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|---|---|---|---|---|
JCRRAG_009301 | 金融 | タンス預金の現状
タンス預金とは、金融機関に現金を預けず、自宅などに保管することを指します。最近は金融機関の金利が上昇傾向にありますが、それまで長年にわたり続いた低金利などを理由に、現金を手元に置く選択をする人が一定数いるようです。
日本銀行の資金循環統計(2024年3月末)のデータでは、家計において保有する現金が105兆1,200億円にのぼることが分かっています。このうち、実際にどの程度がタンス預金の額なのかは不明ですが、多額の現金が自宅に保管されていると予想されます。
タンス預金のメリットとデメリット
タンス預金の最大のメリットは、現金が手元にある安心感です。必要なときに現金を使えるため、急な支出にも対応できます。また、銀行システムの停止や経営破綻など、金融機関で起こりうるリスクから解放されることで、心の安定を得られる人もいるでしょう。
しかし、タンス預金は持っているだけでは資産が増えないため、インフレなどの影響で実質的な価値が減少する可能性があります。また、現金を自宅に保管することで、盗難や火災による損失などに注意しなければなりません。
さらに、タンス預金は金額や存在を証明することが難しく、遺産分割が複雑になるなど、相続時にトラブルになる可能性があります。
口座開設を断られる理由
原則、1つの金融機関で開設できる口座は1人につき1つとなっています。同じ金融機関において1人が複数の口座を持つことは、犯罪に使われるなど不正利用のリスクが高まると考えられるためです。
口座の数が1つでも、過去に金融トラブルなどがあると信用情報が悪化し、口座開設を拒否されることがあるようです。また、利用目的などを明確に説明できない場合や、必要な本人確認書類が不足していたりする場合も、口座開設は難しいでしょう。
複数の口座を持つには?
資産を複数の金融機関の口座に分けて預けることは、リスク管理の観点から大切とされています。万が一、1つの口座に問題が発生した場合でも、ほかの口座に資産が分散されていれば、全てを失うリスクを軽減できるでしょう。
そのためには、複数の金融機関でそれぞれ口座を開設し、管理する必要があります。ただし、異なる銀行間で資金移動するには、基本的に手数料が発生します。頻繁に資金移動を行う場合、手数料を負担に感じるかもしれません。
複数の口座を持つことで、それぞれの入出金状況や残高、通帳やキャッシュカード、IDやパスワードなどを管理する必要が生じ、手間がかかる点も理解しておく必要があります。
一部の銀行では目的別に分けられる口座や、別の支店の口座を開設できるサービスを提供しており、このような銀行を利用するのもひとつの手段です。
複数の口座を開設する場合は、原則として2つ以上の金融機関で開設する必要がある
原則的に1つの金融機関で開設できる口座は1人1つです。複数の金融機関で口座を持つことで、銀行システムのトラブルや破綻のリスクを分散できます。また、目的別に口座を分けたり、貯蓄などの計画が立てやすくなったりするメリットもあるでしょう。
さらに、各金融機関の特典やサービスを活用することも可能です。しかし、異なる銀行間での資金移動には基本的に振込手数料が必要であり、管理の手間が増えるため、無理のない範囲で口座の使い分けを考えていく必要があります。 | 現金を自宅に保管している状態で盗難にあうと現金はいくらになりますか。 | 現金を自宅に保管している状態で盗難にあうと、現金がなくなり0円になります。 |
JCRRAG_009302 | 金融 | 住民税とは、居住している地域の地方公共団体に納付する税金です。都道府県に納付する税金と、市町村に納付する税金の2つを総称して住民税と呼びます。住民税は、住所のある市区町村に納付する「個人住民税」と、その地域に事業所を置く企業などが納付する「法人住民税」に分けられます。本コラムで主に解説するのは、「個人住民税」なのでご注意ください。
住民税の目的は、地方公共団体が地域に提供する行政サービスの財源を確保することです。地域のごみの処理、安全な道路、誰もが受けられる学校教育など、私たちの生活はさまざまな行政サービスによって成立しています。そして当然ながら、これらは決して無料で用意できるものではありません。住民税は、こうした行政サービスの財源を維持するために使われます。
そもそも国税、地方税とは?
税金には、国に納付する国税と、地方公共団体に納付する地方税の2種類があります。国税の代表格は、所得税や消費税、相続税などです。地方税は、住民税や固定資産税などが該当します。そもそも税金は大きく以下の視点から分類されます。
1.どこに納付する税金か(国税/地方税)
2.何に対する税金か(所得課税/消費課税/資産課税など)
3.どのように課税するか(直接税/間接税)
国税と地方税の区別は、一番目の「どこに納付する税金か」に関係しています。
住民税と所得税の違いとは?
会社員は、住民税と所得税が給与から天引きされているのが一般的なので、住民税と所得税の違いをあまり意識していないかもしれません。両者は、1年間の所得金額に応じて納付額が決定されるという点では共通しています。大きく異なるのは「どこに納付する税金か」という点です。
先述のとおり、住民税は居住する地域の地方公共団体に納付する地方税に該当します。他方で、所得税は税務署に納付する国税です。また、住民税は所得のあった翌年度に課税される一方で、所得税は所得のあった年(現年)に課税されます。課税率や控除の算出方法にも違いがあります。このように住民税と所得税は、共通点はあるものの、分類の異なる税金です。
住民税の種類
住民税は、自宅や会社の住所がある都道府県、市区町村に納める税金です。以下の5種類があり、それぞれ税額と税率は異なります。
・均等割:市町村民税3,000円、道府県民税1,000円、森林環境税1,000円
※ 森林環境税は令和6年度から均等割りと併せて徴収される国税です
・所得割:市町村民税6%、道府県民税4%
・利子割:税率5%
・配当割:税率5%
・株式等譲渡所得割:税率5%
利子割・配当割・株式等譲渡所得割は道府県民税のみ課税されます。 | 住民税の均等割の合計額と所得割の合計税率を算出し、それを合わせた住民税の総額は年収400万円の人の場合はいくらになりますか。 | 年収400万円の人の場合、住民税の総額はおおよそ405,000円です。 |
JCRRAG_009303 | 金融 | ◆◆投資商品の種類と特徴
投資を実践するためには、その投資先を知る必要があります。株式、投資信託、
外貨預金など、それぞれの投資商品が持つ特徴とリスクについてまとめました。
◆投資は常にリスクと隣り合わせ
貯蓄と比較すると、投資商品は収益性に期待が持てますが、一方で元本割れの可
能性がある商品であることも知っておきましょう。実際に投資する前には、各商
品の詳細の確認は欠かせません。ここでは主な特徴を整理しました。
◆投資商品の種類
投資商品の種類と特徴
・外貨預金
文字通り「外国の通貨」で預ける預金です。
満期日の為替レートが預け入れた時より円安になっていれば為替差益が生じます。
満期日の為替レートが預け入れた時より円高になっていれば為替差損が生じます。
・投資信託
資金を集めて運用している投資商品。
投資信託委託会社の専門家(ファンドマネージャー)が決めた運用方針に従っ
て公社債や株式などさまざまな投資先に分散投資して運用されます。
投資信託は、元本保証がありません。
・株式
株式とは、株式会社に対する「出資持分」のことです。「株式を保有すること」
は、「会社に対して出資をすること」です。
株式投資の最大の魅力は値上がり益であり、預貯金にはない大きな収益が期待でき
ます。一方で値下がりや倒産などリスクもあります。
・公共債
公共債とは国や地方自治体が資金調達のために発行する債券です。
公共債には、国が発行する国債、地方自治体が発行する地方債、その他に政府
機関債があります。
・個人年金保険
将来の年金受け取りと、資産形成(運用)、死亡保障の機能をあわせ持つ商品
です。万一、年金の受け取り開始日前に、被保険者が亡くなった場合には、遺
族に死亡給付金が支払われます。
・金銭信託
信託銀行が利用者にかわってお金を管理、運用する金融商品です。
元本補てん契約により元本が保証される商品と元本補てん契約がなく元本が保
証されない商品があります。
・純金積立
毎月一定の金額で金を自動的に購入します。
金の価格が安いときには多く買え、高いときには少なくなります。
| 投資商品のうち、資産運用を任せることができる商品はいくつありますか。 | 投資商品のうち、資産運用を任せることができる商品は3つあります。投資信託、個人年金保険、金銭信託の3つです。 |
JCRRAG_009304 | 金融 | ◆確定拠出年金(DC)の概要
確定拠出年金(DC)とは、銀行などの運営管理機関が提示する金融商品を加入
者が選択し、月々の拠出金を運用していくことで、将来受給する年金を確保し
ていく仕組みです。
少子高齢化や高齢期の生活の多様化など、社会経済情勢の変化を背景に、これ
までの年金制度を補完するために2002年から導入されました。
従来の年金制度との大きな違いは年金受給額が人によって異なることです。年
金資金運用のプラン、コースを自分で選択、指図します。これまでの企業年金
と違い、転職の際にも移管が可能ですが、年金資金の運用結果は加入者自身の
自己責任となります。
確定拠出年金(DC)では、銀行などの運営管理機関が提示するいくつかの金融
商品をそれぞれの加入者が選択し、月々の拠出金を運用していくことで、将来
受給する年金を確保していくしくみです。
◆確定拠出年金にある企業型と個人型の違い
確定拠出年金(DC)には、企業型と個人型(愛称「iDeCo(イデコ)」)があり
ます。
企業型年金では加入できるのが「労使合意に基づき確定拠出年金制度を実施す
る企業の従業員」、掛け金の支払いは「会社からの拠出に加え、規約に定めれ
ば、個人からの拠出も可能」となっています。
一方、掛け金を個人が拠出する個人型の加入対象は、2016年までは自営業者や
企業年金のない会社員などに限られていましたが、現在は企業年金のある会社
員(※)や公務員、専業主婦まで拡大されています。掛け金の支払いは、原則
として個人からの拠出のみとなりますが、2018年5月から従業員数100人以下の
企業を対象に個人型DCに加入している従業員に対し、事業主が追加で掛金拠出
を可能とする中小事業主掛金納付制度が始まりました。(現在は従業員数300人
以下まで要件が拡大)
また、拠出できる限度額も異なります。企業型が月額55,000円なのに対し、個
人型は会社員(公務員を含む)が20,000円(企業年金あり(※))もしくは
23,000円(企業年金なし)、自営業者などが68,000円、専業主婦(夫)が23,000円となります。
(※)会社員や公務員で、企業型や確定給付企業年金(DB)等の他制度に加入
している場合の拠出限度額は、「月額55,000円 -(各月の企業型の事業主掛金
額 +DB等の他制度掛金相当額)(月額 20,000円が上限)」となります。
| 企業型と個人型の自営業者では、確定拠出年金の拠出限度額が大きいのはどちらですか。 | 企業型と個人型の自営業者では、確定拠出年金の限度額が大きいのは個人型の自営業者です。 |
JCRRAG_009305 | 金融 | ◆暗号資産(仮想通貨)に関する制度整備
暗号資産(仮想通貨)の拡がりに伴い、暗号資産(仮想通貨)に関する法制度
の整備も促進されています。
例えば、暗号資産(仮想通貨)と法定通貨等の交換を行う事業者が存在します
が、業務を行うためには金融庁・財務局の登録を受けなければならないことが
改正資金決済法で定められました。制度の詳細や登録事業者等については、金
融庁ウェブサイトをご覧ください。
また、2017年7月から暗号資産(仮想通貨)の売買における消費税が非課税とな
ることが、消費税法で定められました。
◆電子マネーとは何が違うのか
暗号資産(仮想通貨)は、貨幣や硬貨が存在しない電子的なものであることか
ら、電子マネーと混同しがちですが、異なる性質のものです。
電子マネーは、電子化された決済手段のことです。基本的には円やドル等の法
定通貨を対価として支払うことで利用ができるもので、必ず発行主体が存在し、
発行主体が価値の裏づけをしています。また、電子マネーは原則として換金す
ることができず、不特定の者との取引にも利用できません。
一方で、暗号資産(仮想通貨)は、必ずしも発行主体や管理者が存在しないこ
と、価値が増減すること、法定通貨と相互交換できること、インターネット上
で不特定の者に対する取引に利用できること、などが特徴として挙げられます。
暗号資産(仮想通貨)の価格が上がることを期待して、投資目的で保有するケ
ースが多くなっていますが、暗号資産(仮想通貨)は、法的にも電子マネーと
は異なるものとして定義されており、価格が急落するリスクもあるため、特徴
を十分ご理解いただいたうえで利用することが大切です。
◆暗号資産(仮想通貨)を支える技術、ブロックチェーン
一般的に、暗号資産(仮想通貨)は、ブロックチェーンという技術によって記
録・管理されています。ブロックチェーンは、データの破壊・改ざんが極めて
困難な仕組みであることから、暗号資産(仮想通貨)がシステム障害やハッキ
ング等によって消失する可能性はほとんどありません。しかし、暗号資産(仮
想通貨)の保有者は暗号資産(仮想通貨)の所有を示す鍵を安全に管理する必
要があり、鍵を無くしたり、ハッキングされた際には、暗号資産(仮想通貨)
を失うことになります。
| 電子マネーと暗号資産の違いについて、説明してください。 | 電子マネーは、基本的には法定通貨を対価として支払うことで利用ができるもので、必ず発行主体が存在して価値の裏付けをしています。また、原則として換金することができず、不特定の者との取引にも利用できません。
一方で暗号資産は、必ずしも発行主体が存在せず、価値が増減すること、法定通貨と相互交換できることなどから、投資目的で保有することがあります。 |
JCRRAG_009306 | 金融 | 株式会社が発行した株を買うとその人は株主と呼ばれるようになり、株主としての権利を持つことができます。権利は大きく以下の3つに分けられます。
1会社の経営に参加できる
株主総会に出席して、会社の色々な提案に対して賛成・反対の意思表示ができる権利です。一定の持株比率以上の株主には、会社の帳簿を見ることや取締役の解任も提案できる等の権利が与えられています。
2利益の分配を受けられる
会社がその事業の営みによってあげた利益の一部を「配当金」の形で受けられる権利です。企業業績や会社の経営方針等により必ずしも配当があるとは限りませんが、会社の利益が増えれば株主への「配当金」も増えますので、将来繁盛しそうな会社の株をもつことがお金を増やすことにつながるといえます。
3会社が解散した際、財産の分配を受けられる
会社が事業を取り止める、つまり解散するという話ですから、1や2のような株主としての権利とは異なります。しかし、会社が解散する際に、負債があればまず負債(借金)を返済し、なお財産がある場合、株主はその持株数に応じて残った財産の分配を受けることができるのです。これを残余財産分配請求権といいます。
どこの会社の株式を買うかの重要なポイントの一つとして「株主優待を受けられる」特典は見逃せないポイントの一つです。「株主優待」とは、会社が自社の商品や優待券、サービスを株主に無料でプレゼントするものです。どの会社も実施しているわけではないのですが、株主還元策の一環 としてユニークな方法を実施している会社が多くあります。たとえば鉄道会社や航空会社だと無料パスを配ったり、遊園地や映画館等の企業は招待券等の提供を行っています。 | 株主が将来的にお金を増やすことにつながる会社はどのような会社ですか。 | 将来繁盛しそうな会社です。 |
JCRRAG_009307 | 金融 | 少し視点を広くして投資の必要性について考えてみましょう。日本では政府が「貯蓄から投資へ」というスローガンのもと、NISAやiDeCoなど、投資を促す政策が進められています。
なぜこのように投資の必要性が高まっているのか。その背景には主に2つの理由が考えられます。
1.インフレ(物価上昇)
モノやサービスの値段が上がることをインフレ(物価上昇)と言います。
日本の中央銀行である日銀では毎年2%ずつモノやサービスの値段を上げていきたいという「物価安定の目標」を掲げています。私たち消費者からすればモノやサービスの値段が上がることは、生活費が上がることになり望ましくないと感じるかもしれません。しかし本来、国の経済をよくするには、ほどよいインフレとそれに伴った賃金(給料)の上昇が良い経済の循環のために大切だと言われています。現状の日本はインフレに賃金の上げが追いついていないと感じる方もいるのではないでしょうか。そこで私たち国民としては、投資を知ることでインフレ対策の手段を増やし、自分たちの生活水準が維持できるようにしていくことも必要です。
2.人生100年時代
現代は「人生100年時代」とも言われています。医療の進歩に伴い寿命は延びていくと予想されています。寿命が延びることは素晴らしいことではありますが、長生きする分、生活費もかかることを忘れてはいけません。2019年に金融庁「市場ワーキング・グループ」の報告書より、「老後の30年間で約2000万円が不足する」と発表されましたが、今後は退職金や年金だけでは生活するのが難しくなることが推測されます。
そのため私たちは老後に備えて自分で準備していくことが求められています。時間を味方につける長期投資は賢い選択と言えるでしょう。 | 医療の進歩に伴い国民が長生きする分、老後に備えて、日本政府は何を勧めているでしょうか。 | 投資 |
JCRRAG_009308 | 金融 | 2008年の世界的な金融危機後、主要先進国では相次いで金融緩和政策が強化された。これらの政策は、政策金利の操作を行う「伝統的金融政策」に加えて、資産購入等を含む「非伝統的金融政策」も採り入れたものであるが、すでに導入から相応の期間が経過しており、こうした金融政策が一種のスタンダードともいえる状況となっている。
わが国について、その歴史的な経緯を振り返ると、日本銀行はバブル崩壊後、1991年7月より金融緩和を継続し、1999年には「ゼロ金利政策」、2001年には「量的緩和政策」、2010年には「包括的な金融緩和政策」、といった様々な非伝統的金融政策を導入してきた。2013年4月に導入された「量的・質的金融緩和政策」は、安倍政権の経済政策であるアベノミクス「三本の矢」の「第一の矢」として位置づけられるもので、財政政策等もあわせたポリシーミックスの中での役割も期待されるものとなった。2016年2月には「マイナス金利付き量的・質的金融緩和政策」が導入されるなど、「量」、「質」、「金利」という三次元での金融緩和が推し進められることとなった。2016年9月には「量的・質的金融緩和政策」・「マイナス金利付き量的・質的金融緩和政策」のもとでの経済・物価動向や政策効果について「総括的な検証」が行われるとともに、これまでの枠組みをさらに強化し、長期金利を含めた「金利」をも操作目標とする「長短金利操作付き量的・質的金融緩和政策」が導入された 。こうした大規模な金融緩和政策を通じて、わが国では、歴史的に類をみない、極めて緩和的な金融環境が続いている。
こうした一連の金融緩和政策の導入は、債券金利や貸出金利の低下に加え、過度な円高の是正、株価の上昇、社債発行の増加などをもたらし、一定の景気浮揚効果はみられた。一方、これらの「量的・質的金融緩和政策」をはじめとする、極めて大規模な金融緩和が導入され3年が経過したものの、日本銀行の目標である「2%」のインフレ率達成時期は依然不透明なものにとどまっている。導入当初に想定されていた所期の効果が十分に得られたとは言い難い中、想定以上のイールドカーブのフラット化などにより、金融機関の円滑な金融仲介機能を阻害する可能性がある点などについて、懸念の声も聞かれている。2016年2月に開始された「マイナス金利付き量的・質的金融緩和政策」を受け、新発10年物および20年物国債の金利がわが国史上初めてマイナスを記録した。こうした政策は、金利の低下を通じて、総需要を喚起する目的を持ったものであったが、金融機関の経営に対する影響も大きく、2016年度中間期決算において、預貸金利鞘の縮小等により前年同期比減益を公表している銀行が大宗を占める状況となっている。
アベノミクスとは、2012年12月26日に始まった第2次安倍政権において、安倍晋三首相(当時)が表明した「3本の矢」を柱とする経済政策のことです。最大目標を経済回復と位置づけ、①大胆な金融政策(デフレ脱却を目指し、2%のインフレ目標が達成できるまで無期限の量的緩和を行うこと)、②機動的な財政出動(東日本大震災からの復興、安全性向上や地域活性化、再生医療の実用化支援等に充てるため、大規模な予算編成を行うこと)、③民間投資を喚起する成長戦略(成長産業や雇用の創出を目指し、各種規制緩和を行い、投資を誘引すること)という3本の矢によって、日本経済を立て直そうという計画です。
アベノミクスという名称は安倍元首相の苗字にエコノミクス(経済)を合わせた造語で、1980年代に米国のレーガン大統領が取った経済政策「レーガノミクス」にちなんだものです。 | 2013年4月に導入された政策を表明した人物が、第2次政権に就いたのはいつですか。
は、安倍政権の経済政策であるアベノミクス「三本の矢」の「第一の矢」として位置づけられるもの
2012年12月26日に始まった第2次安倍政権において、安倍晋三首相(当時)が表明した「3本の矢」を柱とする経済政策のことです。 | 2013年4月に導入された政策を表明した人物が、第2次政権に就いたのは、2012年12月26日です。 |
JCRRAG_009309 | 金融 | 1.日本銀行は、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」を理念として、金融政策を運営している。日本銀行は、本日の政策委員会・金融政策決定会合において、昨年2月に導入した「中長期的な物価安定の目途」を上記理念に照らして点検した。その結果、「物価安定の目標」を新たに導入するとともに、金融政策運営の枠組みを改めて示すこととした。
2.「物価の安定」を概念的に定義すると、「家計や企業等の様々な経済主体が物価水準の変動に煩わされることなく、消費や投資などの経済活動にかかる意思決定を行うことができる状況」である。そうした「物価の安定」は、持続可能なものでなければならない。
3.今回新たに導入した「物価安定の目標」は、日本銀行として、持続可能な物価の安定と整合的と判断する物価上昇率を示したものである。日本銀行は、今後、日本経済の競争力と成長力の強化に向けた幅広い主体の取り組みの進展に伴い、持続可能な物価の安定と整合的な物価上昇率が高まっていくと認識している。この認識に立って、日本銀行は、「物価安定の目標」を中心的な物価指標である消費者物価の前年比上昇率で2%とすることとした。
4.従来は「中長期的な物価安定の目途」として、「消費者物価の前年比上昇率で2%以下のプラスの領域、当面は1%を目途」としていた。今回、「目途」から「目標」という表現に代えたうえで、その目標を消費者物価の前年比上昇率で2%としたのは、以下の認識に基づく。
日本銀行は、今後、日本経済の競争力と成長力の強化に向けた幅広い主体の取り組みの進展に伴い、持続可能な物価の安定と整合的な物価上昇率が高まっていくと認識している。現在の予想物価上昇率は長期にわたって形成されてきたものであり、今後、成長力の強化が進展していけば、現実の物価上昇率が徐々に高まり、そのもとで家計や企業の予想物価上昇率も上昇していくと考えられる。先行き、物価が緩やかに上昇していくことが見込まれる中にあって、2%という目標を明確にすることは、持続可能な物価上昇率を安定させるうえで、適当と考えられる。
「目途」から「目標」という言葉に変更したのは、わが国において、柔軟な金融政策運営の重要性に対する理解が浸透してきている状況を踏まえたものである。金融政策の効果は、経済活動に波及し、それがさらに物価に波及するまでに、長期かつ可変のタイムラグが存在する。金融政策は、物価安定のもとでの持続的成長を実現する観点から、経済・物価の現状と見通しに加え、金融面での不均衡を含めた様々なリスクも点検しながら、柔軟に運営していく必要がある。こうした考え方は、各国で広く共有されており、とくに、世界的な金融危機以降、海外主要国では、金融システムの安定へ配慮することの重要性を対外的に明確にするなど、金融政策運営の柔軟性という視点が強く意識されるようになってきている。わが国でも、この1年間で、こうした考え方に対する理解が着実に拡がってきている。こうした状況を前提とすると、「目標」と表現することが、日本銀行の考え方を伝えるうえで、わかりやすく適当であると判断した。
5.デフレからの早期脱却と物価安定のもとでの持続的な経済成長の実現には、幅広い主体による成長力強化の取り組みも重要でる。日本銀行としては、成長力強化の進展状況および家計や企業の予想物価上昇率の状況について、今後とも丹念に点検していく。この間、政府も、日本経済の競争力と成長力の強化に向けた取り組みを強力に推進するとともに、持続可能な財政構造を確立するための取り組みを着実に推進すると表明している。
6.金融政策は、「物価安定の目標」のもとで、今後とも、次の2つの「柱」により経済・物価情勢を点検したうえで、運営する。
第1の柱では、先行き2年程度の経済・物価情勢について、最も蓋然性が高いと判断される見通しが、物価安定のもとでの持続的な成長の経路をたどっているかという観点から点検する。
第2の柱では、より長期的な視点を踏まえつつ、物価安定のもとでの持続的な経済成長を実現するとの観点から、金融政策運営に当って重視すべき様々なリスクを点検する。とくに、発生の確率は必ずしも大きくないものの、発生した場合には経済・物価に大きな影響を与える可能性があるリスク要因として、金融面の不均衡について点検する。 | 日本銀行の理念に照らし導入したものは、何に基づいて経済・物価情勢を点検したうえで、運営するとしていますか。 | 日本銀行の理念に照らし導入したものは、2つの「柱」により経済・物価情勢を点検したうえで、運営します。2つの「柱」とは、先行き2年程度の経済・物価情勢について、最も蓋然性が高いと判断される見通しが、物価安定のもとでの持続的な成長の経路をたどっているかということです。
また第2の柱は、より長期的な視点を踏まえつつ、物価安定のもとでの持続的な経済成長を実現するとの観点から、金融政策運営に当って重視すべき様々なリスクを点検します。とくに、発生の確率は必ずしも大きくないものの、発生した場合には経済・物価に大きな影響を与える可能性があるリスク要因として、金融面の不均衡について点検することです。 |
JCRRAG_009310 | 金融 | では利回りはどのようにして決まるのでしょうか。ここからは利回りの変動要因についてお伝えします。皆さまが債券を選ぶ上でも非常に重要な要素といえます。
まずは発行体の信用力です。債券を発行している団体や企業によって信用力は異なり、利回りに影響します。発行体の信用力が高いほど債務不履行(デフォルト)に陥る可能性は小さく、投資家が取るリスクも小さくなるため利回りも低くなります。逆に、信用力が低いほどデフォルトを起こす可能性は大きく、投資家がとるリスクも高くなるので、利回りは高くなります。
国や地方公共団体、知名度のある大企業などは比較的信用力が高く、利回りも低くなります。一方で知名度の低い企業や、業績の悪い企業は、リスクが高いためその分利回りも高くなります。
次に償還期間です。債券は基本的には償還期間が決まっています。期間が短いほど投資家にとっては景気や業績などの見通しがつきやすいため、一般的には利回りが低くなります。
一方で償還期間が長期になると、投資家はその期間中資金を動かしづらくなり、見通しも難しくなるため利回りは上がる傾向にあります。途中で売却することも可能ですが、価格変動の予想は難しいので、基本的には償還まで保有する前提で購入しましょう。
どれくらいの期間運用するのがいいのかは人それぞれ異なります。ライフプランを作ってご自身のライフプランに適した運用を考えていくことが大切です。
債券の金利は市場金利をベースにして決められます。一般的に、景気が悪い時やお金を借りたいと思う企業が少ない時に金利は低下します。
一方で景気が良く、お金を借りたいと思う企業が多い時には金利は上がる傾向にありますが、日本では物価が高騰している現在も、非常に低金利な状況が続いています。
経済状況を表す指標ともいえるため、私たちの生活にも少なからず影響があります。
通貨は、債券の金利を左右する最大の要素と言っても過言ではありません。政策金利は国によって大きく異なるため、購入する債券がどの国の通貨建てで発行されているかにより、債券の金利水準も異なります。
日本や米国などの先進国の通貨建てで発行されている債券に比べ、ブラジルや南アフリカなどの新興国の通貨建てで発行されている債券は金利もかなり高い水準となっています。
魅力的な金利の一方で国が持つリスク(カントリーリスク)や為替リスクは先進国の通貨建ての債券に比べてかなり大きくなります。新興国の国債などは、政治・経済情勢などによりデフォルト(債務不履行)になる可能性もゼロではないため、投資をする際は慎重にリスクを考える必要があります。 | ブラジルや南アフリカなどの国に投資をする際に気を付けることは何ですか。 | ブラジルや南アフリカなどの新興国の通貨建てで発行されている債券は日本や米国などの先進国に比べ、金利も高い水準となっているが、政治・経済情勢などにより債務不履行になる可能性もゼロではないため、リスクを考えて投資をする。 |
JCRRAG_009311 | 金融 | 長い間、お取引のない預金等はありませんか
休眠預金等活用法に基づき、2009年1月1日以降のお取引から10年以上、その後のお取引のない預金等(休眠預金等)は、民間公益活動に活用されます。
1.休眠預金等について
「休眠預金等」とは、10年以上、入出金等のお取引がない預金等をいいます。 2009年1月以降に最後の異動があった預金等が原則として対象になります。
眠預金等になりうる「預金等」とは、預金保険法、貯金保険法の規定により、預金保険、貯金保険の対象となる預貯金などです。具体的には、普通預金だけではなく、定期預金、貯金、定期積金などが対象となります。
一方で、財形住宅や財形年金など、特定の目的のための預貯金や、障がい者のためのマル優の適用となっている預貯金、外貨預金などの預金保険制度の対象とならない預金などは対象外です。
2.休眠預金等のお引き出し手続きについて
・休眠預金等になっても引き続きお取引のあった金融機関で引き出すことが可能です。
・お取引のあった金融機関に、通帳やキャッシュカード、本人確認書類などをお持ち頂ければ、引き出すことができます。必要となるお手続きについては、お取引のあった金融機関にお問い合わせ下さい。なお、休眠預金等を引き出す際、現金での受け取りになるのか、元の口座を引き続き使えるのか、については、金融機関毎に異なりますので、お取引のあった金融機関にお問い合わせ下さい。
・金融機関によって異なりますが、一般的には、長い間お取引がない預金等のお引き出しには、そうでないものと比べて時間がかかること、またATMなどではなく金融機関の窓口などでお手続きを行って頂く必要があることが想定されます。
・休眠預金等を引き出す期限はありません。いつでも引き出すことができます。
・通帳などを紛失している場合であっても、本人確認書類(身分証明書)などをお持ち頂ければ、引き出すことができます。具体的に必要となる書類などについては、お取引のあった金融機関にお問い合わせ下さい。
・預金者等であった方がお亡くなりになった場合には、金融機関所定のお手続きを経て、その相続人が引き出すことができます。必要となるお手続きについては、お取引のあった金融機関にお問い合わせ下さい。 | 父親が死亡した場合、息子は父親の貯金を引き出すことができますか。 | 父親が死亡した場合、息子は父親の貯金を引き出すことができます。 |
JCRRAG_009312 | 金融 | 令和6年12月28日からの大雪にかかる災害等に対する金融上の措置について
今回の令和6年12月28日からの大雪にかかる災害等(災害のおそれを含む。以下同じ。)により災害救助法が適用された青森県内の被災者等に対し、顧客及び従業員の安全に十分配慮した上で、状況に応じ以下の金融上の措置を適切に講ずるよう預貯金取扱金融機関、証券会社等、生命保険会社、損害保険会社、少額短期保険業者及び電子債権記録機関に要請しました。
また、今後、災害救助法の適用地域が追加された場合等も同様に金融上の措置を適切に講ずるよう要請しました。
併せて、本要請内容について営業店への周知徹底を図るとともに、被災者等の被災状況等に応じて、きめ細かく弾力的・迅速な対応に努めるよう要請しましたので、お知らせします。
預貯金取扱金融機関への要請
1.預金証書、通帳、届出の印鑑等を紛失した場合等でも、被災者等の被災状況等を踏まえた確認方法をもって預金者本人の申出であることを確認して払戻しに応ずること。
2.事情によっては、定期預金、定期積金等の期限前払戻しに応ずること。また、当該預金等を担保とする貸付にも応ずること。
3.今回の災害等による障害のため、支払期日が経過した手形については関係金融機関と適宜話し合いのうえ取立ができることとすること。
4.今回の災害等のため支払いができない手形・小切手について、不渡報告への掲載及び取引停止処分に対する配慮を行うこと。また、電子記録債権の取引停止処分又は利用契約の解除等についても同様に配慮すること。
5.損傷した紙幣や貨幣の引換えに応ずること。
6.国債を紛失した場合の相談に応ずること。
7.災害等の状況、応急資金の需要等を勘案して、融資相談所の開設、融資審査に際して提出書類を必要最小限にする等の手続きの簡便化、融資の迅速化、既存融資にかかる返済猶予等の貸付条件の変更等、災害等の影響を受けている顧客の便宜を考慮した適時的確な措置を講ずること。
8.「自然災害による被災者の債務整理に関するガイドライン」の手続き、利用による効果等の説明を含め、同ガイドラインの利用に係る相談に適切に応ずること。
9.罹災証明書を求めている手続きでも、市町村における交付状況等を勘案し、現況の写真の提出など他の手段による被災状況の確認や罹災証明書の後日提出を認める等、被災者等の便宜を考慮した取扱いとすること。
10.休日営業又は平常時間外の営業について適宜配慮すること。また、窓口における営業が出来ない場合であっても、現金自動預払機等において預金の払戻しを行う等、被災者等の便宜を考慮した措置を講ずること。
11.1から10にかかる措置について実施店舗にて店頭掲示を行うとともに、可能な限り顧客に対し広く周知するよう努めること。
12.営業停止等の措置を講じた営業店舗名等、及び継続して現金自動預払機等を稼動させる営業店舗名等を、速やかにポスターの店頭掲示等の手段を用いて告示するとともに、その旨を新聞やインターネットのホームページに掲載し、顧客に周知徹底すること。 | 預貯金取扱金融機関は、被災者が預金証書、届出の印鑑および国債を紛失した場合、どのように対応しなければなりませんか。 | 預貯金取扱金融機関は、被災者が預金証書、届出の印鑑を紛失した場合は、被災者等の被災状況等を踏まえた確認方法をもって預金者本人の申出であることを確認して払戻しに応じなければなりません。国債を紛失した場合ば、相談に応じなければなりません。 |
JCRRAG_009313 | 金融 | 「投資信託(ファンド)」とは、「投資家から集めたお金をひとつの大きな資金としてまとめ、運用の専門家が株式や債券などに投資・運用する商品で、その運用成果が投資家それぞれの投資額に応じて分配される仕組みの金融商品」です。
「集めた資金をどのような対象に投資するか」は、投資信託ごとの運用方針に基づき専門家が行います。
投資信託の運用成績は市場環境などによって変動します。投資信託の購入後に、投資信託の運用がうまくいって利益が得られることもあれば、運用がうまくいかず投資した額を下回って、損をすることもあります。このように、投資信託の運用によって生じた損益は、それぞれの投資額に応じてすべて投資家に帰属します。
つまり、投資信託は元本が保証されている金融商品ではありません。
この点は銀行の預金などとは違うところですので注意が必要です。
投資信託の値段のことを「基準価額」といいます。
投資信託には、取引を行う際の単位があって、それは「口(くち)」と呼ばれます。例えば、運用を開始する時点で1口1円で購入できた投資信託は、運用を開始すると、1口の値段が運用の成果によって、変動していきます。
基準価額は、投資信託の一口あたりの値段のことで、投資家が投資信託を購入・換金する際は、基準価額で取引が行われます。 (1口1円で運用が開始された投資信託は、1万口あたりの基準価額を公表しています)
投資信託の資産のうち、投資家に帰属する額を「純資産総額」といいます。この純資産総額を投資信託の総口数で割ると、一口あたりの価額、すなわち「基準価額」が算出されます。
証券取引所に上場している株式は、市場が開いている間、刻々と株価が変動し、その時々の株価で売買が可能です。一方、一般的な投資信託の基準価額は、投資信託が組み入れている株式や債券などの時価評価を基に算出され、1日に1つの価額として公表されます。この基準価額において、投資信託の購入や換金が行われます。
また、基準価額が公表されるのは、投資信託の取引の申込を締め切った後で、投資家は当日の基準価額が分からない状況で投資信託の取引を行います。このことを「ブラインド方式」といいます。 基準価額が確定し、公表された後に投資信託の取引ができると、すでに投資信託を保有している投資家の利益が阻害されるため、このようなブラインド方式を採用しています。 | 100万円分のファンドを購入し、投資額を下回った場合、100万円は保証されますか。 | 投資信託は運用によって生じた損益は、それぞれの投資額に応じてすべて投資家へ帰属されるため投資金額の保証はされません。 |
JCRRAG_009314 | 金融 | 「投資信託(ファンド)」とは、「投資家から集めたお金をひとつの大きな資金としてまとめ、運用の専門家が株式や債券などに投資・運用する商品で、その運用成果が投資家それぞれの投資額に応じて分配される仕組みの金融商品」です。
「集めた資金をどのような対象に投資するか」は、投資信託ごとの運用方針に基づき専門家が行います。
投資信託の運用成績は市場環境などによって変動します。投資信託の購入後に、投資信託の運用がうまくいって利益が得られることもあれば、運用がうまくいかず投資した額を下回って、損をすることもあります。このように、投資信託の運用によって生じた損益は、それぞれの投資額に応じてすべて投資家に帰属します。
つまり、投資信託は元本が保証されている金融商品ではありません。
この点は銀行の預金などとは違うところですので注意が必要です。
投資信託の値段のことを「基準価額」といいます。
投資信託には、取引を行う際の単位があって、それは「口(くち)」と呼ばれます。例えば、運用を開始する時点で1口1円で購入できた投資信託は、運用を開始すると、1口の値段が運用の成果によって、変動していきます。
基準価額は、投資信託の一口あたりの値段のことで、投資家が投資信託を購入・換金する際は、基準価額で取引が行われます。 (1口1円で運用が開始された投資信託は、1万口あたりの基準価額を公表しています)
投資信託の資産のうち、投資家に帰属する額を「純資産総額」といいます。この純資産総額を投資信託の総口数で割ると、一口あたりの価額、すなわち「基準価額」が算出されます。
証券取引所に上場している株式は、市場が開いている間、刻々と株価が変動し、その時々の株価で売買が可能です。一方、一般的な投資信託の基準価額は、投資信託が組み入れている株式や債券などの時価評価を基に算出され、1日に1つの価額として公表されます。この基準価額において、投資信託の購入や換金が行われます。
また、基準価額が公表されるのは、投資信託の取引の申込を締め切った後で、投資家は当日の基準価額が分からない状況で投資信託の取引を行います。このことを「ブラインド方式」といいます。 基準価額が確定し、公表された後に投資信託の取引ができると、すでに投資信託を保有している投資家の利益が阻害されるため、このようなブラインド方式を採用しています。 | 投資信託の取引にはブラインド方式が取り入れられてますが、その目的はなぜでしょうか。 | ブラインド方式が取り入れられている目的として、基準価額が公表された後に投資信託の取引を行うと、すでに投資信託を保有している投資家の利益が阻害されるからである。 |
JCRRAG_009315 | 金融 | 財団法人はインボイス制度に対応する必要があるのか、悩んでいる方もいるのではないでしょうか。事業者(買手側)との取引において、財団法人はインボイス制度の影響を受けます。ここでは、インボイス制度導入による財団法人への影響について、具体例を交えて解説します。
インボイス(適格請求書、以下インボイスで統一)とは、一定の記載要件を満たした請求書や領収書などを指します。現行の区分記載請求書等保存方式に基づく請求書や領収書に追記が必要な情報は、以下のとおりです。
適格請求書発行事業者の登録番号
税率ごとに区分した合計額および適用税率(税抜もしくは税込)
税率ごとに合計した消費税額等
インボイス制度導入の目的は、事業者が行う取引における消費税率と消費税額を正しく計算することです。商品やサービスを提供する事業者(売手側)は、インボイス制度のしくみや影響についてよく理解したうえで、どのように対応するか検討しなければなりません。
インボイス制度は2023年(令和5年)10月1日から導入されました。2023年12月時点において登録完了の通知を受け取れるまでにかかる期間の目安は、以下のとおりです。
e-Taxによる提出:約1か月
書面による提出:約1.5か月
基準期間・特定期間における課税売上高が1,000万円以下の事業者は「免税事業者」です。一方、基準期間の課税売上高が1,000万円を超える事業者は「課税事業者」となります。課税事業者は消費税の確定申告と納税が必要となるため、金銭的なコストや事務作業の負担が増加します。
財団法人に関する消費税の特徴や特例には、以下の2つが挙げられます。
会費収入や寄付金は消費税がかからない
特定収入は仕入税額控除の調整を必要としないケースがある
それぞれ詳しく解説します。
会費や寄付金は財団法人の収入源の1つです。原則として会費や寄付金は「対価を得て行われる」取引にあたらないため、消費税の課税対象になりません。ただし、公益財団法人・一般財団法人のいずれかにかかわらず、原則として財団法人は納税義務者です。
特定収入とは会費や寄付金などの「資産の譲渡等の対価以外で得た収入」を指します。会費や寄付金は課税売上となる収入ではないため、納付する消費税が発生しません。ただ、会費や寄付金で行った課税仕入れに対して仕入税額控除を認めると、一般法人との不公平が生じます。そのため特定収入に基づく課税仕入れは、仕入税額控除から除外されています。
また、仕入税額控除の除外は「全体の課税仕入額から特定収入の金額・割合から計算した金額を差し引く」方法で算出するしくみです。適格請求書発行事業者(売手側)から課税仕入れをすることで、財団法人(買手側)は全体の課税仕入額を大きくできるため、控除できる消費税額が増えます。
インボイス制度導入の目的は、事業者が行う取引の消費税率と消費税額を正しく把握することです。登録は任意で、未登録のままでも従来と同様に事業を継続できます。事業者(買手側・売手側)はインボイス制度の導入によって受ける影響を理解しておくことが大切です。インボイス制度に対応するメリット・デメリットを比較して、方向性を慎重に検討しましょう。
インボイス制度の導入が財団法人に与える影響は、主に以下の2つです。
インボイス交付のためには適格請求書発行事業者への登録が必要になる
設立したばかりでも適格請求書発行事業者は納税義務が発生する
それぞれ順番に見ていきましょう。
インボイス制度に関する会計や請求書のシステムについて、こちらの記事で解説しています。
インボイスを交付できるのは「適格請求書発行事業者の登録を受けた事業者」のみです。事前登録が必要で、どの事業者(売手側)でも自由に発行できる書類ではありません。適格請求書発行事業者の登録を受けるためには、申請書に必要事項を記入し所定の方法で提出します。
資本金1,000万円未満で設立した新規の法人は、原則として設立1期目の消費税が免除されます。しかし、適格請求書発行事業者の登録を受けられるのは、消費税の課税事業者のみです。新規の法人設立や個人事業主からの法人化と同時に登録すると、資本金にかかわらず設立1期目から消費税の納税義務が生じます。納税額や法人の事業資金への影響を事前に把握しておくことが重要です。
インボイス制度の導入で財団法人が注意しておくべきポイントは以下の3点です。
課税事業者は消費税の納税が求められる
免税事業者の財団法人(売手側)は取引先(買手側)から取引条件の見直しを求められる可能性がある
事務作業の負担・手間が増加する | 財団法人がインボイスを交付するためには、どのような手続きが必要ですか。 | 財団法人がインボイスを交付するためには、適格請求書発行事業者の登録申請を行い、登録を受ける手続きが必要である。
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JCRRAG_009316 | 金融 | 投資信託ってなに? どういう仕組み?
ひとくちに「投資」といっても、外貨や株式への投資など、いろいろな商品があります。その中でも、「投資信託」という言葉を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。これから投資を始めよう! と考えている投資初心者の方には、知っておいてほしい商品です。
この連載では、「投資信託」にまつわるさまざまな疑問に答えながら、実際に取引をするときに役立つ情報を紹介していきます。
第1回目は、基本的な仕組みをおさえていきましょう。
Q:投資信託ってなに? どういう仕組み?
A:プロに資産運用をおまかせして、出資した人が利益を分け合う商品です。
投資信託とは、プロに資産運用をおまかせして、出資した人が利益を分け合う商品です。私たちのような一般人を含む多くの人や団体(「投資家」と言います)からお金を集め、運用のプロが株式や債券などさまざまな資産に投資して運用してくれます。その運用成果(運用のプロが出した利益)は、出資した投資額に応じてみんなで分け合うという仕組みです。
たとえば、ある投資信託の資産が10%増えたら、投資家一人ひとりの資産が10%ずつ増えるイメージです。たとえ投資している金額がわずかでも、投資信託を購入している人はみんな「投資家」の一人というわけです。
投資信託の仕組み
投資信託は、プロに運用を任せることができるため、初心者にとって購入しやすい商品です。
しかし、私たちに代わってプロが運用するためのコストが継続的にかかるため、信託報酬などの手数料が投資している資産から自動的に引かれます。商品の種類によっては購入する時や売却する時にも手数料がかかる場合があります。
Q:投資信託は株式投資とどう違うの?
A:リスクを分散しながら運用できます。
投資信託は株式投資とは違い、リスクを分散しながら運用できるのが大きな特徴です。例えば、特定の会社へ株式投資を行うと、選んだ会社の株価によって利益が決まるため、株価が下がった場合に大きく損をするリスクが高まります。
そのようなリスクを回避するには、「分散投資」といって、さまざまな国や地域、会社の株式や債券などを購入する方法が有効です。
投資信託は、株式投資と異なり、多くの投資家からお金を集めるため、投資家自身は少ない投資金額でも「分散投資」ができるため、リスクを軽減することができるのです。
また、投資対象の資産や地域、どの程度の収益を目指すかによって、さまざまなタイプの商品があります。こういった投資信託の商品一つ一つは「ファンド」とも呼ばれるので覚えておきましょう。
Q:投資信託にはリスクがある?
A:元本保証ではないので、損をする可能性もあります。
投資信託は、銀行預金のような元本保証の商品ではありません。投資したファンドが購入する株式や債券の価格は変動するので、その値動きによって、利益を得られることもあれば、投資に充てた資金(元本)が減って損をすることもあります。これを、価格変動リスクといいます。
投資対象・地域にもよりますが、投資において、リスクのないリターンはありません。その他に考えられるリスクは、次のようなものがあります。
・市場変動リスク…組み入れる株式や債券等の価格(市場)により投資元本を割り込むリスク。
・為替変動リスク…外貨建証券を組み入れるファンドの場合、為替の変動により投資元本を割り込むリスク。
・信用リスク…組み入れる株式や債券等の発行体の経営、財務状況等により投資元本を割り込むリスク。
これらの影響を予測して、短期的な売買で利益を上げることは、プロであっても困難です。投資信託は、投資先企業や経済全体の成長の“果実”を受け取ることを期待して、長期間保有することを念頭に購入するのがよいでしょう。
Q:どんな人に向いてる?
A:投資初心者や、忙しい方に向いています。
投資信託は、投資初心者や忙しい方に向いている商品です。
投資信託には、「株式中心」「債券中心」「日本国内のみ」「海外中心」など、異なる特徴のあるファンドがあります。最初に、例えば「リスクは大きくても高いリターンを期待したい」、逆に「リターンは低くてもいいからリスクは抑えたい」といった個人の志向に沿ってファンドを決めることができます。
購入後はプロが運用を代わりにやってくれますから、投資信託を長期で運用する場合は、値動きなどを逐一チェックする必要はありません。運用報告書を定期的にチェックすれば、その時点の利益/損失もすぐにわかります。
逆に株式投資の場合は、どの会社の株をいつ購入するか、自分で情報を収集して検討し、購入も自分でタイミングを決める必要があります。
Q:まとまったお金がないと始められない?
A:一括投資と積立投資があり、少額からでも投資が始められます。
買い方としては一度に購入する一括投資と、定期的に一定の金額分を購入する積立投資の大きく2種類あります。一括投資は、1万円前後から購入でき、数十万、数百万といったまとまった金額の投資も可能です。
積立投資なら、さらに少額で投資を始めることが可能です。一般的には毎月1,000円から始められることが多く、ネット証券等では毎月100円から可能な場合もあります。
購入するためには投資信託口座が必要になります。くわしくは次回にお伝えします。
「投資信託」は、私たちから集めたお金をもとに、プロが投資・運用をしてくれます。少額の投資でも分散投資によってリスクを抑えることができるため、運用方針さえ決めれば投資初心者でも安心して始められる投資法です。最後に投資信託のメリットとデメリットを表にまとめましたので、参考にしてみてください。
次回は、「投資信託の始め方」について解説します。 | 投資信託では、元本が減少するリスクは皆無ですか。 | いいえ、投資信託は銀行預金と違い、元本が減って損失を被るリスクもあります。 |
JCRRAG_009317 | 金融 | 1970年以降、S&P500が過去半年の高値から10%下落した場面は、1ヶ月内の重複を除いて44回ありました。そのうち13回は半年以内に景気後退に陥った一方、29回は景気後退を回避しており、株式市場が過剰に反応するケースも多く見られます。ただし、当面は米国景気やマクロ経済政策に焦点が集まる展開が続くでしょう。
平均値を見ると、米国が景気後退に陥った場合、S&P500は調整入り後の2週間で約5%下落し、その後、3ヶ月後に二番底を記録するケースが多く、250営業日後の時点でも-2.3%の下落と、負の影響が続いています。一方、景気が拡大している場合、S&P500は調整入り後の約2ヶ月間一進一退の動きを見せた後に上昇へ転じ、250営業日後には+6.6%の上昇と、負の影響は残りませんでした。
このような局面におけるTOPIX(東証株価指数)の動きは、米国の景気が拡大している場合、1~2ヶ月間は一進一退の動きを見せた後に上昇へ転じ、250営業日後には+4.7%の上昇を記録しています。一方、米国が景気後退に陥った場合は、250営業日後に-11.1%と大きな下落が見られ、負の影響が顕著となっています。
野村では米国の景気が拡大すると予想しており、当面は日本株がストレスを受ける局面が続くものの、その後は上昇に転じやすいと考えています。リスク要因としては、日本銀行のタカ派的な姿勢(政策ミス懸念)が挙げられます。 | S&P500は、何社の銘柄で構成されていますか。 | S&P500は、500社の銘柄で構成されています。 |
JCRRAG_009318 | 金融 | 日本円の特徴
「安全資産」としての日本円
現在流通しているのは、第二次世界大戦以後に発行された「新円」で、当初1ドル=360円と定められ、1971年のニクソン・ショック(ドルと金の兌換を一時停止した)まで続きました。1973年以降は変動相場制に移行し、その後は概ね円高・ドル安が進みました。そして、2011年には一時75円台まで円高・ドル安が進みました。
2012年12月に誕生した安倍政権が打ち出した経済政策「アベノミクス」のもと、日本銀行が大胆な金融緩和を行って円安が進行。その後も円安基調が継続しました。
日銀が非伝統的金融緩和を続けているため、日本円は、円を借り入れるための調達コストが安く済むことから「低金利で借りた円を売り、外貨資産を買う」ことで収益を得ようとする、いわゆる「キャリートレード」の代表通貨でもあります。
以前は戦争・紛争や金融危機などの「有事」の際にはドルが買われ易いという「有事のドル買い」が一般常識として定着していましたが、近ごろは「有事の円買い」が頻繁にみられます。米国が戦争・紛争の当事者または関係者となる場合や、米国の金融政策に絡む思惑先行で不透明感が高まった場合などは、ドルを避けて、リスク回避として円が買われる傾向があります。 | 日本円はアメリカで発行する事は出来ますか。 | 日本円は日本以外の国で発行する事は出来ません。 |
JCRRAG_009319 | 金融 | ◆◆投資商品の種類と特徴
投資を実践するためには、その投資先を知る必要があります。株式、投資信託、
外貨預金など、それぞれの投資商品が持つ特徴とリスクについてまとめました。
◆投資は常にリスクと隣り合わせ
貯蓄と比較すると、投資商品は収益性に期待が持てますが、一方で元本割れの可
能性がある商品であることも知っておきましょう。実際に投資する前には、各商
品の詳細の確認は欠かせません。ここでは主な特徴を整理しました。
◆投資商品の種類
投資商品の種類と特徴
・外貨預金
文字通り「外国の通貨」で預ける預金です。
満期日の為替レートが預け入れた時より円安になっていれば為替差益が生じます。
満期日の為替レートが預け入れた時より円高になっていれば為替差損が生じます。
・投資信託
資金を集めて運用している投資商品。
投資信託委託会社の専門家(ファンドマネージャー)が決めた運用方針に従っ
て公社債や株式などさまざまな投資先に分散投資して運用されます。
投資信託は、元本保証がありません。
・株式
株式とは、株式会社に対する「出資持分」のことです。「株式を保有すること」
は、「会社に対して出資をすること」です。
株式投資の最大の魅力は値上がり益であり、預貯金にはない大きな収益が期待でき
ます。一方で値下がりや倒産などリスクもあります。
・公共債
公共債とは国や地方自治体が資金調達のために発行する債券です。
公共債には、国が発行する国債、地方自治体が発行する地方債、その他に政府
機関債があります。
・個人年金保険
将来の年金受け取りと、資産形成(運用)、死亡保障の機能をあわせ持つ商品
です。万一、年金の受け取り開始日前に、被保険者が亡くなった場合には、遺
族に死亡給付金が支払われます。
・金銭信託
信託銀行が利用者にかわってお金を管理、運用する金融商品です。
元本補てん契約により元本が保証される商品と元本補てん契約がなく元本が保
証されない商品があります。
・仕組預金
デリバティブ取引を組み込んだ預金商品の総称です。
・純金積立
毎月一定の金額で金を自動的に購入します。
金の価格が安いときには多く買え、高いときには少なくなります。
| 投資商品は損をする可能性はありますか。 | 投資商品は損をする可能性があります。 |
JCRRAG_009320 | 金融 | ヘッジファンドとは、簡単にいうと何?
ヘッジファンドを簡単にいうと、「お金持ちだけが買える投資信託のようなもの」です。出資者から集めた資金で運用する投資ファンドという点は投資信託と同じですが、投資信託と違って限られた大口投資家しか出資できません。ヘッジファンドを購入できる投資家は適格投資家と呼ばれます。その基準ははっきり示されているわけではありませんが、一説には数千万円~数億円の年収や投資資産が必要になると言われています。
また、株や債券に限らず、あらゆる金融投資を試みるオルタナティブ投資ファンドの一つであるヘッジファンドは、いかなるときでも利益を出すことを目的とした絶対収益追求型。市場の大きな変動にも対応し、たとえ金融危機で金融市場が壊滅状態にあったとしても、たとえば農産物先物に投資して商品市場から利益を出すよう運用されます。ヘッジとは「リスクヘッジ」という言葉でわかるように、「避ける」という意味。複数の投資対象に分散させ、複数の運用手法を利用し、運用収益を上げるのが特徴です。
ヘッジファンドと投資信託の違い
投資信託は一般的に広く公募されますが、ヘッジファンドは運用会社が私募形式で出資者を募ります。相手は富裕層や金融機関などの大口投資家。最低購入金額も一般人には出せないような金額に設定されます。公募形式の投資信託は目論見書や有価証券報告書などを発行する義務がありますが、ヘッジファンドは私募のため必要ありません。その分、厳しい規制を受けにくく、自由に運用戦略を設定できます。リスクの高い運用で高い投資リターンを狙うことも。
また、ヘッジファンドは絶対収益を求める点が国内投資信託と大きく異なるところ。たとえばインデックス型投資信託は株価指数に連動した運用を行うため、株価が下がったときはそれに連動して投資信託の基準価額も下がります。しかしヘッジファンドはそのような状況下でもプラスになることを追求します。投資者にとってみれば、ヘッジファンドを持つことでマイナスを埋められる点がメリットです。
ヘッジファンドはなぜプラスになる?
そもそも市場が下落相場となっているときに、なぜプラスにできるのか、疑問に思われるかもしれません。ヘッジファンドは株式や債券だけでなく、先物取引や信用取引など、あらゆる投資手法を組み合わせて利益を追求します。積極的にショートポジションを活用し、価格が下がったところで買い戻す方式や、レバレッジを活用して、下落相場でも利益を得られるように運用しているのです。
投資戦略としては、たとえば株式の買い付けと同時に同額の株式指数先物を売却するマーケット・ニュートラル戦略や、さまざまな先物・オプションにレバレッジを掛けて投資するマネージド・フューチャーズ戦略、同等の商品の価格差を利用して利益を上げるアービトラージなどが挙げられます。投資銀行で使われているAIをヘッジファンドに応用する動きも。こうした幅広い手法を駆使して、どんな相場にも対応できるように運用するのがヘッジファンドの大きな特徴です。 | ヘッジファンドと投資信託、一般の投資者が購入可能な金融商品はどちらですか。 | 一般の投資者が購入できるのは投資信託の方です。ヘッジファンドは富裕層や金融機関を対象とする私募形式に限られています。 |
JCRRAG_009321 | 金融 | "スマートフォン1つで、投資やキャッシュレス決済などが手軽におこなえる時代になりました。
金融商品や金融サービスが身近なものになる一方で、利用者である私たちには金融リテラシーの必要性が問われています。
金融リテラシーとは、お金と賢く付き合うために必要な基礎知識や判断力のことです。本記事では、金融リテラシーが必要な理由から高め方まで、わかりやすく紹介します。
「金融リテラシーという言葉をよく聞くけど、漠然としていてイマイチよくわからない」という方は、参考にしてみてください。
大学を卒業して社会に出ると、家計を管理する力が求められます。また、就職後は結婚・出産、子育てや住宅購入など、ライフステージごとにさまざまな金融商品、金融サービスと出会う機会が増えていきます。
しかし、これまでの学校教育では収入にあわせて計画的に支出を抑えたり、必要であれば収支を適宜改善していく能力を学ぶ機会がありませんでした。種々の金融商品も同様です。
だからこそ金融リテラシーを身に付け、経済的に自立した確かな暮らしを送れるようにすることが大切です。
インターネットの発達やIT技術の向上、金融にかかわる規制緩和を背景に、近年はさまざまな金融商品・金融サービスが登場しています。
例えば急速に発展したキャッシュレス決済、NISA・iDeCoといった非課税投資制度です。利用者の選択肢の幅が広がった一方で、「種類が多すぎて選べない」「何をどう利用すればいいかわからない」という声も聞かれます。
また、悪質な投資詐欺トラブルも絶えません。利用者1人ひとりが十分な知識や情報を持って正しいものを選ぶ力を身に付ければ、質の悪い金融商品や金融サービス、それらを取扱う業者を淘汰することにも繋がるでしょう。
情報や選択肢に溢れる社会で健全で質の高い金融商品・金融サービスを育てていくためにも、利用者自身が高い金融リテラシーを身に付けることが大切です。
先述のとおり、日本人の家計金融資産の過半数は預貯金です。しかし、低金利が続く中、預貯金だけでは十分な資産形成が難しくなっています。加えて2022年6月には消費者物価指数(総合)が前年同月比で2.4%上昇し、全国的な物価上昇が家計を直撃しています。
低金利に加えて物価上昇の中で資産をうまく積み上げていくには、適度にリスク性資産を取り入れていくことが大切です。
分散投資や長期投資の理解を深めて始めれば、中長期的に安定したリターンを得やすくなります。投資を含めて資産形成の可能性を広げるためにも、金融リテラシーは必要です。
したがって金融リテラシーとは、生きていくうえで避けて通れないお金と向き合い、より良い金融商品や金融サービスをうまく活用し、資産形成の可能性を広げるものと言えるのではないでしょうか。" | リスク性資産を取り入れることが必要な理由は何ですか。 | リスク性資産を取り入れることが必要な理由は、物価上昇の中低金利が続き、預貯金だけでは十分な資産形成が難しいためです。 |
JCRRAG_009322 | 金融 | 米ドルと組み合わせた通貨ペアを「ストレート通貨(ドルストレート)」、米ドルを含まない通貨ペアを「クロス通貨」と呼びます。
第二次世界大戦前後まで、国際通貨制度において基軸通貨の役割を担っていたのは英国のポンドでした。
しかし、戦争を機に英国経済が衰退していくと、ポンドに取って代わる形で米国のドルが基軸通貨としての地位を確立しました。
戦後の国際通貨制度は、1944年7月にブレトン・ウッズ協定が締結されたところから始まります。
これによって成立したブレトン・ウッズ体制下では「金1オンス=35ドル」と定められ、各国通貨の価値は米ドルによって規定される固定相場制となりました(日本の場合は1ドル=360円)。
ブレトン・ウッズ体制は、米ドルの金兌換を前提とした通貨制度で、金ドル本位制とも呼ばれます。
この固定相場制は、米国の圧倒的な経済力と金の保有量を背景に誕生したものでした。
しかし、1960年代になると、日独等の経済発展やベトナム戦争などの影響により米国の経常収支が悪化し、米ドルと金の兌換可能性についての疑問が生じるようになります。
米ドルに対する強い信頼が揺らぎ始め、1971年8月に当時のニクソン米大統領は米ドルの金兌換停止を宣言しました。
これをニクソン・ショックと呼び、金兌換停止を受けて固定相場制を維持することができなくなりました。
その後、1973年2月に日本は変動相場制に切り替えることになりました。 | 基軸通貨を含まない通貨ペアは、なんと呼ばれていますか。 | 基軸通貨を含まない通貨ペアは、クロス通貨と呼ばれています。 |
JCRRAG_009323 | 金融 | 自分に適した決済方法を選ぶ
さて、気になるのはその決済方法、つまり支払われる「お金の出どころ」です。現在は主なものとして銀行口座、クレジットカード、チャージ、ポイントがあります。そして、どの決済方法を選択するのか、それがモバイル決済を上手に利用する重要なポイントでもあります。
それは決済方法が「支払い時期」と関係しているからです。例えば、支払いが銀行口座からダイレクトに引き落とされる場合、これは即時払いですから、現金での購入と同じ。キャッシュレスに慣れていない人には安心感があるはずです。
クレジットカード払いであれば後払いとなり、資金管理がやや複雑になります。契約しているスマホの携帯電話会社(通信キャリア)による「ペイ」の場合、使用したスマホ料金に合算することも可能ですが、これも結果的には後払いになり、クレジット払い同様、使い過ぎに注意が必要でしょう。
対して、チャージは店舗設置の端末やレジで現金をチャージする、あるいは銀行口座から入金する「プリペイド方式」が一般的。これは、使うことを前提にチャージをしていますから、形としては先払いとなり、チャージという手間が増えます。それでも、一定額の入金にとどめることで、使い過ぎを抑える効果が期待できます。 | 銀行口座からの「即時払い」が、キャッシュレス初心者に安心感を与えるのはなぜでしょうか。 | 銀行口座からの「即時払い」が、キャッシュレス初心者に安心感を与えるのは、現金と同じように、残高を超えて支払いが発生しない仕組みのため使いすぎてしまうという不安が軽減されえるからです。 |
JCRRAG_009324 | 金融 | 住宅ローンの諸費用
住宅取得には、税金や手数料、保険料などさまざまな諸費用がかかります。トータルの金額はケースバイケースですが、購入する物件価格に対して5~10%程度となるのが一般的です。住宅購入に向けて頭金を貯めていく場合は、諸費用も含めて物件価格の2~3割の自己資金は貯めるようにしたほうがよいでしょう。
1.税金
住宅ローンの申込時には、ローンの契約である金銭消費貸借契約書に添付する印紙税をはじめ、いくつかの税金がかかります。
代表的なものは以下の通りです。
印紙税 売買契約書や建設工事請負契約書、住宅ローン申込時の金銭消費貸借契約書などに貼付します。
登録免許税 土地・建物の所有権移転(保存)登記や、住宅ローンの担保となる抵当権設定登記の際にかかります。
固定資産税 土地・建物の所有者にかかる税金で、新規購入の場合は物件の引渡日を基準に日割りで精算をするのが一般的。
不動産取得税 土地・建物などの不動産を取得した際にかかる税金です。
2.手数料や保証料
住宅ローンの契約に際しては、融資手数料や保証料がかかるのが一般的です。
代表的なものは以下の通りです。
融資手数料 住宅ローンを申し込む際にかかる事務手数料です。金融機関等によって金額や徴収方法が異なります。
保証料 連帯保証人を立てない代わりに、保証会社に保証人になってもらうために支払うもの。金融機関等の指定する保証会社によって金額が異なります。
司法書士報酬 登記手続きを司法書士に依頼した場合にかかります。
3.保険料
住宅ローンの申込に際しては、団体信用生命保険をはじめとする保険の加入が義務づけまたは推奨されます。
代表的なものは以下の通りです。
団体信用生命保険料 ローンを利用している本人が、万が一、事故、病気等の不測の事態に陥った場合に所定の保険金を債務(ローン残高等)に充当して精算し、遺された家族に負担がかからないようにするための保険です。
火災保険料 火災などによる損害発生に備えるための火災保険の保険料。選択する商品や保険会社によって保険料は異なります。
地震保険料 地震などによる損害発生に備えるための地震保険の保険料。住む地域や住宅の構造などによって保険料は異なります。
債務返済支援保険 ケガや病気により働けなくなった場合にローン返済の延滞を防ぐための保険です。
4.その他の諸費用
上記以外にも、引越し代や新生活に必要な家具、什器なども購入する必要があります。単に住宅ローンの返済額だけで比較するのではなく、諸費用の負担も考慮したトータルの支払額で住宅ローン商品を比較検討することが大切だといえるでしょう。 | 住宅ローンの申込時に、申込者が住宅ローンの担保となる抵当権設定を行うのはなぜですか。 | 住宅ローンの申込時に、申込者が住宅ローンの担保となる抵当権設定を行うのは、返済が滞った場合に金融機関が担保にした住宅を売却してお金を回収するためです。 |
JCRRAG_009325 | 金融 | 金利と受け取る利息は一致しない!?
普通預金や定期預金などに預ける際につく利息は「金利」として示されています。しかし、それがそのまま、皆さんの受け取る利息とはなりません。
金利とは、いわば利息(金額)の計算レート(利率)。「%」で表示され、一般には「年利=1年あたりの利率」を意味します。たとえば、100万円を金利0.3%の定期預金に1年間預けた場合、その利息は3,000円となります。
ただし、預金による利息は源泉分離課税の対象となります。原則として、その支払いを受ける際に一律20.315%(所得税15.315%(復興特別所得税0.315%含む)、地方税5%)が源泉徴収されるのです。先の例では、3,000円に対して609円(※1)が課税され、実際に受け取る利息は2,391円。したがって、広告等に表示されている金利は「税引き前金利」あるいは「表面金利」と区別して呼ぶこともあります。
金利と利回りの違いとは
100万円を1年複利で預けた場合の利息
金融商品には「金利」ではなく「利回り」という表現を使用するものもあります。一見同じにも思えますが、金利と利回りは必ずしも一致しません。
金利とは、投資金額に対して支払われる年間利息の割合のことであり、単年の利息額をパーセンテージで示したものです。預金でいえば預け入れ預金に対して、銀行から預金者に支払われる1年分の預金利息の割合となります。
一方、利回りとは、投資金額に対する1年あたりの運用収益の割合のことであり、お金がどれだけ増えたかを示すものです。複数年にわたる運用期間でも単年の収益率に戻して示すものであり、投資信託や債券など値上がりの可能性がある場合はその売却収益も加味されます。預金でいえば、預け入れ金額に対する、1年あたりの運用益(複数年の預金利息合計の1年平均)の割合となります。
具体的に違いを見てみましょう。
金利0.3%(税引き後0.2391%)、5年ものの定期預金に100万円預けた場合、1年目に手にする利息は2,391円(税引き後)。しかし、2年目は100万円に2,391円が加算された金額に対して金利がつきますから、手にする利息は2,396円(利息合計は4,787円)と1年目より多くなります。こういった増え方を「複利」と言います。
年利で表示される1年未満の定期預金
金利は基本的に年利を意味します。では、預け入れ期間が1年未満の定期預金はどう利息を計算するのでしょうか。
「3ヵ月定期、金利1.2%」と表示されている商品の場合、預入期間は3ヵ月間=1年間の4分の1ですから、金利も4分の1=0.3%として計算します。100万円預ければ3ヵ月後に3,000円の利息(税引き前)がつくということです。
また、金利や利回りといった数字だけでなく、中途解約についても理解しておく必要があります。一般的に預け入れ期間が定められている定期預金などは「中途解約した場合、表示した金利とは異なる金利が適用されます」といった条件がつきます。必ずチェックしておきましょう。 | 利息を元本に組み入れて運用することを何といいますか。 | 利息を元本に組み入れて運用することを複利という。 |
JCRRAG_009326 | 金融 | 金融市場とは、資金の取引が行われる場全体を意味しますが、幾つかの分類方法があります。
そのうちの一つが、資金の提供者(資金余剰部門)から資金の調達者(資金不足部門)へのお金の流れに着目する方法です。資金の流れは、さらに仲介手段の観点から、証券市場を通じるもの(直接金融)と、銀行等の金融機関を通じるもの(間接金融)の2つに分かれます。
直接金融
企業が証券(株式や債券など)を発行し、事業に必要な資金について、一般の投資家などから直接提供を受けることをいいます。企業は、事業活動で利益を得た場合、配当金や利子を投資家に支払います。一方で、投資家は企業に直接資金を提供しているため、企業が倒産した場合は提供した資金が回収できない損失(リスク)を負担します。
この直接金融が行われる場が証券市場であり、証券の発行・取得が行われる「発行市場」と、すでに発行された証券の売買が行われる「流通市場」に分かれます。
この2つの市場が有機的に関連し、相互に影響を及ぼすことで、証券市場は資金の効率的な配分・利用という機能を発揮します。
間接金融
企業が事業に必要な資金などを、金融機関(銀行など)からの借入れにより集めることをいいます。
企業に貸し出される資金は、一般の人などから預金として集めたお金であるため、「間接」と呼ばれます。
預金者は、自分の預金がどの会社に貸し出されているかを知ることはありません。
また、貸出先の企業が倒産しても、銀行が倒産しない限り預金が減ることはありません。(現在はペイオフ解禁となり、自分が預けている銀行が倒産した場合は、1,000万円とその利子までが保証されます。)
金融機関からの借入れは返済期限があるため、会社は借りた資金を返さなければいけませんが、株式は原則として返済の必要がないため、長期にわたる安定した資金として使用することができます。
一般的に、短期の運転資金には間接金融が、長期の設備投資資金等には直接金融が向いているといわれます。 | 銀行に預金することは、間接的に企業に貸し出す資金となりますか。 | 銀行に預金することは、間接的に企業に貸し出す資金となります。 |
JCRRAG_009327 | 金融 | ライフプランとお金~金融商品の3つの特徴/リスクとは~
私たちの生活にお金は欠くことができないものです。
食費や電気・ガス・水道料金、医療費など日常生活を過ごす上で必要となるお金のほかにも、人生を送る上での様々なイベント(例.結婚、出産、住宅、老後の生活など)にお金は切り離すことはできません。
こうしたお金は「働いて得られる収入(勤労収入)」のほか、「増やす(貯蓄・投資)」、「借りる」、「年金などの公的受給」などにより手に入れることとなりますが、人生におけるイベントの性質や目的と合わせて上手にお金と付き合うことが必要となります。
このうち「貯蓄・投資」については、いずれもお金を増やす方法となりますが、「貯蓄」は銀行預金を通じて、確実に貯めていくことを重視し、「投資」は株式や債券、投資信託などを通じて、より多く増やすことを重視します。
金融商品の3つの特徴
銀行預金や株式、債券、投資信託は「金融商品」と呼ばれ、お金を増やしていくには、目的にあった金融商品を選び・組み合わせることが重要です。そのためには「安全性」・「流動性」・「収益性」という3つのポイントを理解するとよいでしょう。
安全性
決まった収益を得られるか、あるいは元となるお金(元本)が減る可能性が小さいか、予想外の損を被ることがないか。
流動性
必要なときにすぐに現金化できるか(換金性)。
収益性
どのくらいお金を増やすことが期待できるか。
しかし、これら3つのポイントを同時に備えている金融商品はありません。こうしたことから、生活費や病気・事故の備えなど「普段必要な生活資金」には、流動性と安全性が高い金融商品がマッチし、結婚・子供の教育・住宅など「将来使用する予定のある資金」には、お金を使う時期に応じた増やし方が可能で、元本の安全性が高い金融商品への投資が考えられます。また「ゆとりのための余裕資金」については、長い期間をかけて収益性を重視した金融商品が考えられます。
一般に、金利と株価はシーソーのような関係にあります。金利が下がると株価は上がり、金利が上がると株価は下がる傾向にあるからです。
リスクとは
元本を減らすことなく、確実に増える手段とされる銀行預金ですが、近年の金利情勢を見ると、確実には増えるものの、すぐには増えにくい状況にあります。
現在の大手金融機関における定期預金金利の多くは0.01%となっています(2019年2月末現在)。仮に手元に100万円を持っているとした場合、これを定期預金に預け、2倍の200万円にまで増えるには、およそ7,200年の時間を要する計算となります。
一方で、「7,200年も待つことはできないが、投資によって元本が減ってしまう(損をしてしまう)かもしれない『リスク』がある商品を購入するのはためらわれる」という声も聞きます。
そもそも、この「リスク」とは何でしょうか?
金融商品への投資に当たっての「リスク」とは、一般的に用いられる「危険」といった意味ではなく、「投資によって得られる利益(リターン)の『振れ幅』」を意味します。例えば、銀行預金の場合、1,000万円まではペイオフ(※)の対象となり元本が保証され、損失を被る可能性は少ないものの、利息も他の金融商品に比べ大きな利益を得られる可能性も少なくなることから、得られる利益(リターン)の振れ幅(リスク)は小さいと考えます。
※ペイオフ:金融機関の経営が破綻しても、預金者に払戻しが保証される制度
一方、株式の場合、会社の成績が悪ければ配当は減り、株価も下がり、さらに会社が倒産すると株式そのものの価値はなくなるなど、損失を被る可能性は大きいですが、成績が良ければ配当も増え、株価も上昇することで大きな利益を得られる可能性も大きくなることから、得られる利益(リターン)の振れ幅(リスク)は大きいと考えます。
また、リスクとリターンはつり合っており、「リスクだけが大きい」または「リターンだけが大きい」ということはありません。 | 定期金利は0.01%で手元に100万円を持っている仮定し定期預金に預け、一人の人間が生涯を終える前に2倍の200万円にまで増やすことは可能ですか。 | 可能ではありません。 |
JCRRAG_009328 | 金融 | 売買から清算・決済の流れ
取引所市場で売買が成立した場合、例えば株式であれば買った人は売った人に代金を支払い、株式を売った人は買った人に株式を渡す必要があります。
このように、売買が成立してから決済が行われるまでの流れは、売買、清算、決済の三段階に区分することができます。売買機能を担う主体を取引所、清算機能を担う主体を清算機関、決済機能を担う主体を決済機関と呼びます。
現在、取引所取引の清算は株式会社日本証券クリアリング機構、決済は株式会社証券保管振替機構が担っています。
売買から決済までは、同時には行われません。売買が行われてから決済は、通常売買日を含めて3営業日目に行われます。例えば月曜日に行われた売買の決済は、その週の水曜日に行われることになります。
株式について、配当、株主優待、株式分割などの権利を受けるためには、基準日に株主でなければなりません。株主としての権利を取れる売買が「権利付き」、権利の取れない売買が「権利落ち」となります。ネッティングによる清算方式
取引所で行われる大量の売買について、1件ごとに当事者同士で決済を行うのは大変です。
そこで、清算機関である(株)日本証券クリアリング機構(以下、「JSCC」という)が、株式等の売り方と買方との間で発生した債務を双方から引き受けるとともに、それに対応する債権を取得するという形で、当事者として間に入ります。
有価証券の受渡し
同一の決済日、同一証券会社、同一の銘柄の取引は、成立した値段に関係なく、売り買いの株数を相殺して差引き分の株数を計算します。そして、JSCCとの間で、株式等の受渡しを行います。
代金の授受
同一の決済日、同一証券会社の取引について、全ての売り代金と買い代金を相殺して差引きの金額を算出し、その代金の授受をJSCCとの間で行います。
決済:(株)証券保管振替機構
証券会社間の株式の受渡しは、証券会社の口座間の振替によって行われます。これは、銀行間の送金で実際の現金を移動せずに口座で振り替えるのと似た仕組みです。
具体的には、証券会社が(株)証券保管振替機構(以下、「ほふり」という)に口座を設け、決済を行うJSCCからの指図に基づいて、JSCCの口座と売方及び買方の証券会社の口座の間で、株式の振り替えが行われます。 | 1日で売買から決済まで同時に行うことはできますか。 | 1日で売買から決済まで同時に行うことはできません。 |
JCRRAG_009329 | 金融 | 金利とは辞書的に言えば、「一定期間貸し借りする時にかかる費用のこと」「貸借される資金の使用料のこと」になります。これは、お金の値段という言い方をすることもできます。野菜などモノの値段と同様、世の中でお金が余っていれば値段が安いため金利は下げ、お金を必要とする人が増えて足りなくなれば値段が高いため金利は上がる、資金需給が金利の水準を決定する最も基本的な要素です。
あるお金を他の使い道に使ったときにどのぐらいの価値を生むのかが、お金の値段(=金利)に反映されていると考えるとわかりやすいです。
例えば、現金を現金のまま持っているのと、株に投資をした場合を比較し、後者のほうが値上がりを期待できるなら、みんなが株投資をするためお金が足りなくなる。それを解消するためには、株の上がり方とつり合う金利に上げるということです。
もうひとつ例を出しましょう。1億円を借りて自動車工場を建てた場合に、車をつくることで100万円(1%)の利益が得られるとします。金利が2%だったら、お金を借りて車を作っても儲からないため、借りる人がいなくなります。これでは金利を下げざるを得ない。逆に0.5%で借りられるとしたら、みんなが工場を経営しようとしてお金を借りるので、結局は金利が上がります。このような儲けとのバランスが、お金の値段=金利という見方ができます。
「日銀が利上げを決定」などのニュースを見ていると、あたかも中央銀行がすべてをつかさどる存在のように感じるかもしれませんが、そうではなく経済活動のなかで自然と決まっていくのが本来です。
世界の中央銀行は一般的に、金利を上げ下げするテクニックを使って、物価を安定させることを使命としています。インフレの時には、モノの値段の上がり方を抑えるよう金利を高くします。逆にモノの値段が下がり続けているデフレの時は、低くします。
日本は、お金を使っても価値や儲けを生みださない状態が続いていました。お金を使ってモノを買ったとしても、それが値下がりしてしまう状態ということです。そこで、金利を下げて低くして、お金を使ってもらい、モノの人気を高めることで、値上げを促そうとしたのです。 | 日本におけるお金の値段は、高いか安いかどちらですか。 | 日本におけるお金の値段は、安いです。 |
JCRRAG_009330 | 金融 | CFDは「Contract For Difference」の略称で、日本語では「差金決済取引」と呼ばれます。現物を売買するのではなく、価格変動を予測して利益を得る取引方法です。つまり、取引開始時の価格と終了時の価格の差によって、利益か損失かが決まります。
CFDでは、国内外の株式、為替、金、原油、株価指数など、幅広い金融商品に投資することができます。また、レバレッジと呼ばれる仕組みを活用することで、少ない資金で大きな利益を目指すことも可能です。
CFDの「5つのメリット」を解説
国内外の魅力的な銘柄へ手軽に投資できる
CFDでは、国内外の株式に投資することができます。そのため、日本の株式市場だけでは投資できない、米国のハイテク企業や金や原油といったコモディティなどの銘柄にも投資することが可能です。
レバレッジ効果で少ない資金から取引できる
レバレッジとは、証拠金を用いて自己資金の何倍もの取引を行う仕組みです。例えば、レバレッジ10倍で取引する場合、1万円の証拠金で10万円分の取引を行うことができます。レバレッジを効かせることで、少ない資金で大きな利益を目指すことができます。
取引手数料は基本的に無料
CFD取引では、多くの場合、取引手数料が無料です。そのため、コストを抑えて取引を行うことができます。
買いからも売りからも取引を始めることができる
CFDでは、株式の現物取引とは異なり、売りから取引を始めることができます。つまり、価格が下がると思う銘柄に投資することも可能です。
ほぼ24時間、何かしらの銘柄が取引できる
CFDでは、為替市場のように、ほぼ24時間取引することができます。そのため、日中に時間がない方でも、取引に参加することができます。
CFDの「3つのデメリット」を紹介
銘柄が多すぎて、どれを取引すればいいか迷う
CFDでは、株価指数を始めとして金や原油などの商品まで数多くの銘柄が取引できるため、どの銘柄に投資すればいいか迷ってしまうことがあります。
銘柄によっては、取引に必要な情報が少ない場合もある
新興市場の銘柄など、情報が少ない銘柄の場合、十分な情報収集が難しい場合があります。情報が乏しい場合、想定以上にリスクが大きくなることがあるため注意が必要です。
リスクコントロールに注意する必要がある
レバレッジを効かせることで、大きな利益を目指すことができますが、損失も大きくなります。そのため、リスク管理をしっかりと行うことが重要です。
FX(外国為替証拠金取引)とは
FXとはForeign Exchangeの頭文字をとったもので、外国為替証拠金取引のことを指します。FXは外貨に投資をする金融商品で、株式や投資信託よりも投資対象が少ないため商品が選びやすく、24時間取引ができることから、投資初心者におすすめです。
一般社団法人金融先物取引業協会の調査によると、FXで利益を出している人の割合は約6割です。そのためFX初心者でも、知識と経験を積むことで利益が狙える可能性があります。
FXで得られる利益には「キャピタルゲイン」と「インカムゲイン」の2種類があります。FXにおけるキャピタルゲインとインカムゲインとはどのようなものか紹介します。
キャピタルゲイン(為替差益)
キャピタルゲインとは資産を売買することで生じる利益のことです。
例えば株価3,000円のときに購入した株式の株価が、4,000円に上昇したタイミングで売却した場合、「1,000円のキャピタルゲインが得られた」と言います。
FXの場合であれば、1ドル100円のときにドルを買い、101円になったときにドルを売却した場合、「1円のキャピタルゲインが得られた」ことになります。これがFXにおけるキャピタルゲインにあたります。
キャピタルゲインは選んだ商品によっては、短期間で大きなリターンを狙える可能性がありますが、資産価格が想定とは異なる方向に動くと損失になる可能性がある点はデメリットと言えるでしょう。
インカムゲイン(スワップポイント)
インカムゲインとは資産を保有することで生まれる利益のことです。
例えば株式投資では株主となっている企業が利益を出した場合、その利益の一部を「配当金」として現金で分配する場合があります。配当金は必ず支払われるとは限りません。株式という資産を保有している限り、定期的に受け取れる可能性があることからインカムゲインに分類されます。
FXではスワップポイントがインカムゲインにあたります。スワップポイントとは金利差調整分のことで、高金利の通貨を買い、低金利の通貨を売ることで毎日のように得られる利益のことです。
インカムゲインは定期的に収益を得られる点や、資産価格の変動をさほど頻繁にチェックしなくても収入が得られるメリットがあります。
しかし短期的に大きなリターンは期待できないうえ、定期的に必ず収入が得られるとは限らない点はデメリットです。 | FXはCFDですか。 | FXはCFDの一つです。 |
JCRRAG_009331 | 金融 | 金価格とプラチナ価格の今
これまで一時的に金の価格がプラチナの価格を上回ったことはありましたが、基本的に希少性の高いプラチナの価格のほうが金よりも高いというのが、いわば“常識”でした。しかし、その傾向に変化があらわれ始めたのは2011年のことです。
2011年の後半に金とプラチナの価格が逆転し、1トロイオンス(約31.1グラム)当たり、金が1,700ドル前後、プラチナが1,550ドル前後で取引されるようになりました。その後、この逆転現象は解消されたものの、2015年以降は現在まで再び逆転状態となっています。
2015年を起点にしてみると、金の価格は右肩上がりの状況となっている一方で、プラチナの価格は右肩下がりの状況が続いています。新型コロナウイルス問題が起きてからも金の値上がりが続き、現在は歴史的な高値をつけています。
2020年8月の金の最高価格は2,067.15ドルだったのに対し、プラチナの最高価格は986.00ドルでした。すでに倍以上の価格差がついています。
なぜ、貴金属の希少性と投資における需要においてこのような逆転現象が起きているのでしょうか。そこには、貴金属としての需要の変化や不況下における人々の心理が関係しているようです。
金とプラチナの価格差はどうして生まれるのか
同じ貴金属であるプラチナとゴールド(金)に価格差が生じるのには、さまざまな要因があります。その1つに貴金属としての“需要の違い”があります。
世界の金融情報を提供しているリフィニティブGFMS社が、世界の金市場をまとめた調査報告書「GFMS GOLD SURVEY2019」によれば、2018年には金の年間総需要のうち、約8割が宝飾品や個人投資(「金地金」「コイン」)といった「貴金属としての需要」で占められており、産業需要(工業用加工需要)は約1割にとどまっています。
一方でプラチナの「貴金属としての需要」は約3割で金よりもはるかに低く、残りの約7割を占めるのが自動車や化学・エレクトロニクスといった産業需要にあります。
つまり、2008年のリーマンショック以降、さらには今回のコロナショックによって景気が停滞しても、金は産業需要から受ける影響が少ないのに対し、プラチナは需要が減少し供給過多となり値下がりが起きてしまうと考えられます。
新型コロナウイルス問題の終息が見えない中、マーケットの混乱によって投資家の不安がさらに広がれば、投資マネーはさらに金に流入し、プラチナとの価格差がより大きくなることも考えられます。
プラチナ価格は上がらないのか
先ほども少し触れましたが、プラチナの需要は自動車産業の動向に大きく左右されます。プラチナはディーゼル車の浄化触媒用途で使われており、プラチナ全体の需要の実に4割がこの用途だといわれています。
ディーゼル車は比較的安価な軽油で走行できることが魅力の1つですが、排出される有害物質を取り除く浄化装置が高価であることから「脱ディーゼル」の動きが加速しています。
世界的にディーゼル車の新車販売台数は減っており、大手メーカーもディーゼル車からの撤退を発表しています。こうした潮流が再び変わる可能性は低いと考えられ、自動車産業におけるプラチナの需要は右肩下がりの状況が続くと考えられています。
そのため、プラチナの価格の上昇は今後も期待薄といえるかもしれません。 | 2015年を起点にするとプラチナの価格は下がり続けていますか。 | はい、2015年を起点にするとプラチナの価格は下がり続けています。 |
JCRRAG_009332 | 国語 | 友人が妙な夢を見たと云って話して聞かせた。それは田舎の農家で泊った晩のことである。全身がしびれ、強直して動けなくなったが、それが「電気のせい」だと思われた。白い手術着を着た助手らしい男がしきりにあちこち歩き廻ってそれを助けてくれようとするのだが、一向利目がないので困り果てたところで眼がさめたのだという。さめて見たら枕が無闇に固くて首筋が痺れていたそうである。
私はその一両日前の新聞記事に巡査が高圧線の切れて垂れ下がっているのを取りのけようとして感電したことが載せてあったのを思い出したので、友人にそれを読んだかと聞いたら読んだという。それならそれがこの夢を呼出した一つの種だろうということになった。寝た部屋が真暗で、電燈をつけようと思ったら電球が外ずしてあったそうで、そのときに友人は天井から垂れ下がったコードを目撃したであろうし、またソケットに露出した電極の電圧の危険を無意識に意識したのではないかと思われる。それがこの夢の第二の素因らしく思われる。次に助手の出てくるのも心当りがある。この友人には理工科方面の友達は少なくて主に自分からそうした方面の話を聞くのであるが、その私がこの頃は自身ではあまり器械いじりはしないで主に助手の手を借りて色々の仕事をやっていることをこの友人が時々の話の折節に聞かされて知っているのである。
それで堅い枕、頸の痺れ、新聞記事の感電、電気をあつかっている友人、その助手と云ったような順序にこの夢の発展の径路が進行したのではないかと想像される。 | 友人が田舎の農家で泊まった晩に全身がしびれて、強直して動けなくなったのは、現実に起こったことでしょうか。 | いいえ、友人が田舎の農家で泊まった晩に全身がしびれて、強直して動けなくなったのは夢でしたので、現実には起こっていません。 |
JCRRAG_009333 | 国語 | 青山浩一は、もと浜離宮であった公園の、海に面する芝生に腰をおろして、そこに停泊している幾つかの汽船を、ボンヤリと眺めていた。うしろに真赤な巨大な太陽があった。あたりは見る見る夕暮の色をおびて行った。ウイーク・デイのせいか。ときたま若い二人づれが通りかかるほかには、全く人けがなかった。
伯父のへそくりを盗み出した五万円は、十日間の旅行で遣いはたしてしまった。ポケットには、辛うじて今夜の家賃に足りるほどの金が残っているばかりだ。
温泉から温泉へと泊りあるいて、二十一才の彼にやれることは、なんでもやって見たが、どれもこれも、今になって考えると、取るに足るものは一つもなかった。あの山、この谷、あの女、この女、ああつまらない。生きるに甲斐なき世界。
伯父の家へは二度と帰れない。勤め先へ帰るのもいやだ。自転車商会のゴミゴミした事務机と、その前にたち並んでいる汚れた帳簿を思い出すだけでも、吐き気を催した。
暮れて行く海と空を、うつろに眺めていると、またあの幻が浮かんで来た。空いっぱいの裸の女、西洋の絵にある聖母と似ているが、どこかちがう。もっと美しくなまめかしい。情慾に光りかがやいている。青年は、あの美しい女に呑まれたいと思った。鯨に呑まれるように、腹の中へ呑まれたいと思った。 | 青山浩一は公園で運動をしているか。 | いいえ、芝生に座って、停泊している汽船をボンヤリと眺めていました。 |
JCRRAG_009334 | 国語 | その日のことを、よく覚えています。ちょうど、桜の花が咲きかけていました。子供たちの列は、この桜の木のまわりを、先生の号令に従って、歩いたのでした。
僕は、こんなに、心のあわただしい間にも、自分の観察というものをおこたりませんでした。僕たちの、女の先生が、姉といくつも年のちがわないことを知りました。これは、さいしょに僕の心をおどろかした発見でした。
つぎに、姉が、先生のいわれるとおりに、僕たちといっしょになって、歩いたり、手をうごかしたり、うたったりしているのを見たときです。
僕は、かっと顔があつくなって、ただこうしていては、姉がみじめな気がして、家へ帰るといい出しました。
「どうして、急にそんなことをいうの。」
姉は、あきれて、困ってしまいました。そして、僕のわがままに、どれほど苦しんだかしれぬというのは、そう暑い日でもなかったのに、姉は額ぎわに汗をにじませていたのでした。
先生の顔を見ると、僕は、いっそうだだをこねました。先生が、なにかいえばいうほど僕は、帰るといいはりました。そして、とうとうそのまま家へ帰ってしまいました。
僕は、元気なく、だれにもなにもいわず、ただふきげんでした。
「姉ちゃんは、はずかしくって、もういっしょになんかいけませんよ。」と、姉は、家へ帰ると、この日ばかりは、おこってしまいました。
「いいよ、僕は、あしたから、一人でいくから。」
僕が、こういったとき、家の人たちは、そんな弱虫が、どうして、一人でいけるものかといって、笑いだしました。
こうした周囲の空気は、僕をして、偶然にも心に深く感じたいっさいを打ち明ける機会をば、永久にうしなわしてしまったのでした。
しかし、その翌日から、僕は、いったとおり、だれにも、送ってもらわず、一人で幼稚園へいき、また一人で帰りました。
「どうして、そんなに、強くなったの。」と、家じゅうのものがふしぎがったり、おどろきの目をみはったりしました。
「きっと、いいお友だちが、できたのでしょう。その、お友だちのてまえ、お姉さんに、つれていってもらうのが、はずかしくなったのですよ。」と、下の姉が、いいました。
もとより、だれも、僕の気持ちのわかるはずはありませんでした。また、僕は、自尊心から、自分が弱虫なばかりに、姉をはずかしめて、気の毒に思ったことを、だれにも語る気になれませんでした。いつしか、月日はたってしまいました。その後、姉は、嫁にいって、もう家にはいないのです。それゆえ、あるいは、姉にも、あのときの、僕の気持ちを永久に語る機会はないかもしれません。
だが僕は、あの日、いっしょに遊戯をしてくれた、姉のすがたを思い出すと、これから後、どんな苦しいことにも忍耐できる気がする。過ぎた日のことを思い出して、かぎりなきなつかしさと、悲しさを感ずるのでした。僕は、いくたびも、幼稚園の、小さな校舎と桜の木をふりかえりながら、細い道を歩いて、いつしかそこを遠ざかりました。 | 筆者には少なくとも何人の姉がいますか. | 筆者には少なくとも二人の姉がいます。 |
JCRRAG_009335 | 国語 | 男の子と女の子
たくさんの家がたてこんで、おおぜい人がすんでいる大きな町では、たれでも、庭にするだけの、あき地をもつわけにはいきませんでした。ですから、たいてい、植木《うえき》ばちの花をみて、まんぞくしなければなりませんでした。
そういう町に、ふたりのまずしいこどもがすんでいて、植木ばちよりもいくらか大きな花ぞのをもっていました。そのふたりのこどもは、にいさんでも妹でもありませんでしたが、まるでほんとうのきょうだいのように、仲よくしていました。そのこどもたちの両親は、おむこうどうしで、その住んでいる屋根うらべやは、二軒の家の屋根と屋根とがくっついた所に、むかいあっていました。そのしきりの所には、一本の雨どいがとおっていて、両方から、ひとつずつ、ちいさな窓が、のぞいていました。で、といをひとまたぎしさえすれば、こちらの窓からむこうの窓へいけました。
こどもの親たちは、それぞれ木の箱を窓の外にだして、台所でつかうお野菜をうえておきました。そのほかにちょっとしたばらをひと株うえておいたのが、みごとにそだって、いきおいよくのびていました。
ところで親たちのおもいつきで、その箱を、といをまたいで、横にならべておいたので、箱は窓と窓とのあいだで、むこうからこちらへと、つづいて、そっくり、生きのいい花のかべを、ふたつならべたように見えました。えんどう豆のつるは、箱から下のほうにたれさがり、ばらの木は、いきおいよく長い枝をのばして、それがまた、両方の窓にからみついて、おたがいにおじぎをしあっていました。まあ花と青葉でこしらえた、アーチのようなものでした。その箱は、高い所にありましたし、こどもたちは、その上にはいあがってはいけないのをしっていました。そこで、窓から屋根へ出て、ばらの花の下にある、ちいさなこしかけに、こしをかけるおゆるしをいただいて、そこでおもしろそうに、あそびました。
冬になると、そういうあそびもだめになりました。
窓はどうかすると、まるっきりこおりついてしまいました。そんなとき、こどもたちは、だんろの上で銅貨《どうか》をあたためて、こおった窓ガラスに、この銅貨をおしつけました。すると、そこにまるい、まんまるい、きれいなのぞきあなができあがって、このあなのむこうに、両方の窓からひとつずつ、それはそれはうれしそうな、やさしい目がぴかぴか光ります、それがあの男の子と、女の子でした。男の子はカイ、女の子はゲルダといいました。夏のあいだは、ただひとまたぎで、いったりきたりしたものが、冬になると、ふたりのこどもは、いくつも、いくつも、はしごだんを、おりたりあがったりしなければなりませんでした。外《そと》には、雪がくるくる舞《ま》っていました。
「あれはね、白いみつばちがあつまって、とんでいるのだよ。」と、おばあさんがいいました。
「あのなかにも、女王ばちがいるの。」と、男の子はたずねました。この子は、ほんとうのみつばちに、そういうもののいることを、しっていたのです。
「ああ、いるともさ。」と、おばあさんはいいました。「その女王ばちは、いつもたくさんなかまのあつまっているところに、とんでいるのだよ。なかまのなかでも、いちばんからだが大きくて、けっして下にじっとしてはいない。すぐと黒い雲のなかへとんではいってしまう。ま夜中に、いく晩も、いく晩も、女王は町の通から通へとびまわって、窓のところをのぞくのさ。するとふしぎとそこでこおってしまって、窓は花をふきつけたように、見えるのだよ。」
「ああ、それ、みたことがありますよ。」と、こどもたちは、口をそろえて叫《さけ》びました。そして、すると、これはほんとうの話なのだ、とおもいました。
「雪の女王さまは、うちのなかへもはいってこられるかしら。」と、女の子がたずねました。
「くるといいな。そうすれば、ぼく、それをあたたかいストーブの上にのせてやるよ。すると女王はとろけてしまうだろう。」と、男の子がいいました。
でも、おばあさんは、男の子のかみの毛をなでながら、ほかのお話をしてくれました。
その夕方、カイはうちにいて、着物《きもの》を半分《はんぶん》ぬぎかけながら、ふとおもいついて、窓のそばの、いすの上にあがって、れいのちいさなのぞきあなから、外をながめました。おもてには、ちらちら、こな雪が舞《ま》っていましたが、そのなかで大きなかたまりがひとひら、植木箱のはしにおちました。するとみるみるそれは大きくなって、とうとうそれが、まがいのない、わかい、ひとりの女の人になりました。
もう何百万という数の、星のように光るこな雪で織《お》った、うすい白い紗《しゃ》の着物《きもの》を着ていました。やさしい女の姿はしていましたが、氷のからだをしていました。ぎらぎらひかる氷のからだをして、そのくせ生きているのです。その目は、あかるい星をふたつならべたようでしたが、おちつきも休みもない目でした。女は、カイのいる窓のほうに、うなずきながら、手まねぎしました。カイはびっくりして、いすからとびおりてしまいました。すぐそのあとで、大きな鳥が、窓の外をとんだような、けはいがしました。 | カイとゲルダは家族ですか。 | カイとゲルダは家族ではありません。 |
JCRRAG_009336 | 国語 | マッチ売りの少女
それは寒い日でした。雪が降っていて、あたりはもう、暗くなりかけていました。その日は、大晦日の晩でした。この寒くて、うす暗い夕ぐれの通りを、みすぼらしい身なりをした、年のいかない少女がひとり、帽子もかぶらず、靴もはかないで、とぼとぼと歩いていました。
でも、家を出たときには、スリッパをはいていたのです。とても大きなスリッパでしたから。むりもありません。おかあさんが、この間まで使っていたものを、少女ははいて出かけたのですが、通りをいそいで横ぎろうとしたとき、二台の馬車がおそろしい勢いで走ってきたので、あわててよけようとした拍子に、なくしてしまったのです。かたいっぽうは、そのまま、どこかへ見えなくなってしまいました。もういっぽうは、男の子がひろって、いまに赤ん坊でも生れたら、ゆりかごに使うんだ、と言いながら、持っていってしまいました。
こういうわけで、この少女は、はだしの足で歩いているのでした。その小さな足は、寒さのために、赤く、青くなっていました。古ぼけたエプロンの中には、たくさんのマッチを入れていました。そして、手にも一たば持っていました。きょうは、一日中売り歩いても、だれひとり買ってもくれませんし、一シリングのお金さえ、めぐんでくれる人もありませんでした。おなかはへってしまい、からだは氷のようにひえきって、みるもあわれな、痛々しい姿をしていました! 雪がひらひらと、少女の長いブロンドの髪の毛に、降りかかりました。見れば、窓という窓から、明りが外へさしています。そして、ガチョウの焼肉のおいしそうなにおいが、通りまで、ぷんぷんとにおっています。それもそのはず、きょうはおおみそかの晩ですもの。
「そうだわ。きょうは、おおみそかの晩なんだもの」と少女は思いました。ちょうど、家が二けん、ならんでいました。一けんの家はひっこんでいて、もう一けんは、それよりいくらか、通りのほうへつき出ていましたが、その間のすみっこに、少女はからだをちぢこめて、うずくまりました。小さな足を、からだの下にひっこめてみましたが、寒さは、ちっともしのげません。それでも、少女は家へ帰ろうとはしませんでした。マッチは一つも売れてはいませんし、お金だって、一シリングももらっていないのですから。このまま家へ帰れば、おとうさんにぶたれるにきまっています。それに、家へ帰ったところで、やっぱり寒いのはおんなじです。屋根はあっても、ただあるというだけです。大きなすきまには、わらや、ぼろきれが、つめてはありますけれど、それでも、風はピューピュー吹きこんでくるのです。
少女の小さな手は、寒さのために、もう死んだようになっていました。ああ、こんなときには、たった一本の小さなマッチでも、どんなにありがたいか。 マッチのたばから一本取り出して、それをかべにすりつけて、火をつけさえすれば、つめたい指は暖かくなるのです。
とうとう、少女は一本引きぬきました。「シュッ!」ああ、火花が散って、マッチは燃えつきました。暖かい明るいほのおは、まるで、小さなろうそくの火のようでした。少女は、その上に手をかざしました。それは、ほんとうにふしぎな光でした。なんだか、ピカピカ光るしんちゅうのふたと、しんちゅうの胴のついている、大きな鉄のストーブの前にすわっているような気がしました。まあ、火は、なんてよく燃えるのでしょう! そして、なんて気持よく暖かいのでしょう!
少女は、足も暖めようと思って、のばしました。と、そのとたんに、ほのおは、消えてしまいました。ストーブも、かき消すように見えなくなりました。――少女の手には、燃えつくしたマッチの燃えさしが、のこっているばかりでした。
また、新しいマッチをすりました。マッチは燃えついて、あたりが明るくなりました。光がかべにさすと、かべはベールのようにすきとおって、少女は中の部屋《へや》を、すかして見ることができました。部屋の中には、かがやくように白いテーブル・クロスをかけた、食卓《しょくたく》があって、りっぱな陶器《とうき》の食器がならんでいます。しかも、そこには、おなかにスモモやリンゴをつめて焼いたガチョウが、ほかほかと、おいしそうな湯気《ゆげ》を立てているではありませんか。けれども、もっとすばらしいことには、そのガチョウが、ぴょいとお皿《さら》からとびおりて、背中にフォークやナイフをつきさしたまま、床《ゆか》の上を、よたよたと歩きだしたのです。そして貧しい少女のほうへ、まっすぐにやってくるのです。
と、そのとき、マッチの火が消えてしまいました。あとには、ただ、厚い、つめたいかべが、見えるばかりでした。
少女はもう一本、新しいマッチをつけました。すると、今度は、たとえようもないほど美しいクリスマスツリーの下に、すわっているのでした。それは、この前のクリスマスのときに、お金持の商人の家で、ガラス戸ごしに見たのよりも、ずっと大きくて、ずっとりっぱに飾りたててありました。何千本とも、かぞえきれないほどの、たくさんのろうそくが、緑の枝の上で、燃えていました。そして、商店の飾り窓にならべてあるような、色とりどりの美しい絵が、自分のほうを見おろしているのです。思わず、少女は、両手をそちらのほうへ、高くさしのべました。
と、そのとき、またもや、マッチの火が消えてしまいました。たくさんのクリスマスの光は、高く高くのぼっていきました。そしてとうとう、明るいお星さまになりました。その中の一つが、空に長い長い光の尾を引いて、落ちていきました。
「ああ、だれかが死んだんだわ」と、少女は言いました。なぜって、いまは、この世にはいませんが、世界じゅうでたったひとりだけ、この子をかわいがってくれていた、年とったおばあさんが、よく、こう言っていたからです。「星が落ちるときにはね、ひとりの人の魂が、神さまのみもとに、のぼっていくんだよ」
少女は、もう一本、マッチをかべにすりつけました。あたりが、ぱっと明るくなりました。その光の中に、あの年とったおばあさんが、いかにもやさしく、いかにも幸福そうに、光りかがやいて立っているのでした。
「おばあさん!」と、少女はさけびました。「ああ、あたしも、いっしょに連れていって! だって、マッチの火が消えちゃえば、おばあさんは行っちゃうんでしょ。さっきの、あったかいストーブや、おいしそうな焼きガチョウや、それから、あの大きくて、すてきなクリスマスツリーみたいに!」
そう言って、少女は、たばの中にのこっているマッチを、大いそぎで、みんな、すりました。こうして、おばあさんを、しっかりと、自分のそばにひきとめておこうとしたのです。マッチは、あかあかと燃えあがって、あたりはま昼よりも、もっと明るくなりました。おばあさんが、このときぐらい、美しく、大きく見えたことはありませんでした。おばあさんは、小さな少女を、腕にだき上げました。ふたりは、光とよろこびにつつまれながら、高く高く、天へとのぼっていきました。もう、少女には、寒いことも、おなかのすくようなことも、こわいこともありません。――ふたりは、神さまのみもとに、召されていったのです。 | 少女の小さな手が死んだように冷たくなっていたのはなぜですか。 | 雪の降る寒い日に外を歩いていたからです。 |
JCRRAG_009337 | 国語 | お手紙ありがとう。十二月二十五日の晩は、かえりにおつれがあったから助かりましたが、本郷の通りで、走っていたバスが急停車したとき、ステップのわきの金棒につかまって立っていたわたしのからだが、ブーンとひとまわりふられて、もし、手がはなれたらそのままふりおとされるところでした。わきにいたちゑ子さんが、「あらあ、おっかなかった」といいました。
あの講演会から病気がわるくなって、いまも床の上です。口述していただいて返事をかきます。あの講演会でもわかるように、この頃だんだんいろいろな作家がファシズムに反対し、日本の独立と平和とを守るためには一致した気持で集りもするようになってきたことは、実にプラスだと思います。東條の家族が、「父は生きたのです」といった十二月二十三日の次の日、わたしたちはA級戦犯容疑者十七名が釈放された記事と写真とをみました。
釈放された人のなかに、安倍源基という名があります。昭和のはじめ、日本の天皇制が侵略戦争をはじめたにつれて、治安維持法がしだいに殺人的な悪法となってゆきました。安倍源基は、警視庁の特高部長でした。それから人民抑圧の手柄によって、警視総監となり、内務大臣となり、さいごに企画院にゆきました。彼の出世の一段階ごとに治安維持法の血がこくしたたっています。小林多喜二を拷問で殺したのも、安倍源基とその部下の仕事です。岩田義道を殺したのも、上田茂樹をとうとう行方不明のままほうむり去ってしまったのも、彼の立身の一段でした。その頃非合法におかれていた共産党の中央委員のなかに、大泉兼蔵、小畑某というスパイをいれ、大森のギャング事件、川崎の暴力メーデーと、大衆から人民の党を嫌わせるような事件を挑発させたのも、安倍源基とその一味でした。スパイは、日本全国の党組織に入りこんでいて、金、女のことで世間の人が誰しもよくないことと思わずにいられないような行動をする一方、次から次へと組織を売りわたしてこわしてゆきました。治安維持法の犠牲者は、全国に二十万人ほどあります。その三分の二の人びとにとって、安倍源基の名は決して忘れられません。昭和七年から終戦まで、そして今日わたしが床の上でこの手紙をひとに書いてもらわなければならないような健康状態におかれるようになった十数年間のすべての治安維持法関係の書類のかげには、安倍源基の名が関係しています。
表面上ファシスト団体が解散を命ぜられたといっても、それはちょうど尾津組その他の暴力団が組という組織を変えて近代的な株式会社になり、ますます一般の目からはみわけにくい形で活動をつづけるのと同じような道をたどっています。そのファシスト団体の首領である児玉誉士夫、葛生能久たちが自由市民の生活にまぎれこんできました。
こういうふうに、国際的に侵略戦争の煽動者であり、ファシズム思想の組織者であったと認められた人びとが、わたしたちの生活にたちまじってきたことについて、どう判断していいのでしょう。わたしは思います。このことは日本のわたしたちの民主主義への努力がどのくらい真に人民の意志の表現であり、その行動であるかをためすものであると。したがって、民主主義をそこなうための勢力に対して正当な批判をおこない、行動によって民主主義の道をえらび、平和のための戦争挑発と戦ってこそ、人民の権利はいよいよ実際的に守られてゆくべきであるということです。
あの講演会で、ファシズムは生きていると申しましたけれど、生きているどころか輪をもってかけずりまわっているわ。一月六日の時事新報二面のトップに「五・一五事件山岸中尉の新生」という見出しの写真入り記事があったのをごらんでしたろう。昭和七年五月十五日に永田町の首相官邸で当時の首相であった犬養毅を射殺した一団のテロリスト将校がありました。前年にいわゆる満州事変がおこって日本の陸軍が侵略戦争へさかおとしになってゆく一歩がひらかれたときでした。そのとき、将校にとりまかれた首相が、「話せばわかる」というのに対して「問答無用、射てッ」と命令して老首相を倒した海軍中尉が山岸宏でした。十七年の歳月がすぎ、山岸宏の名は山岸敬明とあらためられました。自宅の仏壇に犬養毅の写真が飾ってあり、毎月回向をかかさないそうです。そして、今の民主党の中心的活動家である犬養健(犬養首相の息子)に対面する日を楽しみにしているそうです。その山岸敬明が経営しているのが深川新大橋にある互幸輪タク会社です。この輪タクは「宮様輪タク」とよばれています。それはどうしてでしょう。山岸敬明が輪タクを開業するとき十万円ほどの資本を出して株主となったのがもとの賀陽宮、いまの賀陽恒憲だったそうです。
荒物店でもひらくなら十万円という金はもとの千円として何かの役にたつでしょう。けれども輪タク一台いくらすると思って? 田舎の輪タク屋がわたしにいったことがあります。こんなものが造るとなれば一台二万円はかかるんですから、どうしたって料金も高くついてしまいますと。十万円で輪タク五台ですよ。ところがね、記事によると山岸敬明という人は事業家なのです。この人は、犬養首相を射殺して禁固十年の判決をうけ、七年たった昭和十三年に仮出獄したそうです。それからまた不敬罪によって三年間未決にいたときに終戦となりました。その後、故郷の新潟県関山でもと陸軍の演習地であった四十町歩の土地の開墾をはじめ、製粉、製塩事業の関山農場をやっているのだそうです。四十町歩の陸軍演習地を海軍のなかでも、特別な政治テロリストであった山岸中尉が手に入れたということは、そこに諒解があったわけでしょう。この仕事に組織されたのは関山の中学や小学校の後輩二〇名だそうです。新聞記事は、これらの人びとを同志とかいています。いわゆる五・一五事件当時から山岸敬明と妻君のあや子という人の間には、新聞口調でいえば、灼熱のロマンスがひめられていたそうです。このあやさんが賀陽氏のいとこなのだそうです。
だいたい生活能力のあたえられずに生きてきた皇族の今日の生活は、実際ひどいものであると思います。その生活能力のないという現実と、同時に日本の人びとの感情のなかにまだまぼろしをのこしている「宮様」のありがたさに対する利用価値とが、からみあって、いつも右翼の財力にひっかかっています。いつか平民になった皇族たちの職業しらべがでていましたが、ほとんど大部分が「何々の宮」という看板を貸して、かげの闇めいた儲けでやしなわれている状態でした。
天皇制についての研究は、この際あらためて、わたしたちの重大な問題です。なぜなら、いまの憲法は、本極りのものではなくて、このごろ対日理事会で再審査されはじめています。日本の政府は狡猾で、新憲法発布のおまつりさわぎをしたりして、さも、いまの憲法がもうきまってしまったようにみせかけました。
ところが、そうでないことは、おまつりの最中にだってわかっていたのです。天皇がたとえ言葉の上で「シムボル」だといわれたにしろ、シムボルというものはそれによって象徴される実体があることの証拠です。極東裁判によって天皇が戦争に責任ないということを決められました。 | 手紙の書き手は、十二月二十五日の晩にどのような出来事に遭遇したのか。 | 手紙の書き手は、十二月二十五日の晩、帰り道で同行者がいたため助かったが、本郷の通りで走行中のバスが急停車した際、ステップの脇の金棒につかまっていた体が振り回され、もし手を離していたら振り落とされる危険な状況に陥った。 |
JCRRAG_009338 | 国語 | わが国で黒板が盛んに使用されるようになったのは、何と言っても明治初年(1867)、アメリカ人による教育上の指導からである。1872年に師範学校が開かれたとき、大学南校の教師であったスコットを招いて、小学校に於ける実際の教授法を伝えて貰った。スコットは母国の師範学校出身者であり、東京の師範学校では、主として英語と算術を教えたが、教科用書や教具器械の類は米国からの到着を待って使用したという。更に翌年には、ラトガース・カレッヂの数学・天文学教授マーレーが聘されて文部省学監となり、日本における教育の全面的指導に当ることになった。
師範学校で、黒板がスコットによってどんな風に使用されたかは、『師範学校、小学校教授法』という、師範学校長諸葛信澄らの校閲にかかる書物によっても明かである。その中には、算術の授業に黒板を使用している絵があり、そこには「図の如く、教師、数字と算用数字を呼で石盤に記さしめ、一同記し終りたるとき、教師盤上に記し、これと照準せしめ、正しく出来たる者は各の手を上げしめ、誤りたる者は手を上げざるを法とす」と、書かれている。
それなら黒板はアメリカで発明されたものなのか。否、それは1810年代に、フランス人によってアメリカに伝えられたものなのである。アメリカの普通の学校では、独立戦争(1775~1783)前は勿論、独立後の数年間も、まだ石盤さえ使用されていなかった。生徒も教師も、書き物や算術計算を皆紙に書いていたのである。
ところでボストンの牧師メーという人の伝記(1866)によると、彼はカトリック教徒のフランス人ブロシウス師が、数学の学校で黒板を用いているのを、1813年にはじめて見た。それでメー師は自分の学校で黒板を使用しはじめた、とのことである。
しかしアメリカの初等学校に黒板の普及を見るに至ったのは、大体1860年頃からであるといわれているが、そうすると、スコットは案外はやく、新しい黒板をわが国に普及させたことになる。
もっとも大学やカレッヂの数学教室では、もっと早くから黒板が使用された。それは1820~1840年の期間に、アメリカの数学界に大きな影響を及ぼした、ウェスト・ポイント陸軍士官学校における、数学の教授から発したのである。 | わが国で使用されるようになった黒板は、どこの国の人によって発明されましたか。 | わが国で使用されるようになった黒板は、フランス人によって発明されました。 |
JCRRAG_009339 | 国語 | 満洲のみなさま。
私の名前は、きっとご存じ無い事と思います。私は、日本の、東京市外に住んでいるあまり有名でない貧乏な作家であります。東京は、この二、三日ひどい風で、武蔵野のまん中にある私の家には、砂ほこりが、容赦無く舞い込み、私は家の中に在りながらも、まるで地べたに、あぐらをかいて坐っている気持でありました。きょうは、風もおさまり、まことに春らしく、静かに晴れて居ります。満洲は、いま、どうでありましょうか。やはり、梅が咲きましたか。東京は、もう梅は、さかりを過ぎて、花弁も汚くしなび掛けて居ります。桜の蕾は、大豆くらいの大きさにふくらんで居ります。もう十日くらい経てば、花が開くのではないかと存じます。きょうは、三月三十日です。南京に、新政府の成立する日であります。私は、政治の事は、あまり存じません。けれども、「和平建国」というロマンチシズムには、やっぱり胸が躍ります。日本には、戦争を主として描写する作家も居りますけれど、また、戦争は、さっぱり書けず、平和の人の姿だけを書きつづけている作家もあります。きのう永井荷風という日本の老大家の小説集を読んでいたら、その中に、
「下々の手前達が兎や角と御政事向の事を取沙汰致すわけでは御座いませんが、先生、昔から唐土の世には天下太平の兆には綺麗な鳳凰とかいう鳥が舞まい下さがると申します。然し当節のように何も彼も一概に綺麗なものや手数のかかったもの無益なものは相成らぬと申してしまった日には、鳳凰なんぞは卵を生む鶏じゃ御座いませんから、いくら出て来たくも出られなかろうじゃ御座いませんか。外のものは兎に角と致して日本一お江戸の名物と唐天竺まで名の響いた錦絵まで御差止めに成るなぞは、折角天下太平のお祝いを申しに出て来た鳳凰の頸をしめて毛をむしり取るようなものじゃ御座いますまいか。」
という一文がありました。これは、「散柳窓夕栄」という小説の中の、一人物の感慨として書かれているのであります。天保年間の諸事御倹約の御触に就いて、その一人物が大いに、こぼしているところなのであります。私は、永井荷風という作家を、決して無条件に崇拝しているわけではありません。きのう、その小説集を読んでいながらも、幾度か不満を感じました。私みたいな、田舎者とは、たちの異る作家のようであります。けれども、いま書き抜いてみた一文には、多少の共感を覚えたのです。日本には、戦争の時には、ちっとも役に立たなくても、平和になると、のびのびと驥足をのばし、美しい平和の歌を歌い上げる作家も、いるのだということを、お忘れにならないようにして下さい。日本は、決して好戦の国ではありません。みんな、平和を待望して居ります。
私は、満洲の春を、いちど見たいと思っています。けれども、たぶん、私は満洲に行かないでしょう。満洲は、いま、とてもいそがしいのだから、風景などを見に、のこのこ出かけたら、きっとお邪魔だろうと思うのです。日本から、ずいぶん作家が出掛けて行きますけれど、きっと皆、邪魔がられて帰って来るのではないかと思います。ひとの大いそがしの有様を、お役人の案内で「視察」するなどは、考え様に依っては、失礼な事とも思われます。私の知人が、いま三人ほど満洲に住んで大いそがしで働いて居ります。私は、その知人たちに逢い、一夜しみじみ酒を酌み合いたく、その為ばかりにでも、私は満洲に行きたいのですが、満洲は、いま、大いそがしの最中なのだという事を思えば、ぎゅっと真面目になり、浮いた気持もなくなります。
私のような、すこぶる「国策型」で無い、無力の作家でも、満洲の現在の努力には、こっそり声援を送りたい気持なのです。私は、いい加減な嘘は、吐きません。それだけを、誇りにして生きている作家であります。私は、政治の事は、少しも存じませんが、けれども、人間の生活に就いては、わずかに知っているつもりであります。日常生活の感情だけは、少し知っているつもりであります。それを知らずに、作家とは言われません。日本から、たくさんの作家が満洲に出掛けて、お役人の御案内で「視察」をして、一体どんな「生活感情」を見つけて帰るのでしょう。帰って来てからの報告文を読んでも、甚だ心細い気が致します。日本でニュウス映画を見ていても、ちゃんとわかる程度のものを発見して、のほほん顔でいるようであります。此の上は、五年十年と、満洲に、「一生活人」として平凡に住み、そうして何か深いものを体得した人の言葉に、期待するより他は、ありません。私の三人の知人は、心から満洲を愛し、素知らぬ振りして満洲に住み、全人類を貫く「愛と信実」の表現に苦闘している様子であります。 | 私が崇拝している作家が書いた小説のタイトルは何ですか。 | 私が崇拝している作家が書いた小説のタイトルは「散柳窓夕栄」です。 |
JCRRAG_009340 | 国語 | 一九七七(昭和五十二)年四月、サンフランシスコで開かれたウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)会場の入り口には、長蛇の列ができていた。
この年の二月、アップルは初の本格的パーソナルコンピューター、アップル※(ローマ数字2、1-13-22)を発表。続いて大手の電卓メーカー、コモドール社があとを追うようにPETを発表。この二機種が公開されるとあって、フェアーの前人気はいやがうえにも高まった。
そして、熱気あふれるこの列の中に、TK―80の開発者、後藤富雄もいた。
ようやく会場内に入っても、やはり大変な混雑。しかし、そんな人込みの中でも、アップル社の展示コーナーは、いやでも目についた。
コーナーを統一しているのは、あざやかな色のイメージである。
「黄緑」「黄色」「オレンジ」「赤」「紫」「水色」に塗り分けられた今ではおなじみとなったリンゴのマーク。ブース全体もカラフルに飾り付けられている。そして肝心のアップル※(ローマ数字2、1-13-22)自体も、家庭用テレビに六色を使ったカラーの図形を表示し、大いに観客にアピールしていた。
さらにこのアップル※(ローマ数字2、1-13-22)は、ベーシックの翻訳プログラムをあらかじめ記憶装置に収めており、電源を入れるとすぐに、ベーシックの使える状態になるのだという。
しかし、それにもまして後藤をうならせたのは、コモドール社のPETである。
タイプライターを思わせるスタイルのアップル※(ローマ数字2、1-13-22)が、家庭用のテレビと接続して使う方式となっていたのに対し、PETには専用のブラウン管が組み込まれていた。さらにPETには、外部記憶装置としてカセットデッキまで組み込まれていた。もちろん、スイッチオンとともにベーシックの使用が可能。
これなら、ブラウン管を見ながら高級言語でプログラムを作り、プログラムを走らせた結果を画面上に表示できる。さらに、作ったプログラムをカセットテープに記録しておき、必要に応じて読み出してきてまた使うなど、PET一台で、一つのまとまったコンピューターとして充分使うことができる。
しかも、これだけの完成度を備えた製品がわずか六〇〇ドル、当時の為替レートで換算して約一七万円と、TK―80二台分程度の金で手に入るという。
実際には、このとき後藤が度肝を抜かれたPETはまだプロトタイプの段階にあったもので、発売開始は遅れに遅れて、約一年ほどもたってからになる。さらにその時点では、価格も当初のアナウンスよりは、かなり高めになっている。
だが、後藤の心に焼き付けられた印象は、いかにも強烈だった。
渡辺和也が購読手続きをとり、マイコン販売部に送られてきていた『ドクター・ドブズ・ジャーナル』からの情報で、TK―80のようなシステムでベーシックを使おうという動きが盛んになっているのは知っていた。だが、それどころではない。ここアメリカでは、とんでもないことが起こりつつある。何か、とてつもなく大きな波が、うねりはじめている。
しかしのちに振り返って、この時点ではまだ、後藤には「この波は、海の向こうであるアメリカのもの」とする気持ちが残っていたという。TK―80が、そして自分自身が、この波に乗って運ばれはじめたことを、このとき後藤はまだ実感していない。
後藤富雄がPETの完成度に強烈な印象を受けた同じ会場で、青年と呼ぶにはいまだに稚気を面に残した二一歳の西和彦は、目の前で起こりつつあることと日本の現状との落差に、はがゆさを禁じえないでいた。
「日本でTK―80が巻き起したのは、マイコンのブームでしかない。だが、ここアメリカでは、個人がコンピューターを使うという革命が起こりつつある。個人が自分の主体性にもとづいて、パーソナルコンピューターに向き合おうとしている」
後藤富雄がプロの技術者としての目でPETの完成度に着目していたとき、西和彦はもう少し観念的に、大げさにいえば哲学的に会場の熱気をつかまえようとしていた。
この年、先行するアップル※(ローマ数字2、1-13-22)とPETを追って、電子機器の販売チェーン、ラジオ・シャックで知られるタンディ社はTRS―80を発表。
本格的なパーソナルコンピューター三機種の出そろった一九七七(昭和五十二)年は、のちにパーソナルコンピューター元年と名付けられた。 | リンゴのマークは、何色に塗り分けられていますか。 | リンゴのマークは、6色に塗り分けられています。 |
JCRRAG_009341 | 国語 | 父がなくなったときは、長兄は大学を出たばかりの二十五歳、次兄は二十三歳、三男は二十歳、私が十四歳でありました。兄たちは、みんな優しく、そうして大人びていましたので、私は、父に死なれても、少しも心細く感じませんでした。長兄を、父と全く同じことに思い、次兄を苦労した伯父さんの様に思い、甘えてばかりいました。私が、どんなひねこびた我儘わがままいっても、兄たちは、いつも笑って許してくれました。私には、なんにも知らせず、それこそ私の好きなように振舞わせて置いてくれましたが、兄たちは、なかなか、それどころでは無く、きっと、百万以上はあったのでしょう、その遺産と、亡父の政治上の諸勢力とを守るのに、眼に見えぬ努力をしていたにちがいありませぬ。たよりにする伯父さんというような人も無かったし、すべては、二十五歳の長兄と、二十三歳の次兄と、力を合せてやって行くより他に仕方がなかったのでした。長兄は、二十五歳で町長さんになり、少し政治の実際を練習して、それから三十一歳で、県会議員になりました。全国で一ばん若年の県会議員だったそうで、新聞には、A県の近衛このえ公とされて、漫画なども出てたいへん人気がありました。
長兄は、それでも、いつも暗い気持のようでした。長兄の望みは、そんなところに無かったのです。長兄の書棚には、ワイルド全集、イプセン全集、それから日本の戯曲家の著書が、いっぱい、つまって在りました。長兄自身も、戯曲を書いて、ときどき弟妹たちを一室に呼び集め、読んで聞かせてくれることがあって、そんな時の長兄の顔は、しんから嬉しそうに見えました。私は幼く、よくわかりませんでしたけれど、長兄の戯曲は、たいてい、宿命の悲しさをテエマにしているような気がいたしました。なかでも、「奪い合い」という長編戯曲に就ついては私は、いまでも、その中の人物の表情までも、はっきり思い出すことができるのであります。
長兄が三十歳のとき、私たち一家で、「青んぼ」という可笑おかしな名前の同人雑誌を発行したことがあります。そのころ美術学校の塑像そぞう科に在籍中だった三男が、それを編集いたしました。 | 「青んぼ」という同人雑誌を発行した時に私は何歳でしたか。 | その時、私は十九歳でした。 |
JCRRAG_009342 | 国語 | 子供が一人ぐらいの時はまだいいが、二人三人となると、育てるのがなかなか容易でない。子供のほしがるものは親として出来るだけ与えたい。お菓子、おもちゃ、帽子、三輪車 この頃は田舎でも三輪車が流行はやっている。女の子供は、少し大きくなると着物に好みが出来てくる。一ツ身や、四ツ身を着ている頃はまだいゝ。しかし四ツ身から本身に変る時には、拵こしらえてやっても、拵えてやってもなお子供は要求する。彼女達は絶えず生長しているのである。生長するに従って、その眼も、慾望も変化し進歩しているのだ。
清吉は三人の子供を持っていた。三人目は男子だったが、上の二人は女だった。長女は既に十四になっている。
夫婦揃って子供思いだったので、子供から何か要求されると、どうしてもそれをむげに振去ることが出来なかった。肩掛け、洋傘こうもり、手袋、足袋、足袋も一足や二足では足りない。下駄、ゴム草履、櫛くし、等、等。着物以外にもこういう種々なるものが要求された。着物も、木綿縞や、瓦斯ガス紡績だけでは足りない。お品は友染ゆうぜんの小浜を去年からほしがっている。
二人は四苦八苦しながら、子供の要求を叶えてやった。しかし、清吉が病気に罹って、ぶらぶらしだしてから、子供の要求もみな聞いてやることが出来なくなった。お里は、家計をやりくりして行くのに一層苦しみだした。
暮れになって、呉服屋で誓文払せいもんはらいをやりだすと、子供達は、店先に美しく飾りたてられたモスリンや、サラサや、半襟などを見て来てはそれをほしがった。同年の誰れ彼れが、それぞれ好もしいものを買って貰ったのを知ると、彼女達はなおそれをほしがった。
「良よっちゃんは、大島の上下揃えをこしらえたんじゃ。」
お品は縫物屋から帰って来て云った。
「うち(自分のこと)毛のシャツを買うて貰おう。」次女のきみが云った。
子供達は、他人ひとに負けないだけの服装をしないと、いやがって、よく外へ出て行かないのだ。お品は、三四年前に買った肩掛けが古くなったから、新しいのをほしがった。
清吉は、台所で、妻と二人きりになると、
「ひとつ山を伐ろう。」と云いだした。
お里はすぐ賛成した。
山の団栗どんぐりを伐って、それを薪に売ると、相当、金がはいるのであった。
正月前に、団栗山を伐った。樹を切るのは樵夫きこりを頼んだ。山から海岸まで出すのは、お里が軽子かるこで背負った。山出しを頼むと一束わに五銭ずつ取られるからである。
お里は常からよく働く女だった。一年あまり清吉が病んで仕事が出来なかったが、彼女は家の事から、野良仕事、山の仕事、村の人夫まで、一人でやってのけた。子供の面倒も見てやるし、清吉の世話もおろそかにしなかった。清吉は、妻にすまない気がして、彼自身のことについては、なるだけ自分でやった。が、お里の方では、そんなことで良人が心を使って病気が長びくと困ると思っていた。清吉の前では快活に骨身を惜まずに働いた。
木は、三百束たばばかりあった。それだけを女一人で海岸まで出すのは容易な業ではなかった。
お里が別に苦しそうにこぼしもせず、石が凸凹している嶮しい山路を上り下りしているのを見ると、清吉はたまらなかった。
「ひまがあったら、木を出せえ。」彼は縫物屋が引けて帰ったお品に云いつけた。
「きみも出すか、一束わ出したら五銭やるぞ。」
姉よりさきに帰っている妹にも云った。きみはまだ小さくて、一束もよく背負えなかったが、
「一束わに五銭呉れるん。そんなら出さあ。」
きみは、口を尖らして、眼をかゞやかした。
「出すことなるか?」
「うん、出さあ。一束よう出さなんだら、半束ずつでも出さあ。」
「そうかい。」彼は笑った。 | 薪を運ぶ仕事の報酬として与えられた金額の中で最も高いのは誰に支払われたか。 | 薪を運ぶ仕事の報酬として最も高い金額が支払われたのは お品 である。清吉は「ひまがあったら、木を出せえ」とお品に言い、妹のきみには「一束出したら五銭やる」と条件を出していた。きみはまだ小さく、一束を運ぶのが難しいため、実際にはお品の方が多くの薪を運び、最も高い報酬を得たと考えられる。 |
JCRRAG_009343 | 国語 | 偉人の伝記というと、ナボレオンとかアレキサンドロスとか、グラッドストーンというようなのばかりで、学者のはほとんど無いと言ってよい。なるほどナポレオンやアレキサンドロスのは、雄であり、壮である。しかし、いつの世にでもナポレオンが出たり、アレキサンドロスの出ずることは出来ない。文化の進まざる時代の物語りとして読むには適していても、修養の料にはならない。 グラッドストーンのごときといえども、一国について見れば二、三人あり得るのみで、しかも大宰相たるは一時に一人のみしか存在を許さない。これに反して、科学者や哲学者や芸術家や宗教家は 一時代に十人でも二十人でも存在するを得、また多く存在するほど文化は進む。ことに科学においては、言葉を用うること少なきため、他に比して著しく世界的に共通で、日本での発見はそのまま 世界の発見であり、詩や歌のごとく、外国語に訳するの要もない。これらの理由により、科学者たらんとする者のために、大科学者の伝記があって欲しい。しかし、 科学者の伝記を書くということは、随分むずかしい。というのは、まず科学そのものを味った人であることが必要であると同時に多少文才のあることを要する。悲しいかな、著者は自ら顧みて、決してこの二つの条件を備えておるとは思わない。ただ最初の試みをするのみである。 | ナポレオンは偉人ですか。 | ナポレオンは偉人です。 |
JCRRAG_009344 | 国語 | 猫は唯物主義だと云われている。
その説によれば、猫は飼主に属するよりも、より多く飼家に属するそうである。飼主の人間どもが転居する時、猫はそれに従って新居に落付くことなく、旧家に戻りたがる。それが空家になっていようと、或は新らしい人間どもが住んでいようと、そんなことには頓着なく、旧家に住み続けたがる。だから、三日飼われてその恩を三年忘れない犬と反対に、猫は三年飼われてその恩を三日にして忘れる。云いかえれば、三年飼われてその家を三日にして忘れる犬と反対に、猫は三日飼われてその家を三年忘れないとか。
十年ほど以前のこと、私の家に、一匹の若い猫がはいりこんできた。追っても逃げない。外へ出してもまたはいって来る。見知らぬ私たちに、喉を鳴らしながら甘ったれる。平気で物を食い、泰然と居眠る。図々しい呑気な闖入者だ。私たちはその家にもう五六年住んでいたし、猫は生後一年とはたたない若さだったので、猫が、私たちには勿論、家にも馴染がなかったのは明かである。それでも当然自分の家だというように腰を落付けている。その様子、私たちよりも、粗末な家だが、家が気に入ったものらしい。
頭と背が赤茶地に黒線の虎斑の、頸から腹や足先にかけて白い、尾の短い、普通の牝猫だったが、私たちはそのまま飼い続けた。
二年ばかり後、私たちは他の家に移転した。四五町しか距っていない家だったので、猫が旧家に逃げ戻りはしないかと、飼えば愛情が出て、少々心配した。だが何のこともなかった。目隠しもせず、ただ抱いて来ただけで、繋ぎとめる必要もなく、私たちと一緒に、当然だという顔付で、新らしい家に落付いてしまった。家によりもより多く飼主に馴染んでいるのだ。
其後この猫、年に一二回妊娠をするし、分娩の時の世話やら、生れた仔猫の貰われ口など、随分心配をかけるが、それだけにまた家庭生活の中に根を下して、すっかり家族の一員となってしまった。
小学校に通う子供三人が、円陣を作って遊んでいると、猫はその真中にはいって蹲る。子供の一人が勉強を初めると、その机の上に坐りこむ。「猫が、お遊びの……勉強の……邪魔をする、」というのが子供たちの始終の苦情だ。そのくせ、寝る時には、各自に自分の布団の中へ猫を奪い合う。夏休みなど、家族中で旅をするような時、その不在中、猫がとても淋しそうだったと、留守居の者の話。旅から帰ってくると、猫の嬉しがりようったらない。身体をすりつけてくる。背中にとび乗る。頬辺をなめる……。
この猫、案外、唯物主義者でない、と私は思ったのである。
ところが、昨年の夏、知人の家に、尾の長い純白の牡の仔猫が出来たので、貰う約束をして、生後二カ月ばかりして連れてきた。私はかねがね、純白か漆黒かの尾の長い男猫を求めていたので、その願いの半分だけかなったわけだ。
それはよいが、そこで、思いがけない障碍にぶつかった。貰って来た仔猫に、家の猫がなかなか親しまない。仔猫の方はさすがに無頓着で、時々実の親と間違えてか、なつかしそうに寄ってゆくこともあるが、親猫はすぐに、睥みすえ唸り声を出し、場合には引掻いたりする。それを私は互に馴れさせようとして、二匹一緒に膝の上に抱くが、そうなると仔猫までおじけて、二匹とも不安そうに身体をすくめ、首を縮め、時々低い唸り声を立て、はては膝から飛び出してしまう。そして室の別々の隅に蹲る。そんな状態が二週間ばかり続いた。ただ、食事の時いがみ合うことは殆んどなかった。
今になって考えると、親猫の方が馴染まなかったのは、妊娠していたせいだったらしい。胴のつまった毛並の艶やかな、見たところ若々しい様子ではあるが、もう生後十年余りになる老年で、歯数も少くなっているし、「もう子供は産みますまい、」とその春微恙の時に医者も云っていた。それが久しぶりに妊娠していたのだ。
白の仔猫が来て、半月ばかりたった時、家の猫は二匹子を生んだ。老年のせいか、子は発育が悪く、生れてすぐに死んだ。
そして中一日置いた早朝、私は子供たちから騒々しく呼び起された。子供たちについて行って見ると、不思議だ。親猫が白の仔猫を抱いて乳をのましている。今まであれほど反感を持ってたらしいのが、がらりと変って、如何にも愛撫するように抱きかかえているし、仔猫の方でも、喉をならしながら乳房にすがっている。一夜のうちに、どちらから先にそうなったのか分らないが、今ではもう、全く実の親子同様になっている。
そればかりでない。其後の親猫の態度は、云わばヒステリー的愛撫そのものになってしまった。仔猫の姿が一寸でも見えないと、方々駆け廻って鳴き立てる。仔猫が庭の木に登ったり家根に上ったりすると、警戒の声を立てて呼び寄せる。仔猫が危い垣根の上などに登ると、飛んでいって、銜えてくる。もう大きな子供を、婆さんが口に銜えて連れてくる。その方が実はよほど危いのだ。仔猫にはまたそれが面白いと見えて、なかなか親猫の云うことを聞かない。親猫は益々ヒステリー的になる。はては二匹で盛んにふざけちらす。それにも疲れると、日向に寝ころんでなめ合う。入浴の後には、濡れた毛を互になめ合い、寄り添って身体を温め合う。
そういう親猫の態度から判断すると、生後二カ月半もたったその仔猫を、全く生れたばかりのもののように考えてるらしい。而も自分の腹から生れたもののように考えてるらしい。ただ、とんでもない大きな子供が生れた、ということだけは考えないらしい。なお云えば、親猫には、子が死んだ後も母性愛が残っていて、その愛がこの仔猫を対象に選んだらしい。対象そのものが、自分の子か、他人の子か、小さいか大きいか、そんなことには無頓着で、母性愛はただ、本来の自然の働きを働いていったらしい。 | 「もう子供は産みますまい、」と医者が云ったのはなぜですか。 | 「もう子供は産みますまい、」と医者が云ったのは、その猫は生後十年余りになる老年で、歯数も少くなっていたため妊娠をするのは難しいと考えたからです。 |
JCRRAG_009345 | 国語 | メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏じゅんらの警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以もって問いつめた。その王の顔は蒼白そうはくで、眉間みけんの皺しわは、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、憫笑びんしょうした。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁はんばくした。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟つぶやき、ほっと溜息ためいきをついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」
「だまれ、下賤げせんの者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔はりつけになってから、泣いて詫わびたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は悧巧りこうだ。自惚うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と暴君は、嗄しわがれた声で低く笑った。「とんでもない嘘うそを言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑ほくそえんだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙だまされた振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスは口惜しく、地団駄じだんだ踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。 | メロスの友人、セリヌンティウスが王に捕まった理由は何ですか | メロスの身代わりとして捕まった |
JCRRAG_009346 | 国語 | そのころ、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、怪人「二十面相」のうわさをしていました。
「二十面相」というのは、毎日毎日、新聞記事をにぎわしている、ふしぎな盗賊のあだ名です。その賊は二十のまったくちがった顔を持っているといわれていました。つまり、変装がとびきりじょうずなのです。
どんなに明るい場所で、どんなに近よってながめても、少しも変装とはわからない、まるでちがった人に見えるのだそうです。老人にも若者にも、富豪にも乞食にも、学者にも無頼漢にも、いや、女にさえも、まったくその人になりきってしまうことができるといいます。
では、その賊のほんとうの年はいくつで、どんな顔をしているのかというと、それは、だれひとり見たことがありません。二十種もの顔を持っているけれど、そのうちの、どれがほんとうの顔なのだか、だれも知らない。いや、賊自身でも、ほんとうの顔をわすれてしまっているのかもしれません。それほど、たえずちがった顔、ちがった姿で、人の前にあらわれるのです。
そういう変装の天才みたいな賊だものですから、警察でもこまってしまいました。いったい、どの顔を目あてに捜索したらいいのか、まるで見当がつかないからです。
ただ、せめてものしあわせは、この盗賊は、宝石だとか、美術品だとか、美しくてめずらしくて、ひじょうに高価な品物をぬすむばかりで、現金にはあまり興味を持たないようですし、それに、人を傷つけたり殺したりする、ざんこくなふるまいは、一度もしたことがありません。血がきらいなのです。
しかし、いくら血がきらいだからといって、悪いことをするやつのことですから、自分の身があぶないとなれば、それをのがれるためには、何をするかわかったものではありません。東京中の人が「二十面相」のうわさばかりしているというのも、じつは、こわくてしかたがないからです。
ことに、日本にいくつという貴重な品物を持っている富豪などは、ふるえあがってこわがっていました。今までのようすで見ますと、いくら警察へたのんでも、ふせぎようのない、おそろしい賊なのですから。
この「二十面相」には、一つのみょうなくせがありました。何かこれという貴重な品物をねらいますと、かならず前もって、いついく日にはそれをちょうだいに参上するという、予告状を送ることです。賊ながらも、不公平なたたかいはしたくないと心がけているのかもしれません。それともまた、いくら用心しても、ちゃんと取ってみせるぞ、おれの腕まえは、こんなものだと、ほこりたいのかもしれません。いずれにしても、大胆不敵、傍若無人の怪盗といわねばなりません。
このお話は、そういう出没自在、神変ふかしぎの怪賊と、日本一の名探偵明智小五郎との、力と力、知恵と知恵、火花をちらす、一騎きうちの大闘争だいとうそうの物語です。
大探偵明智小五郎には、小林芳雄という少年助手があります。このかわいらしい小探偵の、リスのようにびんしょうな活動も、なかなかの見ものでありましょう。 | 二十面相がしている悪いことはなんですか。 | 二十面相がしている悪いことは盗みを働くこと。 |
JCRRAG_009347 | 国語 | どこの国、いずこの地方に行ってもお国自慢というものがある。歴史、人物、料理、産物など、時に応じ、人によってお国自慢の仕方も違う。生椎茸を例にとるなら、やはり例外でなく、京都の人は「京都の生椎茸はどんなもんだい」と誇りがましくいうし、地方の人も「お国の山の椎茸は必ずしも京都に劣らぬ」と負けてはいない。生椎茸にかぎらず、他のどんな産物でも、時間を少しでも経過したものはそれだけまずくてだめだ。お国自慢をする人は、それぞれみな採りたてを食べているから、古いのと比べてみて、そういうのだろう。どんな椎茸でも古くなってはだめで、新しいものでなければいけない。
しかし、そうはいっても、大分県あたりで採れる椎茸は実に見事で、日本一と叫んでもいいだろう。大分の椎茸は本当の椎の木にできた椎茸なので、かさが黒くなめらかで、香りや味がすばらしい。関東で賞味している椎茸は、実は椎の木にできたものではなく、櫟くぬぎの木にできたものだから本当にうまいとはいえない。椎茸のかさは、そのできる木の皮に似る性質があるので、櫟の木にできた椎茸のかさは櫟の皮と同じようになっており、椎の木にできた椎茸は椎の皮に似ている。
さて、櫟椎茸だが、これは噛かみごたえがあるという特徴はあるけれども、椎の木にできた椎茸のように香りがない。所詮、椎の木にできた椎茸にまさるものなしといえよう。 | 関東で賞味している椎茸は、どの木にできたものですか。 | 櫟(くぬぎ)の木にできたものです。 |
JCRRAG_009348 | 国語 | パリで、一八――年の秋のある風の吹きすさぶ晩、暗くなって間もなく、私は友人C・オーギュスト・デュパンと一緒に、郭外(フォーブール)サン・ジェルマンのデュノー街三十三番地四階にある彼の小さな裏向きの図書室、つまり書斎で、黙想と海泡石(かいほうせき)のパイプとの二重の快楽にふけっていた。少なくとも一時間というものは、我々は深い沈黙をつづけていた。そして誰かがひょっと見たら、二人とも、部屋じゅうに濛々(もうもう)と立ちこめたけむりがくるくると渦巻くのに、すっかり心を奪われているように見えたかもしれない。しかし、私自身は、その晩の早いころ我々の話題になっていたある題目のことを、心のなかで考えていたのだった。というのは、あのモルグ街の事件と、マリー・ロジェエ殺しの怪事件のことなのである。だから、部屋の扉が開いて、我々の古馴染(ふるなじみ)のパリの警視総監G――氏(2)が入ってきたとき、私にはそれがなにか暗合のように思われたのであった。
我々は心から彼を歓迎した。この男には軽蔑(けいべつ)したいところもあるが面白いところもあったし、それに我々はここ数年間、彼に会わなかったからである。二人はそれまで暗いところに坐っていたので、デュパンはすぐランプをつけようとして立ち上がったが、G――がある非常に困っている公務について、我々に相談に、というよりも私の友の意見をききに来たのだというと、デュパンはそのままふたたび腰を下ろした。
「もしなにかよく考える必要のあることなら、暗闇のなかで考えたほうがいいでしょう」と彼は灯心に火をつけるのをよして、言った。
「また君の奇妙な考えですな」と総監が言った。彼は自分のわからないことはなんでもみんな『奇妙な』という癖なので、まったく『奇妙なこと』だらけの真ん中に生きているのだった。
「いかにも、そのとおり」とデュパンは言って、客に煙草をすすめ、坐り心地のよい椅子を彼の方へ押しやった。
「ところで今度の面倒なことというのはなんですか?」と私が尋ねた。「殺人事件なんぞはもうご免こうむりたいものですな」
「いやいや、そんなものじゃないんだ。実は、事がらはいたって単純なので、我々だけで十分うまくやってゆけるとは思うんだが、でもデュパン君がきっとその詳しいことを聞きたがるだろうと思ったんでね。なにしろとても奇妙なことなんだから」
「単純で奇妙、か」とデュパンが言った。
「うむ、さよう。で、またどちらとも、そのとおりでもないので。実は、事件は実に単純なんだが、しかも我々をまったく迷わせるので、ひどく参っている始末なんだ」
「じゃ、たぶん、事がらがあまり単純なので、それがかえって、あなた方を当惑させているんだな」と友が言った。
「ばかを言っちゃいかん!」と、総監は心から笑いながら答えた。 | 部屋の中のけむりが濛々と立ちこめていましたが、なぜですか。 | 私と友人のデュパンがパイプで煙草を吸っていたからです。 |
JCRRAG_009349 | 国語 | ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や 揉鳥帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか飢饉とか云う災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事で ある。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手 のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えな くなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。 | 下人が雨やみを待っていた場所はどの大路にありますか。 | 下人が雨やみを待っていた羅生門は朱雀大路にあります。 |
JCRRAG_009350 | 国語 | アラスカの氷河は、景観の美しさという点では、世界第一といわれている。
氷河の壮大な美しさは、ずっと昔から、文学者や地理学者たちの讃美の的であった。もっとも、近年までは、一般の人々が近づき得る氷河は、ほとんどアルプスの氷河に限られていた。それで氷河の美についての文献は、主として、アルプスの氷河についてのものが多かった。
しかし氷河は、アルプスに限られたものではない。ヒマラヤやその周辺、いわゆる世界の屋根には、もっと壮大な氷河が、いくらもある。その外にも、南極大陸や、北極圏内のグリーンランドおよび、カナダ群島の北氷洋岸には、ヒマラヤをしのぐ壮麗な氷河が、たくさんある。
これらの氷河の景観は、世人の想像をはるかに絶するもので、自然のふところに秘められた天工の美と、規模の壮大さとを、如実に示すものである。しかしその美に驚嘆することは、一般の人々にはできない。それは、現在のところはまだ、ごく少数の探検家たちだけが享受し得る天恵である。
十年前までは、アラスカの氷河も、この部類に属していた。しかし定期航空路が、アラスカの沿岸に開かれた今日では、アラスカの氷河は、もはや探検家たちだけのものではなくなった。北方航空路をとる一般旅行者の眼にもふれるものとなった。
アラスカの氷河の代表的なものは、太平洋岸にある。アンカレージから、海岸にそって、カナダの方へ伸びた海岸地帯がそれである。この氷河の特徴は、氷河の末端が、海岸のすぐ近くにまで達している点にある。そしてそのうちのかなりのものは、直接海に流れ入っている。 | 定期航空路が開かれてから一般の人でも見られるようになった氷河の他に、一般の人が見られる氷河はどこでしょうか。 | アルプスの氷河 |
JCRRAG_009351 | 国語 | 猫は唯物主義だと云われている。
その説によれば、猫は飼主に属するよりも、より多く飼家に属するそうである。飼主の人間どもが転居する時、猫はそれに従って新居に落付くことなく、旧家に戻りたがる。それが空家になっていようと、或は新らしい人間どもが住んでいようと、そんなことには頓着なく、旧家に住み続けたがる。だから、三日飼われてその恩を三年忘れない犬と反対に、猫は三年飼われてその恩を三日にして忘れる。云いかえれば、三年飼われてその家を三日にして忘れる犬と反対に、猫は三日飼われてその家を三年忘れないとか。
十年ほど以前のこと、私の家に、一匹の若い猫がはいりこんできた。追っても逃げない。外へ出してもまたはいって来る。見知らぬ私たちに、喉を鳴らしながら甘ったれる。平気で物を食い、泰然と居眠る。図々しい呑気な闖入者だ。私たちはその家にもう五六年住んでいたし、猫は生後一年とはたたない若さだったので、猫が、私たちには勿論、家にも馴染がなかったのは明かである。それでも当然自分の家だというように腰を落付けている。その様子、私たちよりも、粗末な家だが、家が気に入ったものらしい。
頭と背が赤茶地に黒線の虎斑の、頸から腹や足先にかけて白い、尾の短い、普通の牝猫だったが、私たちはそのまま飼い続けた。
二年ばかり後、私たちは他の家に移転した。四五町しか距っていない家だったので、猫が旧家に逃げ戻りはしないかと、飼えば愛情が出て、少々心配した。だが何のこともなかった。目隠しもせず、ただ抱いて来ただけで、繋ぎとめる必要もなく、私たちと一緒に、当然だという顔付で、新らしい家に落付いてしまった。家によりもより多く飼主に馴染んでいるのだ。
其後この猫、年に一二回妊娠をするし、分娩の時の世話やら、生れた仔猫の貰われ口など、随分心配をかけるが、それだけにまた家庭生活の中に根を下して、すっかり家族の一員となってしまった。
小学校に通う子供三人が、円陣を作って遊んでいると、猫はその真中にはいって蹲る。子供の一人が勉強を初めると、その机の上に坐りこむ。「猫が、お遊びの……勉強の……邪魔をする、」というのが子供たちの始終の苦情だ。そのくせ、寝る時には、各自に自分の布団の中へ猫を奪い合う。夏休みなど、家族中で旅をするような時、その不在中、猫がとても淋しそうだったと、留守居の者の話。旅から帰ってくると、猫の嬉しがりようったらない。身体をすりつけてくる。背中にとび乗る。頬辺をなめる……。
この猫、案外、唯物主義者でない、と私は思ったのである。
| この猫、案外、唯物主義者でない、と私は思ったのはなぜですか。 | この猫、案外、唯物主義者でない、と私は思ったのは、私が飼っていた猫は新居にすぐ落着いたり旅行から帰ってきた家族に嬉しがっていたりと「猫は飼主に属するよりも、より多く飼家に属する唯物主義だ」という説とは異なる行動をしていたからです。 |
JCRRAG_009352 | 国語 | 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面くめんして、出掛ける事にした。私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧すすまない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。
宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻くすぶり返った藁葺わらぶきの間あいだを通り抜けて磯いそへ下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑にぎやかな景色の中に裹つつまれて、砂の上に寝ねそべってみたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらを跳はね廻まわるのは愉快であった。
私は実に先生をこの雑沓ざっとうの間あいだに見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋かけぢゃやが二軒あった。私はふとした機会はずみからその一軒の方に行き慣なれていた。長谷辺はせへんに大きな別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばを拵こしらえていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風ふうなものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外ほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹しおはゆい身体からだを清めたり、ここへ帽子や傘かさを預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいを脱ぬぎ棄すてる事にしていた。
私わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。私はその時反対に濡ぬれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。二人の間あいだには目を遮さえぎる幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴つれていたからである。 | 著者が先生を始めて見かけた茶屋はどこにありますか | 鎌倉です |
JCRRAG_009353 | 国語 | 「まあ、あたし、どうして、こんなところにひきとめられていたのかしら。」と、ゲルダはいいました。「あたし、カイちゃんをさがさなくてはならなかったのだわ――カイちゃん、どこにいるか、しらなくって。あなたは、カイちゃんが死んだとおもって。」と、ゲルダは、ばらにききました。
「カイちゃんは死にはしませんよ。わたしどもは、いままで地のなかにいました。そこには死んだ人はみないましたが、でも、カイちゃんはみえませんでしたよ。」と、ばらの花がこたえました。
「ありがとう。」と、ゲルダはいって、ほかの花のところへいって、ひとつひとつ、うてなのなかをのぞきながらたずねました。「カイちゃんはどこにいるか、しらなくって。」
でも、どの花も、日なたぼっこしながら、じぶんたちのつくったお話や、おとぎばなしのことばかりかんがえていました。ゲルダはいろいろと花にきいてみましたが、どの花もカイのことについては、いっこうにしりませんでした。
ヒヤシンスの花は、どんなお話をしたでしょう。
「あるところに、三人の、すきとおるようにうつくしい、きれいな姉いもうとがおりました。なかでいちばん上のむすめの着物は赤く、二ばん目のは水色で、三ばん目のはまっ白でした。きょうだいたちは、手をとりあって、さえた月の光の中で、静かな湖みずうみのふちにでて、おどりをおどります。三人とも妖女ようじょではなくて、にんげんでした。そのあたりには、なんとなくあまい、いいにおいがしていました。むすめたちは森のなかにきえました。あまい、いいにおいが、いっそうつよくなりました。すると、その三人のうつくしいむすめをいれた三つのひつぎが、森のしげみから、すうっとあらわれてきて、湖のむこうへわたっていきました。つちぼたるが、そのぐるりを、空に舞まっているちいさなともしびのように、ぴかりぴかりしていました。おどりくるっていた三人のむすめたちは、ねむったのでしょうか。死んだのでしょうか。――花のにおいはいいました。あれはなきがらです。ゆうべの鐘かねがなくなったひとたちをとむらいます。」
「ずいぶんかなしいお話ね。あなたの、そのつよいにおいをかぐと、あたし死んだそのむすめさんたちのことを、おもいださずにはいられませんわ。ああ、カイちゃんは、ほんとうに死んでしまったのかしら。地のなかにはいっていたばらの花は、カイちゃんは死んではいないといってるけれど。」
「チリン、カラン。」と、ヒヤシンスのすずがなりました。「わたしはカイちゃんのために、なっているのではありません。カイちゃんなんて人は、わたしたち、すこしもしりませんもの。わたしたちは、ただ自分のしっているたったひとつの歌を、うたっているだけです。」
それから、ゲルダは、緑の葉のあいだから、あかるくさいている、たんぽぽのところへいきました。
「あなたはまるで、ちいさな、あかるいお日さまね。どこにわたしのおともだちがいるか、しっていたらおしえてくださいな。」と、ゲルダはいいました。
そこで、たんぽぽは、よけいあかるくひかりながら、ゲルダのほうへむきました。どんな歌を、その花がうたったでしょう。その歌も、カイのことではありませんでした。
「ちいさな、なか庭には、春のいちばんはじめの日、うららかなお日さまが、あたたかに照っていました。お日さまの光は、おとなりの家の、まっ白なかべの上から下へ、すべりおちていました。そのそばに、春いちばんはじめにさく、黄色い花が、かがやく光の中に、金のようにさいていました。おばあさんは、いすをそとにだして、こしをかけていました。おばあさんの孫の、かわいそうな女中ぼうこうをしているうつくしい女の子が、おばあさんにあうために、わずかなおひまをもらって、うちへかえってきました。女の子はおばあさんにせっぷんしました。このめぐみおおいせっぷんには金きんが、こころの金きんがありました。その口にも金、そのふむ土にも金、そのあさのひとときにも金がありました。これがわたしのつまらないお話です。」と、たんぽぽがいいました。
「まあ、わたしのおばあさまは、どうしていらっしゃるかしら。」と、ゲルダはためいきをつきました。「そうよ。きっとおばあさまは、わたしにあいたがって、かなしがっていらっしゃるわ。カイちゃんのいなくなったとおなじように、しんぱいしていらっしゃるわ。けれど、わたし、じきにカイちゃんをつれて、うちにかえれるでしょう。――もう花たちにいくらたずねてみたってしかたがない。花たち、ただ、自分の歌をうたうだけで、なんにもこたえてくれないのだもの。」
そこでゲルダは、はやくかけられるように、着物をきりりとたくしあげました。けれど、黄きずいせんを、ゲルダがとびこえようとしたとき、それに足がひっかかりました。そこでゲルダはたちどまって、その黄色い、背の高い花にむかってたずねました。
「あんた、カイちゃんのこと、なんかしっているの。」
そしてゲルダは、こごんで、その花の話すことをききました。その花はなんといったでしょう。
「わたし、じぶんがみられるのよ。じぶんがわかるのよ。」と、黄ずいせんはいいました。「ああ、ああ、なんてわたしはいいにおいがするんだろう。屋根うらのちいさなへやに、半はだかの、ちいさなおどりこが立っています。おどりこはかた足で立ったり、両足で立ったりして、まるで世界中をふみつけるように見えます。でも、これはほんの目のまよいです。おどりこは、ちいさな布ぬのに、湯わかしから湯をそそぎます。これはコルセットです。――そうです。そうです、せいけつがなによりです。白い上着うわぎも、くぎにかけてあります。それもまた、湯わかしの湯であらって、屋根でかわかしたものなのです。おどりこは、その上着をつけて、サフラン色のハンケチをくびにまきました。ですから、上着はよけい白くみえました。ほら、足をあげた。どう、まるでじくの上に立って、うんとふんばった姿は。わたし、じぶんが見えるの。じぶんがわかるの。」
「なにもそんな話、わたしにしなくてもいいじゃないの。そんなこと、どうだって、かまわないわ。」と、ゲルダはいいました。 | 花はカイちゃんの居場所を知っていますか。 | 花はカイちゃんの居場所は知りません。 |
JCRRAG_009354 | 国語 | ああ東京は食い倒れ
著者 古川緑波
戦争に負けてから、もう十年になる。戦前と戦後を比較してみると、色々と変化の跡があるが、食いものについて考えてみても、随分変った。
ちょいと気がつかないようなことで、よく見ると変っているのが、色々ある。
先ず、戦後はじめて、東京に出来た店に、ギョーザ屋がある。
以下、話は、東京中心であるから、そのつもりで、きいていただきたい。
ギョーザ屋とは、餃子(正しくは、鍋貼餃子)を食わせる店。むろん、これも支那料理(敗戦後、中華料理と言わなくちゃいけないと言われて来たが、もういいんだろうな、支那料理って言っても)の一種だから、戦前にだって、神戸の本場支那料理屋でも食わせていたし、又、赤坂の、もみぢでは、焼売と言うと、これを食わせていたものである。尤も、もみぢのは、蒸餃子であったが。すなわち、ギョーザを看板の、安直な支那料理屋ってものは、戦後はじめて東京に店を開いたのだと思う。
僕の知っている範囲では、渋谷の有楽という、バラック建の小さな店が、一番早い。餃子の他に豚の爪だの、ニンニク沢山の煮物などが出て、支那の酒を出す。
此の有楽につづいて、同じ渋谷に、ミンミンという店が出来、新宿辺にも、同じような店が続々と出来た。
新宿では、石の家という店へ行ったことがある。餃子の他に、炒麺や、野菜の油炒め、その他何でも、油っ濃く炒めたものが出る。客の方でも、ニンニクや、油っ濃いのが好きらしく、「うんと、ギドギドなのをくれ」
と注文している。
ギドギドとは、油っ濃い感じが出る言葉ではないか。これらの餃子屋は、皆、安直で、ギドギドなのを食わせるので、流行はやっている。
もともと、支那料理だから、東京にも昔からあったものであるが、これは、高級支那料理とは違うし、又、所謂ラーメン看板の支那そば屋とも違って、餃子を売りものの、デモクラティックな店なのである。
餃子屋につづくものは、お好み焼。
これとても、戦前からあったものに違いないが、その数は、戦前の何倍に及んでいるか。兎とに角かく、やたらに、お好み焼屋は殖えた。腹にもたれるから、僕はあんまり愛用はしないが、冬は、何しろ火が近くに在るから、暖かくていい。
お好み焼屋のメニュウは、まことに子供っぽく、幼稚だ。そして、お好み焼そのものも、いい大人の食うものとは思えない。が、これが結構流行るのは、お値段の安直なことによる。
そうは言っても、お好み焼にも、ピンからキリまであって、同じ鉄板を用いても、海老や肉を主とした、高級なのもある。むろん、そうなると、安くはない。
お好み焼は、何と言っても、材料の、メリケン粉のいいところが、美味いし、腹にも、もたれないから、粉のいいところを選ぶべきである。
それと、今度は、アメリカ式料理の多くなったことだ。
衛生第一、然し味は、まことに貧弱な、アメリカ式の料理(料理という名もつけたくない)が、到る所で幅を利かしている。ハンバーガーと称する、ハンバーグ・サンドウイッチや、チーズバーガーなんていうものが、スナック・バーでは、どんどん売れている。
ハウザー式という健康食も、味は、全くらしい。ミキサーが、やたらに方々で、音を立てているが、これとても、果物の味は、ミキサーの廻転と共に、ふっ飛んでしまっている。その他、カン詰の国アメリカの、そのカン詰料理の、はかない味は、常に、薄い味噌汁を味わうような、情なさを感ぜしめる。そのくせ、尾張町の近くにあった、不二アイスのような、純アメリカ式ランチ屋は無くなってしまった。不二アイスの、スチュウド・コーンや、パムプキン・パイは、今でも時々は食いたいと思うことがある。
不二アイスばかりじゃなく、アスターだの、オリムピックのような、ランチ屋も、今は無くなった。星製薬のキャフェテリアなども、代表的な、アメリカン・ランチ屋だったが。そして、それらの昔の店の方が、今のアメリカ料理よりは、遥かに美味かった。
戦後、食いもの屋の中で、一番数が多くなったのはやっぱり、支那料理屋であろう。それに続いて可笑しいことに、主食の販売が、うるさくなるにつれて、ゴハン物の店が、ぐっと多くなっていることだ。すし屋が、そうだ。釜めし屋、お茶漬屋だって、たとえば、戦前の銀座には、数える位しか無かったのが、今の銀座は、横丁へ入る毎にそういうゴハン物の店があるようになった。
やきとり屋も、やたらに多くなった。これについては又後に詳説するつもりであるが、銀座ばかりではなく、東京の盛り場には、やきとり屋は、これも戦前の何倍かになっているであろう。もう一つ。それは各国料理屋が、色々と店を拡げたこと。戦前から、少し宛ずつはあったが、今のようにロシア料理、ドイツ料理、イタリー料理、などの店が、各々東京都内だけでも数軒、或るものは数十軒もあるというようなことは無かった。朝鮮料理、台湾料理の店もある。各国料理の店、そして、成吉思汗鍋から、ミルクワンタンというような変り種、さてはホルモン料理のゲテもの屋の数々。
かと思うと、戦前からの古い、有名な店々ぼうずしやも、ももんぢや、豆腐料理の笹の雪、あい鴨のとり安、等々も、昔の通り流行っている。近くは、揚げ出しも復活したとかきいた。今や、ああ東京は食い倒れである。 | 戦後初めて東京にできた支那料理屋は何でしょうか。 | 戦後初めて東京にできた支那料理屋はギョーザ屋です。 |
JCRRAG_009355 | 国語 | インドの昔に学者が集って相談した。どうも俗人どもと同じ言葉を使ったんじゃ学問の尊厳にかゝわる。学者は学者だけの特別な言葉を使わなければならぬ。そこでそのころのインドの俗語(パーリ語という)を用いないことにして、学者だけの特別の言葉をつくった。これをサンスクリット(梵語)と称するのである。又、近世に於ては、国際間に共通の言葉がなければならぬというので、ラテン語をもとにしてエスペラントというものができた。
こういう人為的な作物と違って、現在使われている言葉は、自然発生的なもので、時代時代の変化をうけつゝ今日に及んでいるもの、日本文法などゝいうものは近世のもの、先ず言葉があって、のちに、文法というもので分類整理したにすぎない。
言葉は時代的なものである。生きている物だ。生活や感情が直接こもっているものだ。だから、生活や感情によって動きがあり、時代的に変化がある。
エート、それは……と考える。ソレハネーと考えこむ。ソレハネーのネーなんかイラネエジャナイカ、と怒ったってムリだ。
標準語というものを堅く定めて、これ以外のクズレタ言葉を使うな、と云っても、これが文章上だけの問題ならとにかく、日常の言語生活に於ては、人間の感情、趣味などが言葉をはみだし、言葉をひきずるようになり、おのずからクズレざるを得ない。ソウダワ、とか、ダワヨ、アソバセ、というような女性語は流行の衣裳や化粧と同じような、一種の装飾的な自己表現でもある。
女性にユニフォームを定めて、これ以外の如何なる衣服も用いてはならぬ、そういう社会制度を望まれる人士は女性語を禁じて標準語を強制すべきであろうが、そのような社会制度が不当であるかぎり、女性語の禁止も無用のことであろう。
つまり、言葉というものは、言語だけの独立した問題ではなくて、それを用いる人間の嗜好や、教養が言葉の根本的なエネルギーをなしているのである。そのエネルギーが言葉を時代的に変化せしめて行くもので、言葉の向上を望むなら、教養の向上を望む以外に手はない。
ザアマス夫人というのがある。キザの見本だというので漫文漫画に諷刺され世間の笑いものになっているから、自粛するかと思うとそうじゃない、伯爵夫人でも重役夫人でもない熊さん八さんのオカミサンが、とたんにザアマスをやりだして、人に笑われて得々としている。人に笑われることによって、自らも伯爵夫人の威厳を身につけた如くに心得ているらしい。要するに言葉の問題は教養自体が問題なのだ。
ヨーロッパに女性語がないというのはマチガイだ。フランスにも女性語はある。学校で先生が出欠をとる。ハイと答えるに、男学生はプレザンと答え、女学生はプレザントと答える。語尾に余計物がつくこと、日本のワヨの如しである。
よしんば言葉に変化はなくとも、女性的な抑揚は男性とは別であり、女性の抑揚も亦個性によってそれぞれの相違があり、かかる表現上の相違と、言葉自体の相違と、本質に於ては異るものではない筈だ。本質は何か。即ち、嗜好や教養である。 | 言葉は人間の何によって時代的に変化しますか。 | 言葉は人間の嗜好や教養によって時代的に変化します。 |
JCRRAG_009356 | 国語 | 北海道に前から住んでいた人は、よく昔はもっとずっと寒くて、雪もたくさん降った。札幌市内の大通りで遭難した人があったくらいだが、この近年は冬が非常に暖くなった、という話をする。
私なども、そういう印象を受けているが、一番の原因は、煖房設備や防寒裝備が良くなったので、寒さにそう苦しめられなくなったのだろうと思う。しかし氣温自身も、今世紀にはいって、徐々に昇りつつあることも、事實らしい。それは世界的の傾向であって、近年一部の地球物理學者たちの間で、問題になっている。
アルプスや北歐の氷河が、今世紀にはいって、徐々に後退している、ということは、前から氷河學者たちが、指摘していることで、これは事實らしい。五十年前にアルプスに建てられたホテルの中には、當時は氷河に面して建てられたのに、今ではもう夏は氷河が見えなくなったものもある。
グリーンランドは、海岸周邊を除き、内陸は全部氷の島である。中央部は、一萬尺以上の高山(?)になっているが、これは全部氷であって、その底は海面以下まで下っている。それは彈性波を使って、氷の厚さを調べた結果に基くもので、學界でも認められていることである。このグリーンランドの氷原の末端も、近年大分海岸から遠のいている。
アメリカの氣象臺では、過去六十年以來の、全國各地の氣温を調べているが、平均して攝氏一度の氣温上昇を認めている。
この原因は分らないが、もしこの割合で、あと五十年氣温が昇りつづけたら、北氷洋の浮氷が、夏の間は大部分融けて、船が通れるようになるであろうと言っている人もある。平均して毎日一度とか二度とか高いということは、氷をとかす時などには、大いに効く。
ところで、もしこのまま氣温が昇りつづけて、現在地球上にある氷河が皆融け、グリーンランドや[#「グリーンランドや」は底本では「グリーランドや」]南極にある氷も融けて、海へ流れ出したら、海面はどうなるだろう、という問題がある。
これは二三人計算してみた人があるが、たいへんなことになるのである。恐らく現在よりも百八十尺は海面が高くなるだろう、という結果になっている。
百八十尺も海面が高くなったら、現在の世界の大都會は、大部分海岸に近いところにあるので、それ等は皆海中に沒してしまうであろう。日本だったら、東京も大阪も、名古屋も福岡も、とにかく市と名のつくところは、大部分海の底になるわけで、たいへんなことになる。
しかし、これは現在の氣温上昇が今後數百年も續いたら、という假定の上の話であるから、別に心配することはない。又心配しても、どうにもならないことである。 | 現在の気温上昇が今後数百年続くと海中に没する日本の都市はどこですか。 | 現在の気温上昇が今後数百年続くと海中に没する日本の都市は東京、大阪、名古屋、福岡です。 |
JCRRAG_009357 | 国語 | 朝早く、おやゆび姫は目をさまして、自分がどこにいるか気づくと、わんわんとはげしく泣きだ しました。家でねていたと思っていたのに、小川に浮いた大きな緑のはっぱの上にいたのですから。 どこを見てもまわりは水ばかりで、どうやってここにいるのかわかりませんでした。 一方、母ガエルはぬま地の中にいました。部屋の中をアシと黄色いスイレンの花でかざるのにてんてこまいでした。新しいむすめとなる女の子のために、部屋をきれいにしておきたいのです。母ガエルはかざり終えると、みにくいむすこを連れて、はっぱの上に一人でいるかわいそうなおやゆび姫のもとへ泳いでいきました。おやゆび姫のきれいなベッドを取って来て、新しい花よめに用意された寝室に置くためです。母ガエルは水の上のおやゆび姫におじぎして言いました。「こいつが私のむすこだわさ。あんたのおむこになるんだわき。この小川のぬま地で幸せに暮らすんだわき。」 「ゲーコ、ゲーコ、ゲーコ。」とだけしか、むすこガエルは言えません。仕方がないので母ガエル はきれいなベッドを持ち上げて、そのまま泳いでいってしまいました。おやゆび姫はまたひとりぼ っちになりました。緑のはっぱの上に座ってしくしく泣きました。あのヒキガエルとみにくいむすこガエルのおむこさんといっしょに住むなんて、考えるだけでがまんなりません。 | むすこガエルは何回鳴きましたか。 | むすこガエルは「ゲーコ、ゲーコ、ゲーコ。」と3回鳴きました。 |
JCRRAG_009358 | 国語 | 江戸川乱歩氏と初めて逢ったのは、今から三十年ほど前の、報知新聞社の応接間であった。私はその頃報知新聞の学芸部長であり、江戸川氏は新進の作家で、その探偵小説は読書界の驚異の的であった。私は写真報知という旬刊誌の編集を監督し、実際の編集は中代冨士男君や亡くなった佐近益栄君がやっていたが、写真報知に短篇連載を書くことになった江戸川氏と、打合せをする必要があり、中代君あたりが、誘って来てくれたようである。話は自然探偵小説のことになったが、何んかのきっかけで、話題は黒岩涙香の作品に及んだことを記憶している。その頃から私は涙香の話術の面白さを誰彼となく話していたものらしい。
その頃の乱歩氏は三十才そこそこの若さではあったが、温和な顔立ちと、落着いた話振りは今とあまり変りはなく、大島かなんかの和服姿であったと思う。若いにしては、少し禿げかけていたが、中年過ぎの激しさは無く、青年の覇気を押し包んで、何んとなく鬱勃たるものを感じさせたようである。それに対する私は最早燦然たる頭で、まだ小説は書かず、新聞記者の天職に満足して居たことは申すまでもない。
それから、幾度か逢っている。報知の社長室で、軍部と作家の会合で、――場所と時は変っても、私は乱歩氏の天才と博識と友情にひかされて、絶えず好意を持ち続けたのである。大戦中の乱歩氏は自宅に籠って、静かに写経などをしていたようである。私は頻繁に手紙を往復して気を紛らせていたが、フトしたことからお互に涙香作の蔵書目録を交換し、有無相通じようではないかということになり、乱歩氏の蔵書を十冊位は貰った筈であるが、私から差上げたのは僅か三、四冊に過ぎなかったと思う。こんなことが、乱歩氏に対する私の親しみを急速に深めたことは申すまでもない。 | 旬刊誌の編集を実際に行っていた人は何人でしょう。 | 実際の編集は2人です。 |
JCRRAG_009359 | 国語 | 「当世物は尽くし」で「安いもの」を列挙するとしたら、その筆頭にあげられるべきものの一つは陸地測量部の地図、中でも五万分一地形図などであろう。一枚の代価十三銭であるが、その一枚からわれわれが学べば学び得らるる有用な知識は到底金銭に換算することのできないほど貴重なものである。今かりにどれかの一枚を絶版にして、天下に撒布さんぷされたあらゆる標本を回収しそのただ一枚だけを残して他はことごとく焼いてしまったとしたら、その残った一枚は少なくも数百円、相手により場合によっては一万円でも買い手があるであろう。
一枚の五万分一図葉は、緯度で十分、経度で十五分の地域に相当するので、その面積は、もちろん緯度によってちがうが、たとえば東京付近でざっと二十七方里、台湾たいわんでは約三十一方里、カラフトでは約二十一方里ぐらいに当たる。
この一枚の地形図を作るための実地作業におよそどれだけの手数がかかるかと聞いてみると、地形の種類によりまた作業者の能力によりいろいろではあるがざっと三百日から四百日はかかる。それに要する作業費が二三千円であるが、地形図の基礎になる三角測量の経費をも入れて勘定すると、一枚分約一万円ぐらいを使わなければならない、そのほかにまだ計算、整理、製図、製版等の作業費を費やすことはもちろんである。
それだけの手数のかかったものがわずかにコーヒー一杯の代価で買えるのである。
もっとも物の価値は使う人次第でどうにもなる。地図を読む事を知らない人にはせっかくのこの地形図も反古ほご同様でなければ何かの包み紙になるくらいである。読めぬ人にはアッシリア文は飛白かすりの模様と同じであり、サンスクリット文は牧場の垣根かきねと別に変わったことはないのと一般である。しかし「地図の言葉」に習熟した人にとっては、一枚の図葉は実にありとあらゆる有用な知識の宝庫であり、もっとも忠実な助言者であり相談相手である。 | 面積がいちばん広いのはどこですか。 | 面積がいちばん広いのは台湾です。 |
JCRRAG_009360 | 国語 | 民主主義とは
こんどの憲法の根本となっている考えの第一は民主主義です。ところで民主主義とは、いったいどういうことでしょう。みなさんはこのことばを、ほう/″\できいたでしょう。これがあたらしい憲法の根本になっているものとすれば、みなさんは、はっきりとこれを知っておかなければなりません。しかも正しく知っておかなければなりません。
みなさんがおゝぜいあつまって、いっしょに何かするときのことを考えてごらんなさい。だれの意見で物事をきめますか。もしもみんなの意見が同じなら、もんだいはありません。もし意見が分かれたときは、どうしますか。ひとりの意見できめますか。二人の意見できめますか。それともおゝぜいの意見できめますか。どれがよいでしょう。ひとりの意見が、正しくすぐれていて、おゝぜいの意見がまちがっておとっていることもあります。しかし、そのはんたいのことがもっと多いでしょう。そこで、まずみんなが十分にじぶんの考えをはなしあったあとで、おゝぜいの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります。そうして、あとの人は、このおゝぜいの人の意見に、すなおにしたがってゆくのがよいのです。このなるべくおゝぜいの人の意見で、物事をきめてゆくことが、民主主義のやりかたです。
國を治めてゆくのもこれと同じです。わずかの人の意見で國を治めてゆくのは、よくないのです。國民ぜんたいの意見で、國を治めてゆくのがいちばんよいのです。つまり國民ぜんたいが、國を治めてゆく――これが民主主義の治めかたです。
しかし國は、みなさんの学級とはちがいます。國民ぜんたいが、ひとところにあつまって、そうだんすることはできません。ひとり/\の意見をきいてまわることもできません。そこで、みんなの代わりになって、國の仕事のやりかたをきめるものがなければなりません。それが國会です。國民が、國会の議員を選挙するのは、じぶんの代わりになって、國を治めてゆく者をえらぶのです。だから國会では、なんでも、國民の代わりである議員のおゝぜいの意見で物事をきめます。そうしてほかの議員は、これにしたがいます。これが國民ぜんたいの意見で物事をきめたことになるのです。これが民主主義です。ですから、民主主義とは、國民ぜんたいで、國を治めてゆくことです。みんなの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがすくないのです。だから民主主義で國を治めてゆけば、みなさんは幸福になり、また國もさかえてゆくでしょう。
國は大きいので、このように國の仕事を國会の議員にまかせてきめてゆきますから、國会は國民の代わりになるものです。この「代わりになる」ということを「代表」といいます。まえに申しましたように、民主主義は、國民ぜんたいで國を治めてゆくことですが、國会が國民ぜんたいを代表して、國のことをきめてゆきますから、これを「代表制民主主義」のやりかたといいます。
しかしいちばん大事なことは、國会にまかせておかないで、國民が、じぶんで意見をきめることがあります。こんどの憲法でも、たとえばこの憲法をかえるときは、國会だけできめないで、國民ひとり/\が、賛成か反対かを投票してきめることになっています。このときは、國民が直接に國のことをきめますから、これを「直接民主主義」のやりかたといいます。あたらしい憲法は、代表制民主主義と直接民主主義と、二つのやりかたで國を治めてゆくことにしていますが、代表制民主主義のやりかたのほうが、おもになっていて、直接民主主義のやりかたは、いちばん大事なことにかぎられているのです。だからこんどの憲法は、だいたい代表制民主主義のやりかたになっているといってもよいのです。 | 民主主義の種類、代表制民主主義と直接民主主義について、200
文字以内に説明してください。 | 代表制民主主義とは、大きな國の仕事を國会の議員にまかせてきめてゆきます。そして國会は國民の代わりになるものですので、この「代わりになる」ということを「代表」といい。民主主義は、國民全体で國を治めてゆくことですが、國会が國民全体を代表して、國のことをきめてゆくことです。直接民主主義とは、國会だけできめないで、國民一人ひとりが、賛成か反対かを投票してきめること、國民が直接に國のことをきめることです。 |
JCRRAG_009361 | 国語 | 今回のテーマは「説明文・論説文を読む」です。
滝沢カレンさん、オウムさんと一緒に学習していきましょう!
教えてくれるのは、金田一秀穂先生です。
オウム「説明文は何となくわかるけど、論説文はちょっと難しそうだね。」
カレン「そうだよね。聞いたことないね!」
オウム「聞いたことないね!」
それでは、次の文章を読んでみてください。
どうしたら美しい卵焼きを作れるのだろうか?
まず卵をかき混ぜすぎないことが大切である。
なぜなら、卵を混ぜすぎると焼いたときの卵の膨らみが悪くなるからだ。
次にフライパンは油をなじませてよく熱しておくことが重要だ。
そうすると、卵がフライパンからはがれやすくなり、上手に卵をまくことができ、卵焼きにきれいな焼き目を付けることが出来るのである。
先生「これは何について書かれていたか、わかりますよね?」
カレン「わかります。卵焼き。」
先生「卵焼きの作り方。」
カレン「そうです。」
先生「美しい卵焼きをどうしたら作れるか(について書かれています)。こういうのを説明文っていうんです。」
一方、論説文がこちらです。
卵焼きと目玉焼き、どちらの卵料理がごはんに合うだろうか?
確かに、目玉焼きは手軽に作ることができる。
しかし手間はかかるが、卵焼きの方がごはんに合うと思う。
なぜなら卵焼きはだしや調味料などを用いることで、さまざまな味付けが可能で、個人の好みに合わせて作ることができるからである。
だから、私は、卵焼きの方がごはんに合うと考えている。
このように、
ある話題についてわかりやすく説明した文章を説明文、
ある話題について筆者の意見を論理的に述べた文章を論説文
といいます。
説明文と論説文には、構造に共通点があります。
説明文は、
最初に序論(文章のテーマ・問題提起)があり、次に本論(意見・理由を述べる)という構造をしています。
論説文は、
最初に序論(文章のテーマ・問題提起)があり、次に本論(意見・理由を述べる)、そして最後に結論(筆者が最も言いたいこと)という構造をしています。
先生「カレンちゃんは(卵焼きと目玉焼き)どっちがいいと思いますか?」
カレン「私は(この文章を書いた人と)真逆で、(ごはんには)目玉焼きの方があう。私は目玉焼きを上にのっけるので。」
オウム「ごはんの上に!?」
カレン「そうです。それで、しょう油とかソースとか…それも調味料で変えられるから、どっちもやっていることは一緒だと思ったんですけど。なぜ目玉焼きを(ごはんの上に)のせるかというと、見た目がきれい!上から見たときに、何の日でもないのにめでたく感じてしまう!」
オウム「“ごはんに合う”って見た目の話だったのね?」
カレン「そう。朝から見るものとして、とてもいい!黄色と白。」
先生「ボクらは何気なくしゃべっているんだけど、いつの間にか序論・本論・結論の順で話している。本論を的確に述べることで、相手を説得することができるよね。」
オウム「確かに、カレンちゃんの話を聞いていると、ちょっと目玉焼きの方がいいかなって…。」
カレン「そうですよね~!」
先生「説得されちゃいましたね。本論のところの理由付けが上手だったってことですね。」
カレン「うれしい~!」
先生「序論・本論・結論の構造に近いものの中に、実は漫才があります。」
カレン「え~!また!?」
オウム「『また』って言っちゃった…前にねづっち来たけどね!」
カレン「そうそう!」
先生「今回は、論理型漫才の代表として、ナイツのお二人をお呼びしてます!」
というわけで、ナイツの土屋伸之さんと塙宣之さんに漫才を披露していただきました!
序論・本論・結論に注目して、番組をみてくださいね。
先生「(漫才も)論理だったんだけど。」
カレン「全然わかんなかったです。」
オウム「論理がありました…。」
先生「最初(の序論は)何がテーマだったか覚えてる?」
カレン「師匠?」
先生「そうそう。要は、内海桂子さんという人はどういう人かっていう話が延々と始まっているわけです。聞いているボクらは、内海桂子さんの解説文を聞いているわけですよ。」
土屋「あ~、なるほど!」
塙「本当だ。解説文だ。」
土屋「さっきの(漫才は師匠の)説明ですもんね。」
先生「でも、途中で変わるんですよね。金さん銀さんの話の後くらいからですよね。今度はお二人の漫才自体がテーマになるわけですよ。」
ナイツ「はぁ~!!」
先生「で、そこから、テーマとしての将棋はいったい何だったかっていう話が、また延々始まるわけです。だから、序論・本論があって、さらにその序論・本論があるっていう構造なんですね。その二重構造がとってもおもしろくできた。」
土屋「そうやって説明されると、めちゃくちゃ恥ずかしいです。」
塙「いやいや、じゃあ、それを踏まえてもう一度やっていいですか?」
土屋「いや、もういいわ!!」
それでは次回もお楽しみに。 | 説明文と論説文について200文字以内で解説してください。 | 説明文は、ある話題についてわかりやすく説明した文章を説明文と言います。最初に序論(文章のテーマ・問題提起)があり、次に本論(意見・理由を述べる)という構造をしています。
論説文は、ある話題について筆者の意見を論理的に述べた文章を論説文と言います。最初に序論(文章のテーマ・問題提起)があり、次に本論(意見・理由を述べる)、そして最後に結論(筆者が最も言いたいこと)という構造をしています。 |
JCRRAG_009362 | 国語 | 愛と平和を理想とする人間生活
芥川さんでしたか「私達の生活の側に天国をもって来るとしたら、きっと退屈してしまって、死んでしまいたくなるだろう」って云われたように覚えてますが、それは私も同感に思います。ですから理想などというものは、実現されるまでのその間が楽しいものであって、充されてしまったら存外つまらぬものかもしれません。けれどもどんな人にも慾望や理想はいくらかずつは持っていましょうし、またそこに人生の面白味があるのではないでしょうか。
私のえがいているもの――そうですね、私は慾張りの方ですから、随分いろいろな慾望がありますけれど、日常の生活でいえば、さしあたり静かなところへ旅行したいと思っています。同じ旅行でも関西方面より北の方がいいと思います。大阪、京都などのような都会は、違った文化が見られて悪るくはないと思いますが、旅として見て、東海道あたりの海が見え、松があるといった美しいだけで、唯長々と眠につづいている整然とした風景よりも、変化のある北の方が好ましいと思います。
旅行では一人旅よりも、気の合った友達と行くのが好きです。展開されゆく道中の景色を楽しく語合うことも出来ますし、それに一人旅のような無意味な緊張を要しないで気安い旅が出来るように思います。煩いのない静かなところに旅行して暫く落ちついてみたい――こんな慾望を持っていますが、さて容易いようで実行できないものですね。住いですか? これには面白い話しがありますのよ。今いる家は静かそうに思って移ったのですが、後に工場みたいなものがあって、騒々しいので、もう少し静かなところにしたいと思って先日も探しに行ったのですが、私はどちらかというと椅子の生活が好きな方で、恰度近いところに洋館の空いているのを見つけ私の注文にはかなった訳ですが、私と一緒にいる友達は反対に極めて日本室好みで、折角説き落して洋館説に同意して貰ったまではよかったのですが、見たその洋館というのが特別ひどいところだったので、すっかり愛想をつかされてしまいました。仕方がないから両様の好みを入れて一軒建てようということにして設計までいたしておりますが、これも今のところ私達の理想に止まってなかなか実現されそうにありません。こうした些細な慾望や、理想は兎も角として、この地上に誰れもが求め、限りもなくのぞむものは平和と愛ではないでしょうか。各々もとめるところの形は皆ちがいましょうけれど、私達の理想とするものは、愛と平和の融合を措いてこの世の楽園は考えられないと思います。然し常にこの世に争闘が絶えないと同時に、それは実現し難いものだと思います。例えば親子間の愛――この世にたった一つしかないいきさつですらも、どれだけ円満にいっていましょう。愛と平和――それは今の経済学、哲学とかの学問で説明したり、解剖したりする論理としての論理でなく、皆の分かり切った常識として、人間の生活に自由なものとなって来たら、愉快なことだと思います。 | 私と友人の好みの住まいを教えてください。 | 私は椅子の生活が好きなため洋館派、友人は日本室好みで和室派である。 |
JCRRAG_009363 | 国語 | 私たち全員が五年以内に粉々になってしまう可能性をいかに高めるか。この点から見ると、原子爆弾に関する議論は予想外に盛り上がっていない。新聞には、陽子や中性子の働きに関する、一般人にはさして有用ではない図表がごまんと載っているし、この爆弾は「国際的な管理下に置かれるべきである」という無駄な主張がひたすら繰り返されている。だが不思議にも、誰もが最も気にしている次の疑問点についてはほとんど語られない。とにかく出版はされていない。すなわち:「それを作るのはどれほど困難なのか。」
私たち――つまり巨大大衆――はこの疑問点についての情報をいささか間接的に受け取っている。トルーマン大統領がソヴィエト連邦に対してある種の機密事項を伝えないという決定をした件からだ。数ヶ月前、原爆がまだ噂に過ぎなかった頃、次のような話が広く信じられていた。いわく、原子の分裂はもっぱら物理学者たちの課題に過ぎず、一旦それが解決されれば、ほとんど誰もが破滅的な新兵器を手にすることができるだろうと。(噂によれば、頭のイカれた孤独な研究者が、いつか打ち上げ花火なみにたやすく文明を粉みじんにするかも、といった具合に。)
仮にそれが正しいとすれば、歴史の歩み全体が突如として変わったことだろう。大国と小国の間の差は拭い去られ、個人に対する国家の権力も大幅に弱まったはずだ。しかしながら、トルーマン大統領の発言およびそれに対する様々なコメントからみて、この爆弾は途方もなく高価であり、膨大な工業的努力をつぎ込むことを要し、これに耐えるだけの国家は世界で三ないし四しかないらしい。極めて重要な点である。というのも、それが意味するのは、原子爆弾の発見は歴史の歩みを逆転するどころか、この十数年の傾向を単に強化するだけになる、ということだろうから。
文明の歴史は概ね武器の歴史である、というのはよく言われることだ。火薬の発見とブルジョワジーによる封建制度の転覆との関連については何度も何度も指摘されてきた。例外は無論あろうが、思うに次の規則は総じて正しいのではないか:主たる武器が高価ないし製造困難な時代は専制政治の時代であり、主たる武器が安価で単純な時は民衆にチャンスがある。例えば戦車・戦艦・爆撃機は生まれつき専制君主の武器であり、一方ライフル銃・マスケット銃・長弓・手榴弾は民主制の武器である。複雑な武器は強者をより強くし、単純な武器は――対抗手段がない間だけだが――弱者にかぎ爪を与える。
民主制と民族自決主義の黄金時代は、マスケットとライフルの時代だった。フリントロックの発明から雷管の発明までの間、マスケットはとても効果的な武器であり、また同時に、ほとんどあらゆるところで製造可能だった。この二つの性質の組み合わせによって、アメリカとフランスの革命が可能になったのだし、民衆蜂起が今日(こんにち)よりも由々しい事態だったのだ。マスケットの次は後装式ライフルがやってきた。比較的複雑ではあったが、なお多くの国々で生産可能だったし、安価で密輸入も容易、弾薬も経済的だった。最後進国すら常に、どこからともなくライフルを入手して、ボーア人、ブルガール人、アビシニア人、モロッコ人――チベット人すら――独立のために立ち上がることができ、時には成功したのだ。だがそれ以降、軍事における技術開発はどれもが、個人に対決する国家、後進国に対決する先進国を志向するようになった。力はどんどん数少ない中核に集中するようになった。一九三九年にはすでに、大規模な戦線を広げられる国家の数はわずか五にまで減っていた。今では三つの国のみだ――最終的にはたったの二国になるだろう。この傾向は何年も前から明らかで、早くも一九一四年以前に数人の観察者によって指摘されていた。この傾向を逆転しうるのは、集中的に建設された大規模工業プラントに依存しない武器――より広く言えば戦闘法――の発見である。
各種の兆候からすると、ロシア人たちはまだ原子爆弾製造の秘密を知らないと推察できる。一方、各種意見を総合すれば、彼らも数年以内に原爆を所有するらしい。すると私たちの前には、数百万の人々を数秒のうちに消し去ってしまう武器を二、三の怪物的超大国がそれぞれ所有し、世界を彼らの間で分割する見込みが生じることになる。私は、これがより大規模なより血塗られた戦争を意味し、恐らくは機械文明が本当に終わってしまうだろうといささか性急に考えてきた。だが考えてみて欲しい――これこそ最も起こりそうな事態なのだが――生き残った超大国たちが互いに密約を結び、それぞれの間では原子爆弾を使用しないことにしたらどうなる? 代わりに報復不可能な人民に対してだけそれを使用したり、あるいは使用するぞと脅したりしたら? この場合、私たちは元の立地に戻ることになる。唯一異なるのは、権力がより少数の手に凝縮し、臣民や抑圧された階級がより絶望的な状態になる点だ。
ジェームズ・バーナムが「経営者革命論」を書いた時、多くのアメリカ人は、戦争が終わる時にはドイツ人が欧州の覇者になるだろうと考えていたため、ユーラシア大陸に君臨するのはソ連ではなくドイツであり、日本は東アジアを牛耳るとするのは自然な仮定だった。ここに誤算があったものの、論議の主部には影響しない。バーナムの地理的描写は真実のものとなったのだから。地球の表面は三つの大帝国に分割され、それぞれが外界との接触を切り捨てて自給自足し、見せかけはどうにせよ自選の寡頭制で統治される、こんな事態が続々と明瞭になっている。国境をどこに引くかをめぐる小競り合いは続いているし、これから数年の間は終わらないだろう。また、第三の超大国――中国に統治される東アジア――はなお現実というより可能性の話だ。だが全体としての傾向には疑問の余地がなく、近年の科学的発見の全てがこの傾向を加速している。
昔、航空機によって「国境が消える」と聞かされた。実際には、国境が完全に通過不能になったのは、航空機が重要な兵器となってからのことだ。かつては無線が国際的な理解と協調を促進すると期待されたのだが、それは一つの国を他から遮断する手段になってしまった。原子爆弾は、搾取に喘ぐ階級と人民とから反逆能力を奪い去ってきた過程を完成させることになるかもしれない。同時に、それを所有する者どもの間では軍事的平等が達成されるのだ。互いを征服することはできないが、彼らの間で世界を支配することになるだろうし、そのバランスを崩す方法を思いつくのは難しい。唯一原因となりうるのは、緩徐で気まぐれな人口動態の変化くらいだろうか。
四十年か五十年前から、H・G・ウェルズらが、人類はみずからの武器で自滅する瀬戸際に立っている、その後は蟻など群居動物の天下になると警告してきた。廃墟と化したドイツの都市を見れば誰しもが、これらの声に対し少なくとも耳を貸すべきだと思うだろう。にもかかわらず、世界全体を見渡すと、この何十年かの変化は無政府主義ではなく奴隷制の再強化に向かってきた。私たちが向かっているのは、おそらく世界の全滅ではなく恐ろしいほど安定した奴隷制の古代帝国の世紀である。ジェームズ・バーナムの説は大いに論じられてきたが、イデオロギー的含意にまで考え及んだ者はほとんどいない――それはつまり、一つの世界の見方、一つの信条、一つの社会構造であって、永遠に続く隣国との「冷戦」状態にありもはや征服され得ぬ一つの国家の中に浸透するものになるだろう。
仮に原子爆弾が自転車や目覚まし時計並みに安く容易に製造できるシロモノであるということになってしまえば、我々は野蛮状態に押し戻されることになるだろう。だが一方、それは国家による統治と、高度に集権的な警察国家の終焉をも意味する。もしそれが――実際にはそうらしいのだが――希少で高価で戦艦並みに製造困難なものであるなら、むしろ大規模な戦争に終わりをもたらすことになりそうだ。果てしのない「平和ならざる平和」と引き換えに。 | 主たる武器が高価ないし製造が困難な時代と、 主たる武器が安価ないし製造が容易な時代の違いについて説明してください。 | 主たる武器が高価ないし製造困難な時代は専制政治の時代であり、力はどんどん数少ない中核に集中します。権力がより少数の手に凝縮し、臣民や抑圧された階級がより絶望的な状態になります。主たる武器が安価ないし製造が容易な時代は民衆にチャンスがあり、民主制と民族自決主義の黄金時代になります。アメリカとフランスの革命が可能になったり、最後進国ですら独立のために立ち上がることができ、時には成功しました。 |
JCRRAG_009364 | 国語 | 或る朝、小鈴から、竹山茂吉という人を知らないかとの電話だった。僕も驚いた。竹山茂吉というのは、かねてきいていたところによると、竹山茂樹の父親なのだ。
大体のことを電話できいて、僕はすぐ小鈴にあってみた。
彼女は前夜、ある大勢の宴会の席に出て、その後で、他の料理屋からかえってきた。行ってみると、前の宴会に出ていた客なのである。黙りこんで酒ばかり飲んでいた。何となくうすっ気味のわるい、もう相当年配の男だった。彼は変にふさぎこんだ様子で、わざわざお呼びしてすみませんと、いやに丁寧だった。それからすぐに、先程の話の竹山という人のことを聞きたいのだとのことだった。
その先程の話というのが、小鈴の記憶にはよく残っていなかった。――もう宴会も終りに近く、座が手持不沙汰になってきた時、芸者たちだけ四五人集って、なんでも写真の話がでたらしかった。そして写真と素顔とがどうだとかいうことから、小鈴は僕からきいていた竹山茂樹のことを思いだし、写真もばかに出来ないと主張し、百枚近くも生顔をうつしとってる人があると云った。川村さんの知り合いの人だとも云った。ところが、その頃僕は酔っ払うと、しきりに椎の木の話をはじめ、ハラゴンに対する憤慨をのべ、どこのどいつだというような調子だったものだから、それは「椎の木の先生のハラゴンさん」みたいな話だとまぜっ返す者がでてきて、彼女はつい、竹山という実際の人だと口を滑らしたらしい。多少酒のまわってる芸者どうしの饒舌なので、実際のところはどうだったかはっきりしない。
その日は、穏かな好天気だった。竹山はいつのまにか、母親が隠しておいた例の写真器をとりだして、ひそかに出ていったらしい。そして二三時間たつと、表から勢こんでとびこんできた。
「お母さん、喜んで下さい。研究が出来上りましたよ。これから川村先生をよんできて、いっしょに現像するんです。」
そして彼は写真器を自分の室の卓子の上において、また飛びだしていった。
母親は不安な予感に駆られた。騒ぐ胸を抑えてじっとしていると、茂樹が出ていってから暫くして、のっそりはいりこんできた男があった。一目見て、彼女はあっと声を立てた。夫の茂吉だった。
茂吉はつっ立って、彼女を見据えていた。彼のうちにはひどく狂暴なものきり認められなかった。
「お前は、茂樹を、よくも立派に育てたな!」
その一言が、彼女のあらゆる感情を押し潰してしまった。
「茂樹の居間はどこだ?」
彼女には返事が出来なかった。身動きも出来なかった。
茂吉はつかつかと横手の室にはいっていった。物をぶっつけ破壊する激しい音がした。それから暫くひっそりとなって、やがてそこらをかきまわす音が続いた。
長い時間がたったようだった。声をかけられて彼女が顔をあげると、茂吉は死人のような顔色でつっ立っていた。手に小さな拳銃と小さな紙箱とを持っていた。
「これはどうしたんだ?」
彼女もびっくりした。それはまるで見覚えのないものだった。が彼女がもっと驚いたことには、茂吉の声はもう張りがなくて震えていた上に、拳銃をもってる手がわなわなとおののき、その眼から、はらはらと涙が流れだしたのだった。彼は拳銃をもってる手の甲でその涙を拭いた。そしてなおつっ立っていた。膝頭の震えるのが見えた。それから突然、彼はぎくりとしてあたりを見廻し、逃げるように出ていってしまった。最後に振向いて唇を動かしたようだったが、彼女の耳には何の言葉も達しなかった……。
彼女は一人残されて、全身麻痺したように座り続けていた。そこへ川村さんと茂樹とがはいって来たのである。
なお、後できき合して分ったことであるが、竹山の家から程遠からぬ処で、幾人もの人が不思議な光景を見たのだった。そこの広い街路の片端で、五十年配の男が、突然棒のように立止った。いつまでも棒のようにつっ立って、真直のところを凝視し続けている。その視線を辿ると、多少その辺で気が変だと知られていた竹山茂樹が、コダックを胸にかかえて、つっ立ってる男を写真にとってるのだった。一枚写し終えると、此度は方向をかえて写し、二三枚の写真をとった。その間、男は全く棒のようにまた殉教者のようにつっ立っていた。最後に茂樹は、男の方へ一瞥をなげて走りだした。男もその後を追って駆けていった……。
「僕がぐずついてたので、竹山の父親はまちきれなくて、やたらに歩き廻ってたものと見える。」と川村さんは云った。「然し、二人を対面さしたところで、結果は同じだったかも知れない。或はもっと悲惨な結果になったかも知れない。竹山の頭の中の幻影は、もう父親を見分けることを許さなくなってたらしい……。」
川村さんが竹山の母親から大体の話をきいてる間、そしてその後になっても、竹山は自分の室にはいったきり出て来なかった。見にいってみると、写真器の破片がちらかってる中に、竹山は茫然と座りこんでいた。身体が硬直していた。精神までも硬直していたらしい。じっと眼を据えたきりで、誰が何と云っても、もう一言も口を利かなかった。それでも、手を引いてやると、おとなしくついてくるのだった。
その夜、竹山茂吉が、アパートの自分の室の中で、拳銃で心臓を弾ち貫いて自殺したことが、中一日おいて分った。最後の苦悶のうちにも握りしめていたらしい拳銃が、自殺を立証した。遺書めいたものは何も見当らなかった。 | 竹山茂樹の父親はどこで自殺しましたか。 | 竹山茂樹の父親はアパートの自分の室の中で自殺しました。 |
JCRRAG_009365 | 国語 | 日本人なら死ぬまでに一度は食べてみたい食べ物のひとつとしてあげられるのは、ふぐ刺しです。
向こうが透けて見えるほどの薄造りで、テレビ番組などで、よく箸でふぐの刺身を何枚もさらうようにすくい取ってひと口で食べるというような光景を目にされたことがあるのではないでしょうか。
ふぐを最もおいしく食べることができる料理の1つがふぐ刺しです。
優れた料理人による刺身は包丁の入れ方、盛り付けそのすべてにおいて他の追随を許さず、うまみを損ねることなく仕上がっています。
ふぐ刺しを薄くそぎ切りにするのは、食べやすさを大切にしているためです。
一般的な刺し身のように厚切りにすると、ゴムのように弾力があり過ぎる身は、噛み切れず食べにくいからです。
そのため、他の魚と大きな金額の差が生じるのでしょう。
高級魚の一つとされるとらふぐの刺身は一皿2人前程度の盛りで1万円前後します。
ふぐの調理にはフグ調理のための免許が必要なうえ、仕込みに大変手間と時間がかかります。
天然のとらふぐの漁獲量も多くありません。
大きな皿に丁寧に盛られたふぐの刺身は芸術性も感じることができます。
ふぐの刺し身は、すだちやポン酢、もみじおろし等と一緒に食べるのが一般的です。
薄く淡白な身ですので、2、3枚まとめて食べると美味しくいただけます。
ふぐの刺し身は味がしないと言われることもありますが、熟成されたとらふぐの刺身は大変香りがよく、甘く濃い味がします。
ゆっくり空気と一緒に噛みしめるように食べることで、鼻からふぐの香りが抜けていく瞬間を楽しめるでしょう。
ふぐ刺しと一緒に楽しんでほしいのが湯引きしたふぐの皮です。
細かく切られたふぐの皮は、歯ごたえもよく少々油分もありますので酒の肴に最適です。
ふぐの刺し身よりも濃い味を楽しむことができるので、ふぐ刺しを食べる際には、是非、皮も一緒に食べられるお店を利用してみて下さい。
ふぐ刺しは冬が旬ですが、産卵期を過ぎた夏に獲れるふぐの刺し身も格別です。
身のうまみが増し「冬よりも夏ふぐの方が好み」だという方も多いほどです。 | ふぐの調理には、何故免許が必要なのですか。 | ふぐには、種類によって異なる部位に毒があるため、調理には免許が必要です。 |
JCRRAG_009366 | 国語 | むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでおり、おじいさんは竹を切ってかごやざるを作って暮らしていました。
ある日のこと、 いつものように竹林に行くと、光っている竹が一本ありました。
「おや、あの竹はどうしたんだろう。ぴかぴか光っているぞ」
切ってみると何と女の赤ん坊が入っており、おじいさんは、その女の子を家につれて帰りました。
おじいさんとおばあさんには子供がなかったので「かぐや姫」と名づけて大切に育てました。
それからというもの竹を切りに行く度に、おじいさんは竹の中にお金を見つけお金持ちになりました。
赤ん坊はすくすくと育ち、とても美しい娘になりました。
そのうつくしさを耳にして至る所から結婚を申し込みにたくさんの若者がやって来ましたが、かぐや姫は興味を示しませんでした。
いつも物思いにふけり空を見上げていました。
おじいさんは若者の求婚を無視することもできなかったので、不思議な宝物を持ってきた者にかぐや姫をやることにしました。
数人の若者が宝物をもってきましたが、かぐや姫はすぐに偽物と見破ってしまいました。
かぐや姫は月を見るたびに悲しそうな顔をしていました。
「どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのですか。」
とおじいさんがかぐや姫にたずねると、
「本当は私は月からきたものです。もうすぐ月からおむかえがきて、月に帰らなければなりません。やさしいおじいさんとおばあさんとお別れするのが悲しいのです。」
「そんな馬鹿な。」とおじいさんは戸惑いました。
明日がその日です。おじいさんは沢山の武士をやとってかぐや姫を守ろうとしました。
おじいさんはかぐや姫を手離したくはありませんでした。
その夜、月が山の上に現れると、金色の光が光りました。
武士たちは一斉に光めがけて矢を放ちましたが、光があたると武士たちは力を失い、眠りに落ちてしまいました。
天使が明かりの中から現われ、家の上に降りてきました。かぐや姫の手をとると空高く上がっていきました。
「おじいさん、おばあさん、長い間かわいがってくれてありがとう。私はこれから月へ帰らなければなりません。どうかいつまでもお元気で。さようなら」
かぐや姫は、おじいさんとおばあさんにお別れをいうと、天にのぼっていきました。 | かぐや姫は、おじいさんとおばあさんの実の娘ですか。 | いいえ。かぐや姫は光る竹の中で見つかった赤ん坊なので、おじいさんとおばあさんの実の娘ではありません。 |
JCRRAG_009367 | 国語 | 昔、昔あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。
子供のない二人は毎日子供が授かるよう神様に祈っていました。
「神様、どうか私たちに子供を授けてください。どんな小さな子供でも構いません。」
ある日、驚いたことに、二人に小さな赤ん坊が授かりました。背の高さ一寸にも満たない男の子です。
さっそく赤ん坊に一寸法師と名付け、二人は宝物のように育てました。
一寸法師はたくましい頭のいい子供になり、ある日二人にこう言いました。
「お父さん、お母さん、私に針と藁とおわんと箸を下さい。」
「一体どうする気ですか。」とおばあさん。
「針は剣、藁はさや、おわんは船、箸はかいです。都に行って武士になるつもりです。」
二人は許しを上げました。さっそく一寸法師は都へと向かいました。
途中、一寸法師はありに会い、
「ありさん、川はどこですか。」
「たんぽぽ畑のところです。」
一寸法師は川につくと、おわんに飛び乗り、矢のように川を下っていきました。途中で魚が一寸法師を食べ物だと間違えて向かって来ました。一寸法師は箸をつかって魚を追い払いました。
波に揺られ、雨にうたれ、風に吹かれ、やっとのことで都に着きました。
誇らしげに町を歩いていくと大きな立派な家が見え、一寸法師はそこで働くことを思いつきました。
「門を開けてください。お願いがあります。」
主人は門をあけるとあたりを見回しましたが誰もいません。
「一体だれだ。誰も見えんぞ。」
「あなたの足元にいます。」
主人は下駄のそばに一寸法師を見つけ、
「私は一寸法師と申します。ここで働かせてもらいたいと思います。」
「お前はなかなか活発で頭が良さそうだ。よし家来にしてやろう。」
そうして働くことになった家には美しい娘がおり、一寸法師はその娘から読み書きを教わりました。一寸法師は頭が良くてすぐ理解してしまいました。
ある日、娘は一寸法師を連れてお宮参りに出かけた途中、大きな鬼に出会いました。鬼は娘をさらいに来たのです。
「悪い鬼め。お嬢さんにちょっとでも手を出せばただではおかないぞ。」
「生意気な。食べてしまうぞ。」と鬼は言うと一気に一寸法師を飲み込んでしまいましたが、
「いたた、いたたたた...」
一寸法師は針でお腹の中を刺しました。
「いたた。死んでしまう。降参だ。助けてくれ。」
鬼は一寸法師を吹き出すと山の方へ一目散に逃げて行きました。
「助けてくれてありがとう。あなたは小さいけど、とても勇敢で強いのね。」
「ちっと見てください。鬼が何か忘れていきました。これは何でしょう。」
「これはうちでの小槌というものです。これを振ると欲しいものが何でも手に入ります。一寸法師、あなたは何が欲しいですか。」
「私は大きくなりたいです。」
うちでの小槌をふると、一寸法師はぐんぐん大きくなりあっと言う間に立派な大人になりました。
一寸法師は娘さんと結婚し、望んだ通り立派な武士になりました。 | うちでの小槌は、元々だれの持ち物でしたか。 | うちでの小槌は元々、一寸法師が働くことになった家の娘をさらった鬼の持ち物でした。 |
JCRRAG_009368 | 国語 | ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。
ひるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六交響曲こうきょうきょくの練習をしていました。
トランペットは一生けん命歌っています。
ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。
クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。
ゴーシュも口をりんと結んで眼めを皿さらのようにして楽譜がくふを見つめながらもう一心に弾いています。
にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」
みんなは今の所の少し前の所からやり直しました。ゴーシュは顔をまっ赤にして額に汗あせを出しながらやっといま云いわれたところを通りました。ほっと安心しながら、つづけて弾いていますと楽長がまた手をぱっと拍うちました。
「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教えてまでいるひまはないんだがなあ。」
みんなは気の毒そうにしてわざとじぶんの譜をのぞき込こんだりじぶんの楽器をはじいて見たりしています。ゴーシュはあわてて糸を直しました。これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした。
「今の前の小節から。はいっ。」
みんなはまたはじめました。ゴーシュも口をまげて一生けん命です。そしてこんどはかなり進みました。いいあんばいだと思っていると楽長がおどすような形をしてまたぱたっと手を拍ちました。またかとゴーシュはどきっとしましたがありがたいことにはこんどは別の人でした。ゴーシュはそこでさっきじぶんのときみんながしたようにわざとじぶんの譜へ眼を近づけて何か考えるふりをしていました。
「ではすぐ今の次。はいっ。」
そらと思って弾き出したかと思うといきなり楽長が足をどんと踏ふんでどなり出しました。
「だめだ。まるでなっていない。このへんは曲の心臓なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。演奏までもうあと十日しかないんだよ。音楽を専門にやっているぼくらがあの金沓鍛冶かなぐつかじだの砂糖屋の丁稚でっちなんかの寄り集りに負けてしまったらいったいわれわれの面目めんもくはどうなるんだ。おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情ということがまるでできてない。怒おこるも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の楽器と合わないもなあ。いつでもきみだけとけた靴くつのひもを引きずってみんなのあとをついてあるくようなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねえ。光輝こうきあるわが金星音楽団がきみ一人のために悪評をとるようなことでは、みんなへもまったく気の毒だからな。では今日は練習はここまで、休んで六時にはかっきりボックスへ入ってくれ給たまえ。」
みんなはおじぎをして、それからたばこをくわえてマッチをすったりどこかへ出て行ったりしました。ゴーシュはその粗末そまつな箱はこみたいなセロをかかえて壁かべの方へ向いて口をまげてぼろぼろ泪なみだをこぼしましたが、気をとり直してじぶんだけたったひとりいまやったところをはじめからしずかにもいちど弾きはじめました。
その晩遅おそくゴーシュは何か巨おおきな黒いものをしょってじぶんの家へ帰ってきました。家といってもそれは町はずれの川ばたにあるこわれた水車小屋で、ゴーシュはそこにたった一人ですんでいて午前は小屋のまわりの小さな畑でトマトの枝えだをきったり甘藍キャベジの虫をひろったりしてひるすぎになるといつも出て行っていたのです。ゴーシュがうちへ入ってあかりをつけるとさっきの黒い包みをあけました。それは何でもない。あの夕方のごつごつしたセロでした。ゴーシュはそれを床ゆかの上にそっと置くと、いきなり棚たなからコップをとってバケツの水をごくごくのみました。
それから頭を一つふって椅子いすへかけるとまるで虎とらみたいな勢いきおいでひるの譜を弾きはじめました。譜をめくりながら弾いては考え考えては弾き一生けん命しまいまで行くとまたはじめからなんべんもなんべんもごうごうごうごう弾きつづけました。
夜中もとうにすぎてしまいはもうじぶんが弾いているのかもわからないようになって顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄ものすごい顔つきになりいまにも倒たおれるかと思うように見えました。
そのとき誰たれかうしろの扉とをとんとんと叩たたくものがありました。
「ホーシュ君か。」ゴーシュはねぼけたように叫さけびました。ところがすうと扉を押おしてはいって来たのはいままで五六ぺん見たことのある大きな三毛猫みけねこでした。 | ゴーシュは表情というものがまるでできていないと言われましたが、何が問題になるのですか。 | ゴーシュが表情というものができないことにより、演奏に深みが出ず、他の演奏者とも足並みが揃わない。 |
JCRRAG_009369 | 国語 | ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりの剥はげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路すざくおおじにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠いちめがさや揉烏帽子もみえぼしが、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風つじかぜとか火事とか饑饉とか云う災わざわいがつづいて起った。そこで洛中らくちゅうのさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹にがついたり、金銀の箔はくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪たきぎの料しろに売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸こりが棲すむ。盗人ぬすびとが棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。 | 雨やみを待っていた下人がいた場所は、なぜ人通りが少なくなっていたのですか。 | この門は近年、京都で災害が続いたため死体の捨て場となり、日の目が見えなくなると誰も近づかなくなったからです。 |
JCRRAG_009370 | 国語 | むかし、むかし、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。
おばあさんが川で洗濯をしていると大きな桃が流れてきました。
「なんと大きな桃じゃろう!家に持って帰ろう。」
とおばあさんは背中に担いで家に帰り、その桃を切ろうとすると、なんと桃から大きな赤ん坊が出てきたのです。
「おっとたまげた。」
二人は驚いたけれども、とても喜び、
「何という名前にしましょうか。」
「桃から生まれたから、桃太郎というのはどうだろう。」
「それがいい。」
桃太郎はあっと言う間に大きくなり、立派な優しい男の子になりました。
ある日、桃太郎は二人に言いました。
「鬼ケ島に悪い鬼が住んでいると聞きました。」
「時々村に来て悪いことをするのでみんな困っている。」
とおじいさんが答えると、
「それでは私が行って退治しましょう。おかあさん、きび団子を作って下さい。」
おばあさんはとてもおいしい日本一のきび団子を作り、桃太郎はそれを腰の袋に入れるとさっそく鬼ケ島に向けて旅立ちました。
旅の途中、桃太郎は犬に会い、
「桃太郎さん、袋の中に何が入っているだい。」
「日本一のきび団子だよ。」
「僕に一つくれればお伴します。」
犬は桃太郎から一つ団子をもらい家来になりました。
桃太郎と犬が歩いて行くと、猿がやってきて、
「桃太郎さん、袋の中に何が入っているんだい。」
「日本一のきび団子だよ。」
「僕に一つくれればお伴します。」
猿は桃太郎から一つ団子をもらい家来になりました。
しばらく行くと、キジが飛んできて、
「桃太郎さん、袋の中に何が入っているんだい。」
「日本一のきび団子だよ。」
「僕に一つくれればお伴します。」
キジは桃太郎から一つ団子をもらい家来になりました。
しばらく行くと鬼ケ島が見えてきました。
「あれが鬼ケ島に違いない。」犬が吠えました。
鬼ケ島に着くと、お城の門の前に、大きな鬼が立っており、桃太郎は大きな石をつかむと鬼に向かって投げました。
猿は門に登り鍵を開けました。キジは鬼の目をつつきました。
「こりあ参った。助けてくれ~」
そういうと、鬼はお城の中に逃げていきました。
するとお城から沢山の鬼が出てきて、ついに大きな鬼があらわれました。
「生意気な小僧。俺様が懲らしめてやる。」
大きな鉄棒を振り回しながら言いました。
「あなたがかしらですか。」と言うと桃太郎はすばやく鉄棒の上に飛び乗り、
「悪い鬼、村人に悪いことをしたからには許せない。私のこぶしを受けてみろ。」
「アイタタ、ごめん。ごめん。許してくれ。降参だ。」
「本当に約束するか。」
「約束する。嘘はつきません。宝物をやります。」
桃太郎はお城の金や銀や織物や、荷車一杯の宝物を手に入れました。
こうして、桃太郎はおじいさんとおばあさんの待つ家に帰り、みんなで幸せにくらしました。 | 桃太郎の家来になった動物は何匹でしたか。 | 桃太郎の家来になった動物は、犬、猿、キジの三匹でした。 |
JCRRAG_009371 | 国語 | おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。
かねた一郎さま 九月十九日
あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいで
んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
山ねこ 拝
こんなのです。字はまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらいでした。けれども一郎はうれしくてうれしくてたまりませんでした。はがきをそっと学校のかばんにしまって、うちじゅうとんだりはねたりしました。
ね床にもぐってからも、山猫のにゃあとした顔や、そのめんどうだという裁判のけしきなどを考えて、おそくまでねむりませんでした。
けれども、一郎が眼をさましたときは、もうすっかり明るくなっていました。おもてにでてみると、まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのようにうるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川に沿ったこみちを、かみの方へのぼって行きました。
すきとおった風がざあっと吹くと、栗の木はばらばらと実をおとしました。一郎は栗の木をみあげて、
「栗の木、栗の木、やまねこがここを通らなかったかい。」とききました。栗の木はちょっとしずかになって、
「やまねこなら、けさはやく、馬車でひがしの方へ飛んで行きましたよ。」と答えました。
「東ならぼくのいく方だねえ、おかしいな、とにかくもっといってみよう。栗の木ありがとう。」
栗の木はだまってまた実をばらばらとおとしました。
一郎がすこし行きますと、そこはもう笛ふきの滝でした。笛ふきの滝というのは、まっ白な岩の崖のなかほどに、小さな穴があいていて、そこから水が笛のように鳴って飛び出し、すぐ滝になって、ごうごう谷におちているのをいうのでした。
一郎は滝に向いて叫びました。
「おいおい、笛ふき、やまねこがここを通らなかったかい。」
滝がぴーぴー答えました。
「やまねこは、さっき、馬車で西の方へ飛んで行きましたよ。」
「おかしいな、西ならぼくのうちの方だ。けれども、まあも少し行ってみよう。ふえふき、ありがとう。」
滝はまたもとのように笛を吹きつづけました。
一郎がまたすこし行きますと、一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。
一郎はからだをかがめて、
「おい、きのこ、やまねこが、ここを通らなかったかい。」
とききました。するときのこは
「やまねこなら、けさはやく、馬車で南の方へ飛んで行きましたよ。」とこたえました。一郎は首をひねりました。
「みなみならあっちの山のなかだ。おかしいな。まあもすこし行ってみよう。きのこ、ありがとう。」
きのこはみんないそがしそうに、どってこどってこと、あのへんな楽隊をつづけました。
一郎はまたすこし行きました。すると一本のくるみの木の梢を、栗鼠がぴょんととんでいました。一郎はすぐ手まねぎしてそれをとめて、
「おい、りす、やまねこがここを通らなかったかい。」とたずねました。するとりすは、木の上から、額に手をかざして、一郎を見ながらこたえました。
「やまねこなら、けさまだくらいうちに馬車でみなみの方へ飛んで行きましたよ。」
「みなみへ行ったなんて、二とこでそんなことを言うのはおかしいなあ。けれどもまあもすこし行ってみよう。りす、ありがとう。」りすはもう居ませんでした。ただくるみのいちばん上の枝がゆれ、となりのぶなの葉がちらっとひかっただけでした。 | 一郎が、やまねこがここを通らなかったかい、ときいたのは何人ですか。 | 一郎が、やまねこがここを通らなかったかい、ときいたのは、栗の木、笛ふきの滝、きのこ、りすの4人です。 |
JCRRAG_009372 | 国語 | 昔から婦人雑誌やラジオなどに出てくる料理研究家と称する人々の発表する料理は、贅沢料理と言うよりも、大衆的であることを根本精神にしたものだから、贅沢者の参考にはなるまい。
そこで、私の語ろうとしているのは、茶漬けにかぎらず、(反感を持たれるかも知れないが)贅沢料理の話である。通の通たる人のよろこぶ話だ。現今の青年子女は、「金ばかり高くてそんなもの」と言うであろう。
そこでもうひとつ、料理は貧富の差のみではなく、年齢の差で好みが変ることも考えてもらいたい。従って、一家族全部が感心するような料理はなかなかなく、年齢を分けて嗜好を合わせなくては満足がいくまいと思う。いわんや、財力の乏しい人では、値段の高いふつう聞きなれない料理には賛成できないであろう。
美味い料理は長年続けての習慣がつかなければ、美味いと分るものではない。それが分るようになるためには、相当の費用もかかる。しかし、だからと言って、費用をかけたから食物の美味さが誰にも分るとはかぎらない。食通と言われる人でも、種々の段階があるくらいだから、一般ではなおさらである。結局、これは書画の場合と同じように、分る人のみに分るのであろう。
さて、お茶漬けの話だが、これにしてもそれぞれ段階があって、ただ飯の上に塩と茶をかけて美味い場合もあるし、たい茶漬けが美味い場合もある。体の状態によって、時々の好みが変ってくる。たい茶漬けが今日美味かったからと言って、明日も明後日もつづけたらどうであろうか。要は、正直に自分の体と相談して、なにを要求しているかを知るべきである。うなぎがいいか、牛肉がいいか、あるいは沢庵の茶漬けか、その時々の状態によって、好むところのものを食しておれば、誠に自然で美味を感じる。が、これを自然にやらないで、「高いものは美味そうだ」「安いものは食いたくない」と言って選択しているのを見聞きするが、こんな考え方は、茶漬けであっても一考を要する。茶漬けを食いたいと要求する肉体が、自分の好きな茶漬けを食えたらこんな幸せはあるまい。これがすなわち栄養本位と言えよう。この理論は茶漬けにかぎらず、どんな場合にも成立する。
なんにしても食物のことは、自分の肉体や精神をつくってくれる根本問題であるから、その根本義を考えて、美味いものを食べればよいのである。よくよく考えてみれば、人の食物に対する要求は、結局肉体がその食物を要求しているので起こると言える。
ところで、その要求だが、ふだん値の高い食物を食いなれていなければ、味を知らないので、高いものを要求しないが、値段の高い食物で育ちつけた人は、そのほうが体に合うところから、美味い高価なものを要求する。たとえば、東京ではまぐろに高い金を出すが、食い道楽で有名な大阪の人たちは、まぐろに金を出さない。これは、昔から大阪にまぐろの一級品が運ばれないので、まぐろの味を知らないからである。
また食いものが、美味いものだけ食えるか、不味いものしか食えないとかいうのは、その人の育った環境のせいであるから、これをいたずらに曲げてはならない。分相応でなければならぬ。もしそうでなければ、食いものの話はできない。口福は得られないということになってしまう。前置きはこのくらいにして、実際の話に移ろう。 | 贅沢料理と大衆料理の違いを200字程度で説明してください。 | 贅沢料理の代表的なものはうなぎ、牛肉、まぐろといったものがある。一方、大衆料理の代表的なものとしてお茶漬けがあげられる。ただし、贅沢料理のように費用をかけたから食物の美味さが誰にも分るとはかぎらず、味を知らなければその価値を知ることもできないわけで、結局は分かる人のみに分かるものである。大事なのは、その人が育った環境で食してきた体に合うもの、その時々の自分の肉体や精神が要求するものが、自然に美味しいと感じる食い物ということだ。 |
JCRRAG_009373 | 国語 | 漫画と限らず、近年の『自然の驚異』や『自然の冒険』のいわゆる記録映画のシリーズでも、まったく同じ傾向が見られる。この場合、役者は自然界の野生の生き物であるから、こっちの註文どおりには、芸をしてくれない。それで無暗と沢山の場面を撮り、その中から、使える場面を拾い出して、それを編集するわけである。カメラマンの忍耐心のほうがより重要で、個性のはいる余地は比較的少ない。
『砂漠は生きている』が、その良い例であって、九巻六千二百フィートのこの長編記録映画も、実は全撮影フィルムから見たら、その五十分の一が使われただけだという。これの四十九倍のネガフィルムは、棄てられたのである。少し極端にいえば、この撮影のために、アメリカ西部の沙漠地帯に派遣された、数十人のカメラマンは、その滞在期間、満二年有余の間、盲めっぽうに沙漠の生物の写真を撮っていた、ともいえる。
ディズニーは、新しく『民族と自然』というシリーズも企画している。それと『自然の冒険』シリーズとのために、現在、百名に近いカメラマンを、世界各地に派遣しているそうである。その点について、ディズニー自身が「現在、すでに多数の地理学、自然科学、民族学の専門家たちが、天然色カメラを携え、炎熱のアフリカや酷寒のアラスカ、さらに南半球の果までも旅行して、今までに皆様が見たこともないような新形式の映画を作るための材料を集めつつあります」と言っている。
これらのカメラマンは、おそらく盲めっぽうといっていい程度に、無暗とカメラを動かしているに違いない。『砂漠は生きている』の中に、アメリカでも大評判になった、山猫君失敗の愉快な場面がある。猪いのししの群に追われた山猫が、さんざん逃げ廻った末、やっと高いシャボテンの木に逃げのぼるカットがあるが、これなどがその良い例である。
幹の途中でちょっと下を見ると、猪はのぼってこられない。それで山猫は得意そうに悠々とてっぺんまでのぼって、やれひと安心という思い入れをする。ところが、その名演技のとたんに、シャボテンの頭が折れて、山猫は猪の群の真ん中に落ちてくる。猪も驚くが、山猫の慌てかたもたいへんである。珍妙無類な恰好で、どぎもをぬかれた猪の群を突っきって逃げて行く。この場面では、満場がどうっとくるのであるが、こういうカットはまったく偶然に撮れるものである。初めから、シャボテンの折れることが、わかっているはずはない。それどころか、山猫がシャボテンに逃げのぼることすら、予期できない事件である。
要するに、偶然を狙うよりないので、無暗とフィルムを走らせることになる。したがって使用量の五十倍ものフィルムが、集積されるわけである。『砂漠は生きている』一本でも、全撮影フィルムをひととおり見るだけで、六十時間近くもかかる。こういう映画が、五、六本くらい平行に製作されつつあるわけであるから、その編集、特殊焼付、録音と考えてみただけでも、並み大抵のことではない。そういう巨大で複雑な企業を、整然と軌道にのせて、それを順調に運行させている。その上、年ごとに、非常な勢いで発展させて行っている。ディズニーは企業家としても、フォードに比すべき天才であると言っていいであろう。
詩人であり、天才企業家であるディズニーは、普通にはその両者のいずれとも相容れない、いま一つの面をもっている。それは彼は技術者でもある、という点である。漫画に立体的の感じを与え、また原画製作の時間を節約するために、彼は多層式撮影機を発明した。それは漫画映画に新しい技術を導入したものと言われている。 | 『自然の冒険』シリーズの撮影方法と、ディズニーが漫画映画のために発明した多層式撮影機による撮影方法の違いについて説明してください。 | 『自然の冒険』シリーズの撮影方法は、自然界の生き物を対象とするため、カメラマンが事前に演出や展開を決めることは困難である。そのため、無暗に大量の映像を撮影し、その中から偶然撮れた印象的な場面を編集して作品を構成するという手法である。一方、ディズニーが漫画映画のために発明した多層式撮影機は、原画製作の効率化と映像に立体感を与えるための技術であり、事前に演出や画面構成を細かく計画しながら撮影を行う仕組みである。このように、偶然性に頼る『自然の冒険』と、計画的・技術的に作り込む漫画映画の撮影方法には、大きな違いがある。 |
JCRRAG_009374 | 国語 | 海岸のその町は、夏になると、急に他人の町になってしまう。――都会から、らくに日帰りができるという距離のせいか、避暑客たちが山のように押し寄せてくるのだ。夏のあいだじゅう、町は人口も倍近くにふくれあがり、海水浴の客たちがすっかり町を占領して、夜も昼も、うきうきとそうぞうしい。
その年も、いつのまにか夏がきてしまっていた。ぞくぞくと都会からの海水浴の客たちがつめかけ、例年どおり町をわがもの顔に歩きまわる。大きく背中をあけた水着にサンダルの女。ウクレレを持ったサン・グラスの男たち。写真機をぶらさげ子どもをかかえた家族連れ。真赤なショート・パンツに太腿をむきだしにした麦藁帽の若い女たち。そんな人びとの高い笑い声に、自動車の警笛が不断の伴奏のように鳴りつづける。
そこには、たしかに「夏」があり「避暑地」があり、決して都会では味わえない「休暇」の感触があったが、でも、その町で生まれ、その町で育った慎一には、そのすべてはひとごとでしかなかった。いわば、他人たちのお祭りにすぎなかった。だいいち、彼には「休暇」も「避暑地」もなかったのだ。
来年、彼は近くの工業高校に進学するつもりでいた。それを母に許してもらうため、すこしでも貯金をしておこうと、その夏、慎一は同級生の兄が経営するガソリン・スタンドに、アルバイトとしてやとわれていた。都会から来た連中が占領していたのは町だけではなく、もちろん、海もだった。海岸に咲いた色とりどりのビーチ・パラソルや天幕がしまわれるのは、夜も九時をすぎてからだろうか。それからもひとしきり海岸は、ダンスやら散歩やら音楽やらでにぎわう。海辺から人びとのざわめきがひっそりと途絶えるのは、それが終わってから朝までのごく短い時間なのだ。 | 今年、慎一は何歳ですか。 | 慎一は今年、15歳です。 |
JCRRAG_009375 | 国語 | わざわざおいで下さいましてお目にかかるのは始めてのように思いましたが、こうやってはなしをしているうちにだんだんおもいだしてまいりました。
ふしぎなものですね。今夜はすっかりわすれていたあのときのありさまがわくようにおもいだされます。
ぼうっとあのときの人びとの顔までも見えるようで――何と申しますか、わたくしも四年前に家内に先立たれ、
こういうさびしいひとりぐらしをしておりますと雨のしみとおる壁までもすぎ去った日のかげのように、もうしっかり自分と結びついてしまうものでございます。
それにつけても、あのときのことだけはどなたさまにもはなすまいとこころにちかい、あのようなおそろしいものを見たおのれの業苦のほろびてゆくのをいまだに
祈りつづけている今日このごろでございますが、わたくしも教誨師をやめてからいつのまにか二十余年もすぎていることを考えますと今までまもりとおした秘密を
おはなし申上げたところで格別身に禍のふりかかるおかたもあるまいとぞんじ何もかも申上げます。さてながいあいだ心の底にかくしてしまったはなしであります故、
どこからさきにはなしてよいやら、いざとなると何もかも嘘のような感じもいたし、こんな生活が若いころの自分にあったのかということさえも疑わしくなるほどでございます。
わたくしは唯、この眼で見ただけのことを申上げるだけで、ことばの裏に何の判断のある筈もございません。やっぱりそんなはなしをしながら最初におもいだすのは岸本柳亭のことでございます。わすれもいたしませぬ。死刑執行の二日前、監房をおとずれたわたくしに向い、柳亭はだしぬけに「いよいよ駄目ですね?」と念を押すように申しました。覚悟はきめていながらもさすがにあきらめきれぬ気もちがあったものと思われます。一月十八日で、雨が降ったりやんだりする寒い日であったとおぼえています。そのとき、わたくしは何と答えたか自分のことばを今はっきりおもいだせませぬが、だまってあの男の顔を見ているうちにひとりでに涙ぐんでまいりました。あの男のさびしい声だけがふかく耳に残ってその晩はどうしても眠ることができなかったのです。柳亭はひくい声で、――そう言えばあの男の声はどんなときにもかすれるように静かで心のみだれというものを少しも残していなかったように思います。そのとき、あの男は、自分が刑の執行をうけるのは事件の性質上やむを得ないと思うが、唯、気の毒なのはわれわれと共に死んでゆく人たちの身の上だ。あのひとたちの中には親のあるものもあるし、妻子のある人たちもある、今更何というたところで仕方もあるまいが、ということを何べんもくりかえしくりかえし申しましたが、わたくしが、
「お気の毒でございます」
と申しますと、あの男は窓のそとへちらりと眼をそらして、「ハ、ハ、ハ、ハ」とうつろな声で笑いだしてから、
「先ず同じ船に乗り合せてもらったと思うよりほかに仕方があるまいな――海の上で暴風にあっていっしょに海底の藻屑となったと思えば何とかあきらめのつく道もあるでしょう」
「何も彼も運命です」
と、わたくしが答えると苦しそうに顔をしかめて、
「先ずそのへんのところかな」
と申されました。二日経っていよいよ刑の執行ときまったときにも、さすがは一党の大将だけに柳亭は平常とほとんど変らぬ顔色で、その朝の七時、看守が呼び出しに行ったときにはもう眼をさまして、独房の中に端坐していたそうです。
典獄がおごそかな声で、今から刑の執行をするということを申しわたしますと、二、三分眼をとじていたようですがすぐ落ちついた声で、
――と言っても何時いつもとくらべると非常にせきこんでいるようでしたが、
「どのくらい時間の余裕がありましょうか?」
そう言って少しもとりみだした様子はなく、典獄が、時間が非常に切迫していると答えますると、
「一時間でいいんだが、君のはからいで何とか――」
「五分間も余裕がありません」
「そうか、原稿の書きかけが監房の中にあるんだが、せめてそれを整理するあいだだけでも」
「駄目です」
これきりで二人の会話は終ってしまいました(柳亭はその朝まで暗い部屋の中で一睡もしないで何か書きつづけていたそうです)。
それから柳亭は倒れるように椅子に腰をおろすと、テーブルの上の盆にもりあげてある蜜柑をじっとみつめていました(その日、蜜柑と羊羹がこの人たちに饗応されることになっていたのです)。
すると彼の眼がだんだん涙ぐんできて、
「そうか」
と、言いながら、蜜柑を一つとりあげました。典獄が何か言いのこすことはないかというと、それには答えないでわたしの方を向き、
「いろいろお世話になりましたね」
と、まるでそれは長い溜息のような声でございましたが、それから心をおちつけるためにしばらく眼をとじていました。
しかし、眼をあけるとすぐ手に持った蜜柑の皮をむき、白いすじを一つ一つとってから、それをそっとテーブルの上に置き、あつい番茶を、茶碗のふたをなめるようにしてすすりあげると、
「じゃあ」
と、典獄の方を向いてうながすように立ちあがりました。わたくしが読経の用意をいたしますと、
「いやもう――」
と、両手でおさえるような恰好をして典獄とならんで別室へ立って行ったのです。
そのつぎが大野博方というもう五十ちかいお医者さんでこのひとも何とかいう雅号を持っておられましたが、よく覚えて居りません。このひとが入ってきたときはもう夜がすっかりあけていました。
大野は、
「寒い、寒い」
と言いながら両手で自分の身体を抱えるようにしてふらふらと入ってきたのです。丈のひょろ長いせいもありますがしかし、その素振りがいかにも飄々として何も彼も自然にまかせきっているというかんじです。
岸本柳亭が一味の首領であるという態度をくずすまいとして一生懸命に努力しているらしい様子のあるのにくらべると、この男は顔にかすかな苦悶のかげも残さず、ほんとうにあきらめぬいているという恰好に見えました。
常日頃は喜怒哀楽をすぐに顔にだすひとでありましたがいよいよとなると気もちがぐっと静かになって、愚痴ひとつこぼさず、テーブルの上の蜜柑をとりあげ、こまかい手つきで皮をむきながら、
「冗談から駒が出ましたな」
そう云ってにやにやと笑いました。それから典獄の方を向いて、唇の上へ手をあてて巻煙草をくわえるまねをしてから、大へん四角ばった口調で申しました | 岸本柳亭は死刑執行の直前、どのような心境であったのですか。 | 岸本柳亭は覚悟を決めていたものの、やはり諦めきれない気持ちがあったようである。そのため、教誨師に対して「いよいよ駄目ですね?」と念を押すように確認した。また、刑の執行が決まった際も冷静を装っていたが、最後に蜜柑を見つめて涙ぐむなど、心の奥底には動揺があったことがうかがえる。 |
JCRRAG_009376 | 国語 | この正月の、西北の風が吹くある寒い朝、ちょっとした用事があって、両国橋を西から東へわたったことがあった。
橋のたもとから十五、六歩足を運んだ時、ふと水の上へ眼をやった。すると、大川と神田川が合流する柳橋の龜清の石垣の下の静かな波の上に、白いものが浮いているのを見た。私は、欄干によりかかって、しばらくそれに眺め入った。白いものは、かもめであった。
十数羽のかもめの群れは、思い思いの方へ向いて、眠ってでもいるように緩やかにうねる水にゆらゆらと揺られている。ところが、大きなかもめの群れのなかに形の小さいゆりかもめが、薄くれないの嘴をときどき私の方へ向けるのを、眼にとめた。
――みやこ鳥――
私は、ほんとうに偶然、途上で昔の友に行きあったような思いがした。
――遠い日の、みやこ鳥――
三十年近くも前の、私の若き頃の身の俤が、ひとりで幻想となって眼の底に浮かんできた。改めて、私はゆりかもめをみつめた。
眼がさめると、私は淀川堤の暁の若草の上に、横になっているのに気がついた。
――何だ、自殺も忘れていたのか!――
私は、昨日の夕べのことをかえりみた。また、暗い気持ちになった。
――何たることだ――
起こした半身を、[#「、」は底本では「,」]再び堤に倒して草の葉に顔を埋めた。土の匂いがする。一瞬、くにの耕土に親しんでいる老いた父と母の顔が、頭をかすめ去った。
――キキ――
頭の上で、鳥の声がした。いそしぎだろうか、川千鳥だろうか。
幼い頃、父に伴われて故郷の川へ鮎釣りに行くたびに、河原で聞いたいそしぎの声に似ているのである。私は額をあげて、ぼうっとした視線を、淀の川瀬に向けた。
私の寝ている堤の下に、しがらみ(柵)があって、その下手は瀬かげをつくり、水が緩やかに流れている。そこに、二羽のゆりかもめが浮いていた。淀川の水は澄んで、薄くれないの脚が透けて見えた。
――悩ましき、みやこ鳥――
淀の川瀬にまで、ゆりかもめがいようとは思わなかった。
――とにかく、おれは生きのびた。もう何も考えまい、考えまい、また眠ろう――
堤にすりつけた顔に、土の香がひとしお強かった。
これは、私が二十三歳の四月の半ば過ぎの、できごとであったのである。
淀の流れに近い八幡の町までたどり着いたのは、前の日のひる頃であった。
『夜逃げ』を決心した時、日本地図を広げて志す国を、ここかしこと捜した。そして、地図の上でみると、どこよりも交通不便な土佐の国を品定めした。
夜の急行列車で一気に大阪まで落ちのびた。安治川口から汽船で美しい高知港の牛江へ入ったのは春の陽ひが和やかに照った眞ひるであった。
こし方の長い重荷をすべておろした気持ちで甲板に立った。
高知で職を求めた。けれど保証人のない私は宿屋の帳付けにも、蕎麦屋そばやの出前持ちにもなれなかった。
追っ手には、気がつくまいと思ってきた土佐の国では、とうとう私をいれてくれなかったのである。神戸へ引き返した。
一週間ばかり桟橋に近い口入れ宿の二階に、ごろごろしていたが、戸籍謄本を要求されて、就職はものにならなかった。
夜逃げの身では、故郷から戸籍謄本を取り寄せるなど、思いも寄らなかったのである。口入れ屋の二階では、豆腐の糟に、臭い沢庵を幾日も食わせられた。
友人が大坂城の四師団に法務官をやっているのを思い出した。これを訪ねて、おずおずしながらほんの少しばかり金を借りた。
その金で天満橋のそばの飯屋へ入って心ゆくばかり飯とお菜を食った。余った金で行けるところまで行こう、と思った。
京阪電車の駅の賃金表を見ると、男山八幡まで切符が買えた。
何とかして、生きていこうと考えた。八幡の駅の改札口を出て、小さい旅行鞄を左の手に、毛布を右の手に抱えて田圃の方へ出た。
このあたりには、広々と敗荷の池が続いていた。これから、どこへ行こうという目あてもない。
『夜逃げ』の首途に、夜の新橋駅の石畳の上に立った時には、自己革命を心に誓ったのではなかったか。真面目になろう。人間らしくなろう。
これからは、決して酒も飲むまい。女も買うまい。きょうを最後に、おれは生まれ代わるのだ。
だのに、高知へ着くとけろりとして酒を飲んだ。新橋駅の心の誓いなどてんで思い出してもみなかった。
神戸へ上陸してからは、なけなしの財布の底を叩いて福原遊廓へも走り込んだ。おれという人間はもう箸にも棒にもかからないのだ。
野の道に腰をおろして、西の方を見ると、八幡の町から田圃を隔てた新緑の林を貫いたお寺らしい大きい甍が眼に入った。
もう財布に一銭もない。今夜から食うこともできなければ、また泊まるところもない。ふと、寺のお弟子になったらばと、思った。
弟子になれたなら、食うことばかりではない、おれの性根もなおるだろう。
私は、田圃の畦道を歩いた。寺の庫裏の広い土間へ立って、
『ご免なさい、ご免なさい』
と幾度も繰り返した。漸く聞きつけたと見え、奥の方から五十二、三歳の梵妻風の老女が出て来て、私の前へ立った。
『なんぞ、ご用どすか』
と、けげんな顔をしたのである。
私は、しばらくためらっていたのであるが、放蕩に身を持ち崩し、東京を夜逃げの姿で旅立ちし、土佐から神戸、大阪と職を捜してさまよってきた。
けれど、どこでも職がみつからない。
もう、身に一銭の蓄えもなく、この先どうして生きていこうかと、寺の前の田圃で思案にふけっていたが、とうとう決心してお寺様の弟子にして頂きたいと考え、だしぬけではありながら、お訪ねした次第です。と正直に言ってみた。すると老女は、これを聞き流したまま、何とも答えないで奥の方へ引き返して行った。
しばらく待っていると、こんどは先ほどの老女と共に、黒い衣に白い足袋をはいた六十の坂を越したらしい、眼の細い物静かな老僧が出てきた。 | 語り手が仕事を探した都市の数はいくつですか。 | 語り手は、土佐の高知で職を探したが、保証人がいないため就職できなかった。その後、神戸へ戻り、一週間ほど口入れ宿に滞在して職を探したが、ここでも戸籍謄本を求められて就職できなかった。さらに、大阪で友人を頼りに金を借りていることから、ここでも仕事を探していた可能性がある。したがって、語り手が仕事を探した都市は少なくとも高知、神戸、大阪の3都市である。 |
JCRRAG_009377 | 国語 | 留吉は稲田の畦に腰かけて遠い山を見ていました。
いつも留吉の考えることでありましたが、あの山の向うに、留吉が長いこと行って見たいと思っている都があるのでした。
そこには天子様のお城があって、町はいつもお祭りのように賑で、町の人達は綺麗な服をきたり、うまいものを食べて、みんな結構な暮をしているのだ。
欲しいものは何でも得られるし、見たいものはどんな面白いものでも、いつでも見ることが出来るし、どこへゆくにも電車や自動車があって、ちょっと手を挙げると思うところへゆけるのだ。
おなじ人間に生れながら、こんな田舎で、朝から晩まで山ばかり見て暮すのはつまらない。いくら働いても働いても、親の代から子の代まで、いやおそらくいつまでたっても、もっと生活がよくなることはないだろう。
牛や馬の生活と異ちがったことはない。たとえ馬であっても都で暮して見たいものだ。
広い都のことだから、馬よりはすこしはましな生活が出来るだろう。留吉はそう考えると、もうじっとしていられないような気がするのでした。
それから三日目の朝、留吉は都の停車場へ降りていました。絵葉書や雑誌の写真で見て想像はしていたが、さて、ほんとうに都へ来てみると、どうしてこんなに沢山な人間が、集っているのだろう、そしてなんのためにこの大勢の人間は忙しそうにあっちこっちと歩いているのだろう。
ちょっと立っている間にさえ、自動車が二十台も留吉の前を走って行きました。
唐草模様のついた鞄一つさげた留吉は、右手に洋傘を持って、停車場を出て、歩きだしました。
「おいおいあぶない!」腕に青い布きれをつけた巡査がそう言って、留吉を電車線路から押しだして、路よりもすこし小高くなった敷石の上へ連れていって、「電車に乗るなら、ここで待っていて下さい」と言いました。
そこには立札があって「帯地全く安し」と書いてあるのです。留吉は「呉服屋の広告だな」と思いましたが、帯地の安いことは留吉には用のないことでした。それよりも、今夜留吉はどこへ寝たらいいだろうと考えました。
留吉は、小学校時代の友達で、村長の次男がいま都に住んでよい位置を得てくらしていることをおもいだしました。
卒業試験の時、算術の問題を彼に教えてやったことがあるから、訪ねてゆけば、彼もあの時の友情を思出すに違いない。留吉は、昔馴染の友達の住所をやっと思出しました。
そこは山の手の高台で、門のある家がずらりと並んでいるのでした。
二十四番地、都は掛値をする所だから、なんでも半分に値切って、十二番地、だなんて、村で物識の老人がいつか話してくれたのを思い出したが、まさかそれは話だと、留吉は考えました。
さて、二十四番地はどこだろう。
細っこい白い木柵に、紅い薔薇をからませた門がありました。石を畳みあげてそのうえにガラスを植えつけた塀がありました。
またある所には、まるで西洋菓子のようにべたべたいろんな色のついた、ちょっと食べて見たいような西洋風な家もありました。
紅い丸屋根をもった、窓掛の桃色の、お伽噺の子供の家のような家もありました。
二十四番地!さあここだぞ。今田時雄、ああこれだ、これが昔の友達、時公の家だ。白い石の柱が左右に立って、鉄の飾格子の扉のような門がそれでした。
まるで郡役所のような門だなと、留吉は考えました。
門からずっと玄関まで石を敷きつめて、両側に造花のような舶来花を咲かせてありました。
「時公もエラクなったもんだな、算術なんかあんな下手糞でも、都へ出るとエラクなれるものだな」留吉は、昔の友達の門をはいって、玄関の方へずんずん歩いてゆきました。
すると、なんだか変てこな心持が、留吉の心をいやに重くしはじめました。
変だぞ、留吉は生れてはじめて、こんな厄介な気持を経験したので、自分にははっきりわからないが、留吉はすこし気まりがわるくなったのです。それはたいへん留吉を不愉快にしました。
「時公におれは竹馬を作ってやったこともあるんだ。あいつはその事もまだ覚えているだろう」
この考えは、留吉をたいへん気安くして、元気よく玄関の前まで、留吉を歩かせました。「御用の方はこのボタンを押されたし」と柱の釦のわきに書いてある。留吉は読みました。
「おれは用があるのだ。それにここの主人はおれの友達だからな」留吉は釦を押した。ヂリヂリヂリとどこか家の奥の方で音がしました。
そういう仕かけかなと思って、留吉は、入口のガラス戸のとこを見ていますと、そこに一寸角ほどの穴があいています。そこで大きな一つ眼がぎらっと光ったかと思うと、頭の上でヂリヂリヂリと、舶来の半鐘のような音がしました。留吉はもうとてもびっくりして、何を考える暇もなく、どんどん門の方へかけだしました。
するとその拍子に、留吉の帽子が留吉の頭から飛去って、ころころと転がってゆきました。
こいつは大変だと思っていると、悪い時には悪いことがあるもので、造花の西洋花の中から、歯をむいたチンのような顔をした、しかしずっと愛嬌のない大犬が出てきて留吉を追いかけました。
留吉は、十一番地のところまでまるで夢中でかけだしました。
やれやれとそこで立どまると、あとから今田いまだ家と襟を染めぬいた法被をきた男が、留吉の帽子を持って立っていました。
「どうも、これはお世話をかけました」と言って留吉がその帽子を受取ろうとしますと、その手をぐっとその男はつかんで「ちょっと来い」と言ってペンキ塗りの白い家へ連れてゆきました。
椅子に腰かけた人間の眼が十三ほど、一度にぎろっと留吉の方を見ました。それは巡査でした。
「先程電話でお話のあったのはそいつですね」一人の巡査が立ってきて、法被の男に言いました。
「こいつですよ、旦那だんな」法被の男が言いました。
「私はその、なんにも悪いことをしたのではないですよ。その、私は、その、昔の友達を訪ねていったですよ。ただその、眼が、眼がそのヂリヂリヂリっと言ったでがすよ」留吉とめきちは巡査に言いました。巡査は髭をひっぱって言いました。
「お前は今田いまだ氏の昔の友達だと言うのだね。それに違いないか、何という名だ」。
巡査は今田氏へ電話をかけました。
「ははあなるほど、昔の友達だなどと当人は申して居おりますが……ははあ、いやわかりました。では、とりあえずですな、外ほかに窃盗などの目的はなかったものと推定して、放免することにいたしましょう。……はい……はい、どうもお手数をかけました。」チリンチリン
電話をかけ終った巡査は、また留吉の方へ出て、さて言うには、
「今田氏はお前のような友達は持ったことはないとおっしゃるよ」
「今田時雄は、その、算術の試験の時……」
「もう好よい。兎に角この帽子はお前に返してやるが、今後は、他人の邸宅へ無断で侵入してはならぬぞ、よしか」
留吉は、とある公園のベンチに腰かけて、つくづくと帽子を眺めました。 | 都の住宅と村の住宅では、どちらが豪華ですか。 | 都の住宅には、石を畳みあげた塀にガラスを植えつけた家や、西洋菓子のようにカラフルな家、紅い丸屋根のあるお伽話のような家など、装飾が豊かで豪華な家が多く見られる。一方で、村の描写にはこのような建築の華やかさについての記述がない。したがって、都の住宅の方が村の住宅よりも豪華である。 |
JCRRAG_009378 | 国語 | なににこがれて書くうたぞ
一時にひらくうめすもも
すももの蒼さ身にあびて
田舎暮らしのやすらかさ
私はこのうたが好きで、毎日この室生さんのうたを唱歌のようにうたう。「なににこがれて書くうたぞ」全く、このうたの通り、私はなににこがれているともなく、夜ふけて、ほとんど毎日机に向っている。そうして、やくざなその日暮らしの小説を書いている。夕御飯が済んで、小さい女中と二人で、油ものは油もの、茶飲み茶碗は茶飲み茶碗と、あれこれと近所の活動写真の話などをしながらかたづけものをして、剪花に水を替えてやっていると、もうその頃はたいてい八時が過ぎている。三ツの夕刊を手にして、二階の書斎へあがって行くと、火鉢の火がおとろえている。炭をつぎ、鉄瓶をかけて、湯のわくあいだ、私は三ツの夕刊に眼をとおすのだ。うちでとっているのは、朝日新聞、日日新聞、読売新聞の三ツで、まず眼をとおすのは、芝居や活動の広告のようなものだ。女の心がある、行ってみたいなと思う。永遠の誓いと云うのがある、みんな観に行きたいと思いながら、その広告が場末の小舎にかかるまで行けないでしまうことがたびたびなのだ。
広告を読み終ると三面記事を読む。その三面記事も一番下の小さい欄から読んでゆく。三ツの新聞に、同じような事が書いてあっても、どれも違う記事のように読めて面白くて仕方がない。政治欄はめったに読まない。だから私は、小学生よりも政治の事を知らない。――いつだったかも、日日新聞から、議会と云うものを観せて貰った。入口では人の懐へまで手を入れて調べる人がいたり、場内へはいると、四囲あたりの空気が臭くて、じっとしていられなかった。真下に視下議場では、居睡をしている人や、肩を怖いからせてつかみあっている人たちがいた。それが議員と云う人たちなそうで、もう吃驚してしまって、それきりな気持ちになってしまっている。
ひととおり新聞を読み終ると、ちょうど鉄瓶の湯が沸わき始める。もう、この時間が私には天国のようで、眼鏡に息をかけてやり、なめし皮で球を綺麗にみがく。そうして茶を淹いれ、机の上の色々なものに触れてみる。「御健在か」と、そうきいてみる気持ちなのだ。ペンは万年筆を使っている。インキは丸善のアテナインキ。三合位はいっている大きい瓶のを買って来て、たのしみに器へうつしてつかう。二年位あるような気がする。原稿用紙の前には小さい手鏡を置いて、時々舌を出したり、眼をぐるぐるまわして遊ぶ。だけど、長いものを書き始めると、この鏡は邪魔になって、いつも寝床の上へほうり投げてしまう。机の上には、何だか知らないけれども雑誌と本でいっぱいになって、ろくろく花を置くことも出来ない。唐詩選の岩波本がぼろぼろになって、机の上のどこかに載っている。
九時になっても、お茶を飲んで呆している。昔の日記を出したりして読む。妙に感心してみたり、妙にくだらなく思ったりする。心の遊びが大変なもので、色々な人たちの顔や心を自由に身につけてみる。あの人と夫婦になってみたいなと思うひとがあって、小説を書く前は、他愛のないそんな心の遊びが多い。――十時頃になると、家中のひとたちがおやすみを云いあう。皆が床へつくと、私が怖がりやだから、家中の鍵を見てまわり、台所で夜食の用意をして、それを二階へ持ってあがる。塩昆布と鰹節の削ったのがあれば私は大変機嫌がいいのだ。この頃は寒いので夜をふかしていると躯にこたえて来て仕方がない。なににこがれて書くうたぞ、でその日暮らし故、それに、やっぱり書くことに苦しくとも愉しいので机の前に坐ってしまう。腰をかける椅子なので、寒くなると、私は椅子の上にいつか坐って書いている。書いていて一番いやなのは、あふれるような気持ちでありながら、字引を引いて一字の上に何時までも停滞していることが、一番なさけない。私の字引は、学生自習辞典と云うので、これは、私が四国の高松をうろうろしていた時に七拾五銭で買ったもの、もう、ぼろぼろになってしまっている。何度字引を買っても、結局これが楽なので、字が足りないけれどこれを使っている。本当に、考えて見れば田舎の女学生みたいな生活だけれども、こうして、私の生活を何か書けと云われると、私は、ぱっとした暮らしでもない自分のこの頃に、何とない、おかしなものを感じ始めているのだ。 | 語り手の執筆のスタイルと、一般的な作家の執筆のスタイルでは、どのように異なりますか。 | 語り手は、執筆の際に小さい手鏡を使って表情を確認したり、唐詩選を机に置いていたりする。また、長い文章を書く際には手鏡を寝床に投げることがあるなど、執筆環境にこだわりがある。さらに、書き始める前に昔の日記を読んで感傷に浸ったり、心の遊びとして小説の登場人物の気持ちを試しに身につけることがある。一般的な作家は、より計画的に構成を練ったり、資料を参考にすることが多いと考えられる。したがって、語り手の執筆スタイルは、感情や気分に強く依存し、自己探求的で即興的な要素が多く、一般的な作家のより計画的で構成を重視したスタイルとは異なっている。 |
JCRRAG_009379 | 国語 | 私の『二笑亭綺譚』の初版は昭和十四年(一九三九)昭森社から出た。好評でたびたび版を重ねて、特製、A版、B版、C版(学生版)の四種がでている。しかし資料の写真その他が戦災でやけてしまったので、戦後の復元は困難であった。そこで私は、この機会に写真の挿絵をやめてすべて絵でゆこうという計画をたてた。幸に建設社が豪華本の出版をひきうけたので、私は木村荘八氏に挿画と装幀いっさいをたのんだ。荘八さんは旧版本を一読し、喜んでひきうけてくれた。ところが二笑亭の因縁といおうか、珍事がおきた。その打合せに、神楽坂のある料亭に出版社の坂上新一郎君と荘八さんと私の三人であつまった。戦後日が浅く当時はまだ占領下の食糧統制時代で、料飲食店はこっそりやみをやっているころだった。私たち三人が酒ものまずに食事しながら静かに打合せているところへ、見知らぬ男が入ってきた。取締の私服警官と名のって吸物のふたをとってしらべたりするが、初めは悪戯だと思っていたが、それは本物の刑事だった。そこであわてた私たちはひたすらわびたが、許されず翌日三人は神楽坂署へよばれ、始末書をとられてやっと許された。今になれば笑い話だが、荘八さんも私も警察での始末書は初めて書くので二人で顔を見合せて苦笑したものだった。しかし、二笑亭の仕事はどんどん進み、荘八さんは油絵を入れたたくさんの見事な絵をかいてくれた。それが完成したころ出版社が怪しくなって、この本は中止となり、やがて日比谷出版社にひきつがれた。とりあえず雑誌にのせようということになり、その重要な部分をえらび「文芸読物」(今の「オール読物」)の昭和二十五年一月号の巻頭に総色刷で発表し、好評だった。まだ紙や印刷の不自由な時代だったので、もう少し事情がよくなったら立派な本にして出そうということになっていた。その後、昭和二十七年(一九五二)に私は欧米の旅行に出た。半年の留守中に弟の俊三の手で私の書庫や書斎の整理がやられ、荘八さんの二笑亭資料は他のものといっしょに重要保存の行李へおさめられた。それがどこへいったことか、出てこない。
昭和三十一年(一九五六)に、三笠書房から新書版の『二笑亭綺譚』が出た。これは二笑亭の他に私の芸術病理学的の論文、研究、随筆を収めたものだった。こえて昭和三十三年に、浦和の芋小屋山房が豆本百種の第二冊として袖珍本の二笑亭を出した。これは主人公が足袋商だったのにちなんで、装幀を紺の木綿にして、足袋の爪で帙をとめるようなスタイルにしたものである。
こえて昭和三十六年(一九六一)に、日本書房の『現代知性全集』の第四十九巻に『式場隆三郎集』が出た。その中に、二笑亭が収録された。
私はいつか荘八さんの挿絵をしまった行李がみつかって、二笑亭の決定版の出るのをたのしく空想していた。しかし、その行李はその後いくら探しても、いまだにみつからない。荘八さんがメモにつかったいろいろかきこみのある旧版本だけが出てきた。それをみるにつけても、あの資料が神かくしになったように姿を消したのは、不思議でならない。
さて私は昨年の秋、欧米の旅から帰ると健康を害し、十二月一日に順天堂病院へ入院した。しらべてもらったら、意外にも酷い胃潰瘍のあることがわかった。それで大手術をうけて、輸血を五十日もつづけたのだった。やっと一命をとりとめてほっとした頃、かつて私のゴッホやロートレックの特製本を出してくれて、それがやみつきで限定本だけをやっている今野書房の今野健二さんが見舞にきてくれた。そのときふと私は二笑亭の決定版を出したいと話した。今野さんは、すぐそれをやらせてくれといった。そこで荘八さんの挿絵のなくなったことを話し、だれか適当な画家を探してくれとたのんだ。そこへ東峰出版の三ツ木幹人さんが見舞に来て、荘八さんの画風をつぐ三井永一さんを推薦してくれた。三井さんにきてもらって、事情を話して頼んだらよろこんでひきうけてくれた。そして「文芸読物」に複製の残っている荘八さんの絵は模写し、あとは三井さんが荘八風にかいてみようという話がきまり、まもなく一〇数枚の試作ができた。それらは私たちをよろこばせ、満足させた。そこで決定版二笑亭の計画がすすんだ。今野、三井、三ツ木の三氏は私の面会時間をまちかねるようにして、しばしば病室へきてこまかな打合せをしてくれた。こんな風にして、こんどの本が出るようになったのである。今野さんはたゆまぬ熱情を傾けて造本にあたってくれているので、きっといい本ができるだろうと楽しみにしている。寿岳文章兄もかつての英文解説に手をいれてくれたし、予約募集をしたら、全国のファンからは、電報や速達の申込がつづき、今野さんをよろこばせている。私は病気もよくなり、三月十九日に退院していま静養しているが、この病気が思いがけず久々でのいい本を出せるきっかけをつくってくれたことを感謝している。新緑の頃にでる私のもっとも愛着の深い限定版二笑亭のために、新しく署名用の硯や墨や毛筆まで用意して、できあがる日をたのしみつつ心待ちしている。 | 神楽坂のある料亭で打合せているところには、最終的に何人あつまりましたか。 | 神楽坂のある料亭で打合せているところには、最終的に4人あつまりました。 |
JCRRAG_009380 | 国語 | 空飛ぶ円盤が初めて報告されたのは、一九四七年六月二十四日のことで、もう八年も前のことである。
この日、アイダホ州のアーノルドという実業家が、自家用飛行機で、ワシントン州から帰って来た。その途中レニア山の方向に、九つの光った円盤が空中に乱舞しているのを目撃した。それいらいこの空飛ぶ円盤は「二十世紀の七不思議」の第一位を占め、人気を独占してきた形である。
初め数年の間に、方々で同じようなものを見たという人が出て来て、その資料だけでも数千と集まった。そのうちこれは外国にも伝播して、日本でも二、三度そういう記事が新聞に出た。
アメリカ国防省でも、あまり騒ぎが大きくなったので、放ってはおけなくなった。それでレーダーでこの円盤をとらえようとか、ジェット機をすぐ飛び立てるように用意して、円盤が見えたという報告がありしだい、すぐ追跡させる手配をした。
そういう騒ぎまで起したが、結局この空飛ぶ円盤は、つかまらなかった。そして八年も経った今日では、さすがに噂も七十五日で、皆が忘れてしまった形である。
ところが、最近ゼサップという先生が妙な本を出版した。『正体不明の飛行物体』とでも直訳される題名の本である。空飛ぶ円盤は、その中では、ほんの一部を占めるだけで、ほかにも昔から「空」に関するいろいろな不思議が、たくさん伝えられている。それらを集めて、空間に一つの世界を想定しようというのであるから、初めは単なる科学マニアの創作かと思った。
しかし、ゼサップ氏はミシガン大学の天文学の講師で、天体物理学に関する博士論文を完成したところだという。素人の空想小説ではなく、本人は大真面目に書いているのである。
読んでみると、なるほど不思議なことがずいぶんあるものである。何トンという大きい氷の塊が空から落ちて来たり、鰻が何万匹と降って来たり、飛行機が雲に入ったきり出てこなかったり、雪の上に「悪魔の足跡」があったり、いろいろなことがいままでにあった。これ等について、一々記録を調べて書いてあるので、面白いことは非常に面白い。
結局南太平洋にあったミュウ大陸が、爆発して空間にとび上がり、太陽系の内部に未知の惑星をつくっている。そこに住んでいる宇宙人の為す仕業であろう、というふうに考えている。ここまで来れば、もちろんマニアであるが、現代の世界には、こういうマニアを生む条件がそなわっているという意味で、非常に面白い本である。
ミュウ大陸は、南太平洋に現在散在している島々の母体であった大陸で、太古に海中に没したという伝説がある。それを今度は、爆発で空間にとんだということにしたわけである。 | 空飛ぶ円盤の正体は、判明していますか。 | 空飛ぶ円盤の正体は、判明していません。 |
JCRRAG_009381 | 国語 | 人々の衛生状態が今日の大きな社会問題である事実は遂に認識されてきている。何故かと言うとこの領域を通じてこれこそ金持ちおよび貧者とくに後者において利益や幸福やさらには安全までに強く作用するからである。
この国だけでなく世界全体におけるこれの巨大な重要性を示すために一つの統計的事実だけを示す必要がある。すなわち当然な衛生上の用心および衛生の基本的な法律と規則を違反することによって、戦場で倒れる以上にもっと多くの人たちが死亡し今なお死亡し続けている。
健康を障害し寿命を短くする傾向の原因は、悪い空気、不純な水、および混ぜ物処理をした飲食物に属している。これらの原因のうちで最後のものは間違いなく重要であって、ここで貴方に献呈するこの本の諸ページに種々の事実が豊富に示されている。
この国の保健省の長として衛生改革の問題についての興味ある問題の大量な事実が貴方の前に持って来られることは疑いない。これについて私は貴方が完全に賢明であることを知っているし、それだけでなく貴方は任せられた力をできるだけ働かせて人々の衛生状態を改良し、改良することによっていろいろな経路で活発に彼らの福祉に貢献する決心をもっている。
重要で決定的な進歩の時期にある衛生運動を導くことを要請され、貴方は既に多くの優れたことをしてきた。そして疑いも無く貴方の考えが発達するのに充分な時間が過ぎたならば人民にとってもっと大量の利益が得られるであろう。 | 健康を障害し寿命を短くする傾向の原因は、いくつありますか。 | 健康を障害し寿命を短くする傾向の原因は、3つあります。 |
JCRRAG_009382 | 国語 | 蛋白の中で人体の栄養に一番いいものは、牛乳の蛋白であるから、牛乳に他の必要な要素を加えたものが、けっきょく一番いいわけである。例えば、アメリカでも第一流のB会社で売り出している老人用粉乳は、肝油やビール酵母などから必要のビタミン類を補給し、第一燐酸ソーダやくえん酸鉄などを加えて、鉱物質を添加するというふうに、大分進んだ考え方になっている。少なくとも広告には、そういうふうに書いてある。
広告のそのままの受け売りであるが、この粉乳を約3合の水に溶かしたものが、1日の使用量となっている。その標準溶液、というよりも、この老人用牛乳3合の成分は、次のようになっているという。
蛋白 26グラム
カルシウム 830ミリグラム
燐 800ミリグラム
鉄 16ミリグラム
ビタミンB1 2.2ミリグラム
ビタミンB2 2.7ミリグラム
ニコチン酸アミド 18ミリグラム
ビタミンC 85ミリグラム
この成分量は蛋白を除いては、ビタミンも鉱物質も、アメリカの学術研究会議で、1945年に決めた成人の必要量を数割突破している。蛋白はもちろん他の副食物から充分摂れるから、これだけ飲んでいれば、老齢期の栄養は充分だというのである。
広告どおりに効くかどうかは、保証の限りでないが、これくらい綿密にやってあると、つい信用する気になる。ところでこの老齢学を適用して、一番効き目のあるのは、50歳くらいから始めるのだそうである。 | 老人用牛乳3合の成分のうち、最も少ない成分は何ですか。 | 老人用牛乳3合の成分のうち、最も少ない成分はビタミンB1です。 |
JCRRAG_009383 | 国語 | 新聞の果している役割は、日本とアメリカとでは、大分ちがうようである。
アメリカの新聞は、報道のほかに、娯楽面と広告とが非常に多い。とくに広告に多くの紙面を割いている。この広告に三種類あることは、日本と同様であって、化粧品なり、自動車なり、その商品を広く広告するのが、第一種である。つぎには、商店名の広告であって、百貨店なり、食糧品店なりの名前で、今日どういう安売があるかを広告する。これを第二種とする。第三種は、日本のいわゆる三行広告であって、求人、貸間、中古品の売買など、いわば個人性のある広告である。広告の量が非常に多いので、新聞は厖大なものになる。
日曜日の新聞が、一番厚いので、今日のシカゴ・トリビューンなど、厚さ二寸近い一束が、一日分の新聞である。紙面の大きさは、日本の新聞と同じであって、それが何と総計百九十八ページあるのである。
百九十八ページの新聞で、いろいろな記事がまじっていたら、見る方も困るし、第一編集ができないであろう。それで全体を七部に分けて編集してある。
総計百九十八ページであるが、一ページは普通の本の八ページ分の大きさであるから、本にしたら千四百ページの大著述になる。とにかく日曜版の一日の新聞として、千四百ページの本をつくるのだから、少し話が馬鹿げている。
しかしそのうち広告が百四十四ページあって、全体の七割以上を占めている。その中でも第三種と称した、求人、土地家屋、貸間、中古品の売買などの広告は、非常に有効であって、就職にも、また中古自動車を買うにも、部屋を探すにも、たいていこの新聞広告で間に合うらしい。それでこの広告を目的に、新聞を買う人もかなりあるようである。そういう意味で、新聞はかなり日常生活と直結している。移転をする時など、よく家具類をほとんど売って、向うへ行ってからまた買う。荷造費が高いからである。そういう場合にもよく新聞広告が使われる。 | 日本の新聞とアメリカの新聞について、200文字以内で説明してください。 | 日本の新聞は、報道面と広告面があり、化粧品や自動車などの商品の広告、商店名の安売の広告、求人などの三行広告が記載されています。アメリカの新聞は、娯楽面と広告面が非常に多く、日曜日の一日分は厚さが二寸近くの一束で、総計百九十八ページあるうち、七割以上の百四十四ページが広告になっており、広告を目的に新聞を買う人も多いです。いずれも、紙面の大きさは同じである点は、共通しています。 |
JCRRAG_009384 | 国語 | 読者諸君がよくご承知の、小林少年を団長にいただく少年探偵団の中に、桂正一君くんという少年がいました。桂君のおうちは、世田谷区の玉川電車の沿線にあって、羽柴壮二君たちの学校とはちがいましたけれども、正一君と壮二君とはいとこどうしだものですから、壮二君にさそわれて少年探偵団にくわわったのです。
桂君は、自分が探偵団にはいっただけでなく、やはり玉川電車の沿線におうちのある、級友の篠崎始君をさそって、ふたりで仲間入りをしたのです。
ある晩のこと、桂正一君は、電車一駅ほどへだたったところにある、篠崎君のおうちをたずねて、篠崎君の勉強部屋で、いっしょに宿題をといたり、お話をしたりして、八時ごろまで遊んでいましたが、それから、おうちに帰る途中で、おそろしいものに出あってしまったのです。
もし、おくびょうな少年でしたら、少しまわり道をして表通りを歩くのですけれど、桂君は学校では少年相撲ずもうの選手をしているほどで、腕におぼえのある豪胆な少年でしたから、裏通りの近道を、テクテクと歩いていきました。
人さらい
墓地のできごとがあってから二日の後、やっぱり夜の八時ごろ、篠崎始君のおうちの、りっぱなご門から、三十歳ぐらいの上品な婦人と、五つぐらいのかわいらしい洋装の女の子とが、出てきました。婦人は始君のおばさん、女の子は小さいいとこですが、ふたりは夕方から篠崎君のおうちへ遊びに来ていて、今、帰るところなのです。
おばさんは、大通りへ出て自動車をひろうつもりで、女の子の手を引いて、うす暗いやしき町を、急ぎ足に歩いていきました。
| 年齢が一番高いのは誰ですか | 婦人 |
JCRRAG_009385 | 国語 | 養殖うなぎのように餌をやって育てたものでも、土地や池によって非常な差異が生じている。つくられたものでさえ差異が生じるというのは、一に水のせいもあるし、海から入り込む潮の関係も考えられる。が、なんといっても問題なのは飼料である。飼料によって、うなぎの質に良否の差異が生じて来る。養殖うなぎでも適餌をやれば美味いうなぎになるだろう。だが、うなぎ養殖者は、とかく経済面のみ考えて、できるだけ安価な餌で太らせようとばかり考え、いきおい質が天然うなぎから遠ざかりすぎるのである。経済ということも一理ではあるが、かといって、いくら金をかけたところで、所詮、人間はうなぎの大好物がなんであるかを知ることは困難のようである。
餌のことをもっとはっきりさせるために、すっぽんを例にとろう。すっぽんの好物は、あさりやその他の小さな、やわらかな貝類である。一枚歯のすっぽんの大腸をみると分るが、彼らは貝を好んで食うために腸内部が貝類で埋っている。だが、すっぽん養殖者は、彼らにその嗜好物を供給してやるのには費用が高くつくので、代わりににしんを食わせる頃がある。すると、いつの間にかすっぽんにもにしんの匂い、味がして、貝だけを餌えさにしていた時のような美味さが失われて来る。このように餌ひとつで極端にまですっぽんの質に影響があることは見逃せない。
同じように養殖うなぎでもよい餌を食べている時は美味いし、天然のうなぎでも彼らの好む餌にありつけなかった時は、必ずしも美味くはないといえる。要は餌次第である。天然にこしたことはないが、養殖の場合でも、それに近いものが望まれる。
ところで、現在市販のものでは、天然うなぎはごくわずかしか使用されておらず、ほとんど養殖うなぎばかりといってよい。天然うなぎがいないからではなく、それを獲るのに人件費がかかるからで、問題は商魂にある。養殖うなぎの値が天然のそれに比して高ければ、一般の人々は手を出さないであろうし、従って、おのずと天然うなぎが繁昌する結果となる。養殖の場合は先述したように、うなぎが太っていればよいのであるし、形ができていれば商売になる。味覚をなおざりにしているわけではなかろうが、どうしても二義的に考えられがちだ。現今では、うなぎといえば養殖うなぎが通り相場になっているほどである。東京では五、六軒だけ天然うなぎを使用しているが、京、大阪は皆無。中には両方を混ぜて食わせる店もある。
一方、天然うなぎは餌が天然という特質があるために、概がいして美味いと考えてよい。もちろん良否はあるが。養殖うなぎにもとりわけ美味いものがあるが、よほどよいうなぎ屋に行かなければぶつからない。 | 養殖うなぎと天然うなぎについて、200文字以内で説明して下さい。 | 養殖うなぎでもよい餌を食べている時は美味いし、天然うなぎでも彼らの好む餌にありつけなかった時は、必ずしも美味くはない。要は餌次第である。また、うなぎ養殖者は、できるだけ安価な餌で太らせようとばかり考え、いきおい質が天然うなぎから遠ざかりすぎる。現在市販されている、天然うなぎはごくわずかで、ほとんど養殖うなぎばかりなのは、天然うなぎがいないのではなく、獲るのに人件費がかかるからである。
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JCRRAG_009386 | 国語 | 正吉は、まだお母さんが、ほんとうに死んでしまわれたとは、どうしても信じることができませんでした。
しかし、お母さんが、もうこの家にいられなくなってから幾日もたちました。正吉はその間、毎日お母さんのことを思い出しては、さびしい日を送りました。彼は子供心にも、もうお母さんは死んでしまわれたので、けっしてふたたび帰ってこられないと思いながら、やはりまったく死んでしまわれたとは、どうしても、思うことができなかったのです。あのやさしいお母さんが、この世界のどこにも、まったくいられないと信じたら、そして、もうどんなことをしても、二度と見ることができないと信じたら、彼は、悲しさのあまり、胸が張り裂けてしまうからでありました。
お母さんが、じっと正吉を見つめられるときは、いつも、その真っ黒な目の中に、涙がたたえられていたのを、正吉は忘れることができませんでした。
お母さんがいられなくなってから、正吉は、せめてお母さんの面影を思い出すことを楽しみにしていました。空を吹く寒い風も、また、窓を打つ落ち葉の音も、それをばさまたげるものはなかったのです。
正吉は、夜になって、使いにやられるのを恐ろしがっていました。なぜなら、このごろ、父親は暗くなってから、酒が足りないといっては、町の酒屋まで酒を買いに、正吉をやったからであります。
「なあ正吉、酒を買いにいってこい。」
夜になると、はたして、父親はいいました。月もない暗い晩でありました。星の光が降るように、青黒い空に輝やいていました。そして、風が吹いて、落葉ばが田の上を、カサカサ音をたてて飛んでいました。
もし、こんなときにいやだといったら、きっと、父親は「意気地め。」といって、しかったでありましょう。正吉は、お母さんがおられたら、自分は、けっして、こんなさびしいめをみなくていいものをと思いますと、目の中に涙がわいてきたのであります。が、
「なあ、正吉は強いものな。いい子だからいってきてくれよ。」と、父親は、後姿を見送りながら、いいました。
こう、父親にやさしくいいかけられると、正吉は、またなんとなく、父親をあわれに思いました。そして自分たちは、いつまでもこんなにさびしい日ひを送らなければならないのだろうかと、悲しくなりました。正吉は、とぼとぼと町の方をさして歩いてゆきました。このあたりはもう日が暮れると、まったく人通りは絶えてしまったのです。 | 正吉は町に何しにいきましたか。 | 正吉は街に父親の酒を買いにいきました。 |
JCRRAG_009387 | 国語 | わが生まれ故郷三宅島は大島、八丈島などとともに近世の流罪人の島として有名である。わたくしは先祖をたずねられると『大方流罪人の子孫だろう』と答えているが、事実、三宅島の歴史をみると遠くは天武天皇三年(皇紀一三三六年)三位麻積王の子を伊豆七島に流すと古書にある。島には有名流罪人の史跡が多い。三宅島という名の由来も養老三年(皇紀一三七九年)に、多治見三宅麿がこの島に流されてから三宅島と名づけられたといわれている。わたくしが子供のころ、三宅島の伊ヶ谷にはこれらの流罪人を入れた牢屋がまだ残っていた。三宅島の流罪人名士をあげると竹内式部、山県大弐の勤王学者、絵師英一蝶、「絵島生島」の生島新五郎、侠客小金井小次郎など多士多彩だ。しかしこれらの流罪名士の中の英雄はなんといっても源為朝であろう。わたくしの友人で郷土史研究家の浅沼悦太郎君が『キミが国会で力闘しているのは為朝の血を引いているからだ』といっていたが、現代の為朝にみられてちょっとくすぐったかった。島の文化は流罪人から非常な影響を受けたことは事実で、父も流人の漢学の素養のある人から日本外史、十八史略などを教えられたそうだ。私は母とともに十三歳までこの三宅島で暮した。三宅島時代で最も印象に残っているのは、小学校の五、六年ごろと思うが、断崖にかけてある樋を渡って母にしかられた思い出だ。三宅島は火山島で水に不便だ。清水を部落までひく樋がよく谷間にかかっている。私の渡った樋は高さ数十丈、長さ十丈ぐらいの谷間にかけられたもので、学校友だちと泳ぎに行った帰りに、『あの樋を渡れるかい』とけしかけられて渡った。一緒にいた従兄の井口知一君が最初に渡ったものだから、私も負けん気になって渡り、ご愛敬にも途中でしゃがんで樋の中にあった小石を拾って谷間に投げ込んでみせた。なんとも乱暴なことをしたもので、今でも故郷に帰るとこれが昔話にされる。私は知れると母にしかられるので黙っていたが、母はどこかで聞いたとみえ畑仕事から帰ると目から火の出るほどしかられた。母として丹精して育てたわが子の無謀が許せなかったのだろうが、私は恐れをなして外に逃げ、後で家に帰っても俵の中にかくれていた。
小学校六年の終りに上京、砂町にいた父の膝もとから砂町小学校に通い、ついで府立三中(今の両国高校)に入学した。このとき砂町小学校から七人三中を受け、私一人しか合格しなかったのをおぼえている。
府立三中は本所江東橋にあって、いわゆる下町の子弟が多く、そのため庶民精神が横溢していて、名校長八田三喜先生の存在と相まって進歩的な空気が強かった。この学校の先輩には北沢新次郎、河合栄治郎の両教授のような進歩的学者、作家では芥川龍之介、久保田万太郎の両氏、あるいは現京都府知事の蜷川虎三氏などがいる。
三中に入学した年の秋、学芸会があり、雄弁大会が催された。私はおだてられて出たが、三宅島から上京したばかりの田舎者であるから、すっかり上がってしまった。会場は化学実験の階段教室であるから聴衆が高い所に居ならんでいる。原稿を持って出たが、これを読むだけの気持の余裕がなく、無我夢中、やたらにカン高い声でしゃべってしまったが、わが生涯最初の演説はさんざんの失敗であった。これで演説はむずかしいものとキモに銘じた。
その後、三年のころだったか、八田校長が当時チョッキというアダ名で有名な蔵原惟郭代議士(現共産党中央指導部にいる蔵原惟人氏の父君)を連れてきて講演させたことがあった。内容はおぼえていないが、この講演には当時、非常な感銘を受けた。また学校の学芸会の際、河合栄治郎氏がしばしば白線入りの一高帽で来たり、帝大入学後は角帽姿で後輩を指導したことは忘れられず、私が政治に生きたいと考えるようになったさまざまの刺激の一つとなったものである。 | 砂町小学校から府立三中を受験した私以外の人たちは、合格しましたか。 | 砂町小学校から府立三中を受験した私以外の人たちは、合格しませんでした。 |
JCRRAG_009388 | 国語 | 朝起きると、ひどく咳が出る。烟草で咽喉を痛めているせいだ。おそく起きた朝ほど咳がひどいのは、その前夜おそくまで仕事をして烟草の量を過した兆しである。私の咳はかなり有名で、近所の子供はコンコンのおじさんと呼んでいる。老人臭くていけないが、烟草の量はなかなか減らないで困る。私が外出先から帰って来るときには、家に入らない前に咳でわかる、と亡妻はいっていたし、私が在宅か否かは咳が聞えるかどうかで判断することができる、と隣の人たちはいっている。そんなに咳をしていながら自分自身ではあまり気づかないということは、修身講話のひとつの例となり得る事実である。
二階の仕事部屋からふと外を見ると、凧がひとつ空に高く上っている。飛んでいるようでもあり、踊っているようでもあり、舞っているようでもあり、そのコミカルな姿態をしばらく眺める。空は曇って風が強い。
郵便物を調べて必要なものに返事を書く。今年は年賀状をいっさい出さなかったが、それでも田舎の知人から来たものだけにはこちらからも返しを出す。正月は田舎がなつかしい。東京には「正月」がない。
昨夜おそくまで起きて済ませたパンフレットの校正を持って、夕方までに再校を出してもらうつもりで急いで日本橋まで行ったが、今日は印刷所では仕事をしないという。
帰ってみると、机の上に子供が私の誕生日のために祝いの手紙と贈物のバットとを載せている。今日は私の誕生日。祝ってくれるのは子供一人だけで、「自祝自戒」のほかないとつぶやいてみる。私は以前から誕生日を祝うということをあまりしたことがない。 | 私がひどく咳が出たのは、何をしたせいですか。 | 私がひどく咳が出たのは、前夜おそくまで仕事をして烟草の量を過したせいです。 |
JCRRAG_009389 | 国語 | 悲観も突き詰めて行って、この上悲観のしようもなくなると楽観に代ります。今まで泣き沈んでいた女が気が狂ったのでなく静かに笑い出すときがそれであります。さればとて捨鉢の笑いでもありません。訊いてみると、「ただ何となく」といいます。私はその心境をしみじみ尊いものに思います。
心の底は弾機ばね仕掛けになっているのでありましょうか。どの感情の道を辿って行っても真面目に突き詰めて行けばきっとその弾機に行き当るのでしょうか、必ず楽観に弾ね上って来ます。
「おあん物語」という古書があります。家康の軍勢に大垣城が取囲まれ、落城する砌みぎりの実状を、そのとき城中にあった、おあんという女の想い出話の記録であります。
落城も程近い城中にあって当時若い腰元のおあんはその朋輩とともに、将卒が取って来たたくさんの敵の首の歯におはぐろを塗っているのであります。
将卒たちは自分が取って来た敵の首が白歯のままであるとそれは敵軍の士卒の首であることが判るので、おはぐろを塗って貰って将士の首に見せかけ主人達の感賞に与あずかろうとするのであります。その役を、危険な混雑な落城も程近い城中にあって心弱い若い女のおあんたちは取乱した様子もなく無雑作にやっているのでありました。悲観の極の楽観と同様、せっぱつまった時の落ちつきです。
憂きことのなほこの上に積れかし
限りある身の力試めさん
これは尼子十勇士の一人の山中鹿之助が主家の再興を図りましたけれども、ほとんど絶望であることが発見されてのち詠み出でた歌であります。ちょっと見ると破れかぶれの歌にも見えますけれどもそうではありません。悲観の極は例の弾機仕掛けに弾ね上げられ、人生を見直し出した従容たる態度の歌であります。蕭条しょうじょうたる秋風しゅうふうに鎗を立てて微笑ほほえむ鹿之助の顔が眼に泛ぶのであります。
「男が話が判ってくるのは一度首の座に直ってからだ」。私の母は、その父の郷士で儒者であった人が、しじゅうこう口癖に言っていたということを、よく幼時の私に話して聞かせました。その郷士は横浜開港などにも関係し、相当、危険な幕を潜った体験を持った人だそうです。
「首の座に直る」ということは悲観の極を一度味わったことのある人ということでありましょう。それを通り越して来たものは人力の如何ともすべからざること、人力以上のもののあること、それらを体験的に弁えた人であるが故に、我執がしゅうも除かれ、万事、実相に明らかな眼で誰人とも応酬出来る。そこを「話が判る」と言ったのでしょう。私は当時幼くもあり、また女のことでもあり、何を母がいうかとぐらいにしか思っていませんでしたが、この頃はときどき昔の人はうまい表現をしたものだと思い出すことがあります。
悲観を突き詰めて行かなければならない事件やら境遇やらには誰しも出会いたくありません。けれども、退引のっぴきならざるを得ない場合が、絶対に来ないとは誰しも断言出来ません。しかし、その場合にも、誰の心にも弾機仕掛けがあって、どうやら人生を見直さしてくれるということは、たしかに信じ得られる事実です。 | 「おあん物語」は家康の軍勢が出てくる物語ですが、これに登場する女の想い出話の記録は戦前よりも昔に出版された古書といえますか? | 「おあん物語」は戦前よりも昔に出版された古書といえる。 |
JCRRAG_009390 | 国語 | 祖父さんがなくなって後、私の家は急に寂しくなった。この数カ月の間、どういうことが起ったか、またどういうことを私がやったか、よくは覚えていない。ただ旧の大晦日の二、三日前に、私の弟(月城げつじょう)が生れたので、祖母さんがこれを祖父さんが生れかわったのだといって、喜んでいたのを記憶しているばかりだ。
明けると明治十五年私は六歳になった。この年に東京で博覧会が開かれたので沖縄の方からも多くの人々が見物に出かけた。私の本家の方では盗まれた叔父をこの機会に取り返すという議があって、一番上の伯父さんがわざわざ上京することになった。
叔父が盗まれたというと少し語弊があるが、当時の人は皆そういっていた。ところがその実叔父は盗まれたのではなく、自分で希望していったということだ。今になって考えて見ると、当局者はこの利口な少年を東京につれていって、新しい教育を受けさせる積りであったということがわかる。そこで世間の悪口屋は許田の家では子供を高価で日本人に売ったなぞといっていた。とにかく叔父は東京に行くと間もなく、共慣羲塾に這入って勉強した。そしてさっそく断髪して服装までかえたということだ。してみると、叔父は沖縄から東京にいった最初の遊学生で、しかも沖縄人で断髪した者の嚆矢と言わなければならぬ。ほかに沖縄の先輩となった岸本以下数名の青年は彼と入り違いに上京したということだ。四月に叔父はいよいよその兄さんにつれられて帰省した。故郷を飛び出して満二年で帰ったのだ。家の人は彼が断髪して、見違えるほどになったのを見て吃驚びっくりした。そして死んだ人が蘇って来たかのように喜んだ。その日叔父はいたって快闊に話していた。しかし二年の間母国の言葉を使わなかったためか、その語調は少し変であった。私始め親類の子供達は今までに見たことのないオモチャの御土産を貰って喜んだ。叔父は断髪姿で外出しては剣呑だというので、夜分でなければいっさい外出はしなかった。数カ月経って、髪の毛が長くのびたので、また昔のように片髻かたかしらを結うて、盛んに親戚朋友の家を訪問していた。この年の暮に家の祖母さんが死んだ。叔父は祖母さんの墓参にはかかさずいった。そしていつも私達には東京の面白い話をして聞かせた。ところが翌年の正月に、この新文明の鼓吹者であった叔父は腸チブスに罹って急に死んだ。彼はじつに末頼もしい活溌な青年であったが、十八歳を一期として白玉はくぎょく楼中ろうちゅうの人となった。私は今までただ叔父と呼んで彼の名を言わなかったが、彼の名は許田普益であることを読者におしらせしたい。さて時勢はだんだん変って来て、沖縄から公然と数名の青年を東京に遊学させることになったので、本家の方では、こうなると思えばあのまま東京に置いておくのであったといって今更のように後悔した。叔父は今まで生きながらえていたら、まだ四十九歳で、盛んに活動している頃だが惜しいことをしたものだ。こういう事件があったために、私の親類は自然新しい文明に対して恐怖心を懐くようになった。私の家なぞは少し広すぎたに拘わらず、内地人にはいっさい間を貸さないことにした。そして私の家では私達が言うことを聞かない場合には「アレ日本人ヤマトンチュードー」といって、私達を威おどすのであった。私はろくに外出なぞはさせられなかったので、どこに学校があるかということさえも知らずにいた。ずっと後になって、ようやく学校のあることには気がついたが、そういう所に這入ろうという気にはなれなかった。 | 叔父は沖縄の新文明の先駆者なのでしょうか。 | 叔父は沖縄の新文明の先駆者です。 |
JCRRAG_009391 | 国語 | 独占的ソフトウェアの弁明をする人たちは、こういう話をするのが好きです。「フリーソフトウェアは素敵な夢だが、信頼性の高い製品を作れるのは、独占的な組織だけだっていうのは、我々みんなが知ってることだよ。ハッカーの寄り集まりにはそんなことできっこない。」
しかしながら、経験上得られた事実はその意見に反しています。
バートン・ミラーとその同僚は、1990年と1995年に、Unixのユーティリティプログラムの信頼性をテストしました。そのいずれにおいても、フリーソフトウェアであるGNUシステムのユーティリティは非常に抜きん出ていました。彼らは7つの独占的ソフトウェアである商用Unixシステムを、GNU同様にテストしました。ランダムな入力ストリームを与えたところ、「基本的なユーティリティプログラムのうち40%以上が、(コアダンプして)クラッシュしたり、ハング(無限ループ)したりしました…。」
この研究者たちは、商用Unixシステムの故障率は15%から43%の範囲なのに対して、GNUの故障率は7%にすぎない、ということを発見したのです。
ミラーはまた、次のように言っています。「我々が比較した商業製品のシステム3つは、1990年と1995年にはるかに信頼性が改善された。しかし、failureの割合はそれでも著しく高かったのだ。」
GNUシステムのユーティリティの信頼性がこんなに高いのは、まぐれではありません。フリーソフトウェアが高信頼性を持つ傾向があるのには、確かな理由があるのです。
理由の一つは、フリーソフトウェアは問題を解決するために、全コミュニティが協力しあって関わっているという点です。ユーザはバグを報告するだけではなく、バグを修正したり、修正を送ったりすることすらあります。問題の深みまで至り、そのソフトを問題なく動作させるために、ユーザは電子メールで互いに会話をしながら一緒に作業するのです。
別の理由は、開発者は信頼性を本当に気にかけているということです。フリーソフトウェアパッケージは商業的に競っているとは限りませんが、それでも競っていい評判を得ようと努力しています。不充分なプログラムは、開発者が期待する人気を得ることはないでしょう。さらに、ソースコードを万人に見えるようにしている作者は自分の評判をオンラインに置いており、コミュニティから否認の刑にさらされないために、ソフトウェアをクリーンでクリアなものにしておくべきなのです。
ノースダコタ州のロジャー・マリス癌センターでは、LinuxベースのGNUシステムを使っています。GNU/Linuxマシンのネットワークが情報システムを動かし、薬物療法を組織的に結び付け、さらに他の多数の機能を果たしています。 | ロジャー・マリス癌センターのシステムの故障率は、何%ですか。 | 7%です。 |
JCRRAG_009392 | 国語 | ドロシーは農夫のヘンリーおじさん、その奥さんのエムおばさんと一緒にカンザスの大草原の真ん中で暮らしていました。家は、建てるための木材をずっと遠くから荷馬車で運んで来なければならなかったので、小さなものでした。四つの壁と、屋根と床が一つずつあって、それで一つの部屋でした。この部屋にはすすけたレンジ、お皿の戸棚とテーブルが一つずつと、三つか四つの椅子とベッドがありました。ヘンリーおじさんとエムおばさんの大きいベッドが隅に一つ、別の隅にドロシーの小さなベッドが一つありました。屋根裏部屋も、地下室も(通り道にあるどんな建物も押しつぶしてしまうほど強い旋風が起きた時、家族が入るための地面に掘った竜巻用地下室と呼ぶ小さな穴のほかには)ぜんぜんありませんでした。穴は床の真ん中にある落し戸につながっていて、そこからはしごが小さな、暗い穴へと降りていました。
ドロシーが戸口に立って見まわすと、どっちを向いても灰色の大草原しか見えません。見渡す限りの広い平原はどの方角へも空の端まで続き、木の一本、家の一軒もありませんでした。太陽が耕地をからからにして、小さなひびの入った灰色の土地にしてしまいました。草でさえ緑色ではありませんでした。太陽は他のどこでもと同じぐらい灰色になるまで、長い葉の表面を焦がしてしまったのです。いちど家に色を塗っても、太陽がペンキをぶかぶかにして、雨が洗い流してしまい、今では他の何もかもと同じぐらい灰色で退屈になってしまったのでした。
エムおばさんがそこに来て住み始めた時、おばさんは若くてきれいな奥さんでした。そのおばさんも、太陽と風が変えてしまいました。おばさんの目から輝きを奪って、地味な灰色にしてしまいました。おばさんの頬と唇から赤みを奪い、それも灰色にしてしまいました。おばさんは細くやつれて、今では決して笑わないのでした。孤児だったドロシーがおばさんのところに初めて来た時、エムおばさんは子供の笑い声にとてもびっくりして、ドロシーの明るい声が耳に届く度にキャッと叫んで胸の上に手を押し付けたものでした。それでもまだおばさんは、何か笑うようなことを見つけられた小さな女の子を不思議そうに見つめたのでした。 | ドロシーは、エムおばさんが産んだ子ですか。 | ドロシーは、エムおばさんが産んだ子ではありません。 |
JCRRAG_009393 | 国語 | 「冬」が訪ねて来た。
私が待受けて居たのは正直に言うと、もっと光沢のない、単調な眠そうな、貧しそうに震えた、醜く皺枯れた老婆であった。私は自分の側に来たものの顔をつくづくと眺めて、まるで自分の先入主となった物の考え方や自分の予想して居たものとは反対であるのに驚かされた。私は尋ねて見た。
「お前が『冬』か。」
「そういうお前は一体私を誰だと思うのだ。そんなにお前は私を見損なって居たのか。」
と「冬」が答えた。
「冬」は私にいろいろな樹木を指して見せた。あの満天星を御覧、と言われて見ると旧い霜葉はもう疾くに落尽して了ったが、茶色を帯びた細く若い枝の一つ一つには既に新生の芽が見られて、そのみずみずしい光沢のある若枝にも、勢いこんで出て来たような新芽にも、冬の焔が流れて来て居た。満天星ばかりではない、梅の素生は濃い緑色に延びて、早や一尺に及ぶのもある。ちいさくなって蹲踞んで居るのは躑躅だが、でもがつがつ震えるような様子はすこしも見えない。あの椿の樹を御覧と「冬」が私に言った。日を受けて光る冬の緑葉には言うに言われぬかがやきがあって、密集した葉と葉の間からは大きな蕾が顔を出して居た。何かの深い微笑のように咲くあの椿の花の中には霜の来る前に早や開落したのさえあった。
「冬」は私に八つ手の樹を指して見せた。そこにはまた白に近い淡緑の色彩の新しさがあって、その力のある花の形は周囲の単調を破って居た。
三年の間、私は異郷の客舎の方で暗い冬を送って来た。寒い雨でも来て障子の暗い日なぞにはよくあの巴里の冬を思出す。そこでは一年のうちの最も日の短いという冬至前後になると、朝の九時頃に漸く夜が明けて午後の三時半には既に日が暮れて了った。あのボオドレエルの詩の中にあるような赤熱の色に燃えてしかも凍り果てるという太陽は、必ずしも北極の果を想像しない迄も、巴里の町を歩いて居てよく見らるるものであった。枯々としたマロニエの並木の間に冬が来ても青々として枯れずに居る草地の眺めばかりは、特別な冬景色ではあったけれども、あの灰色な深い静寂なシャワンヌの「冬」の色調こそ彼地の自然にはふさわしいものであった。 | 「一年のうちの最も日の短いという冬至前後」とは、何月のことですか。 | 「一年のうちの最も日の短いという冬至前後」とは、十二月のことです。 |
JCRRAG_009394 | 国語 | 会社に限らず、サークルなどの組織にも部署やチームがあると思いますが、それぞれに機能と役割があります。何のためにこのチームが存在しているのか、目的や機能は何かを明確にすることで、目標がはっきりしてきます。チームの役割が不明確で、なんとなく存在していると、ミッションを達成しているのかどうかもわからないため、やりがいにつながらなくなります。
就職活動をしていると、企業の中の部署について気になりますが、部署名は同じでも企業によってその役割が全く違うことがあります。何をしているのかではなく、何を目的・役割にしている部署なのかを詳しく理解しないと、思っていたことと違うということがあります。例えば、営業という部署だけでも様々な役割があります。代表的なものだと、法人営業、個人営業、新規営業、ルート営業、代理店営業といったお客様起点で役割が変わります。営業という機能は同じでも、企業向けと個人のお客様向けでは取扱商品も提供方法も違います。ペットボトルのお茶を1本ほしい個人と、ペットボトルをケース単位で仕入れる法人とではお客様の課題が違いますので、提案方法やお支払い方法も変化してきます。営業やセールスがやりたい!だけではなく、どのような営業があるのかを企業ごとに理解をしていく必要があります。
サークルでチームを分けて活動するときに、進捗が早いチーム、遅いチームが出てくることもあります。遅いから悪いではなく、全体を見たときにチームの垣根を超えて協力するためにも役割を明確にしておくことが必要になります。なぜなら、進捗が早いチームのメンバーが遅れているチームをサポートするときに、何をサポートしたらいいかを考えて行動する事ができるからです。なんとなく、チームが分かれているだけであれば、目的と目標もぼやけていますので、協力したくてもどこから手を付けたらいいかがわからなくなります。だからといって、縦割りでこの仕事しかしません、という役所のような組織にしてしまうこととは目的が異なります。サークルとしては目的があり、目指したい姿やビジョンがあるはずです。その一つのゴールに向かってそれぞれが役割を果たすことで大きな成果をだすことができます。サッカーでそれぞれの役割はあるものの、ボールをゴールに入れるためには役割を超えて行動をする事があるのと同じです。 | 営業という部署の代表的な役割はいくつありますか。 | 営業という部署の代表的な役割は5つあり、法人営業、個人営業、新規営業、ルート営業、代理店営業です。 |
JCRRAG_009395 | 国語 | 就職氷河期世代は、1972〜82年に生まれた世代を指す言葉です。
リクルート社が発行している「就職ジャーナル」という雑誌の1992年11号に初めて登場し、その後「新語・流行語大賞」も受賞しました。
バブルが崩壊し、企業が採用する人数を少なくしたことで、多くの人が就職できず、このような言葉が生まれたようです。
この世代には、危機意識が強い人や、仕事に対して前向きな人が多い特徴があります。
1987年〜2004年に生まれた世代を指すのが、ゆとり世代です。
それまでの詰め込み教育からゆとり教育に転換された時代に、学齢期を過ごした人が該当します。
ゆとり教育には、「多種多様な経験をして人間性を豊かにするゆとりを大切にする」という目的がありましたが、結果的には学力の低下や教育の二極化などが問題視されました。
この世代の特徴としてよく挙げられるのは、「ストレス耐久の無さ」や「プライベートの時間を大切にする」などです。
Z世代は、1995年〜2010年に生まれた世代を指す言葉です。
最近、テレビなどのメディアでも取り上げられることの多い世代で、2024年時点の14〜29歳の人が該当します。
Z世代は世界共通の概念で、大きな特徴としては生まれた時からインターネットで得られる情報量が多く、モバイルデバイスやSNSを使いこなすことが挙げられます。
また、格差社会や気候変動といった不安要素があることも世界共通の傾向です。
Z世代は「安定思考」「自分にとっての価値を重視する」などの特徴があると言われています。 | ゆとり世代とZ世代のそれぞれの特徴について説明してください。 | ゆとり世代の特徴は「ストレス耐久の無さ」や「プライベートの時間を大切にする」といったものです。Z世代の特徴は、「安定思考」「自分にとっての価値を重視する」といったものです。 |
JCRRAG_009396 | 国語 | ・一進一退・・・進んだり退いたりすること。または、物事の状況が良くなったり、悪くなったりすること。
・一攫千金・・・一度に巨額の利益を得ること。
・三者三様・・・人によってそれぞれにやり方、考え方などが違うこと。三人の人がいれば、三つのやり方や考え方などがあるという意味から。
・四苦八苦・・・とても苦労すること。苦しむこと。
・五臓六腑・・・人間の全ての内臓のこと。または、心の中のこと。
・七難八苦・・・様々な苦難や災難のこと。または、災難や苦難にあうこと。
・八方美人・・・誰からも悪く思われないように、要領よく人と付き合っていく人。
・岡目八目・・・当事者よりも、はたから見ている人のほうが情勢を正しく判断できることのたとえ。
・九死一生・・・助かる見込みがほぼ無い状況で、何とか助かること。
・十中八九・・・十あるうちの八か九ということから「ほとんど」「おおかた」「ほぼ確実」という意味。
・十人十色・・・性格、好み、考え方などは人それぞれ違うということ。
・千載一遇・・・千年に一度しか会えないようなよい機会。
・千差万別・・・人や物や事柄には様々な種類や違いがあり、どれひとつをとっても同じものはないということ。 | この四字熟語の中で、漢数字の和が小さいものを昇順に五個挙げて下さい | この四字熟語の中で、漢数字の和が小さいものを昇順に五個挙げると、一進一退・三者三様・八方美人・岡目八目・九死一生となります。 |
JCRRAG_009397 | 国語 | カメが、ゆっくりゆっくり道を歩いていました。
池にある、自分の家に帰るところです。
そこへウサギが、ぴょんぴょんと跳ねながらやって来て、
「カメ君、あんたはほうとうに遅いねえ。それでは家に着く前に、日が暮れてしまうよ。」
カメは、怒って言いました。
「僕だって、いざとなれば、とても早く走ることができるんだ。」
ウサギは、笑って言いました。
「いざっていうのは、いつのことだい。」
それから、ウサギは少し考えてから、
「よし、明日の朝、向こうの丘までかけくらべをしよう。先についた方が勝ちさ。」
「分かった。競争しよう。」
カメは答えました。
次の朝、カメとウサギは丘のてっぺん目指して、よーい、どんです。
ウサギはぴょんぴょん川を渡り、森を過ぎ、野原を横切って走りました。丘に登る坂道まで来た時、ウサギは振り返りましたが、カメの姿はまったく見えません。
「ふん、どんなもんだい。だいたい、カメがウサギとかけっこしようなんて馬鹿な話さ。どれ、ここいらで一休みしよう。」
ウサギはそばの草原にごろんと寝転び、そのまま眠ってしまいました。
カメはずいぶんたってから、ウサギの所まで来ました。
一生懸命歩いたので、汗びっしょりです。
でも、寝ているウサギを見て、にっこり笑いながら言いました。
「お先に失礼。」
こうして、ウサギはカメに負けたのです。 | ウサギが「どれ、ここいらで一休みしよう。」と言って寝転ばなければ、ウサギはカメに勝っていましたか | はい。ウサギが「どれ、ここいらで一休みしよう。」と言って寝転んで眠ったすきにカメが追い越していったので、ここで寝転ばなければウサギはカメに勝っていたと言えます。 |
JCRRAG_009398 | 国語 | 海岸の小さな町の駅に下りて、彼は、しばらくはものめずらしげにあたりを眺めていた。駅前の風景はすっかり変っていた。アーケードのついた明るいマーケットふうの通りができ、その道路も、固く鋪装されてしまっている。はだしのまま、砂利の多いこの道を駈けて通学させられた小学生の頃の自分を、急になまなましく彼は思い出した。あれは、戦争の末期だった。彼はいわゆる疎開児童として、この町にまる三カ月ほど住んでいたのだった。――あれ以来、おれは一度もこの町をたずねたことがない。その自分が、いまは大学を出、就職をし、一人前の出張がえりのサラリーマンの一人として、この町に来ている……。
東京には、明日までに帰ればよかった。二、三時間は充分にぶらぶらできる時間がある。彼は駅の売店で煙草を買い、それに火を点けると、ゆっくりと歩きだした。
夏の真昼だった。小さな町の家並みはすぐに尽きて、昔のままの踏切りを越えると、線路に沿い、両側にやや起伏のある畑地がひろがる。彼は目を細めながら歩いた。遠くに、かすかに海の音がしていた。
なだらかな小丘の裾、ひょろ長い一本の松に見憶えのある丘の裾をまわりかけて、突然、彼は化石したように足をとめた。真昼の重い光を浴び、青々とした葉を波うたせたひろい芋畑の向うに、一列になって、喪服を着た人びとの小さな葬列が動いている。
一瞬、彼は十数年の歳月が宙に消えて、自分がふたたびあのときの中にいる錯覚にとらえられた。……呆然と口をあけて、彼は、しばらくは呼吸をすることを忘れていた。 | 海岸の小さな町の駅の駅前はどのように変っていましたか。 | アーケードのついた明るいマーケットふうの通りができ、道路も固く鋪装されている。 |
JCRRAG_009399 | 国語 | 松の樹が嫌いだった。
「君、あれは放蕩息子だよ。」
冗談によくそんな事を云われた。誰もが知っている通り、春夏秋冬と、松の木位手入れに手数のかかる木は尠い。自然物入もかさむ。全くやっかい至極な放蕩息子だ。
が、しかし、先生が松を愛されなかったのはそう云う手数がかかるとか、物入が嵩むとか云う理由ではなかった。手入は植木屋にやらせればいいのだし、費用だって先生の懐を脅かすほどの事はないし、又必要なら何百金でも平気で投出される人だったのだ。それについて詳しい説明をきいた事はなかったが、あのゴツゴツした、骨ばった木ぶりが嫌いであったらしい。とにかく庭にも盆栽にも松は一本もなかった。
お花見と云う行事は大すきだった。しかし、同じ様な理由で桜の木も木としては好きでなかった。私が麹町にいた時代、よく散歩のお供をして英国大使館前をぶらついたが、あの桜並木を見て、
「もう少し木肌が滑かだといいんだがなあ。」
と云われたのを思い出す。
同じ様な意味で梅もそう好きではなかったらしい。けれど、初春の縁起物として盆梅は(殊に紅梅)賞玩された。しかし、花時がすむと、きまって庭の片隅にほうり出されて、大部分はそのままに枯れて仕舞い、残った物も、翌年にはもう花をつける事が出来なかった。方々から贈物があって、時には相当高価らしい盆梅もあるので、慾ばり屋の私は、
「もう少し手入をなすったら。」
とよく云ったものだ。と、先生は、
「だって君、我々が枯らして仕舞うから植木屋が立ってゆくんだぜ。」
先生はそう云う人だった。由来、盆梅の仕立ての事は云わない事にした。
ゴツゴツした松の木肌の感触を嫌われた先生は、自然の反対現象として、柳、楓、百日紅なぞの肌のなめらかな木が好きであった。目黒の遺邸の庭には、空を覆う百日紅がある。そしてあの花の色も好きだった様である。青山の墓所には、出来ればこの木を植えさせて貰いたいと思う。
同じ意味で、猫柳もすきだった。随筆集の題名にもなっている。これは、後に説く俳諧趣味から出発していると思う。
草花は早春のクロッカス、ヒヤシンス等から、秋の終りまで、どこの家にもある様な和洋の花が植えられて、交る交るに咲いていたが、その中で一番巾をきかしていたのは、千日紅、葉鶏頭等の、純粋な、そして野生に近い日本草花だった。花はないが、薄も好きで、例の百日紅の下に傲然とはびこっている。真夏には糸瓜棚が出来て、その下で、実が長くなるのをよろこんでいられた。烏瓜もすきだったが、地味に合わぬとみえて目黒の山にはなく、私の処から数回球根を運んだが、遂に実がならずにしまった。
それ等の庭の花や、又到来の花なぞ、すべて自分で活けられた。別に何流を習われたと云う事もきかなかったが、自然の風格があった。 | 先生の家の庭に植えられていた草花は、何種類挙げられていますか。 | 先生の家の庭に植えられていた草花は、早春のクロッカス、ヒヤシンス、千日紅、葉鶏頭等の4種類が挙げられています。
先生の家の庭に植えられていた草花は、クロッカス、ヒヤシンス、千日紅、葉鶏頭、薄、糸瓜の6種類が挙げられています。 |
JCRRAG_009400 | 国語 | 大気中の水蒸気が凍結して液体または固体となって地上に降るものを総称して降水と言う。その中でも水蒸気が地上の物体に接触して生ずる露と霜と木花と、氷点下に過冷却された霧の滴が地物に触れて生ずる樹氷または「花ボロ」を除けば、あとは皆地上数百ないし数千メートルの高所から降下するものである。その中でも雨と雪は最も普通なものであるが、雹や霰もさほど珍しくはない。霙は雨と雪の混じたもので、これも有りふれた現象である。
以上挙げたものの外に稀有な降水の種類として凍雨と雨氷を数える事が出来る。
我邦では岡田博士に従って凍雨の名称の下に総括されているものの中にも種々の差別があって、その中には透明な小さい氷球や、ガラスの截片のような不規則な多角形をしたものや、円錐形や円柱形をしたものもある。氷球は全部透明なものもあるが内部に不透明な部分や気泡を含んでいるものもある。北米合衆国の気象台で定めたスリート(sleet)というものの定義が大体この凍雨に相当している。(英国で俗にスリートと言うのは我邦の霙である。)スリートとして挙げられているものの中には、以上のようなものの外に雪片のつながったのが一度溶けかけてまた凍った事を明示するようなものや、氷球の一方から雪の結晶が角を出しているのや、球の外側だけが氷で内部は水のままでいるのもある。
次に雨氷と称するものは、過冷却された雨滴が地物に触れて氷結するものである。これが降ると道路はもちろん樹木の枝でも電線でも透明な氷で蔽われるために、道路の往来は困難になり電線の被害も多い。蝙蝠傘の上などに落ちて凍った雨滴を見ると、それが傘の面に衝突して八方に砕け散った飛沫がそのままの形に氷になっている。
凍雨と雨氷はほぼ同様な気層の状態に帰因する。すなわち地面に近く著しく寒冷な気層があって、その上に氷点以上の比較的温暖な気層のある場合に起る現象である。凍雨の方は上層で出来た雨滴が下層の寒冷な空気を通過するうちにだんだん冷却して外部から氷結し始めるということは、内部に水や不透明の部分のある事から推定される。また中層の温暖な層の上に雪雲がある場合には、そこから落ちる雪片の一部は中層を通る時に半融解して後に再び寒冷な下層に入って氷結し、前に挙げた特殊の形になるものと考えられる。雨氷の成因については岡田博士もかつてその研究の結果を発表された通り、やはり上層の雨滴が下層の寒気に逢うて氷点下に冷却され、しかも凝結の機縁を得ないために液状で落下し、物体に触れると同時に先ず一部が氷結し、あとは徐々に氷結するのである。
昨年の一月下旬、北米合衆国で数日続いて広区域にわたって著しい凍雨と雨氷があった。その当時の気層の状態を高層気象観測の結果と対照して詳細に調査したものが彼の地の雑誌に出ているのを見ると、当時の空中の状況がよく分って面白い。氷点に相当する等温線が大陸をほぼ東西に横断してその以北は雪、以南は雨が降っている、その雨と雪の境界に沿うて帯状をなした区域が凍雨や雨氷に見舞われている。この零度等温線とほぼ並行して風の境界線があり、その以北は北がかった風、以南では南風が吹いている。これは南から来る暖かい風がこの境界線から地面を離れて中層へあがりその下へ北から来る寒風がもぐり込んでいるのだという事は、当時各地で飛揚した測風気球の観測からも確かめられている。そのために中層へは南方から暖かい空気が舌を出したような形になっている。この舌状帯下の部分に限って凍雨と雨氷が降っている事が分るのである。
このような特殊の気層の状態を条件としているために、この現象が稀有でその区域の割合が狭いのである。
北米のような大陸で、ことに南北の気流の比較的自由な土地はこの現象の生成に都合が好さそうに思われる。いくら米国でもこの天象を禁止し排斥する事は出来ないので、その予報の手がかりを研究しているのである。
我邦におけるこれらの現象の記録は極めて少数であるらしい。しかし現象の性質上から通例狭い区域に短時間だけしか降らないものだとすれば、降るには降っても気象学者の耳目に触れない場合もかなりあるかもしれない。それで読者のうちで過去あるいは将来に類似の現象を実見された場合には、その時日、継続時間、降水の形態等についての記述を、最寄りの測候所なり気象台なり、あるいは専門家なりへ送ってやるだけの労を惜しまないようにお願いしたい。
これらの天象について特に興味を感ぜられる読者には岡田博士著『雨』について詳細の説明や興味ある実例を一読される事をお勧めしたい。 | スリートは降水ですか。 | はい、凍雨は降水の一種で、スリートと凍雨は同義であることから、スリートは降水の一種です。 |
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