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歴史
【正中の変・元弘の変とは】わかりやすく解説!!原因や経過・結果・語呂合わせなど 「正中の変・元弘の変」と聞いてハッとする人はかなりの歴史好きかと思います。中学レベルでは教科書にも載らない事件ではありますが、実は一つの大きな時代を終焉へと進めるきっかけになった重要な事件といえるのです。今回は、そんな『正中(しょうちゅう)の変・元弘(げんこう)の変』についてわかりやすく解説していきます。 正中の変・元弘の変とは? 鎌倉末期、後醍醐天皇とその腹心などが倒幕を計画し、それが発覚した結果、加担した者が処罰されることになった事件のことです。この2つの事件【正中の変】と【元弘の変】の間は7年開いていますが、ともに後醍醐天皇が中心となった事件であり、1回目の失敗から2回目の事件に繋がっていきますので、大体ひとまとまりの出来事として見ることが多いです。 正中の変の始まりから終わりまで 1時代背景 鎌倉幕府の支配体制を支えていた御家人たちですが、長年の分割相続の結果、生活は苦しくなっていました。そのような中、13世紀後半に元寇が起こります。命がけでさらに借金を重ねて戦いに赴いた御家人に対して、幕府は恩賞を十分に渡すことができませんでした。元寇に辛勝したといっても、領土を得るなど出来なかったのでやむを得なかったのです。またこの窮地を救おうと発布した「永仁の徳政令」もあまり効果はなく、さらに元寇以後のさらなるモンゴルからの襲来に備えるべく北条一族への権力集中を図った為、幕府への反感が強まっていくばかりでした。重ねて、畿内を中心とした各地で悪党と呼ばれる荘園領主や幕府に従わず年貢を奪うような武士も現れ、民衆を困らせていました。これも幕府は抑えることができず、治安は悪化、幕府への信頼がどんどん失われていったのです。
誰に対して、幕府は恩賞を十分に渡すことができませんでしたか。
命がけでさらに借金を重ねて戦いに赴いた御家人に対して、幕府は恩賞を十分に渡すことができませんでした。
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歴史
2. 幕府政治の荒廃 そのような情勢の中にもかかわらず、鎌倉末期の14代執権北条高時は、政治を側近である長崎高資(ながさきたかすけ)にまかせ、自身は田楽などの道楽にふけっていました。長崎達が権力を行使して好き勝手に政治を行った為、政治は乱れ荒廃は深刻化していきます。この長崎達の横暴ぶりは他の北条一族でも抑えることが出来なかったそうですが、今でいうと社長の秘書が権力を握り、おそらく社長一族が口出しできないといった感じでしょう。 3. 正中の変が起こった原因(きっかけ) 荒廃していく幕府政治に対し、1318年に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は政治に非常に意欲的な天皇だったようです。かつて朝廷にあった「記録書」という役所を再興し、民衆の訴えに耳を傾け、飢饉の折には自らも倹約を実施、悪徳商人を取り締まったり、施しを行ったりしたそうです。かつての天皇親政の治世時代を目指していた後醍醐天皇でしたが、当時は朝廷の皇位相続へも幕府の干渉がありました。皇位は大覚寺統と持明院統の両統迭立(りょうとうてつりつ)が原則でしたので、天皇は自らの考えの政治を後継者へ継続していくことが困難であり、実権は幕府が握っていたようなものだったのです。誤った政治を正し、理想の政治を実現するためにも、後醍醐天皇が倒幕を考えるようになっていくのは必然だったのかもしれません。
大覚寺統の後醍醐天皇は何年に即位しましたか。
大覚寺統の後醍醐天皇は1318年に即位しました。
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歴史
【鎌倉文化の特徴】わかりやすく解説!!代表的な建築・文学・絵画などの特色について 鎌倉時代、鎌倉幕府はよく耳にしますし、語呂合わせで覚えたため歳を重ねても覚えているという人は少なからずいると思います。また鎌倉時代に活躍した人の名前も出てくるのではないでしょうか。ところが、鎌倉文化となるとどうでしょう。とくに建築や文学、絵画といったものになるとなかなか記憶として覚え難くなる分野かと思います。文学はもしかしたら触れる機会も多いかもしれませんが、建築や絵画はなかなか難しいものです。そこで、これだけは覚えておけば『鎌倉文化』を語られるようになる、そんな要点をまとめてみたいと思います。 鎌倉文化とは? 鎌倉文化とは、鎌倉時代の日本文化のことを指します。年代でいえば、鎌倉幕府がはじまった1300年末期から1500年前半の鎌倉幕府が終わるまでの期間になります。この鎌倉時代はこれまでの日本文化が大きく変わった時代でした。理由は、武家政権に移行したからです。武士が頭角を現すと同時に、今まで支配していた貴族の力が低下していきます。しかし、公家や僧侶たちは、力を増して政権を握る武士の恩恵にあやかりたいと彼らの下につきます。それはなにも都の武士の下とは限らず、力のある武士であれば地方の武士にも下る者もいました。貴族から武士へと政権が変わったことで、次第に文化もかわっていきます。従来の伝統を受け継ぎながらも新しい文化を取り入れ、また庶民感覚を理解し反映したものへと移り変わりました。
武士が頭角を現すと同時に、今まで支配していた誰の力が低下していきますか。
武士が頭角を現すと同時に、今まで支配していた貴族の力が低下していきます。
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歴史
【鎌倉幕府をひらいた理由】源頼朝がなぜ幕府を開く場所に鎌倉を選んだのか?徹底解説! 鎌倉幕府と言えば、少し前の教科書では1192年という年号のゴロ合わせから「いい国つくろう鎌倉幕府」という言葉が耳慣れている人も多いでしょう。現在の教科書では「成立」という意味で様々な考え方があり、「1192年に鎌倉幕府が成立した」とは教えていないようです。いずれにしても、鎌倉幕府の存在は知っていても、なぜ幕府を開く場所が京都ではなく「鎌倉」だったのかを知る人はあまりいないかもしれませんね。そこで今回は、『源頼朝が幕府を開く場所として鎌倉を選んだ理由』について詳しく解説していきます。 鎌倉幕府の成り立ち~関東の武士団(豪族)に支持された源頼朝~ 鎌倉幕府になる前、それまでの幕府(政権)は長く京都にありました。それが、源頼朝によって鎌倉に幕府が置かれることになったのです。源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由には関東の武士団の勢力が関係してきます。そもそも武士の成り立ちは、関東の農民たちが自分たちの土地や財産を守るために武装したということが始まりとされています。当時、関東では朝廷に任命された国司や目代が土地を奪ったり、過剰に税を徴収するなどして勢力を振るっていました。しかし、地域の住民や関東の武士団たちは苦しめられていました。当時の武士団は歴史上は豪族であり、その地域の実力者なのですが、国司に歯向かうような立場にはなかったのです。そこで、特に武士の中でも実力者である平家や源家と親戚関係を持つようになります。特に源頼朝は富士川の戦いによって平家に勝利し勢い付いていたので、京都に上洛して朝廷を治めようという動きを見せていました。しかし、関東の武士団の想いは朝廷のある京都に入ることではありませんでした。武士団の願いは「朝廷に干渉されたくない」という想いだったのです。源頼朝はこの想いを汲み、実行に移すことで武士団の信頼を益々得ることになったのです。
鎌倉幕府になる前、それまでの幕府は長くどこにありましたか。
鎌倉幕府になる前、それまでの幕府は長く京都にありました。
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歴史
「鎌倉」が源頼朝に選ばれた理由 では、江戸幕府滅亡まで約680年間も続いた武家政権の幕を開けた源頼朝が、「鎌倉」という地を幕府を開く場所として選んだ理由を具体的に見ていきましょう。 1.敵が攻めにくい地形 鎌倉は北・東・西の三方を山・丘に囲まれており、南には相模湾が広がっている地形です。このような地形は守りやすく攻めにくい地形であると言えます。源頼朝が鎌倉を根拠地とした当時は平氏との戦いが多い時期でしたので、平氏に攻め込まれた場合を想定して自身の本拠地の防御を整える必要性がありました。その点、鎌倉の地形は自然の要塞となっていたので源頼朝にとってとても都合が良かったのです。鎌倉の地は歴史の教科書では「天然の要害地」と表現されることがあります。また、この土地は、元々源頼朝の先祖の土地であったことから縁のある土地でした。地形から考えると源頼朝にとって好都合であった点は具体的には以下の通りになります。 高い場所から敵を見渡すことができる。 複雑な地形を利用して待ち伏せをして弓矢を放ったり、攻撃がしやすい。 険しい山や丘陵があり、敵の軍隊の体力を減らす事ができた。 敵方にとって体力の回復に使う食料の補充をするには困難な地であった。 敵にとって不利になるような道を作りやすい。 山が急なので斜面を馬が通りにくい。 鎌倉の中心を流れる滑川を利用することで、生活用水や農業用水、木材を運搬する物資輸送に便利であった。 2.東海道に近いことは交流にとって主要な場所 また、鎌倉という地は東海道に近く交通、商業、軍事などの面から重要な交流地点でもありました。当時、山を最小限だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作ったとされていますが、江戸時代には東海道は天下の街道として賑わいをみせました。このことは、現在は国道1号線が東海道に沿って開通している様子からも想像できるでしょう。 3.関東の武士の想いを汲んだ源頼朝 関東の武士の願いは「朝廷の干渉を受けたくない」という想い。その想いを汲んで、源頼朝は朝廷のある都「京都」ではなく、離れた土地、関東で幕府を開きました。武士の想いとは、具体的には以下のような内容だと考えられます。 自分の領地や新たに得た領地を認めてもらい、守り続けることができる。 朝廷の役人に過剰な徴税をされないこと。 貴族の護衛など無益な徴兵をされないこと。 働いた分の正当な見返りをもらうことができる。 頼朝は、この武士の望みを、次々と実行していきました。 4.京都から離れることが目的だった 源頼朝が鎌倉に幕府をひらいた理由として、京都から離れることが目的であったとする説もあります。その理由は主に以下の3つが考えられます。 京都には朝廷があるので源氏の敵が近くにいる可能性が高かった。 京都では寺院が政治に関わっていたため、源頼朝の政治にも口出ししかねなかった。 平氏がそうであったように、武士が貴族化して衰退してしまうことを恐れた。
鎌倉は東海道に近くどういう面で重要な交流地点でしたか。
鎌倉は東海道に近く交通、商業、軍事などの面から重要な交流地点でした。
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歴史
 4.5 典拠資料にある解読情報の整形  典拠資料には隷定・釈読の解読情報がそれぞれ記されているが,それが全篇にわたり正確に峻別されているわけではない.特定の釈読が定説化している古文字の場合などは隷定情報が省略されることも多く,その場合は釈読情報があたかも隷定情報のように記される.これは,出土資料研究者であれば隷定情報が省略されているということは概ね容易に判断が付くだろうという想定があってのことであろう.  古文字データを作成するに当たっては,典拠資料の解読情報と図版資料とを逐次照会させ,典拠資料で隷定情報が省略されていると判断出来た場合はその隷定情報を新たに付け加えた.これは典拠資料には存在しない情報ではあるが,データ全体の一貫性を担保するために以上のような整形を加えている.なお判断基準は,「その字の隷定・釈読の関係が定説化しているかどうか」である.本データ作成時において隷定字を示さず釈読字を提示していると想定された文字は,「又」と隷定される字(釈読字「有」)および「才」と隷定される字(釈読字「在」)の二字のみであり,この二字の隷定と釈読の関係は楚簡研究の中ではほぼ定説化しているため,整形対象とした.
隷定字を示さず釈読字を提示していると想定された文字は何ですか。
隷定字を示さず釈読字を提示していると想定された文字は、「又」と隷定される字(釈読字「有」)および「才」と隷定される字(釈読字「在」)の2字です。
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歴史
鎌倉時代に起こった承久の乱。鎌倉幕府と朝廷との戦いで、この戦いの結果がその後の政治に大きな影響を与えることになった重要なものです。今回はそんな『承久の乱(じょうきゅうのらん)』がなぜ起こったか、理由や経過・その後の影響など簡単にわかりやすく解説していきます。 承久の乱とは 承久の乱とは、1221年(承久3年)に後鳥羽上皇を中心とした朝廷と北条義時を中心とした幕府軍が戦った乱のことです。後鳥羽上皇が朝廷の権力を取り戻すことを目的として戦いを始めましたが、幕府軍に敗れ島流しに遭い、幕府の力がさらに強まることになりました。 承久の乱が起こるまでの流れ 1. 鎌倉幕府の始まりと朝廷との対立 鎌倉時代が始まる前、平安時代の終わりごろは天皇や天皇の位を譲った上皇が中心となり朝廷が日本を治めていました。しかし徐々に武士が力をつけ始め、特に平清盛が率いる平氏は朝廷以上の権力を持つことになります。さらに源頼朝はこの平清盛を倒し1185年に鎌倉幕府を作りました。鎌倉幕府は関東に作られましたが、朝廷は京都にあったため幕府の力は東日本、朝廷の力は西日本に広がりその結果、幕府と朝廷という2つの勢力が日本を支配するようになりました。 2. 北条氏の台頭 鎌倉幕府を作り将軍となった源頼朝ですが、その少し後に落馬による事故で亡くなってしまいます。そこで力をつけたのが北条氏です。北条氏というのは頼朝の妻、北条政子の実家です。北条政子は頼朝が力をつける前から支え続け、「尼将軍」とも呼ばれる強い女性です。北条氏自体も頼朝に協力し、鎌倉幕府ができた後は有力な武士となっていました。頼朝が亡くなった後、その息子である源頼家が後を継いで将軍となりましたが独裁的な政治を行う頼家は北条政子の父である北条時政によって将軍の地位を追われ、最後には暗殺されてしまいます。頼家は実の祖父に暗殺されたことになります。そしてまだ幼い弟の源実朝が3代目の将軍となると北条時政は執権という立場につき、政治の実権を握ることになりました。
源頼朝は何年に鎌倉幕府を作りましたか。
源頼朝は1185年に鎌倉幕府を作りました。
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歴史
「鎌倉」が源頼朝に選ばれた理由 では、江戸幕府滅亡まで約680年間も続いた武家政権の幕を開けた源頼朝が、「鎌倉」という地を幕府を開く場所として選んだ理由を具体的に見ていきましょう。 1.敵が攻めにくい地形 鎌倉は北・東・西の三方を山・丘に囲まれており、南には相模湾が広がっている地形です。このような地形は守りやすく攻めにくい地形であると言えます。源頼朝が鎌倉を根拠地とした当時は平氏との戦いが多い時期でしたので、平氏に攻め込まれた場合を想定して自身の本拠地の防御を整える必要性がありました。その点、鎌倉の地形は自然の要塞となっていたので源頼朝にとってとても都合が良かったのです。鎌倉の地は歴史の教科書では「天然の要害地」と表現されることがあります。また、この土地は、元々源頼朝の先祖の土地であったことから縁のある土地でした。地形から考えると源頼朝にとって好都合であった点は具体的には以下の通りになります。 高い場所から敵を見渡すことができる。 複雑な地形を利用して待ち伏せをして弓矢を放ったり、攻撃がしやすい。 険しい山や丘陵があり、敵の軍隊の体力を減らす事ができた。 敵方にとって体力の回復に使う食料の補充をするには困難な地であった。 敵にとって不利になるような道を作りやすい。 山が急なので斜面を馬が通りにくい。 鎌倉の中心を流れる滑川を利用することで、生活用水や農業用水、木材を運搬する物資輸送に便利であった。 2.東海道に近いことは交流にとって主要な場所 また、鎌倉という地は東海道に近く交通、商業、軍事などの面から重要な交流地点でもありました。当時、山を最小限だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作ったとされていますが、江戸時代には東海道は天下の街道として賑わいをみせました。このことは、現在は国道1号線が東海道に沿って開通している様子からも想像できるでしょう。 3.関東の武士の想いを汲んだ源頼朝 関東の武士の願いは「朝廷の干渉を受けたくない」という想い。その想いを汲んで、源頼朝は朝廷のある都「京都」ではなく、離れた土地、関東で幕府を開きました。武士の想いとは、具体的には以下のような内容だと考えられます。 自分の領地や新たに得た領地を認めてもらい、守り続けることができる。 朝廷の役人に過剰な徴税をされないこと。 貴族の護衛など無益な徴兵をされないこと。 働いた分の正当な見返りをもらうことができる。 頼朝は、この武士の望みを、次々と実行していきました。 4.京都から離れることが目的だった 源頼朝が鎌倉に幕府をひらいた理由として、京都から離れることが目的であったとする説もあります。その理由は主に以下の3つが考えられます。 京都には朝廷があるので源氏の敵が近くにいる可能性が高かった。 京都では寺院が政治に関わっていたため、源頼朝の政治にも口出ししかねなかった。 平氏がそうであったように、武士が貴族化して衰退してしまうことを恐れた。
京都では誰が政治に関わっていたため、源頼朝の政治にも口出ししかねませんでしたか。
京都では寺院が政治に関わっていたため、源頼朝の政治にも口出ししかねませんでした。
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歴史
鎌倉幕府と切り通し 最後に、鎌倉幕府が作った「切り通し」について説明します。鎌倉幕府は、鎌倉を取り巻く山々に切り通しを作ることで鎌倉につながる街道と鎌倉をつなぎました。本来、切り通しは道幅が広いものもありますが鎌倉の切り通しは、一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。切り通しについて理解を深めていきましょう。 1切り通しとは 鎌倉幕府は軍事道路や、敵の侵入を防ぐための切り通しと呼ばれる道を作りました。本来、切り通しは道幅が広いものもありますが、鎌倉の切り通しは一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。 2鎌倉の七つの切り通し(鎌倉七切通)の名前 仮粧坂切通「けわいざかきりどおし」 極楽寺坂切通「ごくらくじざかきりどおし」 大仏切通「だいぶつきりどおし」 亀ヶ谷坂切通「かめがやつざかきりどおし」 巨福呂坂切通「こぶくろざかきりどおし」 朝夷奈切通「あさひなきりどおし」 名越切通「なごえきりどおし」 3切り通しの特徴と役割 切り通しの特徴は、「両側が切り立った崖であること」「狭いこと(場所によっては人一人分の幅しかないものがある)」があります。また、役割としては・・・ 敵が大軍で攻めてきても道幅が狭く、両側が崖であることから、正面の一人しか攻撃できない。 鎌倉側の防御としては道幅の狭さを利用して木戸や柵で容易に道を塞ぐことができる。 鎌倉側の攻撃としては切り通しの上から、落石、矢で攻撃がしやすい。 があります。
鎌倉幕府は、鎌倉を取り巻く山々に切り通しを作ることで何と鎌倉をつなぎましたか。
鎌倉幕府は、鎌倉を取り巻く山々に切り通しを作ることで鎌倉につながる街道と鎌倉をつなぎました。
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歴史
鎌倉幕府と切り通し 最後に、鎌倉幕府が作った「切り通し」について説明します。鎌倉幕府は、鎌倉を取り巻く山々に切り通しを作ることで鎌倉につながる街道と鎌倉をつなぎました。本来、切り通しは道幅が広いものもありますが鎌倉の切り通しは、一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。切り通しについて理解を深めていきましょう。 1切り通しとは 鎌倉幕府は軍事道路や、敵の侵入を防ぐための切り通しと呼ばれる道を作りました。本来、切り通しは道幅が広いものもありますが、鎌倉の切り通しは一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。 2鎌倉の七つの切り通し(鎌倉七切通)の名前 仮粧坂切通「けわいざかきりどおし」 極楽寺坂切通「ごくらくじざかきりどおし」 大仏切通「だいぶつきりどおし」 亀ヶ谷坂切通「かめがやつざかきりどおし」 巨福呂坂切通「こぶくろざかきりどおし」 朝夷奈切通「あさひなきりどおし」 名越切通「なごえきりどおし」 3切り通しの特徴と役割 切り通しの特徴は、「両側が切り立った崖であること」「狭いこと(場所によっては人一人分の幅しかないものがある)」があります。また、役割としては・・・ 敵が大軍で攻めてきても道幅が狭く、両側が崖であることから、正面の一人しか攻撃できない。 鎌倉側の防御としては道幅の狭さを利用して木戸や柵で容易に道を塞ぐことができる。 鎌倉側の攻撃としては切り通しの上から、落石、矢で攻撃がしやすい。 があります。
鎌倉の切り通しは、どのように作られていましたか。
鎌倉の切り通しは、一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られていました。
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歴史
鎌倉時代に起こった承久の乱。鎌倉幕府と朝廷との戦いで、この戦いの結果がその後の政治に大きな影響を与えることになった重要なものです。今回はそんな『承久の乱(じょうきゅうのらん)』がなぜ起こったか、理由や経過・その後の影響など簡単にわかりやすく解説していきます。 承久の乱とは 承久の乱とは、1221年(承久3年)に後鳥羽上皇を中心とした朝廷と北条義時を中心とした幕府軍が戦った乱のことです。後鳥羽上皇が朝廷の権力を取り戻すことを目的として戦いを始めましたが、幕府軍に敗れ島流しに遭い、幕府の力がさらに強まることになりました。 承久の乱が起こるまでの流れ 1. 鎌倉幕府の始まりと朝廷との対立 鎌倉時代が始まる前、平安時代の終わりごろは天皇や天皇の位を譲った上皇が中心となり朝廷が日本を治めていました。しかし徐々に武士が力をつけ始め、特に平清盛が率いる平氏は朝廷以上の権力を持つことになります。さらに源頼朝はこの平清盛を倒し1185年に鎌倉幕府を作りました。鎌倉幕府は関東に作られましたが、朝廷は京都にあったため幕府の力は東日本、朝廷の力は西日本に広がりその結果、幕府と朝廷という2つの勢力が日本を支配するようになりました。 2. 北条氏の台頭 鎌倉幕府を作り将軍となった源頼朝ですが、その少し後に落馬による事故で亡くなってしまいます。そこで力をつけたのが北条氏です。北条氏というのは頼朝の妻、北条政子の実家です。北条政子は頼朝が力をつける前から支え続け、「尼将軍」とも呼ばれる強い女性です。北条氏自体も頼朝に協力し、鎌倉幕府ができた後は有力な武士となっていました。頼朝が亡くなった後、その息子である源頼家が後を継いで将軍となりましたが独裁的な政治を行う頼家は北条政子の父である北条時政によって将軍の地位を追われ、最後には暗殺されてしまいます。頼家は実の祖父に暗殺されたことになります。そしてまだ幼い弟の源実朝が3代目の将軍となると北条時政は執権という立場につき、政治の実権を握ることになりました。
承久の乱とは、1221年に誰を中心とした朝廷と北条義時を中心とした幕府軍が戦った乱のことですか。
承久の乱とは、1221年に後鳥羽上皇を中心とした朝廷と北条義時を中心とした幕府軍が戦った乱のことです。
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歴史
弘安の役!再び起こる侵略 元軍が撤退してなんとか平和が訪れたかのように見えた矢先。再び元から使者がやっています。もちろん内容は元への従属。北条時宗は文永の役でせっかく頑張ってもらったのにここで従属しては武士の棟梁の威厳がなくなると感じ、使者を斬り殺してしまいます。これにまたまたブチ切れたフビライは1279年に南宋を征服すると再び日本への侵略を計画し始めます。そして南宋を滅ぼしてから3年後の1281年に元の第一軍1000隻が出航します。兵力は兵数4万、文永の役と比べると一万人増えています。さらにフビライは日本の侵略を確実にするために南宋から10万以上の超大軍を寧波と呼ばれる場所から出撃させます。ちなみに朝鮮半島からの部隊を東路軍、寧波からの部隊を江南軍といいます。東路軍は文永の役と同じように文永の役と同じように対馬・壱岐から博多というルートをとり、江南軍は壱岐で合流するという流れでした。しかし、日本側も2度目ということもありちゃんと対策を考えていました。その対策の代表的な例が防塁です。防塁は総長20キロメートル、2メートルの高さを誇っており、元軍の攻撃を防ぐことができました。元軍は前回とうって変わって苦戦を強いられることになり、さらに日本軍の夜襲などで甚大な被害を出します。さらにこの時7月。とどめを刺すかのように日本に神風が吹き荒れます。元軍の船は突貫工事で作った船だったためこの神風に耐えることができず次々と沈没。2万から3万の捕虜を出し撤退しました。弘安の役は見事に日本が勝利した戦いであったのです。
防塁はどれぐらいの大きさでしたか。
防塁は総長20キロメートル、2メートルの高さを誇っていました。
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歴史
【異国警固番役と鎮西探題の違い】わかりやすく解説!!それぞれの意味も詳しく! 鎌倉時代中期から後期にかけて登場した『異国警固番役(いこくけいごばんやく)』と『鎮西探題(ちんぜいたんだい)』。今回はそれぞれの意味や違いを、詳しく解説していきます。 異国警固番役と鎮西探題の違い 異国警固番役と鎮西探題。同時期に登場したので分かりづらいですが、その違いをしっかり理解しておきましょう。 1.役割 異国警固番役……他国(元軍)からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備する。 鎮西探題……九州の御家人に向けて、行政・軍事・裁判を仕切る。 2.創設された時期 異国警固番役……1271年(文永8)。ただし、元寇・文永の役後に強化された。 鎮西探題……1296年(永仁4)。元寇・弘安の役の後。 3.担当する人 異国警固番役……九州の御家人。(非御家人も課せられていた時期があった) 鎮西探題……幕府から派遣された北条氏の一族。 ここからは異国警固番役と鎮西探題。それぞれについて詳しく解説していきます。 異国警固番役について詳しく 鎌倉幕府が他国からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備させた軍役のことを「異国警固番役」といいます。この警備に当たったのは九州の御家人です。鎌倉幕府は九州の御家人に対して、異国警固番役を課す代わりに、御家人が務めていた鎌倉大番役(幕府の警備をする仕事)や京都大番役(朝廷の警備をする仕事)を免除しました。異国警固番役の指揮をとったのは九州の御家人、少弐氏や大友氏でした。幕府は文永の役が起きる3年前の1271年(文永8)にはすでに九州の御家人に異国警固番役を命じていました。元寇・文永の役が起きてから創設されたのではないので、注意しましょう。 異国警固番役ができた流れ 九州の御家人に課せられていた異国警固番役ですが、元寇がきっかけでより強化されることになりました。その詳しい流れを見ていきましょう。 1.元寇・文永の役 当時、中国からヨーロッパまでを支配していたモンゴル帝国が2度にわたって日本に攻めてきた戦いを「元寇」もしくは「蒙古襲来」といいます。1度目の侵攻は1274年(文永11)11月11日から26日にかけてで、これを「文永の役」といいます。文永の役では、元軍とモンゴル帝国の支配下にあった高麗(朝鮮)軍は、北九州の博多湾から日本に上陸しました。その後、九州の御家人が中心となった日本軍と交戦。日本軍の働きにより、元軍・高麗軍は予想以上に苦戦し、撤退していきました。 2.文永の役の後 元軍が去ったあと、鎌倉幕府は「元軍はまた日本を襲ってくるだろう」と考え、対策を考えます。そこで鎌倉幕府は、元軍が上陸してきた博多湾に石を積み立てて大きな防塁を作ることを決めました。こうして博多湾の沿岸に作られたのが「元寇防塁(石築地)」です。この元寇防塁は、現在も博多湾沿岸の地域に残されています。 3.弘安の役の後 1281年(弘安4年)6月から8月にかけて、2度目の元寇にあたる「弘安の役」が起きます。元軍・高麗軍・旧南宋(中国の南側にあった王朝)軍が日本に攻めてきましたが、文永の役の後に築いた元寇防塁や戦いに参加した御家人の活躍によって、日本は勝利します。弘安の役の後も、異国警固番役は引き続き御家人たちに課せられていました。しかし、弘安の役の後は警備の仕事に就くのを九州の御家人だけに限らず、各地から武士が集められ、その中には鎌倉幕府と主従関係にない非御家人も含まれていました。1333年(元弘3)に鎌倉幕府が滅亡するとともに、異国警固番役自体も滅亡しました。
幕府は何の役が起きる3年前の1271年(文永8)にはすでに九州の御家人に異国警固番役を命じていましたか。
幕府は文永の役が起きる3年前の1271年(文永8)にはすでに九州の御家人に異国警固番役を命じていました。
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歴史
【異国警固番役と鎮西探題の違い】わかりやすく解説!!それぞれの意味も詳しく! 鎌倉時代中期から後期にかけて登場した『異国警固番役(いこくけいごばんやく)』と『鎮西探題(ちんぜいたんだい)』。今回はそれぞれの意味や違いを、詳しく解説していきます。 異国警固番役と鎮西探題の違い 異国警固番役と鎮西探題。同時期に登場したので分かりづらいですが、その違いをしっかり理解しておきましょう。 1.役割 異国警固番役……他国(元軍)からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備する。 鎮西探題……九州の御家人に向けて、行政・軍事・裁判を仕切る。 2.創設された時期 異国警固番役……1271年(文永8)。ただし、元寇・文永の役後に強化された。 鎮西探題……1296年(永仁4)。元寇・弘安の役の後。 3.担当する人 異国警固番役……九州の御家人。(非御家人も課せられていた時期があった) 鎮西探題……幕府から派遣された北条氏の一族。 ここからは異国警固番役と鎮西探題。それぞれについて詳しく解説していきます。 異国警固番役について詳しく 鎌倉幕府が他国からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備させた軍役のことを「異国警固番役」といいます。この警備に当たったのは九州の御家人です。鎌倉幕府は九州の御家人に対して、異国警固番役を課す代わりに、御家人が務めていた鎌倉大番役(幕府の警備をする仕事)や京都大番役(朝廷の警備をする仕事)を免除しました。異国警固番役の指揮をとったのは九州の御家人、少弐氏や大友氏でした。幕府は文永の役が起きる3年前の1271年(文永8)にはすでに九州の御家人に異国警固番役を命じていました。元寇・文永の役が起きてから創設されたのではないので、注意しましょう。 異国警固番役ができた流れ 九州の御家人に課せられていた異国警固番役ですが、元寇がきっかけでより強化されることになりました。その詳しい流れを見ていきましょう。 1.元寇・文永の役 当時、中国からヨーロッパまでを支配していたモンゴル帝国が2度にわたって日本に攻めてきた戦いを「元寇」もしくは「蒙古襲来」といいます。1度目の侵攻は1274年(文永11)11月11日から26日にかけてで、これを「文永の役」といいます。文永の役では、元軍とモンゴル帝国の支配下にあった高麗(朝鮮)軍は、北九州の博多湾から日本に上陸しました。その後、九州の御家人が中心となった日本軍と交戦。日本軍の働きにより、元軍・高麗軍は予想以上に苦戦し、撤退していきました。 2.文永の役の後 元軍が去ったあと、鎌倉幕府は「元軍はまた日本を襲ってくるだろう」と考え、対策を考えます。そこで鎌倉幕府は、元軍が上陸してきた博多湾に石を積み立てて大きな防塁を作ることを決めました。こうして博多湾の沿岸に作られたのが「元寇防塁(石築地)」です。この元寇防塁は、現在も博多湾沿岸の地域に残されています。 3.弘安の役の後 1281年(弘安4年)6月から8月にかけて、2度目の元寇にあたる「弘安の役」が起きます。元軍・高麗軍・旧南宋(中国の南側にあった王朝)軍が日本に攻めてきましたが、文永の役の後に築いた元寇防塁や戦いに参加した御家人の活躍によって、日本は勝利します。弘安の役の後も、異国警固番役は引き続き御家人たちに課せられていました。しかし、弘安の役の後は警備の仕事に就くのを九州の御家人だけに限らず、各地から武士が集められ、その中には鎌倉幕府と主従関係にない非御家人も含まれていました。1333年(元弘3)に鎌倉幕府が滅亡するとともに、異国警固番役自体も滅亡しました。
鎌倉幕府は九州の御家人に対して、異国警固番役を課す代わりに、何を免除しましたか。
鎌倉幕府は九州の御家人に対して、異国警固番役を課す代わりに、御家人が務めていた鎌倉大番役や京都大番役を免除しました。
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【異国警固番役と鎮西探題の違い】わかりやすく解説!!それぞれの意味も詳しく! 鎌倉時代中期から後期にかけて登場した『異国警固番役(いこくけいごばんやく)』と『鎮西探題(ちんぜいたんだい)』。今回はそれぞれの意味や違いを、詳しく解説していきます。 異国警固番役と鎮西探題の違い 異国警固番役と鎮西探題。同時期に登場したので分かりづらいですが、その違いをしっかり理解しておきましょう。 1.役割 異国警固番役……他国(元軍)からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備する。 鎮西探題……九州の御家人に向けて、行政・軍事・裁判を仕切る。 2.創設された時期 異国警固番役……1271年(文永8)。ただし、元寇・文永の役後に強化された。 鎮西探題……1296年(永仁4)。元寇・弘安の役の後。 3.担当する人 異国警固番役……九州の御家人。(非御家人も課せられていた時期があった) 鎮西探題……幕府から派遣された北条氏の一族。 ここからは異国警固番役と鎮西探題。それぞれについて詳しく解説していきます。 異国警固番役について詳しく 鎌倉幕府が他国からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備させた軍役のことを「異国警固番役」といいます。この警備に当たったのは九州の御家人です。鎌倉幕府は九州の御家人に対して、異国警固番役を課す代わりに、御家人が務めていた鎌倉大番役(幕府の警備をする仕事)や京都大番役(朝廷の警備をする仕事)を免除しました。異国警固番役の指揮をとったのは九州の御家人、少弐氏や大友氏でした。幕府は文永の役が起きる3年前の1271年(文永8)にはすでに九州の御家人に異国警固番役を命じていました。元寇・文永の役が起きてから創設されたのではないので、注意しましょう。 異国警固番役ができた流れ 九州の御家人に課せられていた異国警固番役ですが、元寇がきっかけでより強化されることになりました。その詳しい流れを見ていきましょう。 1.元寇・文永の役 当時、中国からヨーロッパまでを支配していたモンゴル帝国が2度にわたって日本に攻めてきた戦いを「元寇」もしくは「蒙古襲来」といいます。1度目の侵攻は1274年(文永11)11月11日から26日にかけてで、これを「文永の役」といいます。文永の役では、元軍とモンゴル帝国の支配下にあった高麗(朝鮮)軍は、北九州の博多湾から日本に上陸しました。その後、九州の御家人が中心となった日本軍と交戦。日本軍の働きにより、元軍・高麗軍は予想以上に苦戦し、撤退していきました。 2.文永の役の後 元軍が去ったあと、鎌倉幕府は「元軍はまた日本を襲ってくるだろう」と考え、対策を考えます。そこで鎌倉幕府は、元軍が上陸してきた博多湾に石を積み立てて大きな防塁を作ることを決めました。こうして博多湾の沿岸に作られたのが「元寇防塁(石築地)」です。この元寇防塁は、現在も博多湾沿岸の地域に残されています。 3.弘安の役の後 1281年(弘安4年)6月から8月にかけて、2度目の元寇にあたる「弘安の役」が起きます。元軍・高麗軍・旧南宋(中国の南側にあった王朝)軍が日本に攻めてきましたが、文永の役の後に築いた元寇防塁や戦いに参加した御家人の活躍によって、日本は勝利します。弘安の役の後も、異国警固番役は引き続き御家人たちに課せられていました。しかし、弘安の役の後は警備の仕事に就くのを九州の御家人だけに限らず、各地から武士が集められ、その中には鎌倉幕府と主従関係にない非御家人も含まれていました。1333年(元弘3)に鎌倉幕府が滅亡するとともに、異国警固番役自体も滅亡しました。
鎌倉幕府が他国からの攻撃に備えるため、どこを警備させた軍役のことを「異国警固番役」といいますか。
鎌倉幕府が他国からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備させた軍役のことを「異国警固番役」といいます。
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2.後醍醐天皇と護良親王と足利尊氏 新政に対する武士の不満は、倒幕の功労者であり、武家の名門である足利尊氏へと集約されていきます。後醍醐天皇の皇子である大塔宮(護良親王)は特にこれを警戒し、鎌倉から奪った力を再び武士に渡さないよう自分を征夷大将軍として、軍事力も公家が掌握しておいた方がよいと考えたようです。ところが、後醍醐天皇は天皇である自分以外が権力や軍事力を持つことを否定したために、この護良親王とも対立をしてしまいます。親子といえども中々難しいものですね。さらに護良親王の警戒に気づき身の危険を感じていた尊氏は、先手をうってきたのです。尊氏は後醍醐天皇の寵姫(ちょうき)であった阿野廉子(あのれんし)と手を組み、『護良親王がクーデターを企んでいる』と讒言を行わせます。そしてこれをすっかり信じてしまった天皇もどうかとは思いますが、その頃には親子喧嘩も泥沼化していたのか、護良親王は捕えられ、鎌倉の土牢に幽閉されてしまうのです。 中先代の乱の勃発 1.乱のきっかけ 新政の混乱の中、1335年6月、北条高時の弟である北条泰家(やすいえ)と、幕府と朝廷の調停役を務めていた一族の公家である西園寺公宗(さいおんじきんむね)が後醍醐天皇暗殺を企て、それが発覚してしまいます。公宗は誅殺されてしまいますが、泰家は逃れて各地の北条残党に挙兵を呼びかけるのです。 2.北条時行の支持 信濃国に潜伏していた北条高時の次男である時行ですが、当時は10歳前後なので、御内人の諏訪頼重を中心に彼を支持し、泰家の呼びかけに答え翌月挙兵をします。これに応じて北陸でも北条一族の名越時兼(なごえときかね)も挙兵します。ちなみに、高時の長男は鎌倉幕府滅亡時に叔父に託され逃げるのですが、その叔父に裏切られ捕えられた挙句、9歳くらいで殺害されてしまいました。得宗家の直系としては時行が唯一の生き残りだったのですね。 3.鎌倉の奪還 時行の軍勢は信濃国の守護を破り、女影原(おなかげはら;埼玉県日高市)、小手指ケ原(こてさしがはら:所沢市)府中(東京都府中市)で足利軍と戦い、井出沢(いでのさわ:東京都町田市)では足利直義軍を撃破して7月25日に鎌倉を奪還しました。幕府滅亡から約2年ぶりの鎌倉への帰郷でした。当初、時行の軍は京都に攻めてくると考えられていたため、鎌倉への連絡が遅れてしまい、直義の対応が色々後手になってしまったことが鎌倉陥落につながったと言われています。
新政に対する武士の不満は、誰へと集約されていきましたか。
新政に対する武士の不満は、倒幕の功労者であり、武家の名門である足利尊氏へと集約されていきました。
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2.後醍醐天皇と護良親王と足利尊氏 新政に対する武士の不満は、倒幕の功労者であり、武家の名門である足利尊氏へと集約されていきます。後醍醐天皇の皇子である大塔宮(護良親王)は特にこれを警戒し、鎌倉から奪った力を再び武士に渡さないよう自分を征夷大将軍として、軍事力も公家が掌握しておいた方がよいと考えたようです。ところが、後醍醐天皇は天皇である自分以外が権力や軍事力を持つことを否定したために、この護良親王とも対立をしてしまいます。親子といえども中々難しいものですね。さらに護良親王の警戒に気づき身の危険を感じていた尊氏は、先手をうってきたのです。尊氏は後醍醐天皇の寵姫(ちょうき)であった阿野廉子(あのれんし)と手を組み、『護良親王がクーデターを企んでいる』と讒言を行わせます。そしてこれをすっかり信じてしまった天皇もどうかとは思いますが、その頃には親子喧嘩も泥沼化していたのか、護良親王は捕えられ、鎌倉の土牢に幽閉されてしまうのです。 中先代の乱の勃発 1.乱のきっかけ 新政の混乱の中、1335年6月、北条高時の弟である北条泰家(やすいえ)と、幕府と朝廷の調停役を務めていた一族の公家である西園寺公宗(さいおんじきんむね)が後醍醐天皇暗殺を企て、それが発覚してしまいます。公宗は誅殺されてしまいますが、泰家は逃れて各地の北条残党に挙兵を呼びかけるのです。 2.北条時行の支持 信濃国に潜伏していた北条高時の次男である時行ですが、当時は10歳前後なので、御内人の諏訪頼重を中心に彼を支持し、泰家の呼びかけに答え翌月挙兵をします。これに応じて北陸でも北条一族の名越時兼(なごえときかね)も挙兵します。ちなみに、高時の長男は鎌倉幕府滅亡時に叔父に託され逃げるのですが、その叔父に裏切られ捕えられた挙句、9歳くらいで殺害されてしまいました。得宗家の直系としては時行が唯一の生き残りだったのですね。 3.鎌倉の奪還 時行の軍勢は信濃国の守護を破り、女影原(おなかげはら;埼玉県日高市)、小手指ケ原(こてさしがはら:所沢市)府中(東京都府中市)で足利軍と戦い、井出沢(いでのさわ:東京都町田市)では足利直義軍を撃破して7月25日に鎌倉を奪還しました。幕府滅亡から約2年ぶりの鎌倉への帰郷でした。当初、時行の軍は京都に攻めてくると考えられていたため、鎌倉への連絡が遅れてしまい、直義の対応が色々後手になってしまったことが鎌倉陥落につながったと言われています。
いつ、北条泰家と西園寺公宗は後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚しましたか。
1335年6月、北条泰家と西園寺公宗は後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚しました。
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歴史
【異国警固番役と鎮西探題の違い】わかりやすく解説!!それぞれの意味も詳しく! 鎌倉時代中期から後期にかけて登場した『異国警固番役(いこくけいごばんやく)』と『鎮西探題(ちんぜいたんだい)』。今回はそれぞれの意味や違いを、詳しく解説していきます。 異国警固番役と鎮西探題の違い 異国警固番役と鎮西探題。同時期に登場したので分かりづらいですが、その違いをしっかり理解しておきましょう。 1.役割 異国警固番役……他国(元軍)からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備する。 鎮西探題……九州の御家人に向けて、行政・軍事・裁判を仕切る。 2.創設された時期 異国警固番役……1271年(文永8)。ただし、元寇・文永の役後に強化された。 鎮西探題……1296年(永仁4)。元寇・弘安の役の後。 3.担当する人 異国警固番役……九州の御家人。(非御家人も課せられていた時期があった) 鎮西探題……幕府から派遣された北条氏の一族。 ここからは異国警固番役と鎮西探題。それぞれについて詳しく解説していきます。 異国警固番役について詳しく 鎌倉幕府が他国からの攻撃に備えるため、北九州の沿岸を警備させた軍役のことを「異国警固番役」といいます。この警備に当たったのは九州の御家人です。鎌倉幕府は九州の御家人に対して、異国警固番役を課す代わりに、御家人が務めていた鎌倉大番役(幕府の警備をする仕事)や京都大番役(朝廷の警備をする仕事)を免除しました。異国警固番役の指揮をとったのは九州の御家人、少弐氏や大友氏でした。幕府は文永の役が起きる3年前の1271年(文永8)にはすでに九州の御家人に異国警固番役を命じていました。元寇・文永の役が起きてから創設されたのではないので、注意しましょう。 異国警固番役ができた流れ 九州の御家人に課せられていた異国警固番役ですが、元寇がきっかけでより強化されることになりました。その詳しい流れを見ていきましょう。 1.元寇・文永の役 当時、中国からヨーロッパまでを支配していたモンゴル帝国が2度にわたって日本に攻めてきた戦いを「元寇」もしくは「蒙古襲来」といいます。1度目の侵攻は1274年(文永11)11月11日から26日にかけてで、これを「文永の役」といいます。文永の役では、元軍とモンゴル帝国の支配下にあった高麗(朝鮮)軍は、北九州の博多湾から日本に上陸しました。その後、九州の御家人が中心となった日本軍と交戦。日本軍の働きにより、元軍・高麗軍は予想以上に苦戦し、撤退していきました。 2.文永の役の後 元軍が去ったあと、鎌倉幕府は「元軍はまた日本を襲ってくるだろう」と考え、対策を考えます。そこで鎌倉幕府は、元軍が上陸してきた博多湾に石を積み立てて大きな防塁を作ることを決めました。こうして博多湾の沿岸に作られたのが「元寇防塁(石築地)」です。この元寇防塁は、現在も博多湾沿岸の地域に残されています。 3.弘安の役の後 1281年(弘安4年)6月から8月にかけて、2度目の元寇にあたる「弘安の役」が起きます。元軍・高麗軍・旧南宋(中国の南側にあった王朝)軍が日本に攻めてきましたが、文永の役の後に築いた元寇防塁や戦いに参加した御家人の活躍によって、日本は勝利します。弘安の役の後も、異国警固番役は引き続き御家人たちに課せられていました。しかし、弘安の役の後は警備の仕事に就くのを九州の御家人だけに限らず、各地から武士が集められ、その中には鎌倉幕府と主従関係にない非御家人も含まれていました。1333年(元弘3)に鎌倉幕府が滅亡するとともに、異国警固番役自体も滅亡しました。
いつ、2度目の元寇にあたる「弘安の役」が起きましたか。
1281年(弘安4年)6月から8月にかけて、2度目の元寇にあたる「弘安の役」が起きました。
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歴史
元軍が負けた原因 1馬が使えなかった 元軍が負けた原因はいろいろありますが、最大の原因は馬が使えなかったことにあると思います。元やモンゴル帝国なんかは馬を使って縦横無尽に駆け巡り敵の度肝を抜いて勝利するという戦法でしたが、この元寇の主戦は海。馬なんかは使えません。さらに文永の役は上陸したら使えたものの、弘安の役になれば防塁が築かれ、馬すら使えない状態になっていました。 2高麗や南宋の兵を使いすぎた 元軍のほとんどはモンゴル人で形成されていると思いきやなんと、元寇の時の元軍の兵士は高麗や南宋の民衆たちでした。南宋や高麗の人たちは元にひどい目にあわされている身。元のために戦ってくれるとは到底思えません。その通り、高麗の人たちが作った船は欠陥ばかりですぐ沈没。あっさり海戦で負けてしまいます。 元寇のその後 元寇の後、幕府は元軍が侵略に来ることを備えて御家人である武士をまとめ上げていきますが、元寇によってこれまで幕府と御家人の関係である御恩と奉公が崩壊しました。これまでの戦なら日本国内の争いであったため勝ったらそこの領地を御家人に分配して御恩をすることができます。しかし、この元寇は日本の防衛戦争でしたので、戦いに勝ったところで領地はありませんでした。そのため九州中心の御家人たちは元寇の時の戦費を払えなくなり、借金に苦しむようになりはじめます。幕府はそんな状態をなんとかするために永仁の徳政令を発布し借金をチャラにするよう命令しましたが、これの効果はイマイチ。さらに借金をチャラにされてしまい大損した商人が徳政令を警戒して御家人にお金を貸すことをやめるようになり、余計に御家人の生活は苦しくなってしまいました。そして、生活に苦しむようになってしまった御家人たちは悪党として幕府に歯向かい始め、最終的には鎌倉幕府滅亡へと繋がっていくのでした。
幕府は何を発布し借金をチャラにするよう命令しましたか。
幕府は永仁の徳政令を発布し借金をチャラにするよう命令しました。
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歴史
元軍が負けた原因 1馬が使えなかった 元軍が負けた原因はいろいろありますが、最大の原因は馬が使えなかったことにあると思います。元やモンゴル帝国なんかは馬を使って縦横無尽に駆け巡り敵の度肝を抜いて勝利するという戦法でしたが、この元寇の主戦は海。馬なんかは使えません。さらに文永の役は上陸したら使えたものの、弘安の役になれば防塁が築かれ、馬すら使えない状態になっていました。 2高麗や南宋の兵を使いすぎた 元軍のほとんどはモンゴル人で形成されていると思いきやなんと、元寇の時の元軍の兵士は高麗や南宋の民衆たちでした。南宋や高麗の人たちは元にひどい目にあわされている身。元のために戦ってくれるとは到底思えません。その通り、高麗の人たちが作った船は欠陥ばかりですぐ沈没。あっさり海戦で負けてしまいます。 元寇のその後 元寇の後、幕府は元軍が侵略に来ることを備えて御家人である武士をまとめ上げていきますが、元寇によってこれまで幕府と御家人の関係である御恩と奉公が崩壊しました。これまでの戦なら日本国内の争いであったため勝ったらそこの領地を御家人に分配して御恩をすることができます。しかし、この元寇は日本の防衛戦争でしたので、戦いに勝ったところで領地はありませんでした。そのため九州中心の御家人たちは元寇の時の戦費を払えなくなり、借金に苦しむようになりはじめます。幕府はそんな状態をなんとかするために永仁の徳政令を発布し借金をチャラにするよう命令しましたが、これの効果はイマイチ。さらに借金をチャラにされてしまい大損した商人が徳政令を警戒して御家人にお金を貸すことをやめるようになり、余計に御家人の生活は苦しくなってしまいました。そして、生活に苦しむようになってしまった御家人たちは悪党として幕府に歯向かい始め、最終的には鎌倉幕府滅亡へと繋がっていくのでした。
九州中心の御家人たちは何を払えなくなり、借金に苦しむようになりはじめましたか。
九州中心の御家人たちは元寇の時の戦費を払えなくなり、借金に苦しむようになりはじめました。
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歴史
元軍が負けた原因 1馬が使えなかった 元軍が負けた原因はいろいろありますが、最大の原因は馬が使えなかったことにあると思います。元やモンゴル帝国なんかは馬を使って縦横無尽に駆け巡り敵の度肝を抜いて勝利するという戦法でしたが、この元寇の主戦は海。馬なんかは使えません。さらに文永の役は上陸したら使えたものの、弘安の役になれば防塁が築かれ、馬すら使えない状態になっていました。 2高麗や南宋の兵を使いすぎた 元軍のほとんどはモンゴル人で形成されていると思いきやなんと、元寇の時の元軍の兵士は高麗や南宋の民衆たちでした。南宋や高麗の人たちは元にひどい目にあわされている身。元のために戦ってくれるとは到底思えません。その通り、高麗の人たちが作った船は欠陥ばかりですぐ沈没。あっさり海戦で負けてしまいます。 元寇のその後 元寇の後、幕府は元軍が侵略に来ることを備えて御家人である武士をまとめ上げていきますが、元寇によってこれまで幕府と御家人の関係である御恩と奉公が崩壊しました。これまでの戦なら日本国内の争いであったため勝ったらそこの領地を御家人に分配して御恩をすることができます。しかし、この元寇は日本の防衛戦争でしたので、戦いに勝ったところで領地はありませんでした。そのため九州中心の御家人たちは元寇の時の戦費を払えなくなり、借金に苦しむようになりはじめます。幕府はそんな状態をなんとかするために永仁の徳政令を発布し借金をチャラにするよう命令しましたが、これの効果はイマイチ。さらに借金をチャラにされてしまい大損した商人が徳政令を警戒して御家人にお金を貸すことをやめるようになり、余計に御家人の生活は苦しくなってしまいました。そして、生活に苦しむようになってしまった御家人たちは悪党として幕府に歯向かい始め、最終的には鎌倉幕府滅亡へと繋がっていくのでした。
元軍が負けた最大の原因は何ですか。
元軍が負けた最大の原因は馬が使えなかったことです。
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歴史
元軍が負けた原因 1馬が使えなかった 元軍が負けた原因はいろいろありますが、最大の原因は馬が使えなかったことにあると思います。元やモンゴル帝国なんかは馬を使って縦横無尽に駆け巡り敵の度肝を抜いて勝利するという戦法でしたが、この元寇の主戦は海。馬なんかは使えません。さらに文永の役は上陸したら使えたものの、弘安の役になれば防塁が築かれ、馬すら使えない状態になっていました。 2高麗や南宋の兵を使いすぎた 元軍のほとんどはモンゴル人で形成されていると思いきやなんと、元寇の時の元軍の兵士は高麗や南宋の民衆たちでした。南宋や高麗の人たちは元にひどい目にあわされている身。元のために戦ってくれるとは到底思えません。その通り、高麗の人たちが作った船は欠陥ばかりですぐ沈没。あっさり海戦で負けてしまいます。 元寇のその後 元寇の後、幕府は元軍が侵略に来ることを備えて御家人である武士をまとめ上げていきますが、元寇によってこれまで幕府と御家人の関係である御恩と奉公が崩壊しました。これまでの戦なら日本国内の争いであったため勝ったらそこの領地を御家人に分配して御恩をすることができます。しかし、この元寇は日本の防衛戦争でしたので、戦いに勝ったところで領地はありませんでした。そのため九州中心の御家人たちは元寇の時の戦費を払えなくなり、借金に苦しむようになりはじめます。幕府はそんな状態をなんとかするために永仁の徳政令を発布し借金をチャラにするよう命令しましたが、これの効果はイマイチ。さらに借金をチャラにされてしまい大損した商人が徳政令を警戒して御家人にお金を貸すことをやめるようになり、余計に御家人の生活は苦しくなってしまいました。そして、生活に苦しむようになってしまった御家人たちは悪党として幕府に歯向かい始め、最終的には鎌倉幕府滅亡へと繋がっていくのでした。
元寇の時の元軍の兵士は誰でしたか。
元寇の時の元軍の兵士は高麗や南宋の民衆たちでした。
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歴史
2.後醍醐天皇と護良親王と足利尊氏 新政に対する武士の不満は、倒幕の功労者であり、武家の名門である足利尊氏へと集約されていきます。後醍醐天皇の皇子である大塔宮(護良親王)は特にこれを警戒し、鎌倉から奪った力を再び武士に渡さないよう自分を征夷大将軍として、軍事力も公家が掌握しておいた方がよいと考えたようです。ところが、後醍醐天皇は天皇である自分以外が権力や軍事力を持つことを否定したために、この護良親王とも対立をしてしまいます。親子といえども中々難しいものですね。さらに護良親王の警戒に気づき身の危険を感じていた尊氏は、先手をうってきたのです。尊氏は後醍醐天皇の寵姫(ちょうき)であった阿野廉子(あのれんし)と手を組み、『護良親王がクーデターを企んでいる』と讒言を行わせます。そしてこれをすっかり信じてしまった天皇もどうかとは思いますが、その頃には親子喧嘩も泥沼化していたのか、護良親王は捕えられ、鎌倉の土牢に幽閉されてしまうのです。 中先代の乱の勃発 1.乱のきっかけ 新政の混乱の中、1335年6月、北条高時の弟である北条泰家(やすいえ)と、幕府と朝廷の調停役を務めていた一族の公家である西園寺公宗(さいおんじきんむね)が後醍醐天皇暗殺を企て、それが発覚してしまいます。公宗は誅殺されてしまいますが、泰家は逃れて各地の北条残党に挙兵を呼びかけるのです。 2.北条時行の支持 信濃国に潜伏していた北条高時の次男である時行ですが、当時は10歳前後なので、御内人の諏訪頼重を中心に彼を支持し、泰家の呼びかけに答え翌月挙兵をします。これに応じて北陸でも北条一族の名越時兼(なごえときかね)も挙兵します。ちなみに、高時の長男は鎌倉幕府滅亡時に叔父に託され逃げるのですが、その叔父に裏切られ捕えられた挙句、9歳くらいで殺害されてしまいました。得宗家の直系としては時行が唯一の生き残りだったのですね。 3.鎌倉の奪還 時行の軍勢は信濃国の守護を破り、女影原(おなかげはら;埼玉県日高市)、小手指ケ原(こてさしがはら:所沢市)府中(東京都府中市)で足利軍と戦い、井出沢(いでのさわ:東京都町田市)では足利直義軍を撃破して7月25日に鎌倉を奪還しました。幕府滅亡から約2年ぶりの鎌倉への帰郷でした。当初、時行の軍は京都に攻めてくると考えられていたため、鎌倉への連絡が遅れてしまい、直義の対応が色々後手になってしまったことが鎌倉陥落につながったと言われています。
大塔宮は自分を何としましたか。
大塔宮は自分を征夷大将軍としました。
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歴史
【中先代の乱とは】簡単にわかりやすく解説!!なぜ起こった?背景や経過・結果など 「中先代の乱」は鎌倉~室町にかけての時代に頻発していた武装蜂起の一つではありますが、その後の情勢を変えるきっかけを作った乱でもあります。わりとさらっと習った感のある鎌倉幕府滅亡~室町幕府誕生周辺の歴史。人間関係など少々ややこしいですが・・・今回はこの『中先代の乱(なかせんだいのらん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。 中先代の乱とは? 中先代の乱とは、鎌倉幕府末期の14代執権北条高時の遺児である北条時行(ときゆき)が御内人(みうちびと:北条家本家である得宗家に仕えた武士)である諏訪頼重(すわよりしげ)に支持されて鎌倉幕府再興のために挙兵した事件のことです。鎌倉期の北条氏の世を「先代(せんだい)」、後の室町期の足利氏の世を「当代(とうだい)」と呼ぶことから、その間に鎌倉を支配したということで「中先代の乱」と呼ばれています。ここからは乱がおこるまでの背景や乱の経過・その後の影響について詳しく解説していきます。 鎌倉幕府滅亡後の混乱 1.建武の新政 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は公家を中心とした新しい政治である【建武の新政】を始め、武士の政治を否定し、公家中心の政策をとっていくようになります。鎌倉には息子である成良親王(なりよししんのう)を長とし、尊氏の弟足利直義(ただよし)が執権としてこれを補佐するようにして鎌倉将軍府を設置します。しかしながら、この公家中心の政治は武家には支持されず、各地で北条残党などによる蜂起が頻発していました。
鎌倉には誰を長として、鎌倉将軍府を設置しましたか。
鎌倉には息子である成良親王を長として、鎌倉将軍府を設置しました。
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歴史
元軍が負けた原因 1馬が使えなかった 元軍が負けた原因はいろいろありますが、最大の原因は馬が使えなかったことにあると思います。元やモンゴル帝国なんかは馬を使って縦横無尽に駆け巡り敵の度肝を抜いて勝利するという戦法でしたが、この元寇の主戦は海。馬なんかは使えません。さらに文永の役は上陸したら使えたものの、弘安の役になれば防塁が築かれ、馬すら使えない状態になっていました。 2高麗や南宋の兵を使いすぎた 元軍のほとんどはモンゴル人で形成されていると思いきやなんと、元寇の時の元軍の兵士は高麗や南宋の民衆たちでした。南宋や高麗の人たちは元にひどい目にあわされている身。元のために戦ってくれるとは到底思えません。その通り、高麗の人たちが作った船は欠陥ばかりですぐ沈没。あっさり海戦で負けてしまいます。 元寇のその後 元寇の後、幕府は元軍が侵略に来ることを備えて御家人である武士をまとめ上げていきますが、元寇によってこれまで幕府と御家人の関係である御恩と奉公が崩壊しました。これまでの戦なら日本国内の争いであったため勝ったらそこの領地を御家人に分配して御恩をすることができます。しかし、この元寇は日本の防衛戦争でしたので、戦いに勝ったところで領地はありませんでした。そのため九州中心の御家人たちは元寇の時の戦費を払えなくなり、借金に苦しむようになりはじめます。幕府はそんな状態をなんとかするために永仁の徳政令を発布し借金をチャラにするよう命令しましたが、これの効果はイマイチ。さらに借金をチャラにされてしまい大損した商人が徳政令を警戒して御家人にお金を貸すことをやめるようになり、余計に御家人の生活は苦しくなってしまいました。そして、生活に苦しむようになってしまった御家人たちは悪党として幕府に歯向かい始め、最終的には鎌倉幕府滅亡へと繋がっていくのでした。
何が欠陥ばかりでしたか。
高麗の人たちが作った船が欠陥ばかりでした。
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2.後醍醐天皇と護良親王と足利尊氏 新政に対する武士の不満は、倒幕の功労者であり、武家の名門である足利尊氏へと集約されていきます。後醍醐天皇の皇子である大塔宮(護良親王)は特にこれを警戒し、鎌倉から奪った力を再び武士に渡さないよう自分を征夷大将軍として、軍事力も公家が掌握しておいた方がよいと考えたようです。ところが、後醍醐天皇は天皇である自分以外が権力や軍事力を持つことを否定したために、この護良親王とも対立をしてしまいます。親子といえども中々難しいものですね。さらに護良親王の警戒に気づき身の危険を感じていた尊氏は、先手をうってきたのです。尊氏は後醍醐天皇の寵姫(ちょうき)であった阿野廉子(あのれんし)と手を組み、『護良親王がクーデターを企んでいる』と讒言を行わせます。そしてこれをすっかり信じてしまった天皇もどうかとは思いますが、その頃には親子喧嘩も泥沼化していたのか、護良親王は捕えられ、鎌倉の土牢に幽閉されてしまうのです。 中先代の乱の勃発 1.乱のきっかけ 新政の混乱の中、1335年6月、北条高時の弟である北条泰家(やすいえ)と、幕府と朝廷の調停役を務めていた一族の公家である西園寺公宗(さいおんじきんむね)が後醍醐天皇暗殺を企て、それが発覚してしまいます。公宗は誅殺されてしまいますが、泰家は逃れて各地の北条残党に挙兵を呼びかけるのです。 2.北条時行の支持 信濃国に潜伏していた北条高時の次男である時行ですが、当時は10歳前後なので、御内人の諏訪頼重を中心に彼を支持し、泰家の呼びかけに答え翌月挙兵をします。これに応じて北陸でも北条一族の名越時兼(なごえときかね)も挙兵します。ちなみに、高時の長男は鎌倉幕府滅亡時に叔父に託され逃げるのですが、その叔父に裏切られ捕えられた挙句、9歳くらいで殺害されてしまいました。得宗家の直系としては時行が唯一の生き残りだったのですね。 3.鎌倉の奪還 時行の軍勢は信濃国の守護を破り、女影原(おなかげはら;埼玉県日高市)、小手指ケ原(こてさしがはら:所沢市)府中(東京都府中市)で足利軍と戦い、井出沢(いでのさわ:東京都町田市)では足利直義軍を撃破して7月25日に鎌倉を奪還しました。幕府滅亡から約2年ぶりの鎌倉への帰郷でした。当初、時行の軍は京都に攻めてくると考えられていたため、鎌倉への連絡が遅れてしまい、直義の対応が色々後手になってしまったことが鎌倉陥落につながったと言われています。
尊氏は誰と手を組み、『護良親王がクーデターを企んでいる』と讒言を行わせましたか。
尊氏は後醍醐天皇の寵姫であった阿野廉子と手を組み、『護良親王がクーデターを企んでいる』と讒言を行わせました。
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2.後醍醐天皇と護良親王と足利尊氏 新政に対する武士の不満は、倒幕の功労者であり、武家の名門である足利尊氏へと集約されていきます。後醍醐天皇の皇子である大塔宮(護良親王)は特にこれを警戒し、鎌倉から奪った力を再び武士に渡さないよう自分を征夷大将軍として、軍事力も公家が掌握しておいた方がよいと考えたようです。ところが、後醍醐天皇は天皇である自分以外が権力や軍事力を持つことを否定したために、この護良親王とも対立をしてしまいます。親子といえども中々難しいものですね。さらに護良親王の警戒に気づき身の危険を感じていた尊氏は、先手をうってきたのです。尊氏は後醍醐天皇の寵姫(ちょうき)であった阿野廉子(あのれんし)と手を組み、『護良親王がクーデターを企んでいる』と讒言を行わせます。そしてこれをすっかり信じてしまった天皇もどうかとは思いますが、その頃には親子喧嘩も泥沼化していたのか、護良親王は捕えられ、鎌倉の土牢に幽閉されてしまうのです。 中先代の乱の勃発 1.乱のきっかけ 新政の混乱の中、1335年6月、北条高時の弟である北条泰家(やすいえ)と、幕府と朝廷の調停役を務めていた一族の公家である西園寺公宗(さいおんじきんむね)が後醍醐天皇暗殺を企て、それが発覚してしまいます。公宗は誅殺されてしまいますが、泰家は逃れて各地の北条残党に挙兵を呼びかけるのです。 2.北条時行の支持 信濃国に潜伏していた北条高時の次男である時行ですが、当時は10歳前後なので、御内人の諏訪頼重を中心に彼を支持し、泰家の呼びかけに答え翌月挙兵をします。これに応じて北陸でも北条一族の名越時兼(なごえときかね)も挙兵します。ちなみに、高時の長男は鎌倉幕府滅亡時に叔父に託され逃げるのですが、その叔父に裏切られ捕えられた挙句、9歳くらいで殺害されてしまいました。得宗家の直系としては時行が唯一の生き残りだったのですね。 3.鎌倉の奪還 時行の軍勢は信濃国の守護を破り、女影原(おなかげはら;埼玉県日高市)、小手指ケ原(こてさしがはら:所沢市)府中(東京都府中市)で足利軍と戦い、井出沢(いでのさわ:東京都町田市)では足利直義軍を撃破して7月25日に鎌倉を奪還しました。幕府滅亡から約2年ぶりの鎌倉への帰郷でした。当初、時行の軍は京都に攻めてくると考えられていたため、鎌倉への連絡が遅れてしまい、直義の対応が色々後手になってしまったことが鎌倉陥落につながったと言われています。
北陸では誰が挙兵しましたか。
北陸では北条一族の名越時兼が挙兵しました。
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歴史
【中先代の乱とは】簡単にわかりやすく解説!!なぜ起こった?背景や経過・結果など 「中先代の乱」は鎌倉~室町にかけての時代に頻発していた武装蜂起の一つではありますが、その後の情勢を変えるきっかけを作った乱でもあります。わりとさらっと習った感のある鎌倉幕府滅亡~室町幕府誕生周辺の歴史。人間関係など少々ややこしいですが・・・今回はこの『中先代の乱(なかせんだいのらん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。 中先代の乱とは? 中先代の乱とは、鎌倉幕府末期の14代執権北条高時の遺児である北条時行(ときゆき)が御内人(みうちびと:北条家本家である得宗家に仕えた武士)である諏訪頼重(すわよりしげ)に支持されて鎌倉幕府再興のために挙兵した事件のことです。鎌倉期の北条氏の世を「先代(せんだい)」、後の室町期の足利氏の世を「当代(とうだい)」と呼ぶことから、その間に鎌倉を支配したということで「中先代の乱」と呼ばれています。ここからは乱がおこるまでの背景や乱の経過・その後の影響について詳しく解説していきます。 鎌倉幕府滅亡後の混乱 1.建武の新政 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は公家を中心とした新しい政治である【建武の新政】を始め、武士の政治を否定し、公家中心の政策をとっていくようになります。鎌倉には息子である成良親王(なりよししんのう)を長とし、尊氏の弟足利直義(ただよし)が執権としてこれを補佐するようにして鎌倉将軍府を設置します。しかしながら、この公家中心の政治は武家には支持されず、各地で北条残党などによる蜂起が頻発していました。
鎌倉幕府の滅亡後、誰が【建武の新政】を始めましたか。
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇が【建武の新政】を始めました。
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歴史
【元寇とは】対馬でのむごい戦いの真実を解説!!女子供への残虐行為・被害など 日本という国はほとんどと言ってもいいほど侵略されたことはありません。しかし、鎌倉時代の時に一回侵略されたことがあります。今回はそんな『元寇(げんこう)』についてわかりやすく解説していきます。 元寇とは? 元寇とは、鎌倉幕府中期から後期に起こった当時ユーラシア大陸を支配していた元が2度にわたり行った日本侵略のことです。蒙古襲来という別名があります。この戦によって鎌倉幕府は滅亡へと向かっていくことになります。ちなみに1度目の侵略を文永の役、2度目の侵略を弘安の役といいます。 元寇が行われるまでの経緯 日本が鎌倉時代の時、すぐそばのユーラシア大陸ではとある大帝国が猛威を振るっていました。その国の名は元。元々あのチンギス・ハンが建てたモンゴル帝国です。元はこの頃南宋という中国の王朝と対立していましたが、この時の皇帝フビライ・ハンはこの南宋と日本が繋がっているという情報を聞き、南宋を孤立させるために1268年に日本に対して元に服属するように命令した手紙を送りつけます。この頃の日本の執権は北条時宗。時宗はこの難局を乗り切るために奮闘します。時宗はこの手紙を無視。使者に対して手ぶらで帰しました。使者を手ぶらで帰すということは言ってしまえば提案を拒否したと捉えても良いです。もちろん、時宗はそれを承知しており、幕府は各地の神社仏閣に対して『敵国降伏』という祈願を行い始めます。こうして、日本と元との対決が確実となってしまいましました。
元は何という中国の王朝と対立していましたか。
元は南宋という中国の王朝と対立していました。
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歴史
弘安の役!再び起こる侵略 元軍が撤退してなんとか平和が訪れたかのように見えた矢先。再び元から使者がやっています。もちろん内容は元への従属。北条時宗は文永の役でせっかく頑張ってもらったのにここで従属しては武士の棟梁の威厳がなくなると感じ、使者を斬り殺してしまいます。これにまたまたブチ切れたフビライは1279年に南宋を征服すると再び日本への侵略を計画し始めます。そして南宋を滅ぼしてから3年後の1281年に元の第一軍1000隻が出航します。兵力は兵数4万、文永の役と比べると一万人増えています。さらにフビライは日本の侵略を確実にするために南宋から10万以上の超大軍を寧波と呼ばれる場所から出撃させます。ちなみに朝鮮半島からの部隊を東路軍、寧波からの部隊を江南軍といいます。東路軍は文永の役と同じように文永の役と同じように対馬・壱岐から博多というルートをとり、江南軍は壱岐で合流するという流れでした。しかし、日本側も2度目ということもありちゃんと対策を考えていました。その対策の代表的な例が防塁です。防塁は総長20キロメートル、2メートルの高さを誇っており、元軍の攻撃を防ぐことができました。元軍は前回とうって変わって苦戦を強いられることになり、さらに日本軍の夜襲などで甚大な被害を出します。さらにこの時7月。とどめを刺すかのように日本に神風が吹き荒れます。元軍の船は突貫工事で作った船だったためこの神風に耐えることができず次々と沈没。2万から3万の捕虜を出し撤退しました。弘安の役は見事に日本が勝利した戦いであったのです。
1281年に元の第一軍が何隻出航しましましたか。
1281年に元の第一軍1000隻が出航しました。
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歴史
【元寇とは】対馬でのむごい戦いの真実を解説!!女子供への残虐行為・被害など 日本という国はほとんどと言ってもいいほど侵略されたことはありません。しかし、鎌倉時代の時に一回侵略されたことがあります。今回はそんな『元寇(げんこう)』についてわかりやすく解説していきます。 元寇とは? 元寇とは、鎌倉幕府中期から後期に起こった当時ユーラシア大陸を支配していた元が2度にわたり行った日本侵略のことです。蒙古襲来という別名があります。この戦によって鎌倉幕府は滅亡へと向かっていくことになります。ちなみに1度目の侵略を文永の役、2度目の侵略を弘安の役といいます。 元寇が行われるまでの経緯 日本が鎌倉時代の時、すぐそばのユーラシア大陸ではとある大帝国が猛威を振るっていました。その国の名は元。元々あのチンギス・ハンが建てたモンゴル帝国です。元はこの頃南宋という中国の王朝と対立していましたが、この時の皇帝フビライ・ハンはこの南宋と日本が繋がっているという情報を聞き、南宋を孤立させるために1268年に日本に対して元に服属するように命令した手紙を送りつけます。この頃の日本の執権は北条時宗。時宗はこの難局を乗り切るために奮闘します。時宗はこの手紙を無視。使者に対して手ぶらで帰しました。使者を手ぶらで帰すということは言ってしまえば提案を拒否したと捉えても良いです。もちろん、時宗はそれを承知しており、幕府は各地の神社仏閣に対して『敵国降伏』という祈願を行い始めます。こうして、日本と元との対決が確実となってしまいましました。
1度目の侵略を何といいますか。
1度目の侵略を文永の役といいます。
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【元寇とは】対馬でのむごい戦いの真実を解説!!女子供への残虐行為・被害など 日本という国はほとんどと言ってもいいほど侵略されたことはありません。しかし、鎌倉時代の時に一回侵略されたことがあります。今回はそんな『元寇(げんこう)』についてわかりやすく解説していきます。 元寇とは? 元寇とは、鎌倉幕府中期から後期に起こった当時ユーラシア大陸を支配していた元が2度にわたり行った日本侵略のことです。蒙古襲来という別名があります。この戦によって鎌倉幕府は滅亡へと向かっていくことになります。ちなみに1度目の侵略を文永の役、2度目の侵略を弘安の役といいます。 元寇が行われるまでの経緯 日本が鎌倉時代の時、すぐそばのユーラシア大陸ではとある大帝国が猛威を振るっていました。その国の名は元。元々あのチンギス・ハンが建てたモンゴル帝国です。元はこの頃南宋という中国の王朝と対立していましたが、この時の皇帝フビライ・ハンはこの南宋と日本が繋がっているという情報を聞き、南宋を孤立させるために1268年に日本に対して元に服属するように命令した手紙を送りつけます。この頃の日本の執権は北条時宗。時宗はこの難局を乗り切るために奮闘します。時宗はこの手紙を無視。使者に対して手ぶらで帰しました。使者を手ぶらで帰すということは言ってしまえば提案を拒否したと捉えても良いです。もちろん、時宗はそれを承知しており、幕府は各地の神社仏閣に対して『敵国降伏』という祈願を行い始めます。こうして、日本と元との対決が確実となってしまいましました。
フビライ・ハンは南宋を孤立させるためにいつ日本に対して元に服属するように命令した手紙を送りつけましたか。
フビライ・ハンは南宋を孤立させるために1268年に日本に対して元に服属するように命令した手紙を送りつけました。
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歴史
【中先代の乱とは】簡単にわかりやすく解説!!なぜ起こった?背景や経過・結果など 「中先代の乱」は鎌倉~室町にかけての時代に頻発していた武装蜂起の一つではありますが、その後の情勢を変えるきっかけを作った乱でもあります。わりとさらっと習った感のある鎌倉幕府滅亡~室町幕府誕生周辺の歴史。人間関係など少々ややこしいですが・・・今回はこの『中先代の乱(なかせんだいのらん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。 中先代の乱とは? 中先代の乱とは、鎌倉幕府末期の14代執権北条高時の遺児である北条時行(ときゆき)が御内人(みうちびと:北条家本家である得宗家に仕えた武士)である諏訪頼重(すわよりしげ)に支持されて鎌倉幕府再興のために挙兵した事件のことです。鎌倉期の北条氏の世を「先代(せんだい)」、後の室町期の足利氏の世を「当代(とうだい)」と呼ぶことから、その間に鎌倉を支配したということで「中先代の乱」と呼ばれています。ここからは乱がおこるまでの背景や乱の経過・その後の影響について詳しく解説していきます。 鎌倉幕府滅亡後の混乱 1.建武の新政 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は公家を中心とした新しい政治である【建武の新政】を始め、武士の政治を否定し、公家中心の政策をとっていくようになります。鎌倉には息子である成良親王(なりよししんのう)を長とし、尊氏の弟足利直義(ただよし)が執権としてこれを補佐するようにして鎌倉将軍府を設置します。しかしながら、この公家中心の政治は武家には支持されず、各地で北条残党などによる蜂起が頻発していました。
後醍醐天皇は誰中心の政策をとっていくようになりましたか。
後醍醐天皇は公家中心の政策をとっていくようになりました。
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歴史
 4.5 典拠資料にある解読情報の整形  典拠資料には隷定・釈読の解読情報がそれぞれ記されているが,それが全篇にわたり正確に峻別されているわけではない.特定の釈読が定説化している古文字の場合などは隷定情報が省略されることも多く,その場合は釈読情報があたかも隷定情報のように記される.これは,出土資料研究者であれば隷定情報が省略されているということは概ね容易に判断が付くだろうという想定があってのことであろう.  古文字データを作成するに当たっては,典拠資料の解読情報と図版資料とを逐次照会させ,典拠資料で隷定情報が省略されていると判断出来た場合はその隷定情報を新たに付け加えた.これは典拠資料には存在しない情報ではあるが,データ全体の一貫性を担保するために以上のような整形を加えている.なお判断基準は,「その字の隷定・釈読の関係が定説化しているかどうか」である.本データ作成時において隷定字を示さず釈読字を提示していると想定された文字は,「又」と隷定される字(釈読字「有」)および「才」と隷定される字(釈読字「在」)の二字のみであり,この二字の隷定と釈読の関係は楚簡研究の中ではほぼ定説化しているため,整形対象とした.
典拠資料で隷定情報が省略されているかどうかの判断基準は何ですか。
典拠資料で隷定情報が省略されているかどうかの判断基準は「その字の隷定・釈読の関係が定説化しているかどうか」です。
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歴史
鎌倉時代に起こった承久の乱。鎌倉幕府と朝廷との戦いで、この戦いの結果がその後の政治に大きな影響を与えることになった重要なものです。今回はそんな『承久の乱(じょうきゅうのらん)』がなぜ起こったか、理由や経過・その後の影響など簡単にわかりやすく解説していきます。 承久の乱とは 承久の乱とは、1221年(承久3年)に後鳥羽上皇を中心とした朝廷と北条義時を中心とした幕府軍が戦った乱のことです。後鳥羽上皇が朝廷の権力を取り戻すことを目的として戦いを始めましたが、幕府軍に敗れ島流しに遭い、幕府の力がさらに強まることになりました。 承久の乱が起こるまでの流れ 1. 鎌倉幕府の始まりと朝廷との対立 鎌倉時代が始まる前、平安時代の終わりごろは天皇や天皇の位を譲った上皇が中心となり朝廷が日本を治めていました。しかし徐々に武士が力をつけ始め、特に平清盛が率いる平氏は朝廷以上の権力を持つことになります。さらに源頼朝はこの平清盛を倒し1185年に鎌倉幕府を作りました。鎌倉幕府は関東に作られましたが、朝廷は京都にあったため幕府の力は東日本、朝廷の力は西日本に広がりその結果、幕府と朝廷という2つの勢力が日本を支配するようになりました。 2. 北条氏の台頭 鎌倉幕府を作り将軍となった源頼朝ですが、その少し後に落馬による事故で亡くなってしまいます。そこで力をつけたのが北条氏です。北条氏というのは頼朝の妻、北条政子の実家です。北条政子は頼朝が力をつける前から支え続け、「尼将軍」とも呼ばれる強い女性です。北条氏自体も頼朝に協力し、鎌倉幕府ができた後は有力な武士となっていました。頼朝が亡くなった後、その息子である源頼家が後を継いで将軍となりましたが独裁的な政治を行う頼家は北条政子の父である北条時政によって将軍の地位を追われ、最後には暗殺されてしまいます。頼家は実の祖父に暗殺されたことになります。そしてまだ幼い弟の源実朝が3代目の将軍となると北条時政は執権という立場につき、政治の実権を握ることになりました。
平氏は誰が率いて朝廷以上の権力を持つことになりますか?
平氏は平清盛が率いて朝廷以上の権力を持つことになります。
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歴史
広島城のことを鯉城というが、この鯉城というのはこの土地が己斐の浦に臨んでいたので、己斐が鯉の音に通じるところから、こう名付けられたものといわれる。  講談調になって恐縮だが、豊臣秀吉が天下をとると、西の方で気になるのは毛利輝元であった。秀吉はなんとなく毛利氏の本城、安芸の吉田にある郡山の城を、どこかよそに移転させようと考えはじめたのである。西の毛利氏の山城、吉田の本城を、なんとかして平地に移して毛利氏と手をにぎりたいと、播州龍野の城主蜂須賀彦右衛門を使って、毛利輝元に広島出向方を勧めたのである。  当時は広島ともいわず、この土地は見るからにアシのおい茂っていた、水びたしの荒れ果てたところであった。決して、川よ、とわに美しく、などといえるデルタ地帯ではなかった。当時の呼称でいえば五箇荘といわれ、鍛冶塚の荘、平塚の荘、在間の庄、広瀬の庄、箱島(白島)の庄の五つの地域で構成されていた。当時の岩鼻や比治山のスソは海中に洗われて、向宇品に当る手奈島や仁保島は、はるか海中に姿を見せていた。  毛利輝元は、病没した蜂須賀彦右衛門に代わって秀吉の意を伝える黒田孝高の忠言もあって、ついに平城の建設を決めた。秀吉としては、山城の吉田を攻めるよりも、平城をつぶす方が手間ひまがかからないと思ったことかも知れない。もっとも、大阪城をみた輝元が、淀川デルタにできた城下町をみて、郡山城が山中にあって、物産の出入り口である草津港と五十キロ余りもはなれている不便を考え、将来をおもんばかっての五箇荘出向を決めたと考えても当然である。
毛利輝元は誰の忠言を受けて城の建設を決めましたか?
毛利輝元は黒田孝高の忠言を受け城の建設を決定しました。
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歴史
冬季の季節風が吹き付ける日本の海浜地域には,太平洋戦争後しばらくまで海岸砂丘が発達していたところが多かった.飛砂が荒ぶ広大な砂地に生活する人々の様子や旅する困難さは,古くは江戸時代に活躍した古川古松軒や橘南谿,吉田松陰らの紀行文,日記にも特筆されている.冬季に発生する大量の飛砂は,砂丘後背の村落や田畑を埋め,ときに川を埋めて一帯に洪水を引き起こすこともあった(尾留川, 1981; 須藤, 2008;真坂・三上, 2017;宮崎, 2013).現在では,鳥取砂丘などいくつか例を除き,ほとんどの砂丘が飛砂防備のために植栽されたクロマツ林によって覆われ,生活を脅かすほどの飛砂害が発生することはほぼなくなった.ただし,このような歴史を扱った県史,あるいは市町村史などの郷土史では,飛砂害そのものよりも,海岸林造成前にみられた砂丘荒廃地の様子の紹介や,造林面積,経費に関する統計に主眼を置いた記述が多く,周辺住民の生活の様子に触れている郷土史はほとんどない.飛砂害を知る世代は,戦後に集中的にクロマツ林が造成される以前に生まれた人々であり,そのため,飛砂が発生していた時代の生活を知る世代の記憶が継承されずに失われていく事態にもなっている(e.g., 真坂・三上, 2017).
川を埋めて一帯に洪水を引き起こすものは何ですか?
冬季に大量発生する飛砂が、川を埋めて一帯に洪水を引き起こします。
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歴史
 東洋文化とか東洋思想とかいう語が西洋文化または西洋思想と対立する意味において一部の人士に用いられるのは、かなり久しい前からのことであって、日本人の文化、日本人の思想がやはりその東洋のであり、従ってそれが西洋のに対立するものの如く説かれるのである。これには国際関係における西洋の国々の勢力に対抗する意味での東洋主義とか亜細亜主義とかいうものとも或る程度の関聯があるように見うけられるが、その根本は日本人の文化を現代の西洋の文化に対立させ、現代の日本人の生活における西洋文化の要素を外来のものとし、そうして東洋のをその固有のものとする考えかたから出ているらしいので、いわゆる思想問題の喧しい近ごろになって特にこういう語を声高く叫ぼうとするもののあるのも、之がためであろう。が、一体、東洋文化とか東洋思想とかいうのは何を指すのであるか。あるいは寧ろ、そういうものが存在するのであるか。  世界の文化を東洋のと西洋のとに大別することは、現代の日本人には常識となっているようであり、世界の歴史を東洋史と西洋史との二つに分けることも、今日では一般の習慣となっているが、西洋についてはともかくも、東洋については、この語の意義すらも甚だ漠然たるものである。東洋と西洋とは、本来、地理的の称呼であり、後世の支那人が海路で南方から交通する地方をその位置によって区別し、概していうとほぼ今の太平洋に属する方面のを東洋、それよりさきの印度洋方面のを西洋としたことにはじまる。
現代の日本人の常識となっていることとは何ですか?
現代の日本人の常識となっていることとは、世界の文化を東洋と西洋とに大別することです。
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歴史
 歴史の領域は過去にある。これは何人にも異論のないことであろう。しかし、過去は過去として初から固定しているものではなく、断えず未来に向って推移してゆく現在の一線を越えることによって、未来が断えず過去に化し去るのである。これもまた明白なことである。ただ歴史の取扱う過去は、単なる時間としての過去ではなくして、過去となった人の生活である。ところが、生活は未来に向って進んでゆくのがその本質である。断えず未来を領略してゆき、未来に向って自己を開展してゆくのが生活である。だから、歴史は未来に向って進んでゆくものを過去としてながめねばならぬ。未来に向って進んでゆく生活が過去となった時、いいかえると生活が生活でなくなった時、はじめてそれが歴史の領域に入るのである。けれども、歴史の取扱うものは生活でなければならぬ。だから、そこに矛盾がある。問題はこの矛盾から生ずる。  歴史の第一の任務は、過去の生活を生活として叙述し描写することであると、余は考える。生活は刹那の間も静止することのない不断の動きであり進展であるから、生活を生活として叙述し描写するということは、その動きその進展の過程を過程として叙述し描写するということである。過去となった生活の過程を、その過去の時間において未来に向って進んでゆきつつある生活の過程として、意識の上に現前させるのが、この意味においての歴史の任務である。この場合において、歴史家はその生活の過程の中に身を置き、その生活の進展と共に未来に向って歩いてゆかねばならぬ。この未来は現実においては既に過去となっている。従ってそれは既知の世界である。しかし、過去の生活の過程の中に身を置く歴史家にとっては、それはどこまでも未来とせられ、従って未知の世界とせられねばならぬ。が、これは果して可能であろうか。
歴史の第一の任務は何であると考えられていますか?
歴史の第一の任務は、過去の生活を生活として叙述し、描写することであると考えられています。
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歴史
鎌倉時代に起こった承久の乱。鎌倉幕府と朝廷との戦いで、この戦いの結果がその後の政治に大きな影響を与えることになった重要なものです。今回はそんな『承久の乱(じょうきゅうのらん)』がなぜ起こったか、理由や経過・その後の影響など簡単にわかりやすく解説していきます。 承久の乱とは 承久の乱とは、1221年(承久3年)に後鳥羽上皇を中心とした朝廷と北条義時を中心とした幕府軍が戦った乱のことです。後鳥羽上皇が朝廷の権力を取り戻すことを目的として戦いを始めましたが、幕府軍に敗れ島流しに遭い、幕府の力がさらに強まることになりました。 承久の乱が起こるまでの流れ 1. 鎌倉幕府の始まりと朝廷との対立 鎌倉時代が始まる前、平安時代の終わりごろは天皇や天皇の位を譲った上皇が中心となり朝廷が日本を治めていました。しかし徐々に武士が力をつけ始め、特に平清盛が率いる平氏は朝廷以上の権力を持つことになります。さらに源頼朝はこの平清盛を倒し1185年に鎌倉幕府を作りました。鎌倉幕府は関東に作られましたが、朝廷は京都にあったため幕府の力は東日本、朝廷の力は西日本に広がりその結果、幕府と朝廷という2つの勢力が日本を支配するようになりました。 2. 北条氏の台頭 鎌倉幕府を作り将軍となった源頼朝ですが、その少し後に落馬による事故で亡くなってしまいます。そこで力をつけたのが北条氏です。北条氏というのは頼朝の妻、北条政子の実家です。北条政子は頼朝が力をつける前から支え続け、「尼将軍」とも呼ばれる強い女性です。北条氏自体も頼朝に協力し、鎌倉幕府ができた後は有力な武士となっていました。頼朝が亡くなった後、その息子である源頼家が後を継いで将軍となりましたが独裁的な政治を行う頼家は北条政子の父である北条時政によって将軍の地位を追われ、最後には暗殺されてしまいます。頼家は実の祖父に暗殺されたことになります。そしてまだ幼い弟の源実朝が3代目の将軍となると北条時政は執権という立場につき、政治の実権を握ることになりました。
源頼朝は何による事故で亡くなりますか?
源頼朝は落馬による事故で亡くなります。
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3.後鳥羽上皇の考え 鎌倉幕府が誕生したとき朝廷で最も権力を持っていたのは天皇よりも上の位に就いていた後鳥羽上皇でした。後鳥羽上皇は学問も武芸も優れた人物でしたが、プライドが高く、後鳥羽上皇を始めとした周辺の貴族たちは「日本でいちばん偉いのは天皇なのに、なぜ武士があんなに偉そうなのか」と鎌倉幕府に対して不満を募らせていました。また朝廷に年貢を納めない武士と衝突することもあり、後鳥羽上皇はますます鎌倉幕府を排除し、朝廷が再び日本全国を支配することを考えるようになります。 4.鎌倉幕府の混乱と後鳥羽上皇の挙兵 源実朝が3代目将軍となり、2代目の執権には北条時政の息子、政子の弟である北条義時がなっていました。しかし、なんと実朝も暗殺されてしまうのです。これは2代目将軍頼家の息子である公暁が父親の仇を討とうと行ったものでした。実朝も殺されたことで頼朝の子供はいなくなり、将軍に就ける人物がいなくなった鎌倉幕府は大混乱します。北条義時は後鳥羽上皇の息子を将軍にするよう後鳥羽上皇に依頼しますが、後鳥羽上皇はこれに応じませんでした。北条義時は軍を送って武力で圧力をかけましたが、後鳥羽上皇はやはり拒否し、鎌倉幕府は別に将軍を探さなければいけなくなりました。この対立で後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すことを決意し、この混乱を鎌倉幕府を倒すチャンスと考え、承久の乱が始まったのです。
源実朝は何代目将軍となりましたか?
源実朝は3代目将軍となりました。
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鎌倉時代に起こった承久の乱。鎌倉幕府と朝廷との戦いで、この戦いの結果がその後の政治に大きな影響を与えることになった重要なものです。今回はそんな『承久の乱(じょうきゅうのらん)』がなぜ起こったか、理由や経過・その後の影響など簡単にわかりやすく解説していきます。 承久の乱とは 承久の乱とは、1221年(承久3年)に後鳥羽上皇を中心とした朝廷と北条義時を中心とした幕府軍が戦った乱のことです。後鳥羽上皇が朝廷の権力を取り戻すことを目的として戦いを始めましたが、幕府軍に敗れ島流しに遭い、幕府の力がさらに強まることになりました。 承久の乱が起こるまでの流れ 1. 鎌倉幕府の始まりと朝廷との対立 鎌倉時代が始まる前、平安時代の終わりごろは天皇や天皇の位を譲った上皇が中心となり朝廷が日本を治めていました。しかし徐々に武士が力をつけ始め、特に平清盛が率いる平氏は朝廷以上の権力を持つことになります。さらに源頼朝はこの平清盛を倒し1185年に鎌倉幕府を作りました。鎌倉幕府は関東に作られましたが、朝廷は京都にあったため幕府の力は東日本、朝廷の力は西日本に広がりその結果、幕府と朝廷という2つの勢力が日本を支配するようになりました。 2. 北条氏の台頭 鎌倉幕府を作り将軍となった源頼朝ですが、その少し後に落馬による事故で亡くなってしまいます。そこで力をつけたのが北条氏です。北条氏というのは頼朝の妻、北条政子の実家です。北条政子は頼朝が力をつける前から支え続け、「尼将軍」とも呼ばれる強い女性です。北条氏自体も頼朝に協力し、鎌倉幕府ができた後は有力な武士となっていました。頼朝が亡くなった後、その息子である源頼家が後を継いで将軍となりましたが独裁的な政治を行う頼家は北条政子の父である北条時政によって将軍の地位を追われ、最後には暗殺されてしまいます。頼家は実の祖父に暗殺されたことになります。そしてまだ幼い弟の源実朝が3代目の将軍となると北条時政は執権という立場につき、政治の実権を握ることになりました。
北条政子は何と呼ばれる女性ですか?
北条政子は「尼将軍」と呼ばれる女性です。
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3.後鳥羽上皇の考え 鎌倉幕府が誕生したとき朝廷で最も権力を持っていたのは天皇よりも上の位に就いていた後鳥羽上皇でした。後鳥羽上皇は学問も武芸も優れた人物でしたが、プライドが高く、後鳥羽上皇を始めとした周辺の貴族たちは「日本でいちばん偉いのは天皇なのに、なぜ武士があんなに偉そうなのか」と鎌倉幕府に対して不満を募らせていました。また朝廷に年貢を納めない武士と衝突することもあり、後鳥羽上皇はますます鎌倉幕府を排除し、朝廷が再び日本全国を支配することを考えるようになります。 4.鎌倉幕府の混乱と後鳥羽上皇の挙兵 源実朝が3代目将軍となり、2代目の執権には北条時政の息子、政子の弟である北条義時がなっていました。しかし、なんと実朝も暗殺されてしまうのです。これは2代目将軍頼家の息子である公暁が父親の仇を討とうと行ったものでした。実朝も殺されたことで頼朝の子供はいなくなり、将軍に就ける人物がいなくなった鎌倉幕府は大混乱します。北条義時は後鳥羽上皇の息子を将軍にするよう後鳥羽上皇に依頼しますが、後鳥羽上皇はこれに応じませんでした。北条義時は軍を送って武力で圧力をかけましたが、後鳥羽上皇はやはり拒否し、鎌倉幕府は別に将軍を探さなければいけなくなりました。この対立で後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すことを決意し、この混乱を鎌倉幕府を倒すチャンスと考え、承久の乱が始まったのです。
後鳥羽上皇は誰よりも上の位に就いていましたか?
後鳥羽上皇は天皇よりも上の位に就いていました。
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3.後鳥羽上皇の考え 鎌倉幕府が誕生したとき朝廷で最も権力を持っていたのは天皇よりも上の位に就いていた後鳥羽上皇でした。後鳥羽上皇は学問も武芸も優れた人物でしたが、プライドが高く、後鳥羽上皇を始めとした周辺の貴族たちは「日本でいちばん偉いのは天皇なのに、なぜ武士があんなに偉そうなのか」と鎌倉幕府に対して不満を募らせていました。また朝廷に年貢を納めない武士と衝突することもあり、後鳥羽上皇はますます鎌倉幕府を排除し、朝廷が再び日本全国を支配することを考えるようになります。 4.鎌倉幕府の混乱と後鳥羽上皇の挙兵 源実朝が3代目将軍となり、2代目の執権には北条時政の息子、政子の弟である北条義時がなっていました。しかし、なんと実朝も暗殺されてしまうのです。これは2代目将軍頼家の息子である公暁が父親の仇を討とうと行ったものでした。実朝も殺されたことで頼朝の子供はいなくなり、将軍に就ける人物がいなくなった鎌倉幕府は大混乱します。北条義時は後鳥羽上皇の息子を将軍にするよう後鳥羽上皇に依頼しますが、後鳥羽上皇はこれに応じませんでした。北条義時は軍を送って武力で圧力をかけましたが、後鳥羽上皇はやはり拒否し、鎌倉幕府は別に将軍を探さなければいけなくなりました。この対立で後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すことを決意し、この混乱を鎌倉幕府を倒すチャンスと考え、承久の乱が始まったのです。
北条義時は誰を将軍にするよう後鳥羽上皇に依頼しましたか?
北条義時は後鳥羽上皇の息子を将軍にするよう後鳥羽上皇に依頼しました。
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3.後鳥羽上皇の考え 鎌倉幕府が誕生したとき朝廷で最も権力を持っていたのは天皇よりも上の位に就いていた後鳥羽上皇でした。後鳥羽上皇は学問も武芸も優れた人物でしたが、プライドが高く、後鳥羽上皇を始めとした周辺の貴族たちは「日本でいちばん偉いのは天皇なのに、なぜ武士があんなに偉そうなのか」と鎌倉幕府に対して不満を募らせていました。また朝廷に年貢を納めない武士と衝突することもあり、後鳥羽上皇はますます鎌倉幕府を排除し、朝廷が再び日本全国を支配することを考えるようになります。 4.鎌倉幕府の混乱と後鳥羽上皇の挙兵 源実朝が3代目将軍となり、2代目の執権には北条時政の息子、政子の弟である北条義時がなっていました。しかし、なんと実朝も暗殺されてしまうのです。これは2代目将軍頼家の息子である公暁が父親の仇を討とうと行ったものでした。実朝も殺されたことで頼朝の子供はいなくなり、将軍に就ける人物がいなくなった鎌倉幕府は大混乱します。北条義時は後鳥羽上皇の息子を将軍にするよう後鳥羽上皇に依頼しますが、後鳥羽上皇はこれに応じませんでした。北条義時は軍を送って武力で圧力をかけましたが、後鳥羽上皇はやはり拒否し、鎌倉幕府は別に将軍を探さなければいけなくなりました。この対立で後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すことを決意し、この混乱を鎌倉幕府を倒すチャンスと考え、承久の乱が始まったのです。
なぜ鎌倉幕府は大混乱したのですか?
鎌倉幕府が大混乱したのは、将軍に就ける人物がいなくなったためです。
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 ティムール朝(1370~1507年)末期を代表する文人の1人、ムイーン・アッディーン・ムハンマド・イスフィザーリーによる『ヘラートという街の特性に関する天国の諸庭園』(以下『天国の諸庭園』)は、同朝の国都の1つとして繁栄を極めたヘラートを中心とした地理書・歴史書である。本書の前半ではヘラートを中心とするホラーサーン地方の地理的情報が、後半では古代から著者の時代に至るまでの、ヘラートを統治した支配者たちの変遷とそれぞれの時代に生じた歴史的出来事が記録されている。  本書の著者イスフィザーリーは、ティムール朝ヘラート政権君主スルターン・フサイン(在位1469~70、1470~1506年)治世に文書起草官を務め、自ら起草した文書や書簡を含むインシャー作品の著者・編者としても知られた人物であった[Subtelny 1998; 杉山2012]。彼は当時の自身の保護者であり、ティムール朝宮廷における最有力のイラン系官僚であったカワーム・アッディーン・ニザーム・アルムルク・ハーフィー(1948年没、以下ニザーム・アルムルク)の指示に従い、897/1491-2年に『天国の諸庭園』の執筆を開始したとされる。  本作品は、19世紀後半にBarbier de Meynardによってフランス国立図書館所蔵写本を基にした作品の紹介とフランス語抄訳が発表されたことにより[Barbier de Meynard 1860; idem 1861; idem 1862]、ヨーロッパの東洋学者やイラン研究者の間では比較的古くからよく知られていた。また、近年でも、ティムール朝第3代君主シャー・ルフ治世における都市の有力者のネットワークと政権との関わりについての研究[Manz 2007]や同朝末期ヘラート政権の社会経済的特徴を検証した研究[Subtelny 2007]、ヘラート及びホラーサーン地方の歴史的変遷を扱う研究[Noelle-Karimi 2014: 15-43]などで主要な典拠の1つとして採り上げられており、ティムール朝期のヘラートとその周辺地域を扱う研究では極めて重要な史料であり続けている。
イスフィザーリーによって書かれた地理書・歴史書は何ですか?
イスフィザーリーによって書かれた地理書・歴史書は、『ヘラートという街の特性に関する天国の諸庭園』です。
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1906年6月6日、馬堅は雲南省蒙自県沙甸村の敬虔な回族家庭に生まれた。小学校時代に課外時間を使い、アホンの馬明福と王誠一からアラビア語及びクルアーンを学び、清朝秀才の国文先生から漢文を勉強した。そこまで馬堅が受けていたのは中国ムスリム知識人が伝統的に受けてきた教授法による教育であったが、1920年からは近代的に整備されたイスラーム新式教育を受け始めた。1920年、馬堅は新式教科書で授業を行う私塾で勉強し、1921年、雲南回教高等経書並授学校に入学した。科目には、旧教育が重要視しているクルアーンやアラビア語などのイスラーム知識のほか、現代中国語や自然科学などの授業も含まれた。1922年から1925年まで、馬堅は成徳中学校で、国文、歴史、数学、物理、化学及び英語などを学んだ。その後、イスラーム哲学の研究を目的として北京大学に進学を希望したが、経済状況のため進学を断念した。1926年から1928年まで魚峰小学校で校務主任を務めた。学生の回顧によれば、教員としての馬堅は西洋科学知識と愛国主義の教育を重視していた(馬美忠・王春福 1986)。その後、1928年から1931年まで上海伊斯蘭師範学校でイスラーム知識、アラビア語、ペルシア語、英語、数学、哲学などの授業を受けた。1931年から1939年まで、雲南回教倶進会によって派遣され、エジプトのカイロにあるアズハル大学及びダール・ウルーム学院に留学した。帰国後、1939年から1946年まで、上海、重慶、雲南を転々とし、クルアーンを翻訳しながらイスラーム教育事業に従事していた。1946年、向達と白寿彝の推薦を受け、教授として北京大学の東洋語専攻(東方語文学系)に招かれた。1949年、国民政府が台湾に移転した時も、馬堅は北平(北京)に残ることを決めた。
馬堅が近代的に整備されたイスラーム新式教育を受けたのはいつからですか?
馬堅が近代的に整備されたイスラーム新式教育を受けたのは、1920年からです。
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歴史
また、新政権に対して警告を発するために、馬堅は国民党政権を批判し次のように述べている。 反動的な国民党の教育部署は、民族関連科目の開設が大漢族主義と民族同化政策に違反していると考えていたので、一般科目の他に特殊科目、すなわち、民族関連科目の開設に反対した。彼らの行為は回民の不満を買った。この例は参考になる(馬堅・呉 1950)。 授業の内容について、馬堅は次のように提案している。 授業の内容を、クルアーンとイスラームにおける革命性に関して積極的な部分を教えるものにするべきである。回教の教義及び律法をマルクス・レーニン主義及び毛沢東思想と巧妙に結合しよう。また、中国回民の歴史も必要である。彼らの解放は全国の各民族の解放と関わっており、個別の解放は不可能だということを回民に理解させるべきである(馬堅・呉 1950)。  旗を献上する行為は政権擁護の立場を表している。ただし、馬堅の提案をみれば、この擁護は無条件のものではない。馬堅は特殊科目でイスラームの教義と律法を教えるべきだと主張している。すなわち、彼の考えによれば、中国がマルクス主義国家になっても、回族に対するイスラーム教育は不可欠である。また、馬堅が敢えて国民党政権の失敗を用いて新政権に対して警告を発したことも、彼が完全に新政権の擁護者になっていないことを示している。ただし、無神論の新政権に宗教教育を認めさせるために、馬堅は譲歩した。「クルアーンとイスラームにおける革命性に関して積極的な部分」という言い方は、中共の革命思想に合致する部分という意味だと考えられる。これは合致する部分もあれば、革命思想に合致しない部分もあるということであり、すなわち、イスラームの一部の内容は中共の革命思想に反していることも示唆している。しかし、彼の主張はイスラーム教育における知識部分にしか言及しておらず、信仰と実践の部分が無視されている。イスラームの基礎知識を知っていたとしても、それを信じていなければ、実践しなければ、ムスリムとは言えない。すなわち、馬堅の主張には、ムスリム育成のためには不十分であった。
反動的な国民党の教育部署は、何に違反していると考えて、何に反対しましたか?
反動的な国民党の教育部署は、民族関連科目の開設が大漢族主義と民族同化政策に違反していると考え、一般科目の他に特殊科目、すなわち、民族関連科目の開設に反対しました。
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1906年6月6日、馬堅は雲南省蒙自県沙甸村の敬虔な回族家庭に生まれた。小学校時代に課外時間を使い、アホンの馬明福と王誠一からアラビア語及びクルアーンを学び、清朝秀才の国文先生から漢文を勉強した。そこまで馬堅が受けていたのは中国ムスリム知識人が伝統的に受けてきた教授法による教育であったが、1920年からは近代的に整備されたイスラーム新式教育を受け始めた。1920年、馬堅は新式教科書で授業を行う私塾で勉強し、1921年、雲南回教高等経書並授学校に入学した。科目には、旧教育が重要視しているクルアーンやアラビア語などのイスラーム知識のほか、現代中国語や自然科学などの授業も含まれた。1922年から1925年まで、馬堅は成徳中学校で、国文、歴史、数学、物理、化学及び英語などを学んだ。その後、イスラーム哲学の研究を目的として北京大学に進学を希望したが、経済状況のため進学を断念した。1926年から1928年まで魚峰小学校で校務主任を務めた。学生の回顧によれば、教員としての馬堅は西洋科学知識と愛国主義の教育を重視していた(馬美忠・王春福 1986)。その後、1928年から1931年まで上海伊斯蘭師範学校でイスラーム知識、アラビア語、ペルシア語、英語、数学、哲学などの授業を受けた。1931年から1939年まで、雲南回教倶進会によって派遣され、エジプトのカイロにあるアズハル大学及びダール・ウルーム学院に留学した。帰国後、1939年から1946年まで、上海、重慶、雲南を転々とし、クルアーンを翻訳しながらイスラーム教育事業に従事していた。1946年、向達と白寿彝の推薦を受け、教授として北京大学の東洋語専攻(東方語文学系)に招かれた。1949年、国民政府が台湾に移転した時も、馬堅は北平(北京)に残ることを決めた。
馬堅が生まれたのはいつですか?
馬堅が生まれたのは、1906年6月6日です。
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3.後鳥羽上皇の考え 鎌倉幕府が誕生したとき朝廷で最も権力を持っていたのは天皇よりも上の位に就いていた後鳥羽上皇でした。後鳥羽上皇は学問も武芸も優れた人物でしたが、プライドが高く、後鳥羽上皇を始めとした周辺の貴族たちは「日本でいちばん偉いのは天皇なのに、なぜ武士があんなに偉そうなのか」と鎌倉幕府に対して不満を募らせていました。また朝廷に年貢を納めない武士と衝突することもあり、後鳥羽上皇はますます鎌倉幕府を排除し、朝廷が再び日本全国を支配することを考えるようになります。 4.鎌倉幕府の混乱と後鳥羽上皇の挙兵 源実朝が3代目将軍となり、2代目の執権には北条時政の息子、政子の弟である北条義時がなっていました。しかし、なんと実朝も暗殺されてしまうのです。これは2代目将軍頼家の息子である公暁が父親の仇を討とうと行ったものでした。実朝も殺されたことで頼朝の子供はいなくなり、将軍に就ける人物がいなくなった鎌倉幕府は大混乱します。北条義時は後鳥羽上皇の息子を将軍にするよう後鳥羽上皇に依頼しますが、後鳥羽上皇はこれに応じませんでした。北条義時は軍を送って武力で圧力をかけましたが、後鳥羽上皇はやはり拒否し、鎌倉幕府は別に将軍を探さなければいけなくなりました。この対立で後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すことを決意し、この混乱を鎌倉幕府を倒すチャンスと考え、承久の乱が始まったのです。
誰が2代目の執権になっていましたか?
北条義時が2代目の執権になっていました。
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 20世紀初頭、マイノリティとしての中国ムスリム知識人の一部は、社会ダーウィン主義及びナショナリズムが蔓延している中国社会において生き残るために、エスニシティー改造とイスラーム改革の道を選んだ。松本(2003)によれば、彼らによって出された処方箋は次の通りである。第一に、時代に相応しい指導者を育成するために、イスラームと西欧近代主義を同時に教える教育機関を設立する。第二に、クルアーンの翻訳を通じて、信者によるクルアーンに対する理解を促し、中国イスラーム衰退を阻止する。第三に、愛国主義をイスラームの教義と解釈し、「回」を国民思想と国民意識に統合する。この処方箋にしたがい、民国初期以来様々なムスリム組織・団体が設立され、教育振興、社会救済、職業訓練などが行われた(矢久保2022)。また、ムスリムを国民思想と国民意識に統合し、漢人社会から抑圧されている状況を改善して政治的・社会地位を向上するために、ムスリム知識人は政治に関して発信し、政治活動にも積極的に参加した。  こうした中国ムスリム知識人による政治参加に関する先行研究の関心は、主に民国期あるいは改革開放以降に焦点を当てている(澤井2011; 矢久保2015, 2022; Matsumoto 2002, 2006)。だが一部のムスリム知識人が御用文人となり、政権協力を通じて中国ムスリムの全体を指導し始めた毛沢東時代(1949~1978)(1)は十分に議論されていない。中国ムスリム知識人の代表的存在である馬堅はこの時代について議論するための良い着目点と言える。しかし、沙(1985)、李振中(2000)及び馬志学(2019)など、馬堅にまつわる文章は大抵回顧にとどまっており、学術的な検討が不足している。さらに馬堅のイメージを良好に保つため、また政権の公式見解・価値観に従わせるために、一部の史実が隠蔽されている。
20世紀初頭、マイノリティとしての中国ムスリム知識人の一部が、エスニシティー改造とイスラーム改革の道を選んだのはなぜですか。
20世紀初頭、マイノリティとしての中国ムスリム知識人の一部が、エスニシティー改造とイスラーム改革の道を選んだのは、社会ダーウィン主義及びナショナリズムが蔓延している中国社会において生き残るためです。
JCRRAG_002852
歴史
このように,トゥシェート=ハーンはダライ=ラマの言を持ち出し自身の正当性を主張するとともに,会盟の冒頭で定めた誓約に基づいて,ガルダン=ホトクトと2人のアハイらの案件を処理しなかったと非難しているのである。  以上より,トゥシェート=ハーンはガルダン=ホトクト,2人のアハイらの訴訟に対してガルダン=シレトゥとアラニらがザサグト=ハーンに迎合するかのような対応をとったと訴えており,会盟での彼らの対応に不満を抱いていたといえる。しかし,史料ではこの異議申し立てに対する反応を確認できず,清朝はこの訴えに対して,上諭を下して要求を退けたり宥めたりするなどの表立った対応をとらなかったと考えられる。  以上のガルダン=ホトクト,2人のアハイらの案件については,ジェブツンダンバ=ホトクトも康熙26年正月の康熙帝への書簡で言及している。
会盟の冒頭で定めた誓約に基づいて、ガルダン=ホトクトと2人のアハイらの案件を処理しなかったと非難しているのは誰ですか?
会盟の冒頭で定めた誓約に基づいて、ガルダン=ホトクトと2人のアハイらの案件を処理しなかったと非難しているのは、トゥシェート=ハーンです。
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歴史
【史料1】ただ,ザサグト=ハンに対してガルダン=ホトクト,2人のアハイは彼らの領民の返還を督促する件で直ちに二意を抱いた。ザサグト=ハンはまた避けて審問させなかった。これは我々のモンゴルの慣例に違うのに非としなかった。ジェブツンダンバ=ホトクトは,先に処理した他の諸々の案件のとおりに処理しようと尽力してみたが,ガルダン=シレトゥ,尚書(アラニ)の2人は誓約した大臣らに任せず,彼らはそのまま処理した。ヨソト=アハイに全く過失がないのに,奪った彼の領民のうち半分を返還し,彼の父であるビシレルト=ハン(第3代ザサグト=ハーン・ノルブ)が尊重し祀ったガルダン=ホトクトの領民を子のチェンブン=ハンが言いがかりをつけて意のままに没収した。これによってただ60,70余りの領民をわずかに返還するのみである。以前セチェン(セツェン)=アハイに対して,彼の父である大いなるザサグト=ハン(第2代ザサグト=ハーン・ソバンダイ)が自身の子であるといって領民を分与した。右翼が壊れた際に我(トゥシェート=ハーン)が彼の領民を収容し返還する時に1人でさえも争い議論したことはない。彼(セツェン=アハイ)の領民を[返還しその]主としていた。のち,チェンブン=ハンは襲って奪った。これをともに諸々の案件等に同じく大臣らに任せて審問させなかった。
先に処理した他の諸々の案件のとおりに処理しようと尽力してみたのは誰ですか?
先に処理した他の諸々の案件のとおりに処理しようと尽力してみたのは、ジェブツンダンバ=ホトクトです。
JCRRAG_002854
歴史
このように,トゥシェート=ハーンはダライ=ラマの言を持ち出し自身の正当性を主張するとともに,会盟の冒頭で定めた誓約に基づいて,ガルダン=ホトクトと2人のアハイらの案件を処理しなかったと非難しているのである。  以上より,トゥシェート=ハーンはガルダン=ホトクト,2人のアハイらの訴訟に対してガルダン=シレトゥとアラニらがザサグト=ハーンに迎合するかのような対応をとったと訴えており,会盟での彼らの対応に不満を抱いていたといえる。しかし,史料ではこの異議申し立てに対する反応を確認できず,清朝はこの訴えに対して,上諭を下して要求を退けたり宥めたりするなどの表立った対応をとらなかったと考えられる。  以上のガルダン=ホトクト,2人のアハイらの案件については,ジェブツンダンバ=ホトクトも康熙26年正月の康熙帝への書簡で言及している。
史料では、異議申し立てに対する反応を確認できますか?
いいえ、史料では、異議申し立てに対する反応を確認できません。
JCRRAG_002855
歴史
承久の乱の経過 1. 後鳥羽上皇の院宣 1221年5月に後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。京都近隣の武士が中心となり幕府を倒すために挙兵したのです。院宣を出した後鳥羽上皇は「朝廷の命令なら全国の武士も従って、鎌倉幕府を倒すだろう」と考えていました。また、鎌倉幕府の武士たちも実際に激しく動揺します。そんなときに北条政子が演説を行ったのです。 2. 北条政子の演説 北条政子の演説の言葉として「故頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」という有名なものがあります。一致団結し、鎌倉幕府を開いた源頼朝への恩を返すときだ、という内容でした。これに感動した武士たちは北条氏につくことを決めますが、それだけでなく、多くの武士たちは朝廷と幕府のどちらにつくのが有利か考え、幕府につくことを選んだと言われています。そして北条義時の息子である北条泰時を中心とした幕府軍は鎌倉を出発し、さらに全国からも武士たちが集まり約20万人にも膨れ上がります。院宣の効果を信じ、のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、大多数の武士が上皇の呼びかけに応じない結果となりました。幕府と朝廷の力の差は歴然でわずか1ヶ月で京都は幕府軍に占領され、朝廷の敗北で承久の乱は終わりました。 承久の乱のその後 1. 島流しされた後鳥羽上皇と幕府の支配 承久の乱が終わった後、7月に乱の首謀者である後鳥羽上皇は隠岐(島根県)、その息子である順徳上皇は佐渡島(新潟県)に島流しにされました。また、乱に関わっていなかった息子の土御門上皇は父親が島流しにあったのに自分だけ京都に残ることはできないと、自ら希望して土佐(高知県)に流されました。他の息子たちや朝廷に味方した貴族・武士たちも処罰され、貴族たちが所有していた土地3000箇所が幕府に没収され、幕府方の武士たちに分け与えられました。貴族たちが所有していた土地は西日本が多かったため、土地を分け与えられた武士たちが西日本に移り住み、その結果、幕府の支配が西日本や朝廷のある京都付近にも強く及ぶようになりました。 2. 六波羅探題の設置 承久の乱後、鎌倉幕府は朝廷や西日本を監視する目的で六波羅探題を設置しました。朝廷が再び乱を起こすことを警戒したためです。また幕府に味方する貴族が朝廷を治めるようになり、実質、朝廷も幕府に支配されることになりました。こうして承久の乱をきっかけに朝廷の力は弱まり、幕府は天皇の後継者などにも口を出すようになり、鎌倉幕府の力がますます強くなっていくのです。
貴族たちが所有していた土地はどの地域が多かったですか?
貴族たちが所有していた土地は西日本が多かったです。
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承久の乱の経過 1. 後鳥羽上皇の院宣 1221年5月に後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。京都近隣の武士が中心となり幕府を倒すために挙兵したのです。院宣を出した後鳥羽上皇は「朝廷の命令なら全国の武士も従って、鎌倉幕府を倒すだろう」と考えていました。また、鎌倉幕府の武士たちも実際に激しく動揺します。そんなときに北条政子が演説を行ったのです。 2. 北条政子の演説 北条政子の演説の言葉として「故頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」という有名なものがあります。一致団結し、鎌倉幕府を開いた源頼朝への恩を返すときだ、という内容でした。これに感動した武士たちは北条氏につくことを決めますが、それだけでなく、多くの武士たちは朝廷と幕府のどちらにつくのが有利か考え、幕府につくことを選んだと言われています。そして北条義時の息子である北条泰時を中心とした幕府軍は鎌倉を出発し、さらに全国からも武士たちが集まり約20万人にも膨れ上がります。院宣の効果を信じ、のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、大多数の武士が上皇の呼びかけに応じない結果となりました。幕府と朝廷の力の差は歴然でわずか1ヶ月で京都は幕府軍に占領され、朝廷の敗北で承久の乱は終わりました。 承久の乱のその後 1. 島流しされた後鳥羽上皇と幕府の支配 承久の乱が終わった後、7月に乱の首謀者である後鳥羽上皇は隠岐(島根県)、その息子である順徳上皇は佐渡島(新潟県)に島流しにされました。また、乱に関わっていなかった息子の土御門上皇は父親が島流しにあったのに自分だけ京都に残ることはできないと、自ら希望して土佐(高知県)に流されました。他の息子たちや朝廷に味方した貴族・武士たちも処罰され、貴族たちが所有していた土地3000箇所が幕府に没収され、幕府方の武士たちに分け与えられました。貴族たちが所有していた土地は西日本が多かったため、土地を分け与えられた武士たちが西日本に移り住み、その結果、幕府の支配が西日本や朝廷のある京都付近にも強く及ぶようになりました。 2. 六波羅探題の設置 承久の乱後、鎌倉幕府は朝廷や西日本を監視する目的で六波羅探題を設置しました。朝廷が再び乱を起こすことを警戒したためです。また幕府に味方する貴族が朝廷を治めるようになり、実質、朝廷も幕府に支配されることになりました。こうして承久の乱をきっかけに朝廷の力は弱まり、幕府は天皇の後継者などにも口を出すようになり、鎌倉幕府の力がますます強くなっていくのです。
京都はどのくらいの期間で幕府軍に占領されましたか?
京都は1ヶ月で幕府軍に占領されました。
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歴史
承久の乱の経過 1. 後鳥羽上皇の院宣 1221年5月に後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。京都近隣の武士が中心となり幕府を倒すために挙兵したのです。院宣を出した後鳥羽上皇は「朝廷の命令なら全国の武士も従って、鎌倉幕府を倒すだろう」と考えていました。また、鎌倉幕府の武士たちも実際に激しく動揺します。そんなときに北条政子が演説を行ったのです。 2. 北条政子の演説 北条政子の演説の言葉として「故頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」という有名なものがあります。一致団結し、鎌倉幕府を開いた源頼朝への恩を返すときだ、という内容でした。これに感動した武士たちは北条氏につくことを決めますが、それだけでなく、多くの武士たちは朝廷と幕府のどちらにつくのが有利か考え、幕府につくことを選んだと言われています。そして北条義時の息子である北条泰時を中心とした幕府軍は鎌倉を出発し、さらに全国からも武士たちが集まり約20万人にも膨れ上がります。院宣の効果を信じ、のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、大多数の武士が上皇の呼びかけに応じない結果となりました。幕府と朝廷の力の差は歴然でわずか1ヶ月で京都は幕府軍に占領され、朝廷の敗北で承久の乱は終わりました。 承久の乱のその後 1. 島流しされた後鳥羽上皇と幕府の支配 承久の乱が終わった後、7月に乱の首謀者である後鳥羽上皇は隠岐(島根県)、その息子である順徳上皇は佐渡島(新潟県)に島流しにされました。また、乱に関わっていなかった息子の土御門上皇は父親が島流しにあったのに自分だけ京都に残ることはできないと、自ら希望して土佐(高知県)に流されました。他の息子たちや朝廷に味方した貴族・武士たちも処罰され、貴族たちが所有していた土地3000箇所が幕府に没収され、幕府方の武士たちに分け与えられました。貴族たちが所有していた土地は西日本が多かったため、土地を分け与えられた武士たちが西日本に移り住み、その結果、幕府の支配が西日本や朝廷のある京都付近にも強く及ぶようになりました。 2. 六波羅探題の設置 承久の乱後、鎌倉幕府は朝廷や西日本を監視する目的で六波羅探題を設置しました。朝廷が再び乱を起こすことを警戒したためです。また幕府に味方する貴族が朝廷を治めるようになり、実質、朝廷も幕府に支配されることになりました。こうして承久の乱をきっかけに朝廷の力は弱まり、幕府は天皇の後継者などにも口を出すようになり、鎌倉幕府の力がますます強くなっていくのです。
北条政子の演説の言葉として有名なものは何ですか?
北条政子の演説の言葉として有名なものは、「故頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」です。
JCRRAG_002858
歴史
承久の乱の経過 1. 後鳥羽上皇の院宣 1221年5月に後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。京都近隣の武士が中心となり幕府を倒すために挙兵したのです。院宣を出した後鳥羽上皇は「朝廷の命令なら全国の武士も従って、鎌倉幕府を倒すだろう」と考えていました。また、鎌倉幕府の武士たちも実際に激しく動揺します。そんなときに北条政子が演説を行ったのです。 2. 北条政子の演説 北条政子の演説の言葉として「故頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」という有名なものがあります。一致団結し、鎌倉幕府を開いた源頼朝への恩を返すときだ、という内容でした。これに感動した武士たちは北条氏につくことを決めますが、それだけでなく、多くの武士たちは朝廷と幕府のどちらにつくのが有利か考え、幕府につくことを選んだと言われています。そして北条義時の息子である北条泰時を中心とした幕府軍は鎌倉を出発し、さらに全国からも武士たちが集まり約20万人にも膨れ上がります。院宣の効果を信じ、のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、大多数の武士が上皇の呼びかけに応じない結果となりました。幕府と朝廷の力の差は歴然でわずか1ヶ月で京都は幕府軍に占領され、朝廷の敗北で承久の乱は終わりました。 承久の乱のその後 1. 島流しされた後鳥羽上皇と幕府の支配 承久の乱が終わった後、7月に乱の首謀者である後鳥羽上皇は隠岐(島根県)、その息子である順徳上皇は佐渡島(新潟県)に島流しにされました。また、乱に関わっていなかった息子の土御門上皇は父親が島流しにあったのに自分だけ京都に残ることはできないと、自ら希望して土佐(高知県)に流されました。他の息子たちや朝廷に味方した貴族・武士たちも処罰され、貴族たちが所有していた土地3000箇所が幕府に没収され、幕府方の武士たちに分け与えられました。貴族たちが所有していた土地は西日本が多かったため、土地を分け与えられた武士たちが西日本に移り住み、その結果、幕府の支配が西日本や朝廷のある京都付近にも強く及ぶようになりました。 2. 六波羅探題の設置 承久の乱後、鎌倉幕府は朝廷や西日本を監視する目的で六波羅探題を設置しました。朝廷が再び乱を起こすことを警戒したためです。また幕府に味方する貴族が朝廷を治めるようになり、実質、朝廷も幕府に支配されることになりました。こうして承久の乱をきっかけに朝廷の力は弱まり、幕府は天皇の後継者などにも口を出すようになり、鎌倉幕府の力がますます強くなっていくのです。
1221年5月に後鳥羽上皇は何という命令書を出しましたか?
1221年5月に後鳥羽上皇は院宣という命令書を出しました。
JCRRAG_002859
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承久の乱の経過 1. 後鳥羽上皇の院宣 1221年5月に後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。京都近隣の武士が中心となり幕府を倒すために挙兵したのです。院宣を出した後鳥羽上皇は「朝廷の命令なら全国の武士も従って、鎌倉幕府を倒すだろう」と考えていました。また、鎌倉幕府の武士たちも実際に激しく動揺します。そんなときに北条政子が演説を行ったのです。 2. 北条政子の演説 北条政子の演説の言葉として「故頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」という有名なものがあります。一致団結し、鎌倉幕府を開いた源頼朝への恩を返すときだ、という内容でした。これに感動した武士たちは北条氏につくことを決めますが、それだけでなく、多くの武士たちは朝廷と幕府のどちらにつくのが有利か考え、幕府につくことを選んだと言われています。そして北条義時の息子である北条泰時を中心とした幕府軍は鎌倉を出発し、さらに全国からも武士たちが集まり約20万人にも膨れ上がります。院宣の効果を信じ、のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、大多数の武士が上皇の呼びかけに応じない結果となりました。幕府と朝廷の力の差は歴然でわずか1ヶ月で京都は幕府軍に占領され、朝廷の敗北で承久の乱は終わりました。 承久の乱のその後 1. 島流しされた後鳥羽上皇と幕府の支配 承久の乱が終わった後、7月に乱の首謀者である後鳥羽上皇は隠岐(島根県)、その息子である順徳上皇は佐渡島(新潟県)に島流しにされました。また、乱に関わっていなかった息子の土御門上皇は父親が島流しにあったのに自分だけ京都に残ることはできないと、自ら希望して土佐(高知県)に流されました。他の息子たちや朝廷に味方した貴族・武士たちも処罰され、貴族たちが所有していた土地3000箇所が幕府に没収され、幕府方の武士たちに分け与えられました。貴族たちが所有していた土地は西日本が多かったため、土地を分け与えられた武士たちが西日本に移り住み、その結果、幕府の支配が西日本や朝廷のある京都付近にも強く及ぶようになりました。 2. 六波羅探題の設置 承久の乱後、鎌倉幕府は朝廷や西日本を監視する目的で六波羅探題を設置しました。朝廷が再び乱を起こすことを警戒したためです。また幕府に味方する貴族が朝廷を治めるようになり、実質、朝廷も幕府に支配されることになりました。こうして承久の乱をきっかけに朝廷の力は弱まり、幕府は天皇の後継者などにも口を出すようになり、鎌倉幕府の力がますます強くなっていくのです。
自ら希望して土佐に流されたのは誰ですか?
自ら希望して土佐に流されたのは土御門上皇です。
JCRRAG_002860
歴史
4平清盛と日宋貿易 清盛は1158年に大宰大弐(だざいだいに)となるなど日宋貿易と深い関わりを持ち続け、1168年に出家すると福原を拠点として厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に注力しました。1173年には日本初の人工港となる大輪田泊(おおわだのとまり)の改修に着手し、私財を投じた難工事は二年後に完成します。他には、瀬戸内航路の備前国牛窓や備後国柄・尾道などが整備され、広島県呉市と倉橋島を隔てる海峡である音戸(おんど)の瀬戸を開削しました。清盛が宋船を兵庫まで招き入れたことは、大宰府の干渉を排し利益を大きくする意図がありましたが、瀬戸内航路の整備や沿岸の地域に大きな影響をもたらします。地域を活性化させながら、西国における支配力強化につなげています。 日宋貿易の輸出入品とその影響 1日本の輸入品 宋銭・陶磁器・香料・薬品・書籍・茶・高級織物・文具・木綿 日本では皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)という銅銭がありましたが、12世紀後半より宋銭の流通が本格化します。経済活動を一般化させる出来事となりますが、一方でそれまでの基準となっていた絹の価値が下げ、朝廷財政を圧迫することにつながり朝廷との確執は大きくなりました。
清盛は1173年には日本初の人工港となる何の改修に着手しますか?
清盛は1173年には日本初の人工港となる大輪田泊の改修に着手します。
JCRRAG_002861
歴史
 4.5 典拠資料にある解読情報の整形  典拠資料には隷定・釈読の解読情報がそれぞれ記されているが,それが全篇にわたり正確に峻別されているわけではない.特定の釈読が定説化している古文字の場合などは隷定情報が省略されることも多く,その場合は釈読情報があたかも隷定情報のように記される.これは,出土資料研究者であれば隷定情報が省略されているということは概ね容易に判断が付くだろうという想定があってのことであろう.  古文字データを作成するに当たっては,典拠資料の解読情報と図版資料とを逐次照会させ,典拠資料で隷定情報が省略されていると判断出来た場合はその隷定情報を新たに付け加えた.これは典拠資料には存在しない情報ではあるが,データ全体の一貫性を担保するために以上のような整形を加えている.なお判断基準は,「その字の隷定・釈読の関係が定説化しているかどうか」である.本データ作成時において隷定字を示さず釈読字を提示していると想定された文字は,「又」と隷定される字(釈読字「有」)および「才」と隷定される字(釈読字「在」)の二字のみであり,この二字の隷定と釈読の関係は楚簡研究の中ではほぼ定説化しているため,整形対象とした.
特定の釈読が定説化している古文字の場合などは何が省略されることが多いですか?
特定の釈読が定説化している古文字の場合などは、隷定情報が省略されることが多いです。
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歴史
 4.5 典拠資料にある解読情報の整形  典拠資料には隷定・釈読の解読情報がそれぞれ記されているが,それが全篇にわたり正確に峻別されているわけではない.特定の釈読が定説化している古文字の場合などは隷定情報が省略されることも多く,その場合は釈読情報があたかも隷定情報のように記される.これは,出土資料研究者であれば隷定情報が省略されているということは概ね容易に判断が付くだろうという想定があってのことであろう.  古文字データを作成するに当たっては,典拠資料の解読情報と図版資料とを逐次照会させ,典拠資料で隷定情報が省略されていると判断出来た場合はその隷定情報を新たに付け加えた.これは典拠資料には存在しない情報ではあるが,データ全体の一貫性を担保するために以上のような整形を加えている.なお判断基準は,「その字の隷定・釈読の関係が定説化しているかどうか」である.本データ作成時において隷定字を示さず釈読字を提示していると想定された文字は,「又」と隷定される字(釈読字「有」)および「才」と隷定される字(釈読字「在」)の二字のみであり,この二字の隷定と釈読の関係は楚簡研究の中ではほぼ定説化しているため,整形対象とした.
隷定・釈読の解読情報は正確に峻別されていますか?
いいえ、隷定・釈読の解読情報は全篇にわたり正確に峻別されているわけではありません。
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歴史
 4.5 典拠資料にある解読情報の整形  典拠資料には隷定・釈読の解読情報がそれぞれ記されているが,それが全篇にわたり正確に峻別されているわけではない.特定の釈読が定説化している古文字の場合などは隷定情報が省略されることも多く,その場合は釈読情報があたかも隷定情報のように記される.これは,出土資料研究者であれば隷定情報が省略されているということは概ね容易に判断が付くだろうという想定があってのことであろう.  古文字データを作成するに当たっては,典拠資料の解読情報と図版資料とを逐次照会させ,典拠資料で隷定情報が省略されていると判断出来た場合はその隷定情報を新たに付け加えた.これは典拠資料には存在しない情報ではあるが,データ全体の一貫性を担保するために以上のような整形を加えている.なお判断基準は,「その字の隷定・釈読の関係が定説化しているかどうか」である.本データ作成時において隷定字を示さず釈読字を提示していると想定された文字は,「又」と隷定される字(釈読字「有」)および「才」と隷定される字(釈読字「在」)の二字のみであり,この二字の隷定と釈読の関係は楚簡研究の中ではほぼ定説化しているため,整形対象とした.
古文字データを作成する際、典拠資料の解読情報と図版資料とを逐次照会させて、典拠資料で隷定情報が省略されていると判断出来た場合はその隷定情報を新たに付け加えたのはなぜですか?
古文字データを作成する際、典拠資料の解読情報と図版資料とを逐次照会させて、典拠資料で隷定情報が省略されていると判断出来た場合はその隷定情報を新たに付け加えたのは、データ全体の一貫性を担保するためです。
JCRRAG_002864
歴史
【史料1】ただ,ザサグト=ハンに対してガルダン=ホトクト,2人のアハイは彼らの領民の返還を督促する件で直ちに二意を抱いた。ザサグト=ハンはまた避けて審問させなかった。これは我々のモンゴルの慣例に違うのに非としなかった。ジェブツンダンバ=ホトクトは,先に処理した他の諸々の案件のとおりに処理しようと尽力してみたが,ガルダン=シレトゥ,尚書(アラニ)の2人は誓約した大臣らに任せず,彼らはそのまま処理した。ヨソト=アハイに全く過失がないのに,奪った彼の領民のうち半分を返還し,彼の父であるビシレルト=ハン(第3代ザサグト=ハーン・ノルブ)が尊重し祀ったガルダン=ホトクトの領民を子のチェンブン=ハンが言いがかりをつけて意のままに没収した。これによってただ60,70余りの領民をわずかに返還するのみである。以前セチェン(セツェン)=アハイに対して,彼の父である大いなるザサグト=ハン(第2代ザサグト=ハーン・ソバンダイ)が自身の子であるといって領民を分与した。右翼が壊れた際に我(トゥシェート=ハーン)が彼の領民を収容し返還する時に1人でさえも争い議論したことはない。彼(セツェン=アハイ)の領民を[返還しその]主としていた。のち,チェンブン=ハンは襲って奪った。これをともに諸々の案件等に同じく大臣らに任せて審問させなかった。
ガルダン=ホトクトの領民を没収したのは誰ですか?
ガルダン=ホトクトの領民を没収したのは、チェンブン=ハンです。
JCRRAG_002865
歴史
2南宋時代 1126年に南宋が成立すると、支配地域の経済的が発展し人口も急増しました。これにより、木材の需要が高まり山林を伐採した結果、森林資源が枯渇し、日本からの木材輸入に頼ることになります。同時に疫病に悩まされていた南宋で漢方医学が発達すると、この最新医学の知識や薬品は日本に伝わり医療に欠かせないものとなっていきます。 3平忠盛と日宋貿易 忠盛は1123年に越前守となり、宋船が博多だけでなく越前国敦賀まで足を延ばして貿易することがあることを知ります。このときに宋との貿易で利益に目をつけました。1129年には備前守となっていた忠盛は、白河法皇の院宣により山陽道・南海道の海賊追補使(かいぞくついほうし)に任命されると、瀬戸内海を荒らしていた海賊の鎮圧にあたります。同年、白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇の院政が始まりました。 忠盛は鳥羽院御願として千体観音像を造営するなど、鳥羽上皇の信任を厚くし高位の官位にしか認められない昇殿を許されます。そののち希望して肥前国神崎荘の預所(あずかりところ)になると、1133年には鳥羽上皇からの命だと書類を偽造し日宋貿易を管轄する大宰府の介入を拒否し貿易を中止させます。1135年の海賊蜂起の折には、瀬戸内海など日宋貿易のルートにのさばる海賊の追討使に任命されると、海賊を討伐し武勇を高めます。こうして忠盛は宋との私貿易を展開し、平氏繁栄の基礎となる巨万の富と地位を得ることとなりました。
忠盛は宋船が博多だけでなくどこまで足を延ばして貿易することがあることを知りますか?
忠盛は宋船が博多だけでなく越前国敦賀まで足を延ばして貿易することがあることを知ります。
JCRRAG_002866
歴史
ハルハはダヤン=ハーンの末子ゲレセンジェ(1513-1548)の7人の子に分封され,清朝の支配下に入るまで「七ホショー(七旗)ハルハ」とも呼称された。現在のモンゴル国の母体となった集団である。元来はハルハ河周辺に遊牧していたと考えられるが[和田1959:776],トゥメドのアルタン=ハーン(1508-1582)のオイラド討伐を受け継いで,牧地をゴビ砂漠以北(以下,漠北と略記)一帯に拡大していった[宮脇1983:172]。17世紀初め頃には漠北東側の集団である左翼と,西側の集団である右翼に分かれ,トゥシェート=ハーン,セツェン=ハーンの称号を有する首長が左翼を,ザサグト=ハーンの称号を有する首長が右翼を率いていた[宮脇1979]。崇徳元(1636)年にゴビ砂漠以南(漠南)に遊牧するほとんどのモンゴル諸部が清朝に服属する一方で,ハルハはなおも事実上の独立を保ち清朝に朝貢を行なっていった。ところが,康熙元(1662)年にハルハ右翼のザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイが,同じく右翼のロブサン=タイジ(:第3代アルタン=ハーン)に殺害される事件が発生すると(以下,ザサグト=ハーン殺害事件と略記),ハルハは混乱の一途を辿っていくこととなる。
ハルハは現在のどの国の母体となった集団ですか?
ハルハは現在のモンゴル国の母体となった集団です。
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歴史
ハルハはダヤン=ハーンの末子ゲレセンジェ(1513-1548)の7人の子に分封され,清朝の支配下に入るまで「七ホショー(七旗)ハルハ」とも呼称された。現在のモンゴル国の母体となった集団である。元来はハルハ河周辺に遊牧していたと考えられるが[和田1959:776],トゥメドのアルタン=ハーン(1508-1582)のオイラド討伐を受け継いで,牧地をゴビ砂漠以北(以下,漠北と略記)一帯に拡大していった[宮脇1983:172]。17世紀初め頃には漠北東側の集団である左翼と,西側の集団である右翼に分かれ,トゥシェート=ハーン,セツェン=ハーンの称号を有する首長が左翼を,ザサグト=ハーンの称号を有する首長が右翼を率いていた[宮脇1979]。崇徳元(1636)年にゴビ砂漠以南(漠南)に遊牧するほとんどのモンゴル諸部が清朝に服属する一方で,ハルハはなおも事実上の独立を保ち清朝に朝貢を行なっていった。ところが,康熙元(1662)年にハルハ右翼のザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイが,同じく右翼のロブサン=タイジ(:第3代アルタン=ハーン)に殺害される事件が発生すると(以下,ザサグト=ハーン殺害事件と略記),ハルハは混乱の一途を辿っていくこととなる。
ハルハ右翼のザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイが、同じく右翼のロブサン=タイジ(:第3代アルタン=ハーン4))に殺害される事件が発生したのは何年ですか?
ハルハ右翼のザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイが、同じく右翼のロブサン=タイジ(:第3代アルタン=ハーン4))に殺害される事件が発生したのは、康熙元(1662)年です。
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歴史
ハルハはダヤン=ハーンの末子ゲレセンジェ(1513-1548)の7人の子に分封され,清朝の支配下に入るまで「七ホショー(七旗)ハルハ」とも呼称された。現在のモンゴル国の母体となった集団である。元来はハルハ河周辺に遊牧していたと考えられるが[和田1959:776],トゥメドのアルタン=ハーン(1508-1582)のオイラド討伐を受け継いで,牧地をゴビ砂漠以北(以下,漠北と略記)一帯に拡大していった[宮脇1983:172]。17世紀初め頃には漠北東側の集団である左翼と,西側の集団である右翼に分かれ,トゥシェート=ハーン,セツェン=ハーンの称号を有する首長が左翼を,ザサグト=ハーンの称号を有する首長が右翼を率いていた[宮脇1979]。崇徳元(1636)年にゴビ砂漠以南(漠南)に遊牧するほとんどのモンゴル諸部が清朝に服属する一方で,ハルハはなおも事実上の独立を保ち清朝に朝貢を行なっていった。ところが,康熙元(1662)年にハルハ右翼のザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイが,同じく右翼のロブサン=タイジ(:第3代アルタン=ハーン)に殺害される事件が発生すると(以下,ザサグト=ハーン殺害事件と略記),ハルハは混乱の一途を辿っていくこととなる。
元来はハルハ河周辺に遊牧していたと考えられるハルハが、トゥメドのアルタン=ハーン(1508-1582)のオイラド討伐を受け継いで、牧地を拡大していったのはどこですか?
元来はハルハ河周辺に遊牧していたと考えられるハルハが、トゥメドのアルタン=ハーン(1508-1582)のオイラド討伐を受け継いで、牧地を拡大していったのは、ゴビ砂漠以北一帯です。
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歴史
ハルハはダヤン=ハーンの末子ゲレセンジェ(1513-1548)の7人の子に分封され,清朝の支配下に入るまで「七ホショー(七旗)ハルハ」とも呼称された。現在のモンゴル国の母体となった集団である。元来はハルハ河周辺に遊牧していたと考えられるが[和田1959:776],トゥメドのアルタン=ハーン(1508-1582)のオイラド討伐を受け継いで,牧地をゴビ砂漠以北(以下,漠北と略記)一帯に拡大していった[宮脇1983:172]。17世紀初め頃には漠北東側の集団である左翼と,西側の集団である右翼に分かれ,トゥシェート=ハーン,セツェン=ハーンの称号を有する首長が左翼を,ザサグト=ハーンの称号を有する首長が右翼を率いていた[宮脇1979]。崇徳元(1636)年にゴビ砂漠以南(漠南)に遊牧するほとんどのモンゴル諸部が清朝に服属する一方で,ハルハはなおも事実上の独立を保ち清朝に朝貢を行なっていった。ところが,康熙元(1662)年にハルハ右翼のザサグト=ハーン・グムブ=ビント=アハイが,同じく右翼のロブサン=タイジ(:第3代アルタン=ハーン)に殺害される事件が発生すると(以下,ザサグト=ハーン殺害事件と略記),ハルハは混乱の一途を辿っていくこととなる。
ハルハが朝貢していたのはどこですか?
ハルハが朝貢していたのは清朝です。
JCRRAG_002870
歴史
 要するに、このとき中共は回族知識人の支持を得ることを回族全体の支持を得ることの必要性を認識している。また、回族知識人らの間の対立を利用するという策も考慮に入れていた。一方馬堅は、愛国主義を揚げながら他の教派を批判する改革派ムスリム知識人に属し、国民党政権との連携も緊密ではなかった。また、イスラーム思想家の著作の翻訳を通じて、馬堅は回族民衆ないしムスリム全体において有名であった。さらに、彼は名門大学の北京大学の教授を務めていた。政権にとって、政治経験が浅く、かつ有名な馬堅はまさしく利用できる「進歩的」な回族知識人であった。  1949年9月、中国人民政治協商会議(以下:全国政協)第1回全体会議が北平で開催された。馬堅は「宗教界民主人士」の代表としてこの会議に参加した。この会議で、中国西南部の雲南出身の馬堅と中国中部の河南出身の白寿彝は西北回族を代表して毛沢東と朱徳に「毛主席:中国人民の指導者」(毛主席中国人民的舵師)と「朱総司令官:中国人民の命の恩人」(朱総司令中国人民的救星)と中国語とアラビア語で書かれた2枚の旗を献上した。1950年6月、全国政協第1期第2回会議が催された。1926年以来、約20年にわたって回族の民族教育(すなわち、イスラーム教育)を重視していた馬堅は、遂に国の力を借り、回族の民族教育を推進する機会を得たと考え、この会議で第15号提案と第30号提案を提案した。第15号提案は、政府が早速に少数民族を援助し、彼らの文化教育事業を発展させるべきである、と助言している(馬堅1950d)。第30号提案は、政府は回民の学校が回民文化常識に関する科目を開設することを許すべきである、と勧めている(馬堅・呉1950)。
馬堅は回族民衆ないしムスリム全体において、何を通じて有名だったのですか?
馬堅は回族民衆ないしムスリム全体において、イスラーム思想家の著作の翻訳を通じて有名でした。
JCRRAG_002871
歴史
 要するに、このとき中共は回族知識人の支持を得ることを回族全体の支持を得ることの必要性を認識している。また、回族知識人らの間の対立を利用するという策も考慮に入れていた。一方馬堅は、愛国主義を揚げながら他の教派を批判する改革派ムスリム知識人に属し、国民党政権との連携も緊密ではなかった。また、イスラーム思想家の著作の翻訳を通じて、馬堅は回族民衆ないしムスリム全体において有名であった。さらに、彼は名門大学の北京大学の教授を務めていた。政権にとって、政治経験が浅く、かつ有名な馬堅はまさしく利用できる「進歩的」な回族知識人であった。  1949年9月、中国人民政治協商会議(以下:全国政協)第1回全体会議が北平で開催された。馬堅は「宗教界民主人士」の代表としてこの会議に参加した。この会議で、中国西南部の雲南出身の馬堅と中国中部の河南出身の白寿彝は西北回族を代表して毛沢東と朱徳に「毛主席:中国人民の指導者」(毛主席中国人民的舵師)と「朱総司令官:中国人民の命の恩人」(朱総司令中国人民的救星)と中国語とアラビア語で書かれた2枚の旗を献上した。1950年6月、全国政協第1期第2回会議が催された。1926年以来、約20年にわたって回族の民族教育(すなわち、イスラーム教育)を重視していた馬堅は、遂に国の力を借り、回族の民族教育を推進する機会を得たと考え、この会議で第15号提案と第30号提案を提案した。第15号提案は、政府が早速に少数民族を援助し、彼らの文化教育事業を発展させるべきである、と助言している(馬堅1950d)。第30号提案は、政府は回民の学校が回民文化常識に関する科目を開設することを許すべきである、と勧めている(馬堅・呉1950)。
中国人民政治協商会議の第1回全体会議が開催されたのはいつですか?
中国人民政治協商会議の第1回全体会議が開催されたのは1949年9月です。
JCRRAG_002872
歴史
 要するに、このとき中共は回族知識人の支持を得ることを回族全体の支持を得ることの必要性を認識している。また、回族知識人らの間の対立を利用するという策も考慮に入れていた。一方馬堅は、愛国主義を揚げながら他の教派を批判する改革派ムスリム知識人に属し、国民党政権との連携も緊密ではなかった。また、イスラーム思想家の著作の翻訳を通じて、馬堅は回族民衆ないしムスリム全体において有名であった。さらに、彼は名門大学の北京大学の教授を務めていた。政権にとって、政治経験が浅く、かつ有名な馬堅はまさしく利用できる「進歩的」な回族知識人であった。  1949年9月、中国人民政治協商会議(以下:全国政協)第1回全体会議が北平で開催された。馬堅は「宗教界民主人士」の代表としてこの会議に参加した。この会議で、中国西南部の雲南出身の馬堅と中国中部の河南出身の白寿彝は西北回族を代表して毛沢東と朱徳に「毛主席:中国人民の指導者」(毛主席中国人民的舵師)と「朱総司令官:中国人民の命の恩人」(朱総司令中国人民的救星)と中国語とアラビア語で書かれた2枚の旗を献上した。1950年6月、全国政協第1期第2回会議が催された。1926年以来、約20年にわたって回族の民族教育(すなわち、イスラーム教育)を重視していた馬堅は、遂に国の力を借り、回族の民族教育を推進する機会を得たと考え、この会議で第15号提案と第30号提案を提案した。第15号提案は、政府が早速に少数民族を援助し、彼らの文化教育事業を発展させるべきである、と助言している(馬堅1950d)。第30号提案は、政府は回民の学校が回民文化常識に関する科目を開設することを許すべきである、と勧めている(馬堅・呉1950)。
中国人民政治協商会議の第1回全体会議が開催されたのはどこですか?
中国人民政治協商会議の第1回全体会議が開催されたのは北平です。
JCRRAG_002873
歴史
 要するに、このとき中共は回族知識人の支持を得ることを回族全体の支持を得ることの必要性を認識している。また、回族知識人らの間の対立を利用するという策も考慮に入れていた。一方馬堅は、愛国主義を揚げながら他の教派を批判する改革派ムスリム知識人に属し、国民党政権との連携も緊密ではなかった。また、イスラーム思想家の著作の翻訳を通じて、馬堅は回族民衆ないしムスリム全体において有名であった。さらに、彼は名門大学の北京大学の教授を務めていた。政権にとって、政治経験が浅く、かつ有名な馬堅はまさしく利用できる「進歩的」な回族知識人であった。  1949年9月、中国人民政治協商会議(以下:全国政協)第1回全体会議が北平で開催された。馬堅は「宗教界民主人士」の代表としてこの会議に参加した。この会議で、中国西南部の雲南出身の馬堅と中国中部の河南出身の白寿彝は西北回族を代表して毛沢東と朱徳に「毛主席:中国人民の指導者」(毛主席中国人民的舵師)と「朱総司令官:中国人民の命の恩人」(朱総司令中国人民的救星)と中国語とアラビア語で書かれた2枚の旗を献上した。1950年6月、全国政協第1期第2回会議が催された。1926年以来、約20年にわたって回族の民族教育(すなわち、イスラーム教育)を重視していた馬堅は、遂に国の力を借り、回族の民族教育を推進する機会を得たと考え、この会議で第15号提案と第30号提案を提案した。第15号提案は、政府が早速に少数民族を援助し、彼らの文化教育事業を発展させるべきである、と助言している(馬堅1950d)。第30号提案は、政府は回民の学校が回民文化常識に関する科目を開設することを許すべきである、と勧めている(馬堅・呉1950)。
中国人民政治協商会議の第1回全体会議に、馬堅は何の代表として参加しましたか?
中国人民政治協商会議の第1回全体会議に、馬堅は「宗教界民主人士」の代表として参加しました。
JCRRAG_002874
歴史
 要するに、このとき中共は回族知識人の支持を得ることを回族全体の支持を得ることの必要性を認識している。また、回族知識人らの間の対立を利用するという策も考慮に入れていた。一方馬堅は、愛国主義を揚げながら他の教派を批判する改革派ムスリム知識人に属し、国民党政権との連携も緊密ではなかった。また、イスラーム思想家の著作の翻訳を通じて、馬堅は回族民衆ないしムスリム全体において有名であった。さらに、彼は名門大学の北京大学の教授を務めていた。政権にとって、政治経験が浅く、かつ有名な馬堅はまさしく利用できる「進歩的」な回族知識人であった。  1949年9月、中国人民政治協商会議(以下:全国政協)第1回全体会議が北平で開催された。馬堅は「宗教界民主人士」の代表としてこの会議に参加した。この会議で、中国西南部の雲南出身の馬堅と中国中部の河南出身の白寿彝は西北回族を代表して毛沢東と朱徳に「毛主席:中国人民の指導者」(毛主席中国人民的舵師)と「朱総司令官:中国人民の命の恩人」(朱総司令中国人民的救星)と中国語とアラビア語で書かれた2枚の旗を献上した。1950年6月、全国政協第1期第2回会議が催された。1926年以来、約20年にわたって回族の民族教育(すなわち、イスラーム教育)を重視していた馬堅は、遂に国の力を借り、回族の民族教育を推進する機会を得たと考え、この会議で第15号提案と第30号提案を提案した。第15号提案は、政府が早速に少数民族を援助し、彼らの文化教育事業を発展させるべきである、と助言している(馬堅1950d)。第30号提案は、政府は回民の学校が回民文化常識に関する科目を開設することを許すべきである、と勧めている(馬堅・呉1950)。
全国政協第1期第2回会議が開催されたのはいつですか?
全国政協第1期第2回会議が開催されたのは、1950年6月です。
JCRRAG_002875
歴史
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第一回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第二回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催したのは誰ですか?
現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催したのは、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちです。
JCRRAG_002876
歴史
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第一回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第二回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
第1回パンロン会議が開催されたのはいつですか?
第1回パンロン会議が開催されたのは、1946年3月です。
JCRRAG_002877
歴史
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第一回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第二回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてパンロン会議を設定したのは誰ですか?
少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてパンロン会議を設定したのは、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーです。
JCRRAG_002878
歴史
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第一回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第二回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
第2回パンロン会議で、連合シャン諸州の藩王たち、連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、ミャンマー本土の代表アウンサンたちによって合意されたのはどんなことですか?
第2回パンロン会議で、連合シャン諸州の藩王たち、連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、ミャンマー本土の代表アウンサンたちによって合意されたのは、共に国家を建設することです。
JCRRAG_002879
歴史
ミャンマーでは、アジア・太平洋戦争後から1950年代を通じて、国民をいかに統合すべきなのか模索が続いた。まず行動を起こしたのが、連合シャン諸州(独立後のシャン州)の藩王たちで、現在のシャン州パンロンで2回の会議を開催した。1946年3月に開催された第一回パンロン会議は、連合シャン諸州や辺境地域の戦後復興や自治をめぐって意見を出し合うため招集された。当初、パンロン会議は公聴会としての意味合いが強かったが、翌年1月、ビルマ族ナショナリストの指導者アウンサンとイギリス首相アトリーが、少数民族たちが新生国家に参加する意思があるのか確認する場としてこの会議を設定したため、その意味は大きく変わった。同年2月に開催された第二回パンロン会議では、連合シャン諸州の藩王たちに加えて、そこに招待された連合シャン諸州の平民代表、カチン丘陵地域の代表、チン丘陵地域の代表、そしてミャンマー本土の代表アウンサンたちが、共に国家を建設することで合意した。しかし、実際に1948年1月4日にイギリス植民地から独立した直後、当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から共産党が離反し、つづいてシャン州の軍閥やカレン民族同盟が武装闘争に突入した。さらに、1953年には国共内戦に敗れて、シャン州との国境に流入した中国国民党とも紛争が生じた。
1948年、共産党は何から離反したのですか?
1948年、共産党は当時の与党であった反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)から離反しました。
JCRRAG_002880
歴史
このように,トゥシェート=ハーンはダライ=ラマの言を持ち出し自身の正当性を主張するとともに,会盟の冒頭で定めた誓約に基づいて,ガルダン=ホトクトと2人のアハイらの案件を処理しなかったと非難しているのである。  以上より,トゥシェート=ハーンはガルダン=ホトクト,2人のアハイらの訴訟に対してガルダン=シレトゥとアラニらがザサグト=ハーンに迎合するかのような対応をとったと訴えており,会盟での彼らの対応に不満を抱いていたといえる。しかし,史料ではこの異議申し立てに対する反応を確認できず,清朝はこの訴えに対して,上諭を下して要求を退けたり宥めたりするなどの表立った対応をとらなかったと考えられる。  以上のガルダン=ホトクト,2人のアハイらの案件については,ジェブツンダンバ=ホトクトも康熙26年正月の康熙帝への書簡で言及している。
トゥシェート=ハーンは誰の言を持ち出し自身の正当性を主張しましたか?
トゥシェート=ハーンはダライ=ラマの言を持ち出し自身の正当性を主張しました。
JCRRAG_002881
歴史
 ティムール朝(1370~1507年)末期を代表する文人の1人、ムイーン・アッディーン・ムハンマド・イスフィザーリーによる『ヘラートという街の特性に関する天国の諸庭園』(以下『天国の諸庭園』)は、同朝の国都の1つとして繁栄を極めたヘラートを中心とした地理書・歴史書である。本書の前半ではヘラートを中心とするホラーサーン地方の地理的情報が、後半では古代から著者の時代に至るまでの、ヘラートを統治した支配者たちの変遷とそれぞれの時代に生じた歴史的出来事が記録されている。  本書の著者イスフィザーリーは、ティムール朝ヘラート政権君主スルターン・フサイン(在位1469~70、1470~1506年)治世に文書起草官を務め、自ら起草した文書や書簡を含むインシャー作品の著者・編者としても知られた人物であった[Subtelny 1998; 杉山2012]。彼は当時の自身の保護者であり、ティムール朝宮廷における最有力のイラン系官僚であったカワーム・アッディーン・ニザーム・アルムルク・ハーフィー(1948年没、以下ニザーム・アルムルク)の指示に従い、897/1491-2年に『天国の諸庭園』の執筆を開始したとされる。  本作品は、19世紀後半にBarbier de Meynardによってフランス国立図書館所蔵写本を基にした作品の紹介とフランス語抄訳が発表されたことにより[Barbier de Meynard 1860; idem 1861; idem 1862]、ヨーロッパの東洋学者やイラン研究者の間では比較的古くからよく知られていた。また、近年でも、ティムール朝第3代君主シャー・ルフ治世における都市の有力者のネットワークと政権との関わりについての研究[Manz 2007]や同朝末期ヘラート政権の社会経済的特徴を検証した研究[Subtelny 2007]、ヘラート及びホラーサーン地方の歴史的変遷を扱う研究[Noelle-Karimi 2014: 15-43]などで主要な典拠の1つとして採り上げられており、ティムール朝期のヘラートとその周辺地域を扱う研究では極めて重要な史料であり続けている。
イスフィザーリーは、誰の指示によって『天国の諸庭園』の執筆を開始しましたか?
イスフィザーリーは、当時の自身の保護者であり、ティムール朝宮廷における最有力のイラン系官僚であったカワーム・アッディーン・ニザーム・アルムルク・ハーフィーの指示によって『天国の諸庭園』の執筆を開始しました。
JCRRAG_002882
歴史
 ティムール朝(1370~1507年)末期を代表する文人の1人、ムイーン・アッディーン・ムハンマド・イスフィザーリーによる『ヘラートという街の特性に関する天国の諸庭園』(以下『天国の諸庭園』)は、同朝の国都の1つとして繁栄を極めたヘラートを中心とした地理書・歴史書である。本書の前半ではヘラートを中心とするホラーサーン地方の地理的情報が、後半では古代から著者の時代に至るまでの、ヘラートを統治した支配者たちの変遷とそれぞれの時代に生じた歴史的出来事が記録されている。  本書の著者イスフィザーリーは、ティムール朝ヘラート政権君主スルターン・フサイン(在位1469~70、1470~1506年)治世に文書起草官を務め、自ら起草した文書や書簡を含むインシャー作品の著者・編者としても知られた人物であった[Subtelny 1998; 杉山2012]。彼は当時の自身の保護者であり、ティムール朝宮廷における最有力のイラン系官僚であったカワーム・アッディーン・ニザーム・アルムルク・ハーフィー(1948年没、以下ニザーム・アルムルク)の指示に従い、897/1491-2年に『天国の諸庭園』の執筆を開始したとされる。  本作品は、19世紀後半にBarbier de Meynardによってフランス国立図書館所蔵写本を基にした作品の紹介とフランス語抄訳が発表されたことにより[Barbier de Meynard 1860; idem 1861; idem 1862]、ヨーロッパの東洋学者やイラン研究者の間では比較的古くからよく知られていた。また、近年でも、ティムール朝第3代君主シャー・ルフ治世における都市の有力者のネットワークと政権との関わりについての研究[Manz 2007]や同朝末期ヘラート政権の社会経済的特徴を検証した研究[Subtelny 2007]、ヘラート及びホラーサーン地方の歴史的変遷を扱う研究[Noelle-Karimi 2014: 15-43]などで主要な典拠の1つとして採り上げられており、ティムール朝期のヘラートとその周辺地域を扱う研究では極めて重要な史料であり続けている。
イスフィザーリーの『天国の諸庭園』は、どこを中心とした地理書・歴史書ですか。
イスフィザーリーの『天国の諸庭園』は、ヘラートを中心とした地理書・歴史書です。
JCRRAG_002883
歴史
 ティムール朝(1370~1507年)末期を代表する文人の1人、ムイーン・アッディーン・ムハンマド・イスフィザーリーによる『ヘラートという街の特性に関する天国の諸庭園』(以下『天国の諸庭園』)は、同朝の国都の1つとして繁栄を極めたヘラートを中心とした地理書・歴史書である。本書の前半ではヘラートを中心とするホラーサーン地方の地理的情報が、後半では古代から著者の時代に至るまでの、ヘラートを統治した支配者たちの変遷とそれぞれの時代に生じた歴史的出来事が記録されている。  本書の著者イスフィザーリーは、ティムール朝ヘラート政権君主スルターン・フサイン(在位1469~70、1470~1506年)治世に文書起草官を務め、自ら起草した文書や書簡を含むインシャー作品の著者・編者としても知られた人物であった[Subtelny 1998; 杉山2012]。彼は当時の自身の保護者であり、ティムール朝宮廷における最有力のイラン系官僚であったカワーム・アッディーン・ニザーム・アルムルク・ハーフィー(1948年没、以下ニザーム・アルムルク)の指示に従い、897/1491-2年に『天国の諸庭園』の執筆を開始したとされる。  本作品は、19世紀後半にBarbier de Meynardによってフランス国立図書館所蔵写本を基にした作品の紹介とフランス語抄訳が発表されたことにより[Barbier de Meynard 1860; idem 1861; idem 1862]、ヨーロッパの東洋学者やイラン研究者の間では比較的古くからよく知られていた。また、近年でも、ティムール朝第3代君主シャー・ルフ治世における都市の有力者のネットワークと政権との関わりについての研究[Manz 2007]や同朝末期ヘラート政権の社会経済的特徴を検証した研究[Subtelny 2007]、ヘラート及びホラーサーン地方の歴史的変遷を扱う研究[Noelle-Karimi 2014: 15-43]などで主要な典拠の1つとして採り上げられており、ティムール朝期のヘラートとその周辺地域を扱う研究では極めて重要な史料であり続けている。
イスフィザーリーは、誰の治世に文書起草官を務めましたか?
イスフィザーリーは、ティムール朝ヘラート政権君主スルターン・フサイン(在位1469~70、1470~1506年)の治世に文書起草官を務めました。
JCRRAG_002884
歴史
 ティムール朝(1370~1507年)末期を代表する文人の1人、ムイーン・アッディーン・ムハンマド・イスフィザーリーによる『ヘラートという街の特性に関する天国の諸庭園』(以下『天国の諸庭園』)は、同朝の国都の1つとして繁栄を極めたヘラートを中心とした地理書・歴史書である。本書の前半ではヘラートを中心とするホラーサーン地方の地理的情報が、後半では古代から著者の時代に至るまでの、ヘラートを統治した支配者たちの変遷とそれぞれの時代に生じた歴史的出来事が記録されている。  本書の著者イスフィザーリーは、ティムール朝ヘラート政権君主スルターン・フサイン(在位1469~70、1470~1506年)治世に文書起草官を務め、自ら起草した文書や書簡を含むインシャー作品の著者・編者としても知られた人物であった[Subtelny 1998; 杉山2012]。彼は当時の自身の保護者であり、ティムール朝宮廷における最有力のイラン系官僚であったカワーム・アッディーン・ニザーム・アルムルク・ハーフィー(1948年没、以下ニザーム・アルムルク)の指示に従い、897/1491-2年に『天国の諸庭園』の執筆を開始したとされる。  本作品は、19世紀後半にBarbier de Meynardによってフランス国立図書館所蔵写本を基にした作品の紹介とフランス語抄訳が発表されたことにより[Barbier de Meynard 1860; idem 1861; idem 1862]、ヨーロッパの東洋学者やイラン研究者の間では比較的古くからよく知られていた。また、近年でも、ティムール朝第3代君主シャー・ルフ治世における都市の有力者のネットワークと政権との関わりについての研究[Manz 2007]や同朝末期ヘラート政権の社会経済的特徴を検証した研究[Subtelny 2007]、ヘラート及びホラーサーン地方の歴史的変遷を扱う研究[Noelle-Karimi 2014: 15-43]などで主要な典拠の1つとして採り上げられており、ティムール朝期のヘラートとその周辺地域を扱う研究では極めて重要な史料であり続けている。
Barbier de Meynardが本作品の紹介とフランス語抄訳を発表したのはいつですか?
Barbier de Meynardが本作品の紹介とフランス語抄訳を発表したのは19世紀後半です。
JCRRAG_002885
歴史
 本稿は、1970年代のインドにおける「緑の革命」(the Green Revolution)と農業開発の進展を、石油危機との関連で再考する。なぜインドは、1970年代の石油危機という困難な状況の下で、事実上の食糧生産の自給を実現できたのだろうか。いかなる要因が、1970年代のインドの農業開発の進展に貢献したのだろうか。  1960年代半ばに、インドは「食糧危機」に直面したが、大規模な国際的な援助、とりわけアメリカ合衆国の食糧援助である公法480(PL480)を通じた史上最大の小麦援助を得て危機を乗り切っていた。この危機の間にインド政府は、経済開発の優先順位を、資本財生産を中心とした重化学工業化(いわゆるビッグ・プッシュ型工業化戦略)から農業開発へと変更した。その政策の変更は、1960年代末のインドにおける「緑の革命」の始まりと位置付けることができる。  しかし、1973-74年にインドは、第1次石油危機により引き起こされた経済不況の中で、農業開発にとり不可欠な必需品である化学肥料の不足に直面した。農業用化学肥料は石油化学産業の主要な副産物である。いかにして、インド政府は、グローバルな経済危機の下でこの化学肥料不足の問題を解決したのだろうか。本稿は前半で、インドに対する対外経済援助、特に、ロバート・マクナマラ総裁(1968-1981年)が率いた世界銀行グループ(国際開発復興銀行IBRDと国際開発協会IDA)からの経済援助に着目し、1970年代のアジア国際経済秩序が変容していく過程での「緑の革命」と発展途上国における農業開発の意義を考察する。第1次石油危機(1973-74年)下のインドは、輸出と貿易外収支の増加を通じて経済的危機を克服し、1974-77年にかけて年率27パーセントの輸出伸長と、ペルシア湾岸諸国からの海外送金の劇的な増大を通じて、例外的な貿易黒字を達成した。だがこの好循環も、1979年の第二次石油危機により反転し赤字に転落した。インドは、1970年代末-80年代初頭の二度目の経済危機をどのようにして乗り越えたのであろうか。後半では、二度の石油危機に対するインド政府独自の対応を、1980年代初頭に始まる国際通貨基金(IMF)の「構造調整」政策と関連づけて考察する。
インドが第1次石油危機により引き起こされた経済不況の中で不足に直面した、農業開発にとっての必需品は何ですか?
インドが第1次石油危機により引き起こされた経済不況の中で不足に直面した、農業開発にとっての必需品は、化学肥料です。
JCRRAG_002886
歴史
 本稿は、1970年代のインドにおける「緑の革命」(the Green Revolution)と農業開発の進展を、石油危機との関連で再考する。なぜインドは、1970年代の石油危機という困難な状況の下で、事実上の食糧生産の自給を実現できたのだろうか。いかなる要因が、1970年代のインドの農業開発の進展に貢献したのだろうか。  1960年代半ばに、インドは「食糧危機」に直面したが、大規模な国際的な援助、とりわけアメリカ合衆国の食糧援助である公法480(PL480)を通じた史上最大の小麦援助を得て危機を乗り切っていた。この危機の間にインド政府は、経済開発の優先順位を、資本財生産を中心とした重化学工業化(いわゆるビッグ・プッシュ型工業化戦略)から農業開発へと変更した。その政策の変更は、1960年代末のインドにおける「緑の革命」の始まりと位置付けることができる。  しかし、1973-74年にインドは、第1次石油危機により引き起こされた経済不況の中で、農業開発にとり不可欠な必需品である化学肥料の不足に直面した。農業用化学肥料は石油化学産業の主要な副産物である。いかにして、インド政府は、グローバルな経済危機の下でこの化学肥料不足の問題を解決したのだろうか。本稿は前半で、インドに対する対外経済援助、特に、ロバート・マクナマラ総裁(1968-1981年)が率いた世界銀行グループ(国際開発復興銀行IBRDと国際開発協会IDA)からの経済援助に着目し、1970年代のアジア国際経済秩序が変容していく過程での「緑の革命」と発展途上国における農業開発の意義を考察する。第1次石油危機(1973-74年)下のインドは、輸出と貿易外収支の増加を通じて経済的危機を克服し、1974-77年にかけて年率27パーセントの輸出伸長と、ペルシア湾岸諸国からの海外送金の劇的な増大を通じて、例外的な貿易黒字を達成した。だがこの好循環も、1979年の第二次石油危機により反転し赤字に転落した。インドは、1970年代末-80年代初頭の二度目の経済危機をどのようにして乗り越えたのであろうか。後半では、二度の石油危機に対するインド政府独自の対応を、1980年代初頭に始まる国際通貨基金(IMF)の「構造調整」政策と関連づけて考察する。
第1次石油危機下のインドが例外的な貿易黒字を達成したのは、どこからの海外送金によるものでしょうか。
第1次石油危機下のインドが例外的な貿易黒字を達成したのは、ペルシア湾岸諸国からの海外送金によるものです。
JCRRAG_002887
歴史
 本稿は、1970年代のインドにおける「緑の革命」(the Green Revolution)と農業開発の進展を、石油危機との関連で再考する。なぜインドは、1970年代の石油危機という困難な状況の下で、事実上の食糧生産の自給を実現できたのだろうか。いかなる要因が、1970年代のインドの農業開発の進展に貢献したのだろうか。  1960年代半ばに、インドは「食糧危機」に直面したが、大規模な国際的な援助、とりわけアメリカ合衆国の食糧援助である公法480(PL480)を通じた史上最大の小麦援助を得て危機を乗り切っていた。この危機の間にインド政府は、経済開発の優先順位を、資本財生産を中心とした重化学工業化(いわゆるビッグ・プッシュ型工業化戦略)から農業開発へと変更した。その政策の変更は、1960年代末のインドにおける「緑の革命」の始まりと位置付けることができる。  しかし、1973-74年にインドは、第1次石油危機により引き起こされた経済不況の中で、農業開発にとり不可欠な必需品である化学肥料の不足に直面した。農業用化学肥料は石油化学産業の主要な副産物である。いかにして、インド政府は、グローバルな経済危機の下でこの化学肥料不足の問題を解決したのだろうか。本稿は前半で、インドに対する対外経済援助、特に、ロバート・マクナマラ総裁(1968-1981年)が率いた世界銀行グループ(国際開発復興銀行IBRDと国際開発協会IDA)からの経済援助に着目し、1970年代のアジア国際経済秩序が変容していく過程での「緑の革命」と発展途上国における農業開発の意義を考察する。第1次石油危機(1973-74年)下のインドは、輸出と貿易外収支の増加を通じて経済的危機を克服し、1974-77年にかけて年率27パーセントの輸出伸長と、ペルシア湾岸諸国からの海外送金の劇的な増大を通じて、例外的な貿易黒字を達成した。だがこの好循環も、1979年の第二次石油危機により反転し赤字に転落した。インドは、1970年代末-80年代初頭の二度目の経済危機をどのようにして乗り越えたのであろうか。後半では、二度の石油危機に対するインド政府独自の対応を、1980年代初頭に始まる国際通貨基金(IMF)の「構造調整」政策と関連づけて考察する。
1960年代半ばに「食糧危機」に直面した際、インドはアメリカ合衆国の何という法を通じて危機を乗り切っていましたか?
1960年代半ばに「食糧危機」に直面した際、インドはアメリカ合衆国の公法480(PL480)を通じて危機を乗り切っていました。
JCRRAG_002888
歴史
 本稿は、1970年代のインドにおける「緑の革命」(the Green Revolution)と農業開発の進展を、石油危機との関連で再考する。なぜインドは、1970年代の石油危機という困難な状況の下で、事実上の食糧生産の自給を実現できたのだろうか。いかなる要因が、1970年代のインドの農業開発の進展に貢献したのだろうか。  1960年代半ばに、インドは「食糧危機」に直面したが、大規模な国際的な援助、とりわけアメリカ合衆国の食糧援助である公法480(PL480)を通じた史上最大の小麦援助を得て危機を乗り切っていた。この危機の間にインド政府は、経済開発の優先順位を、資本財生産を中心とした重化学工業化(いわゆるビッグ・プッシュ型工業化戦略)から農業開発へと変更した。その政策の変更は、1960年代末のインドにおける「緑の革命」の始まりと位置付けることができる。  しかし、1973-74年にインドは、第1次石油危機により引き起こされた経済不況の中で、農業開発にとり不可欠な必需品である化学肥料の不足に直面した。農業用化学肥料は石油化学産業の主要な副産物である。いかにして、インド政府は、グローバルな経済危機の下でこの化学肥料不足の問題を解決したのだろうか。本稿は前半で、インドに対する対外経済援助、特に、ロバート・マクナマラ総裁(1968-1981年)が率いた世界銀行グループ(国際開発復興銀行IBRDと国際開発協会IDA)からの経済援助に着目し、1970年代のアジア国際経済秩序が変容していく過程での「緑の革命」と発展途上国における農業開発の意義を考察する。第1次石油危機(1973-74年)下のインドは、輸出と貿易外収支の増加を通じて経済的危機を克服し、1974-77年にかけて年率27パーセントの輸出伸長と、ペルシア湾岸諸国からの海外送金の劇的な増大を通じて、例外的な貿易黒字を達成した。だがこの好循環も、1979年の第二次石油危機により反転し赤字に転落した。インドは、1970年代末-80年代初頭の二度目の経済危機をどのようにして乗り越えたのであろうか。後半では、二度の石油危機に対するインド政府独自の対応を、1980年代初頭に始まる国際通貨基金(IMF)の「構造調整」政策と関連づけて考察する。
食糧危機の間にインド政府が、資本財生産を中心とした重化学工業化から優先順位を変更したのは何ですか。
食糧危機の間にインド政府が、資本財生産を中心とした重化学工業化から優先順位を変更したのは、農業開発です。
JCRRAG_002889
歴史
 本稿は、1970年代のインドにおける「緑の革命」(the Green Revolution)と農業開発の進展を、石油危機との関連で再考する。なぜインドは、1970年代の石油危機という困難な状況の下で、事実上の食糧生産の自給を実現できたのだろうか。いかなる要因が、1970年代のインドの農業開発の進展に貢献したのだろうか。  1960年代半ばに、インドは「食糧危機」に直面したが、大規模な国際的な援助、とりわけアメリカ合衆国の食糧援助である公法480(PL480)を通じた史上最大の小麦援助を得て危機を乗り切っていた。この危機の間にインド政府は、経済開発の優先順位を、資本財生産を中心とした重化学工業化(いわゆるビッグ・プッシュ型工業化戦略)から農業開発へと変更した。その政策の変更は、1960年代末のインドにおける「緑の革命」の始まりと位置付けることができる。  しかし、1973-74年にインドは、第1次石油危機により引き起こされた経済不況の中で、農業開発にとり不可欠な必需品である化学肥料の不足に直面した。農業用化学肥料は石油化学産業の主要な副産物である。いかにして、インド政府は、グローバルな経済危機の下でこの化学肥料不足の問題を解決したのだろうか。本稿は前半で、インドに対する対外経済援助、特に、ロバート・マクナマラ総裁(1968-1981年)が率いた世界銀行グループ(国際開発復興銀行IBRDと国際開発協会IDA)からの経済援助に着目し、1970年代のアジア国際経済秩序が変容していく過程での「緑の革命」と発展途上国における農業開発の意義を考察する。第1次石油危機(1973-74年)下のインドは、輸出と貿易外収支の増加を通じて経済的危機を克服し、1974-77年にかけて年率27パーセントの輸出伸長と、ペルシア湾岸諸国からの海外送金の劇的な増大を通じて、例外的な貿易黒字を達成した。だがこの好循環も、1979年の第二次石油危機により反転し赤字に転落した。インドは、1970年代末-80年代初頭の二度目の経済危機をどのようにして乗り越えたのであろうか。後半では、二度の石油危機に対するインド政府独自の対応を、1980年代初頭に始まる国際通貨基金(IMF)の「構造調整」政策と関連づけて考察する。
インドの化学肥料不足に対する援助をした世界銀行グループの総裁は誰ですか?
インドの化学肥料不足に対する援助をした世界銀行グループの総裁は、ロバート・マクナマラです。
JCRRAG_002890
歴史
ロブサン=タイジに殺害されたグムブの後を継ぎ,ザサグト=ハーン位を継承したのはワンチュクであったが,彼はほどなくして死去し,康熙5(1666)年に彼の弟であるチェンブンがジューン=ガルのセンゲとその弟ガルダンの後ろ盾のもと,ザサグト=ハーン位を継承した[Buyandelger 2000]。すると,チェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,窮地を脱するためハルハ左翼へ逃亡した右翼の属衆の返還を求め,次第にトゥシェート=ハーン・チャホンドルジ(以下,トゥシェート=ハーンとはチャホンドルジを指す)と対立を深めていく。そこで康熙帝は,ダライ=ラマ5世と共同でハルハの対立を調停しようと康熙25年にフレン=ベルチルで講和会議を開いたが,トゥシェート=ハーンは右翼の属衆を半分しか返還せず,その上,康熙26(1687)年,ジューン=ガルのガルダンのもとに援助を求めるために向かったザサグト=ハーン・シャラ(チェンブンは会盟の直前に死去したため,子のシャラがハーン位を継承)を追撃して殺害するに至る。これにより,ガルダンは康熙27年にハルハへ侵攻しトゥシェート=ハーンを破ると,ハルハ左右翼の多くの属衆が清朝・康熙帝に保護を求め,康熙30(1691)年にハルハは正式に清朝の支配下に入った。
グムブの後にザサグト=ハーン位を継承したのは誰ですか?
グムブの後にザサグト=ハーン位を継承したのはワンチュクです。
JCRRAG_002891
歴史
ロブサン=タイジに殺害されたグムブの後を継ぎ,ザサグト=ハーン位を継承したのはワンチュクであったが,彼はほどなくして死去し,康熙5(1666)年に彼の弟であるチェンブンがジューン=ガルのセンゲとその弟ガルダンの後ろ盾のもと,ザサグト=ハーン位を継承した[Buyandelger 2000]。すると,チェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,窮地を脱するためハルハ左翼へ逃亡した右翼の属衆の返還を求め,次第にトゥシェート=ハーン・チャホンドルジ(以下,トゥシェート=ハーンとはチャホンドルジを指す)と対立を深めていく。そこで康熙帝は,ダライ=ラマ5世と共同でハルハの対立を調停しようと康熙25年にフレン=ベルチルで講和会議を開いたが,トゥシェート=ハーンは右翼の属衆を半分しか返還せず,その上,康熙26(1687)年,ジューン=ガルのガルダンのもとに援助を求めるために向かったザサグト=ハーン・シャラ(チェンブンは会盟の直前に死去したため,子のシャラがハーン位を継承)を追撃して殺害するに至る。これにより,ガルダンは康熙27年にハルハへ侵攻しトゥシェート=ハーンを破ると,ハルハ左右翼の多くの属衆が清朝・康熙帝に保護を求め,康熙30(1691)年にハルハは正式に清朝の支配下に入った。
チェンブンがザサグト=ハーン位を継承したのはいつですか?
チェンブンがザサグト=ハーン位を継承したのは康熙5(1666)年です。
JCRRAG_002892
歴史
ロブサン=タイジに殺害されたグムブの後を継ぎ,ザサグト=ハーン位を継承したのはワンチュクであったが,彼はほどなくして死去し,康熙5(1666)年に彼の弟であるチェンブンがジューン=ガルのセンゲとその弟ガルダンの後ろ盾のもと,ザサグト=ハーン位を継承した[Buyandelger 2000]。すると,チェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,窮地を脱するためハルハ左翼へ逃亡した右翼の属衆の返還を求め,次第にトゥシェート=ハーン・チャホンドルジ(以下,トゥシェート=ハーンとはチャホンドルジを指す)と対立を深めていく。そこで康熙帝は,ダライ=ラマ5世と共同でハルハの対立を調停しようと康熙25年にフレン=ベルチルで講和会議を開いたが,トゥシェート=ハーンは右翼の属衆を半分しか返還せず,その上,康熙26(1687)年,ジューン=ガルのガルダンのもとに援助を求めるために向かったザサグト=ハーン・シャラ(チェンブンは会盟の直前に死去したため,子のシャラがハーン位を継承)を追撃して殺害するに至る。これにより,ガルダンは康熙27年にハルハへ侵攻しトゥシェート=ハーンを破ると,ハルハ左右翼の多くの属衆が清朝・康熙帝に保護を求め,康熙30(1691)年にハルハは正式に清朝の支配下に入った。
チェンブンがトゥシェート=ハーン・チャホンドルジと対立を深めていったのはなぜですか?
チェンブンがトゥシェート=ハーン・チャホンドルジと対立を深めていったのは、康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に、窮地を脱するためハルハ左翼へ逃亡した右翼の属衆の返還を求めたからです。
JCRRAG_002893
歴史
ロブサン=タイジに殺害されたグムブの後を継ぎ,ザサグト=ハーン位を継承したのはワンチュクであったが,彼はほどなくして死去し,康熙5(1666)年に彼の弟であるチェンブンがジューン=ガルのセンゲとその弟ガルダンの後ろ盾のもと,ザサグト=ハーン位を継承した[Buyandelger 2000]。すると,チェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,窮地を脱するためハルハ左翼へ逃亡した右翼の属衆の返還を求め,次第にトゥシェート=ハーン・チャホンドルジ(以下,トゥシェート=ハーンとはチャホンドルジを指す)と対立を深めていく。そこで康熙帝は,ダライ=ラマ5世と共同でハルハの対立を調停しようと康熙25年にフレン=ベルチルで講和会議を開いたが,トゥシェート=ハーンは右翼の属衆を半分しか返還せず,その上,康熙26(1687)年,ジューン=ガルのガルダンのもとに援助を求めるために向かったザサグト=ハーン・シャラ(チェンブンは会盟の直前に死去したため,子のシャラがハーン位を継承)を追撃して殺害するに至る。これにより,ガルダンは康熙27年にハルハへ侵攻しトゥシェート=ハーンを破ると,ハルハ左右翼の多くの属衆が清朝・康熙帝に保護を求め,康熙30(1691)年にハルハは正式に清朝の支配下に入った。
ダライ=ラマ5世と共同でハルハの対立を調停しようとフレン=ベルチルで講和会議を開いたのはだれですか?
ダライ=ラマ5世と共同でハルハの対立を調停しようとフレン=ベルチルで講和会議を開いたのは康熙帝です。
JCRRAG_002894
歴史
ロブサン=タイジに殺害されたグムブの後を継ぎ,ザサグト=ハーン位を継承したのはワンチュクであったが,彼はほどなくして死去し,康熙5(1666)年に彼の弟であるチェンブンがジューン=ガルのセンゲとその弟ガルダンの後ろ盾のもと,ザサグト=ハーン位を継承した[Buyandelger 2000]。すると,チェンブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件の際に,窮地を脱するためハルハ左翼へ逃亡した右翼の属衆の返還を求め,次第にトゥシェート=ハーン・チャホンドルジ(以下,トゥシェート=ハーンとはチャホンドルジを指す)と対立を深めていく。そこで康熙帝は,ダライ=ラマ5世と共同でハルハの対立を調停しようと康熙25年にフレン=ベルチルで講和会議を開いたが,トゥシェート=ハーンは右翼の属衆を半分しか返還せず,その上,康熙26(1687)年,ジューン=ガルのガルダンのもとに援助を求めるために向かったザサグト=ハーン・シャラ(チェンブンは会盟の直前に死去したため,子のシャラがハーン位を継承)を追撃して殺害するに至る。これにより,ガルダンは康熙27年にハルハへ侵攻しトゥシェート=ハーンを破ると,ハルハ左右翼の多くの属衆が清朝・康熙帝に保護を求め,康熙30(1691)年にハルハは正式に清朝の支配下に入った。
ハルハが正式に清朝の支配下に入ったのはいつですか?
ハルハが正式に清朝の支配下に入ったのは、康熙30(1691)年です。
JCRRAG_002895
歴史
 20世紀初頭、マイノリティとしての中国ムスリム知識人の一部は、社会ダーウィン主義及びナショナリズムが蔓延している中国社会において生き残るために、エスニシティー改造とイスラーム改革の道を選んだ。松本(2003)によれば、彼らによって出された処方箋は次の通りである。第一に、時代に相応しい指導者を育成するために、イスラームと西欧近代主義を同時に教える教育機関を設立する。第二に、クルアーンの翻訳を通じて、信者によるクルアーンに対する理解を促し、中国イスラーム衰退を阻止する。第三に、愛国主義をイスラームの教義と解釈し、「回」を国民思想と国民意識に統合する。この処方箋にしたがい、民国初期以来様々なムスリム組織・団体が設立され、教育振興、社会救済、職業訓練などが行われた(矢久保2022)。また、ムスリムを国民思想と国民意識に統合し、漢人社会から抑圧されている状況を改善して政治的・社会地位を向上するために、ムスリム知識人は政治に関して発信し、政治活動にも積極的に参加した。  こうした中国ムスリム知識人による政治参加に関する先行研究の関心は、主に民国期あるいは改革開放以降に焦点を当てている(澤井2011; 矢久保2015, 2022; Matsumoto 2002, 2006)。だが一部のムスリム知識人が御用文人となり、政権協力を通じて中国ムスリムの全体を指導し始めた毛沢東時代(1949~1978)(1)は十分に議論されていない。中国ムスリム知識人の代表的存在である馬堅はこの時代について議論するための良い着目点と言える。しかし、沙(1985)、李振中(2000)及び馬志学(2019)など、馬堅にまつわる文章は大抵回顧にとどまっており、学術的な検討が不足している。さらに馬堅のイメージを良好に保つため、また政権の公式見解・価値観に従わせるために、一部の史実が隠蔽されている。
20世紀初頭、中国ムスリム知識人の一部が、社会ダーウィン主義及びナショナリズムが蔓延している中国社会において生き残るために選んだ道は何ですか?
20世紀初頭、中国ムスリム知識人の一部が、社会ダーウィン主義及びナショナリズムが蔓延している中国社会において生き残るために選んだ道は、エスニシティー改造とイスラーム改革です。
JCRRAG_002896
歴史
 前述のとおり,康熙26年秋にトゥシェート=ハーンはガルダンのもとに向かったザサグト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイ,ダルマシリ=ノヤンを追跡し,ザサグト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイを殺害した。つづいて,トゥシェート=ハーンの子ガルダン=タイジは,ガルダンの弟ドルジジャブが兵を率いて右翼で略奪を行なったため,それを追跡して殺害した[宮脇 1979: 126-127][黒龍 2013: 43(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116]。ガルダンは前述したとおり,ザサグト=ハーンに従わない右翼の属衆に対して軍事征討する姿勢を示していたが,ドルジジャブに略奪された右翼とは,ザサグト=ハーンに従ってガルダンのもとへ向かった首長ら以外の属衆であり,この略奪は見せしめの意味があったと考えられる。ザサグト=ハーンが殺害されると,ガルダンはザサグト=ハーンの妻と3人の子バラン,グンゲ,ケセグをアルタイ山陽に居住させるとともに[岡 2007: 84(初出 1993)],康熙27年春,30000の兵を率いてハルハ右翼,さらに左翼を攻撃し,続けてトゥシェート=ハーンの子ガルダン=タイジと交戦してこれを破った。8月,トゥシェート=ハーンはガルダン軍と激突するが敗北し,これによりハルハ左右翼の多くが清朝支配下の漠南へ逃亡した[宮脇 1979: 126-127][黒龍 2013: 43-44(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116]。  ところが,ガルダンはハルハ侵攻直後,甥のツェワン=ラブタンが離反したことにより,ジューン=ガル本国との連絡が絶ち切られ,アルタイ山脈以東に孤立してしまい,当初の勢いを失っていく[岡田 2013: 93-94]。その上,康熙29(1690)年にはガルダンの援助を受けていたザサグト=ハーンの子バランまでもがダルマシリ=ノヤンに率いられ清朝に帰順する。
ガルダンはザサグト=ハーンに従わない右翼の属衆に対して、どのような姿勢を示していましたか。
ガルダンはザサグト=ハーンに従わない右翼の属衆に対して、軍事征討する姿勢を示していました。
JCRRAG_002897
歴史
 20世紀初頭、マイノリティとしての中国ムスリム知識人の一部は、社会ダーウィン主義及びナショナリズムが蔓延している中国社会において生き残るために、エスニシティー改造とイスラーム改革の道を選んだ。松本(2003)によれば、彼らによって出された処方箋は次の通りである。第一に、時代に相応しい指導者を育成するために、イスラームと西欧近代主義を同時に教える教育機関を設立する。第二に、クルアーンの翻訳を通じて、信者によるクルアーンに対する理解を促し、中国イスラーム衰退を阻止する。第三に、愛国主義をイスラームの教義と解釈し、「回」を国民思想と国民意識に統合する。この処方箋にしたがい、民国初期以来様々なムスリム組織・団体が設立され、教育振興、社会救済、職業訓練などが行われた(矢久保2022)。また、ムスリムを国民思想と国民意識に統合し、漢人社会から抑圧されている状況を改善して政治的・社会地位を向上するために、ムスリム知識人は政治に関して発信し、政治活動にも積極的に参加した。  こうした中国ムスリム知識人による政治参加に関する先行研究の関心は、主に民国期あるいは改革開放以降に焦点を当てている(澤井2011; 矢久保2015, 2022; Matsumoto 2002, 2006)。だが一部のムスリム知識人が御用文人となり、政権協力を通じて中国ムスリムの全体を指導し始めた毛沢東時代(1949~1978)(1)は十分に議論されていない。中国ムスリム知識人の代表的存在である馬堅はこの時代について議論するための良い着目点と言える。しかし、沙(1985)、李振中(2000)及び馬志学(2019)など、馬堅にまつわる文章は大抵回顧にとどまっており、学術的な検討が不足している。さらに馬堅のイメージを良好に保つため、また政権の公式見解・価値観に従わせるために、一部の史実が隠蔽されている。
イスラームと西欧近代主義を同時に教える教育機関を設立するのは何のためですか?
イスラームと西欧近代主義を同時に教える教育機関を設立するのは、時代に相応しい指導者を育成するためです。
JCRRAG_002898
歴史
 20世紀初頭、マイノリティとしての中国ムスリム知識人の一部は、社会ダーウィン主義及びナショナリズムが蔓延している中国社会において生き残るために、エスニシティー改造とイスラーム改革の道を選んだ。松本(2003)によれば、彼らによって出された処方箋は次の通りである。第一に、時代に相応しい指導者を育成するために、イスラームと西欧近代主義を同時に教える教育機関を設立する。第二に、クルアーンの翻訳を通じて、信者によるクルアーンに対する理解を促し、中国イスラーム衰退を阻止する。第三に、愛国主義をイスラームの教義と解釈し、「回」を国民思想と国民意識に統合する。この処方箋にしたがい、民国初期以来様々なムスリム組織・団体が設立され、教育振興、社会救済、職業訓練などが行われた(矢久保2022)。また、ムスリムを国民思想と国民意識に統合し、漢人社会から抑圧されている状況を改善して政治的・社会地位を向上するために、ムスリム知識人は政治に関して発信し、政治活動にも積極的に参加した。  こうした中国ムスリム知識人による政治参加に関する先行研究の関心は、主に民国期あるいは改革開放以降に焦点を当てている(澤井2011; 矢久保2015, 2022; Matsumoto 2002, 2006)。だが一部のムスリム知識人が御用文人となり、政権協力を通じて中国ムスリムの全体を指導し始めた毛沢東時代(1949~1978)(1)は十分に議論されていない。中国ムスリム知識人の代表的存在である馬堅はこの時代について議論するための良い着目点と言える。しかし、沙(1985)、李振中(2000)及び馬志学(2019)など、馬堅にまつわる文章は大抵回顧にとどまっており、学術的な検討が不足している。さらに馬堅のイメージを良好に保つため、また政権の公式見解・価値観に従わせるために、一部の史実が隠蔽されている。
イスラームの教義と解釈されたのは何ですか?
イスラームの教義と解釈されたのは、愛国主義です。
JCRRAG_002899
歴史
筆者は康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件直後における清朝のハルハ政策を検討した結果,17世紀後半以降,清朝がトゥシェート=ハーンのハルハにおける勢力拡大や,清朝の使者に対する非礼な態度に懸念を抱いていたことを明らかにした[関根 2019: 52-58]。さらに,清朝とハルハ左翼の間には,ザサグト=ハーン殺害事件によって生じた逃亡者問題を巡って,軋轢が生じていたことも判明した[関根 2019: 60-63]。また,トゥシェート=ハーンは,ハルハの内紛の収拾を求める康熙帝の意向に反して,フレン=ベルチルの会盟での決定事項を守らず,さらにはザサグト=ハーン・シャラを殺害するに至ったことを踏まえると,清朝とハルハ左翼が良好な関係にあったとは考え難い。その上,従来の研究ではザサグト=ハーン家とガルダンの結びつきが強調されてきたが,康熙27年にガルダンがハルハヘ侵攻すると,ハルハ左翼のみならずハルハ右翼の属衆までもが清朝に保護を求め,ザサグト=ハーン家もまた最終的に清朝に帰順することを踏まえると,清朝が両ハーンの対立にどのように介入し,また,いかなる経緯でハルハが清朝に保護を求めるに至ったのかをあらためて検討する必要がある。
17世紀後半以降、清朝が懸念を抱いていたことは何ですか?
17世紀後半以降、清朝が懸念を抱いていたことは、トゥシェート=ハーンのハルハにおける勢力拡大や、清朝の使者に対する非礼な態度です。
JCRRAG_002900
歴史
筆者は康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件直後における清朝のハルハ政策を検討した結果,17世紀後半以降,清朝がトゥシェート=ハーンのハルハにおける勢力拡大や,清朝の使者に対する非礼な態度に懸念を抱いていたことを明らかにした[関根 2019: 52-58]。さらに,清朝とハルハ左翼の間には,ザサグト=ハーン殺害事件によって生じた逃亡者問題を巡って,軋轢が生じていたことも判明した[関根 2019: 60-63]。また,トゥシェート=ハーンは,ハルハの内紛の収拾を求める康熙帝の意向に反して,フレン=ベルチルの会盟での決定事項を守らず,さらにはザサグト=ハーン・シャラを殺害するに至ったことを踏まえると,清朝とハルハ左翼が良好な関係にあったとは考え難い。その上,従来の研究ではザサグト=ハーン家とガルダンの結びつきが強調されてきたが,康熙27年にガルダンがハルハヘ侵攻すると,ハルハ左翼のみならずハルハ右翼の属衆までもが清朝に保護を求め,ザサグト=ハーン家もまた最終的に清朝に帰順することを踏まえると,清朝が両ハーンの対立にどのように介入し,また,いかなる経緯でハルハが清朝に保護を求めるに至ったのかをあらためて検討する必要がある。
ハルハの内紛の収拾を求めていたのは誰ですか?
ハルハの内紛の収拾を求めていたのは、康熙帝です。