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歴史
歴史が映像で書かれ、読まれる。そのような歴史、つまり自らが写真や映画のような映像媒体によって撮られ、観られる歴史が始まったのは、無論19世紀以降のことである。それは、長い人類の歴史でみるならば、せいせいここ200年ほどのことに過ぎない。それよりもはるかに長い時間、歴史は文字で書かれ、読まれてきた。文字で書かれる歴史とは、もちろん歴史書だけではない。様々な記録が石碑や竹簡、パピルスや羊皮紙、それに紙に文字で刻まれてきた。歴史とは、多くがそうして書かれた記録の巨大な集積体である。だから、その歴史が文字だけでなく映像媒体でも書かれ、読まれるようになったことは、歴史の成立するパラダイムの基底的な転換である。文字は、筆やペンと紙との関係のなかで書かれてきた。映像による歴史は、カメラと被写体の間に書かれることになる。そこで決定的に重要なことは、その映像が、いつ、どこで、何に照準して、どのような角度から撮られたのかという点であり、また誰によって撮られたのかという点である。そして21世紀初頭、ここにさらにデジタルという新しい記憶技術が加わる。デジタル以前の映像は、写真も映画も基本的にフィルムであり、テレビの特異性はその記録技術によるというよりも伝播技術、つまり無数の大衆に対する同時的な送信にあった。アナログ的な視覚情報の集積体としてのフィルムは、デジタル化を通じてその可塑性や編集可能性が劇的に拡大した。同時に記録され得る情報量がほぼ無限となってしまった。
文字は、筆やペンと何との関係のなかで書かれてきたでしょうか。
文字は、筆やペンと紙との関係のなかで書かれてきました。
JCRRAG_002702
歴史
歴史が映像で書かれ、読まれる。そのような歴史、つまり自らが写真や映画のような映像媒体によって撮られ、観られる歴史が始まったのは、無論19世紀以降のことである。それは、長い人類の歴史でみるならば、せいせいここ200年ほどのことに過ぎない。それよりもはるかに長い時間、歴史は文字で書かれ、読まれてきた。文字で書かれる歴史とは、もちろん歴史書だけではない。様々な記録が石碑や竹簡、パピルスや羊皮紙、それに紙に文字で刻まれてきた。歴史とは、多くがそうして書かれた記録の巨大な集積体である。だから、その歴史が文字だけでなく映像媒体でも書かれ、読まれるようになったことは、歴史の成立するパラダイムの基底的な転換である。文字は、筆やペンと紙との関係のなかで書かれてきた。映像による歴史は、カメラと被写体の間に書かれることになる。そこで決定的に重要なことは、その映像が、いつ、どこで、何に照準して、どのような角度から撮られたのかという点であり、また誰によって撮られたのかという点である。そして21世紀初頭、ここにさらにデジタルという新しい記憶技術が加わる。デジタル以前の映像は、写真も映画も基本的にフィルムであり、テレビの特異性はその記録技術によるというよりも伝播技術、つまり無数の大衆に対する同時的な送信にあった。アナログ的な視覚情報の集積体としてのフィルムは、デジタル化を通じてその可塑性や編集可能性が劇的に拡大した。同時に記録され得る情報量がほぼ無限となってしまった。
映像による歴史に、デジタルという新しい記憶技術が加わったのは、何世紀の初頭でしょうか。
映像による歴史に、デジタルという新しい記憶技術が加わったのは、21世紀初頭です。
JCRRAG_002703
歴史
歴史が映像で書かれ、読まれる。そのような歴史、つまり自らが写真や映画のような映像媒体によって撮られ、観られる歴史が始まったのは、無論19世紀以降のことである。それは、長い人類の歴史でみるならば、せいせいここ200年ほどのことに過ぎない。それよりもはるかに長い時間、歴史は文字で書かれ、読まれてきた。文字で書かれる歴史とは、もちろん歴史書だけではない。様々な記録が石碑や竹簡、パピルスや羊皮紙、それに紙に文字で刻まれてきた。歴史とは、多くがそうして書かれた記録の巨大な集積体である。だから、その歴史が文字だけでなく映像媒体でも書かれ、読まれるようになったことは、歴史の成立するパラダイムの基底的な転換である。文字は、筆やペンと紙との関係のなかで書かれてきた。映像による歴史は、カメラと被写体の間に書かれることになる。そこで決定的に重要なことは、その映像が、いつ、どこで、何に照準して、どのような角度から撮られたのかという点であり、また誰によって撮られたのかという点である。そして21世紀初頭、ここにさらにデジタルという新しい記憶技術が加わる。デジタル以前の映像は、写真も映画も基本的にフィルムであり、テレビの特異性はその記録技術によるというよりも伝播技術、つまり無数の大衆に対する同時的な送信にあった。アナログ的な視覚情報の集積体としてのフィルムは、デジタル化を通じてその可塑性や編集可能性が劇的に拡大した。同時に記録され得る情報量がほぼ無限となってしまった。
デジタル以前の映像は、写真も映画も基本的に何であったでしょうか。
デジタル以前の映像は、写真も映画も基本的にフィルムでした。
JCRRAG_002704
歴史
歴史が映像で書かれ、読まれる。そのような歴史、つまり自らが写真や映画のような映像媒体によって撮られ、観られる歴史が始まったのは、無論19世紀以降のことである。それは、長い人類の歴史でみるならば、せいせいここ200年ほどのことに過ぎない。それよりもはるかに長い時間、歴史は文字で書かれ、読まれてきた。文字で書かれる歴史とは、もちろん歴史書だけではない。様々な記録が石碑や竹簡、パピルスや羊皮紙、それに紙に文字で刻まれてきた。歴史とは、多くがそうして書かれた記録の巨大な集積体である。だから、その歴史が文字だけでなく映像媒体でも書かれ、読まれるようになったことは、歴史の成立するパラダイムの基底的な転換である。文字は、筆やペンと紙との関係のなかで書かれてきた。映像による歴史は、カメラと被写体の間に書かれることになる。そこで決定的に重要なことは、その映像が、いつ、どこで、何に照準して、どのような角度から撮られたのかという点であり、また誰によって撮られたのかという点である。そして21世紀初頭、ここにさらにデジタルという新しい記憶技術が加わる。デジタル以前の映像は、写真も映画も基本的にフィルムであり、テレビの特異性はその記録技術によるというよりも伝播技術、つまり無数の大衆に対する同時的な送信にあった。アナログ的な視覚情報の集積体としてのフィルムは、デジタル化を通じてその可塑性や編集可能性が劇的に拡大した。同時に記録され得る情報量がほぼ無限となってしまった。
歴史、つまり自らが写真や映画のような映像媒体によって撮られ、観られる歴史が始まったのは、何世紀以降のことでしょうか。
観られる歴史が始まったのは、19世紀以降のことです。
JCRRAG_002705
歴史
インダス文明古環境研究グループ エジプト、メソポタミア、インダス、中国の世界四大古代文明は、人類が自然環境に適応しながら集約的に生存する空間をうみだしてきた結果であるが、けっして一様ではなく、地域性を持っていることが知られている。とりわけ、インダス文明はメソポタミア文明やエジプト文明と異なり、都市文明期が約700年とあまり長く続かなかったことがわかっており、その原因の一つに環境変化があげられている。本研究の目的は、考古学的な調査を基にしたインダス文明全体像に関する資料をもとに、インダス文明が栄えた時代である完新世後期の自然災害、気候変化、地形変化、水文環境変化などを明らかにしながら、それらの相互関係を考察し、環境が人類にあたえる影響についてモデル化を試みることにある。本発表では、本研究グループがすすめている研究テーマと概要について、いくつかの事例を具体的に紹介しながら、これまでの調査で得られた予察的な研究成果を示す予定である。
インダス文明の都市文明期があまり長く続かなかった原因は何ですか。
インダス文明の都市文明期があまり長く続かなかった原因として環境変化があげられます。
JCRRAG_002706
歴史
「鎌倉」が源頼朝に選ばれた理由 では、江戸幕府滅亡まで約680年間も続いた武家政権の幕を開けた源頼朝が、「鎌倉」という地を幕府を開く場所として選んだ理由を具体的に見ていきましょう。 1.敵が攻めにくい地形 鎌倉は北・東・西の三方を山・丘に囲まれており、南には相模湾が広がっている地形です。このような地形は守りやすく攻めにくい地形であると言えます。源頼朝が鎌倉を根拠地とした当時は平氏との戦いが多い時期でしたので、平氏に攻め込まれた場合を想定して自身の本拠地の防御を整える必要性がありました。その点、鎌倉の地形は自然の要塞となっていたので源頼朝にとってとても都合が良かったのです。鎌倉の地は歴史の教科書では「天然の要害地」と表現されることがあります。また、この土地は、元々源頼朝の先祖の土地であったことから縁のある土地でした。地形から考えると源頼朝にとって好都合であった点は具体的には以下の通りになります。 高い場所から敵を見渡すことができる。 複雑な地形を利用して待ち伏せをして弓矢を放ったり、攻撃がしやすい。 険しい山や丘陵があり、敵の軍隊の体力を減らす事ができた。 敵方にとって体力の回復に使う食料の補充をするには困難な地であった。 敵にとって不利になるような道を作りやすい。 山が急なので斜面を馬が通りにくい。 鎌倉の中心を流れる滑川を利用することで、生活用水や農業用水、木材を運搬する物資輸送に便利であった。 2.東海道に近いことは交流にとって主要な場所 また、鎌倉という地は東海道に近く交通、商業、軍事などの面から重要な交流地点でもありました。当時、山を最小限だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作ったとされていますが、江戸時代には東海道は天下の街道として賑わいをみせました。このことは、現在は国道1号線が東海道に沿って開通している様子からも想像できるでしょう。 3.関東の武士の想いを汲んだ源頼朝 関東の武士の願いは「朝廷の干渉を受けたくない」という想い。その想いを汲んで、源頼朝は朝廷のある都「京都」ではなく、離れた土地、関東で幕府を開きました。武士の想いとは、具体的には以下のような内容だと考えられます。 自分の領地や新たに得た領地を認めてもらい、守り続けることができる。 朝廷の役人に過剰な徴税をされないこと。 貴族の護衛など無益な徴兵をされないこと。 働いた分の正当な見返りをもらうことができる。 頼朝は、この武士の望みを、次々と実行していきました。 4.京都から離れることが目的だった 源頼朝が鎌倉に幕府をひらいた理由として、京都から離れることが目的であったとする説もあります。その理由は主に以下の3つが考えられます。 京都には朝廷があるので源氏の敵が近くにいる可能性が高かった。 京都では寺院が政治に関わっていたため、源頼朝の政治にも口出ししかねなかった。 平氏がそうであったように、武士が貴族化して衰退してしまうことを恐れた。
この土地は元々誰の土地でしたか。
この土地は元々源頼朝の先祖の土地でした。
JCRRAG_002707
歴史
大和朝廷と邪馬台国って何か関係あるの?と授業を受けてなった人もいるかと思います。実は大和朝廷と邪馬台国の関係も、歴史書が中国にしか存在していないため、ちゃんとしたことは明らかになっていません。そのため、2つの国の関係には、いろんな説が出ています。大和朝廷を開いたのは、邪馬台国出身の豪族であるという説があります。邪馬台国は、九州と近畿(きんき)地方(大坂・京都・奈良周辺)のどちらかにあったという説が有力となっています。大和朝廷があったとされるのは、奈良県を中心とした近畿地方とされていることから、邪馬台国がもし近畿地方にあったとしたら、大いに考えられる説ですよね。一方では、大和朝廷が勢力拡大の際に、邪馬台国を征服(せいふく)したという説もあります。さきほど、邪馬台国は九州と近畿地方のどちらかにあったと考えられているお話をしました。これは、もし大和朝廷が西日本に領土を広げるために邪馬台国を攻撃したとするならば、邪馬台国は大和朝廷にほろぼされたという説です。中国の歴史書によれば、邪馬台国にいた女王・卑弥呼(ひみこ)がなくなったのは240年から249年ごろとされています。そのあとに、男性の王が即位したものの、政権が乱れ、新たな女王が誕生したところ、争いがおさまったとされています。邪馬台国が歴史書に残っているのはここまでで、その後どうなったかは定かではありません。しかし、3世紀になると、大和朝廷のシンボルといえる大きな古墳が登場し、592年には飛鳥時代がスタート。飛鳥時代に入ると、仏教の影響もあって、古墳が見られなくなりました。新たな女王が即位した後から、古墳が現れるまでの空白はに何が起きたかは、今もわかりません。ここがはっきりすれば、大和朝廷と邪馬台国との関係もハッキリするでしょう。
飛鳥時代に古墳が見られなくなったのは、何の影響があったからですか。
飛鳥時代に古墳が見られなくなったのは、仏教の影響があったからです。
JCRRAG_002708
歴史
鎌倉時代の文学の特色 鎌倉時代は武家が力を持ち始めたこともあり、軍記物語が流行りでした。しかし公家は武家が活躍する軍記物に対抗する傾向にあり、反発心から優れた和歌集がではじめます。鎌倉時代の文学の特徴は仏教の中核教義の無常観です。無常観のある物語といえば、冒頭の諸行無常で知られる「平家物語」があげられます。鎌倉時代後期になると、公家で親しまれた和歌が庶民や僧侶の中で流行していきます。この和歌が公家が親しんだ和歌と違うのは、数人で和歌を繋げていく連歌というものです。ほかには鎌倉幕府によってつくられた歴史文学「吾妻鏡」、日記・紀行文学では「十六夜日記」「東関紀行」などがあります。「徒然草」も鎌倉時代の随筆としてとても有名です。 鎌倉時代の絵画の特色 鎌倉時代の絵画の代表的なものは、平安時代から続く絵巻ものです。絵巻とは、横長の紙などを水平方向に繋げ風景や物語を連続して描いたものです。内容としては仏教の説話や合戦を題材にしたものですが、鎌倉時代の絵巻物の最大の特徴は、人物の肖像画がではじめたことです。合戦絵巻の代表といえるのが、肥後国の武士であった竹崎季長が自身の活躍を遺し伝えたいために描かせたといわれる「蒙古襲来絵詞」です。
誰が軍記物に対抗する傾向にありましたか。
公家が軍記物に対抗する傾向にありました。
JCRRAG_002709
歴史
本書は、今世紀フランスから生じた歴史学における重要な潮流であり、人文、社会諸科学に大きな影響を与えた『アナール』学派について、著者が諸雑誌で発表したものをまとめたものである。アナール学派を論じたものは数多いが、本書はその誕生から今日まで、総括的に論じられ、他の分野の者でもかなり分かりやすく書かれている。『アナール』の創始者であるリュシアン・フェーブルとマルク・ブロックが、フランスの地理学者ヴィダル≡ド=ラ=ブラーシュから多くを学びとっていることは周知の事実であるが(野澤、1985)、単にそれらの結びつきを論じるのではなく、こうして地理学から生じたといっても過言ではないアナール学派の成功から今日の地理学に取り入れられるものはないであろうか、と本書を通して考えてみたい。 本書の構成は以下の通りである。 第1章 「アナール」の誕生 第2章 ブローデルとブローデルの世界 第3章 物価史とエルネスト・ラブルース 第4章 時系列史の課題と動向 第5章 歴史人口学の諸問題 第6章 心性史と歴史人類学 第7章 『アナール』学派と社会史
『アナール』の創始者は誰ですか。
『アナール』の創始者はリュシアン・フェーブルとマルク・ブロックです。
JCRRAG_002710
歴史
鎌倉時代の文学の特色 鎌倉時代は武家が力を持ち始めたこともあり、軍記物語が流行りでした。しかし公家は武家が活躍する軍記物に対抗する傾向にあり、反発心から優れた和歌集がではじめます。鎌倉時代の文学の特徴は仏教の中核教義の無常観です。無常観のある物語といえば、冒頭の諸行無常で知られる「平家物語」があげられます。鎌倉時代後期になると、公家で親しまれた和歌が庶民や僧侶の中で流行していきます。この和歌が公家が親しんだ和歌と違うのは、数人で和歌を繋げていく連歌というものです。ほかには鎌倉幕府によってつくられた歴史文学「吾妻鏡」、日記・紀行文学では「十六夜日記」「東関紀行」などがあります。「徒然草」も鎌倉時代の随筆としてとても有名です。 鎌倉時代の絵画の特色 鎌倉時代の絵画の代表的なものは、平安時代から続く絵巻ものです。絵巻とは、横長の紙などを水平方向に繋げ風景や物語を連続して描いたものです。内容としては仏教の説話や合戦を題材にしたものですが、鎌倉時代の絵巻物の最大の特徴は、人物の肖像画がではじめたことです。合戦絵巻の代表といえるのが、肥後国の武士であった竹崎季長が自身の活躍を遺し伝えたいために描かせたといわれる「蒙古襲来絵詞」です。
鎌倉時代の文学の特徴はどのようなものですか。
鎌倉時代の文学の特徴は仏教の中核教義の無常観です。
JCRRAG_002711
歴史
飛鳥時代中期、天皇を頂点とする中央集権国家を作るため、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏を乙巳の変で滅ぼすと、大化の改新を行っていきました。 その大化の改新の方針を4か条で掲げたものが「改新の詔」です。 それぞれの条文で1条は公地公民制、2条は国郡制、3条は班田制、4条は税制についての記載がされています。 これら条文は、律令国家となる1歩であり、のちに律令国家完成となる大宝律令につながるものとなっていくのです。 政治のカリスマであった聖徳太子が亡くなったあと、豪族である蘇我氏親子(父:蘇我蝦夷、子:蘇我入鹿)に権力が集中し、専制的な政治を行うようになっていました。 蘇我氏の政治をよく思っていなかった中大兄皇子と中臣鎌足は、645年にクーデター(乙巳の変)を起こし、子蘇我入鹿を暗殺。父蘇我蝦夷を自殺に追い込むことに成功しました。 これにより蘇我氏は滅び、中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇を頂点とする中央集権体制を目指していました。 そして、乙巳の変後に中大兄皇子と中臣鎌足らが行った中央集権国家へのそれぞれの政策をまとめて大化の改新といいます。 乙巳の変の後、孝徳天皇が即位し新政権が樹立しました。 さらに都を難波長柄豊碕宮に移し、どんどんと律令国家政策を進めていきました。 そしてついに、大化の改新の基本方針として646年に「改新の詔(かいしんのみことのり)」が出されたのです。
中大兄皇子と中臣鎌足が目指したものは何ですか。
中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇を頂点とする中央集権体制を目指していました。
JCRRAG_002712
歴史
4平清盛と日宋貿易 清盛は1158年に大宰大弐(だざいだいに)となるなど日宋貿易と深い関わりを持ち続け、1168年に出家すると福原を拠点として厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に注力しました。1173年には日本初の人工港となる大輪田泊(おおわだのとまり)の改修に着手し、私財を投じた難工事は二年後に完成します。他には、瀬戸内航路の備前国牛窓や備後国柄・尾道などが整備され、広島県呉市と倉橋島を隔てる海峡である音戸(おんど)の瀬戸を開削しました。清盛が宋船を兵庫まで招き入れたことは、大宰府の干渉を排し利益を大きくする意図がありましたが、瀬戸内航路の整備や沿岸の地域に大きな影響をもたらします。地域を活性化させながら、西国における支配力強化につなげています。 日宋貿易の輸出入品とその影響 1日本の輸入品 宋銭・陶磁器・香料・薬品・書籍・茶・高級織物・文具・木綿 日本では皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)という銅銭がありましたが、12世紀後半より宋銭の流通が本格化します。経済活動を一般化させる出来事となりますが、一方でそれまでの基準となっていた絹の価値が下げ、朝廷財政を圧迫することにつながり朝廷との確執は大きくなりました。
日本では何という銅銭がありましたか。
日本では皇朝十二銭という銅銭がありました。
JCRRAG_002713
歴史
歴史が映像で書かれ、読まれる。そのような歴史、つまり自らが写真や映画のような映像媒体によって撮られ、観られる歴史が始まったのは、無論19世紀以降のことである。それは、長い人類の歴史でみるならば、せいせいここ200年ほどのことに過ぎない。それよりもはるかに長い時間、歴史は文字で書かれ、読まれてきた。文字で書かれる歴史とは、もちろん歴史書だけではない。様々な記録が石碑や竹簡、パピルスや羊皮紙、それに紙に文字で刻まれてきた。歴史とは、多くがそうして書かれた記録の巨大な集積体である。だから、その歴史が文字だけでなく映像媒体でも書かれ、読まれるようになったことは、歴史の成立するパラダイムの基底的な転換である。文字は、筆やペンと紙との関係のなかで書かれてきた。映像による歴史は、カメラと被写体の間に書かれることになる。そこで決定的に重要なことは、その映像が、いつ、どこで、何に照準して、どのような角度から撮られたのかという点であり、また誰によって撮られたのかという点である。そして21世紀初頭、ここにさらにデジタルという新しい記憶技術が加わる。デジタル以前の映像は、写真も映画も基本的にフィルムであり、テレビの特異性はその記録技術によるというよりも伝播技術、つまり無数の大衆に対する同時的な送信にあった。アナログ的な視覚情報の集積体としてのフィルムは、デジタル化を通じてその可塑性や編集可能性が劇的に拡大した。同時に記録され得る情報量がほぼ無限となってしまった。
歴史が文字だけでなく映像媒体でも書かれ、読まれるようになったことは、何の基底的な転換ですか。
歴史が文字だけでなく映像媒体でも書かれ、読まれるようになったことは、歴史の成立するパラダイムの基底的な転換です。
JCRRAG_002714
歴史
大和朝廷と邪馬台国って何か関係あるの?と授業を受けてなった人もいるかと思います。実は大和朝廷と邪馬台国の関係も、歴史書が中国にしか存在していないため、ちゃんとしたことは明らかになっていません。そのため、2つの国の関係には、いろんな説が出ています。大和朝廷を開いたのは、邪馬台国出身の豪族であるという説があります。邪馬台国は、九州と近畿(きんき)地方(大坂・京都・奈良周辺)のどちらかにあったという説が有力となっています。大和朝廷があったとされるのは、奈良県を中心とした近畿地方とされていることから、邪馬台国がもし近畿地方にあったとしたら、大いに考えられる説ですよね。一方では、大和朝廷が勢力拡大の際に、邪馬台国を征服(せいふく)したという説もあります。さきほど、邪馬台国は九州と近畿地方のどちらかにあったと考えられているお話をしました。これは、もし大和朝廷が西日本に領土を広げるために邪馬台国を攻撃したとするならば、邪馬台国は大和朝廷にほろぼされたという説です。中国の歴史書によれば、邪馬台国にいた女王・卑弥呼(ひみこ)がなくなったのは240年から249年ごろとされています。そのあとに、男性の王が即位したものの、政権が乱れ、新たな女王が誕生したところ、争いがおさまったとされています。邪馬台国が歴史書に残っているのはここまでで、その後どうなったかは定かではありません。しかし、3世紀になると、大和朝廷のシンボルといえる大きな古墳が登場し、592年には飛鳥時代がスタート。飛鳥時代に入ると、仏教の影響もあって、古墳が見られなくなりました。新たな女王が即位した後から、古墳が現れるまでの空白はに何が起きたかは、今もわかりません。ここがはっきりすれば、大和朝廷と邪馬台国との関係もハッキリするでしょう。
大和朝廷を開いたのは、邪馬台国出身の何であるという説がありますか。
大和朝廷を開いたのは、邪馬台国出身の豪族であるという説があります。
JCRRAG_002715
歴史
なぜ古墳は大きくなったのか? きっかけは、弥生時代から古墳時代にかけての戦乱だとされています。弥生時代から古墳時代の間は、地方の小国同士の争いが絶えませんでした。これをあの「魏志倭人伝」では、倭国大乱(わこくたいらん)と呼んでいました。しかし、この大乱を治めるべく、女性の王・卑弥呼が頂点に立つと平和な時代が訪れ、死後に男性の王が立つと戦乱が続き、さらに卑弥呼の血縁である台与(とよ)が王位を引き継いだら平和になる、というジンクス的な事象が起きていました。しかし、卑弥呼が王位に就く前の倭国大乱と死後に起きた争いが原因で国内の水田は荒廃し、戦乱では多くの命が失われ、労働力も減少。さらに、寒冷化というトリプルパンチもあって、稲作に深刻なダメージが起きます。倭国内乱当時は既に、コメが主食となっていたわけですので、食料問題にまで発展。小国の支配者たちは、権力争いの殺し合いではなく、もはやコメの収穫量に力を注がなければ、民衆の支持を得ることが出来なくなったのです。では、どうやって支持を得るのかというところで登場するのが、古墳の造立と言う訳です。水田を開拓すると、残土がでますよね。この残土が多ければ多いほど、水田は耕され、コメがたくさん収穫でき、民衆は食に飢えずに済みます。さらに権力者は、その時の残土の量で大きな古墳を造ることが出来る、と言う訳です。古墳の大きさはコメの生産高の高さを表し、権力者の階級を誇示できるという政治体制となっていったのです。
古墳の大きさは何の高さを表していましたか。
古墳の大きさはコメの生産高の高さを表していました。
JCRRAG_002716
歴史
4平清盛と日宋貿易 清盛は1158年に大宰大弐(だざいだいに)となるなど日宋貿易と深い関わりを持ち続け、1168年に出家すると福原を拠点として厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に注力しました。1173年には日本初の人工港となる大輪田泊(おおわだのとまり)の改修に着手し、私財を投じた難工事は二年後に完成します。他には、瀬戸内航路の備前国牛窓や備後国柄・尾道などが整備され、広島県呉市と倉橋島を隔てる海峡である音戸(おんど)の瀬戸を開削しました。清盛が宋船を兵庫まで招き入れたことは、大宰府の干渉を排し利益を大きくする意図がありましたが、瀬戸内航路の整備や沿岸の地域に大きな影響をもたらします。地域を活性化させながら、西国における支配力強化につなげています。 日宋貿易の輸出入品とその影響 1日本の輸入品 宋銭・陶磁器・香料・薬品・書籍・茶・高級織物・文具・木綿 日本では皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)という銅銭がありましたが、12世紀後半より宋銭の流通が本格化します。経済活動を一般化させる出来事となりますが、一方でそれまでの基準となっていた絹の価値が下げ、朝廷財政を圧迫することにつながり朝廷との確執は大きくなりました。
清盛が宋船を兵庫まで招き入れたことは、何の干渉を排し利益を大きくする意図がありましたか。
清盛が宋船を兵庫まで招き入れたことは、大宰府の干渉を排し利益を大きくする意図がありました。
JCRRAG_002717
歴史
4平清盛と日宋貿易 清盛は1158年に大宰大弐(だざいだいに)となるなど日宋貿易と深い関わりを持ち続け、1168年に出家すると福原を拠点として厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に注力しました。1173年には日本初の人工港となる大輪田泊(おおわだのとまり)の改修に着手し、私財を投じた難工事は二年後に完成します。他には、瀬戸内航路の備前国牛窓や備後国柄・尾道などが整備され、広島県呉市と倉橋島を隔てる海峡である音戸(おんど)の瀬戸を開削しました。清盛が宋船を兵庫まで招き入れたことは、大宰府の干渉を排し利益を大きくする意図がありましたが、瀬戸内航路の整備や沿岸の地域に大きな影響をもたらします。地域を活性化させながら、西国における支配力強化につなげています。 日宋貿易の輸出入品とその影響 1日本の輸入品 宋銭・陶磁器・香料・薬品・書籍・茶・高級織物・文具・木綿 日本では皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)という銅銭がありましたが、12世紀後半より宋銭の流通が本格化します。経済活動を一般化させる出来事となりますが、一方でそれまでの基準となっていた絹の価値が下げ、朝廷財政を圧迫することにつながり朝廷との確執は大きくなりました。
清盛は1158年に何となるなどして日宋貿易と深い関わりを持ち続けましたか。
清盛は1158年に大宰大弐となるなどして日宋貿易と深い関わりを持ち続けました。
JCRRAG_002718
歴史
弥生時代で最も特徴的な変化は大陸から稲作が伝わったことです。稲作は弥生時代の初期、九州北部に大陸からの渡来人によって伝えられました。そしておよそ100年ほどをかけて近畿地方へ、弥生時代の中期である紀元後2世紀頃には東北地方にまで伝わっていきました。稲作が広まった大きな理由は食料の保存がきくという点です。それまでの生活は動物や魚の狩猟、木の実などの採取が中心であったため安定した食料の確保が難しく食料の確保が出来なければ飢え死にの心配がありました。その点、稲作ではお米を作れば保存がきくので飢え死にする心配がなくなったのです。しかし田んぼを思い浮かべるとわかる通り稲作には稲を育てる土地、水路の確保、耕す労働力、保存する場所等様々な問題点も浮上しました。そのため弥生時代では人々の生活ぶりが大きく変わりました。稲作が広まったことで大きく変わったのは共同生活人数の増加です。それまでの狩猟と採取中心の時代では捕れる獲物の数に限りがあるため多くの人が共同で暮らすのは難しかったのですが、弥生時代では水路の確保、管理、稲作の労働力の観点から生活人数が大幅に増えることになりました。もちろんお米は保存のきく食料なので食糧問題も問題にはならなかったのです。さらに弥生時代の後期には渡来人から金属を使う文化が伝わりました。それまでつかっていた木製農具から鉄製農具を使うようになり稲作の効率があがることになりました。お米の保存のために建物も変わりました。それまでの竪穴式住居では湿気とネズミによってお米の保存がうまく出来ませんでした。そこで登場したのが高床式倉庫です。読んで字のごとく地面から高い位置に床を作ることで湿気を防ぎ、床にはネズミ返しを作ることでネズミからお米を守ることが出来るようになりました。
弥生時代で最も特徴的な変化は大陸から何が伝わったことですか。
弥生時代で最も特徴的な変化は大陸から稲作が伝わったことです。
JCRRAG_002719
歴史
平城京とは、元明天皇が710年に飛鳥地方の藤原京から遷都した都です。 現在の奈良市・大和郡山市にまたがる場所に造られました。 造営当時の平城京は、南北約4.8km、東西約4.3kmの規模で、東西南北に走る大路によって整然と区画されていました。これは当時の唐の都長安をモデルにしたと言われています。 桓武天皇が784年に長岡京に遷都するまでの74年間、平城京が政治の中心地でしたが、平安時代に入るとたちまち荒廃してしまい、東大寺や興福寺の門前町が残るのみとなりました。 飛鳥時代から奈良時代にかけて、何度も遷都が行われましたが、正確な理由はよく分かっていません。 特に、なぜ694年に遷都したばかりだった藤原京をたった16年間で捨てて、平城京に遷都したかははっきりしません。 これまでいくつかの推測がなされてきました。 ・藤原京では交通が不便で、大きくなった中央政府にとって適さなくなったから。 ・藤原京の造営が修正に修正を重ねて行き詰ったため、仕切り直しをする必要があったから。 ・飢饉や疫病を防ぐ呪術的な力を引き出すために遷都が必要だったから。 ・藤原不比等の一族が権力を高めるため、都を飛鳥地方から離す必要があったから。 しかし、どの説も決定的な証拠がありません。 数少ない史料の中で最も重要なものが、元明天皇が608年に出した「遷都の詔」です。 そこには、元明天皇自身は遷都を急ぐ必要はないと考えていたにもかかわらず、まわりの貴族たちが遷都は必要だと主張していたことが書かれています。どうもこのあたりが遷都の理由と関わっているようです。 遷都が必要だと主張した貴族たちの中には、藤原不比等がいました。 この人物は、藤原鎌足の息子で、元明天皇の息子であった文武天皇に自分の娘を嫁がせることで、権力を拡大しました。 一説によれば、不比等が平城京への遷都を主張したのは、都を飛鳥地方から離れた場所に移すことで、自分たちの権力を高めるためだとされます。 また、近年注目されている説では、遣唐使を再開したことの影響が指摘されています。 遣唐使は663年の白村江の戦いで唐と関係が悪化してから途切れていましたが、702年に再開されます。 約30年ぶりに唐の都長安を見た遣唐使の一行は、藤原京とあまりに違うことに衝撃を受け、外国の使節に舐められないように、新たに国際標準の最先端の都市として平城京を造ることを進言したのではないかと考えられています。 おそらくこうした複数の理由が重なって、平城京への遷都に至ったのでしょう。
平城京は現在のどの場所に造られましたか。
平城京は、現在の奈良市・大和郡山市にまたがる場所に造られました。
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歴史
4平清盛と日宋貿易 清盛は1158年に大宰大弐(だざいだいに)となるなど日宋貿易と深い関わりを持ち続け、1168年に出家すると福原を拠点として厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に注力しました。1173年には日本初の人工港となる大輪田泊(おおわだのとまり)の改修に着手し、私財を投じた難工事は二年後に完成します。他には、瀬戸内航路の備前国牛窓や備後国柄・尾道などが整備され、広島県呉市と倉橋島を隔てる海峡である音戸(おんど)の瀬戸を開削しました。清盛が宋船を兵庫まで招き入れたことは、大宰府の干渉を排し利益を大きくする意図がありましたが、瀬戸内航路の整備や沿岸の地域に大きな影響をもたらします。地域を活性化させながら、西国における支配力強化につなげています。 日宋貿易の輸出入品とその影響 1日本の輸入品 宋銭・陶磁器・香料・薬品・書籍・茶・高級織物・文具・木綿 日本では皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)という銅銭がありましたが、12世紀後半より宋銭の流通が本格化します。経済活動を一般化させる出来事となりますが、一方でそれまでの基準となっていた絹の価値が下げ、朝廷財政を圧迫することにつながり朝廷との確執は大きくなりました。
清盛は何年に出家しましたか。
清盛は1168年に出家しました。
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歴史
鎌倉時代の文学の特色 鎌倉時代は武家が力を持ち始めたこともあり、軍記物語が流行りでした。しかし公家は武家が活躍する軍記物に対抗する傾向にあり、反発心から優れた和歌集がではじめます。鎌倉時代の文学の特徴は仏教の中核教義の無常観です。無常観のある物語といえば、冒頭の諸行無常で知られる「平家物語」があげられます。鎌倉時代後期になると、公家で親しまれた和歌が庶民や僧侶の中で流行していきます。この和歌が公家が親しんだ和歌と違うのは、数人で和歌を繋げていく連歌というものです。ほかには鎌倉幕府によってつくられた歴史文学「吾妻鏡」、日記・紀行文学では「十六夜日記」「東関紀行」などがあります。「徒然草」も鎌倉時代の随筆としてとても有名です。 鎌倉時代の絵画の特色 鎌倉時代の絵画の代表的なものは、平安時代から続く絵巻ものです。絵巻とは、横長の紙などを水平方向に繋げ風景や物語を連続して描いたものです。内容としては仏教の説話や合戦を題材にしたものですが、鎌倉時代の絵巻物の最大の特徴は、人物の肖像画がではじめたことです。合戦絵巻の代表といえるのが、肥後国の武士であった竹崎季長が自身の活躍を遺し伝えたいために描かせたといわれる「蒙古襲来絵詞」です。
公家で親しまれた和歌がいつ庶民や僧侶の中で流行していきましたか。
鎌倉時代後期になると、公家で親しまれた和歌が庶民や僧侶の中で流行していきました。
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歴史
弥生時代で最も特徴的な変化は大陸から稲作が伝わったことです。稲作は弥生時代の初期、九州北部に大陸からの渡来人によって伝えられました。そしておよそ100年ほどをかけて近畿地方へ、弥生時代の中期である紀元後2世紀頃には東北地方にまで伝わっていきました。稲作が広まった大きな理由は食料の保存がきくという点です。それまでの生活は動物や魚の狩猟、木の実などの採取が中心であったため安定した食料の確保が難しく食料の確保が出来なければ飢え死にの心配がありました。その点、稲作ではお米を作れば保存がきくので飢え死にする心配がなくなったのです。しかし田んぼを思い浮かべるとわかる通り稲作には稲を育てる土地、水路の確保、耕す労働力、保存する場所等様々な問題点も浮上しました。そのため弥生時代では人々の生活ぶりが大きく変わりました。稲作が広まったことで大きく変わったのは共同生活人数の増加です。それまでの狩猟と採取中心の時代では捕れる獲物の数に限りがあるため多くの人が共同で暮らすのは難しかったのですが、弥生時代では水路の確保、管理、稲作の労働力の観点から生活人数が大幅に増えることになりました。もちろんお米は保存のきく食料なので食糧問題も問題にはならなかったのです。さらに弥生時代の後期には渡来人から金属を使う文化が伝わりました。それまでつかっていた木製農具から鉄製農具を使うようになり稲作の効率があがることになりました。お米の保存のために建物も変わりました。それまでの竪穴式住居では湿気とネズミによってお米の保存がうまく出来ませんでした。そこで登場したのが高床式倉庫です。読んで字のごとく地面から高い位置に床を作ることで湿気を防ぎ、床にはネズミ返しを作ることでネズミからお米を守ることが出来るようになりました。
稲作が広まった大きな理由は何ですか。
稲作が広まった大きな理由は食料の保存がきくということです。
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歴史
もともと伸展葬は中国大陸で用いられていた埋葬方法です。弥生時代になって渡来人がやって来るようになったと同時に、伸展葬が広まるようになったと考えられています。渡来人は日本にやって来て、いろいろなものをもたらしました。おそらく日本に来て亡くなってしまう渡来人も少なくなかったでしょう。そういった人の埋葬方法が次第に日本人にも取り入れられるようになったのです。伸展葬が行われるようになった背景には、稲作の伝来が大きく影響していると言えます。農耕を始めるようになったことで、あちこちに移動しなくても食糧を得られるようになった人々は定住を始めます。すると人々の中でコミュニティが生まれ、同時に身分差も生まれるようになります。身分の高い特権階級の人が亡くなったときに、それまでとは違って規模の大きな「墓」を作って埋葬するようになります。そのため初期の伸展葬は身分の高い人に対して行われていました。それが次第に全国的に広まり、一般の人も行うようになるのです。また埋葬方法が伝わると同時に大陸の人々の考え方ももたらされ、結果それまでの死者の霊が浮遊するという考え方が衰退し、死者を安らかな形で埋葬しようと考えるようになったようです。
もともと伸展葬はどの大陸で用いられていた埋葬方法ですか。
伸展葬は中国大陸で用いられていた埋葬方法です。
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歴史
もともと伸展葬は中国大陸で用いられていた埋葬方法です。弥生時代になって渡来人がやって来るようになったと同時に、伸展葬が広まるようになったと考えられています。渡来人は日本にやって来て、いろいろなものをもたらしました。おそらく日本に来て亡くなってしまう渡来人も少なくなかったでしょう。そういった人の埋葬方法が次第に日本人にも取り入れられるようになったのです。伸展葬が行われるようになった背景には、稲作の伝来が大きく影響していると言えます。農耕を始めるようになったことで、あちこちに移動しなくても食糧を得られるようになった人々は定住を始めます。すると人々の中でコミュニティが生まれ、同時に身分差も生まれるようになります。身分の高い特権階級の人が亡くなったときに、それまでとは違って規模の大きな「墓」を作って埋葬するようになります。そのため初期の伸展葬は身分の高い人に対して行われていました。それが次第に全国的に広まり、一般の人も行うようになるのです。また埋葬方法が伝わると同時に大陸の人々の考え方ももたらされ、結果それまでの死者の霊が浮遊するという考え方が衰退し、死者を安らかな形で埋葬しようと考えるようになったようです。
初期の伸展葬はどんな人に対して行われていましたか。
初期の伸展葬は身分の高い人に対して行われていました。
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歴史
【下地中分とは】簡単にわかりやすく解説!!なぜ行われた?目的や内容・影響など 鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、荘園領主と地頭との間で土地の領有権をめぐる争いが頻発しました。そうした中で、解決策の一つとして採られたのが、下地中分という方法です。今回はこの『下地中分(したじちゅうぶん)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。 下地中分とは? 下地中分とは、荘園領主と地頭が土地を2つに分けて、それぞれの土地の領有権を認め、互いに侵犯しないようにしたことをさした言葉です。鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、各地の荘園領主と地頭との間で、年貢や土地の領有権をめぐる争いが頻発したため、その解決策の一つとして行われました。鎌倉幕府も土地をめぐる争いの早期解決策として、この方法を推奨しました。その結果、西日本を中心に全国で下地中分が行われました。このことは、地頭の一円知行(単独で領地を支配すること)を進めることになりました。 下地中分が行われた背景 1地頭の土地支配の拡大 平安時代には、貴族や地方の有力者、寺社が荘園を拡大させていきましたが、鎌倉時代のはじめになると地頭や有力名主が未開地を開墾し、新たに田畑を作ったり、山野や海、川を利用して農林漁業を行ったりした結果、これまでなかった新たな利得が生まれるようになりました。 これによって、地頭や有力名主の土地支配が拡大するとともに、こうした新たな利得がいったい誰のものになるのかという問題が生じました。
どこを中心に全国で下地中分が行われましたか。
西日本を中心に全国で下地中分が行われました。
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歴史
【下地中分とは】簡単にわかりやすく解説!!なぜ行われた?目的や内容・影響など 鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、荘園領主と地頭との間で土地の領有権をめぐる争いが頻発しました。そうした中で、解決策の一つとして採られたのが、下地中分という方法です。今回はこの『下地中分(したじちゅうぶん)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。 下地中分とは? 下地中分とは、荘園領主と地頭が土地を2つに分けて、それぞれの土地の領有権を認め、互いに侵犯しないようにしたことをさした言葉です。鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、各地の荘園領主と地頭との間で、年貢や土地の領有権をめぐる争いが頻発したため、その解決策の一つとして行われました。鎌倉幕府も土地をめぐる争いの早期解決策として、この方法を推奨しました。その結果、西日本を中心に全国で下地中分が行われました。このことは、地頭の一円知行(単独で領地を支配すること)を進めることになりました。 下地中分が行われた背景 1地頭の土地支配の拡大 平安時代には、貴族や地方の有力者、寺社が荘園を拡大させていきましたが、鎌倉時代のはじめになると地頭や有力名主が未開地を開墾し、新たに田畑を作ったり、山野や海、川を利用して農林漁業を行ったりした結果、これまでなかった新たな利得が生まれるようになりました。 これによって、地頭や有力名主の土地支配が拡大するとともに、こうした新たな利得がいったい誰のものになるのかという問題が生じました。
鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、誰と地頭との間で土地の領有権をめぐる争いが頻発しましたか。
鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、荘園領主と地頭との間で土地の領有権をめぐる争いが頻発しました。
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歴史
【鎌倉幕府をひらいた理由】源頼朝がなぜ幕府を開く場所に鎌倉を選んだのか?徹底解説! 鎌倉幕府と言えば、少し前の教科書では1192年という年号のゴロ合わせから「いい国つくろう鎌倉幕府」という言葉が耳慣れている人も多いでしょう。現在の教科書では「成立」という意味で様々な考え方があり、「1192年に鎌倉幕府が成立した」とは教えていないようです。いずれにしても、鎌倉幕府の存在は知っていても、なぜ幕府を開く場所が京都ではなく「鎌倉」だったのかを知る人はあまりいないかもしれませんね。そこで今回は、『源頼朝が幕府を開く場所として鎌倉を選んだ理由』について詳しく解説していきます。 鎌倉幕府の成り立ち~関東の武士団(豪族)に支持された源頼朝~ 鎌倉幕府になる前、それまでの幕府(政権)は長く京都にありました。それが、源頼朝によって鎌倉に幕府が置かれることになったのです。源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由には関東の武士団の勢力が関係してきます。そもそも武士の成り立ちは、関東の農民たちが自分たちの土地や財産を守るために武装したということが始まりとされています。当時、関東では朝廷に任命された国司や目代が土地を奪ったり、過剰に税を徴収するなどして勢力を振るっていました。しかし、地域の住民や関東の武士団たちは苦しめられていました。当時の武士団は歴史上は豪族であり、その地域の実力者なのですが、国司に歯向かうような立場にはなかったのです。そこで、特に武士の中でも実力者である平家や源家と親戚関係を持つようになります。特に源頼朝は富士川の戦いによって平家に勝利し勢い付いていたので、京都に上洛して朝廷を治めようという動きを見せていました。しかし、関東の武士団の想いは朝廷のある京都に入ることではありませんでした。武士団の願いは「朝廷に干渉されたくない」という想いだったのです。源頼朝はこの想いを汲み、実行に移すことで武士団の信頼を益々得ることになったのです。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由にはどのような勢力が関係してきますか。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由には関東の武士団の勢力が関係してきます。
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歴史
墾田永年私財法とは、奈良時代である743年に聖武天皇によって発布された、土地を開墾した分だけ自分の土地にできることが出来る法律のことです。 この法律によって公地公民制が崩壊して貴族や豪族たちが荘園を作り出して荘園制が誕生するようになりました。 645年に大化の改新を始めて以降、日本では公地公民制という日本の土地は全て天皇のものという制度によって天皇中心の国づくりを行なっていました。 今でこそ日本は土地の所有が認められており、土地代を払って自分の土地にすれば大体のことが出来ますが、この時は国から口分田という田んぼを貸し与えてそこから取れた租を年貢として取り立てるというという感じになっていました。 つまり自分の土地を持っていなかったことです。 しかし、これでは民衆にとったら「田んぼをいくら耕しても自分のものにはならないし、さらに年貢の税率がひどいからもういっそのこと田んぼを耕すのをやめよ」というふうになってしまいます。 まぁ、年貢によって死ぬぐらいなら逃げた方がましですしね。 そのため、日本は土地を耕す人が少なくなりその分税が減少するという事態が起きてしまいました。 税収が下がると困ってしまうのはもちろん天皇を始めとした朝廷です。 朝廷はなんとかして国民に年貢を納めさせたい。そのため天皇は国民にやる気を出させるために三世一身法というものを制定します。 この三世一身法というのは結構わかりやすいもので、土地を開墾して田んぼを作ったらそこから3世代(つまり孫のこと)までは自分の土地にすることができますよというもの。 つまり土地を耕せば自分のものにできるというわけです。 公地公民を行なっていた朝廷がついに条件付きで土地の所有を認めたことは国民にとってやる気を出させるのです。 しかし、三世代経ったら結局国のものに戻ってしまうため、耕したところで自分の子孫のものにはなりません。 そのため、国民たちは再び怠け出してしまうという事態となりました。 三世一身法を制定してようやく税収が安定すると思いきや全然効果は出ず、さらに740年代に入ると朝廷は財政難に苦しむことになっていきます。 実はこの時、朝廷ではいい都を作るために平城京からコロコロと都を移し替えていきます。 もちろん遷都の費用はタダではありませんので、遷都をするごとに莫大な金がかかり、さらには東大寺の大仏や全国に国分寺と国分尼寺を建てたことによっていつのまにか朝廷の金庫はすっからかん。超財政難に陥っていました。 そんな中ついに朝廷は墾田永年私財法を制定していくことになるのです。
墾田永年私財法によって何が誕生しましたか。
墾田永年私財法により、荘園制が誕生しました。
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歴史
墾田永年私財法とは、奈良時代である743年に聖武天皇によって発布された、土地を開墾した分だけ自分の土地にできることが出来る法律のことです。 この法律によって公地公民制が崩壊して貴族や豪族たちが荘園を作り出して荘園制が誕生するようになりました。 645年に大化の改新を始めて以降、日本では公地公民制という日本の土地は全て天皇のものという制度によって天皇中心の国づくりを行なっていました。 今でこそ日本は土地の所有が認められており、土地代を払って自分の土地にすれば大体のことが出来ますが、この時は国から口分田という田んぼを貸し与えてそこから取れた租を年貢として取り立てるというという感じになっていました。 つまり自分の土地を持っていなかったことです。 しかし、これでは民衆にとったら「田んぼをいくら耕しても自分のものにはならないし、さらに年貢の税率がひどいからもういっそのこと田んぼを耕すのをやめよ」というふうになってしまいます。 まぁ、年貢によって死ぬぐらいなら逃げた方がましですしね。 そのため、日本は土地を耕す人が少なくなりその分税が減少するという事態が起きてしまいました。 税収が下がると困ってしまうのはもちろん天皇を始めとした朝廷です。 朝廷はなんとかして国民に年貢を納めさせたい。そのため天皇は国民にやる気を出させるために三世一身法というものを制定します。 この三世一身法というのは結構わかりやすいもので、土地を開墾して田んぼを作ったらそこから3世代(つまり孫のこと)までは自分の土地にすることができますよというもの。 つまり土地を耕せば自分のものにできるというわけです。 公地公民を行なっていた朝廷がついに条件付きで土地の所有を認めたことは国民にとってやる気を出させるのです。 しかし、三世代経ったら結局国のものに戻ってしまうため、耕したところで自分の子孫のものにはなりません。 そのため、国民たちは再び怠け出してしまうという事態となりました。 三世一身法を制定してようやく税収が安定すると思いきや全然効果は出ず、さらに740年代に入ると朝廷は財政難に苦しむことになっていきます。 実はこの時、朝廷ではいい都を作るために平城京からコロコロと都を移し替えていきます。 もちろん遷都の費用はタダではありませんので、遷都をするごとに莫大な金がかかり、さらには東大寺の大仏や全国に国分寺と国分尼寺を建てたことによっていつのまにか朝廷の金庫はすっからかん。超財政難に陥っていました。 そんな中ついに朝廷は墾田永年私財法を制定していくことになるのです。
墾田永年私財法を発布したのは誰ですか。
墾田永年私財法を発布したのは、聖武天皇です。
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歴史
大和朝廷と邪馬台国って何か関係あるの?と授業を受けてなった人もいるかと思います。実は大和朝廷と邪馬台国の関係も、歴史書が中国にしか存在していないため、ちゃんとしたことは明らかになっていません。そのため、2つの国の関係には、いろんな説が出ています。大和朝廷を開いたのは、邪馬台国出身の豪族であるという説があります。邪馬台国は、九州と近畿(きんき)地方(大坂・京都・奈良周辺)のどちらかにあったという説が有力となっています。大和朝廷があったとされるのは、奈良県を中心とした近畿地方とされていることから、邪馬台国がもし近畿地方にあったとしたら、大いに考えられる説ですよね。一方では、大和朝廷が勢力拡大の際に、邪馬台国を征服(せいふく)したという説もあります。さきほど、邪馬台国は九州と近畿地方のどちらかにあったと考えられているお話をしました。これは、もし大和朝廷が西日本に領土を広げるために邪馬台国を攻撃したとするならば、邪馬台国は大和朝廷にほろぼされたという説です。中国の歴史書によれば、邪馬台国にいた女王・卑弥呼(ひみこ)がなくなったのは240年から249年ごろとされています。そのあとに、男性の王が即位したものの、政権が乱れ、新たな女王が誕生したところ、争いがおさまったとされています。邪馬台国が歴史書に残っているのはここまでで、その後どうなったかは定かではありません。しかし、3世紀になると、大和朝廷のシンボルといえる大きな古墳が登場し、592年には飛鳥時代がスタート。飛鳥時代に入ると、仏教の影響もあって、古墳が見られなくなりました。新たな女王が即位した後から、古墳が現れるまでの空白はに何が起きたかは、今もわかりません。ここがはっきりすれば、大和朝廷と邪馬台国との関係もハッキリするでしょう。
3世紀に登場したものは何ですか。
3世紀に登場したものは、大きな古墳です。
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歴史
墾田永年私財法とは、奈良時代である743年に聖武天皇によって発布された、土地を開墾した分だけ自分の土地にできることが出来る法律のことです。 この法律によって公地公民制が崩壊して貴族や豪族たちが荘園を作り出して荘園制が誕生するようになりました。 645年に大化の改新を始めて以降、日本では公地公民制という日本の土地は全て天皇のものという制度によって天皇中心の国づくりを行なっていました。 今でこそ日本は土地の所有が認められており、土地代を払って自分の土地にすれば大体のことが出来ますが、この時は国から口分田という田んぼを貸し与えてそこから取れた租を年貢として取り立てるというという感じになっていました。 つまり自分の土地を持っていなかったことです。 しかし、これでは民衆にとったら「田んぼをいくら耕しても自分のものにはならないし、さらに年貢の税率がひどいからもういっそのこと田んぼを耕すのをやめよ」というふうになってしまいます。 まぁ、年貢によって死ぬぐらいなら逃げた方がましですしね。 そのため、日本は土地を耕す人が少なくなりその分税が減少するという事態が起きてしまいました。 税収が下がると困ってしまうのはもちろん天皇を始めとした朝廷です。 朝廷はなんとかして国民に年貢を納めさせたい。そのため天皇は国民にやる気を出させるために三世一身法というものを制定します。 この三世一身法というのは結構わかりやすいもので、土地を開墾して田んぼを作ったらそこから3世代(つまり孫のこと)までは自分の土地にすることができますよというもの。 つまり土地を耕せば自分のものにできるというわけです。 公地公民を行なっていた朝廷がついに条件付きで土地の所有を認めたことは国民にとってやる気を出させるのです。 しかし、三世代経ったら結局国のものに戻ってしまうため、耕したところで自分の子孫のものにはなりません。 そのため、国民たちは再び怠け出してしまうという事態となりました。 三世一身法を制定してようやく税収が安定すると思いきや全然効果は出ず、さらに740年代に入ると朝廷は財政難に苦しむことになっていきます。 実はこの時、朝廷ではいい都を作るために平城京からコロコロと都を移し替えていきます。 もちろん遷都の費用はタダではありませんので、遷都をするごとに莫大な金がかかり、さらには東大寺の大仏や全国に国分寺と国分尼寺を建てたことによっていつのまにか朝廷の金庫はすっからかん。超財政難に陥っていました。 そんな中ついに朝廷は墾田永年私財法を制定していくことになるのです。
墾田永年私財法は、いつ発布されましたか。
墾田永年私財法は、743年に発布されました。
JCRRAG_002732
歴史
弥生時代で最も特徴的な変化は大陸から稲作が伝わったことです。稲作は弥生時代の初期、九州北部に大陸からの渡来人によって伝えられました。そしておよそ100年ほどをかけて近畿地方へ、弥生時代の中期である紀元後2世紀頃には東北地方にまで伝わっていきました。稲作が広まった大きな理由は食料の保存がきくという点です。それまでの生活は動物や魚の狩猟、木の実などの採取が中心であったため安定した食料の確保が難しく食料の確保が出来なければ飢え死にの心配がありました。その点、稲作ではお米を作れば保存がきくので飢え死にする心配がなくなったのです。しかし田んぼを思い浮かべるとわかる通り稲作には稲を育てる土地、水路の確保、耕す労働力、保存する場所等様々な問題点も浮上しました。そのため弥生時代では人々の生活ぶりが大きく変わりました。稲作が広まったことで大きく変わったのは共同生活人数の増加です。それまでの狩猟と採取中心の時代では捕れる獲物の数に限りがあるため多くの人が共同で暮らすのは難しかったのですが、弥生時代では水路の確保、管理、稲作の労働力の観点から生活人数が大幅に増えることになりました。もちろんお米は保存のきく食料なので食糧問題も問題にはならなかったのです。さらに弥生時代の後期には渡来人から金属を使う文化が伝わりました。それまでつかっていた木製農具から鉄製農具を使うようになり稲作の効率があがることになりました。お米の保存のために建物も変わりました。それまでの竪穴式住居では湿気とネズミによってお米の保存がうまく出来ませんでした。そこで登場したのが高床式倉庫です。読んで字のごとく地面から高い位置に床を作ることで湿気を防ぎ、床にはネズミ返しを作ることでネズミからお米を守ることが出来るようになりました。
弥生時代の後期には渡来人から何を使う文化が伝わりましたか。
金属を使う文化が伝わりました。
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歴史
白村江の戦いとは、663年に百済の復興を成し遂げるために日本が唐・新羅連合軍と戦った戦争のことです。 この戦争によって日本は防衛体制を強化して国力の強化に努めていくことになるのです。 7世紀の頃、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3つの国が互いに争っている状態が続いていました。 その中でも新羅は唐と特に仲が良く、唐の制度を積極的に取り入れて同盟関係といっても良いほどでしたが、唐が高句麗に侵攻するとこの同盟関係が逆に高句麗が新羅に侵攻するきっかけとなっていきます。 高句麗と百済は唐と新羅に対抗するため同盟関係を結び、百済は新羅に侵攻。 新羅を圧迫しますが、新羅に勝つことはできず、逆に百済は新羅によって滅ぼされてしまいます。 こうして滅亡した百済でしたが、実は百済には一つの希望が残されていたのです。 百済滅亡の影響を一番受けたのが倭国(日本)でした。 この頃日本では大化の改新を行なっていた倭国では朝鮮半島に対する外交体制を決めなければいけませんでしたが、国内では唐との関係を重視する派と百済の関係を重視して朝鮮半島の影響力を伸ばす派の2つに分かれていました。 そんな時百済が滅亡したという知らせが届きます。 倭国からしたら関係のないことだと思いますが、実は倭国と百済は昔から友好関係を結んでいた国であり、さらに百済の王子が倭国に亡命していたのです。 こうなると百済の残党たちは王子がいる倭国を頼るようになり、倭国に対して「百済の復興のために一緒に新羅と戦いましょう!」という使いを送ってきます。 倭国にとったらこの願いを承諾して新羅と戦えば、新羅の同盟国である唐との戦争は避けられません。 この知らせは選択を誤ったら倭国存亡の危機に関わる重大な決断でしたが、結果的に日本はこの百済の願いを承諾して唐と戦うことになりました。 実はこうなった理由には当時倭国で即位していた斉明天皇が関係しているのです。 当時倭国では東北・北海道地方に居住していた蝦夷を征服を進めていき倭国の影響力を強化したいと思っていました。 斉明天皇からすれば蝦夷を征服してさらに百済を救えば、朝鮮半島における倭国の影響力を強めることができ、属国として扱うことができるかもしれません。 この魅力的な話に斉明天皇は見事に乗って、どちらかといえば反対派であった中大兄皇子の意見を退けて百済救援を決断します。 こうして百済の救援を決断した斉明天皇率いる倭国の軍は、当時都があった難波宮を出発して福岡県北部に向かいます。 ちなみに対外戦争があまり行わなかった日本において、天皇が前線で指揮することはこの戦いぐらいです。 天皇が前線に立ったことによって倭国軍の士気はピークに達しますが、なんと斉明天皇は福岡県北部についたところで病死。 中大兄皇子が代わりに指揮をとることになりますが、この死は倭国に暗雲をもたらしていきます。 斉明天皇の死という最悪のトラブルがあったものの、倭国の遠征軍は筑紫を出発して朝鮮に侵攻。百済の旧領の奪還を目指します。 実は最初の方は唐がまだ移動途中で新羅のみと戦っていたため、倭国と百済の残党勢力の方が優勢でした。 しかし、肝心の朝鮮半島に上陸しようとしていた矢先に土壇場で唐の援軍が到着、近くの白村江というところで唐と戦闘が開始されました。 最初の方は人数が多い倭国軍が優勢だったそうですが、斉明天皇の死の影響による士気の低下、倭国とは比べ物にならないほどの精強な軍と最新兵器を備えている唐に押され始め、最終的には崩壊してしまいます。 結果、1万人の死者を叩き出して撤退します。 これによって復活の道が絶たれた百済は完全に滅亡。さらに倭国も朝鮮半島の足がかりを失ってしまうという散々な結果で白村江の戦いは幕を閉じました。
白村江での戦いで、倭国と百済の残党勢力はどうなりましたか。
倭国と百済の残党勢力は、新羅との戦いでは最初の方は優勢でしたが、唐の援軍が到着したことで最終的には崩壊し、結果、1万人の死者を叩き出して撤退しました。
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歴史
鎌倉時代の文学の特色 鎌倉時代は武家が力を持ち始めたこともあり、軍記物語が流行りでした。しかし公家は武家が活躍する軍記物に対抗する傾向にあり、反発心から優れた和歌集がではじめます。鎌倉時代の文学の特徴は仏教の中核教義の無常観です。無常観のある物語といえば、冒頭の諸行無常で知られる「平家物語」があげられます。鎌倉時代後期になると、公家で親しまれた和歌が庶民や僧侶の中で流行していきます。この和歌が公家が親しんだ和歌と違うのは、数人で和歌を繋げていく連歌というものです。ほかには鎌倉幕府によってつくられた歴史文学「吾妻鏡」、日記・紀行文学では「十六夜日記」「東関紀行」などがあります。「徒然草」も鎌倉時代の随筆としてとても有名です。 鎌倉時代の絵画の特色 鎌倉時代の絵画の代表的なものは、平安時代から続く絵巻ものです。絵巻とは、横長の紙などを水平方向に繋げ風景や物語を連続して描いたものです。内容としては仏教の説話や合戦を題材にしたものですが、鎌倉時代の絵巻物の最大の特徴は、人物の肖像画がではじめたことです。合戦絵巻の代表といえるのが、肥後国の武士であった竹崎季長が自身の活躍を遺し伝えたいために描かせたといわれる「蒙古襲来絵詞」です。
鎌倉時代の絵巻物の最大の特徴は何ですか。
鎌倉時代の絵巻物の最大の特徴は、人物の肖像画がではじめたことです。
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歴史
壬申の乱とは、天智天皇の死後672年に大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)との間で起こった後継者争いです。 古代史上最大の武力による内乱といわれています。 この壬申の乱をきっかけに天皇に権力が集中。その後、奈良時代へと続く天皇中心の律令国家へのスタートとなりました。 壬申の乱における重要な登場人物は3人です。「天智天皇(てんじてんのう)」、「大友皇子(おおとものおうじ)」、「大海人皇子(おおあまのおうじ)」。 大友皇子=天智天皇の子どもで、大海人皇子=天智天皇の弟です。 ※ちなみに天智天皇は、乙巳の変(いっしのへん)、大化の改新で知られる中大兄皇子と同一人物です。 壬申の乱のおよそ30年前(645年)に起こった中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害した大事件。 これを「乙巳の変」といいます。 その後、蘇我家は滅び孝徳天皇が即位。中大兄皇子は皇太子として国政改革を推進しました。 土地も人民も天皇のものとした公地公民制の政策が有名ですよね。 661年孝徳天皇が死去した後も、中大兄皇子はしばらく皇太子として国政を行っていましたが、近江大津宮(おうみおおつのみや)へ都を移した翌年、668年に即位し天智天皇となりました。 当時の常識では、天智天皇の次に即位するのは弟の大海人皇子のはず…でしたが、我が子かわいさに天智天皇は大友皇子を後継者にしようとしました。 天智天皇は朝廷内にその意向を示すため、大友皇子を次期天皇であることを意味する太政大臣に就任させました。 一般的に考えて、天皇の弟より子どもの方が皇位継承順位は上のように思いますが、なぜ、大友皇子は違ったのか? それは、大友皇子のお母さんが采女(うねめ)とよばれる身分の低い女性だったからです。 皇位を継ぐことができるのは、皇族や豪族出身の皇后から生まれた子どもだけでした。 そのため、天皇や皇后の食事の世話をする女官である采女から生まれた大友皇子には皇位継承権自体がなかったわけです。 反対に、天智天皇と同じ母を持つ大海人皇子には、正当な皇位継承権がありました。 天智天皇はこのルールを無視して、大友皇子を後継者にしようと“ゴリ押し”しました。 正当な皇位継承権をもっていない大友皇子を天皇にしたい天智天皇にとって、邪魔な人物は誰なのでしょうか? そう!弟の大海人皇子です。 先を読み、身の危険を感じた大海人皇子は、兄である天智天皇が強硬手段にでる前に、自分から“政治にも天皇という地位にも興味がない”ことをアピールしました。 そして、大津宮から100km以上も離れた奈良の吉野に移り、頭を丸め僧となって目立たぬように暮らしました。 状況が変わるきっかけは671年天智天皇の死でした。 朝廷内では生前の天智天皇が独裁気味だったため、その不満が息子の大友皇子に向けられるようになっていきます。 不安定になった朝廷を見逃さなかったのが吉野にいた大海人皇子。天智天皇が死んだ翌年、672年に挙兵します。 大海人皇子は吉野を出発し、伊賀・伊勢を経て大津宮の東に位置する自らの領国美濃(岐阜)にむかいました。 そして、大海人皇子は東国の豪族を中心に3万5千もの兵を集め大友皇子と戦いうことになります。これが壬申の乱です。 古代史上最大の内乱かつ武力による後継者争いといわれる壬申の乱に勝利したのは、天智天皇の弟である大海人皇子でした。 先制攻撃をしかけたのが最大の勝因といわれています。 壬申の乱後、大海人皇子は奈良の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇(てんむてんのう)となりました。
壬申の乱に勝利したのは誰ですか。
壬申の乱に勝利したのは、大海人皇子です。
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歴史
618年に中国で唐がおこると、律令法に基づき中央集権的な国家体制の充実を図ります。 より統治しやすくするために均田制や租庸調制などを確立しました。 日本では大化の改新の翌年、改新の詔が発せられたと「日本書紀」に記されており、唐にならい公地公民、国郡里制、税制が規定されました。 それとともに戸籍をもとにして口分田を班給することが定められたのが「班田収授法」の始まりです。 今回は、『班田収授法』について、簡単にわかりやすく解説していきます。 班田収授法とは、飛鳥時代後期から平安時代にかけて行われた、6歳以上の男女に口分田を班給する制度のことです。 大化の改新後、唐にならって律令国家を目指す改新の詔が発せられます。 そのうちの一つが班田収授法であり、人口と田地の調査をして税を確保する狙いがありました。 班給について細かく取り決められていましたが、奈良時代末期になると浮浪や逃亡する者が増え、平安時代初期には実施されなくなっていきました。 班田収授法は中央集権的な律令制度の一環として採り入れられたものですが、お手本となったのは唐の均田制でした。 日本では大化の改新後、律令国家を目指した改新の詔が発せられ、戸籍が整備されることで班田収授法に向けた準備が整っていきます。
班田収授法はなぜ実施されなくなったのですか。
班田収授法が実施されなくなったのは、浮浪や逃亡する者が増えたからです。
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歴史
八色の姓とは、684年に天武天皇が再編した「姓(かばね)」の制度のことです。 従来あった「姓」を統合して、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8級を新たに設けました。 これによって、家柄の上下をはっきりと区分したわけです。 「姓(せい)」というと、現代の私たちは「鈴木さん」とか「田中さん」とかいう姓を思い浮かべますよね。 でも、これは古代の姓(かばね)とは違います。大和の王権が勢力を伸ばしていく中で、豪族たちは「氏(うじ)」を名乗りました。 氏というのは一族の名をあらわすもので、「蘇我氏」「物部氏」「大伴氏」などというのがその一例です。 ちなみに、氏の後ろには「の」をつけるのが決まりです。例えば「大伴家持」は「おおとも“の”やかもち」と読みます。 これに対して、「姓(かばね)」は大王(天皇)から一族に与えられた称号でした。 例をあげると、蘇我氏などには「臣(おみ)」、物部氏や中臣氏などには「連(むらじ)」といった姓が与えられています。 臣は大王の子孫を意味していて、連は神々の子孫を意味すると言われ、そのトップである大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)が政治のリーダーとなりました。 この「姓」と「氏」の二つを合わせて「氏姓制度」と言います。 674年に壬申の乱(じんしんのらん)で権力を握った天武天皇は、強力なリーダーシップで新しい国の制度作りを進めていきます。 ちなみに、「天皇」の称号を初めて名乗ったのも天武天皇だと言われていますし、「日本」という国号を採用したのもこのころだという説が有力です(それまでは「大王」、「倭」でした)。 天皇を中心とした中央集権国家を建設する中で、姓の再編成が行われました。それが「八色の姓」の制定だったのです。 天武天皇は従来の姓の秩序を廃止して、自分の望み通りに身分の秩序を作ろうとしました。 これまでとは違う新しい国家を作るために、自分と近い血筋の者や功績があった者に高い地位を与えようという狙いがあったわけです。 最初にも書いたように、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8つの姓が作られました。 中でも、真人は天皇の一族にだけ与えられ、最高位と位置付けられています。このことからも天武天皇が自分の親族を中心とした政治(皇親政治)を進めようとしていたことがうかがえます。 二番目に高いのが朝臣でした。これは壬申の乱で特に功績があり、主に古い時代(景行天皇以前)の天皇の血筋にあると称する一族に与えられました。従来の臣の中でも有力な者に与えられたようです。また、宿禰は従来の連の中の有力者に与えられました。 なお、八色の姓は豪族に与えられたもので、庶民には与えられません。 ただ、天武の前の天智天皇の時代に庚午年籍(こうごねんじやく)とよばれる戸籍が作られると、一般庶民にも「姓(せい)」が与えられるようになります。 ところが、8つの姓を作ったものの、実際に新たに与えられたのは「真人・朝臣・宿禰・忌寸」の4つだけでした。 「臣、連」はもともと臣、連だったものの新姓を与えられなかった氏に引き続き与えられたものです。つまり、天武天皇との関係が遠い旧勢力の豪族が格下げされたものだと言えるでしょう。 また、「道師、稲置」は実際には授与されず、どういった意味があったのかはわかっていません。 全ての豪族がこの8つに位置付けられたのかというと、必ずしもそうではなく、「伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)」といった姓も残されていました。
実際には授与されなかった姓は何ですか。
実際には授与されなかった姓は、道師、稲置です。
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歴史
日宋貿易の変遷「貿易理由と貿易品」 日宋貿易では中国の北宋から南宋への王朝の移り変わりとともに変化してきました。北宋時代には日本からの硫黄の輸出により貿易が活発になり、南宋時代には平清盛によって拡大され医療においては欠かせないものになりました。 1北宋時代 北宋が成立した960年になると、北宋は各地に貿易の事務管理をする役所を設置して、日本や高麗のほか南方とも貿易を行いました。日本とは大宰府鴻臚館(こうろかん)で貿易が行われていましたが、貿易は活発にならず日本と宋の正式外交にはつながりませんでした。また、一般人の渡航は禁止されますが、宋の商人が来航する私的な貿易は続いていました。このころから日本から北宋への硫黄の輸出が始まり、のちに宋政府の大量買付計画があったとされています。硫黄は当時拡大していた火薬武器に必要なものでしたが、硫黄が採れる地域は遼(りょう)・金(きん)・西夏(せいか)・大理(だいり)などの国々が支配する地域にしかなかったため、日本からの輸入に頼るという事情がありました。日本からの硫黄の輸出の歴史は、988年に420kgの硫黄を献上したことに始まり、11世紀後半には宋の商人による買付が何度も行われていたという記録が残っています。
硫黄は当時拡大していた何に必要なものでしたか。
硫黄は当時拡大していた火薬武器に必要なものでした。
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歴史
壬申の乱とは、天智天皇の死後672年に大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)との間で起こった後継者争いです。 古代史上最大の武力による内乱といわれています。 この壬申の乱をきっかけに天皇に権力が集中。その後、奈良時代へと続く天皇中心の律令国家へのスタートとなりました。 壬申の乱における重要な登場人物は3人です。「天智天皇(てんじてんのう)」、「大友皇子(おおとものおうじ)」、「大海人皇子(おおあまのおうじ)」。 大友皇子=天智天皇の子どもで、大海人皇子=天智天皇の弟です。 ※ちなみに天智天皇は、乙巳の変(いっしのへん)、大化の改新で知られる中大兄皇子と同一人物です。 壬申の乱のおよそ30年前(645年)に起こった中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害した大事件。 これを「乙巳の変」といいます。 その後、蘇我家は滅び孝徳天皇が即位。中大兄皇子は皇太子として国政改革を推進しました。 土地も人民も天皇のものとした公地公民制の政策が有名ですよね。 661年孝徳天皇が死去した後も、中大兄皇子はしばらく皇太子として国政を行っていましたが、近江大津宮(おうみおおつのみや)へ都を移した翌年、668年に即位し天智天皇となりました。 当時の常識では、天智天皇の次に即位するのは弟の大海人皇子のはず…でしたが、我が子かわいさに天智天皇は大友皇子を後継者にしようとしました。 天智天皇は朝廷内にその意向を示すため、大友皇子を次期天皇であることを意味する太政大臣に就任させました。 一般的に考えて、天皇の弟より子どもの方が皇位継承順位は上のように思いますが、なぜ、大友皇子は違ったのか? それは、大友皇子のお母さんが采女(うねめ)とよばれる身分の低い女性だったからです。 皇位を継ぐことができるのは、皇族や豪族出身の皇后から生まれた子どもだけでした。 そのため、天皇や皇后の食事の世話をする女官である采女から生まれた大友皇子には皇位継承権自体がなかったわけです。 反対に、天智天皇と同じ母を持つ大海人皇子には、正当な皇位継承権がありました。 天智天皇はこのルールを無視して、大友皇子を後継者にしようと“ゴリ押し”しました。 正当な皇位継承権をもっていない大友皇子を天皇にしたい天智天皇にとって、邪魔な人物は誰なのでしょうか? そう!弟の大海人皇子です。 先を読み、身の危険を感じた大海人皇子は、兄である天智天皇が強硬手段にでる前に、自分から“政治にも天皇という地位にも興味がない”ことをアピールしました。 そして、大津宮から100km以上も離れた奈良の吉野に移り、頭を丸め僧となって目立たぬように暮らしました。 状況が変わるきっかけは671年天智天皇の死でした。 朝廷内では生前の天智天皇が独裁気味だったため、その不満が息子の大友皇子に向けられるようになっていきます。 不安定になった朝廷を見逃さなかったのが吉野にいた大海人皇子。天智天皇が死んだ翌年、672年に挙兵します。 大海人皇子は吉野を出発し、伊賀・伊勢を経て大津宮の東に位置する自らの領国美濃(岐阜)にむかいました。 そして、大海人皇子は東国の豪族を中心に3万5千もの兵を集め大友皇子と戦いうことになります。これが壬申の乱です。 古代史上最大の内乱かつ武力による後継者争いといわれる壬申の乱に勝利したのは、天智天皇の弟である大海人皇子でした。 先制攻撃をしかけたのが最大の勝因といわれています。 壬申の乱後、大海人皇子は奈良の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇(てんむてんのう)となりました。
壬申の乱はいつ起こりましたか。
壬申の乱は、672年に起こりました。
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壬申の乱とは、天智天皇の死後672年に大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)との間で起こった後継者争いです。 古代史上最大の武力による内乱といわれています。 この壬申の乱をきっかけに天皇に権力が集中。その後、奈良時代へと続く天皇中心の律令国家へのスタートとなりました。 壬申の乱における重要な登場人物は3人です。「天智天皇(てんじてんのう)」、「大友皇子(おおとものおうじ)」、「大海人皇子(おおあまのおうじ)」。 大友皇子=天智天皇の子どもで、大海人皇子=天智天皇の弟です。 ※ちなみに天智天皇は、乙巳の変(いっしのへん)、大化の改新で知られる中大兄皇子と同一人物です。 壬申の乱のおよそ30年前(645年)に起こった中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害した大事件。 これを「乙巳の変」といいます。 その後、蘇我家は滅び孝徳天皇が即位。中大兄皇子は皇太子として国政改革を推進しました。 土地も人民も天皇のものとした公地公民制の政策が有名ですよね。 661年孝徳天皇が死去した後も、中大兄皇子はしばらく皇太子として国政を行っていましたが、近江大津宮(おうみおおつのみや)へ都を移した翌年、668年に即位し天智天皇となりました。 当時の常識では、天智天皇の次に即位するのは弟の大海人皇子のはず…でしたが、我が子かわいさに天智天皇は大友皇子を後継者にしようとしました。 天智天皇は朝廷内にその意向を示すため、大友皇子を次期天皇であることを意味する太政大臣に就任させました。 一般的に考えて、天皇の弟より子どもの方が皇位継承順位は上のように思いますが、なぜ、大友皇子は違ったのか? それは、大友皇子のお母さんが采女(うねめ)とよばれる身分の低い女性だったからです。 皇位を継ぐことができるのは、皇族や豪族出身の皇后から生まれた子どもだけでした。 そのため、天皇や皇后の食事の世話をする女官である采女から生まれた大友皇子には皇位継承権自体がなかったわけです。 反対に、天智天皇と同じ母を持つ大海人皇子には、正当な皇位継承権がありました。 天智天皇はこのルールを無視して、大友皇子を後継者にしようと“ゴリ押し”しました。 正当な皇位継承権をもっていない大友皇子を天皇にしたい天智天皇にとって、邪魔な人物は誰なのでしょうか? そう!弟の大海人皇子です。 先を読み、身の危険を感じた大海人皇子は、兄である天智天皇が強硬手段にでる前に、自分から“政治にも天皇という地位にも興味がない”ことをアピールしました。 そして、大津宮から100km以上も離れた奈良の吉野に移り、頭を丸め僧となって目立たぬように暮らしました。 状況が変わるきっかけは671年天智天皇の死でした。 朝廷内では生前の天智天皇が独裁気味だったため、その不満が息子の大友皇子に向けられるようになっていきます。 不安定になった朝廷を見逃さなかったのが吉野にいた大海人皇子。天智天皇が死んだ翌年、672年に挙兵します。 大海人皇子は吉野を出発し、伊賀・伊勢を経て大津宮の東に位置する自らの領国美濃(岐阜)にむかいました。 そして、大海人皇子は東国の豪族を中心に3万5千もの兵を集め大友皇子と戦いうことになります。これが壬申の乱です。 古代史上最大の内乱かつ武力による後継者争いといわれる壬申の乱に勝利したのは、天智天皇の弟である大海人皇子でした。 先制攻撃をしかけたのが最大の勝因といわれています。 壬申の乱後、大海人皇子は奈良の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇(てんむてんのう)となりました。
壬申の乱とは何ですか。
壬申の乱とは、大友皇子と大海人皇子との間で起こった後継者争いです。
JCRRAG_002741
歴史
日宋貿易の変遷「貿易理由と貿易品」 日宋貿易では中国の北宋から南宋への王朝の移り変わりとともに変化してきました。北宋時代には日本からの硫黄の輸出により貿易が活発になり、南宋時代には平清盛によって拡大され医療においては欠かせないものになりました。 1北宋時代 北宋が成立した960年になると、北宋は各地に貿易の事務管理をする役所を設置して、日本や高麗のほか南方とも貿易を行いました。日本とは大宰府鴻臚館(こうろかん)で貿易が行われていましたが、貿易は活発にならず日本と宋の正式外交にはつながりませんでした。また、一般人の渡航は禁止されますが、宋の商人が来航する私的な貿易は続いていました。このころから日本から北宋への硫黄の輸出が始まり、のちに宋政府の大量買付計画があったとされています。硫黄は当時拡大していた火薬武器に必要なものでしたが、硫黄が採れる地域は遼(りょう)・金(きん)・西夏(せいか)・大理(だいり)などの国々が支配する地域にしかなかったため、日本からの輸入に頼るという事情がありました。日本からの硫黄の輸出の歴史は、988年に420kgの硫黄を献上したことに始まり、11世紀後半には宋の商人による買付が何度も行われていたという記録が残っています。
日宋貿易は中国の北宋から何への王朝の移り変わりとともに変化してきましたか。
日宋貿易は中国の北宋から南宋への王朝の移り変わりとともに変化してきました。
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歴史
大和朝廷と邪馬台国って何か関係あるの?と授業を受けてなった人もいるかと思います。実は大和朝廷と邪馬台国の関係も、歴史書が中国にしか存在していないため、ちゃんとしたことは明らかになっていません。そのため、2つの国の関係には、いろんな説が出ています。大和朝廷を開いたのは、邪馬台国出身の豪族であるという説があります。邪馬台国は、九州と近畿(きんき)地方(大坂・京都・奈良周辺)のどちらかにあったという説が有力となっています。大和朝廷があったとされるのは、奈良県を中心とした近畿地方とされていることから、邪馬台国がもし近畿地方にあったとしたら、大いに考えられる説ですよね。一方では、大和朝廷が勢力拡大の際に、邪馬台国を征服(せいふく)したという説もあります。さきほど、邪馬台国は九州と近畿地方のどちらかにあったと考えられているお話をしました。これは、もし大和朝廷が西日本に領土を広げるために邪馬台国を攻撃したとするならば、邪馬台国は大和朝廷にほろぼされたという説です。中国の歴史書によれば、邪馬台国にいた女王・卑弥呼(ひみこ)がなくなったのは240年から249年ごろとされています。そのあとに、男性の王が即位したものの、政権が乱れ、新たな女王が誕生したところ、争いがおさまったとされています。邪馬台国が歴史書に残っているのはここまでで、その後どうなったかは定かではありません。しかし、3世紀になると、大和朝廷のシンボルといえる大きな古墳が登場し、592年には飛鳥時代がスタート。飛鳥時代に入ると、仏教の影響もあって、古墳が見られなくなりました。新たな女王が即位した後から、古墳が現れるまでの空白はに何が起きたかは、今もわかりません。ここがはっきりすれば、大和朝廷と邪馬台国との関係もハッキリするでしょう。
592年には何時代がスタートしましたか。
592年には飛鳥時代がスタートしました。
JCRRAG_002743
歴史
【日宋貿易とは】簡単にわかりやすく解説!!貿易理由や輸入品・輸出品・影響など 菅原道真による遣唐使廃止以降、日本ではかな文字の発達に代表される国風文化が発展し、表向きには国交や通商に対して消極的な姿勢を取ってきました。平忠盛が独自に交易を始め平清盛が宋との貿易を政策としてすすめると、日本の経済や宗教、文化に大きな影響を与えます。これが「日宋貿易」です。今回はこの『日宋貿易』について、簡単にわかりやすく解説していきます。 日宋貿易とは? 日宋貿易とは、10世紀から13世紀にかけて日本と中国の宋との間で行われた貿易のことです。遣唐使廃止以降は中国との正式な国交は行われていませんでしたが、宋の商人が来航し私貿易は続いていました。宋が硫黄や木材を必要とするようになると、日本との貿易は徐々に活発になります。平忠盛は宋との貿易に目をつけて貿易で利益を生むようになります。さらに平清盛は日宋貿易を拡大し、利潤が平氏政権の経済基盤になるだけでなく宋銭の流入によって貨幣経済が発達するなど日本の経済や文化に大きな影響を与えました。 日宋貿易前の日中関係 遣唐使廃止によって日本と中国の正式な外交は途絶えることになります。これには唐の衰退も影響しており、日中の外交は中国の王朝の盛衰によるものも大きくなります。
日宋貿易とは、何世紀から何世紀にかけて日本と中国の宋との間で行われた貿易のことですか。
日宋貿易とは、10世紀から13世紀にかけて日本と中国の宋との間で行われた貿易のことです。
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歴史
鎌倉文化の特徴 鎌倉文化の特徴は、先にも述べたように武士が中心となり庶民感覚を反映させたことと、新しい文化の取入れになります。なかでも中国文化の取入れには積極的でした。当時の中国では民族の違いによって冷遇されるという差別が横行しており、日本へ亡命する者も少なくありませんでした。そうした者たちから得られる新しい文化の取入れもありました。亡命する者の中には若い僧侶もおり、1300年中期から1400年頃にかけて日本では新たな仏教の宗派が増えていったのも特徴のひとつといえるでしょう。宗教に興味がなくても知っているであろう、日蓮宗・浄土宗・浄土真宗などはこの頃にできた宗派です。鎌倉文化はほかにも新しいものを取り入れ進化していきます。その代表が建築物であったり、文学、そして絵画だったのです。 鎌倉時代の建築の特色 鎌倉時代の建築物といえば東大寺がとても有名です。といっても東大寺は平安時代に建設されたものですが、平重衡に焼かれた経緯がありその再建築が行われたのが鎌倉時代になります。かなり大掛かりで一大事業であったとされています。さて、鎌倉文化の建築の特徴はいくつかに分類することができますが、大きくわけて2つに分けることができます。ひとつは外来から取り入れた『新様式』、もうひとつは日本古来からある日本式様式です。
鎌倉時代の建築物といえばどのお寺がとても有名ですか。
鎌倉時代の建築物といえば東大寺がとても有名です。
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歴史
なぜ古墳は大きくなったのか? きっかけは、弥生時代から古墳時代にかけての戦乱だとされています。弥生時代から古墳時代の間は、地方の小国同士の争いが絶えませんでした。これをあの「魏志倭人伝」では、倭国大乱(わこくたいらん)と呼んでいました。しかし、この大乱を治めるべく、女性の王・卑弥呼が頂点に立つと平和な時代が訪れ、死後に男性の王が立つと戦乱が続き、さらに卑弥呼の血縁である台与(とよ)が王位を引き継いだら平和になる、というジンクス的な事象が起きていました。しかし、卑弥呼が王位に就く前の倭国大乱と死後に起きた争いが原因で国内の水田は荒廃し、戦乱では多くの命が失われ、労働力も減少。さらに、寒冷化というトリプルパンチもあって、稲作に深刻なダメージが起きます。倭国内乱当時は既に、コメが主食となっていたわけですので、食料問題にまで発展。小国の支配者たちは、権力争いの殺し合いではなく、もはやコメの収穫量に力を注がなければ、民衆の支持を得ることが出来なくなったのです。では、どうやって支持を得るのかというところで登場するのが、古墳の造立と言う訳です。水田を開拓すると、残土がでますよね。この残土が多ければ多いほど、水田は耕され、コメがたくさん収穫でき、民衆は食に飢えずに済みます。さらに権力者は、その時の残土の量で大きな古墳を造ることが出来る、と言う訳です。古墳の大きさはコメの生産高の高さを表し、権力者の階級を誇示できるという政治体制となっていったのです。
倭国内乱当時は何が主食となっていましたか。
倭国内乱当時は、コメが主食となっていました。
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歴史
【下地中分とは】簡単にわかりやすく解説!!なぜ行われた?目的や内容・影響など 鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、荘園領主と地頭との間で土地の領有権をめぐる争いが頻発しました。そうした中で、解決策の一つとして採られたのが、下地中分という方法です。今回はこの『下地中分(したじちゅうぶん)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。 下地中分とは? 下地中分とは、荘園領主と地頭が土地を2つに分けて、それぞれの土地の領有権を認め、互いに侵犯しないようにしたことをさした言葉です。鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、各地の荘園領主と地頭との間で、年貢や土地の領有権をめぐる争いが頻発したため、その解決策の一つとして行われました。鎌倉幕府も土地をめぐる争いの早期解決策として、この方法を推奨しました。その結果、西日本を中心に全国で下地中分が行われました。このことは、地頭の一円知行(単独で領地を支配すること)を進めることになりました。 下地中分が行われた背景 1地頭の土地支配の拡大 平安時代には、貴族や地方の有力者、寺社が荘園を拡大させていきましたが、鎌倉時代のはじめになると地頭や有力名主が未開地を開墾し、新たに田畑を作ったり、山野や海、川を利用して農林漁業を行ったりした結果、これまでなかった新たな利得が生まれるようになりました。 これによって、地頭や有力名主の土地支配が拡大するとともに、こうした新たな利得がいったい誰のものになるのかという問題が生じました。
平安時代には、誰が荘園を拡大させていきましたか。
平安時代には、貴族や地方の有力者、寺社が荘園を拡大させていきました。
JCRRAG_002747
歴史
氏姓制度は、645年乙巳の変をきっかけに新政権が誕生し支配体制が変わったことで、機能しなくなりました。このあたりの歴史を少しおさらいしておきましょう。645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇を操り権力を独占していた蘇我入鹿(いるか)を殺害する事件乙巳の変を起こしました。その後、入鹿の父、蘇我蝦夷(えみし)も自害したことで蘇我氏は滅亡しました。翌646年には新しく即位した孝徳天皇が新たな政治方針を示した改新の詔を発布。天皇に権力を集中させた中央集権国家を目指すことになりました。この政治改革が大化の改新と呼ばれています。 この大化の改新によって、これまでの“土地や人民を所有する豪族たちが集まってできた連合政権”から、“天皇に権力を集中させた中央集権国家”へと、支配体制が変わりました。簡単にいうと、それぞれ王様のいる小さな国が集まってつくられていた連合政権から、一人の王つまり天皇が支配するひとつの国になったわけです。支配体制が変われば、ルールも変わるのは当然のこと。氏姓制度で、豪族たちがそれぞれ所有していた田荘(土地)や部曲(人民)は、新たに公地公民制を導入したことですべて天皇のものになりました。政権内の役職もリニューアルされ、連合政権の中心を担っていた大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の代わりに、左大臣、右大臣を新設。初代左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が就きました。
初代左大臣には誰が就きましたか。
初代左大臣には阿倍内麻呂が就きました。
JCRRAG_002748
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氏姓制度は、645年乙巳の変をきっかけに新政権が誕生し支配体制が変わったことで、機能しなくなりました。このあたりの歴史を少しおさらいしておきましょう。645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇を操り権力を独占していた蘇我入鹿(いるか)を殺害する事件乙巳の変を起こしました。その後、入鹿の父、蘇我蝦夷(えみし)も自害したことで蘇我氏は滅亡しました。翌646年には新しく即位した孝徳天皇が新たな政治方針を示した改新の詔を発布。天皇に権力を集中させた中央集権国家を目指すことになりました。この政治改革が大化の改新と呼ばれています。 この大化の改新によって、これまでの“土地や人民を所有する豪族たちが集まってできた連合政権”から、“天皇に権力を集中させた中央集権国家”へと、支配体制が変わりました。簡単にいうと、それぞれ王様のいる小さな国が集まってつくられていた連合政権から、一人の王つまり天皇が支配するひとつの国になったわけです。支配体制が変われば、ルールも変わるのは当然のこと。氏姓制度で、豪族たちがそれぞれ所有していた田荘(土地)や部曲(人民)は、新たに公地公民制を導入したことですべて天皇のものになりました。政権内の役職もリニューアルされ、連合政権の中心を担っていた大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の代わりに、左大臣、右大臣を新設。初代左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が就きました。
初代右大臣には誰が就きましたか。
初代右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が就きました。
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弥生時代で最も特徴的な変化は大陸から稲作が伝わったことです。稲作は弥生時代の初期、九州北部に大陸からの渡来人によって伝えられました。そしておよそ100年ほどをかけて近畿地方へ、弥生時代の中期である紀元後2世紀頃には東北地方にまで伝わっていきました。稲作が広まった大きな理由は食料の保存がきくという点です。それまでの生活は動物や魚の狩猟、木の実などの採取が中心であったため安定した食料の確保が難しく食料の確保が出来なければ飢え死にの心配がありました。その点、稲作ではお米を作れば保存がきくので飢え死にする心配がなくなったのです。しかし田んぼを思い浮かべるとわかる通り稲作には稲を育てる土地、水路の確保、耕す労働力、保存する場所等様々な問題点も浮上しました。そのため弥生時代では人々の生活ぶりが大きく変わりました。稲作が広まったことで大きく変わったのは共同生活人数の増加です。それまでの狩猟と採取中心の時代では捕れる獲物の数に限りがあるため多くの人が共同で暮らすのは難しかったのですが、弥生時代では水路の確保、管理、稲作の労働力の観点から生活人数が大幅に増えることになりました。もちろんお米は保存のきく食料なので食糧問題も問題にはならなかったのです。さらに弥生時代の後期には渡来人から金属を使う文化が伝わりました。それまでつかっていた木製農具から鉄製農具を使うようになり稲作の効率があがることになりました。お米の保存のために建物も変わりました。それまでの竪穴式住居では湿気とネズミによってお米の保存がうまく出来ませんでした。そこで登場したのが高床式倉庫です。読んで字のごとく地面から高い位置に床を作ることで湿気を防ぎ、床にはネズミ返しを作ることでネズミからお米を守ることが出来るようになりました。
それまでの竪穴式住居では湿気とネズミによって何がうまく出来ませんでしたか。
お米の保存がうまく出来ませんでした。
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歴史
【日宋貿易とは】簡単にわかりやすく解説!!貿易理由や輸入品・輸出品・影響など 菅原道真による遣唐使廃止以降、日本ではかな文字の発達に代表される国風文化が発展し、表向きには国交や通商に対して消極的な姿勢を取ってきました。平忠盛が独自に交易を始め平清盛が宋との貿易を政策としてすすめると、日本の経済や宗教、文化に大きな影響を与えます。これが「日宋貿易」です。今回はこの『日宋貿易』について、簡単にわかりやすく解説していきます。 日宋貿易とは? 日宋貿易とは、10世紀から13世紀にかけて日本と中国の宋との間で行われた貿易のことです。遣唐使廃止以降は中国との正式な国交は行われていませんでしたが、宋の商人が来航し私貿易は続いていました。宋が硫黄や木材を必要とするようになると、日本との貿易は徐々に活発になります。平忠盛は宋との貿易に目をつけて貿易で利益を生むようになります。さらに平清盛は日宋貿易を拡大し、利潤が平氏政権の経済基盤になるだけでなく宋銭の流入によって貨幣経済が発達するなど日本の経済や文化に大きな影響を与えました。 日宋貿易前の日中関係 遣唐使廃止によって日本と中国の正式な外交は途絶えることになります。これには唐の衰退も影響しており、日中の外交は中国の王朝の盛衰によるものも大きくなります。
宋が何を必要とするようになると、日本との貿易は徐々に活発になりますか。
宋が硫黄や木材を必要とするようになると、日本との貿易は徐々に活発になります。
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歴史
1遣唐使廃止 遣隋使に続いて630年に始まった遣唐使は、200年以上にわたり唐の文化や制度および仏教などさまざまなものを日本にもたらしました。 10数回の遣唐使によって、遣隋使にも派遣されている犬上御田鍬や高向玄理のほか、吉備真備が派遣されています。この遣唐使は894年に菅原道真によって廃止されますが、すでに838年を最後に遣唐使は実施されていませんでした。唐の衰退から政治的な意義を失いつつあること、留学生に対する唐の対応の悪化、さらには渡航途中での遭難が頻発すること、拒否して逃亡するものも現れたことなども廃止の要因となりました。また、遣唐使の期間は渡海制により遣唐使以外の海外渡航は禁止されていたため、遣唐使の間隔が長くなることで航海技術や造船技術の低下を招きました。これが、遭難の頻発につながったと考えられています。 2遣唐使廃止後 渡海制から年紀制と呼ばれる商船が前回の渡航から次回の来航までに10〜12年の間隔を空けるよう制限する取り決めが採用されました。しかし、10世紀後半には朝廷は特例として宋や高麗の商船の入港を認める一方、宋や高麗に密航する日本船も見られるようになります。商船の行き来は中国の文書や陶磁器などの唐物の人気が根強かったことも理由の一つで、私的な貿易として唐物が輸入されていました。
遣唐使の期間は何により遣唐使以外の海外渡航は禁止されていましたか。
遣唐使の期間は渡海制により遣唐使以外の海外渡航は禁止されていました。
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歴史
1遣唐使廃止 遣隋使に続いて630年に始まった遣唐使は、200年以上にわたり唐の文化や制度および仏教などさまざまなものを日本にもたらしました。 10数回の遣唐使によって、遣隋使にも派遣されている犬上御田鍬や高向玄理のほか、吉備真備が派遣されています。この遣唐使は894年に菅原道真によって廃止されますが、すでに838年を最後に遣唐使は実施されていませんでした。唐の衰退から政治的な意義を失いつつあること、留学生に対する唐の対応の悪化、さらには渡航途中での遭難が頻発すること、拒否して逃亡するものも現れたことなども廃止の要因となりました。また、遣唐使の期間は渡海制により遣唐使以外の海外渡航は禁止されていたため、遣唐使の間隔が長くなることで航海技術や造船技術の低下を招きました。これが、遭難の頻発につながったと考えられています。 2遣唐使廃止後 渡海制から年紀制と呼ばれる商船が前回の渡航から次回の来航までに10〜12年の間隔を空けるよう制限する取り決めが採用されました。しかし、10世紀後半には朝廷は特例として宋や高麗の商船の入港を認める一方、宋や高麗に密航する日本船も見られるようになります。商船の行き来は中国の文書や陶磁器などの唐物の人気が根強かったことも理由の一つで、私的な貿易として唐物が輸入されていました。
10世紀後半には朝廷は特例として宋や高麗の何の入港を認めましたか。
10世紀後半には朝廷は特例として宋や高麗の商船の入港を認めました。
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【日宋貿易とは】簡単にわかりやすく解説!!貿易理由や輸入品・輸出品・影響など 菅原道真による遣唐使廃止以降、日本ではかな文字の発達に代表される国風文化が発展し、表向きには国交や通商に対して消極的な姿勢を取ってきました。平忠盛が独自に交易を始め平清盛が宋との貿易を政策としてすすめると、日本の経済や宗教、文化に大きな影響を与えます。これが「日宋貿易」です。今回はこの『日宋貿易』について、簡単にわかりやすく解説していきます。 日宋貿易とは? 日宋貿易とは、10世紀から13世紀にかけて日本と中国の宋との間で行われた貿易のことです。遣唐使廃止以降は中国との正式な国交は行われていませんでしたが、宋の商人が来航し私貿易は続いていました。宋が硫黄や木材を必要とするようになると、日本との貿易は徐々に活発になります。平忠盛は宋との貿易に目をつけて貿易で利益を生むようになります。さらに平清盛は日宋貿易を拡大し、利潤が平氏政権の経済基盤になるだけでなく宋銭の流入によって貨幣経済が発達するなど日本の経済や文化に大きな影響を与えました。 日宋貿易前の日中関係 遣唐使廃止によって日本と中国の正式な外交は途絶えることになります。これには唐の衰退も影響しており、日中の外交は中国の王朝の盛衰によるものも大きくなります。
遣唐使廃止以降はどことの正式な国交は行われていませんでしたか。
遣唐使廃止以降は中国との正式な国交は行われていませんでした。
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618年に中国で唐がおこると、律令法に基づき中央集権的な国家体制の充実を図ります。 より統治しやすくするために均田制や租庸調制などを確立しました。 日本では大化の改新の翌年、改新の詔が発せられたと「日本書紀」に記されており、唐にならい公地公民、国郡里制、税制が規定されました。 それとともに戸籍をもとにして口分田を班給することが定められたのが「班田収授法」の始まりです。 今回は、『班田収授法』について、簡単にわかりやすく解説していきます。 班田収授法とは、飛鳥時代後期から平安時代にかけて行われた、6歳以上の男女に口分田を班給する制度のことです。 大化の改新後、唐にならって律令国家を目指す改新の詔が発せられます。 そのうちの一つが班田収授法であり、人口と田地の調査をして税を確保する狙いがありました。 班給について細かく取り決められていましたが、奈良時代末期になると浮浪や逃亡する者が増え、平安時代初期には実施されなくなっていきました。 班田収授法は中央集権的な律令制度の一環として採り入れられたものですが、お手本となったのは唐の均田制でした。 日本では大化の改新後、律令国家を目指した改新の詔が発せられ、戸籍が整備されることで班田収授法に向けた準備が整っていきます。
班田収授法とはどのような制度ですか。
班田収授法とは、6歳以上の男女に口分田を班給する制度のことです。
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歴史
618年に中国で唐がおこると、律令法に基づき中央集権的な国家体制の充実を図ります。 より統治しやすくするために均田制や租庸調制などを確立しました。 日本では大化の改新の翌年、改新の詔が発せられたと「日本書紀」に記されており、唐にならい公地公民、国郡里制、税制が規定されました。 それとともに戸籍をもとにして口分田を班給することが定められたのが「班田収授法」の始まりです。 今回は、『班田収授法』について、簡単にわかりやすく解説していきます。 班田収授法とは、飛鳥時代後期から平安時代にかけて行われた、6歳以上の男女に口分田を班給する制度のことです。 大化の改新後、唐にならって律令国家を目指す改新の詔が発せられます。 そのうちの一つが班田収授法であり、人口と田地の調査をして税を確保する狙いがありました。 班給について細かく取り決められていましたが、奈良時代末期になると浮浪や逃亡する者が増え、平安時代初期には実施されなくなっていきました。 班田収授法は中央集権的な律令制度の一環として採り入れられたものですが、お手本となったのは唐の均田制でした。 日本では大化の改新後、律令国家を目指した改新の詔が発せられ、戸籍が整備されることで班田収授法に向けた準備が整っていきます。
班田収授法の手本となったのは何ですか。
班田収授法の手本となったのは唐の均田制です。
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墾田永年私財法とは、奈良時代である743年に聖武天皇によって発布された、土地を開墾した分だけ自分の土地にできることが出来る法律のことです。 この法律によって公地公民制が崩壊して貴族や豪族たちが荘園を作り出して荘園制が誕生するようになりました。 645年に大化の改新を始めて以降、日本では公地公民制という日本の土地は全て天皇のものという制度によって天皇中心の国づくりを行なっていました。 今でこそ日本は土地の所有が認められており、土地代を払って自分の土地にすれば大体のことが出来ますが、この時は国から口分田という田んぼを貸し与えてそこから取れた租を年貢として取り立てるというという感じになっていました。 つまり自分の土地を持っていなかったことです。 しかし、これでは民衆にとったら「田んぼをいくら耕しても自分のものにはならないし、さらに年貢の税率がひどいからもういっそのこと田んぼを耕すのをやめよ」というふうになってしまいます。 まぁ、年貢によって死ぬぐらいなら逃げた方がましですしね。 そのため、日本は土地を耕す人が少なくなりその分税が減少するという事態が起きてしまいました。 税収が下がると困ってしまうのはもちろん天皇を始めとした朝廷です。 朝廷はなんとかして国民に年貢を納めさせたい。そのため天皇は国民にやる気を出させるために三世一身法というものを制定します。 この三世一身法というのは結構わかりやすいもので、土地を開墾して田んぼを作ったらそこから3世代(つまり孫のこと)までは自分の土地にすることができますよというもの。 つまり土地を耕せば自分のものにできるというわけです。 公地公民を行なっていた朝廷がついに条件付きで土地の所有を認めたことは国民にとってやる気を出させるのです。 しかし、三世代経ったら結局国のものに戻ってしまうため、耕したところで自分の子孫のものにはなりません。 そのため、国民たちは再び怠け出してしまうという事態となりました。 三世一身法を制定してようやく税収が安定すると思いきや全然効果は出ず、さらに740年代に入ると朝廷は財政難に苦しむことになっていきます。 実はこの時、朝廷ではいい都を作るために平城京からコロコロと都を移し替えていきます。 もちろん遷都の費用はタダではありませんので、遷都をするごとに莫大な金がかかり、さらには東大寺の大仏や全国に国分寺と国分尼寺を建てたことによっていつのまにか朝廷の金庫はすっからかん。超財政難に陥っていました。 そんな中ついに朝廷は墾田永年私財法を制定していくことになるのです。
三世一身法とは何ですか。
三世一身法は、土地を開墾して田んぼを作ったらそこから3世代までは自分の土地にすることができる、というものです。
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1遣唐使廃止 遣隋使に続いて630年に始まった遣唐使は、200年以上にわたり唐の文化や制度および仏教などさまざまなものを日本にもたらしました。 10数回の遣唐使によって、遣隋使にも派遣されている犬上御田鍬や高向玄理のほか、吉備真備が派遣されています。この遣唐使は894年に菅原道真によって廃止されますが、すでに838年を最後に遣唐使は実施されていませんでした。唐の衰退から政治的な意義を失いつつあること、留学生に対する唐の対応の悪化、さらには渡航途中での遭難が頻発すること、拒否して逃亡するものも現れたことなども廃止の要因となりました。また、遣唐使の期間は渡海制により遣唐使以外の海外渡航は禁止されていたため、遣唐使の間隔が長くなることで航海技術や造船技術の低下を招きました。これが、遭難の頻発につながったと考えられています。 2遣唐使廃止後 渡海制から年紀制と呼ばれる商船が前回の渡航から次回の来航までに10〜12年の間隔を空けるよう制限する取り決めが採用されました。しかし、10世紀後半には朝廷は特例として宋や高麗の商船の入港を認める一方、宋や高麗に密航する日本船も見られるようになります。商船の行き来は中国の文書や陶磁器などの唐物の人気が根強かったことも理由の一つで、私的な貿易として唐物が輸入されていました。
遣隋使に続いて630年に始まった遣唐使は、何年以上にわたり唐の文化や制度および仏教などさまざまなものを日本にもたらしましたか。
遣隋使に続いて630年に始まった遣唐使は、200年以上にわたり唐の文化や制度および仏教などさまざまなものを日本にもたらしました。
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歴史
1遣唐使廃止 遣隋使に続いて630年に始まった遣唐使は、200年以上にわたり唐の文化や制度および仏教などさまざまなものを日本にもたらしました。 10数回の遣唐使によって、遣隋使にも派遣されている犬上御田鍬や高向玄理のほか、吉備真備が派遣されています。この遣唐使は894年に菅原道真によって廃止されますが、すでに838年を最後に遣唐使は実施されていませんでした。唐の衰退から政治的な意義を失いつつあること、留学生に対する唐の対応の悪化、さらには渡航途中での遭難が頻発すること、拒否して逃亡するものも現れたことなども廃止の要因となりました。また、遣唐使の期間は渡海制により遣唐使以外の海外渡航は禁止されていたため、遣唐使の間隔が長くなることで航海技術や造船技術の低下を招きました。これが、遭難の頻発につながったと考えられています。 2遣唐使廃止後 渡海制から年紀制と呼ばれる商船が前回の渡航から次回の来航までに10〜12年の間隔を空けるよう制限する取り決めが採用されました。しかし、10世紀後半には朝廷は特例として宋や高麗の商船の入港を認める一方、宋や高麗に密航する日本船も見られるようになります。商船の行き来は中国の文書や陶磁器などの唐物の人気が根強かったことも理由の一つで、私的な貿易として唐物が輸入されていました。
何年を最後に遣唐使は実施されていませんでしたか。
838年を最後に遣唐使は実施されていませんでした。
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1遣唐使廃止 遣隋使に続いて630年に始まった遣唐使は、200年以上にわたり唐の文化や制度および仏教などさまざまなものを日本にもたらしました。 10数回の遣唐使によって、遣隋使にも派遣されている犬上御田鍬や高向玄理のほか、吉備真備が派遣されています。この遣唐使は894年に菅原道真によって廃止されますが、すでに838年を最後に遣唐使は実施されていませんでした。唐の衰退から政治的な意義を失いつつあること、留学生に対する唐の対応の悪化、さらには渡航途中での遭難が頻発すること、拒否して逃亡するものも現れたことなども廃止の要因となりました。また、遣唐使の期間は渡海制により遣唐使以外の海外渡航は禁止されていたため、遣唐使の間隔が長くなることで航海技術や造船技術の低下を招きました。これが、遭難の頻発につながったと考えられています。 2遣唐使廃止後 渡海制から年紀制と呼ばれる商船が前回の渡航から次回の来航までに10〜12年の間隔を空けるよう制限する取り決めが採用されました。しかし、10世紀後半には朝廷は特例として宋や高麗の商船の入港を認める一方、宋や高麗に密航する日本船も見られるようになります。商船の行き来は中国の文書や陶磁器などの唐物の人気が根強かったことも理由の一つで、私的な貿易として唐物が輸入されていました。
商船の行き来は中国の文書や陶磁器などの何の人気が根強かったことが理由の一つでしたか。
商船の行き来は中国の文書や陶磁器などの唐物の人気が根強かったことも理由の一つでした。
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弥生時代で最も特徴的な変化は大陸から稲作が伝わったことです。稲作は弥生時代の初期、九州北部に大陸からの渡来人によって伝えられました。そしておよそ100年ほどをかけて近畿地方へ、弥生時代の中期である紀元後2世紀頃には東北地方にまで伝わっていきました。稲作が広まった大きな理由は食料の保存がきくという点です。それまでの生活は動物や魚の狩猟、木の実などの採取が中心であったため安定した食料の確保が難しく食料の確保が出来なければ飢え死にの心配がありました。その点、稲作ではお米を作れば保存がきくので飢え死にする心配がなくなったのです。しかし田んぼを思い浮かべるとわかる通り稲作には稲を育てる土地、水路の確保、耕す労働力、保存する場所等様々な問題点も浮上しました。そのため弥生時代では人々の生活ぶりが大きく変わりました。稲作が広まったことで大きく変わったのは共同生活人数の増加です。それまでの狩猟と採取中心の時代では捕れる獲物の数に限りがあるため多くの人が共同で暮らすのは難しかったのですが、弥生時代では水路の確保、管理、稲作の労働力の観点から生活人数が大幅に増えることになりました。もちろんお米は保存のきく食料なので食糧問題も問題にはならなかったのです。さらに弥生時代の後期には渡来人から金属を使う文化が伝わりました。それまでつかっていた木製農具から鉄製農具を使うようになり稲作の効率があがることになりました。お米の保存のために建物も変わりました。それまでの竪穴式住居では湿気とネズミによってお米の保存がうまく出来ませんでした。そこで登場したのが高床式倉庫です。読んで字のごとく地面から高い位置に床を作ることで湿気を防ぎ、床にはネズミ返しを作ることでネズミからお米を守ることが出来るようになりました。
木製農具から鉄製農具を使うようになったことで、何があがることになりましたか。
稲作の効率があがることになりました。
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歴史
八色の姓とは、684年に天武天皇が再編した「姓(かばね)」の制度のことです。 従来あった「姓」を統合して、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8級を新たに設けました。 これによって、家柄の上下をはっきりと区分したわけです。 「姓(せい)」というと、現代の私たちは「鈴木さん」とか「田中さん」とかいう姓を思い浮かべますよね。 でも、これは古代の姓(かばね)とは違います。大和の王権が勢力を伸ばしていく中で、豪族たちは「氏(うじ)」を名乗りました。 氏というのは一族の名をあらわすもので、「蘇我氏」「物部氏」「大伴氏」などというのがその一例です。 ちなみに、氏の後ろには「の」をつけるのが決まりです。例えば「大伴家持」は「おおとも“の”やかもち」と読みます。 これに対して、「姓(かばね)」は大王(天皇)から一族に与えられた称号でした。 例をあげると、蘇我氏などには「臣(おみ)」、物部氏や中臣氏などには「連(むらじ)」といった姓が与えられています。 臣は大王の子孫を意味していて、連は神々の子孫を意味すると言われ、そのトップである大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)が政治のリーダーとなりました。 この「姓」と「氏」の二つを合わせて「氏姓制度」と言います。 674年に壬申の乱(じんしんのらん)で権力を握った天武天皇は、強力なリーダーシップで新しい国の制度作りを進めていきます。 ちなみに、「天皇」の称号を初めて名乗ったのも天武天皇だと言われていますし、「日本」という国号を採用したのもこのころだという説が有力です(それまでは「大王」、「倭」でした)。 天皇を中心とした中央集権国家を建設する中で、姓の再編成が行われました。それが「八色の姓」の制定だったのです。 天武天皇は従来の姓の秩序を廃止して、自分の望み通りに身分の秩序を作ろうとしました。 これまでとは違う新しい国家を作るために、自分と近い血筋の者や功績があった者に高い地位を与えようという狙いがあったわけです。 最初にも書いたように、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8つの姓が作られました。 中でも、真人は天皇の一族にだけ与えられ、最高位と位置付けられています。このことからも天武天皇が自分の親族を中心とした政治(皇親政治)を進めようとしていたことがうかがえます。 二番目に高いのが朝臣でした。これは壬申の乱で特に功績があり、主に古い時代(景行天皇以前)の天皇の血筋にあると称する一族に与えられました。従来の臣の中でも有力な者に与えられたようです。また、宿禰は従来の連の中の有力者に与えられました。 なお、八色の姓は豪族に与えられたもので、庶民には与えられません。 ただ、天武の前の天智天皇の時代に庚午年籍(こうごねんじやく)とよばれる戸籍が作られると、一般庶民にも「姓(せい)」が与えられるようになります。 ところが、8つの姓を作ったものの、実際に新たに与えられたのは「真人・朝臣・宿禰・忌寸」の4つだけでした。 「臣、連」はもともと臣、連だったものの新姓を与えられなかった氏に引き続き与えられたものです。つまり、天武天皇との関係が遠い旧勢力の豪族が格下げされたものだと言えるでしょう。 また、「道師、稲置」は実際には授与されず、どういった意味があったのかはわかっていません。 全ての豪族がこの8つに位置付けられたのかというと、必ずしもそうではなく、「伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)」といった姓も残されていました。
天武天皇が八色の姓を制定した狙いは何ですか。
天武天皇が八色の姓を制定した狙いは、これまでとは違う新しい国家を作るために、自分と近い血筋の者や功績があった者に高い地位を与えることです。
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歴史
白村江の戦いとは、663年に百済の復興を成し遂げるために日本が唐・新羅連合軍と戦った戦争のことです。 この戦争によって日本は防衛体制を強化して国力の強化に努めていくことになるのです。 7世紀の頃、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3つの国が互いに争っている状態が続いていました。 その中でも新羅は唐と特に仲が良く、唐の制度を積極的に取り入れて同盟関係といっても良いほどでしたが、唐が高句麗に侵攻するとこの同盟関係が逆に高句麗が新羅に侵攻するきっかけとなっていきます。 高句麗と百済は唐と新羅に対抗するため同盟関係を結び、百済は新羅に侵攻。 新羅を圧迫しますが、新羅に勝つことはできず、逆に百済は新羅によって滅ぼされてしまいます。 こうして滅亡した百済でしたが、実は百済には一つの希望が残されていたのです。 百済滅亡の影響を一番受けたのが倭国(日本)でした。 この頃日本では大化の改新を行なっていた倭国では朝鮮半島に対する外交体制を決めなければいけませんでしたが、国内では唐との関係を重視する派と百済の関係を重視して朝鮮半島の影響力を伸ばす派の2つに分かれていました。 そんな時百済が滅亡したという知らせが届きます。 倭国からしたら関係のないことだと思いますが、実は倭国と百済は昔から友好関係を結んでいた国であり、さらに百済の王子が倭国に亡命していたのです。 こうなると百済の残党たちは王子がいる倭国を頼るようになり、倭国に対して「百済の復興のために一緒に新羅と戦いましょう!」という使いを送ってきます。 倭国にとったらこの願いを承諾して新羅と戦えば、新羅の同盟国である唐との戦争は避けられません。 この知らせは選択を誤ったら倭国存亡の危機に関わる重大な決断でしたが、結果的に日本はこの百済の願いを承諾して唐と戦うことになりました。 実はこうなった理由には当時倭国で即位していた斉明天皇が関係しているのです。 当時倭国では東北・北海道地方に居住していた蝦夷を征服を進めていき倭国の影響力を強化したいと思っていました。 斉明天皇からすれば蝦夷を征服してさらに百済を救えば、朝鮮半島における倭国の影響力を強めることができ、属国として扱うことができるかもしれません。 この魅力的な話に斉明天皇は見事に乗って、どちらかといえば反対派であった中大兄皇子の意見を退けて百済救援を決断します。 こうして百済の救援を決断した斉明天皇率いる倭国の軍は、当時都があった難波宮を出発して福岡県北部に向かいます。 ちなみに対外戦争があまり行わなかった日本において、天皇が前線で指揮することはこの戦いぐらいです。 天皇が前線に立ったことによって倭国軍の士気はピークに達しますが、なんと斉明天皇は福岡県北部についたところで病死。 中大兄皇子が代わりに指揮をとることになりますが、この死は倭国に暗雲をもたらしていきます。 斉明天皇の死という最悪のトラブルがあったものの、倭国の遠征軍は筑紫を出発して朝鮮に侵攻。百済の旧領の奪還を目指します。 実は最初の方は唐がまだ移動途中で新羅のみと戦っていたため、倭国と百済の残党勢力の方が優勢でした。 しかし、肝心の朝鮮半島に上陸しようとしていた矢先に土壇場で唐の援軍が到着、近くの白村江というところで唐と戦闘が開始されました。 最初の方は人数が多い倭国軍が優勢だったそうですが、斉明天皇の死の影響による士気の低下、倭国とは比べ物にならないほどの精強な軍と最新兵器を備えている唐に押され始め、最終的には崩壊してしまいます。 結果、1万人の死者を叩き出して撤退します。 これによって復活の道が絶たれた百済は完全に滅亡。さらに倭国も朝鮮半島の足がかりを失ってしまうという散々な結果で白村江の戦いは幕を閉じました。
白村江の戦いとは、何年に日本が唐・新羅連合軍と戦った戦争のことですか。
白村江の戦いは、663年に日本が唐・新羅連合軍と戦った戦争のことです。
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歴史
壬申の乱とは、天智天皇の死後672年に大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)との間で起こった後継者争いです。 古代史上最大の武力による内乱といわれています。 この壬申の乱をきっかけに天皇に権力が集中。その後、奈良時代へと続く天皇中心の律令国家へのスタートとなりました。 壬申の乱における重要な登場人物は3人です。「天智天皇(てんじてんのう)」、「大友皇子(おおとものおうじ)」、「大海人皇子(おおあまのおうじ)」。 大友皇子=天智天皇の子どもで、大海人皇子=天智天皇の弟です。 ※ちなみに天智天皇は、乙巳の変(いっしのへん)、大化の改新で知られる中大兄皇子と同一人物です。 壬申の乱のおよそ30年前(645年)に起こった中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害した大事件。 これを「乙巳の変」といいます。 その後、蘇我家は滅び孝徳天皇が即位。中大兄皇子は皇太子として国政改革を推進しました。 土地も人民も天皇のものとした公地公民制の政策が有名ですよね。 661年孝徳天皇が死去した後も、中大兄皇子はしばらく皇太子として国政を行っていましたが、近江大津宮(おうみおおつのみや)へ都を移した翌年、668年に即位し天智天皇となりました。 当時の常識では、天智天皇の次に即位するのは弟の大海人皇子のはず…でしたが、我が子かわいさに天智天皇は大友皇子を後継者にしようとしました。 天智天皇は朝廷内にその意向を示すため、大友皇子を次期天皇であることを意味する太政大臣に就任させました。 一般的に考えて、天皇の弟より子どもの方が皇位継承順位は上のように思いますが、なぜ、大友皇子は違ったのか? それは、大友皇子のお母さんが采女(うねめ)とよばれる身分の低い女性だったからです。 皇位を継ぐことができるのは、皇族や豪族出身の皇后から生まれた子どもだけでした。 そのため、天皇や皇后の食事の世話をする女官である采女から生まれた大友皇子には皇位継承権自体がなかったわけです。 反対に、天智天皇と同じ母を持つ大海人皇子には、正当な皇位継承権がありました。 天智天皇はこのルールを無視して、大友皇子を後継者にしようと“ゴリ押し”しました。 正当な皇位継承権をもっていない大友皇子を天皇にしたい天智天皇にとって、邪魔な人物は誰なのでしょうか? そう!弟の大海人皇子です。 先を読み、身の危険を感じた大海人皇子は、兄である天智天皇が強硬手段にでる前に、自分から“政治にも天皇という地位にも興味がない”ことをアピールしました。 そして、大津宮から100km以上も離れた奈良の吉野に移り、頭を丸め僧となって目立たぬように暮らしました。 状況が変わるきっかけは671年天智天皇の死でした。 朝廷内では生前の天智天皇が独裁気味だったため、その不満が息子の大友皇子に向けられるようになっていきます。 不安定になった朝廷を見逃さなかったのが吉野にいた大海人皇子。天智天皇が死んだ翌年、672年に挙兵します。 大海人皇子は吉野を出発し、伊賀・伊勢を経て大津宮の東に位置する自らの領国美濃(岐阜)にむかいました。 そして、大海人皇子は東国の豪族を中心に3万5千もの兵を集め大友皇子と戦いうことになります。これが壬申の乱です。 古代史上最大の内乱かつ武力による後継者争いといわれる壬申の乱に勝利したのは、天智天皇の弟である大海人皇子でした。 先制攻撃をしかけたのが最大の勝因といわれています。 壬申の乱後、大海人皇子は奈良の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇(てんむてんのう)となりました。
なぜ大友皇子には皇位継承権がなかったのですか。
大友皇子に皇位継承権がなかったのは、大友皇子の母が身分の低い女性だったからです。
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歴史
鎌倉文化の特徴 鎌倉文化の特徴は、先にも述べたように武士が中心となり庶民感覚を反映させたことと、新しい文化の取入れになります。なかでも中国文化の取入れには積極的でした。当時の中国では民族の違いによって冷遇されるという差別が横行しており、日本へ亡命する者も少なくありませんでした。そうした者たちから得られる新しい文化の取入れもありました。亡命する者の中には若い僧侶もおり、1300年中期から1400年頃にかけて日本では新たな仏教の宗派が増えていったのも特徴のひとつといえるでしょう。宗教に興味がなくても知っているであろう、日蓮宗・浄土宗・浄土真宗などはこの頃にできた宗派です。鎌倉文化はほかにも新しいものを取り入れ進化していきます。その代表が建築物であったり、文学、そして絵画だったのです。 鎌倉時代の建築の特色 鎌倉時代の建築物といえば東大寺がとても有名です。といっても東大寺は平安時代に建設されたものですが、平重衡に焼かれた経緯がありその再建築が行われたのが鎌倉時代になります。かなり大掛かりで一大事業であったとされています。さて、鎌倉文化の建築の特徴はいくつかに分類することができますが、大きくわけて2つに分けることができます。ひとつは外来から取り入れた『新様式』、もうひとつは日本古来からある日本式様式です。
1300年中期から1400年頃にかけて日本では何教の宗派が増えていきましたか。
1300年中期から1400年頃にかけて日本では仏教の宗派が増えていきました。
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歴史
八色の姓とは、684年に天武天皇が再編した「姓(かばね)」の制度のことです。 従来あった「姓」を統合して、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8級を新たに設けました。 これによって、家柄の上下をはっきりと区分したわけです。 「姓(せい)」というと、現代の私たちは「鈴木さん」とか「田中さん」とかいう姓を思い浮かべますよね。 でも、これは古代の姓(かばね)とは違います。大和の王権が勢力を伸ばしていく中で、豪族たちは「氏(うじ)」を名乗りました。 氏というのは一族の名をあらわすもので、「蘇我氏」「物部氏」「大伴氏」などというのがその一例です。 ちなみに、氏の後ろには「の」をつけるのが決まりです。例えば「大伴家持」は「おおとも“の”やかもち」と読みます。 これに対して、「姓(かばね)」は大王(天皇)から一族に与えられた称号でした。 例をあげると、蘇我氏などには「臣(おみ)」、物部氏や中臣氏などには「連(むらじ)」といった姓が与えられています。 臣は大王の子孫を意味していて、連は神々の子孫を意味すると言われ、そのトップである大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)が政治のリーダーとなりました。 この「姓」と「氏」の二つを合わせて「氏姓制度」と言います。 674年に壬申の乱(じんしんのらん)で権力を握った天武天皇は、強力なリーダーシップで新しい国の制度作りを進めていきます。 ちなみに、「天皇」の称号を初めて名乗ったのも天武天皇だと言われていますし、「日本」という国号を採用したのもこのころだという説が有力です(それまでは「大王」、「倭」でした)。 天皇を中心とした中央集権国家を建設する中で、姓の再編成が行われました。それが「八色の姓」の制定だったのです。 天武天皇は従来の姓の秩序を廃止して、自分の望み通りに身分の秩序を作ろうとしました。 これまでとは違う新しい国家を作るために、自分と近い血筋の者や功績があった者に高い地位を与えようという狙いがあったわけです。 最初にも書いたように、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8つの姓が作られました。 中でも、真人は天皇の一族にだけ与えられ、最高位と位置付けられています。このことからも天武天皇が自分の親族を中心とした政治(皇親政治)を進めようとしていたことがうかがえます。 二番目に高いのが朝臣でした。これは壬申の乱で特に功績があり、主に古い時代(景行天皇以前)の天皇の血筋にあると称する一族に与えられました。従来の臣の中でも有力な者に与えられたようです。また、宿禰は従来の連の中の有力者に与えられました。 なお、八色の姓は豪族に与えられたもので、庶民には与えられません。 ただ、天武の前の天智天皇の時代に庚午年籍(こうごねんじやく)とよばれる戸籍が作られると、一般庶民にも「姓(せい)」が与えられるようになります。 ところが、8つの姓を作ったものの、実際に新たに与えられたのは「真人・朝臣・宿禰・忌寸」の4つだけでした。 「臣、連」はもともと臣、連だったものの新姓を与えられなかった氏に引き続き与えられたものです。つまり、天武天皇との関係が遠い旧勢力の豪族が格下げされたものだと言えるでしょう。 また、「道師、稲置」は実際には授与されず、どういった意味があったのかはわかっていません。 全ての豪族がこの8つに位置付けられたのかというと、必ずしもそうではなく、「伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)」といった姓も残されていました。
八色の姓にはどのような姓がありますか。
八色の姓には、真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の8つの姓があります。
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歴史
もともと伸展葬は中国大陸で用いられていた埋葬方法です。弥生時代になって渡来人がやって来るようになったと同時に、伸展葬が広まるようになったと考えられています。渡来人は日本にやって来て、いろいろなものをもたらしました。おそらく日本に来て亡くなってしまう渡来人も少なくなかったでしょう。そういった人の埋葬方法が次第に日本人にも取り入れられるようになったのです。伸展葬が行われるようになった背景には、稲作の伝来が大きく影響していると言えます。農耕を始めるようになったことで、あちこちに移動しなくても食糧を得られるようになった人々は定住を始めます。すると人々の中でコミュニティが生まれ、同時に身分差も生まれるようになります。身分の高い特権階級の人が亡くなったときに、それまでとは違って規模の大きな「墓」を作って埋葬するようになります。そのため初期の伸展葬は身分の高い人に対して行われていました。それが次第に全国的に広まり、一般の人も行うようになるのです。また埋葬方法が伝わると同時に大陸の人々の考え方ももたらされ、結果それまでの死者の霊が浮遊するという考え方が衰退し、死者を安らかな形で埋葬しようと考えるようになったようです。
定住が始まった結果、人々の中でコミュニティが生まれると同時に、何が生まれるようになりますか。
定住が始まった結果、人々の中でコミュニティが生まれると同時に、身分差が生まれるようになります。
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歴史
鎌倉文化の特徴 鎌倉文化の特徴は、先にも述べたように武士が中心となり庶民感覚を反映させたことと、新しい文化の取入れになります。なかでも中国文化の取入れには積極的でした。当時の中国では民族の違いによって冷遇されるという差別が横行しており、日本へ亡命する者も少なくありませんでした。そうした者たちから得られる新しい文化の取入れもありました。亡命する者の中には若い僧侶もおり、1300年中期から1400年頃にかけて日本では新たな仏教の宗派が増えていったのも特徴のひとつといえるでしょう。宗教に興味がなくても知っているであろう、日蓮宗・浄土宗・浄土真宗などはこの頃にできた宗派です。鎌倉文化はほかにも新しいものを取り入れ進化していきます。その代表が建築物であったり、文学、そして絵画だったのです。 鎌倉時代の建築の特色 鎌倉時代の建築物といえば東大寺がとても有名です。といっても東大寺は平安時代に建設されたものですが、平重衡に焼かれた経緯がありその再建築が行われたのが鎌倉時代になります。かなり大掛かりで一大事業であったとされています。さて、鎌倉文化の建築の特徴はいくつかに分類することができますが、大きくわけて2つに分けることができます。ひとつは外来から取り入れた『新様式』、もうひとつは日本古来からある日本式様式です。
東大寺には誰に焼かれた経緯がありますか。
東大寺には平重衡に焼かれた経緯があります。
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歴史
平城京とは、元明天皇が710年に飛鳥地方の藤原京から遷都した都です。 現在の奈良市・大和郡山市にまたがる場所に造られました。 造営当時の平城京は、南北約4.8km、東西約4.3kmの規模で、東西南北に走る大路によって整然と区画されていました。これは当時の唐の都長安をモデルにしたと言われています。 桓武天皇が784年に長岡京に遷都するまでの74年間、平城京が政治の中心地でしたが、平安時代に入るとたちまち荒廃してしまい、東大寺や興福寺の門前町が残るのみとなりました。 飛鳥時代から奈良時代にかけて、何度も遷都が行われましたが、正確な理由はよく分かっていません。 特に、なぜ694年に遷都したばかりだった藤原京をたった16年間で捨てて、平城京に遷都したかははっきりしません。 これまでいくつかの推測がなされてきました。 ・藤原京では交通が不便で、大きくなった中央政府にとって適さなくなったから。 ・藤原京の造営が修正に修正を重ねて行き詰ったため、仕切り直しをする必要があったから。 ・飢饉や疫病を防ぐ呪術的な力を引き出すために遷都が必要だったから。 ・藤原不比等の一族が権力を高めるため、都を飛鳥地方から離す必要があったから。 しかし、どの説も決定的な証拠がありません。 数少ない史料の中で最も重要なものが、元明天皇が608年に出した「遷都の詔」です。 そこには、元明天皇自身は遷都を急ぐ必要はないと考えていたにもかかわらず、まわりの貴族たちが遷都は必要だと主張していたことが書かれています。どうもこのあたりが遷都の理由と関わっているようです。 遷都が必要だと主張した貴族たちの中には、藤原不比等がいました。 この人物は、藤原鎌足の息子で、元明天皇の息子であった文武天皇に自分の娘を嫁がせることで、権力を拡大しました。 一説によれば、不比等が平城京への遷都を主張したのは、都を飛鳥地方から離れた場所に移すことで、自分たちの権力を高めるためだとされます。 また、近年注目されている説では、遣唐使を再開したことの影響が指摘されています。 遣唐使は663年の白村江の戦いで唐と関係が悪化してから途切れていましたが、702年に再開されます。 約30年ぶりに唐の都長安を見た遣唐使の一行は、藤原京とあまりに違うことに衝撃を受け、外国の使節に舐められないように、新たに国際標準の最先端の都市として平城京を造ることを進言したのではないかと考えられています。 おそらくこうした複数の理由が重なって、平城京への遷都に至ったのでしょう。
平城京は何年に藤原京から遷都した都ですか。
平城京は、710年に藤原京から遷都した都です。
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歴史
2. 幕府政治の荒廃 そのような情勢の中にもかかわらず、鎌倉末期の14代執権北条高時は、政治を側近である長崎高資(ながさきたかすけ)にまかせ、自身は田楽などの道楽にふけっていました。長崎達が権力を行使して好き勝手に政治を行った為、政治は乱れ荒廃は深刻化していきます。この長崎達の横暴ぶりは他の北条一族でも抑えることが出来なかったそうですが、今でいうと社長の秘書が権力を握り、おそらく社長一族が口出しできないといった感じでしょう。 3. 正中の変が起こった原因(きっかけ) 荒廃していく幕府政治に対し、1318年に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は政治に非常に意欲的な天皇だったようです。かつて朝廷にあった「記録書」という役所を再興し、民衆の訴えに耳を傾け、飢饉の折には自らも倹約を実施、悪徳商人を取り締まったり、施しを行ったりしたそうです。かつての天皇親政の治世時代を目指していた後醍醐天皇でしたが、当時は朝廷の皇位相続へも幕府の干渉がありました。皇位は大覚寺統と持明院統の両統迭立(りょうとうてつりつ)が原則でしたので、天皇は自らの考えの政治を後継者へ継続していくことが困難であり、実権は幕府が握っていたようなものだったのです。誤った政治を正し、理想の政治を実現するためにも、後醍醐天皇が倒幕を考えるようになっていくのは必然だったのかもしれません。
鎌倉末期の14代執権北条高時は何にふけっていましたか。
鎌倉末期の14代執権北条高時は田楽などの道楽にふけっていました。
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歴史
平城京とは、元明天皇が710年に飛鳥地方の藤原京から遷都した都です。 現在の奈良市・大和郡山市にまたがる場所に造られました。 造営当時の平城京は、南北約4.8km、東西約4.3kmの規模で、東西南北に走る大路によって整然と区画されていました。これは当時の唐の都長安をモデルにしたと言われています。 桓武天皇が784年に長岡京に遷都するまでの74年間、平城京が政治の中心地でしたが、平安時代に入るとたちまち荒廃してしまい、東大寺や興福寺の門前町が残るのみとなりました。 飛鳥時代から奈良時代にかけて、何度も遷都が行われましたが、正確な理由はよく分かっていません。 特に、なぜ694年に遷都したばかりだった藤原京をたった16年間で捨てて、平城京に遷都したかははっきりしません。 これまでいくつかの推測がなされてきました。 ・藤原京では交通が不便で、大きくなった中央政府にとって適さなくなったから。 ・藤原京の造営が修正に修正を重ねて行き詰ったため、仕切り直しをする必要があったから。 ・飢饉や疫病を防ぐ呪術的な力を引き出すために遷都が必要だったから。 ・藤原不比等の一族が権力を高めるため、都を飛鳥地方から離す必要があったから。 しかし、どの説も決定的な証拠がありません。 数少ない史料の中で最も重要なものが、元明天皇が608年に出した「遷都の詔」です。 そこには、元明天皇自身は遷都を急ぐ必要はないと考えていたにもかかわらず、まわりの貴族たちが遷都は必要だと主張していたことが書かれています。どうもこのあたりが遷都の理由と関わっているようです。 遷都が必要だと主張した貴族たちの中には、藤原不比等がいました。 この人物は、藤原鎌足の息子で、元明天皇の息子であった文武天皇に自分の娘を嫁がせることで、権力を拡大しました。 一説によれば、不比等が平城京への遷都を主張したのは、都を飛鳥地方から離れた場所に移すことで、自分たちの権力を高めるためだとされます。 また、近年注目されている説では、遣唐使を再開したことの影響が指摘されています。 遣唐使は663年の白村江の戦いで唐と関係が悪化してから途切れていましたが、702年に再開されます。 約30年ぶりに唐の都長安を見た遣唐使の一行は、藤原京とあまりに違うことに衝撃を受け、外国の使節に舐められないように、新たに国際標準の最先端の都市として平城京を造ることを進言したのではないかと考えられています。 おそらくこうした複数の理由が重なって、平城京への遷都に至ったのでしょう。
遣唐使が再開されたのはいつですか。
遣唐使が再開されたのは、702年です。
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歴史
氏姓制度は、645年乙巳の変をきっかけに新政権が誕生し支配体制が変わったことで、機能しなくなりました。このあたりの歴史を少しおさらいしておきましょう。645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇を操り権力を独占していた蘇我入鹿(いるか)を殺害する事件乙巳の変を起こしました。その後、入鹿の父、蘇我蝦夷(えみし)も自害したことで蘇我氏は滅亡しました。翌646年には新しく即位した孝徳天皇が新たな政治方針を示した改新の詔を発布。天皇に権力を集中させた中央集権国家を目指すことになりました。この政治改革が大化の改新と呼ばれています。 この大化の改新によって、これまでの“土地や人民を所有する豪族たちが集まってできた連合政権”から、“天皇に権力を集中させた中央集権国家”へと、支配体制が変わりました。簡単にいうと、それぞれ王様のいる小さな国が集まってつくられていた連合政権から、一人の王つまり天皇が支配するひとつの国になったわけです。支配体制が変われば、ルールも変わるのは当然のこと。氏姓制度で、豪族たちがそれぞれ所有していた田荘(土地)や部曲(人民)は、新たに公地公民制を導入したことですべて天皇のものになりました。政権内の役職もリニューアルされ、連合政権の中心を担っていた大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の代わりに、左大臣、右大臣を新設。初代左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が就きました。
645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、誰を殺害しましたか。
645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我入鹿を殺害しました。
JCRRAG_002772
歴史
なぜ古墳は大きくなったのか? きっかけは、弥生時代から古墳時代にかけての戦乱だとされています。弥生時代から古墳時代の間は、地方の小国同士の争いが絶えませんでした。これをあの「魏志倭人伝」では、倭国大乱(わこくたいらん)と呼んでいました。しかし、この大乱を治めるべく、女性の王・卑弥呼が頂点に立つと平和な時代が訪れ、死後に男性の王が立つと戦乱が続き、さらに卑弥呼の血縁である台与(とよ)が王位を引き継いだら平和になる、というジンクス的な事象が起きていました。しかし、卑弥呼が王位に就く前の倭国大乱と死後に起きた争いが原因で国内の水田は荒廃し、戦乱では多くの命が失われ、労働力も減少。さらに、寒冷化というトリプルパンチもあって、稲作に深刻なダメージが起きます。倭国内乱当時は既に、コメが主食となっていたわけですので、食料問題にまで発展。小国の支配者たちは、権力争いの殺し合いではなく、もはやコメの収穫量に力を注がなければ、民衆の支持を得ることが出来なくなったのです。では、どうやって支持を得るのかというところで登場するのが、古墳の造立と言う訳です。水田を開拓すると、残土がでますよね。この残土が多ければ多いほど、水田は耕され、コメがたくさん収穫でき、民衆は食に飢えずに済みます。さらに権力者は、その時の残土の量で大きな古墳を造ることが出来る、と言う訳です。古墳の大きさはコメの生産高の高さを表し、権力者の階級を誇示できるという政治体制となっていったのです。
倭国大乱と、卑弥呼の死後に起きた争いが原因で荒廃したものは何ですか。
倭国大乱と、卑弥呼の死後に起きた争いが原因で荒廃したものは、水田です。
JCRRAG_002773
歴史
大和朝廷と邪馬台国って何か関係あるの?と授業を受けてなった人もいるかと思います。実は大和朝廷と邪馬台国の関係も、歴史書が中国にしか存在していないため、ちゃんとしたことは明らかになっていません。そのため、2つの国の関係には、いろんな説が出ています。大和朝廷を開いたのは、邪馬台国出身の豪族であるという説があります。邪馬台国は、九州と近畿(きんき)地方(大坂・京都・奈良周辺)のどちらかにあったという説が有力となっています。大和朝廷があったとされるのは、奈良県を中心とした近畿地方とされていることから、邪馬台国がもし近畿地方にあったとしたら、大いに考えられる説ですよね。一方では、大和朝廷が勢力拡大の際に、邪馬台国を征服(せいふく)したという説もあります。さきほど、邪馬台国は九州と近畿地方のどちらかにあったと考えられているお話をしました。これは、もし大和朝廷が西日本に領土を広げるために邪馬台国を攻撃したとするならば、邪馬台国は大和朝廷にほろぼされたという説です。中国の歴史書によれば、邪馬台国にいた女王・卑弥呼(ひみこ)がなくなったのは240年から249年ごろとされています。そのあとに、男性の王が即位したものの、政権が乱れ、新たな女王が誕生したところ、争いがおさまったとされています。邪馬台国が歴史書に残っているのはここまでで、その後どうなったかは定かではありません。しかし、3世紀になると、大和朝廷のシンボルといえる大きな古墳が登場し、592年には飛鳥時代がスタート。飛鳥時代に入ると、仏教の影響もあって、古墳が見られなくなりました。新たな女王が即位した後から、古墳が現れるまでの空白はに何が起きたかは、今もわかりません。ここがはっきりすれば、大和朝廷と邪馬台国との関係もハッキリするでしょう。
中国の歴史書では、卑弥呼がなくなったのは何年から何年ごろとされていますか。
卑弥呼がなくなったのは240年から249年ごろとされています。
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歴史
2. 幕府政治の荒廃 そのような情勢の中にもかかわらず、鎌倉末期の14代執権北条高時は、政治を側近である長崎高資(ながさきたかすけ)にまかせ、自身は田楽などの道楽にふけっていました。長崎達が権力を行使して好き勝手に政治を行った為、政治は乱れ荒廃は深刻化していきます。この長崎達の横暴ぶりは他の北条一族でも抑えることが出来なかったそうですが、今でいうと社長の秘書が権力を握り、おそらく社長一族が口出しできないといった感じでしょう。 3. 正中の変が起こった原因(きっかけ) 荒廃していく幕府政治に対し、1318年に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は政治に非常に意欲的な天皇だったようです。かつて朝廷にあった「記録書」という役所を再興し、民衆の訴えに耳を傾け、飢饉の折には自らも倹約を実施、悪徳商人を取り締まったり、施しを行ったりしたそうです。かつての天皇親政の治世時代を目指していた後醍醐天皇でしたが、当時は朝廷の皇位相続へも幕府の干渉がありました。皇位は大覚寺統と持明院統の両統迭立(りょうとうてつりつ)が原則でしたので、天皇は自らの考えの政治を後継者へ継続していくことが困難であり、実権は幕府が握っていたようなものだったのです。誤った政治を正し、理想の政治を実現するためにも、後醍醐天皇が倒幕を考えるようになっていくのは必然だったのかもしれません。
皇位は何が原則でしたか。
皇位は大覚寺統と持明院統の両統迭立が原則でした。
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歴史
日宋貿易の変遷「貿易理由と貿易品」 日宋貿易では中国の北宋から南宋への王朝の移り変わりとともに変化してきました。北宋時代には日本からの硫黄の輸出により貿易が活発になり、南宋時代には平清盛によって拡大され医療においては欠かせないものになりました。 1北宋時代 北宋が成立した960年になると、北宋は各地に貿易の事務管理をする役所を設置して、日本や高麗のほか南方とも貿易を行いました。日本とは大宰府鴻臚館(こうろかん)で貿易が行われていましたが、貿易は活発にならず日本と宋の正式外交にはつながりませんでした。また、一般人の渡航は禁止されますが、宋の商人が来航する私的な貿易は続いていました。このころから日本から北宋への硫黄の輸出が始まり、のちに宋政府の大量買付計画があったとされています。硫黄は当時拡大していた火薬武器に必要なものでしたが、硫黄が採れる地域は遼(りょう)・金(きん)・西夏(せいか)・大理(だいり)などの国々が支配する地域にしかなかったため、日本からの輸入に頼るという事情がありました。日本からの硫黄の輸出の歴史は、988年に420kgの硫黄を献上したことに始まり、11世紀後半には宋の商人による買付が何度も行われていたという記録が残っています。
北宋時代には日本からの何の輸出により貿易が活発になりましたか。
北宋時代には日本からの硫黄の輸出により貿易が活発になりました。
JCRRAG_002776
歴史
氏姓制度は、645年乙巳の変をきっかけに新政権が誕生し支配体制が変わったことで、機能しなくなりました。このあたりの歴史を少しおさらいしておきましょう。645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇を操り権力を独占していた蘇我入鹿(いるか)を殺害する事件乙巳の変を起こしました。その後、入鹿の父、蘇我蝦夷(えみし)も自害したことで蘇我氏は滅亡しました。翌646年には新しく即位した孝徳天皇が新たな政治方針を示した改新の詔を発布。天皇に権力を集中させた中央集権国家を目指すことになりました。この政治改革が大化の改新と呼ばれています。 この大化の改新によって、これまでの“土地や人民を所有する豪族たちが集まってできた連合政権”から、“天皇に権力を集中させた中央集権国家”へと、支配体制が変わりました。簡単にいうと、それぞれ王様のいる小さな国が集まってつくられていた連合政権から、一人の王つまり天皇が支配するひとつの国になったわけです。支配体制が変われば、ルールも変わるのは当然のこと。氏姓制度で、豪族たちがそれぞれ所有していた田荘(土地)や部曲(人民)は、新たに公地公民制を導入したことですべて天皇のものになりました。政権内の役職もリニューアルされ、連合政権の中心を担っていた大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の代わりに、左大臣、右大臣を新設。初代左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が就きました。
孝徳天皇は646年に何を発布しましたか。
孝徳天皇は646年に改新の詔を発布しました。
JCRRAG_002777
歴史
日宋貿易の変遷「貿易理由と貿易品」 日宋貿易では中国の北宋から南宋への王朝の移り変わりとともに変化してきました。北宋時代には日本からの硫黄の輸出により貿易が活発になり、南宋時代には平清盛によって拡大され医療においては欠かせないものになりました。 1北宋時代 北宋が成立した960年になると、北宋は各地に貿易の事務管理をする役所を設置して、日本や高麗のほか南方とも貿易を行いました。日本とは大宰府鴻臚館(こうろかん)で貿易が行われていましたが、貿易は活発にならず日本と宋の正式外交にはつながりませんでした。また、一般人の渡航は禁止されますが、宋の商人が来航する私的な貿易は続いていました。このころから日本から北宋への硫黄の輸出が始まり、のちに宋政府の大量買付計画があったとされています。硫黄は当時拡大していた火薬武器に必要なものでしたが、硫黄が採れる地域は遼(りょう)・金(きん)・西夏(せいか)・大理(だいり)などの国々が支配する地域にしかなかったため、日本からの輸入に頼るという事情がありました。日本からの硫黄の輸出の歴史は、988年に420kgの硫黄を献上したことに始まり、11世紀後半には宋の商人による買付が何度も行われていたという記録が残っています。
日本とはどこで貿易が行われていましたか。
日本とは大宰府鴻臚館で貿易が行われていました。
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歴史
1新様式 鎌倉文化の建築、新様式とは外来の様式を取り入れた新しい様式のことです。この新様式は二種あり、ひとつは大仏様、もうひとつは禅宗様といい、それぞれ使用された時期が違います。 大仏様 大仏様を取り入れた工法の代表が東大寺になります。東大寺の再建には復興資金を広く募り、日本在住の中国の工人の協力のもと、短い工期でおこなわれる建築手法を取り入れました。この時に使用された建築手法を大仏様といいます。大仏様の最大の特色は、大陸的な雄大さと豪放な力強さと言われています。しかし、鎌倉文化以前の建築は優美さを重んじていたため、斬新な大仏様はなかなか受け入れられるものではなく、後継者が減り衰退していきます。 禅宗様 禅宗様が取り入れられるようになったのは鎌倉時代中期ころです。衰退した大仏様と入れ替わるようにして取り入れられた新様式といってもよいでしょう。禅宗様が知られるようになったのは、禅宗寺院の建築などに使われるようになったからです。禅宗様は中国の王朝の北宋に影響を受けています。鎌倉文化中期は中国の寺院建築様式が伝わってきたことにより、使われることが多くなりました。大仏様と似た手法もあることから、鎌倉新様式と総称されることもあります。禅宗様の最大の特徴は屋根が強い軒反りをしていることといえます。現代では寺院建築の伝統的な様式のひとつとされています。
鎌倉文化の建築における新様式とは何の様式を取り入れた様式のことですか。
鎌倉文化の建築における新様式とは外来の様式を取り入れた様式のことです。
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歴史
氏姓制度は、645年乙巳の変をきっかけに新政権が誕生し支配体制が変わったことで、機能しなくなりました。このあたりの歴史を少しおさらいしておきましょう。645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇を操り権力を独占していた蘇我入鹿(いるか)を殺害する事件乙巳の変を起こしました。その後、入鹿の父、蘇我蝦夷(えみし)も自害したことで蘇我氏は滅亡しました。翌646年には新しく即位した孝徳天皇が新たな政治方針を示した改新の詔を発布。天皇に権力を集中させた中央集権国家を目指すことになりました。この政治改革が大化の改新と呼ばれています。 この大化の改新によって、これまでの“土地や人民を所有する豪族たちが集まってできた連合政権”から、“天皇に権力を集中させた中央集権国家”へと、支配体制が変わりました。簡単にいうと、それぞれ王様のいる小さな国が集まってつくられていた連合政権から、一人の王つまり天皇が支配するひとつの国になったわけです。支配体制が変われば、ルールも変わるのは当然のこと。氏姓制度で、豪族たちがそれぞれ所有していた田荘(土地)や部曲(人民)は、新たに公地公民制を導入したことですべて天皇のものになりました。政権内の役職もリニューアルされ、連合政権の中心を担っていた大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の代わりに、左大臣、右大臣を新設。初代左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が就きました。
豪族たちの田荘や部曲が天皇のものになったのは、何が導入されたからですか。
豪族たちの田荘や部曲が天皇のものになったのは、公地公民制が導入されたからです。
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歴史
平城京とは、元明天皇が710年に飛鳥地方の藤原京から遷都した都です。 現在の奈良市・大和郡山市にまたがる場所に造られました。 造営当時の平城京は、南北約4.8km、東西約4.3kmの規模で、東西南北に走る大路によって整然と区画されていました。これは当時の唐の都長安をモデルにしたと言われています。 桓武天皇が784年に長岡京に遷都するまでの74年間、平城京が政治の中心地でしたが、平安時代に入るとたちまち荒廃してしまい、東大寺や興福寺の門前町が残るのみとなりました。 飛鳥時代から奈良時代にかけて、何度も遷都が行われましたが、正確な理由はよく分かっていません。 特に、なぜ694年に遷都したばかりだった藤原京をたった16年間で捨てて、平城京に遷都したかははっきりしません。 これまでいくつかの推測がなされてきました。 ・藤原京では交通が不便で、大きくなった中央政府にとって適さなくなったから。 ・藤原京の造営が修正に修正を重ねて行き詰ったため、仕切り直しをする必要があったから。 ・飢饉や疫病を防ぐ呪術的な力を引き出すために遷都が必要だったから。 ・藤原不比等の一族が権力を高めるため、都を飛鳥地方から離す必要があったから。 しかし、どの説も決定的な証拠がありません。 数少ない史料の中で最も重要なものが、元明天皇が608年に出した「遷都の詔」です。 そこには、元明天皇自身は遷都を急ぐ必要はないと考えていたにもかかわらず、まわりの貴族たちが遷都は必要だと主張していたことが書かれています。どうもこのあたりが遷都の理由と関わっているようです。 遷都が必要だと主張した貴族たちの中には、藤原不比等がいました。 この人物は、藤原鎌足の息子で、元明天皇の息子であった文武天皇に自分の娘を嫁がせることで、権力を拡大しました。 一説によれば、不比等が平城京への遷都を主張したのは、都を飛鳥地方から離れた場所に移すことで、自分たちの権力を高めるためだとされます。 また、近年注目されている説では、遣唐使を再開したことの影響が指摘されています。 遣唐使は663年の白村江の戦いで唐と関係が悪化してから途切れていましたが、702年に再開されます。 約30年ぶりに唐の都長安を見た遣唐使の一行は、藤原京とあまりに違うことに衝撃を受け、外国の使節に舐められないように、新たに国際標準の最先端の都市として平城京を造ることを進言したのではないかと考えられています。 おそらくこうした複数の理由が重なって、平城京への遷都に至ったのでしょう。
平城京は、どこをモデルに造られた都ですか。
平安京のモデルは、当時の唐の都長安だと言われています。
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歴史
【鎌倉幕府をひらいた理由】源頼朝がなぜ幕府を開く場所に鎌倉を選んだのか?徹底解説! 鎌倉幕府と言えば、少し前の教科書では1192年という年号のゴロ合わせから「いい国つくろう鎌倉幕府」という言葉が耳慣れている人も多いでしょう。現在の教科書では「成立」という意味で様々な考え方があり、「1192年に鎌倉幕府が成立した」とは教えていないようです。いずれにしても、鎌倉幕府の存在は知っていても、なぜ幕府を開く場所が京都ではなく「鎌倉」だったのかを知る人はあまりいないかもしれませんね。そこで今回は、『源頼朝が幕府を開く場所として鎌倉を選んだ理由』について詳しく解説していきます。 鎌倉幕府の成り立ち~関東の武士団(豪族)に支持された源頼朝~ 鎌倉幕府になる前、それまでの幕府(政権)は長く京都にありました。それが、源頼朝によって鎌倉に幕府が置かれることになったのです。源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由には関東の武士団の勢力が関係してきます。そもそも武士の成り立ちは、関東の農民たちが自分たちの土地や財産を守るために武装したということが始まりとされています。当時、関東では朝廷に任命された国司や目代が土地を奪ったり、過剰に税を徴収するなどして勢力を振るっていました。しかし、地域の住民や関東の武士団たちは苦しめられていました。当時の武士団は歴史上は豪族であり、その地域の実力者なのですが、国司に歯向かうような立場にはなかったのです。そこで、特に武士の中でも実力者である平家や源家と親戚関係を持つようになります。特に源頼朝は富士川の戦いによって平家に勝利し勢い付いていたので、京都に上洛して朝廷を治めようという動きを見せていました。しかし、関東の武士団の想いは朝廷のある京都に入ることではありませんでした。武士団の願いは「朝廷に干渉されたくない」という想いだったのです。源頼朝はこの想いを汲み、実行に移すことで武士団の信頼を益々得ることになったのです。
関東では誰が土地を奪ったり、過剰に税を徴収するなどしていましたか。
関東では朝廷に任命された国司や目代が土地を奪ったり、過剰に税を徴収するなどしていました。
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歴史
1新様式 鎌倉文化の建築、新様式とは外来の様式を取り入れた新しい様式のことです。この新様式は二種あり、ひとつは大仏様、もうひとつは禅宗様といい、それぞれ使用された時期が違います。 大仏様 大仏様を取り入れた工法の代表が東大寺になります。東大寺の再建には復興資金を広く募り、日本在住の中国の工人の協力のもと、短い工期でおこなわれる建築手法を取り入れました。この時に使用された建築手法を大仏様といいます。大仏様の最大の特色は、大陸的な雄大さと豪放な力強さと言われています。しかし、鎌倉文化以前の建築は優美さを重んじていたため、斬新な大仏様はなかなか受け入れられるものではなく、後継者が減り衰退していきます。 禅宗様 禅宗様が取り入れられるようになったのは鎌倉時代中期ころです。衰退した大仏様と入れ替わるようにして取り入れられた新様式といってもよいでしょう。禅宗様が知られるようになったのは、禅宗寺院の建築などに使われるようになったからです。禅宗様は中国の王朝の北宋に影響を受けています。鎌倉文化中期は中国の寺院建築様式が伝わってきたことにより、使われることが多くなりました。大仏様と似た手法もあることから、鎌倉新様式と総称されることもあります。禅宗様の最大の特徴は屋根が強い軒反りをしていることといえます。現代では寺院建築の伝統的な様式のひとつとされています。
新様式は何種ありますか。
新様式は二種あります。
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歴史
墾田永年私財法とは、奈良時代である743年に聖武天皇によって発布された、土地を開墾した分だけ自分の土地にできることが出来る法律のことです。 この法律によって公地公民制が崩壊して貴族や豪族たちが荘園を作り出して荘園制が誕生するようになりました。 645年に大化の改新を始めて以降、日本では公地公民制という日本の土地は全て天皇のものという制度によって天皇中心の国づくりを行なっていました。 今でこそ日本は土地の所有が認められており、土地代を払って自分の土地にすれば大体のことが出来ますが、この時は国から口分田という田んぼを貸し与えてそこから取れた租を年貢として取り立てるというという感じになっていました。 つまり自分の土地を持っていなかったことです。 しかし、これでは民衆にとったら「田んぼをいくら耕しても自分のものにはならないし、さらに年貢の税率がひどいからもういっそのこと田んぼを耕すのをやめよ」というふうになってしまいます。 まぁ、年貢によって死ぬぐらいなら逃げた方がましですしね。 そのため、日本は土地を耕す人が少なくなりその分税が減少するという事態が起きてしまいました。 税収が下がると困ってしまうのはもちろん天皇を始めとした朝廷です。 朝廷はなんとかして国民に年貢を納めさせたい。そのため天皇は国民にやる気を出させるために三世一身法というものを制定します。 この三世一身法というのは結構わかりやすいもので、土地を開墾して田んぼを作ったらそこから3世代(つまり孫のこと)までは自分の土地にすることができますよというもの。 つまり土地を耕せば自分のものにできるというわけです。 公地公民を行なっていた朝廷がついに条件付きで土地の所有を認めたことは国民にとってやる気を出させるのです。 しかし、三世代経ったら結局国のものに戻ってしまうため、耕したところで自分の子孫のものにはなりません。 そのため、国民たちは再び怠け出してしまうという事態となりました。 三世一身法を制定してようやく税収が安定すると思いきや全然効果は出ず、さらに740年代に入ると朝廷は財政難に苦しむことになっていきます。 実はこの時、朝廷ではいい都を作るために平城京からコロコロと都を移し替えていきます。 もちろん遷都の費用はタダではありませんので、遷都をするごとに莫大な金がかかり、さらには東大寺の大仏や全国に国分寺と国分尼寺を建てたことによっていつのまにか朝廷の金庫はすっからかん。超財政難に陥っていました。 そんな中ついに朝廷は墾田永年私財法を制定していくことになるのです。
公地公民制とは何ですか。
公地公民制とは、日本の土地は全て天皇のものという制度です。
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歴史
1新様式 鎌倉文化の建築、新様式とは外来の様式を取り入れた新しい様式のことです。この新様式は二種あり、ひとつは大仏様、もうひとつは禅宗様といい、それぞれ使用された時期が違います。 大仏様 大仏様を取り入れた工法の代表が東大寺になります。東大寺の再建には復興資金を広く募り、日本在住の中国の工人の協力のもと、短い工期でおこなわれる建築手法を取り入れました。この時に使用された建築手法を大仏様といいます。大仏様の最大の特色は、大陸的な雄大さと豪放な力強さと言われています。しかし、鎌倉文化以前の建築は優美さを重んじていたため、斬新な大仏様はなかなか受け入れられるものではなく、後継者が減り衰退していきます。 禅宗様 禅宗様が取り入れられるようになったのは鎌倉時代中期ころです。衰退した大仏様と入れ替わるようにして取り入れられた新様式といってもよいでしょう。禅宗様が知られるようになったのは、禅宗寺院の建築などに使われるようになったからです。禅宗様は中国の王朝の北宋に影響を受けています。鎌倉文化中期は中国の寺院建築様式が伝わってきたことにより、使われることが多くなりました。大仏様と似た手法もあることから、鎌倉新様式と総称されることもあります。禅宗様の最大の特徴は屋根が強い軒反りをしていることといえます。現代では寺院建築の伝統的な様式のひとつとされています。
大仏様の最大の特色は、どのようなものと言われていますか。
大仏様の最大の特色は、大陸的な雄大さと豪放な力強さと言われています。
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歴史
なぜ古墳は大きくなったのか? きっかけは、弥生時代から古墳時代にかけての戦乱だとされています。弥生時代から古墳時代の間は、地方の小国同士の争いが絶えませんでした。これをあの「魏志倭人伝」では、倭国大乱(わこくたいらん)と呼んでいました。しかし、この大乱を治めるべく、女性の王・卑弥呼が頂点に立つと平和な時代が訪れ、死後に男性の王が立つと戦乱が続き、さらに卑弥呼の血縁である台与(とよ)が王位を引き継いだら平和になる、というジンクス的な事象が起きていました。しかし、卑弥呼が王位に就く前の倭国大乱と死後に起きた争いが原因で国内の水田は荒廃し、戦乱では多くの命が失われ、労働力も減少。さらに、寒冷化というトリプルパンチもあって、稲作に深刻なダメージが起きます。倭国内乱当時は既に、コメが主食となっていたわけですので、食料問題にまで発展。小国の支配者たちは、権力争いの殺し合いではなく、もはやコメの収穫量に力を注がなければ、民衆の支持を得ることが出来なくなったのです。では、どうやって支持を得るのかというところで登場するのが、古墳の造立と言う訳です。水田を開拓すると、残土がでますよね。この残土が多ければ多いほど、水田は耕され、コメがたくさん収穫でき、民衆は食に飢えずに済みます。さらに権力者は、その時の残土の量で大きな古墳を造ることが出来る、と言う訳です。古墳の大きさはコメの生産高の高さを表し、権力者の階級を誇示できるという政治体制となっていったのです。
「魏志倭人伝」では、地方の小国同士の争いは何と呼ばれていましたか。
「魏志倭人伝」では、地方の小国同士の争いは倭国大乱と呼ばれていました。
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歴史
日宋貿易の変遷「貿易理由と貿易品」 日宋貿易では中国の北宋から南宋への王朝の移り変わりとともに変化してきました。北宋時代には日本からの硫黄の輸出により貿易が活発になり、南宋時代には平清盛によって拡大され医療においては欠かせないものになりました。 1北宋時代 北宋が成立した960年になると、北宋は各地に貿易の事務管理をする役所を設置して、日本や高麗のほか南方とも貿易を行いました。日本とは大宰府鴻臚館(こうろかん)で貿易が行われていましたが、貿易は活発にならず日本と宋の正式外交にはつながりませんでした。また、一般人の渡航は禁止されますが、宋の商人が来航する私的な貿易は続いていました。このころから日本から北宋への硫黄の輸出が始まり、のちに宋政府の大量買付計画があったとされています。硫黄は当時拡大していた火薬武器に必要なものでしたが、硫黄が採れる地域は遼(りょう)・金(きん)・西夏(せいか)・大理(だいり)などの国々が支配する地域にしかなかったため、日本からの輸入に頼るという事情がありました。日本からの硫黄の輸出の歴史は、988年に420kgの硫黄を献上したことに始まり、11世紀後半には宋の商人による買付が何度も行われていたという記録が残っています。
日本からの硫黄の輸出の歴史は、988年に何kgの硫黄を献上したことに始まりますか。
日本からの硫黄の輸出の歴史は、988年に420kgの硫黄を献上したことに始まります。
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歴史
1新様式 鎌倉文化の建築、新様式とは外来の様式を取り入れた新しい様式のことです。この新様式は二種あり、ひとつは大仏様、もうひとつは禅宗様といい、それぞれ使用された時期が違います。 大仏様 大仏様を取り入れた工法の代表が東大寺になります。東大寺の再建には復興資金を広く募り、日本在住の中国の工人の協力のもと、短い工期でおこなわれる建築手法を取り入れました。この時に使用された建築手法を大仏様といいます。大仏様の最大の特色は、大陸的な雄大さと豪放な力強さと言われています。しかし、鎌倉文化以前の建築は優美さを重んじていたため、斬新な大仏様はなかなか受け入れられるものではなく、後継者が減り衰退していきます。 禅宗様 禅宗様が取り入れられるようになったのは鎌倉時代中期ころです。衰退した大仏様と入れ替わるようにして取り入れられた新様式といってもよいでしょう。禅宗様が知られるようになったのは、禅宗寺院の建築などに使われるようになったからです。禅宗様は中国の王朝の北宋に影響を受けています。鎌倉文化中期は中国の寺院建築様式が伝わってきたことにより、使われることが多くなりました。大仏様と似た手法もあることから、鎌倉新様式と総称されることもあります。禅宗様の最大の特徴は屋根が強い軒反りをしていることといえます。現代では寺院建築の伝統的な様式のひとつとされています。
大仏様を取り入れた工法の代表は何寺ですか。
大仏様を取り入れた工法の代表は東大寺です。
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歴史
【鎌倉幕府をひらいた理由】源頼朝がなぜ幕府を開く場所に鎌倉を選んだのか?徹底解説! 鎌倉幕府と言えば、少し前の教科書では1192年という年号のゴロ合わせから「いい国つくろう鎌倉幕府」という言葉が耳慣れている人も多いでしょう。現在の教科書では「成立」という意味で様々な考え方があり、「1192年に鎌倉幕府が成立した」とは教えていないようです。いずれにしても、鎌倉幕府の存在は知っていても、なぜ幕府を開く場所が京都ではなく「鎌倉」だったのかを知る人はあまりいないかもしれませんね。そこで今回は、『源頼朝が幕府を開く場所として鎌倉を選んだ理由』について詳しく解説していきます。 鎌倉幕府の成り立ち~関東の武士団(豪族)に支持された源頼朝~ 鎌倉幕府になる前、それまでの幕府(政権)は長く京都にありました。それが、源頼朝によって鎌倉に幕府が置かれることになったのです。源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由には関東の武士団の勢力が関係してきます。そもそも武士の成り立ちは、関東の農民たちが自分たちの土地や財産を守るために武装したということが始まりとされています。当時、関東では朝廷に任命された国司や目代が土地を奪ったり、過剰に税を徴収するなどして勢力を振るっていました。しかし、地域の住民や関東の武士団たちは苦しめられていました。当時の武士団は歴史上は豪族であり、その地域の実力者なのですが、国司に歯向かうような立場にはなかったのです。そこで、特に武士の中でも実力者である平家や源家と親戚関係を持つようになります。特に源頼朝は富士川の戦いによって平家に勝利し勢い付いていたので、京都に上洛して朝廷を治めようという動きを見せていました。しかし、関東の武士団の想いは朝廷のある京都に入ることではありませんでした。武士団の願いは「朝廷に干渉されたくない」という想いだったのです。源頼朝はこの想いを汲み、実行に移すことで武士団の信頼を益々得ることになったのです。
源頼朝は何の戦いによって平家に勝利し勢い付いていましたか。
源頼朝は富士川の戦いによって平家に勝利し勢い付いていました。
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3地頭請 荘園領主と地頭との間で生じた争いを解決する手段の一つとして、地頭請という手法が採られました。地頭請とは、荘園領主が地頭に荘園の管理を委託する代わりに、年貢の取り立てを地頭に請け負わせる手法のことです。年貢はその年の収穫高にかかわらず、毎年一定の量を荘園領主に納める取り決めがなされました。地頭請が広まるまでは、地頭が水害や干ばつなどの天災を理由に、本来荘園領主に納められるべき年貢を不法に差し押さえることがありました。荘園領主はそのたびに幕府に訴訟を起こして解決していましたが、訴訟の手続きが面倒だったため、いっそのこと荘園の管理をすべて地頭に任せて、その代わりに一定額の年貢の納入を請け負わせる地頭請が採用されるようになりました。こうした対策は荘園領主側が妥協した結果でしたが、それでも地頭の権限乱用は収まらず、荘園領主と地頭との間の争いは絶えませんでした。そのため、地頭請からやや遅れて、下地中分という解決策が行われるようになっていきます。 下地中分の目的 荘園領主と地頭との間の争いの原因は、そもそも荘園の複雑な権利関係にありました。平安時代以来、荘園を管理してきた荘園領主が各地にいたにもかかわらず、鎌倉幕府が全国に地頭を置き、治安維持をする権限を与えたため、事実上は荘園領主と地頭という2つの役職が荘園を管理するようになっていました。地頭請はこうした複雑な権利関係を前提にした妥協策でしたが、これだけでは地頭の権限乱用が止まりませんでした。そのため、土地そのものを分割する下地中分によって、荘園の複雑な権利関係を解消しようとしました。鎌倉幕府も、荘園領主と地頭との間の争いに対する早期解決策として、下地中分を推奨しました。
何時代以来、荘園を管理してきた荘園領主が各地にいましたか。
平安時代以来、荘園を管理してきた荘園領主が各地にいました。
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歴史
1新様式 鎌倉文化の建築、新様式とは外来の様式を取り入れた新しい様式のことです。この新様式は二種あり、ひとつは大仏様、もうひとつは禅宗様といい、それぞれ使用された時期が違います。 大仏様 大仏様を取り入れた工法の代表が東大寺になります。東大寺の再建には復興資金を広く募り、日本在住の中国の工人の協力のもと、短い工期でおこなわれる建築手法を取り入れました。この時に使用された建築手法を大仏様といいます。大仏様の最大の特色は、大陸的な雄大さと豪放な力強さと言われています。しかし、鎌倉文化以前の建築は優美さを重んじていたため、斬新な大仏様はなかなか受け入れられるものではなく、後継者が減り衰退していきます。 禅宗様 禅宗様が取り入れられるようになったのは鎌倉時代中期ころです。衰退した大仏様と入れ替わるようにして取り入れられた新様式といってもよいでしょう。禅宗様が知られるようになったのは、禅宗寺院の建築などに使われるようになったからです。禅宗様は中国の王朝の北宋に影響を受けています。鎌倉文化中期は中国の寺院建築様式が伝わってきたことにより、使われることが多くなりました。大仏様と似た手法もあることから、鎌倉新様式と総称されることもあります。禅宗様の最大の特徴は屋根が強い軒反りをしていることといえます。現代では寺院建築の伝統的な様式のひとつとされています。
禅宗様が取り入れられるようになったのはいつのころですか。
禅宗様が取り入れられるようになったのは鎌倉時代中期頃です。
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歴史
3地頭請 荘園領主と地頭との間で生じた争いを解決する手段の一つとして、地頭請という手法が採られました。地頭請とは、荘園領主が地頭に荘園の管理を委託する代わりに、年貢の取り立てを地頭に請け負わせる手法のことです。年貢はその年の収穫高にかかわらず、毎年一定の量を荘園領主に納める取り決めがなされました。地頭請が広まるまでは、地頭が水害や干ばつなどの天災を理由に、本来荘園領主に納められるべき年貢を不法に差し押さえることがありました。荘園領主はそのたびに幕府に訴訟を起こして解決していましたが、訴訟の手続きが面倒だったため、いっそのこと荘園の管理をすべて地頭に任せて、その代わりに一定額の年貢の納入を請け負わせる地頭請が採用されるようになりました。こうした対策は荘園領主側が妥協した結果でしたが、それでも地頭の権限乱用は収まらず、荘園領主と地頭との間の争いは絶えませんでした。そのため、地頭請からやや遅れて、下地中分という解決策が行われるようになっていきます。 下地中分の目的 荘園領主と地頭との間の争いの原因は、そもそも荘園の複雑な権利関係にありました。平安時代以来、荘園を管理してきた荘園領主が各地にいたにもかかわらず、鎌倉幕府が全国に地頭を置き、治安維持をする権限を与えたため、事実上は荘園領主と地頭という2つの役職が荘園を管理するようになっていました。地頭請はこうした複雑な権利関係を前提にした妥協策でしたが、これだけでは地頭の権限乱用が止まりませんでした。そのため、土地そのものを分割する下地中分によって、荘園の複雑な権利関係を解消しようとしました。鎌倉幕府も、荘園領主と地頭との間の争いに対する早期解決策として、下地中分を推奨しました。
地頭請とは、荘園領主が地頭に荘園の管理を委託する代わりに、何を地頭に請け負わせる手法のことですか。
地頭請とは、荘園領主が地頭に荘園の管理を委託する代わりに、年貢の取り立てを地頭に請け負わせる手法のことです。
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歴史
2. 幕府政治の荒廃 そのような情勢の中にもかかわらず、鎌倉末期の14代執権北条高時は、政治を側近である長崎高資(ながさきたかすけ)にまかせ、自身は田楽などの道楽にふけっていました。長崎達が権力を行使して好き勝手に政治を行った為、政治は乱れ荒廃は深刻化していきます。この長崎達の横暴ぶりは他の北条一族でも抑えることが出来なかったそうですが、今でいうと社長の秘書が権力を握り、おそらく社長一族が口出しできないといった感じでしょう。 3. 正中の変が起こった原因(きっかけ) 荒廃していく幕府政治に対し、1318年に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は政治に非常に意欲的な天皇だったようです。かつて朝廷にあった「記録書」という役所を再興し、民衆の訴えに耳を傾け、飢饉の折には自らも倹約を実施、悪徳商人を取り締まったり、施しを行ったりしたそうです。かつての天皇親政の治世時代を目指していた後醍醐天皇でしたが、当時は朝廷の皇位相続へも幕府の干渉がありました。皇位は大覚寺統と持明院統の両統迭立(りょうとうてつりつ)が原則でしたので、天皇は自らの考えの政治を後継者へ継続していくことが困難であり、実権は幕府が握っていたようなものだったのです。誤った政治を正し、理想の政治を実現するためにも、後醍醐天皇が倒幕を考えるようになっていくのは必然だったのかもしれません。
天皇は自らの考えの政治を後継者へ継続していくことが困難であり、実権はどこが握っていたようなものでしたか。
天皇は自らの考えの政治を後継者へ継続していくことが困難であり、実権は幕府が握っていたようなものでした。
JCRRAG_002793
歴史
3地頭請 荘園領主と地頭との間で生じた争いを解決する手段の一つとして、地頭請という手法が採られました。地頭請とは、荘園領主が地頭に荘園の管理を委託する代わりに、年貢の取り立てを地頭に請け負わせる手法のことです。年貢はその年の収穫高にかかわらず、毎年一定の量を荘園領主に納める取り決めがなされました。地頭請が広まるまでは、地頭が水害や干ばつなどの天災を理由に、本来荘園領主に納められるべき年貢を不法に差し押さえることがありました。荘園領主はそのたびに幕府に訴訟を起こして解決していましたが、訴訟の手続きが面倒だったため、いっそのこと荘園の管理をすべて地頭に任せて、その代わりに一定額の年貢の納入を請け負わせる地頭請が採用されるようになりました。こうした対策は荘園領主側が妥協した結果でしたが、それでも地頭の権限乱用は収まらず、荘園領主と地頭との間の争いは絶えませんでした。そのため、地頭請からやや遅れて、下地中分という解決策が行われるようになっていきます。 下地中分の目的 荘園領主と地頭との間の争いの原因は、そもそも荘園の複雑な権利関係にありました。平安時代以来、荘園を管理してきた荘園領主が各地にいたにもかかわらず、鎌倉幕府が全国に地頭を置き、治安維持をする権限を与えたため、事実上は荘園領主と地頭という2つの役職が荘園を管理するようになっていました。地頭請はこうした複雑な権利関係を前提にした妥協策でしたが、これだけでは地頭の権限乱用が止まりませんでした。そのため、土地そのものを分割する下地中分によって、荘園の複雑な権利関係を解消しようとしました。鎌倉幕府も、荘園領主と地頭との間の争いに対する早期解決策として、下地中分を推奨しました。
地頭請は複雑な権利関係を前提にした妥協策でしたが、これだけでは何が止まりませんでしたか。
地頭請は複雑な権利関係を前提にした妥協策でしたが、これだけでは地頭の権限乱用が止まりませんでした。
JCRRAG_002794
歴史
下地中分の内容 1下地中分の意味 鎌倉時代には、それぞれの土地で生産された収穫物を「上分」と呼んだのに対して、その収穫物を生み出す土地を「下地」と言いました。この下地には、農作物が収穫できる田畑のほか、山野や海、川、未開地も含まれました。下地中分とはこうした土地を分割する手法です。下地中分では、荘園領主と地頭との間で、土地を折半(2等分)または2対1に分けた上で、一方を荘園領主側のもの(領家方)、他方を地頭側のもの(地頭方)としました。そうして両者がそれぞれに自分の側の土地を保有・処分する権利を認め合うことで、互いに衝突することを防ぎました。中には、土地を分割するだけでなく、領民まで分割する例もありました。下地中分が行われた地域では、現在でも「領家」や「地頭」といった言葉が地名の中に残っている場所があります。 2下地中分の手続き 実際の下地中分の手続きでは、荘園領主と地頭が和解する場合と、荘園領主側の申請を受けた幕府が地頭に命令を下す場合がありました。また、土地を分割する方法についても、その土地に大きく境界線を引いて2分割し、それぞれが分割された土地を単独で支配する場合(一円知行)と、その土地に含まれる田畑や屋敷1つ1つを分割する場合(坪分け中分)がありました。いずれの場合も、後でもめないように、土地の分割の仕方を記録した絵図や文書を作成しました。 3下地中分の広まり このような下地中分は、中国地方・四国地方・九州地方などの西日本を中心に全国で行われました。特に寺社領で下地中分が行われた例が多く見られます。
下地中分はどこを中心に全国で行われましたか。
下地中分は、中国地方・四国地方・九州地方などの西日本を中心に全国で行われました。
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歴史
下地中分の内容 1下地中分の意味 鎌倉時代には、それぞれの土地で生産された収穫物を「上分」と呼んだのに対して、その収穫物を生み出す土地を「下地」と言いました。この下地には、農作物が収穫できる田畑のほか、山野や海、川、未開地も含まれました。下地中分とはこうした土地を分割する手法です。下地中分では、荘園領主と地頭との間で、土地を折半(2等分)または2対1に分けた上で、一方を荘園領主側のもの(領家方)、他方を地頭側のもの(地頭方)としました。そうして両者がそれぞれに自分の側の土地を保有・処分する権利を認め合うことで、互いに衝突することを防ぎました。中には、土地を分割するだけでなく、領民まで分割する例もありました。下地中分が行われた地域では、現在でも「領家」や「地頭」といった言葉が地名の中に残っている場所があります。 2下地中分の手続き 実際の下地中分の手続きでは、荘園領主と地頭が和解する場合と、荘園領主側の申請を受けた幕府が地頭に命令を下す場合がありました。また、土地を分割する方法についても、その土地に大きく境界線を引いて2分割し、それぞれが分割された土地を単独で支配する場合(一円知行)と、その土地に含まれる田畑や屋敷1つ1つを分割する場合(坪分け中分)がありました。いずれの場合も、後でもめないように、土地の分割の仕方を記録した絵図や文書を作成しました。 3下地中分の広まり このような下地中分は、中国地方・四国地方・九州地方などの西日本を中心に全国で行われました。特に寺社領で下地中分が行われた例が多く見られます。
中には、土地を分割するだけでなく、何を分割する例もありましたか。
中には、土地を分割するだけでなく、領民まで分割する例もありました。
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歴史
下地中分の内容 1下地中分の意味 鎌倉時代には、それぞれの土地で生産された収穫物を「上分」と呼んだのに対して、その収穫物を生み出す土地を「下地」と言いました。この下地には、農作物が収穫できる田畑のほか、山野や海、川、未開地も含まれました。下地中分とはこうした土地を分割する手法です。下地中分では、荘園領主と地頭との間で、土地を折半(2等分)または2対1に分けた上で、一方を荘園領主側のもの(領家方)、他方を地頭側のもの(地頭方)としました。そうして両者がそれぞれに自分の側の土地を保有・処分する権利を認め合うことで、互いに衝突することを防ぎました。中には、土地を分割するだけでなく、領民まで分割する例もありました。下地中分が行われた地域では、現在でも「領家」や「地頭」といった言葉が地名の中に残っている場所があります。 2下地中分の手続き 実際の下地中分の手続きでは、荘園領主と地頭が和解する場合と、荘園領主側の申請を受けた幕府が地頭に命令を下す場合がありました。また、土地を分割する方法についても、その土地に大きく境界線を引いて2分割し、それぞれが分割された土地を単独で支配する場合(一円知行)と、その土地に含まれる田畑や屋敷1つ1つを分割する場合(坪分け中分)がありました。いずれの場合も、後でもめないように、土地の分割の仕方を記録した絵図や文書を作成しました。 3下地中分の広まり このような下地中分は、中国地方・四国地方・九州地方などの西日本を中心に全国で行われました。特に寺社領で下地中分が行われた例が多く見られます。
特に何領で下地中分が行われた例が多く見られますか。
特に寺社領で下地中分が行われた例が多く見られます。
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歴史
【正中の変・元弘の変とは】わかりやすく解説!!原因や経過・結果・語呂合わせなど 「正中の変・元弘の変」と聞いてハッとする人はかなりの歴史好きかと思います。中学レベルでは教科書にも載らない事件ではありますが、実は一つの大きな時代を終焉へと進めるきっかけになった重要な事件といえるのです。今回は、そんな『正中(しょうちゅう)の変・元弘(げんこう)の変』についてわかりやすく解説していきます。 正中の変・元弘の変とは? 鎌倉末期、後醍醐天皇とその腹心などが倒幕を計画し、それが発覚した結果、加担した者が処罰されることになった事件のことです。この2つの事件【正中の変】と【元弘の変】の間は7年開いていますが、ともに後醍醐天皇が中心となった事件であり、1回目の失敗から2回目の事件に繋がっていきますので、大体ひとまとまりの出来事として見ることが多いです。 正中の変の始まりから終わりまで 1時代背景 鎌倉幕府の支配体制を支えていた御家人たちですが、長年の分割相続の結果、生活は苦しくなっていました。そのような中、13世紀後半に元寇が起こります。命がけでさらに借金を重ねて戦いに赴いた御家人に対して、幕府は恩賞を十分に渡すことができませんでした。元寇に辛勝したといっても、領土を得るなど出来なかったのでやむを得なかったのです。またこの窮地を救おうと発布した「永仁の徳政令」もあまり効果はなく、さらに元寇以後のさらなるモンゴルからの襲来に備えるべく北条一族への権力集中を図った為、幕府への反感が強まっていくばかりでした。重ねて、畿内を中心とした各地で悪党と呼ばれる荘園領主や幕府に従わず年貢を奪うような武士も現れ、民衆を困らせていました。これも幕府は抑えることができず、治安は悪化、幕府への信頼がどんどん失われていったのです。
元寇以後のさらなるモンゴルからの襲来に備えるべく誰への権力集中を図ったのですか。
元寇以後のさらなるモンゴルからの襲来に備えるべく北条一族への権力集中を図りました。
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【正中の変・元弘の変とは】わかりやすく解説!!原因や経過・結果・語呂合わせなど 「正中の変・元弘の変」と聞いてハッとする人はかなりの歴史好きかと思います。中学レベルでは教科書にも載らない事件ではありますが、実は一つの大きな時代を終焉へと進めるきっかけになった重要な事件といえるのです。今回は、そんな『正中(しょうちゅう)の変・元弘(げんこう)の変』についてわかりやすく解説していきます。 正中の変・元弘の変とは? 鎌倉末期、後醍醐天皇とその腹心などが倒幕を計画し、それが発覚した結果、加担した者が処罰されることになった事件のことです。この2つの事件【正中の変】と【元弘の変】の間は7年開いていますが、ともに後醍醐天皇が中心となった事件であり、1回目の失敗から2回目の事件に繋がっていきますので、大体ひとまとまりの出来事として見ることが多いです。 正中の変の始まりから終わりまで 1時代背景 鎌倉幕府の支配体制を支えていた御家人たちですが、長年の分割相続の結果、生活は苦しくなっていました。そのような中、13世紀後半に元寇が起こります。命がけでさらに借金を重ねて戦いに赴いた御家人に対して、幕府は恩賞を十分に渡すことができませんでした。元寇に辛勝したといっても、領土を得るなど出来なかったのでやむを得なかったのです。またこの窮地を救おうと発布した「永仁の徳政令」もあまり効果はなく、さらに元寇以後のさらなるモンゴルからの襲来に備えるべく北条一族への権力集中を図った為、幕府への反感が強まっていくばかりでした。重ねて、畿内を中心とした各地で悪党と呼ばれる荘園領主や幕府に従わず年貢を奪うような武士も現れ、民衆を困らせていました。これも幕府は抑えることができず、治安は悪化、幕府への信頼がどんどん失われていったのです。
正中の変・元弘の変とは誰が倒幕を計画し、それが発覚した結果、加担した者が処罰されることになった事件のことですか。
正中の変・元弘の変とは醍醐天皇とその腹心などが倒幕を計画し、それが発覚した結果、加担した者が処罰されることになった事件のことです。
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歴史
2. 幕府政治の荒廃 そのような情勢の中にもかかわらず、鎌倉末期の14代執権北条高時は、政治を側近である長崎高資(ながさきたかすけ)にまかせ、自身は田楽などの道楽にふけっていました。長崎達が権力を行使して好き勝手に政治を行った為、政治は乱れ荒廃は深刻化していきます。この長崎達の横暴ぶりは他の北条一族でも抑えることが出来なかったそうですが、今でいうと社長の秘書が権力を握り、おそらく社長一族が口出しできないといった感じでしょう。 3. 正中の変が起こった原因(きっかけ) 荒廃していく幕府政治に対し、1318年に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は政治に非常に意欲的な天皇だったようです。かつて朝廷にあった「記録書」という役所を再興し、民衆の訴えに耳を傾け、飢饉の折には自らも倹約を実施、悪徳商人を取り締まったり、施しを行ったりしたそうです。かつての天皇親政の治世時代を目指していた後醍醐天皇でしたが、当時は朝廷の皇位相続へも幕府の干渉がありました。皇位は大覚寺統と持明院統の両統迭立(りょうとうてつりつ)が原則でしたので、天皇は自らの考えの政治を後継者へ継続していくことが困難であり、実権は幕府が握っていたようなものだったのです。誤った政治を正し、理想の政治を実現するためにも、後醍醐天皇が倒幕を考えるようになっていくのは必然だったのかもしれません。
北条高時は、政治を側近である誰に任せましたか。
北条高時は、政治を側近である長崎高資に任せました。
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【正中の変・元弘の変とは】わかりやすく解説!!原因や経過・結果・語呂合わせなど 「正中の変・元弘の変」と聞いてハッとする人はかなりの歴史好きかと思います。中学レベルでは教科書にも載らない事件ではありますが、実は一つの大きな時代を終焉へと進めるきっかけになった重要な事件といえるのです。今回は、そんな『正中(しょうちゅう)の変・元弘(げんこう)の変』についてわかりやすく解説していきます。 正中の変・元弘の変とは? 鎌倉末期、後醍醐天皇とその腹心などが倒幕を計画し、それが発覚した結果、加担した者が処罰されることになった事件のことです。この2つの事件【正中の変】と【元弘の変】の間は7年開いていますが、ともに後醍醐天皇が中心となった事件であり、1回目の失敗から2回目の事件に繋がっていきますので、大体ひとまとまりの出来事として見ることが多いです。 正中の変の始まりから終わりまで 1時代背景 鎌倉幕府の支配体制を支えていた御家人たちですが、長年の分割相続の結果、生活は苦しくなっていました。そのような中、13世紀後半に元寇が起こります。命がけでさらに借金を重ねて戦いに赴いた御家人に対して、幕府は恩賞を十分に渡すことができませんでした。元寇に辛勝したといっても、領土を得るなど出来なかったのでやむを得なかったのです。またこの窮地を救おうと発布した「永仁の徳政令」もあまり効果はなく、さらに元寇以後のさらなるモンゴルからの襲来に備えるべく北条一族への権力集中を図った為、幕府への反感が強まっていくばかりでした。重ねて、畿内を中心とした各地で悪党と呼ばれる荘園領主や幕府に従わず年貢を奪うような武士も現れ、民衆を困らせていました。これも幕府は抑えることができず、治安は悪化、幕府への信頼がどんどん失われていったのです。
【正中の変】と【元弘の変】の間は何年開いていますか。
【正中の変】と【元弘の変】の間は7年開いています。