった後も引き続き重用されました。 奇才・諸葛亮との戦い 太和4年(230)司馬懿は大将軍に昇進し、蜀漢との戦いの総司令を務めていた曹真の跡を継いで諸葛亮と対戦します。『晋書』によれば司馬懿は諸葛亮を追撃して大破したといいます。そして青龍2年(234)諸葛亮が5度目の北伐(軍事侵攻)をした際、長期にわたる対陣ののち諸葛亮が病死。蜀漢軍の撤退後、司馬懿はその陣跡を見て「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたそうです。『漢晋春秋』によれば、司馬懿は蜀漢軍を追撃しようとした際に、軍が反転して攻撃する構えを見せたため、諸葛亮が生きていると思い退却したといいます。これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす(優れた人物は死後にも生前の威力が保たれて、生きている者を恐れさせる)」という故事成語になりました。 公孫淵を征伐し武功を上げる 景初2年(238)遼東を拠点としていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は討伐にあたります。公孫淵は呉に援軍を求めるとともに籠城しましたが、やがて食糧が底をつき和議と助命を嘆願。公孫淵とその子・公孫脩は逃亡しましたが、司馬懿はこれを追撃して斬殺し、公孫淵の高官たちも処分して遼東を制圧しました。 クーデターで魏を滅ぼす さまざまな活躍をみせた司馬懿ですが、やがて魏に対するクーデターを起こします。そしてそれは、西晋の建国へとつながっていくのです。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、蜀漢軍の撤退後にその陣跡を見て何と漏らしたか。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、蜀漢軍の撤退後にその陣跡を見て「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らした。
JCRRAG_018388
歴史
西南の役における官軍の編成は、旅団が単位となるが、一個旅団は二個連隊、四個大隊であり、これに砲工兵が各々一小隊が加わって、総員三千余人だった。野津少将の第一旅団、三好少将の第二旅団、総兵四千ばかりに、熊本鎮圧、歩兵第十四運隊のおよそ二千余が加わっていた。もちろんこれで薩軍に対抗は出来ないから、間もなく、 第三旅団 三浦少将 第四旅団 曾我少将 別働第一旅団、同第二旅団、大山少将 別働第三旅団 山田少将 等の編成が行われ、諸軍合わせて、歩兵は五十五大隊、砲兵六大隊、工兵一大隊、騎兵および補給兵若干、それにこの戦に特別の働きがあった警視庁巡査の九隊、総員およそ五万人である。 兵器は、薩軍の多くが口装式の旧式銃であるのに対して、底装式、スナイドル銃というものを持っていた。兵力兵器において差があり、官賊の名分またどうにもならないのだから、薩軍の不利は最初から明白であったが、しかし当時は西郷の威名と薩摩隼人の異名に慄いていたのであるから、朝野の人心戦戦恐恐たるものであったであろう。 熊本城においては、司令長官の谷干城少将以下兵二千、人夫千七百、決死して城を守る事になり、あらゆる準備を怠らなかった。これから有名な熊本籠城が始まるのである。二月十九日、大山県令から西郷の書を城中に致した。 城内の樺山資紀中佐は直ちに断然としてしりぞけた。二十日には別府晋介の大隊が川尻に到着して、其夜、鎮台の巡邏兵の四・五十人と衝突した。これが両軍開戦の最初である。 二月十四日、乃木少佐は、小倉第十四連隊の一部隊を率いて、午前六時におりからの風雪を冒して出発した。黒崎で昼食をしたが、ここからは靴を草鞋に代えて強行軍を続け、真っ暗になった午後六時に熊本に達する事が出来た。この強行軍の一部隊のごとしは、疲労の為に車馬を雇わざるを得ない程であった。乃木は更に福岡の大隊を指揮する為に、熊本を去ったが、熊本から、直ちに入城すべしという急電を受けるや、すぐ引き返した。二十二日午前六時南関を立って十一時高瀬で昼食したが、この時、少佐は軍医と計画を練って、酢を暖めて足を痛めているものを洗わせて、食後に酒を与えて意気を鼓舞した。午後一時ここを立って植木に向かったが、木葉駅に至る頃に賊軍は既に植木に入っているという知らせを受けたので、十数騎を前駆させて調査すると、敵は既に大窪に退いたという。ここにおいて、駅の西南に散兵を布いて形勢を窺う事にしたが、わずかに一個中隊の兵力であった。
官軍の大隊の数において、もっとも大隊の数の少ない兵科を教えてください。
官軍の大隊の数において、もっとも大隊の数の少ない兵科は工兵で一大隊です。
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歴史
アビドス遺跡(ファラオの巡礼の町)とは? ナイル川中流域のルクソール近郊に位置するアビドスは、ナカダ3世期(紀元前3200年〜紀元前3000年)ころに遡るほどに古い町。ここはエジプト第1王朝の王であり、初めてエジプトを統一したとされるナルメル王(在位:紀元前3125年頃〜紀元前3062年頃)の墓などが集るウンム・エル=カアブがあることで有名です。 第5王朝時代以降は、冥界の神・オシリス信仰が盛んとなり、ここは各時代のファラオの墓所となり、建造物が多く建造されます。第19王朝時代には、セティ1世(在位:紀元前1294年〜紀元前1279年)によって神殿が築かれ、ここには「アビドスの王名表」があり、歴代のファラオのカルトゥーシュ(囲まれたファラオ名)が刻まれていることから貴重な資料となっています。 世界遺産マニアの結論と感想 アビドスは、ナルメルだけでなく、オシリス信仰の聖域となったことから、歴代ファラオの埋葬地として有名で、神殿なども多く築かれたことから、王名表など貴重な資料として残っているという点で評価されています。 ちなみに、セティ1世神殿には、フェニキア語とアラム語など、当時の古代世界で使用されていた言語の落書きも見つかっていて、ある意味、こういった落書きが見つかること自体が貴重であることから大発見でもありました。本来は聖域の落書きは割と罰当たりではあるのですが…後世では評価されるのも不思議な話。
アドビスにおいて第5王朝時代と第19王朝時代に起こったことを説明してください。
第5王朝時代以降は、冥界の神・オシリス信仰が盛んとなり、ここは各時代のファラオの墓所となり、建造物が多く建造される。 第19王朝時代には、セティ1世(在位:紀元前1294年〜紀元前1279年)によって神殿が築かれ、「アビドスの王名表」があり、歴代のファラオのカルトゥーシュ(囲まれたファラオ名)が刻まれていることから貴重な資料となっている。
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歴史
歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれている人物は、司馬懿である。 曹爽との対立が深まり… 曹叡の死後、司馬懿は曹真の長男・曹爽とともに次の皇帝である曹芳の補佐を託されます。権力を独占しようとする曹爽により名誉職の太傅に転任させられた司馬懿でしたが、当初は大きな問題は起こりませんでした。しかし正始5年(244)の蜀漢出兵で曹爽が多大な犠牲を出すと、もともと失敗を予見していた司馬懿は曹爽と対立するようになります。そしてその後は、ことあるごとに曹爽一派と衝突するようになったのです。 演技でだましクーデターを起こす 曹爽との対立が表面化すると、司馬懿は70歳近い高齢と病気を理由にして、引退したかのような演技を始めます。曹爽は司馬懿を警戒しましたが、わざと言葉を聞き間違えたり薬をこぼしたりして、騙し通すことに成功。正始10年(249)曹爽が洛陽を留守にすると、司馬懿はここぞとばかりにクーデターを起こしたのです。司馬懿は曹爽を降伏させ、本人とその一族を監視下において軟禁。最後には謀反を企んだとして一族郎党皆殺しにしました。 孫の司馬炎が西晋を建国 こうして司馬懿は魏の全権を握りましたが、その2年後に死去してしまいます。その後、孫の司馬炎が魏から禅譲を受けて皇帝となり、司馬懿は高祖宣帝の諡号(死後に送られる名前)を得ました。司馬懿は息子達に、自分が死んだら慎重に行動してうまく国を治めるよう告げています。これは、常に謀反を疑われながら生きてきた司馬懿ならではの言葉でした。 恐るべき司馬懿の人物像とは? 諸葛亮のライバルといわれる司馬懿は、どのような人物だったのでしょうか。人物像がわかるエピソードを2つご紹介します。 権謀術数に長けていた 司馬懿は猜疑心が強く、嫌悪する相手にも表向きは寛大に振舞うなど、臨機応変に切り抜ける才能がありました。曹操は司馬懿の性格を見抜いており、曹丕にも「司馬懿は臣下の身分にとどまる人物ではないから、お前にとって代わるだろう」と忠告しています。この言葉通り、権謀術数に長けた司馬懿によって魏は滅ぼされました。 トランプではジョーカーに! 中国で販売されている三国演義トランプでは、司馬懿は諸葛亮とともにジョーカーとして描かれています。中国では、小説『三国志演義』の諸葛亮のライバルとして、曹操に次ぐ知名度をもつようです。実際には軍師ではなかった司馬懿ですが、諸葛亮と同じくらい策略に長けていたのでしょう。 「狼顧の相」をもつ男 曹操は司馬懿の能力を認めながらもその野心に感づき警戒していました。しかし曹丕は司馬懿と親しく、さらには重用したため、最終的には国を滅ぼされることになったのです。 相手の裏をかいて一世一代のクーデターを成功させた司馬懿には厳しい意見もありますが、その巧みな人生を振り返ると、まさに諸葛亮と並ぶジョーカーのような人物だったといえるでしょう。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、曹操に何と忠告されていたか。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、曹操に「司馬懿は臣下の身分にとどまる人物ではないから、お前にとって代わるだろう」と忠告されていた。
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歴史
西南の役における官軍の編成は、旅団が単位となるが、一個旅団は二個連隊、四個大隊であり、これに砲工兵が各々一小隊が加わって、総員三千余人だった。野津少将の第一旅団、三好少将の第二旅団、総兵四千ばかりに、熊本鎮圧、歩兵第十四運隊のおよそ二千余が加わっていた。もちろんこれで薩軍に対抗は出来ないから、間もなく、 第三旅団 三浦少将 第四旅団 曾我少将 別働第一旅団、同第二旅団、大山少将 別働第三旅団 山田少将 等の編成が行われ、諸軍合わせて、歩兵は五十五大隊、砲兵六大隊、工兵一大隊、騎兵および補給兵若干、それにこの戦に特別の働きがあった警視庁巡査の九隊、総員およそ五万人である。 兵器は、薩軍の多くが口装式の旧式銃であるのに対して、底装式、スナイドル銃というものを持っていた。兵力兵器において差があり、官賊の名分またどうにもならないのだから、薩軍の不利は最初から明白であったが、しかし当時は西郷の威名と薩摩隼人の異名に慄いていたのであるから、朝野の人心戦戦恐恐たるものであったであろう。 熊本城においては、司令長官の谷干城少将の配下である兵が二千、人夫が千七百、決死して城を守る事になり、あらゆる準備を怠らなかった。これから有名な熊本籠城が始まるのである。二月十九日、大山県令から西郷の書を城中に致した。 城内の樺山資紀中佐は直ちに断然としてしりぞけた。二十日には別府晋介の大隊が川尻に到着して、其夜、鎮台の巡邏兵の四・五十人と衝突した。これが両軍開戦の最初である。 二月十四日、乃木少佐は、小倉第十四連隊の一部隊を率いて、午前六時におりからの風雪を冒して出発した。黒崎で昼食をしたが、ここからは靴を草鞋に代えて強行軍を続け、真っ暗になった午後六時に熊本に達する事が出来た。この強行軍の一部隊のごとしは、疲労の為に車馬を雇わざるを得ない程であった。乃木は更に福岡の大隊を指揮する為に、熊本を去ったが、熊本から、直ちに入城すべしという急電を受けるや、すぐ引き返した。二十二日午前六時南関を立って十一時高瀬で昼食したが、この時、少佐は軍医と計画を練って、酢を暖めて足を痛めているものを洗わせて、食後に酒を与えて意気を鼓舞した。午後一時ここを立って植木に向かったが、木葉駅に至る頃に賊軍は既に植木に入っているという知らせを受けたので、十数騎を前駆させて調査すると、敵は既に大窪に退いたという。ここにおいて、駅の西南に散兵を布いて形勢を窺う事にしたが、わずかに一個中隊の兵力であった。
熊本城を守る事になった司令長官の谷干城少将の配下のうち、より数が多いものを教えてください。
熊本城を守る事になった司令長官の谷干城少将の配下のうち、より数が多いものは兵で二千です。
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歴史
1、建造された時代はほとんど同じ どちらも奈良県明日香村にある古墳の一つ。飛鳥では南西部に位置していて、現在も被葬者は不明となっていますが、古墳そのものは7〜8世紀に建造されたと推測。 高松塚古墳の被葬者については40代天皇・天武天皇(?〜686年)の皇子説、臣下説、朝鮮半島系王族説の3つに分かられているものの、ハッキリしないところ。一方、キトラ古墳も同じく、天武天皇の皇子説があり、側近の高官と考えられています。どちらにせよ、高貴な人物の墓であったということはほぼ間違いないでしょう。 2、石室の壁画の状態が結構違う どちらも美しい壁画が発見されたということでも有名で、高松塚古墳は1972年に日本で初めて極彩色壁画が発見され、キトラ古墳では1983年に同じく極彩色壁画が発見されました。 四方を守護する四神(東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武)はどちらも描かれているものの、高松塚古墳には、なんといっても西壁に描かれた女子群像「飛鳥美人」が描かれているというのが有名。しかし、キトラ古墳は星図などの跡も見られるのですが、色彩は玄武以外はほとんど彩色が見られないという点では少し地味かもしれません。
高松塚古墳とキトラ古墳の石室の絵画の違いについて説明してください。
高松塚古墳の石室の絵画は972年に日本で初めて極彩色壁画が発見され、四方を守護する四神(東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武)の他に西壁に描かれた女子群像「飛鳥美人」が描かれている。 キトラ古墳の石室の絵画は1983年に極彩色壁画が発見され、四方を守護する四神(東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武)の他に星図などの跡も見られるが、色彩は玄武以外はほとんど彩色が見られない。
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歴史
歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれている人物は、司馬懿である。 曹爽との対立が深まり… 曹叡の死後、司馬懿は曹真の長男・曹爽とともに次の皇帝である曹芳の補佐を託されます。権力を独占しようとする曹爽により名誉職の太傅に転任させられた司馬懿でしたが、当初は大きな問題は起こりませんでした。しかし正始5年(244)の蜀漢出兵で曹爽が多大な犠牲を出すと、もともと失敗を予見していた司馬懿は曹爽と対立するようになります。そしてその後は、ことあるごとに曹爽一派と衝突するようになったのです。 演技でだましクーデターを起こす 曹爽との対立が表面化すると、司馬懿は70歳近い高齢と病気を理由にして、引退したかのような演技を始めます。曹爽は司馬懿を警戒しましたが、わざと言葉を聞き間違えたり薬をこぼしたりして、騙し通すことに成功。正始10年(249)曹爽が洛陽を留守にすると、司馬懿はここぞとばかりにクーデターを起こしたのです。司馬懿は曹爽を降伏させ、本人とその一族を監視下において軟禁。最後には謀反を企んだとして一族郎党皆殺しにしました。 孫の司馬炎が西晋を建国 こうして司馬懿は魏の全権を握りましたが、その2年後に死去してしまいます。その後、孫の司馬炎が魏から禅譲を受けて皇帝となり、司馬懿は高祖宣帝の諡号(死後に送られる名前)を得ました。司馬懿は息子達に、自分が死んだら慎重に行動してうまく国を治めるよう告げています。これは、常に謀反を疑われながら生きてきた司馬懿ならではの言葉でした。 恐るべき司馬懿の人物像とは? 諸葛亮のライバルといわれる司馬懿は、どのような人物だったのでしょうか。人物像がわかるエピソードを2つご紹介します。 権謀術数に長けていた 司馬懿は猜疑心が強く、嫌悪する相手にも表向きは寛大に振舞うなど、臨機応変に切り抜ける才能がありました。曹操は司馬懿の性格を見抜いており、曹丕にも「司馬懿は臣下の身分にとどまる人物ではないから、お前にとって代わるだろう」と忠告しています。この言葉通り、権謀術数に長けた司馬懿によって魏は滅ぼされました。 トランプではジョーカーに! 中国で販売されている三国演義トランプでは、司馬懿は諸葛亮とともにジョーカーとして描かれています。中国では、小説『三国志演義』の諸葛亮のライバルとして、曹操に次ぐ知名度をもつようです。実際には軍師ではなかった司馬懿ですが、諸葛亮と同じくらい策略に長けていたのでしょう。 「狼顧の相」をもつ男 曹操は司馬懿の能力を認めながらもその野心に感づき警戒していました。しかし曹丕は司馬懿と親しく、さらには重用したため、最終的には国を滅ぼされることになったのです。 相手の裏をかいて一世一代のクーデターを成功させた司馬懿には厳しい意見もありますが、その巧みな人生を振り返ると、まさに諸葛亮と並ぶジョーカーのような人物だったといえるでしょう。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、トランプで何として描かれているか。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、トランプでジョーカーとして描かれている。
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歴史
この日、両将は木留の本営にいたのだが、急を聞いて部下を三・四百を率い、急いで来て、吉次越の絶頂の凹んだ処に木と草とたちまち即席のバンガローを造って、悠々と尻を落ちつけて、指揮したという。最初、篠原が乗り込んで来た時は、官軍の追及が急なので、薩兵が少し浮足だっているのを、篠原は大刀を揮ってこれを叱咤した。次いで単身、ゆるやかな足取りで来たのが村田である。薩軍やや元気を回復したものの、まだ危倶の念が去らないので、村田の姿を見ると、「退却で御座いますか」と問う者がいる。村田嘲笑って曰く、「ここはひとつ官軍の奴ら共を、この狭塞の地に引き入れて、鏖にして見せるかな」と。容易に抜く事が出来なかったのももっともである。別府晋介はまた、別路から、小天街道に赴いて海岸線を守ったが、この日、朝の十時から昼の三時に至る間激戦少しも止まず、官軍と薩軍の死傷者の数はお互い匹敵したという。 それでも、官軍は境木まで前進することができている。田原坂はもう、この境木の目の前にある。田原坂の血戦の幕が、切って落とされたのは間も無くである。 当時東京日日の新聞社長であった福地源一郎氏が、従軍記者として、田原坂戦闘の模様を通信していた。その中に田原坂の要害を報じて、 「坂は急上りの長い坂で、半腹の屈曲をなし、坂の両側は皆谷で谷の内の両側は切り崖、樹木が茂っている。この険の突角の所を撰びて、賊は砲塁を二重にも三重にも構え、土俵が間に合わなくて、百姓共が囲み置く粟麦などを俵のまま用いている程なり」 大体その険要の地であることがわかると思う。 三月四日に、第一回の田原坂攻撃が始まる。前夜、まず、山鹿南関の間の要衝に兵を派して厳戒せしめた。これは薩軍が迂回して背後を衝くのをおもんぱかったからである。その後、第二旅団の全部と、第一旅団の一部を本軍として、正面から攻撃することになり、第一旅団の残部は二俣を目指すことになった。本軍の先鋒青木大尉は、率先して進み、第一塁を陥れて勇躍更に坂を上るが、薩軍の弾丸は雨の様に降りそそぎ、午後の三時になっても占領する事が出来ないので退却した。坂の麓で督戦して居た野津少将は、再度の突撃を決意して、将士と共に決死の酒を酌んで鼓舞した。折しも、時ならぬ雷雨が襲って、鬱然たる山峡は益々暗い。天の時なりと考えた少将は、進軍ラッパを吹かし、突進させた。しかし敵の弾は雨よりも激しくて、いたずらに多くの死傷を出して終わった。この時の戦で、谷村計介も戦死したのである。計介は始め、第十三連隊長心得、川村操六少佐の旗下で、熊本籠城の一人であった。殊死して守城する決心した谷少将は、何とかして守城の方略を官軍の本営に伝えたいと思った。そこで川村少佐に相談したところ、少佐は計介の人となりを知っていたから、この重大任務遂行の使者として、彼を少将に推薦した。計介は任務が重大であって、その任でないと固辞したが、一度引き受けるや、死をもって遂げる事を誓った。顔から手足まで、煤を塗って人相を変え、夜陰に乗じて城を抜け出し、南関へ行こうとして、たちまちに捕えられた。しかし必死の計介は、監視の薩兵が居眠りして居る隙に、爪で縄を断ち切って逃れた。この辺一帯、薩軍の眼が光っているので、風の声にも心を許さず、やっと吉次山中まで潜り込んだ所を、再び捕えられた。異様な風体で、山中を徘徊していたものだから、てっきり官軍のスパイと目星を指されて、拷問された。百回は棒で殴られ、百五十回は蹴られ、計介苦痛を忍びながら、偽りの臆病な百姓の風を装ったので、幸い間諜の疑いは晴らされたが、その代わり人夫として酷使される事になった。西南の役始終を通じて、官薩両軍ともに、戦闘員の外に、非常に多くの人夫を使役した。ただでは計介も許されなかったわけである。しかしここでも、うまく敵の目をかすめて、ようやく官軍の戦線に到達すると、今度は官軍の歩哨に捕らえられた。勇んで縛られて、野津少将の前に引き出される時は、ものもいい得ずして、汚れた頬に涙が伝るのをいかんともし難かったという。
谷村計介が拷問にあった際、受けた数が多かったものを教えてください。
谷村計介が拷問にあった際、受けた数が多かったものは百五十回蹴られた事です。
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歴史
1、建造された時代はほとんど同じ どちらも奈良県明日香村にある古墳の一つ。飛鳥では南西部に位置していて、現在も被葬者は不明となっていますが、古墳そのものは7〜8世紀に建造されたと推測。 高松塚古墳の被葬者については40代天皇・天武天皇(?〜686年)の皇子説、臣下説、朝鮮半島系王族説の3つに分かられているものの、ハッキリしないところ。一方、キトラ古墳も同じく、天武天皇の皇子説があり、側近の高官と考えられています。どちらにせよ、高貴な人物の墓であったということはほぼ間違いないでしょう。 2、石室の壁画の状態が結構違う どちらも美しい壁画が発見されたということでも有名で、高松塚古墳は1972年に日本で初めて極彩色壁画が発見され、キトラ古墳では1983年に同じく極彩色壁画が発見されました。 四方を守護する四神(東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武)はどちらも描かれているものの、高松塚古墳には、なんといっても西壁に描かれた女子群像「飛鳥美人」が描かれているというのが有名。しかし、キトラ古墳は星図などの跡も見られるのですが、色彩は玄武以外はほとんど彩色が見られないという点では少し地味かもしれません。 3、古墳の大きさも少し違う さて、古墳の形状はどうでしょうか?二段式の円墳というのはどちらも変わりませんが、高松塚古墳の下段は直径23m、上段は直径18m、高さ5mと大型。一方、キトラ古墳は上段の高さは2.4m、下段の高さは約90cmと非常に小さいもの。 とはいえ、高松塚古墳はなだらかな丘の上にあり、キトラ古墳は小高い丘の上にあることから、なんとなくキトラ古墳のほうが大きく見えるという不思議。 世界遺産マニアの結論と感想 この2つは近くにあることから似ている箇所があるものの、壁画の内容や古墳の大きさなど、細かい点が異なっています。とはいえ、この2つは同時代に造られたものと予測されているだけに基本的には類似点が多いと言えるでしょう。ややこしいので、飛鳥美人があるほうが高松塚古墳で、ないほうがキトラ古墳と覚えるのがわかりやすいかも。
高松塚古墳とキトラ古墳の大きさの違いについて説明してください。
高松塚古墳は二段式の円墳で、下段は直径23m、上段は直径18m、高さ5mと大型である。 キトラ古墳は二段式の円墳で、上段の高さは2.4m、下段の高さは約90cmと非常に小さいものである。しかし、キトラ古墳は小高い丘の上にあることから、キトラ古墳のほうが大きく見える。
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歴史
歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれている人物は、司馬懿である。 曹爽との対立が深まり… 曹叡の死後、司馬懿は曹真の長男・曹爽とともに次の皇帝である曹芳の補佐を託されます。権力を独占しようとする曹爽により名誉職の太傅に転任させられた司馬懿でしたが、当初は大きな問題は起こりませんでした。しかし正始5年(244)の蜀漢出兵で曹爽が多大な犠牲を出すと、もともと失敗を予見していた司馬懿は曹爽と対立するようになります。そしてその後は、ことあるごとに曹爽一派と衝突するようになったのです。 演技でだましクーデターを起こす 曹爽との対立が表面化すると、司馬懿は70歳近い高齢と病気を理由にして、引退したかのような演技を始めます。曹爽は司馬懿を警戒しましたが、わざと言葉を聞き間違えたり薬をこぼしたりして、騙し通すことに成功。正始10年(249)曹爽が洛陽を留守にすると、司馬懿はここぞとばかりにクーデターを起こしたのです。司馬懿は曹爽を降伏させ、本人とその一族を監視下において軟禁。最後には謀反を企んだとして一族郎党皆殺しにしました。 孫の司馬炎が西晋を建国 こうして司馬懿は魏の全権を握りましたが、その2年後に死去してしまいます。その後、孫の司馬炎が魏から禅譲を受けて皇帝となり、司馬懿は高祖宣帝の諡号(死後に送られる名前)を得ました。司馬懿は息子達に、自分が死んだら慎重に行動してうまく国を治めるよう告げています。これは、常に謀反を疑われながら生きてきた司馬懿ならではの言葉でした。 恐るべき司馬懿の人物像とは? 諸葛亮のライバルといわれる司馬懿は、どのような人物だったのでしょうか。人物像がわかるエピソードを2つご紹介します。 権謀術数に長けていた 司馬懿は猜疑心が強く、嫌悪する相手にも表向きは寛大に振舞うなど、臨機応変に切り抜ける才能がありました。曹操は司馬懿の性格を見抜いており、曹丕にも「司馬懿は臣下の身分にとどまる人物ではないから、お前にとって代わるだろう」と忠告しています。この言葉通り、権謀術数に長けた司馬懿によって魏は滅ぼされました。 トランプではジョーカーに! 中国で販売されている三国演義トランプでは、司馬懿は諸葛亮とともにジョーカーとして描かれています。中国では、小説『三国志演義』の諸葛亮のライバルとして、曹操に次ぐ知名度をもつようです。実際には軍師ではなかった司馬懿ですが、諸葛亮と同じくらい策略に長けていたのでしょう。 「狼顧の相」をもつ男 曹操は司馬懿の能力を認めながらもその野心に感づき警戒していました。しかし曹丕は司馬懿と親しく、さらには重用したため、最終的には国を滅ぼされることになったのです。 相手の裏をかいて一世一代のクーデターを成功させた司馬懿には厳しい意見もありますが、その巧みな人生を振り返ると、まさに諸葛亮と並ぶジョーカーのような人物だったといえるでしょう。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、何の隙を突いてクーデターを起こしたか。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、曹爽が洛陽を留守にした隙を突いてクーデターを起こした。
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歴史
この日、両将は木留の本営にいたのだが、急を聞いて部下を三・四百を率い、急いで来て、吉次越の絶頂の凹んだ処に木と草とたちまち即席のバンガローを造って、悠々と尻を落ちつけて、指揮したという。最初、篠原が乗り込んで来た時は、官軍の追及が急なので、薩兵が少し浮足だっているのを、篠原は大刀を揮ってこれを叱咤した。次いで単身、ゆるやかな足取りで来たのが村田である。薩軍やや元気を回復したものの、まだ危倶の念が去らないので、村田の姿を見ると、「退却で御座いますか」と問う者がいる。村田嘲笑って曰く、「ここはひとつ官軍の奴ら共を、この狭塞の地に引き入れて、鏖にして見せるかな」と。容易に抜く事が出来なかったのももっともである。別府晋介はまた、別路から、小天街道に赴いて海岸線を守ったが、この日、朝の十時から昼の三時に至る間激戦少しも止まず、官軍と薩軍の死傷者の数はお互い匹敵したという。 それでも、官軍は境木まで前進することができている。田原坂はもう、この境木の目の前にある。田原坂の血戦の幕が、切って落とされたのは間も無くである。 当時東京日日の新聞社長であった福地源一郎氏が、従軍記者として、田原坂戦闘の模様を通信していた。その中に田原坂の要害を報じて、 「坂は急上りの長い坂で、半腹の屈曲をなし、坂の両側は皆谷で谷の内の両側は切り崖、樹木が茂っている。この険の突角の所を撰びて、賊は砲塁を二重にも三重にも構え、土俵が間に合わなくて、百姓共が囲み置く粟麦などを俵のまま用いている程なり」 大体その険要の地であることがわかると思う。 三月四日に、第一回の田原坂攻撃が始まる。前夜、まず、山鹿南関の間の要衝に兵を派して厳戒せしめた。これは薩軍が迂回して背後を衝くのをおもんぱかったからである。その後、第二旅団の全部と、第一旅団の一部を本軍として、正面から攻撃することになり、第一旅団の残部は二俣を目指すことになった。本軍の先鋒青木大尉は、率先して進み、第一塁を陥れて勇躍更に坂を上るが、薩軍の弾丸は雨の様に降りそそぎ、午後の三時になっても占領する事が出来ないので退却した。坂の麓で督戦して居た野津少将は、再度の突撃を決意して、将士と共に決死の酒を酌んで鼓舞した。折しも、時ならぬ雷雨が襲って、鬱然たる山峡は益々暗い。天の時なりと考えた少将は、進軍ラッパを吹かし、突進させた。しかし敵の弾は雨よりも激しくて、いたずらに多くの死傷を出して終わった。この時の戦で、谷村計介も戦死したのである。計介は始め、第十三連隊長心得、川村操六少佐の旗下で、熊本籠城の一人であった。殊死して守城する決心した谷少将は、何とかして守城の方略を官軍の本営に伝えたいと思った。そこで川村少佐に相談したところ、少佐は計介の人となりを知っていたから、この重大任務遂行の使者として、彼を少将に推薦した。計介は任務が重大であって、その任でないと固辞したが、一度引き受けるや、死をもって遂げる事を誓った。顔から手足まで、煤を塗って人相を変え、夜陰に乗じて城を抜け出し、南関へ行こうとして、たちまちに捕えられた。しかし必死の計介は、監視の薩兵が居眠りして居る隙に、爪で縄を断ち切って逃れた。この辺一帯、薩軍の眼が光っているので、風の声にも心を許さず、やっと吉次山中まで潜り込んだ所を、再び捕えられた。異様な風体で、山中を徘徊していたものだから、てっきり官軍のスパイと目星を指されて、拷問された。百回は棒で殴られ、百五十回は蹴られ、計介苦痛を忍びながら、偽りの臆病な百姓の風を装ったので、幸い間諜の疑いは晴らされたが、その代わり人夫として酷使される事になった。西南の役始終を通じて、官薩両軍ともに、戦闘員の外に、非常に多くの人夫を使役した。ただでは計介も許されなかったわけである。しかしここでも、うまく敵の目をかすめて、ようやく官軍の戦線に到達すると、今度は官軍の歩哨に捕らえられた。勇んで縛られて、野津少将の前に引き出される時は、ものもいい得ずして、汚れた頬に涙が伝るのをいかんともし難かったという。
谷村計介が拷問にあった際、受けた数が少なかったものを教えてください。
谷村計介が拷問にあった際、受けた数が少なかったものは百回棒で殴られた事です。
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歴史
屋久杉とは? 屋久島の中央部にある山岳エリアにあり、標高600〜1800mに多く分布するスギのこと。もともと屋久島は花崗岩の地盤であるために土に栄養素が少なく、スギは成長が遅くなる傾向にありますが、その分、樹脂が多くなっていて、これが防腐・防虫効果へと繋がり、長寿になるという仕組み。そして、倒木しても切り株更新が起こり、また再生するので、屋久島独特の生態がそのまま保たれてきました。 そもそも世界遺産は不動産を対象としているので、すべての屋久杉が世界遺産に登録されているわけではなく、あくまでも島の中央部から西部にかけての核心地域(コアゾーン)に自生しているものだけが登録。 縄文杉 屋久島のほぼ中央部にあるスギで、屋久島最大の大きさを誇り、少なくとも樹齢2000年以上であるとされることで有名。1966年に発見され、当初の樹齢は4000年以上と推測されるも、1976年の調査では7000年以上になるという可能性もあることから話題になりました。本当の樹齢は諸説あるものの、かなり古い時期から存在するスギであることは間違いありません。 樹高は30mあり、周囲の木々から比べても巨大で、縄文時代から存在すると考えられることから縄文杉と呼ばれるというのが定説ですが、長い年月をかけて幹がいくつもうねっている外観から縄文土器に見えるということで「縄文」と名付けられた説もあるほど。
屋久杉と縄文杉の違いについて説明してください。
屋久杉は屋久島の中央部にある山岳エリアにあり、標高600〜1800mに多く分布するスギのことである。 縄文杉は屋久島のほぼ中央部にあるスギで、屋久島最大の大きさを誇り、少なくとも樹齢2000年以上であるとされる。本当の樹齢は諸説あるものの、かなり古い時期から存在するスギであることは間違いない。
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歴史
歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれている人物は、司馬懿である。 曹爽との対立が深まり… 曹叡の死後、司馬懿は曹真の長男・曹爽とともに次の皇帝である曹芳の補佐を託されます。権力を独占しようとする曹爽により名誉職の太傅に転任させられた司馬懿でしたが、当初は大きな問題は起こりませんでした。しかし正始5年(244)の蜀漢出兵で曹爽が多大な犠牲を出すと、もともと失敗を予見していた司馬懿は曹爽と対立するようになります。そしてその後は、ことあるごとに曹爽一派と衝突するようになったのです。 演技でだましクーデターを起こす 曹爽との対立が表面化すると、司馬懿は70歳近い高齢と病気を理由にして、引退したかのような演技を始めます。曹爽は司馬懿を警戒しましたが、わざと言葉を聞き間違えたり薬をこぼしたりして、騙し通すことに成功。正始10年(249)曹爽が洛陽を留守にすると、司馬懿はここぞとばかりにクーデターを起こしたのです。司馬懿は曹爽を降伏させ、本人とその一族を監視下において軟禁。最後には謀反を企んだとして一族郎党皆殺しにしました。 孫の司馬炎が西晋を建国 こうして司馬懿は魏の全権を握りましたが、その2年後に死去してしまいます。その後、孫の司馬炎が魏から禅譲を受けて皇帝となり、司馬懿は高祖宣帝の諡号(死後に送られる名前)を得ました。司馬懿は息子達に、自分が死んだら慎重に行動してうまく国を治めるよう告げています。これは、常に謀反を疑われながら生きてきた司馬懿ならではの言葉でした。 恐るべき司馬懿の人物像とは? 諸葛亮のライバルといわれる司馬懿は、どのような人物だったのでしょうか。人物像がわかるエピソードを2つご紹介します。 権謀術数に長けていた 司馬懿は猜疑心が強く、嫌悪する相手にも表向きは寛大に振舞うなど、臨機応変に切り抜ける才能がありました。曹操は司馬懿の性格を見抜いており、曹丕にも「司馬懿は臣下の身分にとどまる人物ではないから、お前にとって代わるだろう」と忠告しています。この言葉通り、権謀術数に長けた司馬懿によって魏は滅ぼされました。 トランプではジョーカーに! 中国で販売されている三国演義トランプでは、司馬懿は諸葛亮とともにジョーカーとして描かれています。中国では、小説『三国志演義』の諸葛亮のライバルとして、曹操に次ぐ知名度をもつようです。実際には軍師ではなかった司馬懿ですが、諸葛亮と同じくらい策略に長けていたのでしょう。 「狼顧の相」をもつ男 曹操は司馬懿の能力を認めながらもその野心に感づき警戒していました。しかし曹丕は司馬懿と親しく、さらには重用したため、最終的には国を滅ぼされることになったのです。 相手の裏をかいて一世一代のクーデターを成功させた司馬懿には厳しい意見もありますが、その巧みな人生を振り返ると、まさに諸葛亮と並ぶジョーカーのような人物だったといえるでしょう。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、誰に重用されたか。
諸葛亮のライバルといわれる人物は、曹操の子・曹丕に重用された。
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歴史
官軍の第一次の正攻が敗れたように、二俣に向かった軍もまた敗れた。本軍の奮戦と共に、吉次越攻撃の別軍二個大隊半は、野津大佐(道貫という、野津鎮雄少将の弟)に率いられて、立岩の丘を攻めた。薩軍は、砲を山頂に設け、銃隊を山腹の深林中に隠して、射撃する。絶頂で篠原と共に指揮して居た薩将村田は、「両翼を張って挾み撃ちしてやろう」といって軍を二分し、一は半高山の絶頂から、一は三ノ嶽の中腹から、左右の翼を張ったた。 官軍は見事に術中に陥入して算を乱して倒れる。時機はよしと、午後一時頃薩軍は突出して殺到した。掩護物の作業をして居た官軍の工兵は、その不意に驚いた為、周章は全軍に及んだので、ついに退却せざるを得なくなった。原倉、伊倉に一大隊を置き、あとは悉く高瀬まで退いたのが午後六時である。この日猛烈な戦闘で昼食をとる暇がなかった。指揮官の野津大佐は、敵の銃弾を、一発は革帯に、二発は軍刀に受けた程である。薩軍の勝利ではあったが、篠原がこの戦で死んだ事は、薩軍の士気に関するもので大打撃であった。この日、篠原国幹は、外套の上に銀かざりの太刀を帯び、自ら刀を揮って指揮したのだが、官軍の江田少佐がその顔を知っていて、狙撃させて倒したのであった。 その江田少佐も顔に三発、体に四発、頭に一発、銃弾を浴びて戦死している。 越えて六日には、早朝から、田原坂、二俣を攻撃したが、一進一退、容易にこれを抜く事が出来ない。高瀬にいる野津大佐は、四十数名の選抜隊をして夜六時、二俣口の船底山の丘を、間道から襲撃させた。これは成功して隊長本多中尉は、敵塁に火を放って占領を報じて、更に背後の丘を突かんとしたが、薩軍の抜刀して襲来すること三回に及んで、果たすことが出来なかった。薩軍では抜刀隊を組織している事がわかったので、官軍もこれに応じて、別働狙撃隊を新たに編成した。
指揮官の野津大佐が敵の銃弾を受けたときに、多く受けた場所を教えてください。
指揮官の野津大佐が敵の銃弾を受けたときに、多く受けた場所は軍刀で二発です。