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| Question
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663
|
|---|---|---|---|---|
JCRRAG_002901
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歴史
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筆者は康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件直後における清朝のハルハ政策を検討した結果,17世紀後半以降,清朝がトゥシェート=ハーンのハルハにおける勢力拡大や,清朝の使者に対する非礼な態度に懸念を抱いていたことを明らかにした[関根 2019: 52-58]。さらに,清朝とハルハ左翼の間には,ザサグト=ハーン殺害事件によって生じた逃亡者問題を巡って,軋轢が生じていたことも判明した[関根 2019: 60-63]。また,トゥシェート=ハーンは,ハルハの内紛の収拾を求める康熙帝の意向に反して,フレン=ベルチルの会盟での決定事項を守らず,さらにはザサグト=ハーン・シャラを殺害するに至ったことを踏まえると,清朝とハルハ左翼が良好な関係にあったとは考え難い。その上,従来の研究ではザサグト=ハーン家とガルダンの結びつきが強調されてきたが,康熙27年にガルダンがハルハヘ侵攻すると,ハルハ左翼のみならずハルハ右翼の属衆までもが清朝に保護を求め,ザサグト=ハーン家もまた最終的に清朝に帰順することを踏まえると,清朝が両ハーンの対立にどのように介入し,また,いかなる経緯でハルハが清朝に保護を求めるに至ったのかをあらためて検討する必要がある。
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トゥシェート=ハーンが殺害したのは誰ですか?
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トゥシェート=ハーンが殺害したのはザサグト=ハーン・シャラです。
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JCRRAG_002902
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歴史
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筆者は康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件直後における清朝のハルハ政策を検討した結果,17世紀後半以降,清朝がトゥシェート=ハーンのハルハにおける勢力拡大や,清朝の使者に対する非礼な態度に懸念を抱いていたことを明らかにした[関根 2019: 52-58]。さらに,清朝とハルハ左翼の間には,ザサグト=ハーン殺害事件によって生じた逃亡者問題を巡って,軋轢が生じていたことも判明した[関根 2019: 60-63]。また,トゥシェート=ハーンは,ハルハの内紛の収拾を求める康熙帝の意向に反して,フレン=ベルチルの会盟での決定事項を守らず,さらにはザサグト=ハーン・シャラを殺害するに至ったことを踏まえると,清朝とハルハ左翼が良好な関係にあったとは考え難い。その上,従来の研究ではザサグト=ハーン家とガルダンの結びつきが強調されてきたが,康熙27年にガルダンがハルハヘ侵攻すると,ハルハ左翼のみならずハルハ右翼の属衆までもが清朝に保護を求め,ザサグト=ハーン家もまた最終的に清朝に帰順することを踏まえると,清朝が両ハーンの対立にどのように介入し,また,いかなる経緯でハルハが清朝に保護を求めるに至ったのかをあらためて検討する必要がある。
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康熙27年にガルダンが侵攻したのはどこですか?
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康熙27年にガルダンが侵攻したのは、ハルハです。
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JCRRAG_002903
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歴史
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筆者は康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件直後における清朝のハルハ政策を検討した結果,17世紀後半以降,清朝がトゥシェート=ハーンのハルハにおける勢力拡大や,清朝の使者に対する非礼な態度に懸念を抱いていたことを明らかにした[関根 2019: 52-58]。さらに,清朝とハルハ左翼の間には,ザサグト=ハーン殺害事件によって生じた逃亡者問題を巡って,軋轢が生じていたことも判明した[関根 2019: 60-63]。また,トゥシェート=ハーンは,ハルハの内紛の収拾を求める康熙帝の意向に反して,フレン=ベルチルの会盟での決定事項を守らず,さらにはザサグト=ハーン・シャラを殺害するに至ったことを踏まえると,清朝とハルハ左翼が良好な関係にあったとは考え難い。その上,従来の研究ではザサグト=ハーン家とガルダンの結びつきが強調されてきたが,康熙27年にガルダンがハルハヘ侵攻すると,ハルハ左翼のみならずハルハ右翼の属衆までもが清朝に保護を求め,ザサグト=ハーン家もまた最終的に清朝に帰順することを踏まえると,清朝が両ハーンの対立にどのように介入し,また,いかなる経緯でハルハが清朝に保護を求めるに至ったのかをあらためて検討する必要がある。
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フレン=ベルチルの会盟での決定事項を守らなかったのは誰ですか?
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フレン=ベルチルの会盟での決定事項を守らなかったのは、トゥシェート=ハーンです。
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JCRRAG_002904
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歴史
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康熙23(1684)年,康熙帝はトゥシェート,ザサグト両ハーンの対立を調停しようとダライ=ラマ5世(以下,ダライ=ラマと略記)に協力を要請し,ついに康熙25年8月,ハルハのハーンらをフレン=ベルチルに召集して,自身が派遣した理藩院尚書アラニと,ダライ=ラマが派遣したガルダン=シレトゥの立ち会いのもと会盟を開かせた。先行研究では,フレン=ベルチルの会盟について,康熙帝とトゥシェート=ハーンは信頼関係にあったけれども,ロシアと対抗する清朝にとってハルハの内紛は憂慮せざるをえない事態であったため,ダライ=ラマと共同で調停に乗り出したと理解されており[宮脇 1979: 119-124][岡田 2013: 88(初出1979)],清朝が特段,トゥシェート=ハーンに肩入れすることなくハルハ左右翼の内紛を調停していったと捉えているものとみなせる。一方,清朝は次第に深刻化するハルハの内紛に対して,積極的に調停を進めようとしなかっただけではなく,ハルハ左翼を引き立て,片やハルハ右翼を圧制していったと捉える研究もある[黒龍 2014: 111]。
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トゥシェート、ザサグト両ハーンの対立を調停しようとしていたのは誰ですか?
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トゥシェート、ザサグト両ハーンの対立を調停しようとしていたのは、康熙帝です。
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JCRRAG_002905
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歴史
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康熙23(1684)年,康熙帝はトゥシェート,ザサグト両ハーンの対立を調停しようとダライ=ラマ5世(以下,ダライ=ラマと略記)に協力を要請し,ついに康熙25年8月,ハルハのハーンらをフレン=ベルチルに召集して,自身が派遣した理藩院尚書アラニと,ダライ=ラマが派遣したガルダン=シレトゥの立ち会いのもと会盟を開かせた。先行研究では,フレン=ベルチルの会盟について,康熙帝とトゥシェート=ハーンは信頼関係にあったけれども,ロシアと対抗する清朝にとってハルハの内紛は憂慮せざるをえない事態であったため,ダライ=ラマと共同で調停に乗り出したと理解されており[宮脇 1979: 119-124][岡田 2013: 88(初出1979)],清朝が特段,トゥシェート=ハーンに肩入れすることなくハルハ左右翼の内紛を調停していったと捉えているものとみなせる。一方,清朝は次第に深刻化するハルハの内紛に対して,積極的に調停を進めようとしなかっただけではなく,ハルハ左翼を引き立て,片やハルハ右翼を圧制していったと捉える研究もある[黒龍 2014: 111]。
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康熙23(1684)年に康熙帝が、トゥシェート、ザサグト両ハーンの対立を調停しようと会盟を開かせたのはどこですか。
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康熙23(1684)年に康熙帝が、トゥシェート、ザサグト両ハーンの対立を調停しようと会盟を開かせたのは、フレン=ベルチルです。
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JCRRAG_002906
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歴史
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康熙23(1684)年,康熙帝はトゥシェート,ザサグト両ハーンの対立を調停しようとダライ=ラマ5世(以下,ダライ=ラマと略記)に協力を要請し,ついに康熙25年8月,ハルハのハーンらをフレン=ベルチルに召集して,自身が派遣した理藩院尚書アラニと,ダライ=ラマが派遣したガルダン=シレトゥの立ち会いのもと会盟を開かせた。先行研究では,フレン=ベルチルの会盟について,康熙帝とトゥシェート=ハーンは信頼関係にあったけれども,ロシアと対抗する清朝にとってハルハの内紛は憂慮せざるをえない事態であったため,ダライ=ラマと共同で調停に乗り出したと理解されており[宮脇 1979: 119-124][岡田 2013: 88(初出1979)],清朝が特段,トゥシェート=ハーンに肩入れすることなくハルハ左右翼の内紛を調停していったと捉えているものとみなせる。一方,清朝は次第に深刻化するハルハの内紛に対して,積極的に調停を進めようとしなかっただけではなく,ハルハ左翼を引き立て,片やハルハ右翼を圧制していったと捉える研究もある[黒龍 2014: 111]。
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康熙帝がハルハのハーンらをフレン=ベルチルに召集して会盟を開かせたのはいつですか?
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康熙帝がハルハのハーンらをフレン=ベルチルに召集して会盟を開かせたのは、康熙25年8月です。
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JCRRAG_002907
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歴史
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康熙23(1684)年,康熙帝はトゥシェート,ザサグト両ハーンの対立を調停しようとダライ=ラマ5世(以下,ダライ=ラマと略記)に協力を要請し,ついに康熙25年8月,ハルハのハーンらをフレン=ベルチルに召集して,自身が派遣した理藩院尚書アラニと,ダライ=ラマが派遣したガルダン=シレトゥの立ち会いのもと会盟を開かせた。先行研究では,フレン=ベルチルの会盟について,康熙帝とトゥシェート=ハーンは信頼関係にあったけれども,ロシアと対抗する清朝にとってハルハの内紛は憂慮せざるをえない事態であったため,ダライ=ラマと共同で調停に乗り出したと理解されており[宮脇 1979: 119-124][岡田 2013: 88(初出1979)],清朝が特段,トゥシェート=ハーンに肩入れすることなくハルハ左右翼の内紛を調停していったと捉えているものとみなせる。一方,清朝は次第に深刻化するハルハの内紛に対して,積極的に調停を進めようとしなかっただけではなく,ハルハ左翼を引き立て,片やハルハ右翼を圧制していったと捉える研究もある[黒龍 2014: 111]。
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ロシアと対抗していたのは何ですか?
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ロシアと対抗していたのは清朝です。
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JCRRAG_002908
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歴史
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康熙23(1684)年,康熙帝はトゥシェート,ザサグト両ハーンの対立を調停しようとダライ=ラマ5世(以下,ダライ=ラマと略記)に協力を要請し,ついに康熙25年8月,ハルハのハーンらをフレン=ベルチルに召集して,自身が派遣した理藩院尚書アラニと,ダライ=ラマが派遣したガルダン=シレトゥの立ち会いのもと会盟を開かせた。先行研究では,フレン=ベルチルの会盟について,康熙帝とトゥシェート=ハーンは信頼関係にあったけれども,ロシアと対抗する清朝にとってハルハの内紛は憂慮せざるをえない事態であったため,ダライ=ラマと共同で調停に乗り出したと理解されており[宮脇 1979: 119-124][岡田 2013: 88(初出1979)],清朝が特段,トゥシェート=ハーンに肩入れすることなくハルハ左右翼の内紛を調停していったと捉えているものとみなせる。一方,清朝は次第に深刻化するハルハの内紛に対して,積極的に調停を進めようとしなかっただけではなく,ハルハ左翼を引き立て,片やハルハ右翼を圧制していったと捉える研究もある[黒龍 2014: 111]。
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フレン=ベルチルにダライ=ラマが派遣したのは誰ですか?
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フレン=ベルチルにダライ=ラマが派遣したのは、ガルダン=シレトゥです。
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JCRRAG_002909
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歴史
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フレン=ベルチルの会盟での話し合いの内容に対するトゥシェート=ハーンの反応は,康熙26年正月に彼が康熙帝に送付した書簡に詳しい。トゥシェート=ハーンはその書簡の冒頭で,まず,会盟でラマやハーン,ベイレたちの大臣60余りを選出してガルダン=シレトゥ,ジェブツンダンバ=ホトクト(トゥシェート=ハーン・チャホンドルジの弟)の御前で誓約を立て,公正に裁断することを表明したと説明している。そして,その内容を記した書に印を押し,それに基づき500の案件を1つ1つ公正に裁断していったと述べている[黒龍 2013: 42(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 112-113]。さらにつづけて,トゥシェート=ハーンはこの会盟で右翼の首長であるガルダン=ホトクトと2人のアハイ(ヨソト=アハイ,セツェン=アハイ)らが,ザサグト=ハーン・チェンブンに奪われた自身の属衆の返還を求めて,ザサグト=ハーン・シャラ(以下,単にザサグト=ハーンと記す際はシャラを指す)に訴えを起こした件について言及している。その上で,会盟を開催することとなった主な原因であり,チェンブンの頃からザサグト=ハーン家がトゥシェート=ハーンに対して要求していた右翼属衆の返還問題について論じている。このザサグト=ハーンによる右翼属衆の返還要求問題は,会盟開催の要因となり,加えて,のちトゥシェート=ハーンがザサグト=ハーンを追撃した要因ともなったことから先行研究で着目されてきた。
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フレン=ベルチルの会盟での話し合いの内容に対するトゥシェート=ハーンの反応が詳しく書いてあるのは何ですか?
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フレン=ベルチルの会盟での話し合いの内容に対するトゥシェート=ハーンの反応が詳しく書いてあるのは、康熙26年正月に彼が康熙帝に送付した書簡です。
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JCRRAG_002910
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歴史
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フレン=ベルチルの会盟での話し合いの内容に対するトゥシェート=ハーンの反応は,康熙26年正月に彼が康熙帝に送付した書簡に詳しい。トゥシェート=ハーンはその書簡の冒頭で,まず,会盟でラマやハーン,ベイレたちの大臣60余りを選出してガルダン=シレトゥ,ジェブツンダンバ=ホトクト(トゥシェート=ハーン・チャホンドルジの弟)の御前で誓約を立て,公正に裁断することを表明したと説明している。そして,その内容を記した書に印を押し,それに基づき500の案件を1つ1つ公正に裁断していったと述べている[黒龍 2013: 42(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 112-113]。さらにつづけて,トゥシェート=ハーンはこの会盟で右翼の首長であるガルダン=ホトクトと2人のアハイ(ヨソト=アハイ,セツェン=アハイ)らが,ザサグト=ハーン・チェンブンに奪われた自身の属衆の返還を求めて,ザサグト=ハーン・シャラ(以下,単にザサグト=ハーンと記す際はシャラを指す)に訴えを起こした件について言及している。その上で,会盟を開催することとなった主な原因であり,チェンブンの頃からザサグト=ハーン家がトゥシェート=ハーンに対して要求していた右翼属衆の返還問題について論じている。このザサグト=ハーンによる右翼属衆の返還要求問題は,会盟開催の要因となり,加えて,のちトゥシェート=ハーンがザサグト=ハーンを追撃した要因ともなったことから先行研究で着目されてきた。
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トゥシェート=ハーンが書簡で公正に裁断していった案件数は幾つですか?
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トゥシェート=ハーンが書簡で公正に裁断していった案件数は500です。
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JCRRAG_002911
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歴史
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フレン=ベルチルの会盟での話し合いの内容に対するトゥシェート=ハーンの反応は,康熙26年正月に彼が康熙帝に送付した書簡に詳しい。トゥシェート=ハーンはその書簡の冒頭で,まず,会盟でラマやハーン,ベイレたちの大臣60余りを選出してガルダン=シレトゥ,ジェブツンダンバ=ホトクト(トゥシェート=ハーン・チャホンドルジの弟)の御前で誓約を立て,公正に裁断することを表明したと説明している。そして,その内容を記した書に印を押し,それに基づき500の案件を1つ1つ公正に裁断していったと述べている[黒龍 2013: 42(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 112-113]。さらにつづけて,トゥシェート=ハーンはこの会盟で右翼の首長であるガルダン=ホトクトと2人のアハイ(ヨソト=アハイ,セツェン=アハイ)らが,ザサグト=ハーン・チェンブンに奪われた自身の属衆の返還を求めて,ザサグト=ハーン・シャラ(以下,単にザサグト=ハーンと記す際はシャラを指す)に訴えを起こした件について言及している。その上で,会盟を開催することとなった主な原因であり,チェンブンの頃からザサグト=ハーン家がトゥシェート=ハーンに対して要求していた右翼属衆の返還問題について論じている。このザサグト=ハーンによる右翼属衆の返還要求問題は,会盟開催の要因となり,加えて,のちトゥシェート=ハーンがザサグト=ハーンを追撃した要因ともなったことから先行研究で着目されてきた。
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ガルダン=ホトクトと2人のアハイらが、ザサグト=ハーン・チェンブンに奪われた自身の属衆の返還を求めて訴えを起こした相手は誰ですか?
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ガルダン=ホトクトと2人のアハイらが、ザサグト=ハーン・チェンブンに奪われた自身の属衆の返還を求めて訴えを起こした相手は、ザサグト=ハーン・シャラです。
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JCRRAG_002912
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歴史
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フレン=ベルチルの会盟での話し合いの内容に対するトゥシェート=ハーンの反応は,康熙26年正月に彼が康熙帝に送付した書簡に詳しい。トゥシェート=ハーンはその書簡の冒頭で,まず,会盟でラマやハーン,ベイレたちの大臣60余りを選出してガルダン=シレトゥ,ジェブツンダンバ=ホトクト(トゥシェート=ハーン・チャホンドルジの弟)の御前で誓約を立て,公正に裁断することを表明したと説明している。そして,その内容を記した書に印を押し,それに基づき500の案件を1つ1つ公正に裁断していったと述べている[黒龍 2013: 42(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 112-113]。さらにつづけて,トゥシェート=ハーンはこの会盟で右翼の首長であるガルダン=ホトクトと2人のアハイ(ヨソト=アハイ,セツェン=アハイ)らが,ザサグト=ハーン・チェンブンに奪われた自身の属衆の返還を求めて,ザサグト=ハーン・シャラ(以下,単にザサグト=ハーンと記す際はシャラを指す)に訴えを起こした件について言及している。その上で,会盟を開催することとなった主な原因であり,チェンブンの頃からザサグト=ハーン家がトゥシェート=ハーンに対して要求していた右翼属衆の返還問題について論じている。このザサグト=ハーンによる右翼属衆の返還要求問題は,会盟開催の要因となり,加えて,のちトゥシェート=ハーンがザサグト=ハーンを追撃した要因ともなったことから先行研究で着目されてきた。
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会盟を開催することとなった主な原因は何ですか?
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会盟を開催することとなった主な原因は、チェンブンの頃からザサグト=ハーン家がトゥシェート=ハーンに対して要求していた右翼属衆の返還問題です。
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JCRRAG_002913
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歴史
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フレン=ベルチルの会盟での話し合いの内容に対するトゥシェート=ハーンの反応は,康熙26年正月に彼が康熙帝に送付した書簡に詳しい。トゥシェート=ハーンはその書簡の冒頭で,まず,会盟でラマやハーン,ベイレたちの大臣60余りを選出してガルダン=シレトゥ,ジェブツンダンバ=ホトクト(トゥシェート=ハーン・チャホンドルジの弟)の御前で誓約を立て,公正に裁断することを表明したと説明している。そして,その内容を記した書に印を押し,それに基づき500の案件を1つ1つ公正に裁断していったと述べている[黒龍 2013: 42(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 112-113]。さらにつづけて,トゥシェート=ハーンはこの会盟で右翼の首長であるガルダン=ホトクトと2人のアハイ(ヨソト=アハイ,セツェン=アハイ)らが,ザサグト=ハーン・チェンブンに奪われた自身の属衆の返還を求めて,ザサグト=ハーン・シャラ(以下,単にザサグト=ハーンと記す際はシャラを指す)に訴えを起こした件について言及している。その上で,会盟を開催することとなった主な原因であり,チェンブンの頃からザサグト=ハーン家がトゥシェート=ハーンに対して要求していた右翼属衆の返還問題について論じている。このザサグト=ハーンによる右翼属衆の返還要求問題は,会盟開催の要因となり,加えて,のちトゥシェート=ハーンがザサグト=ハーンを追撃した要因ともなったことから先行研究で着目されてきた。
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ザサグト=ハーンによる右翼属衆の返還要求問題は、会盟開催の要因となったのに加えて何の要因ともなりましたか?
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ザサグト=ハーンによる右翼属衆の返還要求問題は、会盟開催の要因となったのに加えて、のちトゥシェート=ハーンがザサグト=ハーンを追撃した要因ともなりました。
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JCRRAG_002914
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歴史
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【史料1】ただ,ザサグト=ハンに対してガルダン=ホトクト,2人のアハイは彼らの領民の返還を督促する件で直ちに二意を抱いた。ザサグト=ハンはまた避けて審問させなかった。これは我々のモンゴルの慣例に違うのに非としなかった。ジェブツンダンバ=ホトクトは,先に処理した他の諸々の案件のとおりに処理しようと尽力してみたが,ガルダン=シレトゥ,尚書(アラニ)の2人は誓約した大臣らに任せず,彼らはそのまま処理した。ヨソト=アハイに全く過失がないのに,奪った彼の領民のうち半分を返還し,彼の父であるビシレルト=ハン(第3代ザサグト=ハーン・ノルブ)が尊重し祀ったガルダン=ホトクトの領民を子のチェンブン=ハンが言いがかりをつけて意のままに没収した。これによってただ60,70余りの領民をわずかに返還するのみである。以前セチェン(セツェン)=アハイに対して,彼の父である大いなるザサグト=ハン(第2代ザサグト=ハーン・ソバンダイ)が自身の子であるといって領民を分与した。右翼が壊れた際に我(トゥシェート=ハーン)が彼の領民を収容し返還する時に1人でさえも争い議論したことはない。彼(セツェン=アハイ)の領民を[返還しその]主としていた。のち,チェンブン=ハンは襲って奪った。これをともに諸々の案件等に同じく大臣らに任せて審問させなかった。
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誓約した大臣らに任せずそのまま処理したのは誰ですか?
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誓約した大臣らに任せずそのまま処理したのは、ガルダン=シレトゥと尚書(アラニ)の2人です。
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JCRRAG_002915
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歴史
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このように,トゥシェート=ハーンはダライ=ラマの言を持ち出し自身の正当性を主張するとともに,会盟の冒頭で定めた誓約に基づいて,ガルダン=ホトクトと2人のアハイらの案件を処理しなかったと非難しているのである。
以上より,トゥシェート=ハーンはガルダン=ホトクト,2人のアハイらの訴訟に対してガルダン=シレトゥとアラニらがザサグト=ハーンに迎合するかのような対応をとったと訴えており,会盟での彼らの対応に不満を抱いていたといえる。しかし,史料ではこの異議申し立てに対する反応を確認できず,清朝はこの訴えに対して,上諭を下して要求を退けたり宥めたりするなどの表立った対応をとらなかったと考えられる。
以上のガルダン=ホトクト,2人のアハイらの案件については,ジェブツンダンバ=ホトクトも康熙26年正月の康熙帝への書簡で言及している。
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トゥシェート=ハーンが不満を抱いていたのは誰ですか?
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トゥシェート=ハーンが不満を抱いていたのはガルダン=シレトゥとアラニです。
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JCRRAG_002916
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歴史
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このように,トゥシェート=ハーンはダライ=ラマの言を持ち出し自身の正当性を主張するとともに,会盟の冒頭で定めた誓約に基づいて,ガルダン=ホトクトと2人のアハイらの案件を処理しなかったと非難しているのである。
以上より,トゥシェート=ハーンはガルダン=ホトクト,2人のアハイらの訴訟に対してガルダン=シレトゥとアラニらがザサグト=ハーンに迎合するかのような対応をとったと訴えており,会盟での彼らの対応に不満を抱いていたといえる。しかし,史料ではこの異議申し立てに対する反応を確認できず,清朝はこの訴えに対して,上諭を下して要求を退けたり宥めたりするなどの表立った対応をとらなかったと考えられる。
以上のガルダン=ホトクト,2人のアハイらの案件については,ジェブツンダンバ=ホトクトも康熙26年正月の康熙帝への書簡で言及している。
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ガルダン=ホトクト、2人のアハイらの案件について、ジェブツンダンバ=ホトクトが康熙帝への書簡で言及したのはいつですか?
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ガルダン=ホトクト、2人のアハイらの案件について、ジェブツンダンバ=ホトクトが康熙帝への書簡で言及したのは康熙26年正月です。
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JCRRAG_002917
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歴史
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ジェブツンダンバ=ホトクトはトゥシェート=ハーンと同様,ガルダン=シレトゥとアラニらがガルダン=ホトクトらの案件のみを大臣らに審議させず,ザサグト=ハーンに言われるがまま処理したと苦言を呈している。さらに,つづけて彼はこのような事態を「今後も,力のある者が力のない者を略奪したり没収したりすることを是とする類の悪い慣例や,このような悪のはびこる原因の根源となった」とまで言い放っている。だが,この書簡に関しても清朝が何らかの対応をとった形跡はない。
(なお、以上は「ハルハのジェブツンダンバ=ホトクトの上奏した書」『蒙古堂檔』巻6,康熙26年檔冊,No.5,17頁(モンゴル文),No.57,180 頁(満文)による。)
ただ,ガルダンのハルハ侵攻後である康熙28(1689)年のアラニとガルダンの交渉の内容を記したアラニの上奏文には,フレン=ベルチルの会盟でジェブツンダンバ=ホトクトがアラニらを厳しく責め立てたことに関する経過の変容をガルダンに尋ねられた際に,アラニが返答した内容が以下のとおり記されている。
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ジェブツンダンバ=ホトクトは何と苦言を呈していますか。
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ジェブツンダンバ=ホトクトは、トゥシェート=ハーンと同様、ガルダン=シレトゥとアラニらがガルダン=ホトクトらの案件のみを大臣らに審議させず、ザサグト=ハーンに言われるがまま処理したと苦言を呈しています。
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JCRRAG_002918
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歴史
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ジェブツンダンバ=ホトクトはトゥシェート=ハーンと同様,ガルダン=シレトゥとアラニらがガルダン=ホトクトらの案件のみを大臣らに審議させず,ザサグト=ハーンに言われるがまま処理したと苦言を呈している。さらに,つづけて彼はこのような事態を「今後も,力のある者が力のない者を略奪したり没収したりすることを是とする類の悪い慣例や,このような悪のはびこる原因の根源となった」とまで言い放っている。だが,この書簡に関しても清朝が何らかの対応をとった形跡はない。
(なお、以上は「ハルハのジェブツンダンバ=ホトクトの上奏した書」『蒙古堂檔』巻6,康熙26年檔冊,No.5,17頁(モンゴル文),No.57,180 頁(満文)による。)
ただ,ガルダンのハルハ侵攻後である康熙28(1689)年のアラニとガルダンの交渉の内容を記したアラニの上奏文には,フレン=ベルチルの会盟でジェブツンダンバ=ホトクトがアラニらを厳しく責め立てたことに関する経過の変容をガルダンに尋ねられた際に,アラニが返答した内容が以下のとおり記されている。
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「今後も、力のある者が力のない者を略奪したり没収したりすることを是とする類の悪い慣例や、このような悪のはびこる原因の根源となった」と言い放ったのは誰ですか?
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「今後も、力のある者が力のない者を略奪したり没収したりすることを是とする類の悪い慣例や、このような悪のはびこる原因の根源となった」と言い放ったのは、ジェブツンダンバ=ホトクトです。
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JCRRAG_002919
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歴史
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若松[1974: 180-183]によると,ガルダン=シレトゥは康熙25年8月のフレン=ベルチルの会盟に出席した後,翌康熙26年正月には北京に赴いており,会盟後すぐにフレン=ベルチルの地を去っていたことがわかる。したがって,ガルダン=シレトゥとアラニらがそろって案件を処理できたのはフレン=ベルチルの会盟だけであっただろう。以上を踏まえると,【史料6】はフレン=ベルチルという語句は現れないが,ガルダン=シレトゥとアラニらの名がみられることから,フレン=ベルチルでの出来事を述べていると考えられる。
さて,【史料6】の具体的な内容をみてみると,トゥシェート=ハーンは,ガルダン=シレトゥとアラニらが多数決によって物事を決定するといったモンゴルの法を理解していながら,60名中10名余りの大臣らの意見に従ってマンディラの訴訟を処理したと非難している。この10名余りの大臣らがどのような立場の者たちであるかは記載がないが,彼らが「右翼を全てマンディラに与えれば道理である」という見解に反対していることから,おそらく,ザサグト=ハーンの意に従う者たちであると思われる。いずれにせよ,トゥシェート=ハーンがマンディラの訴訟に対するガルダン=シレトゥとアラニらの対応に関しても,不満を抱いていたことがわかる。
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ガルダン=シレトゥがフレン=ベルチルの会盟に出席した後赴いた場所はどこですか?
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ガルダン=シレトゥがフレン=ベルチルの会盟に出席した後赴いた場所は北京です。
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JCRRAG_002920
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歴史
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若松[1974: 180-183]によると,ガルダン=シレトゥは康熙25年8月のフレン=ベルチルの会盟に出席した後,翌康熙26年正月には北京に赴いており,会盟後すぐにフレン=ベルチルの地を去っていたことがわかる。したがって,ガルダン=シレトゥとアラニらがそろって案件を処理できたのはフレン=ベルチルの会盟だけであっただろう。以上を踏まえると,【史料6】はフレン=ベルチルという語句は現れないが,ガルダン=シレトゥとアラニらの名がみられることから,フレン=ベルチルでの出来事を述べていると考えられる。
さて,【史料6】の具体的な内容をみてみると,トゥシェート=ハーンは,ガルダン=シレトゥとアラニらが多数決によって物事を決定するといったモンゴルの法を理解していながら,60名中10名余りの大臣らの意見に従ってマンディラの訴訟を処理したと非難している。この10名余りの大臣らがどのような立場の者たちであるかは記載がないが,彼らが「右翼を全てマンディラに与えれば道理である」という見解に反対していることから,おそらく,ザサグト=ハーンの意に従う者たちであると思われる。いずれにせよ,トゥシェート=ハーンがマンディラの訴訟に対するガルダン=シレトゥとアラニらの対応に関しても,不満を抱いていたことがわかる。
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ガルダン=シレトゥがフレン=ベルチルの会盟に出席した後北京に赴いたのはいつですか?
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ガルダン=シレトゥがフレン=ベルチルの会盟に出席した後北京に赴いたのは、康熙26年正月です。
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JCRRAG_002921
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歴史
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若松[1974: 180-183]によると,ガルダン=シレトゥは康熙25年8月のフレン=ベルチルの会盟に出席した後,翌康熙26年正月には北京に赴いており,会盟後すぐにフレン=ベルチルの地を去っていたことがわかる。したがって,ガルダン=シレトゥとアラニらがそろって案件を処理できたのはフレン=ベルチルの会盟だけであっただろう。以上を踏まえると,【史料6】はフレン=ベルチルという語句は現れないが,ガルダン=シレトゥとアラニらの名がみられることから,フレン=ベルチルでの出来事を述べていると考えられる。
さて,【史料6】の具体的な内容をみてみると,トゥシェート=ハーンは,ガルダン=シレトゥとアラニらが多数決によって物事を決定するといったモンゴルの法を理解していながら,60名中10名余りの大臣らの意見に従ってマンディラの訴訟を処理したと非難している。この10名余りの大臣らがどのような立場の者たちであるかは記載がないが,彼らが「右翼を全てマンディラに与えれば道理である」という見解に反対していることから,おそらく,ザサグト=ハーンの意に従う者たちであると思われる。いずれにせよ,トゥシェート=ハーンがマンディラの訴訟に対するガルダン=シレトゥとアラニらの対応に関しても,不満を抱いていたことがわかる。
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モンゴルの法では物事は何で決定されますか?
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モンゴルの法では物事は多数決で決定されます。
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JCRRAG_002922
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歴史
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清朝がザサグト=ハーン家を支持する対応をとったとして,トゥシェート=ハーンらハルハ左翼が不満を抱いていた様子は,ザサグト=ハーン・チェンブンによるジノン号剥奪事件が発生した際にもみられる。ジノンとはハーンに次ぐ地位称号であり,17世紀のハルハ右翼はハーン,ジノン,ホンタイジの地位にある首長がそれぞれ勢力を率い,三核構造にあったことが先行研究で論じられている[前野 2017]。そこで,以下では,フレン=ベルチルの会盟で議題に上がったかどうかは不明であるが,ジノン号剥奪事件の経緯を確認した上で,それに対する清朝の対応とハルハ左翼の反応についてみていく。
トゥシェート=ハーンらハルハ左翼は,康熙3(1664)年に会盟を開き,ワンチュクをザサグト=ハーンに推戴するとともに,ドルジをセツェン=ジノンに封じた。ところが,ワンチュクの死後,ハーン位を継いだチェンブンは,ドルジに与えられるはずであったダライ=ラマの書と印章をだまし取ってサマディに与え,ドルジからジノン号を剥奪した[阿音娜 2013: 46][前野 2017: 4-5]。これに対して,ダライ=ラマは康熙15(1676)年にチェンブンのハーン号とともに,サマディのジノン号を支持する構えを見せ[阿音娜 2013: 46],清朝も康熙21(1682)年に三藩の乱鎮定をハルハの首長らに通知する際,ドルジではなくサマディに使者を派遣するなど,サマディのジノン号を承認する態度,言い換えるとザサグト=ハーン・チェンブンを支持する態度をとった[阿音娜 2013: 47][前野 2017: 10]。なお,ドルジのジノン号剥奪以降,代わってサマディがザサグとして朝貢するようになり,清朝もそれを受け入れている[前野 2017: 10]。
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ザサグト=ハーン・チェンブンは何を剥奪しましたか?
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ザサグト=ハーン・チェンブンはジノン号を剥奪しました。
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JCRRAG_002923
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歴史
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清朝がザサグト=ハーン家を支持する対応をとったとして,トゥシェート=ハーンらハルハ左翼が不満を抱いていた様子は,ザサグト=ハーン・チェンブンによるジノン号剥奪事件が発生した際にもみられる。ジノンとはハーンに次ぐ地位称号であり,17世紀のハルハ右翼はハーン,ジノン,ホンタイジの地位にある首長がそれぞれ勢力を率い,三核構造にあったことが先行研究で論じられている[前野 2017]。そこで,以下では,フレン=ベルチルの会盟で議題に上がったかどうかは不明であるが,ジノン号剥奪事件の経緯を確認した上で,それに対する清朝の対応とハルハ左翼の反応についてみていく。
トゥシェート=ハーンらハルハ左翼は,康熙3(1664)年に会盟を開き,ワンチュクをザサグト=ハーンに推戴するとともに,ドルジをセツェン=ジノンに封じた。ところが,ワンチュクの死後,ハーン位を継いだチェンブンは,ドルジに与えられるはずであったダライ=ラマの書と印章をだまし取ってサマディに与え,ドルジからジノン号を剥奪した[阿音娜 2013: 46][前野 2017: 4-5]。これに対して,ダライ=ラマは康熙15(1676)年にチェンブンのハーン号とともに,サマディのジノン号を支持する構えを見せ[阿音娜 2013: 46],清朝も康熙21(1682)年に三藩の乱鎮定をハルハの首長らに通知する際,ドルジではなくサマディに使者を派遣するなど,サマディのジノン号を承認する態度,言い換えるとザサグト=ハーン・チェンブンを支持する態度をとった[阿音娜 2013: 47][前野 2017: 10]。なお,ドルジのジノン号剥奪以降,代わってサマディがザサグとして朝貢するようになり,清朝もそれを受け入れている[前野 2017: 10]。
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17世紀のハルハ右翼はどのような構造にありましたか?
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17世紀のハルハ右翼はハーン,ジノン,ホンタイジの地位にある首長がそれぞれ勢力を率いる三核構造にありました。
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JCRRAG_002924
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歴史
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清朝がザサグト=ハーン家を支持する対応をとったとして,トゥシェート=ハーンらハルハ左翼が不満を抱いていた様子は,ザサグト=ハーン・チェンブンによるジノン号剥奪事件が発生した際にもみられる。ジノンとはハーンに次ぐ地位称号であり,17世紀のハルハ右翼はハーン,ジノン,ホンタイジの地位にある首長がそれぞれ勢力を率い,三核構造にあったことが先行研究で論じられている[前野 2017]。そこで,以下では,フレン=ベルチルの会盟で議題に上がったかどうかは不明であるが,ジノン号剥奪事件の経緯を確認した上で,それに対する清朝の対応とハルハ左翼の反応についてみていく。
トゥシェート=ハーンらハルハ左翼は,康熙3(1664)年に会盟を開き,ワンチュクをザサグト=ハーンに推戴するとともに,ドルジをセツェン=ジノンに封じた。ところが,ワンチュクの死後,ハーン位を継いだチェンブンは,ドルジに与えられるはずであったダライ=ラマの書と印章をだまし取ってサマディに与え,ドルジからジノン号を剥奪した[阿音娜 2013: 46][前野 2017: 4-5]。これに対して,ダライ=ラマは康熙15(1676)年にチェンブンのハーン号とともに,サマディのジノン号を支持する構えを見せ[阿音娜 2013: 46],清朝も康熙21(1682)年に三藩の乱鎮定をハルハの首長らに通知する際,ドルジではなくサマディに使者を派遣するなど,サマディのジノン号を承認する態度,言い換えるとザサグト=ハーン・チェンブンを支持する態度をとった[阿音娜 2013: 47][前野 2017: 10]。なお,ドルジのジノン号剥奪以降,代わってサマディがザサグとして朝貢するようになり,清朝もそれを受け入れている[前野 2017: 10]。
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ジノンとは何ですか?
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ジノンとはハーンに次ぐ地位称号です。
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JCRRAG_002925
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歴史
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清朝がザサグト=ハーン家を支持する対応をとったとして,トゥシェート=ハーンらハルハ左翼が不満を抱いていた様子は,ザサグト=ハーン・チェンブンによるジノン号剥奪事件が発生した際にもみられる。ジノンとはハーンに次ぐ地位称号であり,17世紀のハルハ右翼はハーン,ジノン,ホンタイジの地位にある首長がそれぞれ勢力を率い,三核構造にあったことが先行研究で論じられている[前野 2017]。そこで,以下では,フレン=ベルチルの会盟で議題に上がったかどうかは不明であるが,ジノン号剥奪事件の経緯を確認した上で,それに対する清朝の対応とハルハ左翼の反応についてみていく。
トゥシェート=ハーンらハルハ左翼は,康熙3(1664)年に会盟を開き,ワンチュクをザサグト=ハーンに推戴するとともに,ドルジをセツェン=ジノンに封じた。ところが,ワンチュクの死後,ハーン位を継いだチェンブンは,ドルジに与えられるはずであったダライ=ラマの書と印章をだまし取ってサマディに与え,ドルジからジノン号を剥奪した[阿音娜 2013: 46][前野 2017: 4-5]。これに対して,ダライ=ラマは康熙15(1676)年にチェンブンのハーン号とともに,サマディのジノン号を支持する構えを見せ[阿音娜 2013: 46],清朝も康熙21(1682)年に三藩の乱鎮定をハルハの首長らに通知する際,ドルジではなくサマディに使者を派遣するなど,サマディのジノン号を承認する態度,言い換えるとザサグト=ハーン・チェンブンを支持する態度をとった[阿音娜 2013: 47][前野 2017: 10]。なお,ドルジのジノン号剥奪以降,代わってサマディがザサグとして朝貢するようになり,清朝もそれを受け入れている[前野 2017: 10]。
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トゥシェート=ハーンらハルハ左翼が会盟を開いたのは何年ですか?
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トゥシェート=ハーンらハルハ左翼が会盟を開いたのは、康熙3(1664)年です。
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JCRRAG_002926
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歴史
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康熙21年,ジノン号を剥奪されたドルジを含むベスト部(ジノン家の勢力基盤)の首長らは,ドルジのジノン号の正当性を康熙帝に訴え[阿音娜 2013: 45-46][前野 2017: 5],ジェブツンダンバ=ホトクトもドルジのジノン号を支持し,サマディがジノン号を有する不当性を康熙帝に主張した[阿音娜 2013: 47]。さらにトゥシェート=ハーンはフレン=ベルチルの会盟後である康熙26年に送付した書簡において,右翼ベストのジノン号問題を再び持ち出し,サマディがジノン号を継承するにふさわしくない人物であることを康熙帝に強く主張している。しかし,ここでも清朝がトゥシェート=ハーンやジェブツンダンバ=ホトクトの訴えに対して,何らかの対応をとった形跡は見られない。清朝はハルハ右翼のジノン号問題において,ザサグト=ハーン・チェンブンを支持するかのような対応をとり,それに対してハルハ左翼は不満を抱き康熙帝に訴えたものの,その要求は受け入れられなかったのである。
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ベスト部の首長らがドルジのジノン号の正当性を康熙帝に訴えたのは何年ですか。
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ベスト部の首長らがドルジのジノン号の正当性を康熙帝に訴えたのは、康煕21年です。
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JCRRAG_002927
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歴史
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康熙26年秋にトゥシェート=ハーンはガルダンのもとに向かったザサグト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイ,ダルマシリ=ノヤンを追跡し,ザサグト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイを殺害した。つづいて,トゥシェート=ハーンの子ガルダン=タイジは,ガルダンの弟ドルジジャブが兵を率いて右翼で略奪を行なったため,それを追跡して殺害した[宮脇 1979: 126-127][黒龍 2013: 43(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116]。ガルダンは前述したとおり,ザサグト=ハーンに従わない右翼の属衆に対して軍事征討する姿勢を示していたが,ドルジジャブに略奪された右翼とは,ザサグト=ハーンに従ってガルダンのもとへ向かった首長ら以外の属衆であり,この略奪は見せしめの意味があったと考えられる。ザサグト=ハーンが殺害されると,ガルダンはザサグト=ハーンの妻と3人の子バラン,グンゲ,ケセグをアルタイ山陽に居住させるとともに[岡 2007: 84(初出 1993)],康熙27年春,30000の兵を率いてハルハ右翼,さらに左翼を攻撃し,続けてトゥシェート=ハーンの子ガルダン=タイジと交戦してこれを破った。8月,トゥシェート=ハーンはガルダン軍と激突するが敗北し,これによりハルハ左右翼の多くが清朝支配下の漠南へ逃亡した[宮脇 1979: 126-127][黒龍 2013: 43-44(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116]。
ところが,ガルダンはハルハ侵攻直後,甥のツェワン=ラブタンが離反したことにより,ジューン=ガル本国との連絡が絶ち切られ,アルタイ山脈以東に孤立してしまい,当初の勢いを失っていく[岡田 2013: 93-94]。その上,康熙29(1690)年にはガルダンの援助を受けていたザサグト=ハーンの子バランまでもがダルマシリ=ノヤンに率いられ清朝に帰順する。
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ガルダンはザサグト=ハーンの妻と3人の子バラン、グンゲ、ケセグをどこに移住させましたか?
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ガルダンはザサグト=ハーンの妻と3人の子バラン、グンゲ、ケセグをアルタイ山陽に移住させました。
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JCRRAG_002928
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歴史
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若松[1974: 180-183]によると,ガルダン=シレトゥは康熙25年8月のフレン=ベルチルの会盟に出席した後,翌康熙26年正月には北京に赴いており,会盟後すぐにフレン=ベルチルの地を去っていたことがわかる。したがって,ガルダン=シレトゥとアラニらがそろって案件を処理できたのはフレン=ベルチルの会盟だけであっただろう。以上を踏まえると,【史料6】はフレン=ベルチルという語句は現れないが,ガルダン=シレトゥとアラニらの名がみられることから,フレン=ベルチルでの出来事を述べていると考えられる。
さて,【史料6】の具体的な内容をみてみると,トゥシェート=ハーンは,ガルダン=シレトゥとアラニらが多数決によって物事を決定するといったモンゴルの法を理解していながら,60名中10名余りの大臣らの意見に従ってマンディラの訴訟を処理したと非難している。この10名余りの大臣らがどのような立場の者たちであるかは記載がないが,彼らが「右翼を全てマンディラに与えれば道理である」という見解に反対していることから,おそらく,ザサグト=ハーンの意に従う者たちであると思われる。いずれにせよ,トゥシェート=ハーンがマンディラの訴訟に対するガルダン=シレトゥとアラニらの対応に関しても,不満を抱いていたことがわかる。
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【史料6】はどこでの出来事を述べていると考えられますか?
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【史料6】はフレン=ベルチルでの出来事を述べていると考えられます。【史料6】はフレン=ベルチルという語句は現れませんが、ガルダン=シレトゥとアラニらの名がみられることから、それが伺えます。
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JCRRAG_002929
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歴史
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フレン=ベルチルの会盟では,前述したとおり,ザサグト=ハーン・チェンブンがかねてよりトゥシェート=ハーンに訴えてきたザサグト=ハーン殺害事件に起因する右翼属衆の返還問題についても審議が行われた。そこで,まず,ザサグト=ハーン・チェンブンがトゥシェート=ハーンに右翼の属衆の返還を要求するに至った経緯とその時期について考察していく。
従来の研究では,康熙21年にガルダンが兄センゲの捕えたロブサン=タイジをチェンブンに返還したため,それによりガルダンの支持を得たチェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,左翼に逃亡した右翼の属衆の返還をトゥシェート=ハーンに申し入れたとされている[宮脇 1995: 206]。しかし,チェンブンが康熙5年にセンゲとガルダンの後ろ盾を得て,ザサグト=ハーンに即位したことを踏まえると[Buyandelger 2000],チェンブンは康熙21年よりも早い時期からガルダンらの後援のもと,トゥシェート=ハーンに属衆の返還を要求していたと考えられる。それを窺わせる記述は,康熙21年10月にチェンブンがダライ=ラマからザサグト=ハーン位の承認を得たことを康熙帝に伝えた書簡にみられる。
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ザサグト=ハーン殺害事件に起因する右翼属衆の返還問題をトゥシェート=ハーンに訴えてきたのは誰ですか。
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ザサグト=ハーン殺害事件に起因する右翼属衆の返還問題をトゥシェート=ハーンに訴えてきたのは、ザサグト=ハーン・チェンブンです。
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JCRRAG_002930
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歴史
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フレン=ベルチルの会盟では,前述したとおり,ザサグト=ハーン・チェンブンがかねてよりトゥシェート=ハーンに訴えてきたザサグト=ハーン殺害事件に起因する右翼属衆の返還問題についても審議が行われた。そこで,まず,ザサグト=ハーン・チェンブンがトゥシェート=ハーンに右翼の属衆の返還を要求するに至った経緯とその時期について考察していく。
従来の研究では,康熙21年にガルダンが兄センゲの捕えたロブサン=タイジをチェンブンに返還したため,それによりガルダンの支持を得たチェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,左翼に逃亡した右翼の属衆の返還をトゥシェート=ハーンに申し入れたとされている[宮脇 1995: 206]。しかし,チェンブンが康熙5年にセンゲとガルダンの後ろ盾を得て,ザサグト=ハーンに即位したことを踏まえると[Buyandelger 2000],チェンブンは康熙21年よりも早い時期からガルダンらの後援のもと,トゥシェート=ハーンに属衆の返還を要求していたと考えられる。それを窺わせる記述は,康熙21年10月にチェンブンがダライ=ラマからザサグト=ハーン位の承認を得たことを康熙帝に伝えた書簡にみられる。
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チェンブンがザサグト=ハーンに即位したのはいつですか?
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チェンブンがザサグト=ハーンに即位したのは康熙5年です。
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JCRRAG_002931
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歴史
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フレン=ベルチルの会盟では,前述したとおり,ザサグト=ハーン・チェンブンがかねてよりトゥシェート=ハーンに訴えてきたザサグト=ハーン殺害事件に起因する右翼属衆の返還問題についても審議が行われた。そこで,まず,ザサグト=ハーン・チェンブンがトゥシェート=ハーンに右翼の属衆の返還を要求するに至った経緯とその時期について考察していく。
従来の研究では,康熙21年にガルダンが兄センゲの捕えたロブサン=タイジをチェンブンに返還したため,それによりガルダンの支持を得たチェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,左翼に逃亡した右翼の属衆の返還をトゥシェート=ハーンに申し入れたとされている[宮脇 1995: 206]。しかし,チェンブンが康熙5年にセンゲとガルダンの後ろ盾を得て,ザサグト=ハーンに即位したことを踏まえると[Buyandelger 2000],チェンブンは康熙21年よりも早い時期からガルダンらの後援のもと,トゥシェート=ハーンに属衆の返還を要求していたと考えられる。それを窺わせる記述は,康熙21年10月にチェンブンがダライ=ラマからザサグト=ハーン位の承認を得たことを康熙帝に伝えた書簡にみられる。
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チェンブンは誰からザサグト=ハーン位の承認を得たのですか?
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チェンブンはダライ=ラマからザサグト=ハーン位の承認を得ました。
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JCRRAG_002932
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歴史
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阿音娜[2013: 43]は,ダライ=ラマがチェンブンを支持していたことや,チェンブンがダライ=ラマから賜った称号がザサグト=セツェン=ハーンであったことを指摘している。ここで注目したいのは,チェンブンが康熙21年に至るまで,何度もトゥシェート=ハーンに右翼の属衆の返還を求めたが,彼が応じなかったためダライ=ラマに援助を求め,その際にダライ=ラマからハーンの称号を賜ったと言及していることである。チェンブンがダライ=ラマからザサグト=ハーン位を追認された時期は,康熙15年頃であり[阿音娜 2013: 43],チェンブンは康熙15年以前にはトゥシェート=ハーンに対して右翼の属衆の返還を要求していたといえる。おそらくチェンブンは康熙5年にガルダンらの支持を得て,ザサグト=ハーン位を継承した直後から,トゥシェート=ハーンに属衆の返還を要請していったのであろう。ところが,トゥシェート=ハーンはチェンブンの度重なる返還要請に応じず,ダライ=ラマの命で開催された会盟にも参加しなかった。その後,両ハーンの対立はガルダンの介入もあり,益々悪化していった。そのような中で,康熙帝は前述したとおりフレン=ベルチルの会盟を開催するのである。
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チェンブンは何年以前にはトゥシェート=ハーンに対して右翼の属衆の返還を要求していたといえますか。
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チェンブンは康煕15年以前にはトゥシェート=ハーンに対して右翼の属衆の返還を要求していたといえます。
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JCRRAG_002933
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歴史
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トゥシェート=ハーンは自身のもとにいる右翼の属衆は逃亡して来たのであり,故意に奪った者ではないため,チェンブンが奪った属衆を返還した後,「モンゴルの慣例」によって返還したいと申し出て,会盟以前から条件つきで右翼の属衆の返還を承諾していたと言う。ところが,ガルダン=シレトゥとアラニらが会盟でトゥシェート=ハーン側が先に返還を実行するよう要求したため,トゥシェート=ハーンは,先に定めたとおりチェンブンが奪った属衆の返還が先決であると主張し,そのとおりに調停しようとしないガルダン=シレトゥとアラニらに対して「我々をあざむいたよう」であると不信感をあらわにしている。しかしながら,以上のトゥシェート=ハーンの訴えに対しても,清朝が何らかの反応を示した形跡は見られず,清朝はこの訴えに関しても正面から取り合わなかったと考えられる。清朝は,会盟の決定どおりトゥシェート=ハーン側が先に返還を行う以外の方法には応じない態度を貫いたといえる。
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清朝はどのような態度を貫いたといえますか?
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清朝は会盟の決定どおりトゥシェート=ハーン側が先に返還を行う以外の方法には応じない態度を貫いたといえます。
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JCRRAG_002934
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歴史
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トゥシェート=ハーンは自身のもとにいる右翼の属衆は逃亡して来たのであり,故意に奪った者ではないため,チェンブンが奪った属衆を返還した後,「モンゴルの慣例」によって返還したいと申し出て,会盟以前から条件つきで右翼の属衆の返還を承諾していたと言う。ところが,ガルダン=シレトゥとアラニらが会盟でトゥシェート=ハーン側が先に返還を実行するよう要求したため,トゥシェート=ハーンは,先に定めたとおりチェンブンが奪った属衆の返還が先決であると主張し,そのとおりに調停しようとしないガルダン=シレトゥとアラニらに対して「我々をあざむいたよう」であると不信感をあらわにしている。しかしながら,以上のトゥシェート=ハーンの訴えに対しても,清朝が何らかの反応を示した形跡は見られず,清朝はこの訴えに関しても正面から取り合わなかったと考えられる。清朝は,会盟の決定どおりトゥシェート=ハーン側が先に返還を行う以外の方法には応じない態度を貫いたといえる。
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トゥシェート=ハーンは誰に対して「我々をあざむいたよう」であると不信感をあらわにしていますか?
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トゥシェート=ハーンはガルダン=シレトゥとアラニらに対して「我々をあざむいたよう」であると不信感をあらわにしています。
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JCRRAG_002935
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歴史
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トゥシェート=ハーンは康熙帝に対して,(1)多数の案件を裁断した方式を正しいとする場合は,ガルダン=ホトクト,2人のアハイらの訴訟に関しても同様に処理してほしいとする一方で,(2)ザサグト=ハーンがガルダン=ホトクト,2人のアハイらの訴訟に対して,誓約した大臣らに審問させず,彼らの半分あるいは少数の属衆を返還するのみで事態を収拾させたことを正しいとする場合は,半数あるいは少数の属衆を返還する,といった代替案を提示した。黒龍[2013:43(初出は黒龍,海純良[2008])]は,トゥシェート=ハーンが右翼内部の論争である案件が会盟で裁断されなかったことを口実として,ザサグト=ハーン殺害事件の際に左翼に逃亡した右翼の多くの属衆を返還しなかった,と論じている。トゥシェート=ハーンはのち右翼の属衆を半分返還することになるが,以上で論じた(1),(2)の提案のどちらにも清朝が応じることはなかったため,(2)の代替案を実行に移したものと考えられる。
以上より,トゥシェート=ハーンは会盟でアラニらがザサグト=ハーン家を支持する対応をとったとして不信・不満を抱き,それを会盟後の早い段階から康熙帝に訴えていた。後述するザサグト=ハーン・シャラの子バラン(Mon. Barang)が清朝に帰順する際に康熙帝に送付した書簡をみてみると「我が祖父チェチェン(セツェン)=ハン(チェンブン)を甚だ慈しんで,我が父ザサグト=ハン(シャラ)の逃散した領民・民を集めて与えた。上大主(康熙帝)が慈しんだため,トゥシェート=ハンは悪い心を抱いた」とある。祖父チェンブンを慈しみ,さらに「我が父ザサグト=ハン(シャラ)の逃散した領民・民を集めて与えた」とは,康熙帝がフレン=ベルチルの会盟を開き,そこでトゥシェート=ハーンにハルハ左翼に逃亡した右翼の属衆を返還させるよう取り決めたことを指していると考えられる。この記事が書かれている書簡はバランが清朝に帰順する際に送付した書簡であるため,彼が言う自身の行動過程について慎重に解釈する必要があるが,トゥシェート=ハーンが「悪い心を抱いた」理由として,清朝のフレン=ベルチルの会盟での対応をあげていることは注目に値する。ここから,会盟においてアラニがザサグト=ハーン寄りの対応をとったとするハルハ左翼の言い分はある程度,根拠のあるものとみられる。
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「我が祖父チェチェン(セツェン)=ハン(チェンブン)を甚だ慈しんで、我が父ザサグト=ハン(シャラ)の逃散した領民・民を集めて与えた。上大主(康熙帝)が慈しんだため、トゥシェート=ハンは悪い心を抱いた」という書簡は、誰が康熙帝に送付しましたか?
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その書簡はザサグト=ハーン・シャラの子バランが康熙帝に送付しました。
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JCRRAG_002936
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歴史
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トゥシェート=ハーンは康熙帝に対して,(1)多数の案件を裁断した方式を正しいとする場合は,ガルダン=ホトクト,2人のアハイらの訴訟に関しても同様に処理してほしいとする一方で,(2)ザサグト=ハーンがガルダン=ホトクト,2人のアハイらの訴訟に対して,誓約した大臣らに審問させず,彼らの半分あるいは少数の属衆を返還するのみで事態を収拾させたことを正しいとする場合は,半数あるいは少数の属衆を返還する,といった代替案を提示した。黒龍[2013:43(初出は黒龍,海純良[2008])]は,トゥシェート=ハーンが右翼内部の論争である案件が会盟で裁断されなかったことを口実として,ザサグト=ハーン殺害事件の際に左翼に逃亡した右翼の多くの属衆を返還しなかった,と論じている。トゥシェート=ハーンはのち右翼の属衆を半分返還することになるが,以上で論じた(1),(2)の提案のどちらにも清朝が応じることはなかったため,(2)の代替案を実行に移したものと考えられる。
以上より,トゥシェート=ハーンは会盟でアラニらがザサグト=ハーン家を支持する対応をとったとして不信・不満を抱き,それを会盟後の早い段階から康熙帝に訴えていた。後述するザサグト=ハーン・シャラの子バラン(Mon. Barang)が清朝に帰順する際に康熙帝に送付した書簡をみてみると「我が祖父チェチェン(セツェン)=ハン(チェンブン)を甚だ慈しんで,我が父ザサグト=ハン(シャラ)の逃散した領民・民を集めて与えた。上大主(康熙帝)が慈しんだため,トゥシェート=ハンは悪い心を抱いた」とある。祖父チェンブンを慈しみ,さらに「我が父ザサグト=ハン(シャラ)の逃散した領民・民を集めて与えた」とは,康熙帝がフレン=ベルチルの会盟を開き,そこでトゥシェート=ハーンにハルハ左翼に逃亡した右翼の属衆を返還させるよう取り決めたことを指していると考えられる。この記事が書かれている書簡はバランが清朝に帰順する際に送付した書簡であるため,彼が言う自身の行動過程について慎重に解釈する必要があるが,トゥシェート=ハーンが「悪い心を抱いた」理由として,清朝のフレン=ベルチルの会盟での対応をあげていることは注目に値する。ここから,会盟においてアラニがザサグト=ハーン寄りの対応をとったとするハルハ左翼の言い分はある程度,根拠のあるものとみられる。
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ハルハ左翼の言い分で、会盟においてがザサグト=ハーン寄りの対応をとったとされているのは誰ですか?
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ハルハ左翼の言い分で、会盟においてがザサグト=ハーン寄りの対応をとったとされているのは、アラニです。
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JCRRAG_002937
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歴史
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ザサグト=ハーンは,トゥシェート=ハーンが会盟後,右翼の属衆を半分しか返還しなかったことに不満を抱き,デグデヘイ=メルゲン=アハイ,ダルマシリ=ノヤン(Mon. Darmasirinoyan)44)らとともにガルダンに援助を求めジューン=ガルへ向かった。すると,康熙26年秋,トゥシェート=ハーンは彼らを追撃してザサグト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイを殺害し,康熙27年にガルダンのハルハ侵攻を招く。ハルハの属衆がガルダンの侵攻によって清朝に保護を求めるまでの経緯は,宮脇[1979]や黒龍[2013: 43-56(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116-118]に詳しいが,前述したように,清朝がフレン=ベルチルの会盟でトゥシェート=ハーンらハルハ左翼を突き放すかのような対応をとっていたことを踏まえて,あらためて捉え直す必要があるだろう。さらに,先行研究ではガルダンに援助を求めたザサグト=ハーン家が最終的に清朝に帰順した経緯や,ザサグト=ハーンの配下であるハルハ右翼の首長までもが,ガルダンの攻撃を受けて清朝に保護を求めるに至った経緯について,十分に分析されていない。よって,本章では以上の点を明らかにしつつ,あらためてフレン=ベルチルの会盟直後からガルダンのハルハ侵攻により,ハルハが清朝に保護を求めるまでの経緯を分析する。
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ザサグト=ハーンが向かった場所はどこですか?
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ザサグト=ハーンが向かった場所は、ジューン=ガルです。
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JCRRAG_002938
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歴史
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ザサグト=ハーンは,トゥシェート=ハーンが会盟後,右翼の属衆を半分しか返還しなかったことに不満を抱き,デグデヘイ=メルゲン=アハイ,ダルマシリ=ノヤン(Mon. Darmasirinoyan)44)らとともにガルダンに援助を求めジューン=ガルへ向かった。すると,康熙26年秋,トゥシェート=ハーンは彼らを追撃してザサグト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイを殺害し,康熙27年にガルダンのハルハ侵攻を招く。ハルハの属衆がガルダンの侵攻によって清朝に保護を求めるまでの経緯は,宮脇[1979]や黒龍[2013: 43-56(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116-118]に詳しいが,前述したように,清朝がフレン=ベルチルの会盟でトゥシェート=ハーンらハルハ左翼を突き放すかのような対応をとっていたことを踏まえて,あらためて捉え直す必要があるだろう。さらに,先行研究ではガルダンに援助を求めたザサグト=ハーン家が最終的に清朝に帰順した経緯や,ザサグト=ハーンの配下であるハルハ右翼の首長までもが,ガルダンの攻撃を受けて清朝に保護を求めるに至った経緯について,十分に分析されていない。よって,本章では以上の点を明らかにしつつ,あらためてフレン=ベルチルの会盟直後からガルダンのハルハ侵攻により,ハルハが清朝に保護を求めるまでの経緯を分析する。
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ザサグト=ハーン家が援助を求めたのは誰ですか?
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ザサグト=ハーン家が援助を求めたのはガルダンです。
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JCRRAG_002939
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歴史
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ザサグト=ハーンは,トゥシェート=ハーンが会盟後,右翼の属衆を半分しか返還しなかったことに不満を抱き,デグデヘイ=メルゲン=アハイ,ダルマシリ=ノヤン(Mon. Darmasirinoyan)44)らとともにガルダンに援助を求めジューン=ガルへ向かった。すると,康熙26年秋,トゥシェート=ハーンは彼らを追撃してザサグト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイを殺害し,康熙27年にガルダンのハルハ侵攻を招く。ハルハの属衆がガルダンの侵攻によって清朝に保護を求めるまでの経緯は,宮脇[1979]や黒龍[2013: 43-56(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116-118]に詳しいが,前述したように,清朝がフレン=ベルチルの会盟でトゥシェート=ハーンらハルハ左翼を突き放すかのような対応をとっていたことを踏まえて,あらためて捉え直す必要があるだろう。さらに,先行研究ではガルダンに援助を求めたザサグト=ハーン家が最終的に清朝に帰順した経緯や,ザサグト=ハーンの配下であるハルハ右翼の首長までもが,ガルダンの攻撃を受けて清朝に保護を求めるに至った経緯について,十分に分析されていない。よって,本章では以上の点を明らかにしつつ,あらためてフレン=ベルチルの会盟直後からガルダンのハルハ侵攻により,ハルハが清朝に保護を求めるまでの経緯を分析する。
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トゥシェート=ハーンがザサグト=ハーン、デグデヘイ=メルゲン=アハイを殺害したのはいつですか?
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トゥシェート=ハーンがザサグト=ハーン、デグデヘイ=メルゲン=アハイを殺害したのは、康煕26年秋です。
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JCRRAG_002940
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歴史
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ザサグト=ハーンは,トゥシェート=ハーンが会盟後,右翼の属衆を半分しか返還しなかったことに不満を抱き,デグデヘイ=メルゲン=アハイ,ダルマシリ=ノヤン(Mon. Darmasirinoyan)44)らとともにガルダンに援助を求めジューン=ガルへ向かった。すると,康熙26年秋,トゥシェート=ハーンは彼らを追撃してザサグト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイを殺害し,康熙27年にガルダンのハルハ侵攻を招く。ハルハの属衆がガルダンの侵攻によって清朝に保護を求めるまでの経緯は,宮脇[1979]や黒龍[2013: 43-56(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116-118]に詳しいが,前述したように,清朝がフレン=ベルチルの会盟でトゥシェート=ハーンらハルハ左翼を突き放すかのような対応をとっていたことを踏まえて,あらためて捉え直す必要があるだろう。さらに,先行研究ではガルダンに援助を求めたザサグト=ハーン家が最終的に清朝に帰順した経緯や,ザサグト=ハーンの配下であるハルハ右翼の首長までもが,ガルダンの攻撃を受けて清朝に保護を求めるに至った経緯について,十分に分析されていない。よって,本章では以上の点を明らかにしつつ,あらためてフレン=ベルチルの会盟直後からガルダンのハルハ侵攻により,ハルハが清朝に保護を求めるまでの経緯を分析する。
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トゥシェート=ハーンがガルダンのハルハ侵攻を招いたのは何年ですか?
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トゥシェート=ハーンがガルダンのハルハ侵攻を招いたのは、康煕27年です。
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JCRRAG_002941
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歴史
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やや時代は遡るが,第一章の2で提示した康熙21年のザサグト=ハーン・チェンブンの書簡に引用されているハルハに下したダライ=ラマの旨には「ザサグト=ハン(チェンブン)を汝らの七旗(ハルハ)は尊重するのが道理である。ザサグト=ハンと言ったとしても七旗を区別せず扶助するのが道理であった。まさにこのとおりにすべき」とある。ダライ=ラマは,ハルハ左右翼全体に対してチェンブンに敬意を示すよう命じている。チェンブンの権威がある程度にまで及んでいたならば,わざわざダライ=ラマがこのように命じたりはしないはずであり,ここから,左翼のみならず右翼においてもチェンブンを支持していない首長が少なからず存在していたことがわかる。17世紀のハルハでは,長子相続が慣例であったが[烏雲畢力格 2009: 308-309(初出 2007)],ワンチュクの死後,彼の子ではなく弟のチェンブンがザサグト=ハーンを継承したため,トゥシェート=ハーンを始めとするハルハ左翼のみならず,右翼の一定程度もチェンブンのハーン位継承に不満を抱いていたと考えられる。その上,第一章の1の(1)で論じたとおり,ハーン位を継承したチェンブンは第3代ザサグト=ハーン・ノルブの弟である2人のアハイや,ノルブの子ガルダン=ホトクトの属衆を略奪した。また,第一章の1の(3)で論じたとおり,ドルジのジノン号を剥奪しサマディに与え,ドルジを始めとするベスト部の首長らから反感を買っていた。ドルジの子ソノムはフレン=ベルチルの会盟後も,父ドルジがジノン号を剥奪された経緯を振り返って説明し,自らがジノン号を得る正当性を主張する書簡を康熙帝に送付している。さらに,康熙24(1685)年4月に清朝に届いたベスト部のエルデニ=ホンタイジ,セツェン=ホンタイジ,イルデン=ホショーチらの書簡からは,チェンブンがサマディとともにベスト部に対して略奪を働いていたことが窺える。既述の如く,ベスト部はハルハ右翼の一大勢力を率いるジノン家の勢力基盤である。チェンブンは,右翼においても人心が得られない行動を度々とっていたのである。以上からも,ハルハ右翼の首長らはザサグト=ハーン家のもとに統制がとれていなかったとみなしてよかろう。ただし,だからといって彼らはザサグト=ハーン家と敵対しているトゥシェート=ハーンに従っていたわけではない。
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ベスト部に対してチェンブンがともに略奪を働いていたことが窺えるのは誰ですか?
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ベスト部に対してチェンブンがともに略奪を働いていたことが窺えるのは、サマディです。
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JCRRAG_002942
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歴史
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やや時代は遡るが,第一章の2で提示した康熙21年のザサグト=ハーン・チェンブンの書簡に引用されているハルハに下したダライ=ラマの旨には「ザサグト=ハン(チェンブン)を汝らの七旗(ハルハ)は尊重するのが道理である。ザサグト=ハンと言ったとしても七旗を区別せず扶助するのが道理であった。まさにこのとおりにすべき」とある。ダライ=ラマは,ハルハ左右翼全体に対してチェンブンに敬意を示すよう命じている。チェンブンの権威がある程度にまで及んでいたならば,わざわざダライ=ラマがこのように命じたりはしないはずであり,ここから,左翼のみならず右翼においてもチェンブンを支持していない首長が少なからず存在していたことがわかる。17世紀のハルハでは,長子相続が慣例であったが[烏雲畢力格 2009: 308-309(初出 2007)],ワンチュクの死後,彼の子ではなく弟のチェンブンがザサグト=ハーンを継承したため,トゥシェート=ハーンを始めとするハルハ左翼のみならず,右翼の一定程度もチェンブンのハーン位継承に不満を抱いていたと考えられる。その上,第一章の1の(1)で論じたとおり,ハーン位を継承したチェンブンは第3代ザサグト=ハーン・ノルブの弟である2人のアハイや,ノルブの子ガルダン=ホトクトの属衆を略奪した。また,第一章の1の(3)で論じたとおり,ドルジのジノン号を剥奪しサマディに与え,ドルジを始めとするベスト部の首長らから反感を買っていた。ドルジの子ソノムはフレン=ベルチルの会盟後も,父ドルジがジノン号を剥奪された経緯を振り返って説明し,自らがジノン号を得る正当性を主張する書簡を康熙帝に送付している。さらに,康熙24(1685)年4月に清朝に届いたベスト部のエルデニ=ホンタイジ,セツェン=ホンタイジ,イルデン=ホショーチらの書簡からは,チェンブンがサマディとともにベスト部に対して略奪を働いていたことが窺える。既述の如く,ベスト部はハルハ右翼の一大勢力を率いるジノン家の勢力基盤である。チェンブンは,右翼においても人心が得られない行動を度々とっていたのである。以上からも,ハルハ右翼の首長らはザサグト=ハーン家のもとに統制がとれていなかったとみなしてよかろう。ただし,だからといって彼らはザサグト=ハーン家と敵対しているトゥシェート=ハーンに従っていたわけではない。
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ハルハ右翼の一大勢力を率いるジノン家の勢力基盤は何ですか?
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ハルハ右翼の一大勢力を率いるジノン家の勢力基盤は、ベスト部です。
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JCRRAG_002943
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歴史
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前述のとおり,康熙26年秋にトゥシェート=ハーンはガルダンのもとに向かったザサグト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイ,ダルマシリ=ノヤンを追跡し,ザサグト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイを殺害した。つづいて,トゥシェート=ハーンの子ガルダン=タイジは,ガルダンの弟ドルジジャブが兵を率いて右翼で略奪を行なったため,それを追跡して殺害した[宮脇 1979: 126-127][黒龍 2013: 43(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116]。ガルダンは前述したとおり,ザサグト=ハーンに従わない右翼の属衆に対して軍事征討する姿勢を示していたが,ドルジジャブに略奪された右翼とは,ザサグト=ハーンに従ってガルダンのもとへ向かった首長ら以外の属衆であり,この略奪は見せしめの意味があったと考えられる。ザサグト=ハーンが殺害されると,ガルダンはザサグト=ハーンの妻と3人の子バラン,グンゲ,ケセグをアルタイ山陽に居住させるとともに[岡 2007: 84(初出 1993)],康熙27年春,30000の兵を率いてハルハ右翼,さらに左翼を攻撃し,続けてトゥシェート=ハーンの子ガルダン=タイジと交戦してこれを破った。8月,トゥシェート=ハーンはガルダン軍と激突するが敗北し,これによりハルハ左右翼の多くが清朝支配下の漠南へ逃亡した[宮脇 1979: 126-127][黒龍 2013: 43-44(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116]。
ところが,ガルダンはハルハ侵攻直後,甥のツェワン=ラブタンが離反したことにより,ジューン=ガル本国との連絡が絶ち切られ,アルタイ山脈以東に孤立してしまい,当初の勢いを失っていく[岡田 2013: 93-94]。その上,康熙29(1690)年にはガルダンの援助を受けていたザサグト=ハーンの子バランまでもがダルマシリ=ノヤンに率いられ清朝に帰順する。
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ガルダン=タイジが殺害したのは誰ですか?
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ガルダン=タイジが殺害したのは、ガルダンの弟ドルジジャブです。
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JCRRAG_002944
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歴史
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1906年6月6日、馬堅は雲南省蒙自県沙甸村の敬虔な回族家庭に生まれた。小学校時代に課外時間を使い、アホンの馬明福と王誠一からアラビア語及びクルアーンを学び、清朝秀才の国文先生から漢文を勉強した。そこまで馬堅が受けていたのは中国ムスリム知識人が伝統的に受けてきた教授法による教育であったが、1920年からは近代的に整備されたイスラーム新式教育を受け始めた。1920年、馬堅は新式教科書で授業を行う私塾で勉強し、1921年、雲南回教高等経書並授学校に入学した。科目には、旧教育が重要視しているクルアーンやアラビア語などのイスラーム知識のほか、現代中国語や自然科学などの授業も含まれた。1922年から1925年まで、馬堅は成徳中学校で、国文、歴史、数学、物理、化学及び英語などを学んだ。その後、イスラーム哲学の研究を目的として北京大学に進学を希望したが、経済状況のため進学を断念した。1926年から1928年まで魚峰小学校で校務主任を務めた。学生の回顧によれば、教員としての馬堅は西洋科学知識と愛国主義の教育を重視していた(馬美忠・王春福 1986)。その後、1928年から1931年まで上海伊斯蘭師範学校でイスラーム知識、アラビア語、ペルシア語、英語、数学、哲学などの授業を受けた。1931年から1939年まで、雲南回教倶進会によって派遣され、エジプトのカイロにあるアズハル大学及びダール・ウルーム学院に留学した。帰国後、1939年から1946年まで、上海、重慶、雲南を転々とし、クルアーンを翻訳しながらイスラーム教育事業に従事していた。1946年、向達と白寿彝の推薦を受け、教授として北京大学の東洋語専攻(東方語文学系)に招かれた。1949年、国民政府が台湾に移転した時も、馬堅は北平(北京)に残ることを決めた。
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馬堅が1921年に入学したのはどこですか?
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馬堅が1921年に入学したのは雲南回教高等経書並授学校です。
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JCRRAG_002945
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歴史
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また、新政権に対して警告を発するために、馬堅は国民党政権を批判し次のように述べている。
反動的な国民党の教育部署は、民族関連科目の開設が大漢族主義と民族同化政策に違反していると考えていたので、一般科目の他に特殊科目、すなわち、民族関連科目の開設に反対した。彼らの行為は回民の不満を買った。この例は参考になる(馬堅・呉 1950)。
授業の内容について、馬堅は次のように提案している。
授業の内容を、クルアーンとイスラームにおける革命性に関して積極的な部分を教えるものにするべきである。回教の教義及び律法をマルクス・レーニン主義及び毛沢東思想と巧妙に結合しよう。また、中国回民の歴史も必要である。彼らの解放は全国の各民族の解放と関わっており、個別の解放は不可能だということを回民に理解させるべきである(馬堅・呉 1950)。
旗を献上する行為は政権擁護の立場を表している。ただし、馬堅の提案をみれば、この擁護は無条件のものではない。馬堅は特殊科目でイスラームの教義と律法を教えるべきだと主張している。すなわち、彼の考えによれば、中国がマルクス主義国家になっても、回族に対するイスラーム教育は不可欠である。また、馬堅が敢えて国民党政権の失敗を用いて新政権に対して警告を発したことも、彼が完全に新政権の擁護者になっていないことを示している。ただし、無神論の新政権に宗教教育を認めさせるために、馬堅は譲歩した。「クルアーンとイスラームにおける革命性に関して積極的な部分」という言い方は、中共の革命思想に合致する部分という意味だと考えられる。これは合致する部分もあれば、革命思想に合致しない部分もあるということであり、すなわち、イスラームの一部の内容は中共の革命思想に反していることも示唆している。しかし、彼の主張はイスラーム教育における知識部分にしか言及しておらず、信仰と実践の部分が無視されている。イスラームの基礎知識を知っていたとしても、それを信じていなければ、実践しなければ、ムスリムとは言えない。すなわち、馬堅の主張には、ムスリム育成のためには不十分であった。
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馬堅は何のために誰を批判したのですか?
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馬堅は、新政権に対して警告を発するために、国民党政権を批判しました。
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JCRRAG_002946
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歴史
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また、新政権に対して警告を発するために、馬堅は国民党政権を批判し次のように述べている。
反動的な国民党の教育部署は、民族関連科目の開設が大漢族主義と民族同化政策に違反していると考えていたので、一般科目の他に特殊科目、すなわち、民族関連科目の開設に反対した。彼らの行為は回民の不満を買った。この例は参考になる(馬堅・呉 1950)。
授業の内容について、馬堅は次のように提案している。
授業の内容を、クルアーンとイスラームにおける革命性に関して積極的な部分を教えるものにするべきである。回教の教義及び律法をマルクス・レーニン主義及び毛沢東思想と巧妙に結合しよう。また、中国回民の歴史も必要である。彼らの解放は全国の各民族の解放と関わっており、個別の解放は不可能だということを回民に理解させるべきである(馬堅・呉 1950)。
旗を献上する行為は政権擁護の立場を表している。ただし、馬堅の提案をみれば、この擁護は無条件のものではない。馬堅は特殊科目でイスラームの教義と律法を教えるべきだと主張している。すなわち、彼の考えによれば、中国がマルクス主義国家になっても、回族に対するイスラーム教育は不可欠である。また、馬堅が敢えて国民党政権の失敗を用いて新政権に対して警告を発したことも、彼が完全に新政権の擁護者になっていないことを示している。ただし、無神論の新政権に宗教教育を認めさせるために、馬堅は譲歩した。「クルアーンとイスラームにおける革命性に関して積極的な部分」という言い方は、中共の革命思想に合致する部分という意味だと考えられる。これは合致する部分もあれば、革命思想に合致しない部分もあるということであり、すなわち、イスラームの一部の内容は中共の革命思想に反していることも示唆している。しかし、彼の主張はイスラーム教育における知識部分にしか言及しておらず、信仰と実践の部分が無視されている。イスラームの基礎知識を知っていたとしても、それを信じていなければ、実践しなければ、ムスリムとは言えない。すなわち、馬堅の主張には、ムスリム育成のためには不十分であった。
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馬堅は何を用いて新政権に対し警告を発し、またそれは彼が何になっていないことを示していますか?
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馬堅は国民党政権の失敗を用いて新政権に対し警告を発し、またそれは彼が完全に新政権の擁護者になっていないことを示しています。
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JCRRAG_002947
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歴史
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回族の馬堅にとって、宗教に基づく要求はもちろんのこと、新政権を擁護する交換条件として、「民族平等」及び「信教自由」は欠かせなかった。1950年7月16日、馬堅は新聞の『進歩日報』で「新時代に対して回民同胞のあるべき姿」(回民同胞対於新時代応有的認識)と題する文章を発表した。この文章で馬堅は次のように論じている。
「共同綱領」は国内の各民族が平等であることを認めており、お互いが協力することを促し、差別と弾圧に反対している。少数民族の集住地域において、区域自治を行い、彼らは代表を選出し、自分たちを代表して政権に参加する。少数民族は国の軍事制度に従い、人民解放軍組織及び警察組織に参加する。少数民族は自分の慣習と宗教を発展させ改革する自由を有する。人民政府は少数民族を援助し、政治・経済・文化などの事業を発展させるべきである。我ら少数民族の祖先は自由と平等の権利を得るために闘争して犠牲になった。中国人民の革命は、中国共産党による正しい指導の下に成功を収めた。彼らの夢は叶った。我々は毛沢東の旗の下に個々の兄弟民族と協力し、我らの新たな国を建設し、歴史が我らに与えた光栄な任務を完成すべきである。「共同綱領」は中華人民共和国の大憲章であり、それに書かれている全ての内容に従わなければならない(後略)(馬堅 1950a)。
馬堅によれば、中共の正しい指導の下に成功した革命は、少数民族の祖先が犠牲になりながら追求してきた自由と平等の権利を少数民族に保障しなければならない。回族は毛沢東の旗の下に新たな国を建設すべきである。また、回族が昔から追求していた権利を回族に与えた「共同綱領」は憲法の役割を果たしているため、回族は「共同綱領」の全てに従わねばならない。
こうして馬堅は回族民衆に新政権の政策を擁護しようと呼びかけている一方で、新政権による民族と宗教に関する言説を完全に受容したわけではなかった。日中戦争初期、中共は回族とモンゴル族を始めとする少数民族を結束させ、一致して日本軍に抵抗するようにさせるために、民族問題を重要視し始め、研究グループを設立した。1941年、研究成果としての『回回民族問題』が出版された。この本は中共の回族に対する政策の基盤であったと考えられている(松本 1999: 259-263; 王伏平 2001)。『回回民族問題』は回族を一つの民族として認め、彼らは大漢民族主義が蔓延していた中国社会において差別されたと論述している。
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馬堅は「新時代に対して回民同胞のあるべき姿」(回民同胞対於新時代応有的認識)と題する文章をいつ、何という新聞で発表しましたか?
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馬堅は「新時代に対して回民同胞のあるべき姿」(回民同胞対於新時代応有的認識)と題する文章を1950年7月16日、新聞の『進歩日報』で発表しました。
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JCRRAG_002948
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歴史
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回族の馬堅にとって、宗教に基づく要求はもちろんのこと、新政権を擁護する交換条件として、「民族平等」及び「信教自由」は欠かせなかった。1950年7月16日、馬堅は新聞の『進歩日報』で「新時代に対して回民同胞のあるべき姿」(回民同胞対於新時代応有的認識)と題する文章を発表した。この文章で馬堅は次のように論じている。
「共同綱領」は国内の各民族が平等であることを認めており、お互いが協力することを促し、差別と弾圧に反対している。少数民族の集住地域において、区域自治を行い、彼らは代表を選出し、自分たちを代表して政権に参加する。少数民族は国の軍事制度に従い、人民解放軍組織及び警察組織に参加する。少数民族は自分の慣習と宗教を発展させ改革する自由を有する。人民政府は少数民族を援助し、政治・経済・文化などの事業を発展させるべきである。我ら少数民族の祖先は自由と平等の権利を得るために闘争して犠牲になった。中国人民の革命は、中国共産党による正しい指導の下に成功を収めた。彼らの夢は叶った。我々は毛沢東の旗の下に個々の兄弟民族と協力し、我らの新たな国を建設し、歴史が我らに与えた光栄な任務を完成すべきである。「共同綱領」は中華人民共和国の大憲章であり、それに書かれている全ての内容に従わなければならない(後略)(馬堅 1950a)。
馬堅によれば、中共の正しい指導の下に成功した革命は、少数民族の祖先が犠牲になりながら追求してきた自由と平等の権利を少数民族に保障しなければならない。回族は毛沢東の旗の下に新たな国を建設すべきである。また、回族が昔から追求していた権利を回族に与えた「共同綱領」は憲法の役割を果たしているため、回族は「共同綱領」の全てに従わねばならない。
こうして馬堅は回族民衆に新政権の政策を擁護しようと呼びかけている一方で、新政権による民族と宗教に関する言説を完全に受容したわけではなかった。日中戦争初期、中共は回族とモンゴル族を始めとする少数民族を結束させ、一致して日本軍に抵抗するようにさせるために、民族問題を重要視し始め、研究グループを設立した。1941年、研究成果としての『回回民族問題』が出版された。この本は中共の回族に対する政策の基盤であったと考えられている(松本 1999: 259-263; 王伏平 2001)。『回回民族問題』は回族を一つの民族として認め、彼らは大漢民族主義が蔓延していた中国社会において差別されたと論述している。
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「共同綱領」は何を認めていて、何に反対していますか?
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「共同綱領」は国内の各民族が平等であることを認めていて、差別と弾圧に反対しています。
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JCRRAG_002949
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歴史
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回族の馬堅にとって、宗教に基づく要求はもちろんのこと、新政権を擁護する交換条件として、「民族平等」及び「信教自由」は欠かせなかった。1950年7月16日、馬堅は新聞の『進歩日報』で「新時代に対して回民同胞のあるべき姿」(回民同胞対於新時代応有的認識)と題する文章を発表した。この文章で馬堅は次のように論じている。
「共同綱領」は国内の各民族が平等であることを認めており、お互いが協力することを促し、差別と弾圧に反対している。少数民族の集住地域において、区域自治を行い、彼らは代表を選出し、自分たちを代表して政権に参加する。少数民族は国の軍事制度に従い、人民解放軍組織及び警察組織に参加する。少数民族は自分の慣習と宗教を発展させ改革する自由を有する。人民政府は少数民族を援助し、政治・経済・文化などの事業を発展させるべきである。我ら少数民族の祖先は自由と平等の権利を得るために闘争して犠牲になった。中国人民の革命は、中国共産党による正しい指導の下に成功を収めた。彼らの夢は叶った。我々は毛沢東の旗の下に個々の兄弟民族と協力し、我らの新たな国を建設し、歴史が我らに与えた光栄な任務を完成すべきである。「共同綱領」は中華人民共和国の大憲章であり、それに書かれている全ての内容に従わなければならない(後略)(馬堅 1950a)。
馬堅によれば、中共の正しい指導の下に成功した革命は、少数民族の祖先が犠牲になりながら追求してきた自由と平等の権利を少数民族に保障しなければならない。回族は毛沢東の旗の下に新たな国を建設すべきである。また、回族が昔から追求していた権利を回族に与えた「共同綱領」は憲法の役割を果たしているため、回族は「共同綱領」の全てに従わねばならない。
こうして馬堅は回族民衆に新政権の政策を擁護しようと呼びかけている一方で、新政権による民族と宗教に関する言説を完全に受容したわけではなかった。日中戦争初期、中共は回族とモンゴル族を始めとする少数民族を結束させ、一致して日本軍に抵抗するようにさせるために、民族問題を重要視し始め、研究グループを設立した。1941年、研究成果としての『回回民族問題』が出版された。この本は中共の回族に対する政策の基盤であったと考えられている(松本 1999: 259-263; 王伏平 2001)。『回回民族問題』は回族を一つの民族として認め、彼らは大漢民族主義が蔓延していた中国社会において差別されたと論述している。
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少数民族は何に従い、何に参加しますか?
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少数民族は国の軍事制度に従い、人民解放軍組織及び警察組織に参加します。
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JCRRAG_002950
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歴史
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回族の馬堅にとって、宗教に基づく要求はもちろんのこと、新政権を擁護する交換条件として、「民族平等」及び「信教自由」は欠かせなかった。1950年7月16日、馬堅は新聞の『進歩日報』で「新時代に対して回民同胞のあるべき姿」(回民同胞対於新時代応有的認識)と題する文章を発表した。この文章で馬堅は次のように論じている。
「共同綱領」は国内の各民族が平等であることを認めており、お互いが協力することを促し、差別と弾圧に反対している。少数民族の集住地域において、区域自治を行い、彼らは代表を選出し、自分たちを代表して政権に参加する。少数民族は国の軍事制度に従い、人民解放軍組織及び警察組織に参加する。少数民族は自分の慣習と宗教を発展させ改革する自由を有する。人民政府は少数民族を援助し、政治・経済・文化などの事業を発展させるべきである。我ら少数民族の祖先は自由と平等の権利を得るために闘争して犠牲になった。中国人民の革命は、中国共産党による正しい指導の下に成功を収めた。彼らの夢は叶った。我々は毛沢東の旗の下に個々の兄弟民族と協力し、我らの新たな国を建設し、歴史が我らに与えた光栄な任務を完成すべきである。「共同綱領」は中華人民共和国の大憲章であり、それに書かれている全ての内容に従わなければならない(後略)(馬堅 1950a)。
馬堅によれば、中共の正しい指導の下に成功した革命は、少数民族の祖先が犠牲になりながら追求してきた自由と平等の権利を少数民族に保障しなければならない。回族は毛沢東の旗の下に新たな国を建設すべきである。また、回族が昔から追求していた権利を回族に与えた「共同綱領」は憲法の役割を果たしているため、回族は「共同綱領」の全てに従わねばならない。
こうして馬堅は回族民衆に新政権の政策を擁護しようと呼びかけている一方で、新政権による民族と宗教に関する言説を完全に受容したわけではなかった。日中戦争初期、中共は回族とモンゴル族を始めとする少数民族を結束させ、一致して日本軍に抵抗するようにさせるために、民族問題を重要視し始め、研究グループを設立した。1941年、研究成果としての『回回民族問題』が出版された。この本は中共の回族に対する政策の基盤であったと考えられている(松本 1999: 259-263; 王伏平 2001)。『回回民族問題』は回族を一つの民族として認め、彼らは大漢民族主義が蔓延していた中国社会において差別されたと論述している。
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「共同綱領」は中華人民共和国の何で、何に従わなければなりませんか?
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「共同綱領」は中華人民共和国の大憲章で、それに書かれている全ての内容に従わなければなりません。
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JCRRAG_002951
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歴史
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回族の馬堅にとって、宗教に基づく要求はもちろんのこと、新政権を擁護する交換条件として、「民族平等」及び「信教自由」は欠かせなかった。1950年7月16日、馬堅は新聞の『進歩日報』で「新時代に対して回民同胞のあるべき姿」(回民同胞対於新時代応有的認識)と題する文章を発表した。この文章で馬堅は次のように論じている。
「共同綱領」は国内の各民族が平等であることを認めており、お互いが協力することを促し、差別と弾圧に反対している。少数民族の集住地域において、区域自治を行い、彼らは代表を選出し、自分たちを代表して政権に参加する。少数民族は国の軍事制度に従い、人民解放軍組織及び警察組織に参加する。少数民族は自分の慣習と宗教を発展させ改革する自由を有する。人民政府は少数民族を援助し、政治・経済・文化などの事業を発展させるべきである。我ら少数民族の祖先は自由と平等の権利を得るために闘争して犠牲になった。中国人民の革命は、中国共産党による正しい指導の下に成功を収めた。彼らの夢は叶った。我々は毛沢東の旗の下に個々の兄弟民族と協力し、我らの新たな国を建設し、歴史が我らに与えた光栄な任務を完成すべきである。「共同綱領」は中華人民共和国の大憲章であり、それに書かれている全ての内容に従わなければならない(後略)(馬堅 1950a)。
馬堅によれば、中共の正しい指導の下に成功した革命は、少数民族の祖先が犠牲になりながら追求してきた自由と平等の権利を少数民族に保障しなければならない。回族は毛沢東の旗の下に新たな国を建設すべきである。また、回族が昔から追求していた権利を回族に与えた「共同綱領」は憲法の役割を果たしているため、回族は「共同綱領」の全てに従わねばならない。
こうして馬堅は回族民衆に新政権の政策を擁護しようと呼びかけている一方で、新政権による民族と宗教に関する言説を完全に受容したわけではなかった。日中戦争初期、中共は回族とモンゴル族を始めとする少数民族を結束させ、一致して日本軍に抵抗するようにさせるために、民族問題を重要視し始め、研究グループを設立した。1941年、研究成果としての『回回民族問題』が出版された。この本は中共の回族に対する政策の基盤であったと考えられている(松本 1999: 259-263; 王伏平 2001)。『回回民族問題』は回族を一つの民族として認め、彼らは大漢民族主義が蔓延していた中国社会において差別されたと論述している。
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「共同綱領」は何の役割を果たしていて、誰が「共同綱領」の全てに従わねばなりませんか?
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「共同綱領」は憲法の役割を果たしていて、回族が「共同綱領」の全てに従わねばなりません。
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JCRRAG_002952
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歴史
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発展の段階の違いによって、イスラームの内容は変化してきた。イスラームを代表する階級も変化しつつある。抑圧を受ける階級から抑圧を与える階級になり、搾取される階級から搾取する階級になった。ムハンマドは富裕層と貧困層の間における利益の調和及び奴隷の身請けを主張し、科学と芸術の発展を呼びかけたが、最終的に大アラブ帝国の統治者になった(民族問題研究会 1980: 52)。
上述した内容によれば、抑圧され搾取された階級を代表した預言者ムハンマドは、イスラームを利用し、マッカ政権を倒した後に、民衆を搾取して抑圧する帝国統治者になったということになる。これに対し、馬堅はムハンマドを革命者として宣伝した。1949年7月7日、北京の回族が催した盧溝橋事件記念会で馬堅は講演をした。この講演において、馬堅は、ムハンマドは「アラブ人の迷信を打破しアラブ政治、経済及び社会制度を改革しようとする」革命者として解釈している(馬堅 1949)。また、馬堅(1949)は、「搾取された貧乏人」、「抑圧された奴隷」及び「熱意を抱く青年男女」がムハンマドを信じ、彼を擁護してきていると述べている。対照的に「豪族」と「悪人」によって構成される「マッカの反動派」(墨克的反動派)は「各種の悪辣な手段」を講じてムハンマド、彼の家族及びムスリムたちを迫害した(馬堅1949)。迫害に直面するムハンマドについて、馬堅は「ムハンマドの革命の意志が非常に固く屈服しなかった」と説明している。さらに、馬堅(1949)はムハンマドとマッカ勢力の闘争及びクルアーンの啓示(22:39-40; 2:190; 2:192-193; 8:61-62;4:75)を論拠とし、イスラームの戦争は「迫害に反対し自由と平和を求める」戦争だけでなく、「人民を解放する」戦争でもあると解釈している。最後に、彼は「イスラームが迫害と侵略に反対する戦争は神聖な戦争(ジハード)と見なす」ため、「我が国で発生した8年間の対日抗戦(日中戦争)及び3年間の解放戦争(第二次国共内戦)も神聖な戦争である」という結論を導き出している(馬堅 1949)。
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ムハンマドは何を主張し、何を呼びかけましたか?
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ムハンマドは富裕層と貧困層の間における利益の調和及び奴隷の身請けを主張し、科学と芸術の発展を呼びかけました。
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JCRRAG_002953
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歴史
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発展の段階の違いによって、イスラームの内容は変化してきた。イスラームを代表する階級も変化しつつある。抑圧を受ける階級から抑圧を与える階級になり、搾取される階級から搾取する階級になった。ムハンマドは富裕層と貧困層の間における利益の調和及び奴隷の身請けを主張し、科学と芸術の発展を呼びかけたが、最終的に大アラブ帝国の統治者になった(民族問題研究会 1980: 52)。
上述した内容によれば、抑圧され搾取された階級を代表した預言者ムハンマドは、イスラームを利用し、マッカ政権を倒した後に、民衆を搾取して抑圧する帝国統治者になったということになる。これに対し、馬堅はムハンマドを革命者として宣伝した。1949年7月7日、北京の回族が催した盧溝橋事件記念会で馬堅は講演をした。この講演において、馬堅は、ムハンマドは「アラブ人の迷信を打破しアラブ政治、経済及び社会制度を改革しようとする」革命者として解釈している(馬堅 1949)。また、馬堅(1949)は、「搾取された貧乏人」、「抑圧された奴隷」及び「熱意を抱く青年男女」がムハンマドを信じ、彼を擁護してきていると述べている。対照的に「豪族」と「悪人」によって構成される「マッカの反動派」(墨克的反動派)は「各種の悪辣な手段」を講じてムハンマド、彼の家族及びムスリムたちを迫害した(馬堅1949)。迫害に直面するムハンマドについて、馬堅は「ムハンマドの革命の意志が非常に固く屈服しなかった」と説明している。さらに、馬堅(1949)はムハンマドとマッカ勢力の闘争及びクルアーンの啓示(22:39-40; 2:190; 2:192-193; 8:61-62;4:75)を論拠とし、イスラームの戦争は「迫害に反対し自由と平和を求める」戦争だけでなく、「人民を解放する」戦争でもあると解釈している。最後に、彼は「イスラームが迫害と侵略に反対する戦争は神聖な戦争(ジハード)と見なす」ため、「我が国で発生した8年間の対日抗戦(日中戦争)及び3年間の解放戦争(第二次国共内戦)も神聖な戦争である」という結論を導き出している(馬堅 1949)。
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いつ、どこで馬堅は講演をしましたか?
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1949年7月7日、北京の回族が催した盧溝橋事件記念会で馬堅は講演をしました。
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JCRRAG_002954
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歴史
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発展の段階の違いによって、イスラームの内容は変化してきた。イスラームを代表する階級も変化しつつある。抑圧を受ける階級から抑圧を与える階級になり、搾取される階級から搾取する階級になった。ムハンマドは富裕層と貧困層の間における利益の調和及び奴隷の身請けを主張し、科学と芸術の発展を呼びかけたが、最終的に大アラブ帝国の統治者になった(民族問題研究会 1980: 52)。
上述した内容によれば、抑圧され搾取された階級を代表した預言者ムハンマドは、イスラームを利用し、マッカ政権を倒した後に、民衆を搾取して抑圧する帝国統治者になったということになる。これに対し、馬堅はムハンマドを革命者として宣伝した。1949年7月7日、北京の回族が催した盧溝橋事件記念会で馬堅は講演をした。この講演において、馬堅は、ムハンマドは「アラブ人の迷信を打破しアラブ政治、経済及び社会制度を改革しようとする」革命者として解釈している(馬堅 1949)。また、馬堅(1949)は、「搾取された貧乏人」、「抑圧された奴隷」及び「熱意を抱く青年男女」がムハンマドを信じ、彼を擁護してきていると述べている。対照的に「豪族」と「悪人」によって構成される「マッカの反動派」(墨克的反動派)は「各種の悪辣な手段」を講じてムハンマド、彼の家族及びムスリムたちを迫害した(馬堅1949)。迫害に直面するムハンマドについて、馬堅は「ムハンマドの革命の意志が非常に固く屈服しなかった」と説明している。さらに、馬堅(1949)はムハンマドとマッカ勢力の闘争及びクルアーンの啓示(22:39-40; 2:190; 2:192-193; 8:61-62;4:75)を論拠とし、イスラームの戦争は「迫害に反対し自由と平和を求める」戦争だけでなく、「人民を解放する」戦争でもあると解釈している。最後に、彼は「イスラームが迫害と侵略に反対する戦争は神聖な戦争(ジハード)と見なす」ため、「我が国で発生した8年間の対日抗戦(日中戦争)及び3年間の解放戦争(第二次国共内戦)も神聖な戦争である」という結論を導き出している(馬堅 1949)。
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「豪族」と「悪人」によって構成される何が「各種の悪辣な手段」を講じて誰を迫害しましたか?
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「豪族」と「悪人」によって構成される「マッカの反動派」(墨克的反動派)が、「各種の悪辣な手段」を講じてムハンマド、彼の家族及びムスリムたちを迫害しました。
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JCRRAG_002955
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歴史
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発展の段階の違いによって、イスラームの内容は変化してきた。イスラームを代表する階級も変化しつつある。抑圧を受ける階級から抑圧を与える階級になり、搾取される階級から搾取する階級になった。ムハンマドは富裕層と貧困層の間における利益の調和及び奴隷の身請けを主張し、科学と芸術の発展を呼びかけたが、最終的に大アラブ帝国の統治者になった(民族問題研究会 1980: 52)。
上述した内容によれば、抑圧され搾取された階級を代表した預言者ムハンマドは、イスラームを利用し、マッカ政権を倒した後に、民衆を搾取して抑圧する帝国統治者になったということになる。これに対し、馬堅はムハンマドを革命者として宣伝した。1949年7月7日、北京の回族が催した盧溝橋事件記念会で馬堅は講演をした。この講演において、馬堅は、ムハンマドは「アラブ人の迷信を打破しアラブ政治、経済及び社会制度を改革しようとする」革命者として解釈している(馬堅 1949)。また、馬堅(1949)は、「搾取された貧乏人」、「抑圧された奴隷」及び「熱意を抱く青年男女」がムハンマドを信じ、彼を擁護してきていると述べている。対照的に「豪族」と「悪人」によって構成される「マッカの反動派」(墨克的反動派)は「各種の悪辣な手段」を講じてムハンマド、彼の家族及びムスリムたちを迫害した(馬堅1949)。迫害に直面するムハンマドについて、馬堅は「ムハンマドの革命の意志が非常に固く屈服しなかった」と説明している。さらに、馬堅(1949)はムハンマドとマッカ勢力の闘争及びクルアーンの啓示(22:39-40; 2:190; 2:192-193; 8:61-62;4:75)を論拠とし、イスラームの戦争は「迫害に反対し自由と平和を求める」戦争だけでなく、「人民を解放する」戦争でもあると解釈している。最後に、彼は「イスラームが迫害と侵略に反対する戦争は神聖な戦争(ジハード)と見なす」ため、「我が国で発生した8年間の対日抗戦(日中戦争)及び3年間の解放戦争(第二次国共内戦)も神聖な戦争である」という結論を導き出している(馬堅 1949)。
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馬堅はムハンマドについて、何を打破し、何を改革しようとする革命者として解釈していますか。
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馬堅はムハンマドについて、アラブ人の迷信を打破し、アラブ政治、経済及び社会制度を改革しようとする革命者として解釈しています。
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JCRRAG_002956
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歴史
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馬堅は「搾取」、「革命の意志」、「反動派」などの中共が頻繁に使う革命用語を用い、イスラームとムハンマドの使命を描き直した。彼の論理に従えば、イスラーム勢力は中共と同じように革命勢力であり、ムハンマドはこの革命勢力の指導者である。また、ムハンマドによって指導されてイスラームが広がったのは、中共によって指導される日中戦争と国共内戦のような侵略と迫害に反対する戦争と同じであった。すなわち、馬堅は『回回民族問題』で批判されているイスラームとムハンマドを、革命党と革命指導者という中共の理論で再構築している。この方法で、『回回民族問題』における批判に対抗したのである。
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馬堅は何を用い、何を描き直しましたか?
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馬堅は「搾取」、「革命の意志」、「反動派」などの中共が頻繁に使う革命用語を用い、イスラームとムハンマドの使命を描き直しました。
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JCRRAG_002957
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歴史
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馬堅は「搾取」、「革命の意志」、「反動派」などの中共が頻繁に使う革命用語を用い、イスラームとムハンマドの使命を描き直した。彼の論理に従えば、イスラーム勢力は中共と同じように革命勢力であり、ムハンマドはこの革命勢力の指導者である。また、ムハンマドによって指導されてイスラームが広がったのは、中共によって指導される日中戦争と国共内戦のような侵略と迫害に反対する戦争と同じであった。すなわち、馬堅は『回回民族問題』で批判されているイスラームとムハンマドを、革命党と革命指導者という中共の理論で再構築している。この方法で、『回回民族問題』における批判に対抗したのである。
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イスラーム勢力は何と同じように革命勢力であり、誰がこの革命勢力の指導者ですか?
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イスラーム勢力は中共と同じように革命勢力であり、ムハンマドがこの革命勢力の指導者です。
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JCRRAG_002958
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歴史
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1951年1月10日、『光明日報』は「しどろもどろになったアンクル・サム」(語無倫次的山姆大叔)と題する記事を掲載した。記者はアメリカを皮肉る際に、「可哀想な人々は、一つの手が剣を持ち、もう一つの手が経典を持つムハンマドは知っているが、一つの手が銃と火砲を持ち、もう一つの手がお金を持ち、また別の手が「道義」を持つ悪いアメリカを知らない」と書いている(盧 1951)。預言者ムハンマドを邪悪なアメリカと並べた、この表現は回族の激しい反発を引き起こした。
事態を収拾するために、1月16日、北京市人民政府民政局民族事務課は北京市各界回民代表会議を開催し、そこで『光明日報』の代表は謝罪した。同会議で馬堅はムハンマドが剣を持つ理由について発言した。発言に基づく「ムハンマドの宝剣」(穆罕默徳的宝剣)と題する文章は1月19日の『光明日報』に掲載され、20日、『人民日報』に転載され、新華社から全国に向けて広報された。この文章によると、ムハンマドは迫害に反抗するために剣を持ち戦った。また、イスラームは信教の自由を唱える宗教であり、平和な方式で広がっていると説明している(馬堅 1951c)。この文章の目的は、漢族によるイスラームに対する誤解を解消すると同時に、イスラームを信じる民族を団結させ、各民族が一緒に「抗美援朝」を支持しようと呼びかけることにあった。
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「しどろもどろになったアンクル・サム」と題する記事は、いつ、何に掲載されましたか?
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「しどろもどろになったアンクル・サム」と題する記事は、1951年1月10日、『光明日報』に掲載されました。
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JCRRAG_002959
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歴史
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最後に、彼は「イスラームが迫害と侵略に反対する戦争は神聖な戦争(ジハード)と見なす」ため、「我が国で発生した 8 年間の対日抗戦(日中戦争)及び 3 年間の解放戦争(第二次国共内戦)も神聖な戦争である」という結論を導き出している(馬堅 1949)。
馬堅は「搾取」、「革命の意志」、「反動派」などの中共が頻繁に使う革命用語を用い、イスラームとムハンマドの使命を描き直した。彼の論理に従えば、イスラーム勢力は中共と同じように革命勢力であり、ムハンマドはこの革命勢力の指導者である。また、ムハンマドによって指導されてイスラームが広がったのは、中共によって指導される日中戦争と国共内戦のような侵略と迫害に反対する戦争と同じであった。すなわち、馬堅は『回回民族問題』で批判されているイスラームとムハンマドを、革命党と革命指導者という中共の理論で再構築している。この方法で、『回回民族問題』における批判に対抗したのである。
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馬堅は、何で批判されているイスラームとムハンマドをどういう理論で再構築していますか。
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馬堅は『回回民族問題』で批判されているイスラームとムハンマドを革命党と革命指導者という中共の理論で再構築しています。
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JCRRAG_002960
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歴史
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1951年1月10日、『光明日報』は「しどろもどろになったアンクル・サム」(語無倫次的山姆大叔)と題する記事を掲載した。記者はアメリカを皮肉る際に、「可哀想な人々は、一つの手が剣を持ち、もう一つの手が経典を持つムハンマドは知っているが、一つの手が銃と火砲を持ち、もう一つの手がお金を持ち、また別の手が「道義」を持つ悪いアメリカを知らない」と書いている(盧 1951)。預言者ムハンマドを邪悪なアメリカと並べた、この表現は回族の激しい反発を引き起こした。
事態を収拾するために、1月16日、北京市人民政府民政局民族事務課は北京市各界回民代表会議を開催し、そこで『光明日報』の代表は謝罪した。同会議で馬堅はムハンマドが剣を持つ理由について発言した。発言に基づく「ムハンマドの宝剣」(穆罕默徳的宝剣)と題する文章は1月19日の『光明日報』に掲載され、20日、『人民日報』に転載され、新華社から全国に向けて広報された。この文章によると、ムハンマドは迫害に反抗するために剣を持ち戦った。また、イスラームは信教の自由を唱える宗教であり、平和な方式で広がっていると説明している(馬堅 1951c)。この文章の目的は、漢族によるイスラームに対する誤解を解消すると同時に、イスラームを信じる民族を団結させ、各民族が一緒に「抗美援朝」を支持しようと呼びかけることにあった。
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『光明日報』の代表は、いつ、どこで謝罪しましたか?
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『光明日報』の代表は、1月16日、北京市人民政府民政局民族事務課が開催した北京市各界回民代表会議で謝罪しました。
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JCRRAG_002961
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歴史
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1951年1月10日、『光明日報』は「しどろもどろになったアンクル・サム」(語無倫次的山姆大叔)と題する記事を掲載した。記者はアメリカを皮肉る際に、「可哀想な人々は、一つの手が剣を持ち、もう一つの手が経典を持つムハンマドは知っているが、一つの手が銃と火砲を持ち、もう一つの手がお金を持ち、また別の手が「道義」を持つ悪いアメリカを知らない」と書いている(盧 1951)。預言者ムハンマドを邪悪なアメリカと並べた、この表現は回族の激しい反発を引き起こした。
事態を収拾するために、1月16日、北京市人民政府民政局民族事務課は北京市各界回民代表会議を開催し、そこで『光明日報』の代表は謝罪した。同会議で馬堅はムハンマドが剣を持つ理由について発言した。発言に基づく「ムハンマドの宝剣」(穆罕默徳的宝剣)と題する文章は1月19日の『光明日報』に掲載され、20日、『人民日報』に転載され、新華社から全国に向けて広報された。この文章によると、ムハンマドは迫害に反抗するために剣を持ち戦った。また、イスラームは信教の自由を唱える宗教であり、平和な方式で広がっていると説明している(馬堅 1951c)。この文章の目的は、漢族によるイスラームに対する誤解を解消すると同時に、イスラームを信じる民族を団結させ、各民族が一緒に「抗美援朝」を支持しようと呼びかけることにあった。
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イスラームはどのような宗教であり、どのような方式で広がっていると説明されていますか。
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イスラームは信教の自由を唱える宗教であり、平和な方式で広がっていると説明されています。
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JCRRAG_002962
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歴史
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1951年3月、漢族と回族の間に起こったブタ肉に関する争いを収めるため、馬堅は「なぜ回民がブタ肉を食べないか」(回民為什麼不吃猪肉)と題する文章を書いた。3月20日、この文章は『人民日報』に掲載された。馬堅(1951b)によれば、イスラームは衛生の観点からブタ肉を食べることを禁止した。一部の人はブタ肉を食べない回族の幹部や職員に対して「彼らの行為は封建時代の迷信であり、彼らの思想は問題である」と批判していた。このような批判は回族の幹部や職員の不安を煽った。このような言い方は大漢族主義の表現であるとした。続いて、馬堅は一部回族の不勉強も次のように批判している。クルアーンはブタ肉を食べることを禁止している。しかし、「ブタ肉」(猪肉)という言葉には問題がない。一部の回民は不勉強で、「ブタ」(猪)という漢字を嫌悪し回避している。漢・回雑居の地域において、漢族の人がブタ肉を持っていても隠さなければ殴られる。
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どこで、誰がブタ肉を持っていた場合、その人は肉を隠さなければ殴られますか。
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漢・回雑居の地域で、漢族の人がブタ肉を持っていた場合、その人は肉を隠さなければ殴られます。
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JCRRAG_002963
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歴史
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1951年3月、漢族と回族の間に起こったブタ肉に関する争いを収めるため、馬堅は「なぜ回民がブタ肉を食べないか」(回民為什麼不吃猪肉)と題する文章を書いた。3月20日、この文章は『人民日報』に掲載された。馬堅(1951b)によれば、イスラームは衛生の観点からブタ肉を食べることを禁止した。一部の人はブタ肉を食べない回族の幹部や職員に対して「彼らの行為は封建時代の迷信であり、彼らの思想は問題である」と批判していた。このような批判は回族の幹部や職員の不安を煽った。このような言い方は大漢族主義の表現であるとした。続いて、馬堅は一部回族の不勉強も次のように批判している。クルアーンはブタ肉を食べることを禁止している。しかし、「ブタ肉」(猪肉)という言葉には問題がない。一部の回民は不勉強で、「ブタ」(猪)という漢字を嫌悪し回避している。漢・回雑居の地域において、漢族の人がブタ肉を持っていても隠さなければ殴られる。
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馬堅によると、イスラームは何の観点から何を食べることを禁止したとされていますか。
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馬堅によると、イスラームは衛生の観点からブタ肉を食べることを禁止したとされています。
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JCRRAG_002964
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歴史
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このような行為はイスラームの寛大を尊ぶ精神に違反している。つまり、馬堅にとって、狭隘な民族主義には大漢民族主義だけでなく、回族による他民族への不寛容も含まれている。大漢民族主義であれ、回族の民族主義であれ、両方とも民族紛争の要因である。民族紛争を解決するためには、両方が改善することが必要である。
民族間の団結を呼びかける一方で、馬堅は回族内部の結束も重視している。ムスリムにとって重大な祝日は二つある。一つ目は断食明けの祭であり、二つ目は犠牲祭である。馬堅(1950b)によれば、世界各国のムスリムは同じ日に祭りを祝うが、中国の回民は開催日を合わせていない。馬堅はこの不一致が教派間の軋轢によるものだと認識している。この問題を解決するために、彼はイスラーム暦に関する専門本を編訳した。本の中で、馬堅(1955)は軋轢を深める各宗派を批判し、「真理を唯一の基準とし、宗派による偏見をうち破り、回民の結束を実現しよう」と呼びかけている。
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馬堅は、何を呼びかける一方で、何の結束も重視していますか。
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馬堅は、民族間の団結を呼びかける一方で、回族内部の結束も重視しています。
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JCRRAG_002965
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歴史
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このような行為はイスラームの寛大を尊ぶ精神に違反している。つまり、馬堅にとって、狭隘な民族主義には大漢民族主義だけでなく、回族による他民族への不寛容も含まれている。大漢民族主義であれ、回族の民族主義であれ、両方とも民族紛争の要因である。民族紛争を解決するためには、両方が改善することが必要である。
民族間の団結を呼びかける一方で、馬堅は回族内部の結束も重視している。ムスリムにとって重大な祝日は二つある。一つ目は断食明けの祭であり、二つ目は犠牲祭である。馬堅(1950b)によれば、世界各国のムスリムは同じ日に祭りを祝うが、中国の回民は開催日を合わせていない。馬堅はこの不一致が教派間の軋轢によるものだと認識している。この問題を解決するために、彼はイスラーム暦に関する専門本を編訳した。本の中で、馬堅(1955)は軋轢を深める各宗派を批判し、「真理を唯一の基準とし、宗派による偏見をうち破り、回民の結束を実現しよう」と呼びかけている。
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誰が同じ日に祭りを祝い、誰が開催日を合わせていませんか。
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世界各国のムスリムが同じ日に祭りを祝い、中国の回民が開催日を合わせていません。
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JCRRAG_002966
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歴史
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建国初期、毛沢東をはじめとする中共指導者は、西諸国による閉鎖に対抗するため、アジア・アフリカ諸国との団結を強化しようとする外交政策を打ち出した。その中には、数多のイスラーム国家およびアラブ諸国が含まれる。建国初期の中国においてアラビア語に熟練し運用できる人材は圧倒的に不足していたため、アラビア語の教授の馬堅は翻訳者として大活躍した。1950年、馬堅は毛沢東の『人民民主主義独裁について』(論人民民主専政)をアラビア語に訳した。文献の翻訳の他に、毛や周恩来をはじめとする中国の指導者らの通訳を務めた。馬堅の学生は馬堅の通訳職について次のように回顧している。
馬堅先生は我が国の指導者としての毛沢東と周恩来及び古参の革命家らの通訳を務めたことが数回ある。彼はこのような機会を最大の幸福及び無上の光栄と看做した。彼は通訳の任務を完遂するたびに、興奮しすぎて眠れなくなった。(中略)ある日の会見の後、彼は非常に感動し、私に対して次のように言った。「解放前、私は宗教の目的だけでアラビア語を使った。今のように、アラビア語を用いて国の指導者の通訳を務めるとは思わなかった。我が国の無産階級のためにアラビア語を使用することこそアラビア語を勉強して使用する崇高な目的だ。」
外交通訳を務めるほかに、馬堅は公式立場に立ち、イスラーム国家およびアラブ諸国を支持してアメリカなどの帝国主義勢力に反対することを要旨とする文章も書いた。『人民日報』によって、1951年7月28日で掲載された「イラン人民の英米帝国主義に対する闘争を支持する」(支持伊朗人民反対英米帝国主義的闘争)と、同年11月19日で掲載された「帝国主義によるエジプトへの侵略とエジプト人民の抵抗」(帝国主義対埃及的侵略和埃及人民的反抗)は好例として挙げられる。
馬堅はムスリムであり少数民族でもあるため、中国を代表してイスラーム国家およびアラブ諸国との親善を深める外交活動にも頻繁に参加した。1952年10月2日から12日まで、馬堅は中国代表団の成員として、アジア太平洋地域平和会議に出席している。また、馬堅の息子によれば、1950年代において政府は馬堅の名義を使い彼の家で中国を訪問する外国人の賓客を2回招待した(馬志学 2019)。
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毛沢東をはじめとする中共指導者は、いつ、どこによる閉鎖に対抗するため、アジア・アフリカ諸国との団結を強化しようとする外交政策を打ち出しましたか。
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毛沢東をはじめとする中共指導者は、建国初期、西諸国による閉鎖に対抗するため、アジア・アフリカ諸国との団結を強化しようとする外交政策を打ち出しました。
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JCRRAG_002967
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歴史
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建国初期、毛沢東をはじめとする中共指導者は、西諸国による閉鎖に対抗するため、アジア・アフリカ諸国との団結を強化しようとする外交政策を打ち出した。その中には、数多のイスラーム国家およびアラブ諸国が含まれる。建国初期の中国においてアラビア語に熟練し運用できる人材は圧倒的に不足していたため、アラビア語の教授の馬堅は翻訳者として大活躍した。1950年、馬堅は毛沢東の『人民民主主義独裁について』(論人民民主専政)をアラビア語に訳した。文献の翻訳の他に、毛や周恩来をはじめとする中国の指導者らの通訳を務めた。馬堅の学生は馬堅の通訳職について次のように回顧している。
馬堅先生は我が国の指導者としての毛沢東と周恩来及び古参の革命家らの通訳を務めたことが数回ある。彼はこのような機会を最大の幸福及び無上の光栄と看做した。彼は通訳の任務を完遂するたびに、興奮しすぎて眠れなくなった。(中略)ある日の会見の後、彼は非常に感動し、私に対して次のように言った。「解放前、私は宗教の目的だけでアラビア語を使った。今のように、アラビア語を用いて国の指導者の通訳を務めるとは思わなかった。我が国の無産階級のためにアラビア語を使用することこそアラビア語を勉強して使用する崇高な目的だ。」
外交通訳を務めるほかに、馬堅は公式立場に立ち、イスラーム国家およびアラブ諸国を支持してアメリカなどの帝国主義勢力に反対することを要旨とする文章も書いた。『人民日報』によって、1951年7月28日で掲載された「イラン人民の英米帝国主義に対する闘争を支持する」(支持伊朗人民反対英米帝国主義的闘争)と、同年11月19日で掲載された「帝国主義によるエジプトへの侵略とエジプト人民の抵抗」(帝国主義対埃及的侵略和埃及人民的反抗)は好例として挙げられる。
馬堅はムスリムであり少数民族でもあるため、中国を代表してイスラーム国家およびアラブ諸国との親善を深める外交活動にも頻繁に参加した。1952年10月2日から12日まで、馬堅は中国代表団の成員として、アジア太平洋地域平和会議に出席している。また、馬堅の息子によれば、1950年代において政府は馬堅の名義を使い彼の家で中国を訪問する外国人の賓客を2回招待した(馬志学 2019)。
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建国初期、誰がどことの団結を強化しようとする外交政策を打ち出しましたか。
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建国初期、毛沢東をはじめとする中共指導者が、アジア・アフリカ諸国との団結を強化しようとする外交政策を打ち出しました。
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JCRRAG_002968
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歴史
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建国初期、毛沢東をはじめとする中共指導者は、西諸国による閉鎖に対抗するため、アジア・アフリカ諸国との団結を強化しようとする外交政策を打ち出した。その中には、数多のイスラーム国家およびアラブ諸国が含まれる。建国初期の中国においてアラビア語に熟練し運用できる人材は圧倒的に不足していたため、アラビア語の教授の馬堅は翻訳者として大活躍した。1950年、馬堅は毛沢東の『人民民主主義独裁について』(論人民民主専政)をアラビア語に訳した。文献の翻訳の他に、毛や周恩来をはじめとする中国の指導者らの通訳を務めた。馬堅の学生は馬堅の通訳職について次のように回顧している。
馬堅先生は我が国の指導者としての毛沢東と周恩来及び古参の革命家らの通訳を務めたことが数回ある。彼はこのような機会を最大の幸福及び無上の光栄と看做した。彼は通訳の任務を完遂するたびに、興奮しすぎて眠れなくなった。(中略)ある日の会見の後、彼は非常に感動し、私に対して次のように言った。「解放前、私は宗教の目的だけでアラビア語を使った。今のように、アラビア語を用いて国の指導者の通訳を務めるとは思わなかった。我が国の無産階級のためにアラビア語を使用することこそアラビア語を勉強して使用する崇高な目的だ。」
外交通訳を務めるほかに、馬堅は公式立場に立ち、イスラーム国家およびアラブ諸国を支持してアメリカなどの帝国主義勢力に反対することを要旨とする文章も書いた。『人民日報』によって、1951年7月28日で掲載された「イラン人民の英米帝国主義に対する闘争を支持する」(支持伊朗人民反対英米帝国主義的闘争)と、同年11月19日で掲載された「帝国主義によるエジプトへの侵略とエジプト人民の抵抗」(帝国主義対埃及的侵略和埃及人民的反抗)は好例として挙げられる。
馬堅はムスリムであり少数民族でもあるため、中国を代表してイスラーム国家およびアラブ諸国との親善を深める外交活動にも頻繁に参加した。1952年10月2日から12日まで、馬堅は中国代表団の成員として、アジア太平洋地域平和会議に出席している。また、馬堅の息子によれば、1950年代において政府は馬堅の名義を使い彼の家で中国を訪問する外国人の賓客を2回招待した(馬志学 2019)。
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馬堅は毛沢東の『人民民主主義独裁について』をいつ何語に訳しましたか?
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馬堅は毛沢東の『人民民主主義独裁について』を1950年、アラビア語に訳しました。
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歴史
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建国初期、毛沢東をはじめとする中共指導者は、西諸国による閉鎖に対抗するため、アジア・アフリカ諸国との団結を強化しようとする外交政策を打ち出した。その中には、数多のイスラーム国家およびアラブ諸国が含まれる。建国初期の中国においてアラビア語に熟練し運用できる人材は圧倒的に不足していたため、アラビア語の教授の馬堅は翻訳者として大活躍した。1950年、馬堅は毛沢東の『人民民主主義独裁について』(論人民民主専政)をアラビア語に訳した。文献の翻訳の他に、毛や周恩来をはじめとする中国の指導者らの通訳を務めた。馬堅の学生は馬堅の通訳職について次のように回顧している。
馬堅先生は我が国の指導者としての毛沢東と周恩来及び古参の革命家らの通訳を務めたことが数回ある。彼はこのような機会を最大の幸福及び無上の光栄と看做した。彼は通訳の任務を完遂するたびに、興奮しすぎて眠れなくなった。(中略)ある日の会見の後、彼は非常に感動し、私に対して次のように言った。「解放前、私は宗教の目的だけでアラビア語を使った。今のように、アラビア語を用いて国の指導者の通訳を務めるとは思わなかった。我が国の無産階級のためにアラビア語を使用することこそアラビア語を勉強して使用する崇高な目的だ。」
外交通訳を務めるほかに、馬堅は公式立場に立ち、イスラーム国家およびアラブ諸国を支持してアメリカなどの帝国主義勢力に反対することを要旨とする文章も書いた。『人民日報』によって、1951年7月28日で掲載された「イラン人民の英米帝国主義に対する闘争を支持する」(支持伊朗人民反対英米帝国主義的闘争)と、同年11月19日で掲載された「帝国主義によるエジプトへの侵略とエジプト人民の抵抗」(帝国主義対埃及的侵略和埃及人民的反抗)は好例として挙げられる。
馬堅はムスリムであり少数民族でもあるため、中国を代表してイスラーム国家およびアラブ諸国との親善を深める外交活動にも頻繁に参加した。1952年10月2日から12日まで、馬堅は中国代表団の成員として、アジア太平洋地域平和会議に出席している。また、馬堅の息子によれば、1950年代において政府は馬堅の名義を使い彼の家で中国を訪問する外国人の賓客を2回招待した(馬志学 2019)。
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馬堅先生は、誰の何を務めたことが数回ありますか?
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馬堅先生は、我が国の指導者としての毛沢東と周恩来及び古参の革命家らの通訳を務めたことが数回あります。
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JCRRAG_002970
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歴史
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建国初期、毛沢東をはじめとする中共指導者は、西諸国による閉鎖に対抗するため、アジア・アフリカ諸国との団結を強化しようとする外交政策を打ち出した。その中には、数多のイスラーム国家およびアラブ諸国が含まれる。建国初期の中国においてアラビア語に熟練し運用できる人材は圧倒的に不足していたため、アラビア語の教授の馬堅は翻訳者として大活躍した。1950年、馬堅は毛沢東の『人民民主主義独裁について』(論人民民主専政)をアラビア語に訳した。文献の翻訳の他に、毛や周恩来をはじめとする中国の指導者らの通訳を務めた。馬堅の学生は馬堅の通訳職について次のように回顧している。
馬堅先生は我が国の指導者としての毛沢東と周恩来及び古参の革命家らの通訳を務めたことが数回ある。彼はこのような機会を最大の幸福及び無上の光栄と看做した。彼は通訳の任務を完遂するたびに、興奮しすぎて眠れなくなった。(中略)ある日の会見の後、彼は非常に感動し、私に対して次のように言った。「解放前、私は宗教の目的だけでアラビア語を使った。今のように、アラビア語を用いて国の指導者の通訳を務めるとは思わなかった。我が国の無産階級のためにアラビア語を使用することこそアラビア語を勉強して使用する崇高な目的だ。」
外交通訳を務めるほかに、馬堅は公式立場に立ち、イスラーム国家およびアラブ諸国を支持してアメリカなどの帝国主義勢力に反対することを要旨とする文章も書いた。『人民日報』によって、1951年7月28日で掲載された「イラン人民の英米帝国主義に対する闘争を支持する」(支持伊朗人民反対英米帝国主義的闘争)と、同年11月19日で掲載された「帝国主義によるエジプトへの侵略とエジプト人民の抵抗」(帝国主義対埃及的侵略和埃及人民的反抗)は好例として挙げられる。
馬堅はムスリムであり少数民族でもあるため、中国を代表してイスラーム国家およびアラブ諸国との親善を深める外交活動にも頻繁に参加した。1952年10月2日から12日まで、馬堅は中国代表団の成員として、アジア太平洋地域平和会議に出席している。また、馬堅の息子によれば、1950年代において政府は馬堅の名義を使い彼の家で中国を訪問する外国人の賓客を2回招待した(馬志学 2019)。
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馬堅は、どこを支持して、何を書きましたか。
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馬堅は、イスラーム国家およびアラブ諸国を支持して、アメリカなどの帝国主義勢力に反対することを要旨とする文章を書きました。
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JCRRAG_002971
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歴史
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1957年4月27日、中共は当時の政治状況に基づき、党内における官僚主義、宗派主義及び主観主義に反対する整風運動を行うことを決定した。5月1日、人民日報はこの指示を掲載し、中共党員の他、党外の人の参加も歓迎された(中国共産党中央委員会 1957)。整風運動の発展と伴い、中共に対する批判は激しくなったが、このことは、中共の指導に対するブルジョアを代表する右派分子による挑戦と看做された。その結果、同年6月反右派闘争(以下:反右)が始まった。
馬堅は1957年から雑誌の『中国穆斯林』でクルアーン訳注を連載していた。しかし、1958年第4期から連載中止となった。また、回族学者の白寿彝が著したイスラーム学者の伝記も1958年第2期から連載中止となった。イスラーム及びイスラーム学者に関する文章の連載停止は政治環境が招いた結果であると考えられる(李松茂 2009)。また、同年10月、1953年に創立された回族組織の中国回民文化協進会は歴史的使命をすでに完了したこととされ、解散を余儀なくされた(新華社 1958)。
反右は始まってから急速に各領域へ拡大した。少数民族や宗教信仰者も逃れられなかった。上述した現象は、少数民族と宗教信仰者にとって政治状況が悪化し、厳しい状況に置かれるようになったことを示唆している。このような状況において、馬堅は賛否を明らかにせず、後述するように依然として政権に迎合する姿勢を示した。
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1957年4月27日、中共は何に基づき、どのようなことを決定しましたか。
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1957年4月27日、中共は当時の政治状況に基づき、党内における官僚主義、宗派主義及び主観主義に反対する整風運動を行うことを決定しました。
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JCRRAG_002972
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歴史
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1957年4月27日、中共は当時の政治状況に基づき、党内における官僚主義、宗派主義及び主観主義に反対する整風運動を行うことを決定した。5月1日、人民日報はこの指示を掲載し、中共党員の他、党外の人の参加も歓迎された(中国共産党中央委員会 1957)。整風運動の発展と伴い、中共に対する批判は激しくなったが、このことは、中共の指導に対するブルジョアを代表する右派分子による挑戦と看做された。その結果、同年6月反右派闘争(以下:反右)が始まった。
馬堅は1957年から雑誌の『中国穆斯林』でクルアーン訳注を連載していた。しかし、1958年第4期から連載中止となった。また、回族学者の白寿彝が著したイスラーム学者の伝記も1958年第2期から連載中止となった。イスラーム及びイスラーム学者に関する文章の連載停止は政治環境が招いた結果であると考えられる(李松茂 2009)。また、同年10月、1953年に創立された回族組織の中国回民文化協進会は歴史的使命をすでに完了したこととされ、解散を余儀なくされた(新華社 1958)。
反右は始まってから急速に各領域へ拡大した。少数民族や宗教信仰者も逃れられなかった。上述した現象は、少数民族と宗教信仰者にとって政治状況が悪化し、厳しい状況に置かれるようになったことを示唆している。このような状況において、馬堅は賛否を明らかにせず、後述するように依然として政権に迎合する姿勢を示した。
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馬堅はいつから雑誌の『中国穆斯林』で何を連載していましたか。
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馬堅は1957年から雑誌の『中国穆斯林』でクルアーン訳注を連載していました。
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JCRRAG_002973
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歴史
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1957年4月27日、中共は当時の政治状況に基づき、党内における官僚主義、宗派主義及び主観主義に反対する整風運動を行うことを決定した。5月1日、人民日報はこの指示を掲載し、中共党員の他、党外の人の参加も歓迎された(中国共産党中央委員会 1957)。整風運動の発展と伴い、中共に対する批判は激しくなったが、このことは、中共の指導に対するブルジョアを代表する右派分子による挑戦と看做された。その結果、同年6月反右派闘争(以下:反右)が始まった。
馬堅は1957年から雑誌の『中国穆斯林』でクルアーン訳注を連載していた。しかし、1958年第4期から連載中止となった。また、回族学者の白寿彝が著したイスラーム学者の伝記も1958年第2期から連載中止となった。イスラーム及びイスラーム学者に関する文章の連載停止は政治環境が招いた結果であると考えられる(李松茂 2009)。また、同年10月、1953年に創立された回族組織の中国回民文化協進会は歴史的使命をすでに完了したこととされ、解散を余儀なくされた(新華社 1958)。
反右は始まってから急速に各領域へ拡大した。少数民族や宗教信仰者も逃れられなかった。上述した現象は、少数民族と宗教信仰者にとって政治状況が悪化し、厳しい状況に置かれるようになったことを示唆している。このような状況において、馬堅は賛否を明らかにせず、後述するように依然として政権に迎合する姿勢を示した。
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イスラーム学者の伝記は誰が著し、何年の第2期から連載中止となりましたか。
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イスラーム学者の伝記は回族学者の白寿彝が著し、1958年の第2期から連載中止となりました。
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JCRRAG_002974
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歴史
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中国各地において、数多くの回族もしくは他民族のムスリムは右派として粛清された。その中で、最も有名な人物は馬震武である。馬震武は寧夏西吉県沙溝県出身で、中国におけるイスラーム神秘主義教団のジャフリーヤ派の8代目指導者である。ジャフリーヤ派の指導者は大量の土地を持ち、教民に無償労働を宗教的義務として求め、またその指導者は教民によって聖者と見做され、指導者の墓は聖者廟として教民によって参詣されることもあり、崇拝されていた。1949年から、馬震武は甘粛省政府委員や西海固回族自治区人民政府主席などの要職を務めていた。1958年8月、中国イスラーム協会主催の回民座談会が寧夏で開催された。この会議において、馬震武は右派分子と認定され、厳しい批判を受け、懲戒免職とされた。
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数多くの回族もしくは他民族のムスリムは、どこにおいて何として粛清されましたか?
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数多くの回族もしくは他民族のムスリムは、中国各地において右派として粛清されました。
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JCRRAG_002975
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歴史
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中国各地において、数多くの回族もしくは他民族のムスリムは右派として粛清された。その中で、最も有名な人物は馬震武である。馬震武は寧夏西吉県沙溝県出身で、中国におけるイスラーム神秘主義教団のジャフリーヤ派の8代目指導者である。ジャフリーヤ派の指導者は大量の土地を持ち、教民に無償労働を宗教的義務として求め、またその指導者は教民によって聖者と見做され、指導者の墓は聖者廟として教民によって参詣されることもあり、崇拝されていた。1949年から、馬震武は甘粛省政府委員や西海固回族自治区人民政府主席などの要職を務めていた。1958年8月、中国イスラーム協会主催の回民座談会が寧夏で開催された。この会議において、馬震武は右派分子と認定され、厳しい批判を受け、懲戒免職とされた。
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馬震武はどこの出身で、中国におけるイスラーム神秘主義教団のジャフリーヤ派の何代目指導者ですか?
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馬震武は寧夏西吉県沙溝県出身で、中国におけるイスラーム神秘主義教団のジャフリーヤ派の8代目指導者です。
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JCRRAG_002976
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歴史
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中国各地において、数多くの回族もしくは他民族のムスリムは右派として粛清された。その中で、最も有名な人物は馬震武である。馬震武は寧夏西吉県沙溝県出身で、中国におけるイスラーム神秘主義教団のジャフリーヤ派の8代目指導者である。ジャフリーヤ派の指導者は大量の土地を持ち、教民に無償労働を宗教的義務として求め、またその指導者は教民によって聖者と見做され、指導者の墓は聖者廟として教民によって参詣されることもあり、崇拝されていた。1949年から、馬震武は甘粛省政府委員や西海固回族自治区人民政府主席などの要職を務めていた。1958年8月、中国イスラーム協会主催の回民座談会が寧夏で開催された。この会議において、馬震武は右派分子と認定され、厳しい批判を受け、懲戒免職とされた。
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ジャフリーヤ派の指導者は何を持ち、教民に何を宗教的義務として求めましたか?
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ジャフリーヤ派の指導者は大量の土地を持ち、教民に無償労働を宗教的義務として求めました。
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JCRRAG_002977
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歴史
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中国各地において、数多くの回族もしくは他民族のムスリムは右派として粛清された。その中で、最も有名な人物は馬震武である。馬震武は寧夏西吉県沙溝県出身で、中国におけるイスラーム神秘主義教団のジャフリーヤ派の8代目指導者である。ジャフリーヤ派の指導者は大量の土地を持ち、教民に無償労働を宗教的義務として求め、またその指導者は教民によって聖者と見做され、指導者の墓は聖者廟として教民によって参詣されることもあり、崇拝されていた。1949年から、馬震武は甘粛省政府委員や西海固回族自治区人民政府主席などの要職を務めていた。1958年8月、中国イスラーム協会主催の回民座談会が寧夏で開催された。この会議において、馬震武は右派分子と認定され、厳しい批判を受け、懲戒免職とされた。
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馬震武はいつからどのような要職を務めていましたか?
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馬震武は1949年から甘粛省政府委員や西海固回族自治区人民政府主席などの要職を務めていました。
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JCRRAG_002978
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歴史
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中国各地において、数多くの回族もしくは他民族のムスリムは右派として粛清された。その中で、最も有名な人物は馬震武である。馬震武は寧夏西吉県沙溝県出身で、中国におけるイスラーム神秘主義教団のジャフリーヤ派の8代目指導者である。ジャフリーヤ派の指導者は大量の土地を持ち、教民に無償労働を宗教的義務として求め、またその指導者は教民によって聖者と見做され、指導者の墓は聖者廟として教民によって参詣されることもあり、崇拝されていた。1949年から、馬震武は甘粛省政府委員や西海固回族自治区人民政府主席などの要職を務めていた。1958年8月、中国イスラーム協会主催の回民座談会が寧夏で開催された。この会議において、馬震武は右派分子と認定され、厳しい批判を受け、懲戒免職とされた。
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中国イスラーム協会主催の回民座談会は、いつどこで開催されましたか?
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中国イスラーム協会主催の回民座談会は、1958年8月、寧夏で開催されました。
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JCRRAG_002979
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歴史
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『人民日報』の記事によれば、馬震武は自分の宗教指導者としてのアイデンティティを利用し、封建特権を維持して拡大するために、民衆を殺害した(康 1958)。また、馬震武は国民党反動派と結託し反革命反乱を起こしたと言われた。さらに、記事は馬震武が宗教特権を用い群衆を搾取したと指摘している。馬堅も馬震武に対する批判運動に参加した。
1958年10月、寧夏回族自治区が設立された。自治区の設立に対して、馬堅は「寧夏回族自治区人民に対する幾つかの希望」(対於寧夏回族自治区人民的幾点願望)と題する文章を書き、『中国穆斯林』1958年第12期で発表した。文章において、馬堅は馬震武を次のように批判している。
馬震武のような党、人民及び共産主義に反対する封建的地主と悪辣な権力者は、人民の共同の敵と回族のクズであるだけでなく、イスラームの背教者でもある。アッラー或いは聖者と自称する人には信仰心が欠如している。彼は悪事の限りを尽くした。我らは彼と戦い抜くべきである。我らは彼によって奴隷のように酷使された同胞を解放すべきである。彼に殺された同胞に代わって恨みを晴らすべきである。我らは人民政府に、彼の財産を全部没収し、寧夏回族自治区の発展のために利用することを求める。彼の財産は元々人民のものである。(中略)我らは馬震武が宗教の名のもとに、人民を弾圧し、搾取し、酷使し、屠殺した罪を断じて許さない。(馬堅 1958b)
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『人民日報』の記事によると、馬震武は何を利用し、何をするために、民衆を殺害しましたか。
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『人民日報』の記事によると、馬震武は自分の宗教指導者としてのアイデンティティを利用し、封建特権を維持して拡大するために、民衆を殺害しました。
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歴史
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『人民日報』の記事によれば、馬震武は自分の宗教指導者としてのアイデンティティを利用し、封建特権を維持して拡大するために、民衆を殺害した(康 1958)。また、馬震武は国民党反動派と結託し反革命反乱を起こしたと言われた。さらに、記事は馬震武が宗教特権を用い群衆を搾取したと指摘している。馬堅も馬震武に対する批判運動に参加した。
1958年10月、寧夏回族自治区が設立された。自治区の設立に対して、馬堅は「寧夏回族自治区人民に対する幾つかの希望」(対於寧夏回族自治区人民的幾点願望)と題する文章を書き、『中国穆斯林』1958年第12期で発表した。文章において、馬堅は馬震武を次のように批判している。
馬震武のような党、人民及び共産主義に反対する封建的地主と悪辣な権力者は、人民の共同の敵と回族のクズであるだけでなく、イスラームの背教者でもある。アッラー或いは聖者と自称する人には信仰心が欠如している。彼は悪事の限りを尽くした。我らは彼と戦い抜くべきである。我らは彼によって奴隷のように酷使された同胞を解放すべきである。彼に殺された同胞に代わって恨みを晴らすべきである。我らは人民政府に、彼の財産を全部没収し、寧夏回族自治区の発展のために利用することを求める。彼の財産は元々人民のものである。(中略)我らは馬震武が宗教の名のもとに、人民を弾圧し、搾取し、酷使し、屠殺した罪を断じて許さない。(馬堅 1958b)
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馬震武は誰と結託し何を起こしたと言われましたか?
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馬震武は国民党反動派と結託し反革命反乱を起こしたと言われました。
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歴史
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『人民日報』の記事によれば、馬震武は自分の宗教指導者としてのアイデンティティを利用し、封建特権を維持して拡大するために、民衆を殺害した(康 1958)。また、馬震武は国民党反動派と結託し反革命反乱を起こしたと言われた。さらに、記事は馬震武が宗教特権を用い群衆を搾取したと指摘している。馬堅も馬震武に対する批判運動に参加した。
1958年10月、寧夏回族自治区が設立された。自治区の設立に対して、馬堅は「寧夏回族自治区人民に対する幾つかの希望」(対於寧夏回族自治区人民的幾点願望)と題する文章を書き、『中国穆斯林』1958年第12期で発表した。文章において、馬堅は馬震武を次のように批判している。
馬震武のような党、人民及び共産主義に反対する封建的地主と悪辣な権力者は、人民の共同の敵と回族のクズであるだけでなく、イスラームの背教者でもある。アッラー或いは聖者と自称する人には信仰心が欠如している。彼は悪事の限りを尽くした。我らは彼と戦い抜くべきである。我らは彼によって奴隷のように酷使された同胞を解放すべきである。彼に殺された同胞に代わって恨みを晴らすべきである。我らは人民政府に、彼の財産を全部没収し、寧夏回族自治区の発展のために利用することを求める。彼の財産は元々人民のものである。(中略)我らは馬震武が宗教の名のもとに、人民を弾圧し、搾取し、酷使し、屠殺した罪を断じて許さない。(馬堅 1958b)
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記事は馬震武が何を用い何をしたと指摘していますか?
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記事は馬震武が宗教特権を用い群衆を搾取したと指摘しています。
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JCRRAG_002982
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歴史
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馬堅は1932年3月10日の日記に、「晩御飯後、ムハンマド・ザフザーフィー先生の家を訪問した。最新のクルアーン注釈について先生に聞き、先生はムハンマド・アブドゥ氏による注釈が一番良いと言った」と書いている。このムハンマド・ザフザーフィーとは、エジプトに来たばかりの中国からの留学生のアラビア語レベルを高めるべくアズハル大学から派遣された教員である。上述した訳者序と日記を見れば、当時のアズハル大学はムハンマド・アブドゥを尊敬し、彼の思想を推奨していたことがわかる。また、馬堅(1950a)によれば、多数の回民は貧しいため、地主階級に属する人がほぼいない。預言者ムハンマドも明確に土地を賃借することを禁止したから、土地改革に反対する行為はイスラームの教義に違反している(馬堅1950a)。したがって、馬堅は、政治的にも、宗教的にも、馬震武を粛清することは正しいと考えた。馬堅は新政権に重用されることを喜び、同族の馬震武を批判した。なお、文革収束後の1984年、馬震武が右派分子として粛清されたことは誤りであったと中共寧夏回族自治区委員会によって認定されている。
馬堅による馬震武への批判には彼にとって宗教的な合理性があった一方で、彼による親米イスラーム政権への批判の根拠は曖昧である。1958年7月19日、アラブ連合共和国とイラクは共同防衛協定に調印した。『人民日報』(1958)の社説は、この協定で、アラブ人民は帝国主義に抵抗し民族独立を守る力を増強した、と両国を称賛した。さらに、社説はイラクを攻撃しようとしている親米政権のヨルダンをアメリカの傀儡政権とし、ヨルダンを批判した。1958年8月3日、馬堅は「クルアーン読み直し」(重読古蘭経)と題する記事を『人民日報』で発表した。彼はクルアーンの啓示を引用し、アラブ連合共和国とイラクの行為がイスラームの教義に合致する一方で、トルコやパキスタンなど帝国主義に協力する国はイスラームの教義に違反していると述べている。この論調は強引に中国の外交政策に宗教的合理性をもたせようとしていると言わざるを得ない。
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馬堅はいつの何に、「晩御飯後、ムハンマド・ザフザーフィー先生の家を訪問した。最新のクルアーン注釈について先生に聞き、先生はムハンマド・アブドゥ氏による注釈が一番良いと言った」と書いていますか。
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馬堅は1932年3月10日の日記に、「晩御飯後、ムハンマド・ザフザーフィー先生の家を訪問した。最新のクルアーン注釈について先生に聞き、先生はムハンマド・アブドゥ氏による注釈が一番良いと言った」と書いています。
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歴史
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『人民日報』の記事によれば、馬震武は自分の宗教指導者としてのアイデンティティを利用し、封建特権を維持して拡大するために、民衆を殺害した(康 1958)。また、馬震武は国民党反動派と結託し反革命反乱を起こしたと言われた。さらに、記事は馬震武が宗教特権を用い群衆を搾取したと指摘している。馬堅も馬震武に対する批判運動に参加した。
1958年10月、寧夏回族自治区が設立された。自治区の設立に対して、馬堅は「寧夏回族自治区人民に対する幾つかの希望」(対於寧夏回族自治区人民的幾点願望)と題する文章を書き、『中国穆斯林』1958年第12期で発表した。文章において、馬堅は馬震武を次のように批判している。
馬震武のような党、人民及び共産主義に反対する封建的地主と悪辣な権力者は、人民の共同の敵と回族のクズであるだけでなく、イスラームの背教者でもある。アッラー或いは聖者と自称する人には信仰心が欠如している。彼は悪事の限りを尽くした。我らは彼と戦い抜くべきである。我らは彼によって奴隷のように酷使された同胞を解放すべきである。彼に殺された同胞に代わって恨みを晴らすべきである。我らは人民政府に、彼の財産を全部没収し、寧夏回族自治区の発展のために利用することを求める。彼の財産は元々人民のものである。(中略)我らは馬震武が宗教の名のもとに、人民を弾圧し、搾取し、酷使し、屠殺した罪を断じて許さない。(馬堅 1958b)
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誰が「寧夏回族自治区人民に対する幾つかの希望」と題する文章を書き、何で発表しましたか?
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馬堅が「寧夏回族自治区人民に対する幾つかの希望」と題する文章を書き、『中国穆斯林』1958年第12期で発表しました。
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JCRRAG_002984
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歴史
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馬堅は1932年3月10日の日記に、「晩御飯後、ムハンマド・ザフザーフィー先生の家を訪問した。最新のクルアーン注釈について先生に聞き、先生はムハンマド・アブドゥ氏による注釈が一番良いと言った」と書いている。このムハンマド・ザフザーフィーとは、エジプトに来たばかりの中国からの留学生のアラビア語レベルを高めるべくアズハル大学から派遣された教員である。上述した訳者序と日記を見れば、当時のアズハル大学はムハンマド・アブドゥを尊敬し、彼の思想を推奨していたことがわかる。また、馬堅(1950a)によれば、多数の回民は貧しいため、地主階級に属する人がほぼいない。預言者ムハンマドも明確に土地を賃借することを禁止したから、土地改革に反対する行為はイスラームの教義に違反している(馬堅1950a)。したがって、馬堅は、政治的にも、宗教的にも、馬震武を粛清することは正しいと考えた。馬堅は新政権に重用されることを喜び、同族の馬震武を批判した。なお、文革収束後の1984年、馬震武が右派分子として粛清されたことは誤りであったと中共寧夏回族自治区委員会によって認定されている。
馬堅による馬震武への批判には彼にとって宗教的な合理性があった一方で、彼による親米イスラーム政権への批判の根拠は曖昧である。1958年7月19日、アラブ連合共和国とイラクは共同防衛協定に調印した。『人民日報』(1958)の社説は、この協定で、アラブ人民は帝国主義に抵抗し民族独立を守る力を増強した、と両国を称賛した。さらに、社説はイラクを攻撃しようとしている親米政権のヨルダンをアメリカの傀儡政権とし、ヨルダンを批判した。1958年8月3日、馬堅は「クルアーン読み直し」(重読古蘭経)と題する記事を『人民日報』で発表した。彼はクルアーンの啓示を引用し、アラブ連合共和国とイラクの行為がイスラームの教義に合致する一方で、トルコやパキスタンなど帝国主義に協力する国はイスラームの教義に違反していると述べている。この論調は強引に中国の外交政策に宗教的合理性をもたせようとしていると言わざるを得ない。
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ムハンマド・ザフザーフィーは、何をするために、どこから派遣された教員ですか。
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ムハンマド・ザフザーフィーは、エジプトに来たばかりの中国からの留学生のアラビア語レベルを高めるために、アズハル大学から派遣された教員です。
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歴史
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馬堅は1932年3月10日の日記に、「晩御飯後、ムハンマド・ザフザーフィー先生の家を訪問した。最新のクルアーン注釈について先生に聞き、先生はムハンマド・アブドゥ氏による注釈が一番良いと言った」と書いている。このムハンマド・ザフザーフィーとは、エジプトに来たばかりの中国からの留学生のアラビア語レベルを高めるべくアズハル大学から派遣された教員である。上述した訳者序と日記を見れば、当時のアズハル大学はムハンマド・アブドゥを尊敬し、彼の思想を推奨していたことがわかる。また、馬堅(1950a)によれば、多数の回民は貧しいため、地主階級に属する人がほぼいない。預言者ムハンマドも明確に土地を賃借することを禁止したから、土地改革に反対する行為はイスラームの教義に違反している(馬堅1950a)。したがって、馬堅は、政治的にも、宗教的にも、馬震武を粛清することは正しいと考えた。馬堅は新政権に重用されることを喜び、同族の馬震武を批判した。なお、文革収束後の1984年、馬震武が右派分子として粛清されたことは誤りであったと中共寧夏回族自治区委員会によって認定されている。
馬堅による馬震武への批判には彼にとって宗教的な合理性があった一方で、彼による親米イスラーム政権への批判の根拠は曖昧である。1958年7月19日、アラブ連合共和国とイラクは共同防衛協定に調印した。『人民日報』(1958)の社説は、この協定で、アラブ人民は帝国主義に抵抗し民族独立を守る力を増強した、と両国を称賛した。さらに、社説はイラクを攻撃しようとしている親米政権のヨルダンをアメリカの傀儡政権とし、ヨルダンを批判した。1958年8月3日、馬堅は「クルアーン読み直し」(重読古蘭経)と題する記事を『人民日報』で発表した。彼はクルアーンの啓示を引用し、アラブ連合共和国とイラクの行為がイスラームの教義に合致する一方で、トルコやパキスタンなど帝国主義に協力する国はイスラームの教義に違反していると述べている。この論調は強引に中国の外交政策に宗教的合理性をもたせようとしていると言わざるを得ない。
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馬震武が右派分子として粛清されたことは誤りであったということは、いつ、何によって認定されていますか。
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馬震武が右派分子として粛清されたことは誤りであったということは、文革収束後の1984年、中共寧夏回族自治区委員会によって認定されています。
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JCRRAG_002986
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歴史
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馬堅は1932年3月10日の日記に、「晩御飯後、ムハンマド・ザフザーフィー先生の家を訪問した。最新のクルアーン注釈について先生に聞き、先生はムハンマド・アブドゥ氏による注釈が一番良いと言った」と書いている。このムハンマド・ザフザーフィーとは、エジプトに来たばかりの中国からの留学生のアラビア語レベルを高めるべくアズハル大学から派遣された教員である。上述した訳者序と日記を見れば、当時のアズハル大学はムハンマド・アブドゥを尊敬し、彼の思想を推奨していたことがわかる。また、馬堅(1950a)によれば、多数の回民は貧しいため、地主階級に属する人がほぼいない。預言者ムハンマドも明確に土地を賃借することを禁止したから、土地改革に反対する行為はイスラームの教義に違反している(馬堅1950a)。したがって、馬堅は、政治的にも、宗教的にも、馬震武を粛清することは正しいと考えた。馬堅は新政権に重用されることを喜び、同族の馬震武を批判した。なお、文革収束後の1984年、馬震武が右派分子として粛清されたことは誤りであったと中共寧夏回族自治区委員会によって認定されている。
馬堅による馬震武への批判には彼にとって宗教的な合理性があった一方で、彼による親米イスラーム政権への批判の根拠は曖昧である。1958年7月19日、アラブ連合共和国とイラクは共同防衛協定に調印した。『人民日報』(1958)の社説は、この協定で、アラブ人民は帝国主義に抵抗し民族独立を守る力を増強した、と両国を称賛した。さらに、社説はイラクを攻撃しようとしている親米政権のヨルダンをアメリカの傀儡政権とし、ヨルダンを批判した。1958年8月3日、馬堅は「クルアーン読み直し」(重読古蘭経)と題する記事を『人民日報』で発表した。彼はクルアーンの啓示を引用し、アラブ連合共和国とイラクの行為がイスラームの教義に合致する一方で、トルコやパキスタンなど帝国主義に協力する国はイスラームの教義に違反していると述べている。この論調は強引に中国の外交政策に宗教的合理性をもたせようとしていると言わざるを得ない。
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アラブ連合共和国とイラクは、いつ、何に調印しましたか。
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アラブ連合共和国とイラクは、1958年7月19日、共同防衛協定に調印しました。
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JCRRAG_002987
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歴史
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康熙21年,ジノン号を剥奪されたドルジを含むベスト部(ジノン家の勢力基盤)の首長らは,ドルジのジノン号の正当性を康熙帝に訴え[阿音娜 2013: 45-46][前野 2017: 5],ジェブツンダンバ=ホトクトもドルジのジノン号を支持し,サマディがジノン号を有する不当性を康熙帝に主張した[阿音娜 2013: 47]。さらにトゥシェート=ハーンはフレン=ベルチルの会盟後である康熙26年に送付した書簡において,右翼ベストのジノン号問題を再び持ち出し,サマディがジノン号を継承するにふさわしくない人物であることを康熙帝に強く主張している。しかし,ここでも清朝がトゥシェート=ハーンやジェブツンダンバ=ホトクトの訴えに対して,何らかの対応をとった形跡は見られない。清朝はハルハ右翼のジノン号問題において,ザサグト=ハーン・チェンブンを支持するかのような対応をとり,それに対してハルハ左翼は不満を抱き康熙帝に訴えたものの,その要求は受け入れられなかったのである。
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康熙26年に送付した書簡において、サマディがジノン号を継承するにふさわしくない人物であることを康熙帝に強く主張しているのは誰ですか?
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康熙26年に送付した書簡において、サマディがジノン号を継承するにふさわしくない人物であることを康熙帝に強く主張しているのは、トゥシェート=ハーンです。
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JCRRAG_002988
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歴史
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1951年1月10日、『光明日報』は「しどろもどろになったアンクル・サム」(語無倫次的山姆大叔)と題する記事を掲載した。記者はアメリカを皮肉る際に、「可哀想な人々は、一つの手が剣を持ち、もう一つの手が経典を持つムハンマドは知っているが、一つの手が銃と火砲を持ち、もう一つの手がお金を持ち、また別の手が「道義」を持つ悪いアメリカを知らない」と書いている(盧 1951)。預言者ムハンマドを邪悪なアメリカと並べた、この表現は回族の激しい反発を引き起こした。
事態を収拾するために、1月16日、北京市人民政府民政局民族事務課は北京市各界回民代表会議を開催し、そこで『光明日報』の代表は謝罪した。同会議で馬堅はムハンマドが剣を持つ理由について発言した。発言に基づく「ムハンマドの宝剣」(穆罕默徳的宝剣)と題する文章は1月19日の『光明日報』に掲載され、20日、『人民日報』に転載され、新華社から全国に向けて広報された。この文章によると、ムハンマドは迫害に反抗するために剣を持ち戦った。また、イスラームは信教の自由を唱える宗教であり、平和な方式で広がっていると説明している(馬堅 1951c)。この文章の目的は、漢族によるイスラームに対する誤解を解消すると同時に、イスラームを信じる民族を団結させ、各民族が一緒に「抗美援朝」を支持しようと呼びかけることにあった。
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記者は、可哀想な人々が何を知っていて何を知らないと書いていますか?
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記者は、可哀想な人々が1つの手が剣を持ち、もう1つの手が経典を持つムハンマドを知っていて、1つの手が銃と火砲を持ち、もう1つの手がお金を持ち、また別の手が「道義」を持つ悪いアメリカを知らないと書いています。
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JCRRAG_002989
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歴史
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本稿は,康熙帝がハルハ(Mon. Qalq-a)左右翼の内紛を調停するために開催した康熙25(1686)年のフレン=ベルチル(Mon.Küreng Belčir)の会盟から,康熙27(1688)年のジューン=ガルのガルダンの侵攻によってハルハが清朝に保護を求めるまでの過程を『清内閣蒙古堂檔』(2005年刊行。以下『蒙古堂檔』と略記)を主に利用して分析し,清朝によるハルハの内紛に対する介入の実態と背景をハルハ左右翼の状況やジューン=ガル,ロシア,チベットなどの周辺情勢を踏まえて明らかにするものである。
ハルハはダヤン=ハーンの末子ゲレセンジェ(Mon. Gersenǰe 1513–1548)の7人の子に分封され,清朝の支配下に入るまで「七ホショー(七旗)ハルハ」とも呼称された。現在のモンゴル国の母体となった集団である。元来はハルハ河周辺に遊牧していたと考えられるが[和田 1959: 776],トゥメドのアルタン=ハーン(1508–1582)のオイラド討伐を受け継いで,牧地をゴビ砂漠以北(以下,漠北と略記)一帯に拡大していった[宮脇 1983: 172]。17世紀初め頃には漠北東側の集団である左翼と,西側の集団である右翼に分かれ,トゥシェート=ハーン(Mon.Tüsiyetü qaγan),セツェン=ハーン(Mon.Sečen qaγan)の称号を有する首長が左翼を,ザサグト=ハーン(Mon. J̌asaγtu qaγan)の称号を有する首長が右翼を率いていた[宮脇 1979]。崇徳元(1636)年にゴビ砂漠以南(漠南)に遊牧するほとんどのモンゴル諸部が清朝に服属する一方で,ハルハはなおも事実上の独立を保ち清朝に朝貢を行なっていった。ところが,康熙元(1662)年にハルハ右翼のザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイ(Mon. Gümbü ǰaγ bintü aqai)が,同じく右翼のロブサン=タイジ(Mon.Lobsang tayiǰi:第3代アルタン=ハーン)に殺害される事件が発生すると(以下,ザサグト=ハーン殺害事件と略記),ハルハは混乱の一途を辿っていくこととなる。ロブサン=タイジに殺害されたグムブの後を継ぎ,ザサグト=ハーン位を継承したのはワンチュク(Mon. Wangčuγ)であったが,彼はほどなくして死去し,康熙5(1666)年に彼の弟であるチェンブン(Mon. Čenbün)がジューン=ガルのセンゲとその弟ガルダンの後ろ盾のもと,ザサグト=ハーン位を継承した[Buyandelger 2000]。すると,チェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,窮地を脱するためハルハ左翼へ逃亡した右翼の属衆の返還を求め,次第にトゥシェート=ハーン・チャホンドルジ(Mon.Čaqundorǰi 以下,トゥシェート=ハーンとはチャホンドルジを指す)と対立を深めていく。そこで康熙帝は,ダライ=ラマ5世と共同でハルハの対立を調停しようと康熙25年にフレン=ベルチルで講和会議を開いたが,トゥシェート=ハーンは右翼の属衆を半分しか返還せず,その上,康熙26(1687)年,ジューン=ガルのガルダンのもとに援助を求めるために向かったザサグト=ハーン・シャラ(Mon. Šara チェンブンは会盟の直前に死去したため,子のシャラがハーン位を継承)を追撃して殺害するに至る。これにより,ガルダンは康熙27年にハルハへ侵攻しトゥシェート=ハーンを破ると,ハルハ左右翼の多くの属衆が清朝・康熙帝に保護を求め,康熙30(1691)年にハルハは正式に清朝の支配下に入った。
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康熙帝はどこでダライ=ラマ5世と講和会議を行いましたか。
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康熙帝はフレン=ベルチルでダライ=ラマ5世と講和会議を行いました。
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歴史
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本稿は,康熙帝がハルハ(Mon. Qalq-a)左右翼の内紛を調停するために開催した康熙25(1686)年のフレン=ベルチル(Mon.Küreng Belčir)の会盟から,康熙27(1688)年のジューン=ガルのガルダンの侵攻によってハルハが清朝に保護を求めるまでの過程を『清内閣蒙古堂檔』(2005年刊行。以下『蒙古堂檔』と略記)を主に利用して分析し,清朝によるハルハの内紛に対する介入の実態と背景をハルハ左右翼の状況やジューン=ガル,ロシア,チベットなどの周辺情勢を踏まえて明らかにするものである。
ハルハはダヤン=ハーンの末子ゲレセンジェ(Mon. Gersenǰe 1513–1548)の7人の子に分封され,清朝の支配下に入るまで「七ホショー(七旗)ハルハ」とも呼称された。現在のモンゴル国の母体となった集団である。元来はハルハ河周辺に遊牧していたと考えられるが[和田 1959: 776],トゥメドのアルタン=ハーン(1508–1582)のオイラド討伐を受け継いで,牧地をゴビ砂漠以北(以下,漠北と略記)一帯に拡大していった[宮脇 1983: 172]。17世紀初め頃には漠北東側の集団である左翼と,西側の集団である右翼に分かれ,トゥシェート=ハーン(Mon.Tüsiyetü qaγan),セツェン=ハーン(Mon.Sečen qaγan)の称号を有する首長が左翼を,ザサグト=ハーン(Mon. J̌asaγtu qaγan)の称号を有する首長が右翼を率いていた[宮脇 1979]。崇徳元(1636)年にゴビ砂漠以南(漠南)に遊牧するほとんどのモンゴル諸部が清朝に服属する一方で,ハルハはなおも事実上の独立を保ち清朝に朝貢を行なっていった。ところが,康熙元(1662)年にハルハ右翼のザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイ(Mon. Gümbü ǰaγ bintü aqai)が,同じく右翼のロブサン=タイジ(Mon.Lobsang tayiǰi:第3代アルタン=ハーン)に殺害される事件が発生すると(以下,ザサグト=ハーン殺害事件と略記),ハルハは混乱の一途を辿っていくこととなる。ロブサン=タイジに殺害されたグムブの後を継ぎ,ザサグト=ハーン位を継承したのはワンチュク(Mon. Wangčuγ)であったが,彼はほどなくして死去し,康熙5(1666)年に彼の弟であるチェンブン(Mon. Čenbün)がジューン=ガルのセンゲとその弟ガルダンの後ろ盾のもと,ザサグト=ハーン位を継承した[Buyandelger 2000]。すると,チェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,窮地を脱するためハルハ左翼へ逃亡した右翼の属衆の返還を求め,次第にトゥシェート=ハーン・チャホンドルジ(Mon.Čaqundorǰi 以下,トゥシェート=ハーンとはチャホンドルジを指す)と対立を深めていく。そこで康熙帝は,ダライ=ラマ5世と共同でハルハの対立を調停しようと康熙25年にフレン=ベルチルで講和会議を開いたが,トゥシェート=ハーンは右翼の属衆を半分しか返還せず,その上,康熙26(1687)年,ジューン=ガルのガルダンのもとに援助を求めるために向かったザサグト=ハーン・シャラ(Mon. Šara チェンブンは会盟の直前に死去したため,子のシャラがハーン位を継承)を追撃して殺害するに至る。これにより,ガルダンは康熙27年にハルハへ侵攻しトゥシェート=ハーンを破ると,ハルハ左右翼の多くの属衆が清朝・康熙帝に保護を求め,康熙30(1691)年にハルハは正式に清朝の支配下に入った。
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ザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイを殺害したのは誰ですか。
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ザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイを殺害したのは、ロブサン=タイジです。
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歴史
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ミャンマー(1)は多民族国家である。政府は135民族を認定しており、その上位分類として8大民族を認定する。「本土(ピーマ)」と呼ばれる地域ではビルマ族が多数を占め、「山岳地域(タウンダンデタ)」あるいは「辺境地域(ニサッデタ)」と呼ばれる地域では、各地の主要少数民族が多数派を構成する。このように多様性に富んだミャンマーで、1960年代初頭、地方格差の解消を目指して連邦制の実現を求めたのが、フェデラルムーブメントである。本稿は、ミャンマー連邦共和国憲法(以下、1947年憲法と表記する)で形作られた中央集権的な国家構造の見直しを試みたこの運動を、国家が反体制活動として見なした結果、国軍体制下のミャンマーで連邦制の実現を語ることが国是と反する禁忌にされたことを明らかにする。
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第1回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第2回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
以上の経緯から、1962年に軍事クーデタで国家運営を奪取した政府は、絶えず国民が団結する必要性と必然性を訴えてきた。これを呼びかけるために使われたのが、前述のパンロン会議である。この出来事を繰り返し語ることで、政府は国軍による統治の正当性を示してきた。その際には、連合シャン諸州の藩王たちの統治に批判的で、ビルマ族ナショナリストたちと連携しながら、国民国家の建設を積極的に支援した連合シャン諸州出身の平民たちの語りや回想が、国家の主張に沿うよう恣意的に参照され、国民国家へ自発的に参加する「模範的な少数民族」のイメージが作られた(菊池 2022)。
こうした事情の裏返しとして、国家は独立以降のミャンマー政治を、植民地からの独立闘争を戦った政治活動家たちが仲違いした時代として説明した。特に、自治権拡大を求めたシャン州の政治家たちが1960年代初頭に起こしたフェデラルムーブメントは、1962年から約半世紀続いた国軍体制下で、シャン族が独立を求めた民族運動という評価を受けてきた。
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第1回パンロン会議はいつ開催されましたか。
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第1回パンロン会議は1946年3月に開催されました。
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歴史
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ミャンマー(1)は多民族国家である。政府は135民族を認定しており、その上位分類として8大民族を認定する。「本土(ピーマ)」と呼ばれる地域ではビルマ族が多数を占め、「山岳地域(タウンダンデタ)」あるいは「辺境地域(ニサッデタ)」と呼ばれる地域では、各地の主要少数民族が多数派を構成する。このように多様性に富んだミャンマーで、1960年代初頭、地方格差の解消を目指して連邦制の実現を求めたのが、フェデラルムーブメントである。本稿は、ミャンマー連邦共和国憲法(以下、1947年憲法と表記する)で形作られた中央集権的な国家構造の見直しを試みたこの運動を、国家が反体制活動として見なした結果、国軍体制下のミャンマーで連邦制の実現を語ることが国是と反する禁忌にされたことを明らかにする。
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第1回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第2回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
以上の経緯から、1962年に軍事クーデタで国家運営を奪取した政府は、絶えず国民が団結する必要性と必然性を訴えてきた。これを呼びかけるために使われたのが、前述のパンロン会議である。この出来事を繰り返し語ることで、政府は国軍による統治の正当性を示してきた。その際には、連合シャン諸州の藩王たちの統治に批判的で、ビルマ族ナショナリストたちと連携しながら、国民国家の建設を積極的に支援した連合シャン諸州出身の平民たちの語りや回想が、国家の主張に沿うよう恣意的に参照され、国民国家へ自発的に参加する「模範的な少数民族」のイメージが作られた(菊池 2022)。
こうした事情の裏返しとして、国家は独立以降のミャンマー政治を、植民地からの独立闘争を戦った政治活動家たちが仲違いした時代として説明した。特に、自治権拡大を求めたシャン州の政治家たちが1960年代初頭に起こしたフェデラルムーブメントは、1962年から約半世紀続いた国軍体制下で、シャン族が独立を求めた民族運動という評価を受けてきた。
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ミャンマーがイギリス植民地から独立したのはいつですか。
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ミャンマーがイギリスから独立したのは1948年1月4日です。
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歴史
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ミャンマー(1)は多民族国家である。政府は135民族を認定しており、その上位分類として8大民族を認定する。「本土(ピーマ)」と呼ばれる地域ではビルマ族が多数を占め、「山岳地域(タウンダンデタ)」あるいは「辺境地域(ニサッデタ)」と呼ばれる地域では、各地の主要少数民族が多数派を構成する。このように多様性に富んだミャンマーで、1960年代初頭、地方格差の解消を目指して連邦制の実現を求めたのが、フェデラルムーブメントである。本稿は、ミャンマー連邦共和国憲法(以下、1947年憲法と表記する)で形作られた中央集権的な国家構造の見直しを試みたこの運動を、国家が反体制活動として見なした結果、国軍体制下のミャンマーで連邦制の実現を語ることが国是と反する禁忌にされたことを明らかにする。
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第1回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第2回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
以上の経緯から、1962年に軍事クーデタで国家運営を奪取した政府は、絶えず国民が団結する必要性と必然性を訴えてきた。これを呼びかけるために使われたのが、前述のパンロン会議である。この出来事を繰り返し語ることで、政府は国軍による統治の正当性を示してきた。その際には、連合シャン諸州の藩王たちの統治に批判的で、ビルマ族ナショナリストたちと連携しながら、国民国家の建設を積極的に支援した連合シャン諸州出身の平民たちの語りや回想が、国家の主張に沿うよう恣意的に参照され、国民国家へ自発的に参加する「模範的な少数民族」のイメージが作られた(菊池 2022)。
こうした事情の裏返しとして、国家は独立以降のミャンマー政治を、植民地からの独立闘争を戦った政治活動家たちが仲違いした時代として説明した。特に、自治権拡大を求めたシャン州の政治家たちが1960年代初頭に起こしたフェデラルムーブメントは、1962年から約半世紀続いた国軍体制下で、シャン族が独立を求めた民族運動という評価を受けてきた。
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パンロンで2回の会議を開催したのは、どの州の藩王たちですか。
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パンロンで2回の会議を開催したのは、連合シャン諸州の藩王たちです。
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歴史
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ミャンマー(1)は多民族国家である。政府は135民族を認定しており、その上位分類として8大民族を認定する。「本土(ピーマ)」と呼ばれる地域ではビルマ族が多数を占め、「山岳地域(タウンダンデタ)」あるいは「辺境地域(ニサッデタ)」と呼ばれる地域では、各地の主要少数民族が多数派を構成する。このように多様性に富んだミャンマーで、1960年代初頭、地方格差の解消を目指して連邦制の実現を求めたのが、フェデラルムーブメントである。本稿は、ミャンマー連邦共和国憲法(以下、1947年憲法と表記する)で形作られた中央集権的な国家構造の見直しを試みたこの運動を、国家が反体制活動として見なした結果、国軍体制下のミャンマーで連邦制の実現を語ることが国是と反する禁忌にされたことを明らかにする。
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第1回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第2回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
以上の経緯から、1962年に軍事クーデタで国家運営を奪取した政府は、絶えず国民が団結する必要性と必然性を訴えてきた。これを呼びかけるために使われたのが、前述のパンロン会議である。この出来事を繰り返し語ることで、政府は国軍による統治の正当性を示してきた。その際には、連合シャン諸州の藩王たちの統治に批判的で、ビルマ族ナショナリストたちと連携しながら、国民国家の建設を積極的に支援した連合シャン諸州出身の平民たちの語りや回想が、国家の主張に沿うよう恣意的に参照され、国民国家へ自発的に参加する「模範的な少数民族」のイメージが作られた(菊池 2022)。
こうした事情の裏返しとして、国家は独立以降のミャンマー政治を、植民地からの独立闘争を戦った政治活動家たちが仲違いした時代として説明した。特に、自治権拡大を求めたシャン州の政治家たちが1960年代初頭に起こしたフェデラルムーブメントは、1962年から約半世紀続いた国軍体制下で、シャン族が独立を求めた民族運動という評価を受けてきた。
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第2回パンロン会議で共に国家を建設することに合意したのは、どこの代表たちですか。
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第2回パンロン会議で共に国家を建設することに合意したのは、連合シャン諸州の藩王たち、連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちです。
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歴史
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ミャンマー(1)は多民族国家である。政府は135民族を認定しており、その上位分類として8大民族を認定する。「本土(ピーマ)」と呼ばれる地域ではビルマ族が多数を占め、「山岳地域(タウンダンデタ)」あるいは「辺境地域(ニサッデタ)」と呼ばれる地域では、各地の主要少数民族が多数派を構成する。このように多様性に富んだミャンマーで、1960年代初頭、地方格差の解消を目指して連邦制の実現を求めたのが、フェデラルムーブメントである。本稿は、ミャンマー連邦共和国憲法(以下、1947年憲法と表記する)で形作られた中央集権的な国家構造の見直しを試みたこの運動を、国家が反体制活動として見なした結果、国軍体制下のミャンマーで連邦制の実現を語ることが国是と反する禁忌にされたことを明らかにする。
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第1回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第2回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
以上の経緯から、1962年に軍事クーデタで国家運営を奪取した政府は、絶えず国民が団結する必要性と必然性を訴えてきた。これを呼びかけるために使われたのが、前述のパンロン会議である。この出来事を繰り返し語ることで、政府は国軍による統治の正当性を示してきた。その際には、連合シャン諸州の藩王たちの統治に批判的で、ビルマ族ナショナリストたちと連携しながら、国民国家の建設を積極的に支援した連合シャン諸州出身の平民たちの語りや回想が、国家の主張に沿うよう恣意的に参照され、国民国家へ自発的に参加する「模範的な少数民族」のイメージが作られた(菊池 2022)。
こうした事情の裏返しとして、国家は独立以降のミャンマー政治を、植民地からの独立闘争を戦った政治活動家たちが仲違いした時代として説明した。特に、自治権拡大を求めたシャン州の政治家たちが1960年代初頭に起こしたフェデラルムーブメントは、1962年から約半世紀続いた国軍体制下で、シャン族が独立を求めた民族運動という評価を受けてきた。
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少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてパンロン会議を設定したのは、誰ですか。
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少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてパンロン会議を設定したのは、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーです。
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JCRRAG_002996
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歴史
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1951年3月、漢族と回族の間に起こったブタ肉に関する争いを収めるため、馬堅は「なぜ回民がブタ肉を食べないか」(回民為什麼不吃猪肉)と題する文章を書いた。3月20日、この文章は『人民日報』に掲載された。馬堅(1951b)によれば、イスラームは衛生の観点からブタ肉を食べることを禁止した。一部の人はブタ肉を食べない回族の幹部や職員に対して「彼らの行為は封建時代の迷信であり、彼らの思想は問題である」と批判していた。このような批判は回族の幹部や職員の不安を煽った。このような言い方は大漢族主義の表現であるとした。続いて、馬堅は一部回族の不勉強も次のように批判している。クルアーンはブタ肉を食べることを禁止している。しかし、「ブタ肉」(猪肉)という言葉には問題がない。一部の回民は不勉強で、「ブタ」(猪)という漢字を嫌悪し回避している。漢・回雑居の地域において、漢族の人がブタ肉を持っていても隠さなければ殴られる。
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いつ、何のために、馬堅は「なぜ回民がブタ肉を食べないか」(回民為什麼不吃猪肉)と題する文章を書きましたか?
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1951年3月、漢族と回族の間に起こったブタ肉に関する争いを収めるために、馬堅は「なぜ回民がブタ肉を食べないか」と題する文章を書きました。
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歴史
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「鎌倉」が源頼朝に選ばれた理由
では、江戸幕府滅亡まで約680年間も続いた武家政権の幕を開けた源頼朝が、「鎌倉」という地を幕府を開く場所として選んだ理由を具体的に見ていきましょう。
1.敵が攻めにくい地形
鎌倉は北・東・西の三方を山・丘に囲まれており、南には相模湾が広がっている地形です。このような地形は守りやすく攻めにくい地形であると言えます。源頼朝が鎌倉を根拠地とした当時は平氏との戦いが多い時期でしたので、平氏に攻め込まれた場合を想定して自身の本拠地の防御を整える必要性がありました。その点、鎌倉の地形は自然の要塞となっていたので源頼朝にとってとても都合が良かったのです。鎌倉の地は歴史の教科書では「天然の要害地」と表現されることがあります。また、この土地は、元々源頼朝の先祖の土地であったことから縁のある土地でした。地形から考えると源頼朝にとって好都合であった点は具体的には以下の通りになります。
高い場所から敵を見渡すことができる。
複雑な地形を利用して待ち伏せをして弓矢を放ったり、攻撃がしやすい。
険しい山や丘陵があり、敵の軍隊の体力を減らす事ができた。
敵方にとって体力の回復に使う食料の補充をするには困難な地であった。
敵にとって不利になるような道を作りやすい。
山が急なので斜面を馬が通りにくい。
鎌倉の中心を流れる滑川を利用することで、生活用水や農業用水、木材を運搬する物資輸送に便利であった。
2.東海道に近いことは交流にとって主要な場所
また、鎌倉という地は東海道に近く交通、商業、軍事などの面から重要な交流地点でもありました。当時、山を最小限だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作ったとされていますが、江戸時代には東海道は天下の街道として賑わいをみせました。このことは、現在は国道1号線が東海道に沿って開通している様子からも想像できるでしょう。
3.関東の武士の想いを汲んだ源頼朝
関東の武士の願いは「朝廷の干渉を受けたくない」という想い。その想いを汲んで、源頼朝は朝廷のある都「京都」ではなく、離れた土地、関東で幕府を開きました。武士の想いとは、具体的には以下のような内容だと考えられます。
自分の領地や新たに得た領地を認めてもらい、守り続けることができる。
朝廷の役人に過剰な徴税をされないこと。
貴族の護衛など無益な徴兵をされないこと。
働いた分の正当な見返りをもらうことができる。
頼朝は、この武士の望みを、次々と実行していきました。
4.京都から離れることが目的だった
源頼朝が鎌倉に幕府をひらいた理由として、京都から離れることが目的であったとする説もあります。その理由は主に以下の3つが考えられます。
京都には朝廷があるので源氏の敵が近くにいる可能性が高かった。
京都では寺院が政治に関わっていたため、源頼朝の政治にも口出ししかねなかった。
平氏がそうであったように、武士が貴族化して衰退してしまうことを恐れた。
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鎌倉はどこを山・丘に囲まれていますか?
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鎌倉は北・東・西の三方を山・丘に囲まれています。
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JCRRAG_002998
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歴史
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1960年代末から1970年代初めに、インドの経済開発の優先順位は、食糧不足による飢饉の脅威に直面した1965-67年の食糧危機の直後に、重化学工業化から農業開発に移行した。第三次五か年計画(1961-65年)の後半段階で、重化学工業化(ビッグ・プッシュ型工業化戦略)の遅れに悩む中でインド政府は、資本財生産に力を入れた。同時期にインドは、モンスーン時期の天候不順(少雨)による二年連続の旱魃と主要穀物の不作に直面した。こうした深刻な経済状況の下で、インド政府は「計画中断」(Plan Holidays)宣言に追い込まれ、立案中の第四次五か年計画の内容と経済戦略自体の再考を余儀なくされた。1966年―1969年度初めまでの三年間、一年限りの年次計画が作成され遂行された。1966年1月には首相L.B.シャーストリーが急死したため、インディラー・ガーンディーが急遽後継首相となった。彼女は1966年6月に、前政権時代にアメリカの圧力を受けて立案されていた政策をそのまま継承する形で、ルピー通貨の大幅切下げと一連の経済自由化措置(製造業ライセンス品目の規制緩和、輸出奨励金の削減、輸入関税の引下げ)を実施した(6)。
1969年4月21日に、待望の第四次五か年計画がインド立法府に提出された。これは、1967年9月に任務を引き継いだ新たな計画委員会(D.R.ガードギル副委員長)が作成した計画案であった。その新委員会は、15年間におよぶ計画的な経済開発を終えた後のインド経済に必要なものを徹底的に再検討するために、三年間の「計画中断」を最大限に活用した。第四次五か年計画の当初案は大きく変更されたが、その重要な変更点は以下の二点にあった:(1)1966年―71年の当初の計画案と比較した場合、公共部門からの経費支出と外国からの援助総額が比較的穏当な規模であること。後者の対外被援助予定額の修正は、公共部門の開発経費の資金が、外国からの援助と赤字財政への過度の依存から、国内資金重視に移行することを意味した;(2)とりわけ経済開発の過程で、農業・小規模工業・運輸業での民間部門投資の増大に期待した。この新計画は、当時インドが直面していた経済問題とその解決を図るうえで、以前の計画よりもはるかに現実主義的であった。
第四次五か年計画の資金調達に関して、「開発資金全体に占める援助金額の割合が(第三次計画の28パーセント、当初の第四次計画の29パーセント、3年間の年次計画期間中の約40パーセントから)17.5パーセントに低下したことは(7)、自立を達成するという国家の決意を反映していた。農業生産の伸びによって1971年以降は段階的な削減が予想される、贈与の性格が強い食糧援助を除くと、援助実額の減少は、外国援助の利用可能額のより現実的な査定と、債務返済の負担増大への懸念を映し出していた」(8)。当初計画案の慎重な修正を経て、農業部門の重要性を強調し、小麦と米(基本食糧)のさらなる増産と最終的な食糧自給を目標とした新第四次五か年計画は、1969年から開始された。
この第四次五か年計画が始まるちょうど1年前に、インドの国内食糧生産は回復して年間9500万トンの水準を達成し、1971-72年には1億トンの大台を突破した。この大幅な国内食糧生産の増加により、穀物の輸入量、特にPL480を通じた食糧輸入は減少傾向にあった。もちろん食糧輸入が完全になくなったわけではないが、1960年代末からインドは穀物生産の自給に向かって着実な一歩を歩み始めた。
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インディラー・ガーンディーがルピー通貨の大幅切り下げと経済自由化措置を実施したのはいつですか。
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インディラー・ガーンディーは1966年6月にルピー通貨の大幅切り下げと経済自由化措置を実施しました。
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歴史
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1960年代末から1970年代初めに、インドの経済開発の優先順位は、食糧不足による飢饉の脅威に直面した1965-67年の食糧危機の直後に、重化学工業化から農業開発に移行した。第三次五か年計画(1961-65年)の後半段階で、重化学工業化(ビッグ・プッシュ型工業化戦略)の遅れに悩む中でインド政府は、資本財生産に力を入れた。同時期にインドは、モンスーン時期の天候不順(少雨)による二年連続の旱魃と主要穀物の不作に直面した。こうした深刻な経済状況の下で、インド政府は「計画中断」(Plan Holidays)宣言に追い込まれ、立案中の第四次五か年計画の内容と経済戦略自体の再考を余儀なくされた。1966年―1969年度初めまでの三年間、一年限りの年次計画が作成され遂行された。1966年1月には首相L.B.シャーストリーが急死したため、インディラー・ガーンディーが急遽後継首相となった。彼女は1966年6月に、前政権時代にアメリカの圧力を受けて立案されていた政策をそのまま継承する形で、ルピー通貨の大幅切下げと一連の経済自由化措置(製造業ライセンス品目の規制緩和、輸出奨励金の削減、輸入関税の引下げ)を実施した(6)。
1969年4月21日に、待望の第四次五か年計画がインド立法府に提出された。これは、1967年9月に任務を引き継いだ新たな計画委員会(D.R.ガードギル副委員長)が作成した計画案であった。その新委員会は、15年間におよぶ計画的な経済開発を終えた後のインド経済に必要なものを徹底的に再検討するために、三年間の「計画中断」を最大限に活用した。第四次五か年計画の当初案は大きく変更されたが、その重要な変更点は以下の二点にあった:(1)1966年―71年の当初の計画案と比較した場合、公共部門からの経費支出と外国からの援助総額が比較的穏当な規模であること。後者の対外被援助予定額の修正は、公共部門の開発経費の資金が、外国からの援助と赤字財政への過度の依存から、国内資金重視に移行することを意味した;(2)とりわけ経済開発の過程で、農業・小規模工業・運輸業での民間部門投資の増大に期待した。この新計画は、当時インドが直面していた経済問題とその解決を図るうえで、以前の計画よりもはるかに現実主義的であった。
第四次五か年計画の資金調達に関して、「開発資金全体に占める援助金額の割合が(第三次計画の28パーセント、当初の第四次計画の29パーセント、3年間の年次計画期間中の約40パーセントから)17.5パーセントに低下したことは(7)、自立を達成するという国家の決意を反映していた。農業生産の伸びによって1971年以降は段階的な削減が予想される、贈与の性格が強い食糧援助を除くと、援助実額の減少は、外国援助の利用可能額のより現実的な査定と、債務返済の負担増大への懸念を映し出していた」(8)。当初計画案の慎重な修正を経て、農業部門の重要性を強調し、小麦と米(基本食糧)のさらなる増産と最終的な食糧自給を目標とした新第四次五か年計画は、1969年から開始された。
この第四次五か年計画が始まるちょうど1年前に、インドの国内食糧生産は回復して年間9500万トンの水準を達成し、1971-72年には1億トンの大台を突破した。この大幅な国内食糧生産の増加により、穀物の輸入量、特にPL480を通じた食糧輸入は減少傾向にあった。もちろん食糧輸入が完全になくなったわけではないが、1960年代末からインドは穀物生産の自給に向かって着実な一歩を歩み始めた。
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L.B.シャーストリーはいつ急死しましたか。
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L.B.シャーストリーは1966年1月に急死しました。
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歴史
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1960年代末から1970年代初めに、インドの経済開発の優先順位は、食糧不足による飢饉の脅威に直面した1965-67年の食糧危機の直後に、重化学工業化から農業開発に移行した。第三次五か年計画(1961-65年)の後半段階で、重化学工業化(ビッグ・プッシュ型工業化戦略)の遅れに悩む中でインド政府は、資本財生産に力を入れた。同時期にインドは、モンスーン時期の天候不順(少雨)による二年連続の旱魃と主要穀物の不作に直面した。こうした深刻な経済状況の下で、インド政府は「計画中断」(Plan Holidays)宣言に追い込まれ、立案中の第四次五か年計画の内容と経済戦略自体の再考を余儀なくされた。1966年―1969年度初めまでの三年間、一年限りの年次計画が作成され遂行された。1966年1月には首相L.B.シャーストリーが急死したため、インディラー・ガーンディーが急遽後継首相となった。彼女は1966年6月に、前政権時代にアメリカの圧力を受けて立案されていた政策をそのまま継承する形で、ルピー通貨の大幅切下げと一連の経済自由化措置(製造業ライセンス品目の規制緩和、輸出奨励金の削減、輸入関税の引下げ)を実施した(6)。
1969年4月21日に、待望の第四次五か年計画がインド立法府に提出された。これは、1967年9月に任務を引き継いだ新たな計画委員会(D.R.ガードギル副委員長)が作成した計画案であった。その新委員会は、15年間におよぶ計画的な経済開発を終えた後のインド経済に必要なものを徹底的に再検討するために、三年間の「計画中断」を最大限に活用した。第四次五か年計画の当初案は大きく変更されたが、その重要な変更点は以下の二点にあった:(1)1966年―71年の当初の計画案と比較した場合、公共部門からの経費支出と外国からの援助総額が比較的穏当な規模であること。後者の対外被援助予定額の修正は、公共部門の開発経費の資金が、外国からの援助と赤字財政への過度の依存から、国内資金重視に移行することを意味した;(2)とりわけ経済開発の過程で、農業・小規模工業・運輸業での民間部門投資の増大に期待した。この新計画は、当時インドが直面していた経済問題とその解決を図るうえで、以前の計画よりもはるかに現実主義的であった。
第四次五か年計画の資金調達に関して、「開発資金全体に占める援助金額の割合が(第三次計画の28パーセント、当初の第四次計画の29パーセント、3年間の年次計画期間中の約40パーセントから)17.5パーセントに低下したことは(7)、自立を達成するという国家の決意を反映していた。農業生産の伸びによって1971年以降は段階的な削減が予想される、贈与の性格が強い食糧援助を除くと、援助実額の減少は、外国援助の利用可能額のより現実的な査定と、債務返済の負担増大への懸念を映し出していた」(8)。当初計画案の慎重な修正を経て、農業部門の重要性を強調し、小麦と米(基本食糧)のさらなる増産と最終的な食糧自給を目標とした新第四次五か年計画は、1969年から開始された。
この第四次五か年計画が始まるちょうど1年前に、インドの国内食糧生産は回復して年間9500万トンの水準を達成し、1971-72年には1億トンの大台を突破した。この大幅な国内食糧生産の増加により、穀物の輸入量、特にPL480を通じた食糧輸入は減少傾向にあった。もちろん食糧輸入が完全になくなったわけではないが、1960年代末からインドは穀物生産の自給に向かって着実な一歩を歩み始めた。
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新第四次五か年計画はいつから開始されましたか。
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新第四次五か年計画は1969年から開始されました。
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