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歴史
 1789年5月に召集された全国三部会は、たちまち議決方式をめぐって第一・第二身分と第三身分が対立した。第三身分の代表は、自分たちこそ真の国民の代表であるとして、国民議会の開催を宣言し、議場の使用を認めない国王に対して、1789年6月、憲法制定まで解散しないとして球戯場の誓いを行った。国王は軍隊を動員して国民議会に圧力を加えて解散させようとしたが結局譲歩し、三部会は解散、国民議会が7月9日に正式名称を憲法制定国民議会と改称した。  宮廷で特権身分への課税などの財政改革を進めていたネッケルが罷免されたことをきっかけに、1789年7月14日、パリの民衆が蜂起してバスティーユ牢獄襲撃の暴動が起こり、革命に転化した。農村では領主が農民を襲うと言う噂がひろがり、それにおびえた農民が、領主の館を襲うという暴動が発生した(このことを大恐怖という)。  そのような緊迫した情勢の中で、国民議会は1789年8月4日に封建的特権の廃止を決議、 1789年8月26日には人権宣言を行った。議会は当初は開明的な「愛国派」といわれる貴族が指導して、立憲王政の樹立をめざしたが、国王は議会の決議を承認しようとしなかった。おりからの凶作のために食糧が高騰したことに怒ったパリの女性たちが、1789年10月にヴェルサイユ行進を行って国王に迫り、国王は議会の決議の承認とパンを約束した上でパリに連行され、また議会もヴェルサイユからパリに移り、革命の舞台はパリの市民の眼前に置かれることになった。 社会変革への深化 この時パリに革命推進の政治組織としてジャコバン=クラブが結成され、活動を開始したがその内部では立憲君主政、穏健な共和政、急進的な共和制などさまざまな主張が対立していた。しかし当面の財政問題では結束して1789年11月に教会財産の国有化(没収)を決定し、この資産を担保としてアッシニアという国債を発行し財源に充てることとした。アッシニアは翌年、強制通用力のある紙幣に切り換えた。また1790年、議会は聖職者民事基本法を定め、教会を国家管理下に置くこととした。  このように革命が社会変革におよんでくると、保守的な地方の農民の中に不安が広がり、反発が始まった。それが後のヴァンデーの農民反乱の背景となる。また革命が進行すると亡命貴族による国外からの反革命の動きも強まり、それらと結んだルイ16世が、1791年6月、国外逃亡を図るというヴァレンヌ事件がおき、国王の失態は国民の支持を失った。  しかし、ラ=ファイエット、バルナーヴら立憲君主政を主張するフイヤン派は、王政廃止を要求する共和派と市民を1791年7月のシャン=ド=マルスの虐殺で弾圧した。ようやく国民議会は1791年9月、立憲君主政のもとで制限選挙、一院制から成るフランス最初の憲法である1791年憲法を制定して役割を終えた。一方で、オーストリア・プロイセンが1791年8月にピルニッツ宣言を出し、外国勢力の革命への干渉が強まってきた。  1791年憲法に基づき、1791年10月1日に立法議会が成立すると、立憲君主政維持を図るフイヤン派と共和政実現をはかるジロンド派が対立した。ジロンド派は革命干渉軍に対する戦争を主張して内閣を組織し、オーストリアとの開戦に踏み切った。この1792年に始まったフランス革命戦争は、1814年までヨーロッパ全土をまきこむ戦争に転化していく。緒戦でフランス軍はオーストリア・プロイセン軍に敗れ、外国軍がパリに迫る危機となったためジロンド派内閣は辞職に追いこまれ、フイヤン派が政権に復帰した。1792年7月11日に立法議会は非常事態宣言として「祖国は危機にあり」と各地の連盟兵(義勇兵)に訴えた。このとき、パリに集結した連盟兵の中のマルセイユ部隊が歌ったラ=マルセイエーズは後にフランス国歌となる。 8月10日事件 立憲君主政から共和制への転換 パリに集結した連盟兵(義勇兵)とパリ市民のサンキュロットと言われる下層民らに対し、7月14日のバスティーユ襲撃記念日に開催された連盟祭に際し、山岳派のロベスピエールは、立憲君主政を倒し、共和政を呼びかけた。ブルボン王家がオーストリアやプロイセンと内通しているという疑いが強まる中、1792年8月10日に蹶起してテュイルリー宮殿の国王を襲撃するという8月10日事件(第二革命)が起きた。パリでは急進派市民による「蜂起コミューン」が組織され、パリを敵軍から防衛するという口実で、9月2日、6日に反革命派とみなされた人々が一斉に検挙され虐殺されるという「9月虐殺」(正確にはわからないが2日間で1300人に上った)があった。それを受けて立法議会は王権停止と新議会招集を決めて解散した。代わって男性普通選挙が実施され、1792年9月20日に国民公会が招集された。その日にヴァルミーの戦いでプロイセン軍に勝利して一旦、フランス軍は劣勢を挽回したことが報じられた。翌9月21日、国民公会は王政廃止を決定し、第一共和政が開始され、9月22日から共和国第1年とすべての公文書に記載することが決まった。こうして革命干渉軍に対する革命防衛戦争が始まったことによって、軍隊の主体は近世的な傭兵に代わり、近代的な国民軍の形成をうながすことになった。
バスティーユ牢獄襲撃の暴動が起こった季節は何ですか。
バスティーユ牢獄襲撃の暴動が起こった季節は、夏です。
JCRRAG_009902
歴史
岩宿遺跡は、昭和21(1946)年に相澤忠洋(あいざわただひろ)氏により発見されました。昭和24(1949)年・25(1950)年に、明治大学考古学研究室による発掘調査により「日本列島に旧石器時代には人類が住んでいない」とされていたそれまでの学説をくつがえした遺跡として脚光を浴びました。日本最古の人類の歴史は数千年前の縄文時代から一挙に数万年前まで遡り、戦後の日本考古学の重要な出発点の1つとなりました。日本の旧石器時代を「岩宿時代」と呼ぶ研究者もいます。 岩宿遺跡は、発掘調査から30年後の昭和54(1979)年に「日本文化の起源が旧石器時代に遡ることを初めて立証した遺跡であり、しかも日本の旧石器のうちでも古い部類の石器を含んでおり、日本歴史の黎明期のあり方を知る上で不可欠の遺跡である」ことから学術研究上も重要な場として国の史跡に指定されました。
岩宿遺跡が発見される前までは、どの時代が一番古いとされていましたか。
縄文時代
JCRRAG_009903
歴史
江戸という時代は、まことに悪い時代であったに違いない。封建的で、階級的で、迷信的で、一つも取柄とりえはなかったようであるが、一方からはこんなのんきなのんびりした時代はなかったようでもある。ネコのノミをとっても一生楽に暮らせ、居候の名人になっても、一生楽に暮らせる世界は、今の世からは想像も及ばないことである。  それが移り変って、月に三十円あればと歌った、啄木の生きていた明治の代となり、三万円もなければ、どうにも暮らせない今の世の中となったのである。  古い江戸の地図や絵図面をひろげて見ると、私は一種の郷愁を感ずるのである。丸の内から話を始めると、見附みつけ見附には枡形ますがたがあり、そこは長いものを通さず、槍やりや鉄砲や梯子はしごと間違えられるので、竹ざおなどを持ちこむのに、風呂敷をかぶせて、――ヘエ風呂敷包でございますが――といって通ったということは、落語や講談の〈まくら〉につかわれている。丸の内には三百諸侯が供ぞろえいかめしくひしめき合い、天保年間の日食は一刻のまちがいで人死にができたと伝えられている。正午うまの刻こくといったのが天文方のまちがいで、午前十時巳みの刻にまっくらになったというから、笑えないまちがいである。安藤対馬守あんどうつしまのかみはここで斬られ、井伊直弼いいなおすけは桜田門を入るとき駕籠かごの中で斬られた。その首を持った有村某は、帝劇のほうへ逃げ出したという笑われない話もある。ある町人の小僧は、お使いに来てこの事件に出っくわし、土手下に隠れてふるえながら見ていたというのは、桜田門の外であろう。明治年間このへんへ遠くなく甘酒屋まで出ていたのを私が記憶しているくらいだから、万延元年の変では、そのような事があったかも知れない。  有楽町は織田有楽斎おだうらくさいの屋敷跡、いまの有楽町駅あたりに、南町奉行所があったことだろう。このへんに、遠山の金さんもおり、大岡越前守も姿を見せたにちがいない。昔の奉行は、いまの警視総監よりもさらに権力が強く、法三章な概念で裁判を片付けていったものらしい、大岡さばきにはソロモンの伝説まで織り込まれており、十中八九は信ずるに足りないが、死んだと思ったたばこ屋喜八が生きていたり、地蔵様に縄を打って引立てたり、大岡様も伝説稗史はいしに従えばなかなかにやったものらしい。  この思想――すなわち罪を憎んで人を憎まざる底ていの大岡さばきが、後世捕物小説の基本概念になったかも知れない。もっとも家事不取締で罰せられたり、御諚ごじょう百箇条的思想で人を律されては、少しぐらい手加減をして頂かなければ、人民どものほうがかなわないわけである。  泥棒伯円や小団次がはやらかしたわけでもあるまいが、悪徒には義賊と称せらるる一種のカテゴリーに編入されるものが交っていた。鼠小僧ねずみこぞうもそれであり、木鼠小僧のように、人名辞書にまで何ぺージか費やされているものもある。日本左衛門もそれであり、雲切仁左衛門もそれである。悪事はすれど非道はせずというのをモットーに、江戸中を荒らしまわった梁上りょうじょうの君子達は、ずいぶん厄介なものであったに相違ないが、われわれ貧乏人にとっては、いささか溜飲りゅういんの下がるしろものであったにちがいない。幕末に一種義賊謳歌時代をうんだ原因でもある。  昔といえども、徹底的な悪人はないではない。不幸にして江戸時代には、そんな化け物はあまり伝わらず、明治以後、大正、昭和の悪人は、芝居に出て来る敵役にその例を見るだけである。  汚職というのは昔からあったにちがいなく、田沼父子のごときは、その代表的なものとされている。しかし汚職で建てた蔵は、やがてつぶれるにきまっており、少なくとも終を完まっとうした例はない。昔はずいぶん、わいろをむさぼった役人も少なくなかったが、その反面には一紙半銭も私にしないといった、恐るべき頑固一徹な人達も少なくなかったのである。筆者はむしろ、そういった正直者の多かった例をうんと知っている。
私は何に郷愁を感じているのですか。
私は東京と同じ場所にあたる江戸を照らし合わせて、今は無き風景に懐かしさを馳せている。
JCRRAG_009904
歴史
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男として生まれる。母は菊亭(今出川)晴季の娘。兄は信之。天正十三年(一五八五)上田城が徳川家康の軍に攻撃されたとき、父や兄とともにこれを迎撃して敗退させた。その後、父昌幸が上杉氏と結んだため一時景勝のもとに預けられたが、同十五年昌幸が豊臣秀吉へ帰属するに及び秀吉の近侍となり、大谷吉継の娘を妻とした。十八年の小田原征伐では父や兄とともに出陣、中山道の先鋒として功をあげ、文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵時には名護屋まで出陣した。同三年に従五位下左衛門佐に叙任。慶長五年(一六〇〇)六月、徳川家康が上洛催促に応じない上杉景勝を討伐するため会津へ兵を動かした時、幸村は父や兄とともに従軍、七月二十七日下野国犬伏まで来たところ、上方で石田三成が兵をあげたとの情報を得た。兄の信之は、その妻が本多忠勝の娘である関係もあって徳川方に属したが、幸村は豊臣氏の旧恩に報じるため父昌幸とともに西軍に与して居城の上田城に拠り、中山道から西上する家康の子秀忠の率いる大軍を遮り、大いに戦功をあげた。このため秀忠は、九月八日にようやく木曾路を西上したが、関ヶ原の戦には参陣できなかった。結局、西軍が大敗したため、家康によって所領は没収され、昌幸・幸村とも生命が危うくなったが、東軍に属した信之の嘆願によって死を免れ、紀伊国高野山の麓九度山に蟄居することになった。同十九年大坂城で挙兵した豊臣秀頼の招きに応じて、幸村は十月九日手勢を率いて九度山を発ち大坂入城、同年の冬の陣では大坂城南天王寺口外堀の外に城塁を築き(世にこれを真田丸と称する)、これに拠って徳川方の軍を大いに悩ませた。翌元和元年(一六一五)夏の陣がおこると、幸村は大坂方の中心人物の一人として活躍したが、先に冬の陣の講和に際して総構を破壊され、三ノ丸まで埋められたことから、籠城は不可能だとして、城外に徳川軍を迎撃することにした。そして五月六日、後藤基次・薄田兼相らとともに大和口を防ごうとして、河内国片山道明寺へ赴いたが、基次らが敗死したので、手兵三百を率いて殿軍をつとめ、伊達政宗の大軍と戦い、これを破った。翌七日、幸村は長宗我部盛親とともに茶臼山に向かい、天王寺付近で松平忠直の軍と戦い、一時は徳川方の本陣に迫って家康を危機に陥れたが、衆寡敵せず、ついに忠直の家臣西尾仁左衛門の手にかかって戦死した。時に四十九歳。追号は大光院殿月山伝心大居士。葬地は不明。なお、世に幸村は生きのびて秀頼を奉じ、薩摩に遁れて島津氏を頼ったとの説もあるが、信じることはできない。
安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した、真田昌幸の次男の名前は何ですか。
真田昌幸の次男の名前は、信繁です。
JCRRAG_009905
歴史
 豊臣政権で5大老の1人に名を連ねた宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、備前・美作・備中東部57万4千石の大大名であった。備前は法華宗(日蓮宗)の信徒が多い土地柄であったが、秀家自らはキリシタンに改宗し、領民や家臣にも改宗を強いた。これに、宇喜多家内部の武断派と吏僚派による対立も生じていた。武断派は譜代門閥であった坂崎成政・花房職之・戸川達安らであり、吏僚派は譜代ではなく近習上がりの浮田太郎左右衛門、秀家の妻・豪姫に前田家から付き従ってきた長船綱直らであった。結果として、秀家はこれら武断派を追放することになる。代わって台頭した吏僚派は、すべてキリシタンに改宗している。  こうした御家騒動が、宇喜田家内に動揺と不安を与えた。そこで秀家は、思い切って家臣団の1人で、しかもキリシタン(洗礼名はジョバンニ)であった通称を掃部頭(かもんのかみ)といった明石全登(あかしてるずみ)を、筆頭家老として起用した。  全登は、不思議なことに生没年が不明の人物であるが、父は宇喜田家の家臣でる保木山城主・明石景親、母は秀家の父・直家の異母妹である洗礼名・モニカと伝えられる。全登の妻も、直家の娘であったから、秀家とは義兄弟になる間柄であった。全登は、父の後を継いで保木山城3万3千石の城主であった。この全登が、この後は宇喜田家の治世・軍政に采配を振るうことになる。  一時は豊臣秀吉の養子にもなったことがある秀家であったから、豊臣家には大きな恩顧があった。やがて、その豊臣秀吉が逝き、徳川家康が勢いを増した。それが「関ヶ原合戦」に繋がる。秀家は、当然のことながら西軍・石田三成につく。西軍最大の兵力である1万7千を擁した宇喜多勢は、関ヶ原では迷いなく東軍と敵対する中央最前線に堂々と布陣した。そして慶長5年(1600)9月15日早朝、宇喜田陣営からの攻撃で戦闘が開始された。明石全登の指揮で、宇喜多勢は福島正則軍とぶつかった。関ヶ原合戦で、最も激しい戦い、とされる激突であった。 一進一退の激闘の最中、味方であるはずの小早川秀秋の1万5千が、突然東軍に寝返った。秀秋も一時は秀吉の養子であった関係から秀家は、秀秋とは親しかった。その秀秋の裏切りである。怒った秀家は、小早川陣営に単騎で躍り込むと意気込んだ。それを止めたのが全登であった。「再度の決戦に備えて命を惜しみ、戦場離脱を謀るべし」というのが明石全登の説得であった。秀家は、その言葉に従って戦線を離脱し、遠く薩摩に逃げ延びることが出来た。  そして、全登は東軍の黒田長政の陣営を訪れて降伏を申し出た。長政と父・黒田如水(くろだじょすい)は全登と血縁関係があり、その縁を頼ったのである。全登は許されて出家し「道斎」と名乗る。  さらに時間が経過して、慶長19年(1614)、大坂の陣勃発の直前、明石全登は大坂方から誘われ、大坂城入りを果たす。時代が明石全登という存在を放ってはおかなかったのである。そして翌年、大坂夏の陣では真田信繁、後藤又兵衛らを援護して徳川軍と戦った。細川忠興も国許への書状で、真田・後藤と並べて「明石掃部(かもん)手柄にて」と記すほどであった。しかし大坂落城後、唯一徳川方の重包囲網を突破した全登の消息は、ぷつりと途絶えたままであるという。
明石全登が信仰していた宗教は何ですか。
明石全登が信仰していた宗教はキリスト教です。
JCRRAG_009906
歴史
江戸時代初期では大名や豪商など、お金を持った人しか茶の湯を楽しむことはありませんでしたが、中期になると大名から町人まで多くの人が親しむようになりました。 たくさんの人が茶の湯を楽しむようになりましたが、新しく茶の湯を学ぶ人たちを誰かがまとめなくてはいけません。 そこで、現在も続く「家元制度」が確立しました。 茶の湯における三つの流派、表千家・裏千家・武者小路千家を総称して「三千家」と呼びます。 この三千家がたくさんの門弟をまとめたことで、全国各地で茶の湯が親しまれるようになりました。 一方で、一般の庶民には抹茶ではなく、茶葉を煎じた飲み物のお茶「煎茶」が普及していきました。 1738年(元文3)、煎茶の祖と呼ばれている永谷宗円という茶業家が、お湯で茶葉を蒸したあとに乾燥用の作業台で手もみする「宇治製法」という方法を考え付きます。 この製造方法によって、現在のお茶に近い、香りが良く、甘みがあって、鮮やかな薄緑色をした煎茶が生み出されたのです。 江戸幕府がアメリカと日米修好通商条約を結ぶと、鎖国をしていた日本は開国し、他国との貿易を開始します。 この貿易で、日本が輸出していたのは生糸や蚕の卵のほかに、お茶も多く輸出していたといいます。
宇治の所在地はどこですか。
宇治の所在地は京都府です。
JCRRAG_009907
歴史
平城京の魅力は既に失われており、桓武天皇の遷都決意は必然的な流れでした。遷都後も平安京の造営を段階的に進めていく一方で、桓武は予てより課題であった東北支配にも着手しました。桓武の2大事業「軍事と造作」は大変な人手を要しましたが、その後の行方はどうだったのでしょうか。ここに平安京が今日「未完の都」と称される所以があります。 鎌倉時代の随筆として、鴨長明の『方丈記』が知られています。この随筆で、鴨長明は嵯峨天皇が平安京を都に定めたと述べています。平安京遷都は、794年に桓武天皇が決めたはず。これはどういうことでしょうか。教科書で曖昧に誤魔化される、非常に難解な「薬子の変」を詳細に見ることで、この謎を解明していきましょう。 701年、大宝律令の完成で日本は律令国家として再編されました。当初律令は上手く機能していました。国司はやる気に満ち、勧農に励んで口分田からの収穫を増やそうとしました。しかし、月日を経るなかで徐々に国司は不正を働き、律令が社会の変化に対応しきれなくなりました。朝廷は対応に追われるが、次第に修正不可能になっていきました。 桓武天皇による遷都の狙いは、南都(平城京)の仏教勢力抑制にありました。僧玄昉・道鏡、特に道鏡は国費を寺院造営に大量投入して、仏教界の腐敗を招いた。それゆえ桓武は仏教界改革のために、南都の仏教に代わる新たな仏教の登場を期待しました。やがて期待に応えて2大仏教が登場し、仏教界に新たな風を吹かせました。
平安京の遷都を決めたのは誰ですか。
平安京の遷都を決めたのは桓武天皇です。
JCRRAG_009908
歴史
現代インドのダイヤモンド加工業 15世紀以来、世界のダイヤモンド取引を独占してきたのはユダヤ人商人だった。現在でも世界のダイヤモンド産業は、南アフリカ発祥でロンドンに本社を置くユダヤ系のデビアス社の統制下にあり、原石の買い付け、研磨加工はイスラエルとインドの企業によって行われている。研磨加工ではイスラエルは高品質、インドが中低級を扱うという棲み分けができている。 インドのダイヤモンド加工業は、ITや医薬品とならび、国際競争力を持つ重要産業になっている。ダイヤモンド原石を輸入してカット・研磨して輸出するビジネスで、インドは圧倒的な地位を築いており、そのシェアは金額ベースで55%、数量ベースで92%に及んでいる。日本で流通するダイヤモンドの大半はインドで加工されたもので、東京の御徒町には多くのインド人宝石商が店舗を構えている。 インドはダイヤモンド原石をUAE、ベルギー、ロシア、カナダ、アンゴラ、ボツワナ、ナミビアなどから輸入し、カット・研磨してアメリカ、日本、香港、ヨーロッパなどに輸出しているが、国内消費も多い。インドのダイヤモンド加工業が急成長したのは戦後のことで、1960年代にグジャラート州スーラトで始まり、ムンバイが近いこともあって急成長した。原石を安価な労賃で人海戦術で加工・研磨する労働を担ったのはジャイナ教徒だった。ジャイナ教徒は不殺生を厳格に守るベジタリアンで、虫を殺せないために農業には従事できなかったことから、宝石ビジネスに参入してきた。現在ではグジャラートでダイヤモンドのカットと研磨に従事している職人は400万人に及んでいる。2022年のウクライナ戦争では、制裁措置のためロシアからのダイヤモンド原石の輸入が滞り、ダイヤモンド加工業も打撃を受けたが、非正規労働者の解雇は多くなったものの、中低品質の加工ではインドの競合国は無いので、今後も成長が続くと予想されている。
1960年代からグジャラートで、ダイヤモンドの原石を加工・研磨する労働を担っていた人はどのような人でしたか。
不殺生を厳格に守るベジタリアンであり、虫を殺せないために農業に従事できなかったジャイナ教徒。
JCRRAG_009909
歴史
607年、小野妹子が遣隋使として派遣され、隋の皇帝煬帝に国書を渡しました。 国書の名前が『隋書』倭国伝といいます。 大王「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」 大王も「天子」という称号を名乗り、隋と対等な立場を主張 煬帝「蛮夷の書、無礼なる者有らば、復以て聞する勿れ」 倭王(中国からの大王の称号)も「天子」と名乗ったことに憤慨しました。 煬帝は裴世清を倭国に派遣しました。 憤慨の一方で、高句麗との対立上倭国は無視できない存在となっていました。 608年、小野妹子が再度派遣され、隋に国書を届けました。 『日本書紀』(720年に編纂) 大王の称号に「天皇」を使用(『日本書紀』の編者による文飾) …中国から与えられた称号「倭王」を忌避 留学生高向玄理(たかむこのげんり)、学問僧旻(みん)・南淵請安(みなみぶちしょうあん)も隋に派遣されました。 天皇号 7世紀後半からの使用開始が有力説 高向玄理・旻 大化改新で活躍しました。 隋の滅亡、唐の建国では、 隋が高句麗の征討に幾度も臨むと、国内で反乱が起きました。 618年、隋が滅亡して、唐が建国されました。 630年、犬上御田鍬が遣唐使として派遣されました。 以降も、菅原道真が894年に廃止を建議するまでしばしば派遣されました。 607年、小野妹子が遣隋使として派遣され隋の皇帝煬帝に渡した国書の正式名称はなんでしょうか。
607年、小野妹子が遣隋使として派遣され隋の皇帝煬帝に渡した国書の正式名称はなんでしょうか。
607年、小野妹子が遣隋使として隋の皇帝煬帝に渡した国書の名前は『隋書』倭国伝である。
JCRRAG_009910
歴史
 北九州6ヵ国を制圧し、残るは島津氏が領した南九州の日向・薩摩・大隅だけになり、その制覇まで目論んだ大友義鎮(宗麟/おおともよししげ)は、一方でキリシタン大名であり、大村氏・有馬氏とともにヨーロッパに天正少年使節団を派遣した人物としても知られる。だが女性好きで、幼少時代からかなりな乱暴者であったともいわれる。そうした人間的な欠陥が、大友宗麟をして、家の破滅に追い遣ったともいえる。  義鎮(宗麟)は、享禄3年(1530)、大友家17代・義鑑(よしあき)の長男として豊後府内(大分市)で生まれた。幼名を塩法師丸という。だが、義鎮は先見性があり、頭も良かったが、幼少時代から気が荒く、近習を怪我させたり、自分の家臣でも少しでも気に入らないことがあると、すぐに手討ちにするなど、その性格に問題があった。こうしたことから、父・義鑑は、義鎮の弟・塩市丸(しおいちまる)が聡明であったことから、家督を塩市丸に譲ろうと考えた。そのために大友家の家臣団は、2派に分かれてしまうという分裂が起きた。  おそらく義鎮が景で糸を引いた結果であろうが、天文19年(1550)、義鎮が別府温泉に行っている間に、義鑑と塩市丸、その生母(義鑑の側室)などを義鎮派の重臣が殺した「二階崩れ(現場が二階であったことから、名付けられた)」と呼ばれる事件が起きた。  これによって大友家を相続した義鎮は、北九州とそれに隣接する本州・中国地方(安芸・周防・長門など)までを射程に入れて、快進撃を開始した。すべてが先見性(鉄砲や石火矢など新兵器を駆使する戦術を展開)のゆえであった大友家の版図は、本国・豊後の他に豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職を独占し、北九州6ヵ国を支配する大大名になったのである。  永禄5年(1562)、京都・大徳寺から高僧の帷雲和尚を招いて得度・剃髪して「瑞峯宗麟」の法号を受けた。この時点では仏教徒であった。九州制覇をもくろむ宗麟は、残る3ヵ国(日向・薩摩・大隅)を支配する島津氏とぶつかった。この前年に天正6年(1578)7月に、宗麟は仏教を捨ててキリスト教に改宗する。それは、宗麟が20代の頃に、豊後国内においてキリスト教の布教を許していたことと、それが新しい西洋のもつ武器・弾薬などを得る手段にも繋がっていたことによる。キリスト教に改宗した宗麟は「ドン・フランシスコ」と洗礼名を名乗る。そして、島津使徒の決戦場・日向に向かう途中にある神社仏閣などを端から壊して回った。この時に、宗麟はキリスト教への入信を拒む正室を排して新しく夫人を迎えている。宗麟は家臣の妻を無理矢理、側室にするなどの無道も兵であった。  重臣で軍師の立花道雪(たちばなどうせつ)は再三にわたり諫言したがそれを聞き入れる宗麟ではなかった。道雪は、宗麟を見限り、大友家を去っている。 天正7年、島津軍と大友軍が激突した「耳川合戦」で、宗麟は手痛い敗北を蒙る。大友軍は2万もの死傷者を出して大敗したのだった。宗麟は、援助を豊臣秀吉に求めることになる。大友家は衰退し豊臣系の大名になった。宗麟は、失意のうちに天正15年(1587)病死する。享年57。
ドン・フランシスコと名乗ったキリシタン大名は何という合戦で大敗しましたか。
ドン・フランシスコと名乗ったキリシタン大名は耳川合戦で大敗しました。
JCRRAG_009911
歴史
承久の乱後、3代執権の北条泰時は、合議で最高政務・裁判をおこなう体制を整えました。また、武家最初の体系的法典である御成敗式目を制定しました。次第に執権政治は確立されていき、幕府の政治は新しい段階に入りました。しかし、北条氏は5代執権の頃に独裁的な性格を強め、合議も北条氏出身の者のみでおこなわれていきました。 裁判基準の成文化 幕府成立以来、御家人同士の紛争や、御家人と荘園領主の紛争が相次ぎました。 1232年、御成敗式目(貞永式目)制定 北条泰時が作らせた最初の武家法典 後の武家法にも大きな影響 源頼朝以来の「先例」、武士の慣習・道徳である「道理」に基づき、地頭・守護の任務と権限や、紛争を裁く基準を成文化 弟北条重時へ宛てた手紙のなかで、御成敗式目の内容のことや、御成敗式目が律令や貴族社会の規則である公家法を否定しないと説明 全51カ条で、後に追加した条文を式目追加と呼称
1232年に制定された、武家最初の体系的法典は何ですか。
1232年に制定された、武家最初の体系的法典は、御成敗式目です。
JCRRAG_009912
歴史
加速する国風化の背景 公的な交流の断絶―背景1 894年、菅原道真は次の2点を理由に遣唐使中止を建議しました。 唐の衰退 渡航の危険性(8世紀初めからの航路:南路) 唐との公的な交流は断たれました。 ①②の他に、唐の商人との貿易を確立でき、公的な交流が不要になったから 907年、唐が滅亡し、その余波で周辺の国々に興亡が生じました。 中国は宋に再統一され、中国東北部の渤海ぼっかい は契丹(遼)に滅ぼされました。 また、朝鮮半島の新羅は高麗に滅ぼされました。 公的な交流はありませんでしたが、宋・高麗の商人が九州博多によく来航しました。 僧以外の日本人の渡航は律で禁止 中国への関心低下―背景2 9世紀末以降、中国の物品以外(文化・制度)に対する貴族の関心が低下していました。 中国に倣った事業のうち、醍醐天皇は正史(六国史 りっこくし )編纂を、村上天皇は貨幣(本朝十二銭)発行を止めました。 国文学と国風美術の発達 文字の発達 漢字をもとにしたかな文字(平がな:草書体の簡略化、片かな:字の一部分)が発達しました。 公式な文書でのかな文字の使用は避けられましたが、物語や日記では広く使われました。 代表的な著作物 かな物語 『竹取物語』 かぐや姫の誕生や貴族の求婚失敗などを描く、最古のかな物語 『伊勢物語』 主人公のモデルが在原業平 ありわらのなりひらである、和歌を中心とした歌物語集 『源氏物語』 11世紀初め、紫式部が光源氏の生活を題材に著したかな物語 随筆・日記 『土佐日記』 10世紀に土佐国で国司を務めた紀貫之 きのつらゆき の日記 『蜻蛉かげろう日記』 藤原道綱の母の作で、藤原兼家に嫁いだ女性の苦悩を記した日記 『更級さらしな日記』 菅原孝標たかすえの女むすめ作で、少女時代からの体験を記した日記 『枕草子』 11世紀初め、清少納言が宮廷生活の体験を著した随筆 『小右記』 藤原道長の「望月の歌」を書き留めた藤原実資の日記 『御堂関白記』 藤原道長が宮廷政治と日常生活の様子を記した日記 和歌集 『古今和歌集』 醍醐天皇の勅命で紀貫之らが編纂した勅撰和歌集 八代集 『古今和歌集』から『新古今和歌集』(鎌倉時代)までの、8つの勅撰和歌集の総称 国風美術 蒔絵まきえ 漆で文様を描き、金銀の粉を固着させる漆器の技法 螺鈿らでん 貝殻の一部を薄く剥ぎ、種々の形に切って漆器に埋め込む技法 大和絵 日本風景を題材とする絵画で、初期の画家は巨勢金岡こせのかなおかが有名 和様 唐様からように対する日本風の書体 小野道風おののとうふう・藤原佐理 さり(離洛帖りらくじょうが有名)・藤原行成ゆきなり の3人は、和様の達筆家として知られ、三蹟と総称 語呂 唐風(道風とうふう)は去り(佐理さり)て行くなり(行成 ゆきなり ) 信仰の発達 浄土教の布教 釈迦の死没後2000年が経つと(1052年以降)、釈迦の教え(解脱の方法)は効果を失い、また、世の中は乱れるという考え末法まっぽう思想が一部の者のなかにありました。 これらの者は、死後に阿弥陀仏(如来)の慈悲で仏の世界(極楽浄土)へ往いき(往生)、そこで仏の直接指導のもと解脱を遂げればよいとする教え浄土教を人々に説きました。 貴族や庶民に浄土教は広がり、信仰の対象である阿弥陀仏の美術品が作成されました。 浄土教に関わる人物と著作 空也 10世紀、京の市で浄土教を説き、「市聖いちのひじり」と呼ばれた人物 源信(恵心僧都) 念仏による往生を説き、『往生要集』を著した人物 慶滋保胤よししげのやすたね 往生した人の伝記を収録する『日本往生極楽記』を著した人物 浄土教と美術 寺院と仏像 法成寺 藤原道長が創建した、阿弥陀堂を中心とする寺院 平等院鳳凰堂 藤原頼通が建立した平等院の阿弥陀堂 本尊の阿弥陀如来像は定朝の作 定朝 末法思想を背景とする仏像の大量需要に応えるため、一木造に代わる寄木造の技法を完成させた人物 絵画 来迎図 死者の往生のために、阿弥陀如来が来迎する様子を描く絵画の総称 浄土教以外の信仰 経塚 写経した経典を筒に入れて土中に埋納し、その上に築いた塚 本地垂迹ほんじすいじゃく 説 仏教信仰に神祇じんぎ信仰の要素が融合する神仏習合のなか、神と仏の並存状態を説いた理論 人の救済のため、仏(本地ほんじ)が神という仮の姿(垂迹すいじゃく)で現れたと納得・説明 御霊会 災いを起こす怨霊(例:菅原道真)や疫神を慰め、祟りを逃れようとする鎮魂の祭礼
漢字をもとにした代表的な随筆・日記はいくつありますか。
漢字をもとにした代表的な随筆・日記は6作品です。
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歴史
607年、小野妹子が遣隋使として派遣され、隋の皇帝煬帝に国書を渡しました。 国書の名前が『隋書』倭国伝といいます。 大王「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」 大王も「天子」という称号を名乗り、隋と対等な立場を主張 煬帝「蛮夷の書、無礼なる者有らば、復以て聞する勿れ」 倭王(中国からの大王の称号)も「天子」と名乗ったことに憤慨しました。 煬帝は裴世清を倭国に派遣しました。 憤慨の一方で、高句麗との対立上倭国は無視できない存在となっていました。 608年、小野妹子が再度派遣され、隋に国書を届けました。 『日本書紀』(720年に編纂) 大王の称号に「天皇」を使用(『日本書紀』の編者による文飾) …中国から与えられた称号「倭王」を忌避 留学生高向玄理(たかむこのげんり)、学問僧旻(みん)・南淵請安(みなみぶちしょうあん)も隋に派遣されました。 天皇号 7世紀後半からの使用開始が有力説 高向玄理・旻 大化改新で活躍しました。 隋の滅亡、唐の建国では、 隋が高句麗の征討に幾度も臨むと、国内で反乱が起きました。 618年、隋が滅亡して、唐が建国されました。 630年、犬上御田鍬が遣唐使として派遣されました。 以降も、菅原道真が894年に廃止を建議するまでしばしば派遣されました。
608年に小野妹子が再度派遣され、隋に国書を届けましたがその際に同席していた人数は何人か教えてください。
608年、小野妹子に同席した者は留学生高向玄理(たかむこのげんり)、学問僧旻(みん)・南淵請安(みなみぶちしょうあん)の3人です。
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歴史
 織田信長が、浅井・朝倉連合軍と姉川で戦っている頃、奥州・東北を舞台に権謀術を駆使して中小豪族との戦いを有利に運んだのが最上義光(もがみよしあき)である。  義光は天文15年(1546)、出羽・山形に生まれた。父・最上義守(よしもり)との葛藤は成人する頃から始まり、後には最上家の主導権争いから、父親によって幽閉される。そこから脱出して、反逆のクーデターを起こし、逆に父・義守を隠居に追い込み、義守が家督を相続させようとしていた弟・義時を殺して、最上家の跡目を継いだほが、元亀元年(1570)、義光25歳のことである。  信長を中心にした中央での覇権争いとは、まったく別のところで義光は徐々に領土を拡大していく。その過程では、谷地領主・白鳥長久(しらとりながひさ)をだまし討ちにした事件などが、その権謀ぶりを語るものとして残っている。白鳥の娘と、義光の長男・義康(よしやす)との婚儀を進めて白鳥の油断を誘い、自らは重病を装って山形城内に籠もると、白鳥は病気見舞いに訪れた。義光はこの白鳥を山形城内で暗殺して、谷地を自分のものとしたのだった。  こうした謀略は、義光の得意芸のようなもので、他にもいくつかの小豪族をこうした騙し討ち同然のやり方で殺し、領地を奪っている。義光の妹・義姫(よしひめ)は伊達輝宗(だててるむね)の正室であり、伊達政宗の生母である。こうした姻戚関係にもかかわらず、義光と政宗の仲はむしろ険悪なものになっていく。こうした中で、母・義姫による政宗毒殺未遂事件も起きる。  文字通り、義光にとっては「この世に恐ろしいものなど何もない」と豪語したくなるほどであったが、ただ1人、義光の背筋が凍るほどの恐怖を感じさせたのが、豊臣秀吉であった。この時、義光45歳。  天正18年(1590)の秀吉による小田原・北条攻めで、最上義光は参陣が遅れた。後に参陣が遅れた奥羽の諸大名は、はじから領地を取り上げられることになる。伊達政宗とてそうした運命にあったが、秀吉の気まぐれによって政宗は一命と領地を守ることが出来た。義光の場合は、遅参した際に以前から親交のあった徳川家康の取り成しで何とか無事に領地を保全された。  このおそろしいばかりの秀吉の実力と処断の激しさに、義光は「驍将(ぎょうしょう)」の誉れも忘れて、以後は「天下人・秀吉」の歓心を買うことばかりに集中した。奥州征伐の大将として山形を訪れた関白・秀次の目に止まった娘・駒姫12歳を、喜んで側室に差し出したり、2男・家親(いえちか)は家康の近侍に差し出し、3男・義親(よしちか)を秀吉後継の秀頼に仕えさせたりした。  しかし駒姫は、秀次失脚の巻き添えとなって処刑されている。義光は、秀吉没後の関ヶ原合戦では、家康の東軍に参陣し、伊達軍とともに上杉景勝の軍勢と戦った。戦後、この論功行賞によって山形57万石を与えられた。念願の山形掌握に成功した義光は、大大名となった。  だが2男・家親に家督を譲る過程で嫡男・義康を殺害せざるを得なくなるなど、不幸も見舞うる。義光は慶長19年(1614)3月20日、69歳で病死する。その没後、御家争いが起きて、最上家は改易となる。  後に、このような生き方をした義光をして「驍将」と呼ぶこともある。驍将とは、「」強く勇ましい武将」「力強く物事を推進する武将」を指す言葉だが、出羽・山形藩57万石の藩祖となった義光には、ある意味で相応しい呼び方かも知れない。  謀略に開け暮れたように思える義光の生き方であるが、その半面で文化人としての教養もあり、「智・仁・勇の三つの徳を兼ね備えた人物」という評価もあるという。それが「驍将」という讃辞になったのもと思われる。
最上義光には少なくとも何人の子供がいましたか。
最上義光には少なくとも4人の子供がいました。嫡男の義康、2男の家親、3男の義親、娘の駒姫です。
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歴史
サンフランシスコ平和条約の発効に伴い、GHQ制定の多くの法令が失効しました。吉田内閣は、アメリカの再軍備要求をうけながら、様々な政策と法整備を実施しました。しかし、一連の動きは、占領政策の成果を否定する「逆コース」と非難されました。その後、米国依存の是非をめぐって保守・革新が対立し、55年体制が成立しました。 日米新安全保障条約をめぐる世論分裂をうけて登場した池田内閣は、所得倍増を旗印に、高度経済成長の追求を政策の中心に置きました。池田は、これを政治の世界に持ち込み、国民に1つの目標を示すことで、安保問題の傷跡の修復を図ろうとしました。この戦略は大きな成功を収め、佐藤栄作の保守安定政権への途が確立されました。 1955~57年に「神武景気」と呼ばれる大型景気を迎え、1956年度の『経済白書』に「もはや戦後ではない」と記されました。日本経済は、復興から経済成長へと舵を切り、1973年までの年平均経済成長率は、10%を上回りました。高度経済成長の達成の一方で、旧来の農村漁村の在り方が崩壊し、交通事故や公害の問題が吹き出しました。 田中角栄内閣以後も、自民党の一党支配は崩れませんでした。1989年1月、昭和天皇が崩御し、元号は平成と改められましたが、この間の日本の政治は、経済・社会の安定に支えられて、大きな変化を伴うことなく、小さな波瀾を繰り返しました。時間的にそれほど隔たりをもたないこの時代の評価は、後世に評価を委ねなければなりません。
1973年までの日本の年平均経済成長率は、それまでと比べて何%を上回りましたか。
1973年までの日本の年平均経済成長率は、それまでと比べて10%上回りました。
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歴史
19世紀末までのヨーロッパ列強によるアフリカ分割の中で、第二次世界大戦前に独立国だったのは、エチオピア、リベリア、エジプトだけでした。第二次世界大戦後、独立運動が盛んになると、アフリカの植民地が次々と独立していきました。 1956年、モロッコがフランスから独立しました。 1956年、チュニジアがフランスから独立しました。 1957年、ガーナがイギリスから独立しました。 1960年には、17ヵ国が独立を果たし、この年は「アフリカの年」と呼ばれます。独立したのは、セネガル、モーリタニア、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ、トーゴ、ダホメ(現在のベナン)、ニジェール、チャド、中央アフリカ、カメルーン、ガボン、コンゴ、マダガスカル(以上旧フランス領)、ナイジェリア、ソマリア(旧イギリス領)、コンゴ(旧ベルギー領コンゴ。後にザイール、現在のコンゴ民主共和国)です。 1962年、アルジェリアがフランスから独立しました。 アフリカ植民地の中で独立が遅れたのは第二次世界大戦後もサラザール、さらにカエターノによる独裁政権が続いていたポルトガルのアフリカ植民地でした。1960年代に、ポルトガル領のギニアビサウ、アンゴラなどでも激しい独立運動が始まり、本国の独裁政権によって厳しく弾圧されましたが、植民地戦争の継続は独裁政権の内部矛盾も深めることとなり、1974年に独裁政権が倒されてポルトガルの民主化が進んだことによって、ようやく独立承認の動きが実現しました。1974年9月の西海岸のギニアビサウを皮切りに、アンゴラ、東海岸のモザンビークが独立を達成しました。
アフリカの植民地で、独立が最も遅かった3国を教えてください。
アフリカの植民地で、独立が最も遅かった3国は、ギニアビサウ、アンゴラ、モザンビークです。
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歴史
ナポレオン戦争とウィーン体制 1801年、イギリスはアイルランドを併合し、大ブリテン島とアイルランド島を一体化、「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。連合王国という形式であるがイギリスはブリテン島とアイルランドを統合した国家となった。19世紀初頭は、フランスとの第2次百年戦争を継続し、ナポレオン戦争を展開した。また、ナポレオンの大陸封鎖令に対抗して逆封鎖を行ったため、中立国アメリカ合衆国との間で1812年にアメリカ=イギリス戦争が起こった。 この間、政治家ピットや軍人ネルソン、ウェリントンらの活躍もあって、ついにその侵略を許さず、対ナポレオン戦争に勝利して、ウィーン会議ではウィーン議定書(1815年6月)によってケープ植民地、マルタ島、スリランカ(セイロン島)、イオニア諸島(ギリシア西岸)を獲得した。この結果、大ブリテンとアイルランドの合同に際して作られたユニオン=ジャックを靡かせたイギリス艦船が、世界の海にひろがっていくことになった。 ウィーン体制とイギリス イギリスは19世紀前半のウィーン体制の国際社会の中で優位に立ち、フランスを抑えるための四国同盟を提唱した。これには復古王政となったフランスが加わり、五国同盟となって、一種のヨーロッパの集団安全保障的な機能を果たすことになった。しかし、一方でロシアが提唱した神聖同盟にはイギリスは加わらなかった。 その後、ウィーン体制諸国はロシア主導で保守化を強め、ラテンアメリカ諸国への介入を復活させたことに対し、アメリカ合衆国がモンロー教書を出して反発すると、イギリスはそれを支持した。さらに東方問題などで互いに対立するようになり、ギリシア独立戦争ではイギリス国内のバイロンなどのギリシア愛護主義の盛り上がりもあって介入し、1827年のナヴァリノの海戦ではフランス・ロシアと共同で海軍を派遣しオスマン帝国海軍を破った。1830年のロンドン会議でギリシアの独立は承認された。 同1830年のフランス七月革命の影響で始まったベルギー独立では、パーマーストン外相はその独立を支持し、しかもベルギー中立化を実現して自国の安全保障とした。こうしてイギリスは次第に大陸のウィーン体制諸国とは距離を置くようになり、圧倒的な海軍力を背景に孤立を恐れない外交路線を採るようになった。 ヴィクトリア女王の即位 ジョージ3世の60年にわたった長い統治が1820年におわり、ジョージ4世(在位1820~30)・ウィリアム4世(在位1830~37)が続いたが、この二人は素行上に問題がありイギリス君主制は存続の危機を迎えた。1837年、そこに登場した18歳の“かわいらしい”ヴィクトリアの登場は、国民の王室離れをとどめる効果があった。ハノーヴァー朝の国王はイギリス連合王国の王位とドイツの領邦ハノーヴァーの王位を兼ねていたが、ハノーヴァーではゲルマン人の伝統であるサリカ法が女子の王位継承を認めていないので、ヴィクトリア女王の即位に伴い、連合王国とハノーヴァー王国との連合王国関係は解消された。
ヴィクトリア女王が即位する前に即位した王の中で在位が短い王は誰ですか。
ウィリアム4世
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歴史
俳諧とは、正しくは「俳諧の連歌」もしくは「俳諧連歌」とよび、滑稽な連歌という意味があります。 伝統的な連歌の形式を生かしつつ、滑稽な言葉(俗語や漢語など)を盛り込んだもののことを指します。 詩という日本文芸の一ジャンルとして独立していくにつれ、略称の「俳諧」という言葉が広く伝わりました。 古代の時代から人々は自分たちの心情や、自然の美しさを表現するために和歌を詠んできました。 和歌のつよい影響から生まれた連歌から派生して生まれた俳諧の歴史も、辿ると平安時代までさかのぼることができます。 日本で最初の勅撰和歌集『古今和歌集』巻19には58首の和歌が「俳諧歌」として収録されています。 和歌の内容は滑稽なものばかりで、俳諧の原点がここにありました。 また、平安末期の藤原清輔は歌学書『奥義抄』で俳諧の本質は、「その場その場で歌を詠む即興性やその才能にあって、連歌が正しい系統なのであれば、その逆を大事にすることで、自然や人間の真実に迫ろうとする文芸」だとしました。 この考えは、江戸時代まで引き継がれることになります。 1357年(延文2)、日本で最初の連歌の准勅撰集『菟玖波集』の「雑体連歌」のなかに「俳諧」に分類した部門があります。 この頃はまだ、俳諧として独立したジャンルを築くことはありませんでしたが、15世紀に入り、1499年(明応8)、日本で最古の俳諧撰集『竹馬狂吟集』が編まれました。 『竹馬狂吟集』は、下品な笑いや大らかな滑稽を中心に詠まれています。 それから約40年後に成立したと思われる山崎宗鑑が編纂した『犬筑波集』(『俳諧連歌集』)や、1540年(天文9)に成立し、伊勢神宮の神官である荒木田守武の俳諧の千句形式(千の句を続けて詠んだもの)を初めて確立させた『守武千句』は、どちらも大らかな笑いにあふれた作品です。 山崎宗鑑と荒木田守武は、俳諧の祖と称され、文芸としての俳諧を世の中に広めた立役者でした。 俳諧は江戸時代(17世紀)に入ると、松永貞徳を中心とする貞門という一門が、俳諧を全国で行いました。 しかし、貞門が行う俳諧は従来のことば遊び的な滑稽さを中心としていたため、新鮮さに欠けていました。 そこで、より新鮮で、もっとつよい滑稽さを求めようとする西山宗因ら率いる談林派の俳諧が登場し、貞門を圧倒します。 談林派の俳諧は、前の句の意味に応じて付句(前の句に対してつける句)をつけていく「心付」という技法が用いられました。 談林派の時代は1660年代の中頃(寛文中期)から1670年代(延宝)にかけてという、わずか十数年間で燃え尽きてしまいました。 そして、1690年代(元禄)になると、松尾芭蕉らのグループによる蕉風俳諧が台頭します。 談林派の俳諧の詠み方(心付)を、さらに前句から余情(直接的な表現には表れない気分や感情)を感じ取り、それに対してまた余情で応じるという「にほひ付」の技法によって談林派の俳諧をより高めたのが松尾芭蕉です。 連歌とは、和歌の5・7・5(長句)に、他の人が7・7(短句)をつけ、さらに他の人が5・7・5を付け加え、これが百句になるまで続けていきます。 これを「百韻連歌」(ひゃくいんれんが)といい、鎌倉時代から江戸時代まで連歌の基本形として親しまれてきました。 江戸時代中期以降(松尾芭蕉の時代)になると、百句を連ねて詠んでいたものを、三十六句まで詠みつなぐ「歌仙連歌」(かせんれんが)が発展し、これが現在の連歌の基本となります。 複数の人々が一つの場所に集まって歌を詠みつなぎ、ひとつの世界を完成させるという連歌は、「座の文芸」とよばれ、世界でもあまり例をみない文学として知られています。 和歌からつよい影響を受けて生まれた連歌という文芸ですが、そこには美しい言葉による優美な世界ばかりが存在していました。 同じ形式で、もっと滑稽で、卑俗的な内容を表すことはできないかと連歌から派生したのが「俳諧」です。 俗語や漢語など、本来和歌では使わない言葉をつかい、滑稽さを表した俳諧は、連歌とは“歌を連ねる“という形式は同じながらも、性格のちがうもう一つの文芸として確立されたのです。 俳諧と俳句、名前はとても似ていますが、その意味には差があります。 現在では俳句はメジャーな文芸ですが、その名前が一般的に使われるようになったのは明治時代からでした。 俳句とは、5・7・5の三句十七音という文字数のなかで、季語を含んで優美な自然や人の心情を表現する日本の文芸です。 俳諧の連歌は連句が中心でしたが江戸時代末期から明治時代にかけて、連歌の一番初めに詠まれる句「発句」(必ず季語と切れ字を入れなければいけない)のみが独立するようになりました。 明治時代に入ると、正岡子規を中心としたグループによって俳諧の連歌から派生した発句のみの文芸を「俳句」と名付けられました。 正岡子規はそれまでの俳諧を批判し、新しい詩の形として俳諧を蘇らせようと考えたのです。
俳諧と俳句の違いについて説明してください。
俳諧は、滑稽な連歌という意味をもち、連歌から派生しました。伝統的な連歌の形式を生かしつつ、滑稽な言葉(俗語や漢語など)を盛り込んだもののことを指します。 一方、俳諧の連歌から発句のみ独立したものが俳句です。5・7・5の三句十七音という文字数のなかで、季語を含んで優美な自然や人の心情を表現する日本の文芸です。
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歴史
『源氏物語』を読み続けている。大学の授業でも毎年読み、また大学の公開講座としても全巻を読む試みは実践中(桐壺から読み始め夕霧まで進んでいる)ではあるが、何といっても、源氏の全巻を読む試みとしては、豊島区民を中心として結成されている「十六夜会」というサークルでの活動が大きい。ここでは、すでに54帖すべてを読了し、その後、いくつかの作品を読んだ後、現在再び「桐壺」巻から開始し、今「玉鬘」巻を読み終わったところだ。 このサークルのメンバーは、だいたい60歳を越えた方が多い。読み始めた当初すでに高齢の方々も多かったので、参加者数としてはかなり減少した。しかし、その参加者のレベルは高く、常に大学院程度のレベルを意識して話している。 このサークルのメンバーから、ここで話していることをぜひ本にしてほしい、ということを何度も言われるようになった。私としても、私自身に与えられている人生の残りの時間を考えれば、やはり、しっかりと書き残しておかなければならないと痛切に思うようになった。 私は、『源氏物語』に関しては、正面からの研究論文はほとんど執筆しておらず、研究としての仕事は少ない。『伊勢物語』研究に集中したということもあるが、あくまでも、この物語に関しては、正しい読者でありたいと思っていたことが大きい。作品を研究する研究者が、必ずしも、その作品の正しい読者ではないということを目の当たりしている私は、この物語の忠実な「読者」であり続けたいと切望していたのである。 しかし、私自身の、『源氏物語』の「読み」を残しておきたい、否、残さなければならないと思うに至ったのは、この物語に関する研究史への絶望的な思いがあるからだ。本来面白いはずのこの物語がそうではなく、『源氏物語』は難解な作品というイメージが強くなり過ぎているという印象が強い。
源氏物語の作者の名前は何ですか。
源氏物語の作者は紫式部です。
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歴史
壬申の乱は、西暦672年に起きた、天武天皇・持統天皇が「飛鳥・藤原」で国家の礎を築く出発点となった出来事です。 天智天皇亡き後に、天智天皇の子の大友皇子(おおとものみこ)と天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)との間で起こった皇位継承争いであり、古代最大の内乱といわれています。結果は大海人皇子側が勝利し、大海人皇子は天皇に即位(天武天皇)しました。 壬申の乱は、天智天皇の弟と息子による皇子同士の争いということもあり、日本の歴史の中で大きく取り上げてこられなかったように感じています。 しかし、この乱は日本という国家の礎を築く出発点にもなった歴史上の大事件でありました。勝利した天武天皇は唐を中心とした国際社会の中で、倭と呼ばれていた国の正統性を確立するため、律令制度を採用し、『日本書紀』と『古事記』という歴史書の編纂を命じ、藤原京という日本国で初めての都城の建設に踏み切られました。新しい天皇が皇位を継がれる時必ず行われる「大嘗祭(おおにえのまつり)」は、673年に天武天皇が飛鳥で初めて行われたものでした。 天武天皇の御志は、皇位を継承された持統天皇が引き継がれ、今日にも続く国の基礎を完成されました。国のはじまりを創られた天武・持統の御世が、日本の歴史の中で色あざやかに大きな輝きを放っていることは奈良県民の大いなる誇りでもあります。 奈良県では、特設ホームページで壬申の乱に関する特集コンテンツ等の発信や、壬申の乱1350年イベント(講演会、ウォークイベント等)の参加募集をしておりますので、ぜひご覧いただければと思います。
律令制度を採用した人物の兄は誰ですか。
律令制度を採用した人物の兄は天智天皇です。
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歴史
元禄文化は江戸前期に上方で花開いた文化です。 豪商や武士が担い手であったため派手な側面があり、また人間味を重視した作品も多いとされています。 江戸時代も1700年代に入るころには貨幣経済が発達しました。 特に江戸は100万人都市に京都と大坂は30万人規模の都市にまで発展しました。それだけでなく各地の城下町も繁栄しお金に余裕を持った町人が増えます。 いつの時代でも人はお金に余裕ができると息抜きをしたいと考えるものです。 江戸時代も例外ではなく商人たちは町に遊里や劇場といった娯楽設備を整え、さらに出版技術が発達したのもこの時代です。 さらにこうした都市文化に刺激され特に上方の農村では商品作物の生産も盛んになり富に余裕のある農民も出現しました。 1600年代に新田開発がかつてないペースで進み農業技術の進歩もあって米作には余裕があったのです。 元禄文化は貨幣経済の発展を背景にした文化なため華麗な側面があります。 また町人が中心となった文化ですので町人の在り方といった町人の美意識にまで話が及びました。 そうしたこともあり元禄文化は華麗で人間的な文化とされます。 そして余裕が出た町人の中には学問に関心を抱くものもいました。そのおかげで諸学問も発達したのです。 まずは華麗な要素から見ていきましょう。 華麗な一面は美術作品によく反映されています。 例えば、大和絵。土佐派と住吉派がしのぎをけずり、土佐光信・光起、住吉如慶・具慶といった優秀な絵師が誕生しました。 また大和絵ではありませんが、尾形光琳が装飾性に富んだ琳派と呼ばれる独自の画風を確立しました。 浮世絵が芸術として確立されたのもこの時期です。 菱川師宣が遊女をモデルに描いたことがきっかけです。遊女を描いたのは華麗な町人文化だからこそです。 また、綺麗な焼き物や染め物も作られました。家に飾ったり着て外出するためのものでしょうか。 焼き物では野々村仁清、尾形乾山、染め物では宮崎友禅が有名です。 次に人間的な要素を見ていきましょう。 一番有名なのは井原西鶴が中心となった浮世草子。浮世草子は町人や武士の生活を描いた小説のような読み物です。 人々が恋愛関係に耽る様を描いた好色物、町人の生活を描いた町人物、武士の生活を描いた武家物といったジャンルに分かれています。 また、劇場などの娯楽施設も整備されていったので人形浄瑠璃や歌舞伎も発達していきます。 人形浄瑠璃も当時の世相を反映して恋愛・心中・殺人などをテーマに描いた世話物、時代劇のような時代物といった2つのジャンルに分かれています。 特に近松門左衛門は脚本家として竹本義太夫は人形浄瑠璃の演者として有名でした。 また、俳諧もこの時期に盛んになり形式ばった俳句を嫌がり町人が自由に楽しめるように好きな用語と日常を描くことのできる談林派と呼ばれる一派を西山宗因は作り上げました。 西山宗因の弟子であった松尾芭蕉は談林派を発展させ俳諧を芸術にまで高め蕉風俳諧を作り上げました。 化政文化は江戸後期に江戸を中心として花開いた文化です。 化政文化は元禄文化とはうってかわり派手な要素は少なくまた庶民も参加できるような文化でした。 また、派手な文化ではなく人々の移動も多かった時代なので地方に持ち込まれることもありました。 寛政の改革が終わってからはしばらく平和で作物もよくとれる時代が続きました。 ネットコンテンツが花開く今がそうであるように平和であれば娯楽に回す余裕が出てくるものです。 しかも財政力がバックにないものですから庶民でも参加可能な大衆文化も盛んになっています。 また、貨幣経済が農村にも浸透したことや全国の城下町、港町などが発展を遂げたこと、そして誰でも参加できる文化であることも相まって地方にも波及していきました。 そして、この頃から外国が日本に接近したこともあり洋学が流入し今までの朱子学や幕府の体制に対して反発的な学問が芽生えたのもこの時期です。 化政文化は大衆文化が花開いた文化です。 例えば、歌舞伎。元々歌舞伎は庶民向けのものではありませんでしたが化政期には庶民でも鑑賞できるような価格帯になりました。 脚本家の鶴屋南北が手掛けた『東海道四谷怪談』は有名になりまた市川団十郎、尾上菊五郎などの名優も生まれました。 また、庶民生活の滑稽さをテーマにして描いた滑稽本、恋愛事情を描いた人情本、勧善懲悪をテーマにした歴史文学である読本、勧善懲悪や恋愛などをテーマに子供でも読めるような内容である合巻などの読み物が流行しています。 勧善懲悪や恋愛などは非常に分かりやすいシナリオなので庶民受けするのでしょう。 今も流行しているアニメや漫画、ドラマは悪を倒す主人公、最後は結ばれる二人などがテーマのものが多いですよね。 絵画では浮世絵が流行りました。 化政文化の浮世絵で押さえなければならないのは多色刷りの木版画技術が開発されたということです。 木版画は現代でいうところのコピー技術で多色刷りはいわばカラーコピーができるようになったということです。 そのおかげで浮世絵は爆発的に広まりました。安藤広重の『東海道五十三次』、葛飾北斎の『富岳三十六景』は有名です。 また、一部の余裕のある町人の中には狩野派や土佐派などに絵を学び自らが画家となる人もいました。 画家でない人が手掛けた絵を文人画といいます。 さらに、庶民の中では今でいう聖地巡りのような旅行も流行。出版技術の広まりで日本各地のことを知れるようになった大衆が実際に自分の目で見てみたいと思ったのかもしれません。 これは今も文化として残っており、御蔭参り、西国三十三ヵ所、四国八十八ヵ所として広まりました。 そして、江戸の人間が地方を回れば地方にも江戸の文化が伝わります。 地方にも伝播していったのがこの時代の文化の特徴といえます。 以上が、各文化の特徴になります。
元禄文化と化政文化について、200字以内で説明してください。
元禄文化は、江戸前期の文化で、上方で花開きました。 上方の豪商や武士が担い手で華麗で人間味を重視した文化が特徴的です。 化政文化は、江戸後期の文化で、主に江戸で花開きました。 派手な要素は少なく、豪商や武士に限らず庶民でも参加できる特徴があります。 誰でも参加できる文化なので、地方にも波及していきました。
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歴史
さて、イタリア王国が成立したのと同じ1861年に、新しいプロイセン国王が即位した。ヴィルヘルム1世です。この人は、いよいよドイツ統一に乗り出します。サルディニアのヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がカヴールを首相にしたのと同じように、ヴィルヘルム1世が、ドイツ統一のために首相に任命したのがビスマスク。19世紀後半のヨーロッパを代表する大政治家となる人物。  ビスマルクがドイツ統一のためにとった有名な政策が「鉄血政策」。鉄は兵器、血は兵士をあらわす。要するに、軍事力を強化して、征服によってドイツを統一するぞと宣言した。そして、着々と軍備を整えていきます。  プロイセンが武力によるドイツ統一を考えるとき、障害になるのがオーストリアです。オーストリアはドイツ連邦を構成する最大の国でありながら、オーストリア帝国として、ハンガリー、ベーメンなど他民族も支配している大国。しかも、それらの地域を切り離すことはないと宣言している。だから、ドイツを統一するためにはオーストリアを排除しなければならない。オーストリアと戦って勝利できなければ、ドイツ統一は不可能です。  プロイセンは軍備を増強しているが、それでもオーストリアに勝てるかどうかは、ビスマルクにとって心配だった。そんなことをビスマルクが思い悩んでいる時、1864年に、ドイツ連邦とデンマークのあいだで領土紛争が起こります。ユトレヒト半島の付け根の場所にあるシュレスヴィヒ・ホルシュタインという地方の帰属をめぐってデンマークとドイツ連邦諸国が戦争をした。デンマーク戦争という。  この戦争がおこると、ビスマルクはオーストリアを誘って共同出兵した。デンマークからシュレスヴィヒ・ホルシュタインを奪ってプロイセンとオーストリアで分けようじゃないかというのです。両国が協力すればデンマークは敵ではない。オーストリアは、喜んで誘いにのって出兵した。戦争に勝利して、シュレスヴィヒはプロイセンが、ホルシュタインはオーストリアが獲得した。  ビスマルクがすごいのが、デンマーク戦争でオーストリアを誘った真の目的です。ビスマルクにとって、ドイツ統一のためにオーストリアと将来戦うのは確実。しかし、その前にオーストリア軍の実力を知っておきたかったのです。戦争は博打ではない。勝てるかどうかわからないけど、行ってしまえ!では、首相として失格でしょう。勝利を確実にするために、プロイセンは敵を知りたかった。共同作戦で戦争をすれば、手に取るようにオーストリア軍の内部事情がわかるのです。装備、指揮系統、指揮官の能力、兵士の士気、こういうことがみんなわかる。そのための共同出兵でした。オーストリアは、そんなことには気づかずに、領土を拡大して喜んでいる。その間に、ビスマルクはオーストリア軍の実態をしっかり研究した。装備から用兵までナポレオン戦争時代からほとんど進歩していない。これなら勝てると踏んだ。  そして1866年、オーストリアと戦争に踏み切ります。これが普墺戦争。普はプロイセン、墺はオーストリアのことです。わずか7週間で勝負がついた。プロイセンの圧勝でした。  この戦争で、プロイセン軍は実戦ではじめて後装式ライフル銃を使っています。弾丸を銃の後ろから装填する銃です。後装式だと、腹ばいになったまま弾丸を装填できるので、攻撃には有利です。後装式ライフル銃の存在は、ヨーロッパ各国に知られているのですが、実戦に使えるか疑問視されていて、どの国も取り入れていなかった。プロイセンだけが、正式に軍隊に採用していたのです。一方、オーストリア軍は先込め式を使っていて、これは火縄銃と同じで、銃の先から弾丸を詰める。  新しい武器をどんどん取り入れるのがプロイセン軍の強さのもと。鉄道や電信などもフル活用して戦争にあたりました。単なる軍事力の違いというより、工業力や国の姿勢が根本的にちがっていたのです。
ビスマルクはどんな性格だったと推測できますか。
ビスマルクは、非常に計算高く戦略的な性格だったと推測できます。なぜなら、オーストリアの内情を把握する目的で共同出兵に誘い、自軍の勝利を確信してからオーストリアと戦ったからです。
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歴史
産業革命とよばれる産業構造の変化が18世紀後半のイギリスで始まりました。産業革命は、やがて世界中にひろがり、社会経済の仕組みをそれまでとは全く違ったものに変えていきます。簡単に言えば、ここから資本主義社会、工業化社会が誕生する。では、産業革命はどのようにはじまったのか。  17世紀に、イギリス東インド会社がインド貿易をはじめると、インド綿布はイギリスで大流行しました。手触りは柔らかく、軽くて暖かい。白い布地は染めやすく、プリントも簡単にできるのが綿布の特徴。今、皆さんの下着もほとんどが木綿でしょう。流行して当然ですね。ところが、困ったのが、イギリスの毛織物業者です。綿布の流行で、売り上げがひどく落ちこんでしまった。危機感を持った毛織物業者の働きかけで、イギリス政府は1700年、インド綿の輸入を禁止します。  しかし、禁止されても綿布の需要はある。輸入が駄目なら、作ればよい。西インド諸島などから原綿を輸入して、イギリス国内で綿布の生産が始まりました。綿布は人気があるので、作る先からどんどん売れる。消費に生産が追いつかない。そこで、大量に生産するための技術の改良がはじまった。これが、産業革命のそもそもの発端です。  産業革命の発明史の中で、最初に登場するのがジョン=ケイ。この人は「飛び杼(とびひ)」を発明した。1733年のことです。布というのは縦糸と横糸が交差して織られます。杼というのは横糸を載せる道具で、これを縦糸のあいだに通して横糸を張ります。織り職人は、機織り機の向こう側に手を伸ばして、右手と左手で杼を受け渡しして横糸を通すわけです。これは時間がかかるし、布の横幅は両手の届く幅より広く作れない。  これを改良し、杼を手で持たず、ひもを引っ張ることで、左右に飛ばすようにしたのが飛び杼です。横糸を通す作業が簡単になり、布を織るのにかかる時間が短縮されました。  画期的な発明ですが、ジョン=ケイは、成功できなかった。当時の発明家は、大体そうなのですが、ひどい目に会う。こんな機械を作られたら仕事がなくなると考える職人たちに恨まれて、生まれ故郷の町に住めなくなる。のちには、使用料を払わずに機械を使う輩があらわれて、使用料の支払いを求める裁判の費用が払えずに最後は破産してしまった。  それはともかく、飛び杼によって、布の生産能率が上がると、今度は糸の生産が追いつかなくなった。製糸は、昔ながらの方法で行われていたからです。  糸は、どうやって作っていたのか、念のために説明しておきましょう。ほぐしてみるとわかりますが、糸というのは、繊維によりをかけて作られているね。昔は、どうやっていたかというと、綿のかたまりから細く繊維を引っぱり出す。これに紡錘という棒状の道具をつけてぶら下げる。ぶら下げた紡錘を手でひねって回転させると、糸がよじれてよりがかかる。ある程度よりがかかったら糸を紡錘に巻き取って、また新たに繊維を繰り出して同じようによりをかける。この繰り返しで、糸を作っていきます。  これが、一番単純な糸の作り方。何の機械もいらない。紡錘一本あればよい。  もう少し進歩したやり方が、糸車を使う方法。糸車を回すと、ベルトでつながっている紡錘が高速で回転する。片手で綿を繰り出し、もう片方の手で糸車を回します。これで、よりをかけたり糸を巻き取ったりする。これが、産業革命前のやり方でした。  ぶら下げた紡錘を回転させるよりは、能率がいいですが、一人に一本しか糸を紡げないから、飛び杼で織布の能率が上がると、糸不足になったのは理解できますね。  というわけで、糸不足を解消するために、紡績機械の発明があいつぎます。  1764年、同時に複数の糸を紡ぐジェニー紡績機が発明された。糸車の回転を複数の紡錘に伝え、レバーで糸と紡錘の角度を変えることによって、よりをかける作業と巻き取り作業を切り替えることができる機械です。発明者はハーグリーブス。ジェニーというのはハーグリーブスの奥さんの名前。  ハーグリーブスのジェニー紡績機は暴徒に破壊されたりして、この人も企業家としては成功しなかったそうです。  次いで、1769年、アークライトの水力紡績機が登場します。綿をローラーで引き延ばしてからよりをかける機械で、人力ではなく水車の力で動かしたので水力紡績機といいます。 アークライトはこの発明で特許を取り、水力紡績機の工場が各地で建設され大成功しました。  1779年には、クロンプトンがミュール紡績機を発明。これは、ジェニー紡績機と水力紡績機の長所を取り入れたもの。ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすい。水力紡績機の糸は、丈夫だが太い。そして、ミュール紡績機の糸は、細くて丈夫。  1785年、カートライトが力織機を発明。ミュール紡績機の登場で、糸の供給は大幅に増加し、今度は逆に、糸の生産に織布が追いつかず、糸がだぶつくようになる。布を織る工程の改良が望まれ、登場したのが力織機です。力織機は織機の動作を自動化して、一人で何台もの織機を操作できるようにした。さらに、動力として蒸気機関を使うという画期的な発明でした。彼の工場は、織布工に襲われて壊されてしまい、事業は失敗してしまいましたが。  1793年、ホイットニーが綿繰り機を発明。この人はアメリカ人。今までの発明家はイギリス人ですよ。綿繰り機は、収穫した綿花から種を取り除く機械。水力を動力として、作業能率がそれまでの50倍にアップしました。  以上、綿工業の技術革新、機械の発明を見てきました。産業革命というのは、この技術革新が、他の産業にもどんどん波及していくのです。たとえば、力織機やミュール紡績機などの機械を作るための機械工業が発達する。また、機械の原料としての製鉄業の技術革新が始まる。大量の綿製品を工場から港に運ぶために、輸送手段でも技術革新が始まる、といった具合です。
産業革命下のイギリスで、糸不足が生じたのはなぜですか。
産業革命下のイギリスで糸不足が生じたのは、ジョン=ケイが発明した「飛び杼」によって布の生産能率が上がったためでした。
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歴史
杉田玄白の生涯  杉田玄白は享保十八年、若狭酒井侯に仕えた父甫仙の江戸の邸内で生まれました。父も同じく医者でオランダの外科を学んで、かなりに名の聞こえた人でありました。玄白というのは通称ですが、名は翼、字は士鳳、※(「懿のへん+鳥」、第3水準1-94-71)齋又は九幸翁と号しました。  若年のうちに既に幕府の医官西玄哲の門に入って外科を修め、また宮瀬龍門という人から経史を学び、すぐれた才能を示したのでした。その頃、京都で上に記しました山脇東洋や、そのほか吉益東洞などと云う医家が名だかくなって全国に聞こえるようになったのでしたが、同藩の小杉玄適が東洋のもとで学んでから、江戸に来て盛んに古医方ということを称えたので、それに刺戟せられて玄白も大いに医学を究めようとし、しかしそのためにはオランダの医学を知る必要があると感じて、そこで自分の親友前野良沢と共にオランダの医者バブルに就いて大いにその薀奥を[#「薀奥を」はママ]究めようとしたのでした。  そしてそれには訳官西幸作などにも近づいてオランダ語にも通じ、その上で十分にオランダ医学を修得して、その極めて精緻なのに感服したと云うことです。前野良沢と云うのは、やはり代々医者を業とした家がらの人で、中津侯に仕えていましたが、良沢は幼時に孤児となったので、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ったのでした。  玄白はともかくこのようにして良沢と共にオランダの医学に精通するようになってから、ドイツのクルムスの解剖図譜のオランダ訳書を藩侯から賜わったので、それを詳しくしらべてゆくと、古くからの言い伝えとは大いに違っているので、これを実際についてよく調べてみたいと思っていたのでしたが、偶々明和八年三月になってこれを確かめる機会が与えられたのでした。  ちょうどその三月四日の未明に江戸千住の小塚原で一人の婦人の刑屍体の解剖が行われることになったので、玄白は前野良沢と共にそこに赴き、クルムスの解剖図譜と照らし合わせて見たところが、この図譜がいかにも正確に実際と一致しているのに、今さらに驚いたのでした。これはその後小塚原の腑分けと言い伝えられた名だかい事実になっているのです。  ところで玄白と良沢とは、ここで西洋医学の正しいのに感服して、この書物を大いに世に広めることが大切であると考え、その翌日から良沢の邸に同志を会合し、良沢を盟主となし玄白のほかになお中川淳庵、桂川甫周、石川玄常、およびその他の人々が相寄ってこの書の翻訳に従事することとなり、その後四箇年を費し稿を改めること十一回に及んで、遂に安永三年八月に至ってその仕事を一先ず完成しました。これが名だかい「解体新書」という書物で、四巻から成っているので、我が国のその頃の医学に貢献したことは、実に多大であったのでした。  玄白はその後も多くの書物を著しましたが、そのなかには、「瘍家大成」、「蘭学事始」、「形影夜話」、「狂医之弁」、「医叟独語」、「外科備考」、「天津楼漫筆」、「養生七不可」などがあります。そして文化十四年四月十七日に八十五歳の高齢で病歿しました。玄白の功績を追賞せられて、明治四十年に正四位を追贈せられたことは、彼の一代の光栄と云うべきでありましょう。玄白は晩年に一子を挙げ、立卿と名づけましたが、この立卿も、またその子の成卿も、同じく医家として世に聞こえていた人々であります。かくて杉田一家の我が国の医学に貢献した事蹟は決して尠くはなかったと言わなければなりますまい。
杉田玄白とともに解体新書を翻訳した人物は、誰に養われて育ちましたか。
杉田玄白とともに解体新書を翻訳した人物は、山城淀藩の医者の宮田氏に養われて育ちました。
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歴史
約260万年前、地球は間氷期と氷期 を交互に繰り返す更新世(氷河時代)を迎えました。 著しい気温の上下で、氷河の大規模な溶解・形成がありました。 つまり、海面の上昇・下降があったことを意味します。 この時代において、大陸と離れていた日本列島も、アジア北東部と少なくとも2回陸続きになりました。 陸続きの時に、大型動物が日本列島に渡来しました。 ヘラジカ・マンモスが北海道以北に、オオツノジカ・ ナウマンゾウが北海道以南にほぼ分布しました。 長野県野尻湖のじりこ はナウマンゾウの化石が出土したことで有名です。 約700万年前(新生代第三紀)、人類が誕生がしました。 人類は、猿人・原人・旧人・新人の順に出現していきました。 現在日本列島で発見された更新世の化石人骨は、沖縄県の港川人(みなとがわじん) ・山下町洞人(やましたちょうどうじん)や静岡県の浜北人などが挙げられます。 これらは、いずれも新人段階の人類です。 骨などの放射性元素炭素14の濃度で年代可能 兵庫県で発見された明石人は新人とする説が主流 上記の人骨の特徴を受け継ぎ、また、弥生時代以降の渡来人と混血を繰り返して「日本人」が形成されました。
日本列島で発見された最古の化石人骨は、人類の進化の段階でどれに位置するか。
新人です
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歴史
そこでヘンリー四世は、髪をかむり、洗足で、毛織の服を着て、すなわちみすぼらしい平民の姿で城門の前に佇み、氷柱むすぶ厳冬の候を外気にうたれながら法王面謁の許可の下るのを待った。その日が暮れ翌日となり、その翌日が暮れて三日目となったが法王は面謁しようとはしなかった。見るに見かねて斡旋の労を取ったのは、このカノッサの城主の奥方であった。そこではじめてグレゴリー七世はヘンリー四世に面謁を許し、面謁をゆるされた破門の皇帝は城内に走入り、法王の足を抱き泣いて罪を謝すこと数時間、ようやく破門を免除された。  何んという羅馬ローマ法王の権力ぞや!  それにしても教権はあっても兵権の無い彼が暴挙に近いこの超非常事件を断行し、羅馬ローマ法王の位置をして、皇帝の上遥に、九鼎大呂の如く重からしめたのは、彼の如何いかな気質から来ているのであろう? 狂信家なるが故であろうか? いや彼が教界刷新のやり口が秩序整然としていて変質者流の夫それでないところから推してこの断定はあたらない。けっきょく彼は大外交家であって、如斯の大芝居を打つことによって、物質界の王を倒すか精神界の王倒れるかを試験してみたものと解すべきであろう。  狂信家といえば、その狂信家のペートルという乞食巡礼の狂態を利用して西洋史上空前の事変たる十字軍の大運動を捲起こした一〇九五、六年時代の羅馬ローマ法王ウルバン二世も一代の外交家といってよかろう。  シリヤなるエルサレムの地はイエス・キリスト終焉の地として名高く、聖地としてキリスト教徒は一生に一度は巡礼となってこの地へ参拝することを念願とした。然るに十一世紀の中葉この聖地はトルコ族の一派セルジュウク人によって占領され、聖廟は荒らされ、遺跡は蹂躪され、巡礼は掠奪迫害され、土地在住のキリスト教徒は殺戮される迄までに至った。この報が西ヨーロッパ一帯に伝わるや諸国のキリスト教徒は義憤を起こして、回教徒(トルコ族)討つべしの叫びをあげたものの夫れを断行するには機いまだ熟さなかった。然るにこの時フランスの巡礼僧にペートルという者があって、親しく聖地エルサレムに至り異教徒の横暴を見、聖地荒廃の態を探ったと称し、且かつ、エルサレムの大長老より托されたという書簡をかざし、イタリヤ、フランスの各地を巡り、「すみやかに聖地に行き、異教徒を討払い、キリストの墳墓を清むべし」と絶叫した。この僧の風采は、短躯矮小みるかげもないものであり、身には襤褸らんるをまとい腰には縄の帯をしめ、醜穢をきわめていたものの、手に十字架を握り驢馬にまたがり、一度口をひらくや熱弁奔流の如くにほとばしり聞く者をして涙を流させ切歯扼腕させた。上は王侯から下は一般市民をまで感激させたのである。
エルサレムの地は何故聖地と呼ばれているのか。
エルサレムの地はキリスト教徒にとってイエス・キリスト終焉の地として名高く、参拝することを念願としている地である
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歴史
明治2年(1869)1月、毛利元徳(長州)、島津忠義(薩摩)、鍋島直大(肥前)、山内豊範(土佐)の各藩主は、「版籍奉還」(天皇へ版〈土地〉と籍〈人民〉を返還すること)を願い出、他藩主もそれに倣い同様の上表を差し出しました。これは、すべての土地と人民は天皇のものとする「王土王民」の考えに基づいたものでしたが、混乱もなく行われたのは、各藩主が、版籍を奉還しても政府から再交付されると考えていたためと言われています。同年6月以降、ほとんどの旧藩主は、旧藩の知藩事に任命されました。しかし、知藩事には、旧来の大名による領地支配とは違い、非世襲の地方行政官として、政府直轄地と同様の政策を行うことが求められました。 明治4年7月14日、知藩事に「廃藩置県」(はいはんちけん)の詔が下されました。政府は、薩摩、長州、土佐の三藩から御親兵を募り、反対勢力に対抗しうる軍事力を背景に、廃藩置県を実施しました。これにより藩は県と改められ、知藩事の代わりに県令が派遣されました。県は、当初藩をそのまま置き換えたため300以上設けられ、飛び地も多く存在したままでしたが、その後急速に統合が進められ、同年11月までに旧来の国と郡を単位とした72県に再編されました。
明治2年の「版籍奉還」を最初に願い出た藩のうち、明治4年の「廃藩置県」の際に御親兵を出した藩はどこですか。
明治2年の「版籍奉還」を最初に願い出た藩のうち、明治4年の「廃藩置県」の際に御親兵を出した藩は、薩摩藩・長州藩・土佐藩です。
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歴史
同じ歴史全書の日本原始文化史(樋口清之著)があり、日本近代史(小西四郎著)があり、明治の新社会の生成過程を語っている。この小さい日本近代史を中心として、私たちは巻末にあげられている参考文献表の中から、「明治維新」(羽仁五郎著・岩波書店・日本歴史所収)や「新日本史」(竹越与三郎著)などを選び出して読むことが出来るし、日本評論社が出版した「明治文化全集」(二十四巻)も折々の有益な資料として記憶しておくことは便利であろう。 「日本経済史概要」(土屋喬雄・上下二冊岩波全書)は、日本文化が経済条件の向上推移につれて変化して来たその土台について語っている興味ふかく学ぶところの多い本であると思う。この本に沿って、三笠書房の歴史全書中の「洋学論」(高橋※(「石+眞」、第4水準2-82-49)一著)が読まれたなら、著者が一つの情熱をもって、祖先たちが世界の真理の到達点を、わが封建の日本へ新しい力として齎そうとした努力の価値を語っていることを知ることが出来る。東洋経済新報社出版の「現代日本文明史」第十四巻「技術史」(三枝博音著)も、過去の文献を有効に活かしていて、やがて続刊されるであろう同全集中第五巻「法律史」(宮沢俊義、中川善之助著)第八巻「産業史」(土屋喬雄著)第十三巻「科学史」(石原純、菅井準一著)などとともに、勤勉な読者のために役立つだろうと思われる。  思想史としては、岩波書店版の「世界思潮講座」が、各種の読書手引にも紹介されている本である。日本をこめた世界思潮を知る上に役立つ本にちがいないけれども、すこし読みにくい編輯方法である。一冊の中に一つの題目がまとめられていないで、全十二巻のうち、たとえば文芸復興については一巻、三巻、五巻、八巻、九巻と、縦にその一部分ずつが編輯されているというような工合である。しかし、そのような読む上での不便はあっても、やはりこの講座は歴史上の各思潮の歴史と影響とを偏らずに解説して、文化史上の卓越した人々の伝記をも集めているという点で、今日の若い人々のためには特に有益なものだと思う。
岩波書店版の「世界思潮講座」の中で文芸復興について編輯されているのは何巻ありますか。
岩波書店版の「世界思潮講座」の中で文芸復興について編輯されているのは全十二巻のうち五巻です。
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歴史
2020年度の我が国の温室効果ガス総排出量は、11億5,000万トンCO2でした(2020年度温室効果ガス排出量(確報値))。新型コロナウイルス感染症拡大に起因する製造業の生産量の減少や、旅客及び貨物輸送量の減少等に伴うエネルギー消費量の減少等から、前年度(12億1,200万トンCO2)と比べて5.1%減少、エネルギー消費量の減少(省エネ等)や、電力の低炭素化(再エネ拡大、原発再稼働)に伴う電力由来のCO2排出量の減少等から、2013年度の総排出量(14億900万トンCO2)と比べて18.4%減少しました(図1-1-2)。この結果は、排出量を算定している1990年度以降の過去30年間で最も少ない排出量であり、2018年度から、3年連続で過去最少の排出量を更新しました。 2020年度のCO2排出量は10億4,400万トンCO2(2013年度比20.8%減少)であり、そのうち、発電及び熱発生等のための化石燃料の使用に由来するエネルギー起源のCO2排出量は9億6,700万トンCO2でした。さらに、エネルギー起源のCO2排出量の内訳を部門別に分けると、間接排出については、産業部門からの排出量は3億5,600万トンCO2、運輸部門からの排出量は1億8,500万トンCO2、業務その他部門からの排出量は1億8,200万トンCO2、家庭部門からの排出量は1億6,600万トンCO2でした。 CO2以外の温室効果ガス排出量については、CH4排出量は2,840万トンCO2(2013年度比5.6%減少)、N2O排出量は2,000万トンCO2(同9.4%減少)、ハイドロフルオロカーボン類(HFCs)排出量は5,170万トンCO2(同61.0%増加)、パーフルオロカーボン類(PFCs)排出量は350万トンCO2(同5.7%増加)、六ふっ化硫黄(SF6)排出量は200万トンCO2(同2.3%減少)、三ふっ化窒素(NF3)排出量は29万トンCO2(同82.1%減少)でした。 2020年度の森林等吸収源によるCO2の吸収量は4,450万トンCO2でした。 なお、各数値については、気候変動に関する国際連合枠組条約(以下「国連気候変動枠組条約」という。)の報告ガイドラインに基づき、温室効果ガス排出・吸収量の算定方法を改善するたびに、過年度の排出量も再計算しているため、以前の白書掲載の値との間で差異が生じる場合があります。
2020年度のエネルギー起源のCO2排出量について、排出量が1億8,000万トンCO2以上の部門はいくつありますか。
排出量が1億8,000万トンCO2以上の部門は「産業部門」「運輸部門」「業務その他部門」の3部門です。
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歴史
20世紀は戦争の世紀と呼ばれた。人類史のなかで戦争による死者数がもっとも多かったからだ。第1次世界大戦でおよそ1千万人、第2次世界大戦で4千万人、日本ではアジア太平洋戦争で約300万人、そのなかには民間人も含まれる。戦争に参加した国が多く、巻き込まれた地域が広がり、何よりも武器の殺傷能力がそれまでと違って格段に大きくなった。その極限が一つの都市をまるごと壊滅状態におとしいれる核兵器である。 その後も朝鮮戦争で500万人、ベトナム戦争で200万人、冷戦終結後もボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で20万人、ルワンダの地域紛争で100万人、と戦争のない時期はほとんどないと言ってよいくらいだった。一方で人口が増えたとはいえ、人間同士の殺し合いでこれだけの数の人々が失われるとは、何という愚行だろう、人類は少しも進化していないのか……と思わされる数字だ。さんざん大きな代償を支払った後に、少しは学んで国連安保理が強化され、日本人は憲法9条を選んだはず、だった。 なのに21世紀は9・11で幕を開け、それからアフガニスタン戦争、イラク戦争と続いた。 「アメリカの戦争」が終わったと思ったら、まさかのロシアによるウクライナ侵攻が始まった。1年半以上になるのに、収束は見えない。暗澹(あんたん)たる気持ちにさらに打撃を与えたのが、イスラエルのガザ侵攻である。 20世紀の末、ドイツの平和運動家と交わした会話が忘れられない。「これからは市民戦争の時代になるでしょう」と。そのとおりになった。市民戦争とは国民軍同士の戦いではなく、民間武装勢力の武力行使、「前線なき戦争」とも呼ばれる。 ウクライナ侵攻も、イスラエル・パレスチナ紛争も、国家と国家が互いに宣戦布告をして争うような闘いではない。非武装・無抵抗の市民をも巻き込んだ一方的な戦闘行為だ。そこではもはや誰が戦闘員で誰が非戦闘員かの区別はなく、何が戦争犯罪に当たり、誰がそれを裁くのか、もわからない。国際紛争を処理するための最上位機関である国連がまったく機能しない現実を、わたしたちは目の当たりにしている。 これまでとの大きな違いは情報技術の進化のおかげで、遠くの戦場の様子が近くのメディアに次々と配信され、わたしたちが日常的に破壊と殺戮(さつりく)の現場を目にすることだ。子どもが泣き叫び、女が悲嘆にくれ、男が呆然(ぼうぜん)と立ちすくむ映像――これは映画ではない!――毎日のようにTV画面で見ながら育つ子どもたちは、人間と未来とを信じられるだろうか? この残酷な現実を突きつけられながら、何もできない無力感にうちのめされる。
20世紀に起きた戦争のうち、死者数の多かった戦争の上位3つは何ですか。
20世紀に起きた戦争のうち、死者数の多かった戦争の上位3つは、第2次世界大戦、第1次世界大戦、朝鮮戦争です。
JCRRAG_009931
歴史
バスティーユ襲撃事件 絶対主義下のフランスの政治・社会体制は、アンシャン=レジーム(旧制度)と呼ばれ国王を頂点とした封建的身分制度が維持されていた。 この体制は貴族や聖職者が農民の犠牲の上で贅沢な生活を送るため維持された。そして、犠牲となった農民たちは深刻な食糧不足とアッシニア紙幣の下落による物価高騰に悩まされる事になる。 アンシャン=レジーム 第一身分:聖職者。約12万人―フランスの総人口の約0.5%平民出身者の多い下級聖職者の中には変革の側に立った者も多い。 第二身分:貴族。約40万人全人口の約1.5% 第三身分:平民のこと。約2450万人。農民(人口の80%)と市民階級からなる。参政権が無い。 大多数の第三身分だけが課税を強いられ、不平等や矛盾が次第に社会問題となってくる。 財政難の深刻化。ルイ14世および貴族たちの贅沢三昧の生活のため、ルイ16世の頃には国家財政は大赤字に陥った。アメリカ独立戦争への参加、王妃マリー=アントワネットに代表される王室、貴族たちの浪費が最大要因とある。 (当時の国庫収入は年間約5億リーブル、革命直前の財政赤字は約45億リーブル。負債利子だけで約3億リーブル) ティルゴー(フランスの重農業主義経済学者・政治家)、ネッケル(スイス生まれの銀行家)の登用[僧侶、貴族への課税企画]→貴族の反対にあい失脚。 1789年 三部会招集(採決方式をめぐる対立)聖職者、貴族が主張した1身分1票という伝統的議決方法。第三身分は個人別票決を主張。40日間も堂々巡り 第三身分は国民議会「球技場の誓い」で、ヴェルサイユ宮殿付のテニスコートで憲法を制定するまでは解散しないことを誓った。 しかし、国王は武力で国民議会を解散させようと各地の軍隊をパリに召集。パリ市民たちは、国王の強制的な態度に反抗して市民で軍隊を編成した。そして、7月14日バスティーユ監獄を襲撃して武器・火薬を奪った。
アンシャン=レジームにおいて、聖職者、貴族、農民、市民階級の中で人口の多い順の3つの身分は何ですか。
アンシャン=レジームにおいて、人口の多い順の3つの身分は、農民、市民階級、貴族です。
JCRRAG_009932
歴史
リーフデ号の日本漂着 1600年の関ヶ原の戦いの5ヶ月ほど前、豊後(大分県)の沖合に幽霊船のような黒船が現れた。船内から20数人のやせ衰えた船員が発見された。これはオランダ船リーフデ号で、1598年、ロッテルダムからアジア探検に派遣された5隻の船団のひとつで、当初は110人もの乗組員がいたという。これがオランダ船が日本にやってきた最初であった。乗組員の中のヤン=ヨーステンとウィリアム=アダムズ(イギリス人)はその後江戸幕府に用いられ、その外交顧問として活躍した。ヤン=ヨーステンには江戸城近くに屋敷が与えられその地が「八重洲」と言われるようになった。アダムスは日本名三浦按針といい、三浦半島に領地を与えられた。その墓が横須賀の「安針塚」である。なお、リーフデ号の船尾に飾られていた「エラスムス像」(この船はもとエラスムス号といった)は現在東京国立博物館に保存されている(戦前は国宝。現在は重要文化財)。 徳川家康から貿易開始の許可を得たウィリアム=アダムズがリーフデ号の乗組員であったオランダ人を、平戸の松浦氏の船に乗せて、マレー半島のパタニに設けられたオランダ商館に派遣、オランダ船の日本への派遣を要請した。東インド会社は日本への貿易船派遣を決定して、1609年には平戸に来航し、オランダ商館を建設した。なおこの時、アダムスは平戸が遠すぎるので浦賀に来航させようと考えていたが、行き違いからすでにポルトガルが商館を設けていた平戸に上陸してしまった。浦賀は今一歩の所で開港場となる機会を失った。
ウィリアム=アダムズの領地は現在のどこの県ですか。
神奈川県
JCRRAG_009933
歴史
慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦の布石として、前田利長・浅野長政らによる徳川家康暗殺計画は重要である。この事件は、『義演准后日記』といった一次史料のほか、多くの二次史料でも取り上げられている。  慶長4年9月7日、家康は重陽の節句を祝うため、伏見から大坂城の秀頼・淀殿母子のもとを訪れた。すると、五奉行の一人である増田長盛の密告があり、家康暗殺の計画のあることが露見したのである。首謀者は驚くことに五大老の1人・前田利長であり、加担した者は土方雄久(ひじかたかつひさ)、大野治長そして五奉行の1人・浅野長政という面々であった。  土方雄久と大野治長とは、ともに秀頼の家臣である。また、長政の子・幸長の婚約者は利家の娘であり、利長と利害関係にあった(正妻は、池田恒興の娘)。密かに彼らは、大坂城内で家康を暗殺しようと目論んでいたという。とりわけ雄久と治長が関わっていたことは、豊臣家に累を及ぼす可能性があったといえる。  長盛の通報を受けた家康は、ただちに本多正信、本多忠勝、井伊直政といった重臣を集め、暗殺計画への対応を協議した。結果、伏見城から軍勢を呼び寄せ警固を万端整えて、家康の大坂登城を予定どおり行うことにしたのである。こうして無事に重陽の節句を終えると、家康は居所を伏見から大坂城西の丸に移し、新たに天守を築いた。結果的に、家康の身に何も起こらなかったのである。  家康が豊臣家の懐というべき、大坂城西の丸に居所を移したことには、大きな意味があった。笠谷和比古氏が指摘するように、家康は自らが秀頼と並び立つ存在であることを天下に知らしめたのである(笠谷:2008)。これにより、家康は豊臣政権下における地歩をしっかり固めたといえよう。  もちろん、首謀者であると疑われた面々は許されることなく追及され、家康は彼らに厳しい処分を科すべく検討していた。利長以下の首謀者は、その後どのような処分を受けたのであろうか。  前田利長を除く、土方雄久、大野治長、浅野長政の処分内容は、それぞれ①土方雄久は常陸国に配流、②大野治長は下総国に配流、③浅野長政――奉行職を解職し、家督を子息・幸長に譲らせ、国許の武蔵国府中で蟄居、ということになった。  彼らには死罪が科されなかったので、かなり寛大な措置だったといえよう。彼らは豊臣家の古くからの家臣だったので、豊臣家を必要以上に刺激しないという配慮があったのかもしれない。  上記の3人に対しては、比較的軽い処分で済ませた。しかし、前田利長に対しては、かなり強硬な姿勢で臨むことになった。
家康が、慶長4年9月7日に訪れた城があるのは、どこの都道府県ですか。
家康が、慶長4年9月7日に訪れた城があるのは、大阪府です。
JCRRAG_009934
歴史
慶長4年10月3日、家康は諸大名に対して北陸出兵を指示し、利長の討伐を命じた。利長は城を修繕しており、武器を集めていたので謀反の嫌疑がかかったのである。家康出兵の事実を耳にした利長は、ただ驚くしかなかった。一説によると、前田家中では徹底抗戦派と抗戦回避派に分かれて、議論が行われたという。むろん、利長が独断で決めるわけにはいかない重大な問題だった。  結論としては、家康との交戦を回避することになった。利長は家臣の横山長知を大坂の家康のもとに派遣し、謀反の気持ちがないことを釈明したのである。その回数は、三度にわたったという。長知は利長にとっては譜代の家臣ではあったが、利家に仕えたことがなかった。一方、利家に仕えた古参の家臣も少なからず残っており、利長もまた家臣団の統制に苦しんだといえる。  長知の懸命な努力により、利長の嫌疑は晴れたものの、家康は利長を許すに際して一つの条件を提示した。それは、利長の母である芳春院を江戸に人質として送るというものであった。窮地に追い込まれていた利長は、不本意ながらも応じざるを得なかった。同時に、利長の養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠娘)を結婚させることで、交戦を避けることができたのである。  ところが、家康による追及の手は、利長だけで終わらなかった。続いて家康は、利長と細川忠興が謀議に及んだと言い掛かりをつけて、忠興を疑いだしたのである。忠興もまた驚愕せざるを得なかった。忠興に嫌疑が掛けられたのは、子の忠隆の妻が前田利家の娘・千世であるからであった。このときは、忠興の父である幽斎が異心なき旨を家康に誓約することにより、家康の嫌疑を晴らすことができた。こうして、家康は疑わしい人物を次々と詰問し、従わせようとしたのである。  家康が利長を攻撃しようとしたのは、彼が大身の大名として軍事力を動員できる点にあったからだろう。また、家康は五大老として豊臣政権における発言権を高めるため、あえて利長をターゲットにしたと考えられる。家康は本気で利長を滅亡に追い込もうとしたのではなく、利長を封じ込めることで家康与党を形成し、ほかの大名の統制を円滑に進めようとしたと推測される。  家康は秀頼の後見を務めていたので、その家康に叛旗を翻すことは、秀頼に対する敵対行為になると考えた。家康は豊臣政権を支える重鎮として、秀頼を自身と一体化させることで威勢を保持したのである。こうして家康は、利長を封じ込めることに成功した。同時に、家康のもとで軍事力を動員できることも確認された。家康の威勢は、ますます天下に知れわたったのである。
利長の家名は、何ですか。
利長の家名は、前田です。
JCRRAG_009935
歴史
 一口に古墳といっても、色々な形があります。  丸いのが円墳、四角いのが方墳、丸と細長い台形のくっついたのが前方後円墳、四角と台形がくっついた前方後方墳、丸と丸は双円墳、八角形の八角墳、下が四角で上が丸いのは上円下方墳、四角くて四隅が長く伸びているのが四隅突出墳。  王墓といえば前方後円墳を思い出しますが、これは北海道と沖縄を除く全国に分布します。だから大和王権が支配した過程を研究する絶好の古墳だと考えられています。また形は同じ前方後円墳でも、その細かな形状の違いで古いものから新しいものへと変遷しているのがわかります。これを「編年」といいます。  奈良や大阪にある巨大古墳で「天皇陵・皇后陵・陵墓参考地」として宮内庁が厳重に管理しているものは、許可のない限り調査はおろか立ち入りも禁止されています。また天皇陵も前方後円墳から八角墳へと変遷します。今のところ三十四代の舒明天皇陵から変わったと考えられています。  各地の古墳も時代による流行や地域性があって面白いものです。四隅突出墳は西日本の日本海側から北陸方面に造営されるという地域性がありますし、渡来人の村だと思われる地域では群集墳がよく見られます。
古墳の形は、何種類ありますか。
古墳の形は、8種類あります。
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歴史
2025年現在、世界遺産の総数は「1223件」です。分類でいうと、文化遺産は951件、自然遺産は231件、複合遺産は41件。日本は文化遺産21件、自然遺産5件で計26件あります。 世界遺産が多い国はどこでしょうか? ドイツの数は「54」。ドイツといえば、ケルン大聖堂やヴィースの巡礼教会などのイメージですが、意外と産業遺産も多くあってこの数に。各地方バランスよく揃っているのが特徴です。 フランスの数は「53」。フランスとえいば、世界遺産の宝庫のような国で、キリスト教関連や豪華絢爛な宮殿など、人気のある世界遺産を多く揃えています。 イタリアの数はなんと「60」!ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア…誰もが知っている世界遺産がたっぷり。ローマ遺跡や教会、ルネサンス期の街並みなど、どこへ行っても世界遺産だらけ。 中国の数は「59」と少しずつ増えてきて、イタリアを追従しています。万里の長城やパンダの保護区などが代表的で、国土も広く、さまざまな民族が住むため、文化遺産や自然遺産が豊富。 スペインの数は「50」。バルセロナのガウディによる建築物が最も有名ですが、「太陽の沈まない国」と呼ばれたスペイン・ハプスブルク帝国時代に築かれた宮殿や教会など、優雅な建築物が多く残る国でもあります。
世界遺産の数が最も多い3国を教えてください。
世界遺産の数が最も多い3国は、イタリア、中国、ドイツです。
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歴史
第二次世界大戦後、1990年10月2日まで、地図には2つのドイツがあり、40年以上にわたって東西に分断されていました。「西ドイツ」と「東ドイツ」違いを見ていきましょう。 【西ドイツ】 国名:ドイツ連邦共和国 首都:ボン 人口:約6,300万人 面積:約24.8万平方キロメートル 【東ドイツ】 国名:ドイツ民主共和国 首都:東ベルリン 人口:約1,600万人 面積:約10.8平方キロメートル 西ドイツは民主主義国家でアメリカやイギリス、日本と同じ西側諸国に属しており選挙で国民に選ばれた人たちが政治を担っていました。一方、東ドイツは複数の政党があったものの、ドイツ社会主義統一党が政権をとっており、旧ソ連と同じように事実上の一党独裁型の政治体制でした。言論の自由などは制限されていて政府を批判するような発言は決して許されていません。 西ドイツは資本主義の国で、自由競争、利益の追求、私有財産が認められていました。その経済力は世界でも上位にあり、先進国として国民は豊かな生活を送っていました。おなじみのBMW、アウディ、メルセデスベンツ、フォルクスワーゲン、ポルシェは西ドイツを代表する自動車メーカーです。自動車に限らず様々な産業が発展しており、日本に次いで世界第3位の経済大国でした。一方東ドイツは社会主義国家の中では豊かな国のほうでしたが、生活水準は西ドイツには遠く及びませんでした。しかし食料自給率などは比較的高かったため、国民が飢えに苦しむようなことはありませんでしたが、西ドイツと比べると決して豊かな生活と言えるものではなかったのです。
西ドイツと東ドイツについて、200文字以内で説明してください。
西ドイツは、ドイツ連邦共和国という名の民主主義国家であり、資本主義によって高級自動車産業などが発展し、世界第3位の経済力を誇る先進国でした。東ドイツは、社会主義の政治体制が敷かれたドイツ民主共和国という国で、社会主義国の中では比較的食糧自給率の高い、豊かな生活がなされていました。人口は西ドイツが東ドイツの約4倍、面積は東ドイツの約2倍が西ドイツの大きさでした。
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歴史
真田幸村の名前は、色々説あり、兄の信幸は「我弟実名は武田信玄の舎弟典厩と同じ名にて字も同じ」と云っているから信繁と云ったことは、確かである。 『真田家古老物語』の著者桃井友直は「按ずるに初は、信繁と称し、中頃幸重、後に信賀と称せられしものなり」と云っている。 大阪陣前後には、幸村と云ったのだと思うが、『常山紀談』の著者などは、信仍と書いている。これで見ると、徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。しかし、とにかく幸村と云う名前が、徳川時代の大衆文学者に採用されたため、この名前が圧倒的に有名になったのだろう。 むかし、姓名判断などは、なかったのであるが、幸村ほど智才秀すぐれしものは時に際し事に触れて、いろいろ名前を替えたのだろう。 真田は、信濃の名族海野小太郎の末胤で、相当な名族で、祖父の幸隆の時武田に仕えたが、この幸隆が反間を用いるに妙を得た智将である。真田三代記と云うが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。 一体真田幸村が、豊臣家恩顧の武士と云うべきでもないのに、何故秀頼のために華々しき戦死を遂げたかと云うのに、恐らく父の昌幸以来、徳川家といろいろ意地が重っているのである。 上州の沼田は、利根川の上流が、片品川と相会する所にあり、右に利根川左に片品川を控えた要害無双の地であるが、関東管領家が亡びた後、真田が自力を以て、切り取った土地である。 武田亡びた後、真田は仮に徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時、北条側の要求に依って、沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田に沼田を北条へ渡してくれ、その代りお前には上田をやると云った。 所が、昌幸は、上田は信玄以来真田の居所であり、何にも徳川から貰う筋合はない。その上、沼田はわが鋒を以て、取った土地である。故なく人に与えんこと叶わずと云って、家康の要求を断り、ひそかに秀吉に使を出して、属すべき由云い送った。天正十三年の事である。 家康怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政等に攻めさせた。 それを、昌幸が相当な軍略を以て、撃退している。小牧山の直後、秀吉家康の関係が、むつかしかった時だから、秀吉が、上杉景勝に命じて、昌幸を後援させる筈であったとも云う。 この競合せりあいが、真田が徳川を相手にした初である。と同時に真田が秀吉の恩顧になる初である。 その後、家康が秀吉と和睦したので、昌幸も地勢上、家康と和睦した。 家康は、昌幸の武勇侮りがたしと思って、真田の嫡子信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。そして、使を出すと、昌幸は「左様の使にて有間敷也。使の聞き誤りならん。急き帰って此旨申されよ」と云って、受けつけなかった。 徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと云う昌幸の気概想うべしである。 そこで、家康が秀吉に相談すると、 「真田もっとも也、中務が娘を養い置きたる間、わが婿にとあらば承引致すべし」と、云ったとある。 家康即ち本多忠勝の娘を養女とし、信幸に嫁せしめた。結局、信幸は女房の縁に引かれて、後年父や弟と別れて、家康に随したがったわけである。 所が、天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛せしめようとの交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田の割譲である。先年徳川殿と和平の時、貰う筈であったが、真田がわがままを云って貰えなかった。今度は、ぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると云った。此の時の北条の使が板部岡江雪斎と云う男だ。 北条としては、沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうが、そう云う難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようと云うのであろう。 秀吉即ち、上州に於ける真田領地の中うち沼田を入れて、三分の二を北条に譲ることにさせ、残りの三分の一を名胡桃城と共に真田領とした。そして、沼田に対する換地は、徳川から真田に与えさせることにした。 江雪斎も、それを諒承して帰った。所が、沼田の城代となった猪俣範直と云う武士が、我無しゃらで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃まで、攻め取ってしまったのである。昌幸が、それを太閣に訴えた。太閣は、北条家の条約違反を怒って、遂に小田原征討を決心したのである。 昌幸から云えば、自分の面目を立ててくれるために、北条征伐と云う大軍を、秀吉が起してくれたわけで、可なり嬉しかったに違いないだろうと思う。関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、此の時の感激を思い起したのであろう。 これは余談だが、小田原落城後、秀吉は、その時の使節たる坂部岡江雪斎を捕え、手枷足枷をして、面前にひき出し、「汝の違言に依って、北条家は亡ほろんだではないか。主家を亡して快きか」と、ののしった。所が、この江雪斎も、大北条の使者になるだけあって、少しもわるびれず、「北条家に於て、更に違背の気持はなかったが、辺土の武士時務を知らず、名胡桃を取りしは、北条家の運の尽くる所で、是非に及ばざる所である。しかし、天下の大軍を引き受け、半歳を支えしは、北条家の面目である」と、豪語した。 秀吉その答を壮とし「汝は京都に送り磔にしようと思っていたが」と云って許してやった。その時丁度奥州からやって来ていた政宗を饗応するとき江雪斎も陪席しているから、その堂々たる返答がよっぽど秀吉の気に叶ったのであろう。 とにかく、最初徳川家と戦ったとき、秀吉の後援を得ている。わが領地の名胡桃を北条氏が取ったと云う事から、秀吉が北条征伐を起してくれたのだから、昌幸は秀吉の意気に感じていたに違いない。 その後、昌幸は秀吉に忠誠を表するため、幸村を人質に差し出している。だから、幸村は秀吉の身辺に在りて、相当好遇されたに違いない。
真田昌幸が徳川家康の求める沼田城の譲渡を拒否した理由は何ですか。
真田昌幸は、沼田城は自らの力で奪取した土地であり、理由もなく他者に渡すことはできないと考えたため、徳川家康の要求を拒否した。また、上田城は元々真田の領地であり、徳川から恩恵として受けるべきものではないと判断したためである。
JCRRAG_009939
歴史
ピザというのは、イタリヤの中部からやや北方にある都会で、そこにはヅオモ大寺と呼ばれる大きな寺院があり、そのなかに名だかい斜塔が立っています。十六七世紀頃にはかなりに盛んな町であったのですが、ガリレイはこの町で一五六四年の二月十五日に生まれました。父はヴィンセンツォ・ガリレイという人で、その家は以前にはイタリヤの貴族であってフィレンツェという都市に住んでいたのでしたが、この頃には零落してピザに移住していたのだと云いわれています。それで生活にも余裕がなかったので、父はその息子のガリレオが育つにつれて、将来は商人にでもして家を興してゆこうと考えたのでしたが、どうも息子が学問を好むので、ピザの大学で医学を学ばせることにしたのでした。ところがガリレオは医者になるのも好まなかったらしく、幼年の頃から好きな数学の講義を廊下で熱心に立ち聞きしているという有様なので、或ある公爵家の家庭教師がそれを知って数学と物理学とを学ばせるように父親をも説得したということです。これで見てもガリレオが生来純粋の学問をどれほど望んでいたかがわかるわけです。それでともかくもガリレオは喜んで学業に励みましたが、一五八九年になって、或ある侯爵の推薦でこのピザの大学の数学教授に任命されました。それが僅かに二十五歳のことでありますから、彼の学才のいかにすぐれていたかが想察されるのです。 さてガリレイはその後一五九一年まで二年間この大学の教職に就ついていましたが、その間に既にいろいろの研究にとりかかり、特に有名な自由落下の法則をまず最初に見つけ出しました。之これはいろいろの物体が地球の上で自由に落ちる場合に、その速さがどう変ってゆくかを示す法則なのです。この問題について、その頃まではなお一般に昔のギリシャ時代の哲学者であったアリストテレスの説が信ぜられていたので、それによると比重の大きいものほど速く落ちるというので、例えば鉄片と木片とを同時に落すと、鉄片の方が遥はるかに速く落ちるということになりますが、ガリレイはそれを疑って、ともかく事実をたしかに突きとめなくてはならないと考えて、いろいろ実験を行って見たのでした。この実験をピザの斜塔で行ったということが話には伝わっていますが、それにはどうも確かな証拠はないようです。しかし、何いずれにしても、そのような実験からガリレイが自由落下の法則を見つけ出したのには違いないのでしょう。つまりガリレイは最初から科学では自然の事実に基づかなくてはいけないという信念を強く持っていたのでした。 もう一つ有名な伝説として、ガリレイがピザの大寺院のなかでその天井からつり下げられている吊灯の揺れるのを見て、その往復する時間が揺れ方の大小に係わらないことを見つけ出したということが話されて居おり、之これは彼の学生時代のことだと云いわれていますが、之これもよほど疑わしいので、現在この寺院にある青銅の吊灯にある銘を見ると、それより数年後の日附がしるされているのです。ですからこの伝説そのままはやはり信ぜられないのですが、同じく実験の上からガリレイが振子の揺れ方に関する法則を見つけ出したということだけは確かだと考えられています。ここでも彼は事実をいろいろ調べてその法則に到達したのに違いないのです。 この頃には時計といってもごく粗雑なものしかなかったので、その後は医者が病人の脈搏の速さを測るのに、かような振子をつかった脈搏計というものをつくって、それを使ったそうで、これはなかなかおもしろい事がらだと思われます。 ピザというのは、イタリヤの中部からやや北方にある都会で、そこにはヅオモ大寺と呼ばれる大きな寺院があり、そのなかに名だかい斜塔が立っています。十六七世紀頃にはかなりに盛んな町であったのですが、ガリレイはこの町で一五六四年の二月十五日に生まれました。父はヴィンセンツォ・ガリレイという人で、その家は以前にはイタリヤの貴族であってフィレンツェという都市に住んでいたのでしたが、この頃には零落してピザに移住していたのだと云いわれています。それで生活にも余裕がなかったので、父はその息子のガリレオが育つにつれて、将来は商人にでもして家を興してゆこうと考えたのでしたが、どうも息子が学問を好むので、ピザの大学で医学を学ばせることにしたのでした。ところがガリレオは医者になるのも好まなかったらしく、幼年の頃から好きな数学の講義を廊下で熱心に立ち聞きしているという有様なので、或ある公爵家の家庭教師がそれを知って数学と物理学とを学ばせるように父親をも説得したということです。これで見てもガリレオが生来純粋の学問をどれほど望んでいたかがわかるわけです。それでともかくもガリレオは喜んで学業に励みましたが、一五八九年になって、或ある侯爵の推薦でこのピザの大学の数学教授に任命されました。それが僅かに二十五歳のことでありますから、彼の学才のいかにすぐれていたかが想察されるのです。 さてガリレイはその後一五九一年まで二年間この大学の教職に就ついていましたが、その間に既にいろいろの研究にとりかかり、特に有名な自由落下の法則をまず最初に見つけ出しました。之これはいろいろの物体が地球の上で自由に落ちる場合に、その速さがどう変ってゆくかを示す法則なのです。この問題について、その頃まではなお一般に昔のギリシャ時代の哲学者であったアリストテレスの説が信ぜられていたので、それによると比重の大きいものほど速く落ちるというので、例えば鉄片と木片とを同時に落すと、鉄片の方が遥はるかに速く落ちるということになりますが、ガリレイはそれを疑って、ともかく事実をたしかに突きとめなくてはならないと考えて、いろいろ実験を行って見たのでした。この実験をピザの斜塔で行ったということが話には伝わっていますが、それにはどうも確かな証拠はないようです。しかし、何いずれにしても、そのような実験からガリレイが自由落下の法則を見つけ出したのには違いないのでしょう。つまりガリレイは最初から科学では自然の事実に基づかなくてはいけないという信念を強く持っていたのでした。 もう一つ有名な伝説として、ガリレイがピザの大寺院のなかでその天井からつり下げられている吊灯の揺れるのを見て、その往復する時間が揺れ方の大小に係わらないことを見つけ出したということが話されて居おり、之これは彼の学生時代のことだと云いわれていますが、之これもよほど疑わしいので、現在この寺院にある青銅の吊灯にある銘を見ると、それより数年後の日附がしるされているのです。ですからこの伝説そのままはやはり信ぜられないのですが、同じく実験の上からガリレイが振子の揺れ方に関する法則を見つけ出したということだけは確かだと考えられています。ここでも彼は事実をいろいろ調べてその法則に到達したのに違いないのです。 この頃には時計といってもごく粗雑なものしかなかったので、その後は医者が病人の脈搏の速さを測るのに、かような振子をつかった脈搏計というものをつくって、それを使ったそうで、これはなかなかおもしろい事がらだと思われます。
ガリレイはどのようにしてピザの大学で数学教授になったのですか。
ガリレイは幼少期から数学を好み、家庭教師の助けと侯爵の推薦により、1589年にピザの大学の数学教授になった。
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歴史
徳川家康は狸オヤジと相場がきまっている。関ヶ原から大坂の陣まで豊臣家を亡すための小細工、嫁をいじめる姑婆アもよくよく不埓な大狸でないとかほど見えすいた無理難題の言いがかりはつけないもので、神君だの権現様だの東照公だのと言いはやす裏側で民衆の口は狸オヤジという。手口が狸婆アの親類筋であるからで、民衆のこういう勘はたしかなものだ。 けれども家康が三河生来の狸かというと、そうは言えない。晩年の家康は誰の目にも大狸で、それまで家康は化けていたというのだが、五十何年も化けおおせていた大狸なら最後の仕上げももうすこしスッキリとあかぬけていそうなものだ。関ヶ原から大坂の役まで十年以上の時日があり、その間家康はすでに天下の実権を握っており、諸侯の動きもほぼ家康に傾いていて、彼が大狸ならもっとスッキリやれた筈だ。十年余の長い時間がありながら彼のやり方は如何にも露骨で不手際で、まったく初犯の手口であり、犯罪の常習者、あるいは生来の犯罪者の手口ではなかったのである。 十三の年に伊豆へ流されてそれから三十年、中年に至るまで一介の流人で、田舎豪族の娘へ恋文でもつけるほかに先の希望もなかった頼朝だが、挙兵以来の手腕は水際立ったもので、自分は鎌倉の地を動かず専ら人を手先に戦争をやる、兵隊の失敗、文化人との摩擦など遠く離れて眺めていて、自分の直接の責任にならないばかりか、改めて己れの命令によって修正したり禁令したり、失敗まで利用している。こうして一度も京都へ行かないうちに天下の権が京都から鎌倉へ自然に流れてくるような巧みな工作をほどこしたものだ。 もっとも頼朝の場合は京都を尊敬するという形式を売って実権を買ったので大義名分があり、京都の方に敵もあったが味方も多い。藤原一門の対立の如きものもあり、九条兼実の如く頼朝から関白氏の長者を貰って、頼朝に天下の実権を引渡すような、いつの世にも絶えまのないエゴイストの存在が巧みに利用せられているのである。 家康の場合は先ず根本が違っていて、豊臣徳川は同一線上に並立するものであり、朝廷と武家というぐあいに虚名を与えて実をとるということができない。亡ぼすか、さもなければ四五十万石を与えて自分の家来にするか、どっちみちその一方が名も実権も共にとらざるを得なかった。彼は征夷大将軍を称し頼朝の後裔たることを看板にしたが、幕府の経営方針などにも多分に頼朝を学んだ跡があり、義経だ行家だとバッタバッタ近親功臣を殺してまで波立つ元を絶っていった血なまぐさいやり口まで頼朝に習った感がある。昔はそうでなかったのだが初犯以来は別人で、だんだん慾がでてきたのである。豊臣家乗取りの方策などでも出来れば頼朝の故智を習って綺麗にやりたかったであろうが、何と云っても両家対立の事情と朝廷武家対立の事情とは根本が違うので綺麗ごとというわけに行かない。元来が保守的な性癖で事を好まぬ家康で、狸どころか番犬のような気の良いところもあるのだが、ええママヨとふてくされてかじりつくとたちまち狂犬の如くになったので、アラレもなくエゲツないやり口がむしろ家康の初々しさを表していると見てもよい。 信長が横死する。いちはやく秀吉が光秀を退治して天下は秀吉のものとなったが、同時に世人は家康を目して天下の副将軍というようになった。小牧山で戦闘の上では秀吉をたたきつけていることが評価せられた意味もあるし、信長とは旧来の同盟国の家柄で成上りの秀吉とは違うというようなその不遇に対する同情もあった。然し、家柄への同情といっても本人に貫禄がなければ仕方がないので、織田信雄が信長の子供だと云っても実力がなければ仕方がない。万事実力が物を言う戦国時代であった。 ところが実力といっても各人各様で、人物評価の規準というものは時代により流行によって変化する。陰謀政治家が崇拝せられる時期もあれば平凡な常識円満な事務家の手腕が謳歌せられる時期もある。家康がおのずから天下の副将軍などと評されるようになったのは、たまたま時代思潮が彼の如き性格をもとめるようになったので、彼は策を施さず、居ながらにして時代が彼を祭りあげて行った。 当時の時代思潮は何かといえば、つまり平和を愛し一身の安穏和楽をもとめるようになったということだ。一般庶民が平和を愛するのはいつの世も変りはないが、槍一筋で立身出世をし、戦争を飯よりも愛した連中が戦争に疲れてきた。 日本の戦争は武士道の戦争だなどと考えると大きな間違いで、日本の戦史は権謀術数の戦史である。同盟だの神明に誓った血判などと紙の上の約束が三文の値打もなく踏みにじられ、昨日の味方は今日の敵、そうかと思うと昨日の敵は今日の味方で、共通する利害をめぐってただ無限の如く離合する。一身の利害のためには主を売り友を売り妻子を売り、掠奪暴行、盗賊野武士から身を起して天下を望むのが自然であるから時代の道徳も良識もその線に沿うているのは自然である。 親類縁者といえども信用できず、又、信用しておらず、常時八方に間者を派し、秘密外交、術策、陰謀は日常茶飯事だ。ルールというものはなく、ルールというものがありとすれば、力量や器量にまかせて何をやってでも勝てば良い、勝った者に全ての正義があるというルールなのである。力量に自信ある者、野心家、夢想児にとって、力ずくの人生は面白い遊戯場だ。ところが力にも限度があって、昨日の大関、関脇などが幕下へ落ち遂には三段目へ落ちて引退するというようなことにもなり、限度は力業には限らない。智力にも限度があり年齢があるものだ。気力とてもそうである。 芸術の仕事はそれ自体がいわば常に戦場で、本来各人の力量が全部であるべきものである。力量次第どんな新手をあみだしても良く、むしろ人の気附かぬ新手をあみだすところに身上があり、それが芸術の生命で、芸術家の一生は常に発展創造の歴史でなければならないものだ。けれども終生芸に捧げ殉ずるというような激しい精進は得難いもので、ツボとかコツを心得てそれで一応の評価や声名が得られると、そのツボで小ヂンマリと安易な仕事をすることになれてより高きものへよじ登る心掛けを失ってしまう。別段間者がいるわけでもなく寝首をかかれるわけでもなく生命の不安があるわけでもない芸術の世界ですらそうなので、自由の天地へつきはなされ、昨日の作品よりは今日の作品がより良くより高く、明日の作品は更に今日よりもより高く、と汝の力量手腕を存分にふるえと許されると始めは面白いやってみようという気でいても次第に自分の手腕力量の限度も分ってきて、いざ自分がやるとなると人の仕事を横から批評して高く止っていたようには行かないことが分ってくる。それで始めの鼻息はどこへやら、今度は人のつまらぬ仕事までほめたりおだてたりするのは、自分の仕事もそのへんで甘く見逃して貰いたいという意味だ。
徳川家康が関ヶ原の戦いから大坂の陣まで豊臣家を滅ぼすために費やした期間は何年ですか。
徳川家康が関ヶ原の戦い(1600年)から大坂の陣(1615年)まで豊臣家を滅ぼすために費やした期間は15年である。この間に家康は豊臣家に対して様々な策を講じ、最終的に大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させた。
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歴史
現存する坂本龍馬の写真を見ると、蓬頭垢衣、如何にも風采あがらぬ浪士と云つた格好である。浜本浩に少し苦味を加へたやうな顔だ。 その近親の談話によると、龍馬が常用してゐた黒羽二重の紋服は、いつも膝の下一寸ばかりのところが、ピカ/\油染みて光つてゐたと云ふ。 鼻をこすつて、何かと云ふと得意がる癖があつたと云ふ。一日五度も六度もこれをやつた。 酒は大酒とは云へず寧ろ喰意地の方がきたなかつた。クチヤ/\と口に唾をため、よく乾昆布などを噛んでゐた。 誰が見ても粗野だつたそのふうぼうの中に、若し天才的なものを求めるなら、それはあの眼まなこだらう。少し脹れぼつたいから、恐らく近眼だつたらう。 併し、遠く望み、深く思ふが如き一抹憂愁の気は常人のそれではない。 世に龍馬を語る者は、必ず彼を目して、土佐勤皇党の彗星と云ふ。神出鬼没、凡そ端睨すべからざる彼の行動は、大衆文学のヒーローとしては申し分がない。誰でも、その姿に喝采し、歓呼の声を挙げるに違ひない。 龍馬は天保六年十一月に、高知本町一丁目に生れた。それは郷士の家であつた。彼の先祖は長曽我部氏に仕へたのである。 郷士は、どの地方でも、武士の下つ端であつたが、土佐藩では特にこの差別待遇が甚しかつた。 即ち藩主山内氏は遠州掛川から転封されたので、土着の長曽我部系統の武士が、圧迫されたのは当然である。 維新の政変とは、ある意味で云へば、上級武士に対する下級武士の挑戦である。 下級武士が現状打破を叫ぶ余り、その論調が討幕論に走り、上級武士は現状維持の建前から、佐幕論となり、公武合体論を唱へたのは、各藩を通じての大体の情勢であつた。 土佐でも、その例に洩れず、勤皇論は、その軽輩武士の間に起つた。 その代表者が、武市半平太(瑞山)と坂本龍馬である。 武市は資性沈毅、たゞその腮が突き出てゐたので、綽名を「腮」と云はれ。 龍馬は江戸から国へ帰つて来ると、先づ、 「腮は相変らず窮屈なことを言ふてゐるか」 と云へば、半平太も負けずに、 「痣が帰国した相だが、又、必ず大法螺を吹いてゐることだらう」 と傍の者に言つた。 悪口は云ひ合つてゐたが、お互ひにたのもしく思つてゐたのである。 痣とは龍馬の背中にある痣で、矢張り綽名になつてゐた。龍馬はこの痣を小供の様に耻ぢてゐて、いつもメレヤスのシヤツを着て、嘗て人前で肌を見せたことがなかつた。 とにかく、この応酬は二人の性格をよく現してゐた。同時に窮屈と大法螺は、土佐人の特徴である。前者の系統を引く者に、板垣退助伯があり、大法螺の無軌道型に、後藤象二郎伯がある。 龍馬が専ら修めたのは、剣術と航海術だつたが、文学の方でも相当のものだつた。文字も金釘流だが、一種の風格を備へてゐた。 カンのよかつたことは、一寸類がない。 或る時、蘭学者某の和蘭政体論を聴講中、龍馬は突然起ち上つて、 「先生、どうも原義を誤つてゐる様です。今一度お調べを願ひます」 そんなことはない、と突つぱねると、 「それでは原義が条理を失つてゐるわけですな」 と云ふ。 念の為め、調べてみると、成程、原義と自分の講義は違つてゐる。先生も顔を赤くして、訂正したといふ逸話がある。 「江戸から帰つて来て、痣の奴、近頃読書してゐる相だ」 と、友人達が押しかけて行くと、龍馬は「資治通鑑」の白文を棒読みにしてゐる。訓点も何もない。それでゐて、内容はチヤンと理解してゐたのである。 文久二年八月、龍馬は江戸に上り、剣客千葉重太郎を伴つて、勝海舟を氷川の邸に訪れた。 世評の如く、勝が開国論者で、売国奴なら刺し殺す積りだつたのである。 案内されるまゝに海舟の室に通り、次の間で帯刀を解かうとすると、 「時節柄刀を放すのは武士の油断だ。その儘でお這入りなされ」 と云ふ。 一礼して座に着くと、勝は衣儀を正して、 「今日は拙者を刺しに参られたな。隠しても駄目だ。足下等の面には段気が見える」 と一喝しておいて、「死生は命のみ、余豈之を避けんや。唯先づ余をして満腔の熱血を吐露せしめよ。然る後もし理由あらば貴意に従はん」 と云つて、滔々として、欧米海軍の盛大と、その持論である海軍振興策を述べた。 勝は万延元年に、幕府の遣米使の一人として、親しく海外の新文明に接してゐるのである。 その説く所は該博で肯綮に中らざるなしで、田舎者の龍馬など、ただ呆然として聞いてゐたのだらう。 ものにこだはらない龍馬のことだ。すぐ、海舟の門人になることを申し込んだ。 龍馬はこの時の喜びを、率直に故郷の姉に告げてゐる。 「扨ても/\人間の一生は合点の行かぬは元よりのこと、運の悪い者は風呂より出んとして睾丸をつめ割りて死ぬるものあり、夫と比べて私などは運が強く、なにほど死ぬる場所へ出ても死なず。自分で死なうと思ふても又生きねばならんことになり、今にては日本第一の人物、勝麟太郎殿といふ人に弟子となり、日々兼て思ひ付く所を精出し居り申候」 龍馬は元来倒幕論者だ。それが幕臣である勝海舟に心服したのは、海舟の中に時流に超越した、一種の人格を認めたからである。 海舟も同時に龍馬の天禀の才を認めてゐた。 嘗て龍馬が西郷隆盛を評して、 「馬鹿も馬鹿、あいつは底の知れぬ大馬鹿である。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴り」 と放語したのに三嘆し、その日記に、 「評する人も評する人、評さるゝ人も評せらるゝ人」と特記した。 而して、坂本は西郷の様に、所謂大馬鹿に成り切らぬところに、その長所があり、短所があつたわけである。
坂本龍馬の特徴の中で、最も人を驚かせる要素は何ですか。
坂本龍馬の特徴の中で、最も人を驚かせる要素は、その「眼」である。彼の風貌は粗野で、身なりも決して立派とは言えず、蓬頭垢衣の浪士のような格好だった。しかし、その目だけは天才的なものを感じさせ、遠くを見つめ、深く考えるような憂愁をたたえていた。この視線が、彼を単なる無頼の浪士ではなく、非凡な存在にしていた。
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歴史
門鑑を立っている白服にかえして前の往来へ出ると、ひどいぬかるみへ乱暴に煉瓦の破片をぶちこんで埋めたまま乾きあがっている埃っぽい地面とギラギラした白雲との間から、蒸れかえった暑気が道子の小柄な体をおし包んだ。 永年その一画には高い高い煉瓦塀が連って空の一方をふさいでいた、そこが、昨今急に模様変えになって、高さに於ては元よりも高いコンクリート塀が旧敷地の奥の方へ引込んで新しく建てめぐらされたので、周囲の風景には印象深い都会の貧と荒廃とが露出しているのであった。 刑務所の塀に沿うた町筋などに軒を並べて来た連中の暮しのほどは、およそ推察されるのであるから、急に大きな塀がとりこわされて無くなってしまった後には、むしりのこされたように歪んだ長屋や小工場などが生活の内部を炎暑にさらして現れている。雑草が茂って、大きい水たまりがところどころにあり、広いごみ捨場のような眺望の空地は、新製式な工場めいたコンクリート塀の下からはじまって、遠く電車通りのところまで一本の樹木の蔭もなく延びひろがっている。 道子が同じ路を二時間ばかり前に来た時には、その荒れた広っぱのひとところで数十人の白服が列をつくって並んだり、分列したり、動いていた。 道子は小さくきちんとたたんだハンカチで、ベレーをかぶった額や小鼻の汗をふきながら、むらのない歩調で歩いた。こまかく光る金網のむこうで道子を見て、どうしたい、と笑った啓三の顔や、あつそうに片手で単衣の袖を肩の上へたくしあげた啓三の身ごなしが道子の眼へというよりはうち向っている心にまざまざとのこされた。良人に面会した後は単純にうれしかったなどと云い切れない苦しい感情が、いつも道子の気分にのこされるのであった。益々底深い鬱然とした気分、その一方では、まあよかったとぼんやり自分から自分を云いなだめている気持、それが錯綜するのである。きょうは、何かそういう気持のからみ合いがきつく感じられた。 大通りの古着屋の前に停留場がある。道子はそこから麹町の勤めさきへゆくに便利な省線の駅までバスにのった。駅前で降りると、折からストップになった四辻のプラタナスの街路樹の下にセイラア服の女学生が四五人かたまって、 「困っちゃったわねえ」 「あのひと覚えてやしないわよ、だから嘘ついたと思われちゃうわ――やだなあ」 などと云いながら、ピケの白い帽子をおかっぱの頭からぬいで、当惑そうにむこうを眺めている。視線の先は駅の入口で、そこには乳呑子を背負った二人の中年のおかみさんが、必死の面持で通行人をつかまえては、鬱金木綿に赤糸で千人針をたのんでいるのであった。 「一人だっておんなじ人が縫ったら駄目になっちゃうっていうんですもの――」 その女学生たちは、ゆきに同じ処でそのおかみさんの千人針を縫ってやったものらしい。帰りに同じひとがまだいる。又たのまれたら二度一人が縫うことになるし、断れば信じまいと、真面目にこまっているのであった。七月このかた、市中の人出の多いところは到るところで千人針がされていた。両国の川開きのなぐれで、銀座が押すように雑踏していた晩、道子が社用でその間を擦りぬけながら通っていると、新橋の方からバンザーイ、バンザーイという叫びがだんだん近づいて来た。見ていると一台のバスが、日の丸小旗を手に手に振りかざして窓から半身のり出しバンザーイと叫んでいる女車掌を満載して、疾走して来た。ああ、職場から誰か出征するのだ。背筋を走る感動とともに道子がそう思った瞬間、紅をぬった口々をあけて声を限りバンザーイと舗道の群集の流れに向って叫んで行く婦人車掌の間に挾まれて、軍服を着た若者が、手の小旗を振ろうともせず、騒ぎに包まれてぼんやり無意味な善良な微笑をたたえて立っている姿が目を掠めた。その男の呆然としている顔の上を、夏の夜の色々なネオンの光りが矢継早に走った。間をおいて、もう一台バスが同じような叫びを盛って上野の方へ走った。バンザーイと亢奮した声の嵐と小旗のひらめきの只中で、ぼんやりした微笑をこりかたまらしていた若者の顔を、道子は容易に忘れることが出来ないでいるのであった。
院政期の文化と平安中期の文化にはどのような違いがありますか
院政期の文化は、平安中期の貴族文化とは異なり、武士や庶民の影響を強く受けたものである。平安中期の文化は貴族を中心に展開されていたが、院政期には武士の台頭により、武士を主題とした軍記物語が誕生した。さらに、庶民にも文化の担い手が広がり、流行歌である今様が普及し、それを貴族が編纂した『梁塵秘抄』が生まれた。また、『今昔物語』のように、日本だけでなく海外の伝承を集めた作品も現れ、文化の幅が広がった。
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歴史
気候と人類 地球と列島の気候変動 約260万年前、地球は間氷期かんぴょうきと氷期ひょうき を交互に繰り返す更新世こうしんせい(氷河時代)を迎えました。 著しい気温の上下で、氷河の大規模な溶解・形成がありました。 つまり、海面の上昇・下降があったことを意味します。 この時代において、大陸と離れていた日本列島も、アジア北東部と少なくとも2回陸続きになりました。 約2万年前の日本列島 *細線は現在の海岸線 陸続きの時に、大型動物が日本列島に渡来しました。 ヘラジカ・マンモスが北海道以北に、オオツノジカ・ ナウマンゾウが北海道以南にほぼ分布しました。 長野県野尻湖のじりこ はナウマンゾウの化石が出土したことで有名です。 人類の進化 約700万年前(新生代第三紀)、人類が誕生がしました。 人類は、猿人・原人・旧人・新人の順に出現していきました。 現在日本列島で発見された更新世の化石人骨は、沖縄県の港川人みなとがわじん ・山下町洞人やましたちょうどうじんや静岡県の浜北人などが挙げられます。 これらは、いずれも新人段階の人類です。 骨などの放射性元素炭素14の濃度で年代可能 兵庫県で発見された明石人は新人とする説が主流 上記の人骨の特徴を受け継ぎ、また、弥生時代以降の渡来人と混血を繰り返して「日本人」が形成されました。
人類の新人に至るまで、いくつの進化を経てきましたか。
人類の新人に至るまで、4つの進化を経てきました。
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歴史
石器による時代区分 人類がまだ金属器を知らない時代は、石器時代と呼ばれます。 石器時代はさらに、打製石器を用いた旧石器時代と、磨製石器が出現した新石器時代に分けられます。 地質年代では、旧石器時代は主に更新世にあたります。 アマチュアによる旧石器時代の発見 かつて、日本列島に旧石器時代の遺跡は存在しないと考えられました。 日本列島での人類の歴史は、縄文時代からとされていました。 1946年、相沢忠洋あいざわただひろが関東ローム層から石器を発見しました。 石器を発見した場所(群馬県岩宿いわじゅく 遺跡)の調査、そして各地での遺跡の調査が進み、これまでの常識を根底から覆しました。 旧石器時代の生活 旧石器時代の人々は生活のなかで打製石器を用いました。 この石器には形状・用途別に、打製石斧・ナイフ形石器・尖頭器 、そして組合せ式の細石器がありました。 細石器 木の柄や骨に数本埋め込んで組合せ、投げ槍などに使用。ロシアのバイカル湖周辺から伝播 ナイフ形石器 尖頭器 細石器 人々は上記の石器を使用し、動物の狩猟と、植物性食料の採取をおこなって食料を得ました。 旧石器時代での漁労の痕跡は未発見 狩猟・採取のために、人々は絶えず一定の範囲を移動しました。 従って、住まいには簡易なテント式の小屋や洞穴を利用、また、大型動物を捕らえるために10人程度の集団生活でした。
旧石器時代に人々が生活の中で使った石器の種類は何種類ありましたか。
4種類ありました。
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歴史
伊達政宗生誕伝説と父・輝宗の英才教育 「常に隻眼を恥じ、ややもすれば目を隠そうとする」 伊達家の公式記録に書かれた、幼き頃の政宗の様子である。 人に恥じらいを見せる政宗に対し、近臣たちはその将器を危ぶんだという。 しかし、政宗は伊達家にとって希望の星であった。それは、伊達家の記録に残された生誕伝説からも窺える。 政宗の母・義姫は、文武の才と忠孝の誉れある男子の誕生を願い、米沢にほど近い亀岡文殊堂の傍らに住む行者・長海上人に頼んで、出羽三山のひとつである湯殿山に祈願をしてもらった。 湯殿山に登って祈願した長海上人は、湯殿の湯に浸した幣束を持ち帰り、それを義姫の寝所の屋根に安置させた。 するとある夜、義姫の夢枕に白髪の僧が立ち、「胎内に宿を借りたい」と頼んでくる。義姫は夫・輝宗と相談すると答え、翌日に話を聞いた輝宗は「瑞夢だ」と喜び、これを許すように伝えた。 その夜、再び現われた僧に義姫が輝宗の意向を伝えると、僧は幣束を義姫に授け、「胎育したまえ」といって姿を消す。 そして永禄10年(1567)、義姫は政宗を生んだ。修験道では幣束を「梵天」とよぶことから、幼名は梵天丸とつけられた。 輝宗は、瑞夢によって誕生した政宗に、大いに期待したに違いない。 当時、伊達家では内部対立が続いていた。輝宗の祖父・稙宗と父・晴宗が激しく争い、輝宗自身も、晴宗と不仲であった。こうした家を立て直すためにも、輝宗は政宗に英才教育を施していく。 まず学問の師としては、「天下の二甘露門」と称された名僧・虎哉宗乙を、一度は断られながらも、再度頼んで招聘している。政宗は虎哉から、仏教や漢学を学ぶ。 また傅役には、政宗より10歳年上の片倉景綱をつけた。将器を危ぶむ他の近臣と異なり、景綱は政宗の非凡さを見抜いていたという。 政宗は5歳の頃、景綱とともに、ある寺院で不動明王像を見て「仏なのに、なぜ恐ろしい容貌をしているのか」と問うた。寺僧の説明を受けると、「不動明王とは、大名の手本になる仏だ。外には強く、内にはやさしくということか」と感想を述べたという。景綱は、その利発さに目を見張ったことだろう。 政宗と景綱にはこんな逸話もある。疱瘡により右眼を失明した政宗は、そのうちに右眼が飛び出しはじめた。 それを醜いと思った政宗は、驚くべきことに、近臣に眼を潰せと自ら命じる。当然、家臣たちは恐れおののいて、従わない。 そこに進み出たのが、景綱だった。景綱は政宗の右眼を切り取るだけでなく、切られて卒倒した政宗を、「いやしくも、武将たる者がこれくらいで卒倒するとは」と大喝したという。 自分の迷いを振り払うように、眼を切り取らせた政宗と、切り取るだけでなく、将の心構えを説いた景綱……。 政宗は、輝宗が師としてつけた者たちの教えのもと、心逞しく育っていくのである。
右眼を切り取る場面において、伊達政宗と片倉景綱の行動や性格の違いを250字以内に説明してください。
右眼を切り取る場面において、政宗と景綱の行動や性格には違いが見られます。政宗は、右眼が飛び出して醜いと感じ、自ら近臣に命じて潰そうとするなど、自分の迷いを振り払うために大胆な決断を下しました。景綱はその命令に応じただけでなく、切り取った後に卒倒した政宗を大喝し、将としての心構えを説きました。政宗は自己の迷いを克服しようとする意志の強さを示し、景綱はその場で冷静かつ厳格に行動し、政宗を導く役割を果たしていたことがわかります。
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歴史
1801年~1815年:バーバリ戦争 バーバリ戦争はアメリカとオスマン帝国配下のカラマンリー朝との戦争です この戦争により、アメリカは地中海で安全な航海を認めさせました。 1803年~1815年:ナポレオン戦争 フランス革命後に起きたナポレオンによる対仏大同盟との戦いです。 対仏大同盟に敗北したフランスは再び君主制国家に戻りました。 1807年~1814年:スペイン独立戦争 スペインの混乱に乗じ、フランスはスペインへ侵攻します。 スペインはイギリスの援軍もあり、フランスに勝利しました。 1804年~1828年:イラン・ロシア戦争 ロシアの南下政策で起きたカージャール朝イランとの戦争です。 ロシアに敗れたイランは多額の賠償金と治外法権を認められました。 1809年~1825年:ボリビア独立戦争 ボリビア独立戦争はボリビアで起きたスペインと反乱軍の戦いです。 これに勝利した反乱軍はボリビアを独立させました。 1810年~1821年:メキシコ独立戦争 植民地支配に対する農民の反乱から発展していった戦争です。 独立派と保守派が手を組み、最終的にメキシコは独立しました。 1812年~1814年:米英戦争(1812年戦争) 米英戦争はイギリスとインディアンがアメリカと戦った戦争です。 アメリカは劣勢でしたが、ガン条約の締結で元の状態に戻りました。 1814年~1816年:グルカ戦争(ネパール戦争) 領土拡大のため、インドの北側のネパールにイギリが侵攻します。 敗北したネパールはイギリスの保護国となりました。 1820年~1823年:スペイン内戦(スペイン立憲革命) ブルボン朝の絶対王政復活に対して革命軍が起こした内乱です。 フランスの介入によって革命軍は敗北し、革命はなりませんでした。 1821年~1829年:ギリシャ独立戦争 フランス革命の影響を受けて、ギリシャもオスマン帝国から独立を図ります。 イギリスやロシアの介入もあり、ギリシャは独立しました。 1824年~1886年:英緬戦争(ビルマ戦争) 英緬戦争はイギリスとコンバウン朝ミャンマーとの間で起きた戦争です。 この戦争でコンバウン朝は滅亡し、イギリスの植民地となりました。 1825年~1830年:ジャワ戦争 この戦争はジャワ島で起きたジャワの民とオランダとの戦争です。 ジャワ島に甚大な被害を出し、オランダの勝利で終わりました。 1825年~1828年:シスプラティーナ戦争 ウルグアイを巡ってブラジルとアルゼンチンは戦います。 最終的にイギリスとフランスによってウルグアイは独立しました。 1836年~1839年:ペルー・ボリビア戦争 ペルー・ボリビア連合とチリとアルゼンチンが戦った戦争です。 敗北したペルー・ボリビア連合は解散となりました。
期間が一番長い戦争は何か。
期間が一番長い戦争は何か。英緬戦争(ビルマ戦争)です。
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歴史
第一次世界大戦とは、1914年7月から1918年11月まで続いた人類最初の世界戦争です。第一次世界大戦の原因は、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐる対立と言われています。 そのきっかけとなったのが、1914年の6月に発生したサラエボ事件です。この事件をきっかけに、ドイツ・オーストリアを中心とした同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした連合国の二陣営に分裂して戦争に発展しました。 戦闘はヨーロッパで展開されましたが、遠く離れた西アジアやアフリカなどにも戦争が広がることになりました。 初期の想定に反して戦闘は長期化することとなり、参戦国は戦闘力を維持するためにも国家を挙げて総力戦という形をとらざるを得なくなりました。そのため、数々の武器や兵器が開発、投入されることになりました。 第一次世界大戦の結果は連合国の勝利で終結しました。 第二次世界大戦とは、1939年のドイツによるポーランド侵攻を発端として始まり、日本・ドイツ・イギリスからなる枢軸国とアメリカ・イギリス・ソ連からなる連合国との間で行われた世界規模の大戦です。 この大戦は欧州戦線と太平洋戦線に分かれており、太平洋戦線は日本軍の真珠湾攻撃を発端としてアメリカに宣戦布告したことで始まったとされています。 欧州戦線は1945年5月にドイツが連合国側に無条件降伏したことで終結しました。また、太平洋戦線については、ご存じのとおり1945年の8月に世界で初めての核兵器が利用されることとなりました。そして1945年8月15日のポツダム宣言を日本が受諾したことによって終結しました。
第一次世界大戦と第二次世界大戦について200文字以内で説明して下さい。
第一次世界大戦は、1914年6月に発生したサラエボ事件を発端とし、ドイツ・オーストリアを中心とした同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした連合国による戦争です。一方、第二次世界大戦は、1939年のドイツによるポーランド侵攻を発端とし、日本・ドイツ・イギリスからなる枢軸国とアメリカ・イギリス・ソ連からなる連合国による戦争です。
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歴史
信長の統一事業 織田信長は戦国大名の中で初めて天下統一の野望を抱きました。 1560年、桶狭間の戦い 東海一の大名だった今川義元を打倒 桶狭間の戦い(戦場跡) 1567年、美濃国攻略 斎藤氏を倒し、その城を「岐阜城」と改称して居城に使用 また、「天下布武」の印判を使用開始 天下布武 この使用は、武力による天下統一の意志表明 「天下布武」の印判 1568年、足利義昭を奉じて入京 足利義昭を15代将軍に就任させ、諸大名に挨拶あいさつのための入京を命令 越前国の朝倉義景は、命令を無視し続けて信長を挑発 1570年、姉川の戦い 越前国の朝倉氏と、敵方に味方した近江国の浅井氏を打倒 戦い後、朝倉・浅井軍は比叡山延暦寺への立てこもりを継続 1570年、石山戦争開始(~1580年) 石山本願寺を頂点とする一向一揆は最大の脅威 石山本願寺の顕如が各地の門徒に抵抗を呼びかけて挙兵し、以降、信長は11年間石山本願寺と戦いを継続 1571年、比叡山延暦寺の焼打ち 比叡山延暦寺が朝倉・浅井軍の立てこもりを許可したために攻撃 1573年、足利義昭の追放(室町幕府の滅亡) 足利義昭が権威復活を望んで敵対したため、京都から追放 1574年、伊勢長島の一向一揆の鎮圧 1575年、長篠合戦 三河国の長篠で武田勝頼を打倒 1575年、越前の一向一揆の鎮圧 1576年、近江国の琵琶湖湖畔に天主(天守閣)をもつ安土城築城 城下町に楽市令を命令 楽市令 商工業者に自由な取引を命じたもの 安土城跡 1580年、石山本願寺の屈服(=石山戦争の終結) 1582年、本能寺の変 家臣明智光秀の裏切りで敗死
最も影響力のある人物を殺害したのは誰ですか。
最も影響力のある人物を殺害したのは明智光秀です。
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歴史
 ピザというのは、イタリヤの中部からやや北方にある都会で、そこにはヅオモ大寺と呼ばれる大きな寺院があり、そのなかに名だかい斜塔が立っています。十六七世紀頃にはかなりに盛んな町であったのですが、ガリレイはこの町で一五六四年の二月十五日に生まれました。父はヴィンセンツォ・ガリレイという人で、その家は以前にはイタリヤの貴族であってフィレンツェという都市に住んでいたのでしたが、この頃には零落してピザに移住していたのだと云いわれています。それで生活にも余裕がなかったので、父はその息子のガリレオが育つにつれて、将来は商人にでもして家を興してゆこうと考えたのでしたが、どうも息子が学問を好むので、ピザの大学で医学を学ばせることにしたのでした。ところがガリレオは医者になるのも好まなかったらしく、幼年の頃から好きな数学の講義を廊下で熱心に立ち聞きしているという有様なので、或る公爵家の家庭教師がそれを知って数学と物理学とを学ばせるように父親をも説得したということです。これで見てもガリレオが生来純粋の学問をどれほど望んでいたかがわかるわけです。それでともかくもガリレオは喜んで学業に励みましたが、一五八九年になって、或る侯爵の推薦でこのピザの大学の数学教授に任命されました。それが僅かに二十五歳のことでありますから、彼の学才のいかにすぐれていたかが想察されるのです。  さてガリレイはその後一五九一年まで二年間この大学の教職に就いていましたが、その間に既にいろいろの研究にとりかかり、特に有名な自由落下の法則をまず最初に見つけ出しました。これはいろいろの物体が地球の上で自由に落ちる場合に、その速さがどう変ってゆくかを示す法則なのです。この問題について、その頃まではなお一般に昔のギリシャ時代の哲学者であったアリストテレスの説が信ぜられていたので、それによると比重の大きいものほど速く落ちるというので、例えば鉄片と木片とを同時に落すと、鉄片の方が遥かに速く落ちるということになりますが、ガリレイはそれを疑って、ともかく事実をたしかに突きとめなくてはならないと考えて、いろいろ実験を行って見たのでした。この実験をピザの斜塔で行ったということが話には伝わっていますが、それにはどうも確かな証拠はないようです。しかし、何れにしても、そのような実験からガリレイが自由落下の法則を見つけ出したのには違いないのでしょう。つまりガリレイは最初から科学では自然の事実に基づかなくてはいけないという信念を強く持っていたのでした。
ガリレイはどこの国にある大学の数学教授に任命されましたか。
ガリレイはイタリヤにある大学の数学教授に任命されました。
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歴史
江戸時代の医学  自然科学のいろいろな部門がすべてそうであったように、医学もまた我が国でだんだんに発達して来たのは明治以後のことでありますが、しかしそうなるまでにはやはり江戸時代の終り頃に多くの蘭学者たちによって西洋の医学がさかんに輸入されたことを見のがしてはならないのです。もちろんそれ以前にも我が国に医術というものが無かったわけではないのですが、それらはただ個々の経験を集めたようなものであって、まだ全く学問として系統立ってはいなかったのでありましたし、またわれわれ人間のからだのなかのいろいろな器官がどんなものであり、どんな働きをしているかと云うようなことは、まるでわかっていなかったのですから、本当の意味での医学が発達するのには、どうしても西洋の医学を輸入する必要があったのでした。ところでこれを実際に行った人々のなかで、ここにお話ししようとする杉田玄白やまた前野蘭化などと云うのが特に名だかいのですが、それに続いてたくさんの蘭学医が出たので、今日の人々はこれらの先覚者たちの並々ならぬ苦心とその功績とを忘れてはならないのでありましょう。  尤もっとも杉田玄白よりも少し以前に、京都に山脇東洋という名だかい医者がありました。その父の清水東軒という人も同じく医者で、山脇玄修という人について医学を修めたのでしたが、後に東洋がその養子となって山脇と名のったのだということです。しかしこの医学というのはその頃古医方と云われていたもので、上に述べた西洋の医学とはちがったものであったのですが、山脇東洋は人体の本当の有様を知るのには、どうしてもこれを実際に解剖して真相を見きわめなくてはならないと感じ、久しい間それを念願していたのでした。  それでもこの頃は屍体の解剖などが厳禁せられていたので、獺などを用いてそれをしらべたりしていましたが、これでは人体のことはまだよくわかりません。そこで十五年の歳月を費して機会を待っているうちに、漸ようやく宝暦四年になって死刑屍の解剖が許されることになり、その年の閏三月七日に行われた死刑者の屍を請いうけてその解剖を実行したのでした。この時、山脇東洋と共に若狭の酒井侯の侍医であった小杉玄適という人もそれを実見して、ここに始めて内臓の有様が明らかになったということです。東洋はこの結果を記して、「臧志」という一書にまとめました。今から見れば、それには幾らかの誤りもないではありませんが、しかしともかくもこれは我が国で人体内臓のことを記した最初の書物として、重要な意味をもっているのです。  東洋と共に屍体解剖を実見した小杉玄適と同じく、杉田玄白もまた酒井侯の侍医であり、互いに親しい間柄であったことは注目するに足りることがらで、そこで東洋の書物からも大きな刺激をうけて、後に玄白が同様にそれの実見を行ったことは、この時代の医学の上に重要な意味をもつ事がらであったと云いわなければなりません。
我が国で人体内臓のことを記した最初の書物には、いつの解剖の結果が記されていますか。
宝暦四年三月七日に実行された死刑者の解剖の結果が記されています。
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歴史
信長の野望 信長の統一事業 織田信長は戦国大名の中で初めて天下統一の野望を抱きました。 織田信長 1560年、桶狭間おけはざまの戦い 東海一の大名だった今川義元を打倒 桶狭間の戦い 桶狭間の戦い(戦場跡) 1567年、美濃みの国攻略 斎藤氏を倒し、その城を「岐阜城」と改称して居城に使用 また、「天下布武ふぶ」の印判を使用開始 天下布武 この使用は、武力による天下統一の意志表明 美濃国攻略 岐阜城 「天下布武」の印判 1568年、足利義昭よしあきを奉じて入京 足利義昭を15代将軍に就任させ、諸大名に挨拶あいさつのための入京を命令 越前国の朝倉義景よしかげは、命令を無視し続けて信長を挑発 1570年、姉川の戦い 越前国の朝倉氏と、敵方に味方した近江国の浅井氏を打倒 戦い後、朝倉・浅井軍は比叡山延暦寺への立てこもりを継続 姉川の戦い 朝倉義景 浅井長政 1570年、石山戦争開始(~1580年) 石山本願寺を頂点とする一向一揆は最大の脅威 石山本願寺の顕如が各地の門徒に抵抗を呼びかけて挙兵し、以降、信長は11年間石山本願寺と戦いを継続 石山本願寺 顕如 石山本願寺(石山戦争配置) 1571年、比叡山延暦寺の焼打ち 比叡山延暦寺が朝倉・浅井軍の立てこもりを許可したために攻撃 1573年、足利義昭の追放(室町幕府の滅亡) 足利義昭が権威復活を望んで敵対したため、京都から追放 1574年、伊勢長島の一向一揆の鎮圧 1575年、長篠合戦 三河国の長篠ながしので武田勝頼かつより を打倒 長篠合戦 長篠合戦 1575年、越前の一向一揆の鎮圧 1576年、近江国の琵琶湖湖畔に天主(天守閣)をもつ安土城築城 城下町に楽市令を命令 楽市令 商工業者に自由な取引を命じたもの 安土城 安土城跡 1580年、石山本願寺の屈服(=石山戦争の終結) 1582年、本能寺の変 家臣明智光秀の裏切りで敗死 本能寺 明智光秀
本能寺の変は家臣の裏切りによって起こり、織田信長は本能寺の変で敗死したなら、織田信長は家臣の裏切りによって敗北したと言えますか?
織田信長は家臣の裏切りによって敗北したと言えます。
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歴史
明治2年8月9日(1869年9月14日に相当)、東京・横浜間で開業した電信は明治10年代半ばには日本列島主要部に延伸した。当時最新の高速メディアとして行政(特に公安)・経済情報の伝達に重宝がられたが、電信には一つ問題点がある。それは情報の中身を第三者の電信局員に見られてしまうということである。大デュマの「モンテ・クリスト伯」には局員(電信局ではなく、腕木信号所だが)を買収して僞信を送らせるという一節があるが、見知らぬ局員に通信内容を見られるのは何とも不安である。そこで電信開業直後から暗号で電信を送ることが公認され、広く行われて来た。明治後期には相場用語を満載した経済情報送受信用の暗号集が市販されていたほどだ。 行政情報の伝達でも暗号が使われ、明治8年ころから史料に散見する。「三島通庸関係文書」には内務省・大蔵省と県庁の間の交信のための暗号表が数点残されているが、それらはすべて本来の文字(実字)に対して暗号文字(暗字、換字、換用字などと呼ぶ)を一つずつ割り振ったものである(単一換字式暗号表)。初めのうちはイロハ順に対して末尾から逆にイロハを配したり、アイウエオ順をあてはめただけの単純なものだったが、明治12年3月のものは不規則に暗字を配置して解読されにくいように工夫を施している(暗号学では、解読されにくいことを「暗号強度が高い」と呼び、解読することを「暗号を破る」と言う)。これら行政暗号の中でひときわ目につくのが明治12年11月制定の暗号盤である。大小2つの円盤に実字と暗字が配してあり、小円盤(内圏)には窓が開けられている。この窓には壹から五までの漢数字が覗くようになっており、5通りの暗号表として使えるという代物である。しかも実字のすぐ外側に暗字が対応表示されるという便利さである(実物を画像化してあるので、関心のある方はプリントアウトしたものを厚紙に貼りつけて復元試用していただきたい)。ローテク時代のすぐれ物と言いたいところだが、実字がイロハの右回り、暗字が左回りという単純さが折角の工夫を損ねている。昭和30年代後半の『少年』の付録「少年探偵セット」にも同様の暗号盤がついて来たが、もっと暗号強度が高かったような気がする。
明治初期における電信利用者が暗号を使用した主な理由はなんですか。
明治初期における電信利用者が暗号を使用した主な理由は、情報の秘匿性を確保するためです。
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歴史
歌舞伎の草創は1603年(慶長八年)、出雲大社の巫女・阿国(おくに)が京都の五条や三条、北野神社で興行を始めたのが最初とされています。阿国の興行では、黒い法衣に首から吊った鉦(かね)を叩きながら念仏踊を踊ったり、派手な衣装で男装をして胸に十字架を付けて踊ったりと、現代の「歌舞伎」とはちょっと違いました。また、そのころは「歌舞伎」ではなく「かぶき踊」と呼ばれます。 そして、ちょうどこの頃、京都を中心に「かぶき者」と呼ばれる若者が増えていました。「かぶき」とは、「傾(かぶ)く」という意味で、つまり、江戸幕府の体制や規範を拒否したアウトローたちのことです。幕府にとっては悩みの種である彼らは、しかし、庶民には恰好よく思われ人気がありました。 阿国が演じた「かぶき踊」は、まさに、この「かぶき者」を模したものであり、さらにそこに男装など性別的倒錯が加わって、彼女の踊りは爆発的な大ヒットとなります。四年後には、江戸城中で勧進(お寺の建立、修繕の寄付を募ること)のための「かぶき踊」を演じるまでになったのです。 阿国の人気にあやかって登場したのが遊女歌舞伎です。六条三筋町の遊郭の楼主たちがお抱えの遊女たちを男装させ、四条河原に作った劇場で演じさせました。遊女歌舞伎には当時最新の楽器だった三味線や、高級な虎の毛皮などが使われています。この贅沢さが人々に受け、多くの観客が激情に足を運びました。遊女歌舞伎はこれまでの阿国歌舞伎に取って変わって大流行したのです。 また、遊女歌舞伎と同時期に若衆歌舞伎も登場しています。「若衆」というのはいわゆる美少年のことであり、遊女と同じような立場の少年たちでした。 しかし、遊女歌舞伎と若衆歌舞伎は、遊女や若衆が演じるものであり、目的は廓に通ってもらうことです。そのため、彼らを巡っての喧嘩や風紀上のトラブルが絶えず、1629年(寛永六年)に徳川幕府によって遊女歌舞伎・若衆歌舞伎の一切が禁止されてしまいます。 ここで現代に続く野郎歌舞伎が登場します。若衆たちは前髪を垂らした少年だったのに対し、野郎歌舞伎の役者たちは前髪を落として、月代(さかやき)を剃りました。この「野郎頭」の男子しか、舞台に上がることを許されなかったのです。 若衆たちのシンボルだった前髪を落としたので、若衆歌舞伎のような官能的な踊りだけでは当然流行りません。そこで役者たちは技芸を磨きはじめます。初期の阿国のかぶき踊などは短い踊りと寸劇、フィナーレの大踊りという構成でしたが、野郎歌舞伎に移行した後は寸劇は長い芝居へと変化していきました。
現代の歌舞伎の役者に、女性はいますか。
現代の歌舞伎の役者に、女性はいません。
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歴史
麻薬と言えば、コカイン、モルヒネ、ヘロインなどが有名で、どれも植物を原料とする。コカインがコカという植物の葉に含まれるアルカロイド(天然由来の有機化合物)を主成分とするのに対し、モルヒネとヘロインはアヘンという麻薬を、アヘンはケシという植物の実から採取されるアルカロイドを主成分とする。  アヘンには鎮痛作用があるため、東アジアでは古くから医療現場で利用され、戦国時代に南蛮船によってケシの種がもたらされると、津軽地方(現・青森県)でケシの栽培が試みられた。  津軽の気候・土壌に合ったのか、江戸時代には「一粒金丹」という漢方薬が発明され、気分高揚、疲労回復、解熱、下痢止めなどの効果が認められた。当初は藩関係者にのみ下賜される秘薬だったが、のちには出入りの業者や特許商人にも卸されるようになった。  だが、薬になるか毒になるかは紙一重の違いで、隣の清国(中国)ではイギリスが絹や陶磁器を輸入する代価としてインド産のアヘンを利用したことから、身分の上下に関係なく、清国全体にアヘンの吸引が広まるようになった。  日頃、栄養豊富な食生活を送り、高品質なアヘンを適度に吸うぶんには害はないが、ろくに食事も摂らず、低品質のアヘンばかりを吸い、アヘンなしには生きられない依存症に陥ってしまうと、精神的な混乱や身体機能の低下で死期が早まるのは避けられなかった。
低品質のアヘンは、中毒性がありますか。
低品質のアヘンは、中毒性があります。
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歴史
家康が会津征伐を始めると大阪では家康を打倒する動きが出てきます。 それは家康も重々承知のことで、伏見城に家康の親友であり家臣である鳥居元忠を置いて三成の動きを監視します。 そして遂に三成は大坂で挙兵。 同じく挙兵した宇喜多秀家、小西行長などと共に家康が留守の間に近畿を制圧しようと伏見城を攻めます。 結局伏見城は落城し、鳥居元忠が討死しますが、その知らせを聞いた家康は小山(現栃木県)で緊急会議を開いて三成を討伐する決意を示しました。 さてここから関ヶ原の戦いに入っていきますが、ここで西軍と東軍の主力な大名を見てみましょう。 石田三成率いる西軍は毛利輝元始め、宇喜多秀家・小西行長・島津義弘・大谷吉継・小早川秀秋などの西日本中心の大名が集まっていました。 一方、徳川家康率いる東軍は家康の家臣を始め、黒田長政・福島正則・藤堂高虎などの主に三成を嫌っていた大名が集まっています。 兵力の方は西軍は総勢約8万、東軍は総勢約7万から9万のどちらも互角でした。 関ヶ原の戦いの軍の配置は圧倒的に西軍の方が有利でした。 布陣図を見てみると西軍は西側に一面に広がっており、さらに松尾山には小早川秀秋、南宮山には毛利や長宗我部などが構えているためもう少し頑張れば東軍を包囲できる状態です。 戦において包囲されたら負け確定ですので、この部分では西軍が勝っていたといってもいいでしょう。 それを表す証拠に明治時代にお雇い外国人としてドイツ人の軍人を呼び、この布陣図を見せてどっちが勝ったか予想させると『こんなの西軍の勝ちで終わったはずだ』と言ったそうです。 しかし、布陣図だけではわからない西軍の弱点があったのです。
関ヶ原の戦いの西軍に加わった主力な大名は何名ですか。
関ヶ原の戦いの西軍に加わった主力な大名は毛利輝元、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘・大谷吉継・小早川秀秋の六名です。
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歴史
歴史が苦手であっても「縄文土器」や「弥生土器」という言葉は覚えているという方は多いのではないでしょうか? 理由は様々あると思いますが、歴史の授業で最初の方に教わるということが大きいのではないかと考えます。新鮮な興味をもって学んだものはなかなか忘れないものです。しかし、改めて「縄文土器と弥生土器の違いは」、「弥生土器の特徴は」と問われると答えに窮するのではないでしょうか。  縄文土器は縄目の文様(縄文)が施された厚手の土器と教科書では説明されます。立体的な装飾をもつものが多く、造形物として見栄えがあります。芸術家の岡本太郎が注目したことで美術品としても有名になりました。博物館だけでなく美術館で展示されることも珍しくありません。さらに、最近は「縄文ブーム」と称されるサブカルチャー的流行も手伝って、土偶と共に注目も集めています。  一方で、弥生土器が同じように注目されることは残念ながらほとんどありません。皆さんは弥生土器をじっくりと観察したことはあるでしょうか。教科書では薄手で簡素な装飾が施され、壺や甕(かめ)などの種類が増えたと説明されます。確かに縄文土器ほど豪華な装飾があるわけではありません。シンプルで何となく「地味」な印象があるかもしれません。しかし、実際は、その形態や文様は実に多様であり、機能的な造形美を有しています。そういう意味で、弥生土器は縄文土器にも引けを取らない魅力があると私は思います。今月はその一端をご紹介いたします。
縄文土器と弥生土器の違いについて教科書ではどのように説明されていますか。
縄文土器は、縄目の文様(縄文)が施された厚手の土器であると説明されます。弥生土器は、は薄手で簡素な装飾が施され、壺や甕(かめ)などの種類が増えたと説明されます。
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歴史
第1回オリンピックは個人的な参加がほとんど オリンピックを定義づけるとすれば、「4年に1度開催される世界的なスポーツの祭典」ということになるだろう。 文字どおり、オリンピックは地球規模で行われており、2016年のリオデジャネイロ五輪には過去最多の205もの国と地域が参加している。2017年10月時点の国際連合加盟国は193カ国だから、その数をしのぐ。オリンピックは国際平和と安全の維持を目的とした機関以上に多くの国がかかわる、正真正銘の大舞台だ。 ただ、当初からそうだったわけではない。1896年にギリシャのアテネで開催された第1回オリンピックに参加したのは14カ国だけ。1894年にすでに国際オリンピック委員会(以下IOC)は発足していたとはいえ、国際組織としての機能度はまだ低かったのも一因だ。参加選手は国の代表ではなく、大学やクラブでプレーする選手が個人的に参加したケースがほとんどだった。個人単位によるスポーツの大会という意味合いが強かった。 続く1900年のパリ五輪には24の国と地域から参加者が集まっている。1904年のセントルイス五輪ではその約半分の13に減少。セントルイス開催の参加国が少なかったのは、当時はまだ交通手段が未発達だったためだ。アメリカまでの移動に少なくない時間と費用がかかるため、遠征を控えたアスリートが多かった。当時のオリンピックは個人によるスポーツ大会の域を出ておらず、旅費や宿泊費などは選手自身が負担していた。 1908年のロンドン五輪から国単位での参加が浸透 参加方法に関して、オリンピックに変化が訪れたのは1908年のロンドン五輪だ。 この大会を機に各国のオリンピック委員会が組織として整備され始めた。すでに述べたとおり、1904年の大会までは、個人やチーム単位での申し込みがほとんどだった。だが、1908年のロンドン五輪を迎えるにあたって、各国のオリンピック委員会を通して参加を申請する形式が採用された。 1908年のロンドン五輪に参加したのは22の国と地域で、1900年のパリ五輪の24より少ない。ただし、パリ五輪の舞台に立った選手が997人だったのに対し、8年後のロンドンでは1999人にふくれ上がった。2大会後にほぼ2倍の参加選手が募ったのは、各国のオリンピック委員会が中核としての役割を果たし始めたからに他ならない。 日本が初めてオリンピックに参加した1912年のストックホルム五輪では28の国と地域から2490人、1920年のアントワープ五輪では29カ国から2668人と、着実に参加国が増えていく。1916年にはドイツのベルリンでオリンピックが行われる予定だったが、第一次世界大戦を理由にベルリン五輪は中止に追い込まれてしまう。ベルギーのアントワープも戦禍に見舞われたが、近代オリンピックの開催を提唱したピエール・ド・クーベルタン男爵が「平和の祭典」としてあえてアントワープでの開催を決めた。 各国のオリンピック委員会が仕切ることで、オリンピックは「国を代表するアスリートたちの大会」という位置づけが強まった。「平和の祭典」という代名詞も拍車となり、参加国は増えていく。第二次世界大戦後に行われた1948年のロンドン五輪には59の国と地域から4064人のアスリートが集まった。
このテキストに記載されているオリンピック開催年を、参加国数の少ない順に3つ挙げて下さい
このテキストに記載されているオリンピック開催年を、参加国数の少ない順に3つ挙げると、1904年・1896年・1908年になります。
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歴史
1.経済大国としての日本の光と影 1950年の朝鮮戦争後、日本経済は大きく成長し、1955年には、一国の経済力の大きさを示す国民総生産は戦前の水準をこえ、1956年の経済白書には「もはや「戦後」ではない」と表現し、日本は新しい経済局面に入った。白書ではその局面の対処を心配したが、1950年代後半から約10年間にわたり、日本は高度経済成長とよばれる経済の発展が続いた。 1955年から30ヶ月以上の好景気が続き、初代天皇である神武天皇以来の好景気ということから神武景気と名づけられた。 1958年から40ヶ月以上の好景気が続き、神武景気をこえる大型のものであったことから、天照大神の「天の岩戸」の神話にちなんで岩戸景気と名づけられた。 1960年に、池田隼人首相が経済を発展させ、10年間で所得を2倍にする国にするという所得倍増計画を出し、高度経済成長にはずみをつけ、1964年に東京でアジア最初のオリンピックが開かれ、これに刺激されて好景気がおこり、オリンピック景気とよばれた。 また、鉄道では東京~新大阪間に東海道新幹線が、道路では名神高速道路、東名高速道路が開通し、交通面で大きく発展した。それにともない、自動車をもつ人も増加していった。 生活では、電気洗濯機、白黒テレビ、電気冷蔵庫の「三種の神器」とよばれる耐久消費財が普及した。 電力では、茨城県東海村に日本で最初の原子力発電所が建設され、1963年から運営が行われた。 1966年から50ヶ月以上の好景気が続き、岩戸の神話よりも前の国生みの「いざなぎのみこと」にちなんでいざなぎ景気と名づけられた。 こうした高度成長を通して、1968年には、資本主義諸国の中での国民総生産がアメリカについで第2位の経済大国となった。1970年には、大阪で「人類の進歩と調和」をテーマとした、アジアで最初の万国博覧会が開催され、多くの企業や研究者、芸術家によるパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作が展示され、経済大国となった日本の象徴的なイベントになった。 1970年代になると、自動車、カラーテレビ、クーラーの「3C」とよばれる耐久消費財が普及していった。また、国産の人工衛星が打ち上げれ、1980年代ではコンピュータ技術開発が進み、世界有数の技術大国になった。 その一方で、農業と工業の所得格差が広がり、農業人口が減少し、農業以外からの収入を得る兼業農家が増加していった。さらに、大都市では人口の過密、農村では過疎化が進んだ。 高度経済成長にともない、重化学工業が大きく発展したが、それと同時に公害も発生した。 富山県の神通川流域では、カドミウムが原因で骨が折れやすくなるイタイイタイ病とよばれる病気が発生した。 熊本県八代海沿岸では、化学工場から排出された有機水銀(メチル水銀)が原因で神経がおかされる水俣病とよばれる病気が発生し、同じような病気が新潟県の阿賀野川流域でも発生した。 三重県の四日市市では、石油化学工場の煙から排出された亜硫酸ガスが原因で、ぜんそくや気管支炎になる四日市ぜんそくが発生した。 政府は、1967年に公害対策基本法(1993年以降は環境基本法)を制定し、さらに1971年に環境庁(現在は環境省)を設置して公害対策を整えた。 1973年、第4次中東戦争がおきると、主要産油国が結成してつくられたOPEC(オペック:石油輸出国機構)は、石油の禁輸、減産、価格の引き上げを行った。石油の輸入依存度の高い先進国は経済に大きな打撃を受けた。 日本でも石油価格が大幅に値上がり、トイレットペーパーや洗剤がお店から消え、購入が制限されるなどの混乱がおきた。この混乱を石油危機(石油ショック、オイルショック)という。これ以降、日本経済は低成長が続き、1974年の国民総生産はマイナス成長となり、高度経済成長期が終わった。 1982年に、中曽根康弘内閣が成立すると、「戦後政治の総決算」のもとに行政改革を行い、今まで国で運営していた日本電信電話公社、日本専売公社、日本国有鉄道を民営化し、それぞれ日本電信電話(NTT)、日本たばこ産業(JT)、JRグループとした。また、女子差別撤廃の方針から、男女雇用機会均等法を1986年から施行し、雇用形態の改変も行った。 1985年に、アメリカの財政と貿易赤字(双子の赤字)を解決するために、ニューヨークのプラザホテルにアメリカや 日本などの五カ国が集まって、ドルの為替相場をドル安にする方向に合意するプラザ合意が行われ、日本は輸入品 を安く買えるようになった。 政府は、国内需要(国内での購買力)を拡大(内需拡大)させようという政策を進め、日本銀行は2.5%という今までにはない低金利で銀行にお金を貸し出した。 輸入品が安くなったことと、お金(円)を借りやすくなったことで、円が世界市場や国内市場で出回るようになると、日本国内では、1986年から土地と株を買うようになり、地価と株価が異常な高騰が続いた。資産価格だけが上がり、実体の成長はその価格成長についてこない現象が起こり、バブル経済とよばれた。
1970年代に自動車、カラーテレビ、クーラーが「3C」とよばれたのはなぜですか
1970年代に自動車、カラーテレビ、クーラーが「3C」とよばれたのは、自動車 (Car)・カラーテレビ (Color television)・クーラー (Cooler)と、それぞれの頭文字がCで始まるものだったからです。
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歴史
地球と列島の気候変動 約260万年前、地球は間氷期と氷期を交互に繰り返す更新世(氷河時代)を迎えました。 著しい気温の上下で、氷河の大規模な溶解・形成がありました。 つまり、海面の上昇・下降があったことを意味します。 この時代において、大陸と離れていた日本列島も、アジア北東部と少なくとも2回陸続きになりました。 陸続きの時に、大型動物が日本列島に渡来しました。 ヘラジカ・マンモスが北海道以北に、オオツノジカ・ ナウマンゾウが北海道以南にほぼ分布しました。 長野県野尻湖はナウマンゾウの化石が出土したことで有名です。 人類の進化 約700万年前(新生代第三紀)、人類が誕生がしました。 人類は、猿人・原人・旧人・新人の順に出現していきました。 現在日本列島で発見された更新世の化石人骨は、沖縄県の港川人 ・山下町洞人や静岡県の浜北人などが挙げられます。 兵庫県で発見された明石人は新人とする説が主流 上記の人骨の特徴を受け継ぎ、また、弥生時代以降の渡来人と混血を繰り返して「日本人」が形成されました。 旧石器時代 石器による時代区分 人類がまだ金属器を知らない時代は、石器時代と呼ばれます。 石器時代はさらに、打製石器を用いた旧石器時代と、磨製石器が出現した新石器時代に分けられます。 地質年代では、旧石器時代は主に更新世にあたります。 完新世(約1万年前~現在)になると新石器時代の幕開け アマチュアによる旧石器時代の発見 かつて、日本列島に旧石器時代の遺跡は存在しないと考えられました。 日本列島での人類の歴史は、縄文時代からとされていました。 1946年、相沢忠洋が関東ローム層から石器を発見しました。 石器を発見した場所(群馬県岩宿遺跡)の調査、そして各地での遺跡の調査が進み、これまでの常識を根底から覆しました。
日本人の存在が確認されたのは何時代ですか。
旧石器時代です。
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歴史
島原の乱は江戸幕府にとってキリスト教信仰と百姓一揆が連携した深刻な反体制暴動と捉え、キリスト教の徹底的な取り締まりを最終的に決意させ、キリスト教を根絶やしにするためには宣教師を密かに乗船させ続けているポルトガル船の来航を、全面的に禁止するしかないと考えるようになった。島原の乱の鎮圧のため九州まで来ていた松平信綱は、オランダ商館が直ちに大砲を搭載した商船を差し向け、反乱軍に向けて発砲して鎮圧に貢献したことを大いに悦び、帰路に平戸によってオランダ商館長をねぎらった。幕府要職はポルトガル船の来航を禁止した場合、それと同じ量の生糸をオランダ船が持ってくることができるか、またポルトガルがマカオから反撃した場合、オランダはそれを抑えられるか、などの点を密かにオランダ商館に問い合わせた上で、1639年にポルトガルとの国交断絶に踏み切った。しかし、一方でオランダも同じキリスト教国であることには違いないという疑念をぬぐい去ることはできなかった。そこで、平戸のオランダ商館を閉鎖して、長崎の出島に移すことを考えた。出島はもともとポルトガル人を日本人と接触させないための収容所として建設したものであったが、ポルトガル人は全面追放となったので、空いていた。長崎の糸割符仲間の商人たちは取引相手がいなくなってしまうと困るので、オランダ商館を平戸から長崎に移すことを熱望した。 長崎商人の要望に応える口実で幕府は平戸のオランダ商館を長崎に移すことを決め、特使井上筑後守政重を平戸に派遣、1640年11月9日、商館長カロンに通達した。商館取り壊しの表だった理由は、キリスト教暦の年号を掲げていることだった。このとき、井上はオランダ側が激しく抵抗するか、あるいは再考を懇願して、流血の事態になると予測し、屈強な男20人をのも陰に待機させて、もし拒否したらその場で商館長を殺す手はずになっていた。また戦争に備えて密かに肥前、肥後、有馬の兵士にオランダ船を破壊する準備をさせていた。ところが商館長カロンは一言も抗議せず、平伏して受諾した。あっけなく商館取り壊しが決まり、石造りの建物は直ちに破壊された。カロンは、オランダ商館長の任期は一年という幕府の定めに従って国外に退去、翌年、新館長が着任してオランダ商館は長崎の出島に移り、平戸の時代は終わった。 カロンが何故簡単に承知したか。カロンは1619年にコック見習いとして平戸に来てから日本滞在が長く、江戸参府にもたびたび同行し、完全な日本語も話せた。彼は、将軍の命令には「承知した」と答えるしかないと知っていたのだった。永積洋子さんは、彼が「一言も抗議せず、将軍の命令を直ちに実行したことは、ヨーロッパ諸国の中で、オランダだけが日本との通交貿易を許されることになる要因の一つである」と書いている。カロンはその後、セイロン遠征の艦隊司令官、台湾長官、バタヴィアの事務総長などを歴任して50歳で帰国、フランスのコルベールがフランス東インド会社を設立するにあたってその主席理事として招請され、1667年に67歳で再びアジアに向かった。しかしフランスに協力したためオランダからは永久追放に処せられ、1673年にインドのスラットからフランスに帰る途中、リスボン港外で船が浅瀬に乗り上げ、ここで溺死した。
江戸幕府がキリスト教を取り締まるため、キリスト教の宣教師を密かに乗船させていたポルトガル船の来航を全面的に禁止したが、同じキリスト教国であるオランダはどうして日本との通交貿易を許されたのでしょうか。
オランダ商館は大砲を搭載した商船を出し、島原の乱の反乱軍に向けて発砲して島原の乱の鎮圧に貢献した。また、オランダ商館を平戸から長崎に移す時、オランダ商館長カロンが一言も抗議せず、将軍の命令を実行したため。
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歴史
オランダは、スペインからの独立戦争を戦い、1581年に独立宣言を行い、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)として自立すると、スペイン・ポルトガルに対抗してアジア貿易への進出をめざした。1600年のイギリス東インド会社に次いで、1602年に東インド会社を設立した。イギリスに続き、さらにフランスなど北西ヨーロッパ諸国で生まれた東インド会社の代表的な会社であり、世界史上の重要な存在である。 正式には「連合東インド会社」Vereenighde Oost Indische Compagnieといい、略称をV・O・Cと呼ばれ、喜望峰からマゼラン海峡までの広大な地域の貿易独占権を与えられ、1619年にジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)を東インド総督の拠点とし、東南アジアの香辛料貿易を押さえポルトガル・イギリスの勢力を排除し、台湾、スリランカ、マラッカなども占領した。また1609年以来、日本の平戸に商館を置いて生糸・銀を中心とした交易を行って利益を上げ、1639年以降は鎖国下の日本とヨーロッパとの貿易を独占した。さらに、1652年に、バタヴィアや平戸への中継・補給基地としてケープタウンを建設し、ケープ植民地とした。 こうして17世紀前半には、オランダ東インド会社は全盛期を迎え、広汎なアジア貿易を押さえていたが、17世紀後半に数度にわたるイギリス=オランダ戦争(英蘭戦争)が起こって国力を消耗し、イギリスの台頭を許すこととなった。18世紀になると香辛料貿易は不振となり、イギリスの綿織物・茶などを中心としたアジア貿易が優勢となり、また対日貿易では中国に押されて後退して、オランダ東インド会社は衰退期に入った。 フランス革命が起こると本国でも革命が及んで連邦共和国が崩壊、1799年には東インド会社を解散し、バタヴィアも一時イギリスに占領された。ナポレオン戦争後に成立したオランダ立憲王国(連合王国)は、東南アジア島嶼部を「オランダ領東インド」として直接支配形式に改めて植民地支配を強めていく。
オランダの東インド会社が貿易をしていた地域はどこですか。
喜望峰から東南アジア、中国・日本までを含む地域。
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歴史
1950年6月、南北に分断された朝鮮半島で勃発した戦争。北朝鮮の南下から始まり、アメリカが南を支援して盛り返し、後半は中国軍が北を支援して参戦、53年に北緯38度線で休戦協定が成立した。冷戦下のアジアにおける実際の戦争となり、日本にも大きな影響を与えた。戦争は休戦中にすぎず、南北は未だに分断され、対立が続いている。 朝鮮は1945年8月15日、日本の植民地支配から解放されたが、東西冷戦が進行する中で、ほぼ北緯38度線に沿った戦で南北に分断されてしまった。1948年に北には朝鮮民主主義人民共和国、南には大韓民国という別個の国家が成立し、北は金日成の率いる朝鮮労働党のもとで社会主義体制をとり、南は李承晩大統領の親米政権のもとで資本主義体制をとるという二陣営が直接対立する場となった朝鮮半島で、1950年6月25日についに戦争が勃発した。 南北いずれが先に仕掛けたが、議論があったが、現在は北朝鮮の金日成が、中国革命に続いて朝鮮半島でも社会主義による統一国家の建設を目指し、武力統一をはかったものと考えられている。北朝鮮軍の侵攻に対して、韓国軍を「国連軍」の軍旗を掲げたアメリカ軍が直接支援し、さらには後半には中華人民共和国から義勇兵が北側に参戦し、内戦にとどまらない国際的な戦争となった。両軍は、第二次世界大戦後のもっとも深刻な戦闘を繰り返したが勝敗がつかず、1953年に北緯38度線で両軍が対峙したまま休戦協定が成立した。現在に至るまで完全な和平には至っていないのであり、東アジア情勢の最大の不安定要因となっている。
現在の北朝鮮と韓国はどのような状態ですか。
現在も、朝鮮半島は分断されたまま、休戦状態となっています。
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歴史
ポルトガルのスペインからの独立運動は、ブラガンサ家を中心に結束した勢力によって、1640年に勝利を収め、同君連合を解消した。その背景には、この年、三十年戦争の終わりにさしかかり、フランスがスペインのカタルーニャに進攻、それに呼応してカタルーニャの農民反乱が起こったことがあればれる。苦境に立ったスペイン政府(カスティーリヤ=マドリード政府)はポルトガルに出兵を要求してきた。 ブラガンサ朝の始まり 1640年12月1日、ポルトガルの貴族ら40人からなる集団がリスボンの王宮を襲撃し副王マルガリータ女王を逮捕、かわってポルトガルの名門ブラガンサ公のジョアン4世をポルトガル国王として立てた。この宮廷革命は民衆の支持ではなく、カタルーニャの反乱やフランスのリシュリューの支援があって可能だった。こうしてポルトガルは、スペインから独立を達成、これ以降はブラガンサ家の国王が継承するブラガンサ朝となり、1910年まで継続する。独立再開後のポルトガルは、スペインとの対立とブラジル、アジアでのオランダとの抗争もあったので、イギリスとの提携を求めざるを得ず、1652年にはクロムウェルとの間で同盟関係を結び、イギリス商人の経済活動に特権を与えている。 イギリス経済との結びつき イギリスとの密接な関係は王政復古期にも続き、ジョアン4世の娘カタリーナ(英語読みキャサリン)はチャールズ2世の妃となった。このときキャサリンはタンジールとボンベイの領有権に加え、大量の砂糖を持参金にした。さらにこのとき、ポルトガルからイギリスの宮廷に茶を飲む習慣が伝わったという。 1686年にはイギリスの仲介でスペインとの平和条約が成立、スペインがポルトガルの独立を承認した。さらに1701年にスペイン継承戦争が起こると、ポルトガルはイギリスとの同盟関係からフランス・スペインと戦った。その背景にはポルトガル産のワインのイギリスへの輸出が増大し、ポルトガル経済を支えていたことがあげられる。両国は1703年にはメシュエン条約を締結してポルトガル産ワインの関税を引き下げる代わりにイギリスの毛織物の輸入を解禁した。
ポルトガル国王の娘は結婚のときイギリスに持ち込んだものは何ですか。
キャサリンは、タンジールとボンベイの領有権と、大量の砂糖を持参金にしました。
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歴史
大坂城が落城して完全な統一政権として確立し、1616年に大御所家康が死去すると、幕府はキリスト教禁止と貿易統制を統合する対外政策として鎖国政策に傾いていった。その象徴が1622年のキリスト教大弾圧(元和の大殉教)であった。これはイギリス船とオランダ船が共同で拿捕した船から、日本に密航しようとしたポルトガル人宣教師が発見されたことからキリシタン取り締まりが強められ、国内で摘発されたイエズス会・フランシスコ会・ドミニコ会の宣教師18名、修道士3名と日本人信者34名が長崎で処刑された。 こうして1630年代には三代将軍家光のもとで次々と鎖国関連法令が発せられ、1639年のポルトガル人の来航禁止、1641年のオランダ商館の長崎出島移転で鎖国体制は完成する。ただし、「鎖国」という言葉が当時使われたわけではなく、対外的な窓口が長崎だけになったというわけではないので注意を要する。 幕府はキリスト教徒を取り締まるために踏絵を実施し、また寺請制度によって檀那寺に登録することで管理した。鎖国下の日本で、キリスト教が禁止され、その探索のために踏絵が行われていたことは、オランダ人を通じてヨーロッパにもよく知られていたようで、イギリスのスウィフトが1726年に発表した『ガリヴァー旅行記』でも出てくる。
キリスト教が禁止されていた日本でキリスト教徒探索のために江戸幕府は何をしましたか。
踏絵
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歴史
アジアの特産品である香辛料を、ヨーロッパでの需要の増大を背景にして輸入をはかり、大きな利益を上げた貿易。その貿易の主体、ルートの変遷から、12~15世紀の東方貿易、15~16世紀の大航海時代のポルトガル・スペインによる貿易、17世紀以降のオランダによる貿易の時代に分けることができる。 東方貿易 はじめはイスラーム商人(カイロのカーリミー商人など)によってアレクサンドリアなど東地中海にもたらされ、そこでヴェネツィアやジェノヴァの商人に買い取られ(いわゆる東方貿易)、彼らが主としてインド西海岸産の胡椒などインド洋交易圏で得られた貴重な商品ををヨーロッパに運んで、ドイツやフランスの商人がヨーロッパ各地で売りさばいた。現地では安価に手に入る胡椒などの香辛料が、ヨーロッパにもたらされると、非常な高値となり、その利益がイタリア商人の繁栄をもたらした。イタリア商人が東方から輸入したものには胡椒などの香辛料の他に、絹織物、生糸、木綿、などがあった。絹織物は12世紀から北イタリアの諸都市やフランスのリヨンで生産されるようになり、独自の発展をみせる。 イスラーム商人(ムスリム商人)の活動はスーフィズムの信仰と共に東南アジアにも拡がり、15世紀からはマラッカ王国がインドの綿布とモルッカ諸島の香辛料などの交易で繁栄しており、そこには琉球王国の商人も参加していた。ポルトガルの進出以前にそれを上回る交易が盛んであったことは留意しておく必要がある。 大航海時代 しかし、15世紀になると、オスマン帝国の西アジアから東地中海に進出してくるに伴って東方貿易は衰えたため、それに代わる香辛料の獲得ルートが探索された。15世紀にポルトガルはエンリケ航海王子の時にアフリカ西海岸に進出し、香辛料と共に奴隷貿易を開始した。こうして始まった大航海時代は、1498年のヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓が成功し、ディウ沖の海戦などでイスラーム商人を排除したポルトガル商人が直接に香辛料の産地であるインドと取引するようになった。さらに高価な香辛料を求めて東南アジアに進出するようになり、16世紀はじめにはモルッカ諸島に達した。スペインは東回りでモルッカ諸島への到達を目指し、マゼラン艦隊を派遣し、マゼランの死後に残った船団がその地に到達したが、既に主導権はポルトガルに握られていた。その後、世界の香辛料貿易の中心地として栄えたポルトガルのリスボンであり、当時の繁栄を物語る胡椒を満載した沈没船が見つかっている。 香辛料貿易の推移 次いで17世紀にはオランダ東インド会社が進出、ポルトガル・スペインの勢力を駆逐して、香辛料貿易の主導権を握った。イギリス東インド会社もモルッカ諸島への進出を目指したが、1623年のアンボイナ事件で敗れてインド経営に主力を移したため、東南アジアの香辛料はオランダが独占することとなる。
ヨーロッパとの貿易に使われた代表的な香辛料は何ですか。
胡椒
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歴史
ジョアン5世(在位1706~50)は「ブラジル金の威力をもって文字通りポルトガル近世の黄金期を現出した」と言われている。ジョアン5世はフランス国王ルイ14世を見習って絶対君主としてふるまい、リスボンに歌劇場を開設したり、王立歴史学アカデミーを創設するなど啓蒙君主としてもふるまった。ジョアン5世は、1750年のスペインとのマドリード条約で、ラ=プラタ川東岸を与える代わりにトルデシリャス条約の分界線を遥かに超えた西側のアマゾン川流域を獲得した。両国の紛争はその後も続いたが、1777年に最終的な和平が成立し、ポルトガルの領土は、現在のブラジルの範囲と同じ範囲で確定した。これによってスペインとポルトガルという二大強国による世界分割であったトルデシリャス条約はようやく効力を失った。 ブラジルからの金をもとにポルトガルは大量の金貨を鋳造したが、その使い道は王宮や教会の造営に回された。この時期はポルトガルのバロック時代であり、豪壮な建築物が多数見られるが、それらはブラジルからの金をもとに造営されたのだった。また当時、ポルトガルのワイン輸出に対しイギリス産の毛織物を輸入していたが、国内の繊維産業が未発達であったことによって一方的な輸入超過となっていたため、金貨はイギリスに流れて行った。ポルトガルで金貨を蓄え、国内産業を育成するという措置は執られず、かえってイギリスはここで得た金貨を資本として蓄積し、18世紀中頃に産業革命というテイクオフを可能にしたのだった。
ブラジルの金はどこへ行きましたか。
イギリス
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歴史
武士の暮らしと日常の流れ 武士の一日は、実に規則正しいものでした。特に面白いのは、時間の使い方です。 江戸時代の武士は、現代でいう「タイムスケジュール」をしっかり持っていました。「辰の刻(午前8時頃)」の登城から、「未の刻(午後2時頃)」の退出まで、時間できっちり区切られた生活を送っていたのです。 朝は夜明け前の「寅の刻(午前4時頃)」に起床するのが一般的でした。現代人からすれば早すぎる起床時間に思えますが、これには理由があったのです。 明け方の静かな時間を使って、武芸の稽古や学問に励むことが求められていました。特に夏場は、暑さを避けるために早朝の涼しい時間帯を有効活用していたようです。 朝食は「辰の刻」前に家族と共にとります。質素ながらも栄養バランスを考えた食事で、主に米、味噌汁、漬物といったシンプルな内容でした。 そう考えると、今の私たちの朝活にも通じるものがありますね。次は、武士たちの社会での立場について詳しく見ていきましょう。 武士の役割と階級の違い 意外かもしれませんが、武士といっても実はさまざまな階級がありました。大名から御目見えできない下級武士まで、その差は私たちが想像する以上だったのです。 上級武士は老中や若年寄といった重要な役職に就き、将軍への御目見えも許されていました。中級武士は主に行政実務を担当し、下級武士は与力や同心として治安維持にあたっていたのです。 特に興味深いのは、階級によって住める場所まで決められていたこと。上級武士は江戸城に近い場所に、下級武士は外縁部に、というように居住区域すら厳密に区分されていました。 おじいちゃんが教えてくれた面白い話があります。下級武士の中には、副業として筆耕や傘張りなどの内職をする人もいたそうです。これは表向きには禁止されていましたが、実際には黙認されていたとか。 今でいう「副業」のような働き方が、すでに江戸時代から存在していたなんて、驚きですよね。では次は、武士たちの収入について見ていきましょう。 武士の収入と給料の仕組み 武士の給料といえば「俸禄(ほうろく)」。これが現代のサラリーマンの給料と大きく違うのは、お米で支給されていたという点です。 面白いことに、米の相場によって実質的な収入が変動したため、今でいうような「固定給」とは少し異なる性質を持っていました。 たとえば、ある記録によると、下級武士の家計は実に綱渡り的だったようです。年間200石(約30俵)の収入がある武士の場合、その半分以上が食費と冠婚葬祭などの儀式費用で消えてしまったとか。 特筆すべきは倹約の習慣です。武士たちは「質素倹約」を美徳としていました。贅沢は許されず、倹約令という法令まで出されていたほどです。 保科正之は、江戸時代前期に活躍した大名であり、会津松平家の初代となります。彼は、徳川幕府2代将軍である徳川秀忠の子として江戸で生まれました。しかし彼の身元は明らかにされず、武田信玄の次女の元で育てられます。 そして、最終的には武田家の家臣であった保科正光(ほしなまさみつ)の養子となり、保科家を継ぐことになります。また、兄の家光に謁見した際、家光は彼をいたく気に入り、重用します。 そして、4代将軍・家綱の後見人のような立場となり、素晴らしい政治を行っていきます。
保科正之は江戸時代の武士ですか。
江戸時代の大名は武士であり、保科正之は江戸時代前期に活躍した大名であることから、保科正之は江戸時代の武士である。
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歴史
六波羅探題とは、1221年 後鳥羽上皇の起こした承久の乱後、鎌倉から遠く離れた京都にいる朝廷を監視し、西国(尾張より西)の武士を取り締まるため、鎌倉幕府が京都に置いた役職のことです。 六波羅とは京都の地名で鴨川東岸の五条から七条のエリアを指し、探題とは地方長官のような意味です。 六波羅探題には、二度と承久の乱のような朝廷の反乱が起こらないよう京都の朝廷を監視し、また、新たに幕府の支配がおよんだ西国(尾張より西)の武士たちが討幕などの不穏な動きをしないよう取り締まる目的がありました。 幕府の拠点だった鎌倉は、朝廷のいる京都まで約450km。 こんなに離れていたら不穏の動きがあっても気づかないし、反乱が起こってもすぐ鎌倉から軍勢を送って鎮圧できる距離でもありませんよね。 だから、鎌倉幕府は京都をはじめ西国での動きにすばやく対応できるように六波羅探題を置いたのです。 このほか、六波羅探題はこれまで朝廷が支配していた西国に幕府の勢力を広げていく拠点としての役割もありました。 ちなみに、鎌倉幕府は承久の乱の前までは、京都守護という役職を置いていましたが、承久の乱のとき京都守護が朝廷側についたため、京都守護は廃止されました。 六波羅探題を設置したのは鎌倉幕府です。 承久の乱の頃は、2代執権の北条義時が実権を握っていました。 執権とは、源頼朝の死後、将軍に変わって幕府の実権を握り、政治を動かした役職。源氏の将軍が3代で途絶えた後は北条氏が執権を世襲し、執権政治を行いました。 初代の六波羅探題に任命されたのは、承久の乱で活躍した北条泰時と北条時房。泰時は2代執権北条義時の子、時房は義時の弟です。 鎌倉幕府にとって重要な京都と西国を監視する六波羅探題には、執権政治によって幕府内の権力を掌握していた北条氏の中でも特に優秀な人材を任命しました。
承久の乱後、京都にいる朝廷を監視し、西国の武士を取り締まるために鎌倉幕府が京都に置いた役職に任命されたのは誰ですか。
承久の乱後、京都にいる朝廷を監視し、西国の武士を取り締まるために鎌倉幕府が京都に置いた役職に任命されたのは、北条泰時と北条時房です。
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歴史
20世紀に見つかった「秀吉のミイラ」  慶長3(1598)年8月18日、大坂城で闘病していた豊臣秀吉が62歳で逝った。  前年1月以来、秀吉の命によって日本中の武将たちは、徳川家康などごく一部を除いて、第二次朝鮮出兵(「慶長の役」)に出払っていたし、秀吉の死はその撤退が終わるまでは極秘機密となり、箝口令(かんこうれい)が敷かれることになった。  その結果、内々での仏事が営まれただけで「黄金太閤」そして「天下人」秀吉にふさわしい葬儀などは行なわれないままに終わった。しかし水面下では秀吉の遺言を果たすべく、朝廷との交渉が始まっていた。秀吉は「神」になるつもりだったのだ。問題は、秀吉が熱望した「新八幡(いまはちまん)」という神号だった。  朝廷からの返答を待たぬまま、秀吉という「神」のための社殿工事が急ピッチで進められていく。この年の12月18日、徳川家康など多くの大名たちが完成した京都・阿弥陀ヶ峰社殿に入っていくのを見て、のちに家康を「神」として久能山に葬る神事を執り行なった梵舜(ぼんしゅん)という神道関係者でさえ訝(いぶか)しげな様子で日記を書いている(『舜旧記(しゅんきゅうき)』)。  秀吉の死後4カ月を過ぎてもなお、大坂城関係者以外に情報は伝えられず、秀吉死亡説さえも流れていなかったようだ。 ■「神」になりたかった太閤  阿弥陀ヶ峰の社殿は、秀吉ゆかりの方広寺の「東山大仏」関連の追加施設だと偽られていた(『義演准后日記』慶長三年九月十一日条)。  慶長4(1599)年1月5日、石田三成たち五奉行は、昨年末に朝鮮からの兵の引き揚げが完了したことを契機に秀吉の死を公表し、建造中の社殿は大仏関係の施設ではなく、昨年亡くなった秀吉が「神」となって祀られるべき建物で、その墓所にもなるという説明をした。  この時、豊臣家からは秀吉の神号が「新八幡」という情報まで流されてしまっていた。昨年打診して以来、朝廷から正式な返答はまだだったが、既成事実をつくることで拒絶できない空気をつくろうとしていたのだろうか。  僧侶や公家の日記にも「八幡社見物」(『義演准后日記』)、「東山新八幡社」(『言経卿記』)という記述が見られるし、徳川家の史料である『当代記』にも、秀吉が「神」として八幡大菩薩になるという記述がある。  しかし、あろうことか朝廷は「新八幡」の神号を拒絶してきた。  理由は諸説あるが、一つに朝廷の神祇官の頂点に立つ、吉田兼見が反対したらしい。吉田は織田信長や明智光秀、そして生前の秀吉とも親交が深かったが、八幡とは八幡大菩薩の略で、神号にしては仏教色が強いから猛反発したのだともいう。  その後、「新八幡」の代案として、吉田が当主を務める吉田神道では最高の神位である「大明神」を含む、「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号を進呈するともいってきたので、「それなら……」と石田三成なども丸め込まれてしまったようだ。  なぜ「豊国」なのかといえば、「豊」臣秀吉だからという単純な話ではなく、日本の古称は「豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに)」で、秀吉はこの国の主だったから「豊国大明神」にするということだった。  しかし、農民出身という身分によって武家の棟梁(とうりょう)である征夷大将軍にはなれなかったとも囁かれる秀吉にとって、武家の守り神にして、軍神の「八幡」の号こそが「大明神」などより、よほどほしかったのではないか。  秀吉本人は朝鮮半島に日本人が攻め込むのは『古事記』、『日本書紀』の神功皇后以来の快挙だと本気で考えていたようで、だからこそ、神功皇后とその皇子・応神天皇ゆかりともされる「八幡」の神号に固執したのかもしれない。  しかし、神道においては天照大神に次ぐ立場の神が八幡神なので、いくら「天下人」秀吉とはいえ、軽々しく進呈できるような神号ではなかった。
農民出身という身分であり、太閤まで上り詰めた人は誰ですか。
農民出身という身分であり、太閤まで上り詰めた人は豊臣秀吉です。
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歴史
歴史や偉人の「評価」は時代によって変わる。それは、「評価」するのが人間だからである。その人が置かれている時代状況によって、歴史や偉人の「評価」は違ってくる。ここでは、まず、その最もわかりやすい例として徳川家康を取り上げたい。  周知の通り、徳川家康は江戸幕府の創始者として崇め奉られてきた。亡くなって東照大権現(とうしょうだいごんげん)という神号まで贈られ、「神君家康公」とよばれていた。もちろん、江戸時代、家康の伝記が多数書かれることになるが、いずれも家康の偉業をたたえるものばかりだった。  それが一変するのは明治維新である。幕府を倒した薩摩藩・長州藩の人間が政治の実権を握るや否や、それまでタブーだった家康批難の論調が表に出てくる。いわゆる薩長史観による家康像が神君中心史観に取って代わり、「狸おやじ」とまでいわれるようになる。  それだけではない。明治以後、大日本帝国が朝鮮・中国へ大規模な大陸進出政策を押し進めていく過程で、いわばその輝かしい先駆者としての豊臣秀吉がクローズアップされ、秀吉をもち上げる半面、家康をけなす論調に代わっていった点もみておかなければならない。  この点は、戦前と戦後で違っている。戦前、歴史の研究の主な担い手は軍人と政治家だった。軍事史研究が中心で、どうしても対外侵略を是とする歴史観が大手を振っていた。ようやく戦後になって正常な歴史研究ができるようになったのである。  そうした歴史研究の流れを踏まえ、戦後、山岡荘八・司馬遼太郎などの歴史小説の登場となり、それが日本人の歴史認識へ大きな影響を与えることになる。特に、戦国と幕末の偉人たちの認識が大きく変わることになった点は軽視できないように思われる。
江戸時代から明治維新以降にかけての徳川家康の変化はなんですか。
江戸時代から明治維新以降にかけての徳川家康の変化は、江戸時代には江戸幕府の創始者として「神君家康公」とまで呼ばれ崇められましたが、明治維新以降は薩摩藩・長州藩による薩長史観が台頭し、「狸おやじ」と批難されるようになります。
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歴史
 ダーウィンの生物進化の説と相並んで、生物学の上で非常に大切な意味をもっているのは、メンデルの遺伝の法則で、今ではこの遺伝に関する学問が大いに進んで、生物をほんとうに研究するには、もちろんそれのいろいろな事がらを知らなくてはなりませんが、そのなかでも殊に遺伝学の重要であることが認められています。  遺伝というのはごく簡単にいえば、親の性質が子に伝わるということで、これは普通に誰でも知っている事がらです。親と子とは、その顔かたちにしても、どこか似通ったところがあり、気質の上でも大体はそうであるのです。なかには例外もないわけではありませんが、その例外と見られるものも、すぐの親ではなく、それより前の先祖の性質を受け継いでいることも多いのです。それで遺伝ということは、ともかくも確かな事実ですが、しかしどうしてそういう事実が現れるかということについては、科学の上でいろいろ研究を要することにちがいないのです。まず遺伝の場合には、どのような性質が最も多く子孫に伝わるのかということや、そしてそれの伝わり方について、実際にしらべて見なければなりません。これらについて古くからいろいろな考えを持ち出した人々もあったのですが、それよりも大切なのは、実験を行ってそれを事実の上で明らかにすることです。ところで、このような実験を始めて実際に行ったのが、ここでお話ししようとするメンデルなので、それで今日ではこのメンデルの仕事を記念する意味で、遺伝学のことをメンデリズムとも呼んでいるのです。いずれにせよメンデルの遺伝に関する研究は、生物学の上で非常に大きな意味をもっているものにちがいないのです。
子は、曾祖父の性質を受け継ぐことがありますか。
子は、曾祖父の性質を受け継ぐことがあります。
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歴史
メンデルの生涯  メンデルの名はグレゴール・ヨハンと云うのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリーのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でありましたが、中学に当るギムナジウムを卒業してから、ブリュンという処にある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感ぜられました。それで何か学問を修めたいという心が頻りに起って来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メンデルは、この時もはや三十歳にもなっているので、普通の学生とは年齢の上でもちがうわけですが、ひたすら学問を修めたいという心から、一生懸命に勉強したのでした。そして三年の後に、大学を卒業してから、一八五四年にもとのブリュンの町に帰り、そこで或る実科学校の教師となりました。  ブリュンの町に戻るとなると、僧侶の職の方も勤めないわけにはゆかないので、それは以前のように行っていましたが、大学で修めた博物学に大いに興味を感じていたので、それからは僧院のなかに自分でいろいろの動物を飼ったり、また植物を栽培して、それらをこまかく観察することを楽しみとしました。そしてその間に遺伝の問題に不思議を感じ、これを実験して見ようと思い立ったのです。  僧院の庭はさほど広くもなかったのですが、それでも六十坪ほどの土地を利用して、豌豆を栽培して見ました。そして豌豆のいろいろな種類の間に交配を行うと、どんな雑種ができるかを、一々しらべて見ました。メンデルはこの実験を八年間もつづけて行ったということです。そしてその結果が一通りわかって来たので、一八六五年にブリュンの博物学会の会合の席で、これを発表し、その翌年にはこの学会の記要に「雑種植物の研究」という題で、論文を公にしました。これが遺伝の法則を始めて明らかにした大切な論文なのです。この外に、メンデルは柳やたんぽぽのような植物についても、また蜜蜂や鼠などの動物についてもそれぞれ交配を行わせて遺伝の研究をつづけて居ました。  このようにしてブリュンの僧院には一八六八年まで十五年間を過ごしましたがこの年に僧正の職についたので、その後は自分の研究を進めるだけの暇がなくなってしまったのは、メンデルにとっては遺憾のことであったのでしょう。それにメンデルのそれ迄の研究についても、今日でこそそれの重大な意味を誰しもが認めているのですが、その頃の人々には一向に顧みられず、そのままに見過ごされていたのでした。これは謂わばメンデルだけが時代に先んじてもいたので、やむを得ないことでもあったのでしょうが、やはり彼にとっては残念な次第でもあったわけです。ところが、そればかりではなく、僧正の職についてその仕事を忠実に行って来たのはよかったにしても、その頃政府が特別の税金をこの僧院に課したので、これを不当であるとしてメンデルは政府と争い、いかにしてもこれに屈しなかったということです。これは一八七二年頃のことでありましたが、その後いろいろと好ましからぬ出来事にであい、もともと快活でもあり友情も並みはずれて深かった性格にまでも影響して、だんだんに世人を嫌うようになったとも云われています。そして一八八四年の一月六日に腎臓炎をわずらって没くなりました。  メンデルの研究は、かくて世間からは全く知られずに、その後も久しく埋もれていましたが、それがようやく見つけ出されたのは一九〇〇年のことで、メンデルがブリュンの学界でこれを発表してから、実に三十五年も経ってからのことでした。  どうしてメンデルの研究がこのとき発見されたかと云いますと、それにはおもしろい話があるのです。ちょうどその頃同じく遺伝について研究していた三人の学者がありました。それは、ドイツのコレンス、オーストリーのツェルマック、およびオランダのド・フリースであります。この人たちの研究の結果がそれぞれ学会で発表されてみると、ふしぎにもそれらが互いに一致しているので、これは確かな事がらであるとして認められるようになったのでしたが、そうなると、同じ事がらを研究した学者が以前にもありはしなかったかと云いうことが、学界の話題となりました。そして古い論文をしらべてゆくうちに、メンデルの研究が見つけ出されたのです。そしてすでに三十五年も前に、メンデルが立派に同じ結果を出して居て、且それを詳しく説明していることまで、すっかりわかったのでした。それでこれをメンデルの法則と称えるようになったのです。メンデルはつまりこのような事を何も知らないで、亡くなったのでしたが、学問の上の仕事は、それが正しければ、立派に残っていて、いつかは見つけ出されて、その偉大な栄誉をになうことのできるものであるということが、この一事によってもみごとに証拠立てられるのです。かくてメンデルは、たとえ不遇のうちに没したとしても、その名は、科学の歴史の上に限りなく燦然と輝くことでもありましょう。
三十五年も経ってから見つけ出されたメンデルの研究は、何という題の論文でしたか。
三十五年も経ってから見つけ出されたメンデルの研究は、「雑種植物の研究」という題の論文でした。
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歴史
関ヶ原の戦いと江戸時代の幕開け 徳川家康は織田信長と同盟し、東海地方での勢力を伸ばし豊臣政権下の1590年、徳川家康は勢力基盤を関東に移しました。また、豊臣政権下の徳川家康は五大老筆頭の地位にありました。 1598年に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康はその地位をさらに高め、豊臣政権の存続を望む五奉行の石田三成と対立しました。 1600年、関ヶ原の戦い 徳川家康らの東軍と石田三成らの西軍の戦いで、東軍の勝利。 東軍は徳川家康・福島正則・黒田長政ら、西軍は石田三成・五大老毛利輝元(盟主)・小西行長。 徳川家康は、西軍の諸大名に対する処分として、領地を没収する改易や削減する減封をおこないました。 この結果生じた空白地を東軍の諸大名に割り当てました。 徳川家康は、諸大名の配置決めを通じて全国支配を強め、1603年、征夷大将軍の宣下を受けて支配の正当性を得ました。 江戸幕府が開かれ、以降1868年までを江戸時代と呼びます。 徳川家康は、①②を実施することで支配者であることを知らしめました。 ①江戸城とその市街地造成の普請 ②国ごとの地図国絵図くにえずと村ごとの石高こくだかを郡単位で記載する郷帳の作成 1605年、徳川家康は将軍職を辞し、子徳川秀忠ひでただ に将軍宣下を受けさせました。 将軍職が徳川氏の世襲であることを天下に示し、家康は駿府に移り、大御所(前将軍)として実権を引き続き掌握しました。
1600年関ヶ原の戦いが行われた年は日本は何時代でしたか。
1600年は安土桃山時代です。
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歴史
607年、小野妹子が遣隋使として派遣され、隋の皇帝煬帝に国書を渡しました。 国書の名前が『隋書』倭国伝といいます。 大王「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」 大王も「天子」という称号を名乗り、隋と対等な立場を主張 煬帝「蛮夷の書、無礼なる者有らば、復以て聞する勿れ」 倭王(中国からの大王の称号)も「天子」と名乗ったことに憤慨しました。 煬帝は裴世清を倭国に派遣しました。 憤慨の一方で、高句麗との対立上倭国は無視できない存在となっていました。 608年、小野妹子が再度派遣され、隋に国書を届けました。 『日本書紀』(720年に編纂) 大王の称号に「天皇」を使用(『日本書紀』の編者による文飾) …中国から与えられた称号「倭王」を忌避 留学生高向玄理、学問僧旻・南淵請安も隋に派遣されました。 天皇号 7世紀後半からの使用開始が有力説 高向玄理・旻 大化改新で活躍しました。 隋の滅亡、唐の建国では、 隋が高句麗の征討に幾度も臨むと、国内で反乱が起きました。 618年、隋が滅亡して、唐が建国されました。 630年、犬上御田鍬が遣唐使として派遣されました。 以降も、菅原道真が894年に廃止を建議するまでしばしば派遣されました。
618年に隋が滅亡し唐が建国後、遣唐使として派遣されたのは誰ですか。
遣唐使として派遣されたのは犬上御田鍬です。
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歴史
10世紀頃から、中国大陸北部の遊牧民の活動が活発になっていきます。内モンゴルから中国北部にかけて支配していた遊牧民、契丹が遼を建国し、北満州には女真が金を建国します。 勢力争いを繰り広げていた遼と金でしたが1125年に金が遼を滅ぼします。 モンゴル民族は諸民族が存在していましたが、部族の長の子として生まれたテムジンが諸部族を統一し、チンギス=ハーンと称するようになります。その後も勢力を拡大させ、中央アジアや北西インド、南ロシアにまで広がる広大なモンゴル帝国となっていきます。 チンギス=ハーンの孫であるフビライ=ハーンはモンゴル帝国の五代目となった1271年に、国号を元と称し、都を大都(現:北京)に遷都します。 フビライ=ハーン率いるモンゴル帝国は中国大陸にも勢力を伸ばし、南宋に侵攻し、1276年に滅ぼします。そして南宋と朝貢(外国の使者が中国の朝廷に貢物をし、その地域を統治することを承認してもらうこと)関係にあった地域にも派兵して支配下に入れていきました。 朝鮮半島の高麗を支配した、フビライ=ハーンは、高麗を仲介として日本に国書を送り、朝貢を求めました。その当時、鎌倉幕府の実権を握っていたのは第8代執権の北条時宗でした。時宗は返書を送らず、朝貢を拒絶しました。 拒絶されたため、フビライ=ハーンは、1274年に元・高麗の連合軍で上陸します。九州の御家人らがこれを迎え撃ちますが、元軍の集団戦法やてつはうと呼ばれる火薬の武器に苦戦します。しかし、暴雨風により元軍の兵船が沈没し、大きな損害が出た結果、元軍は退却します。 退却したものの日本への侵攻を諦めないフビライ=ハーンは、1275年に更に使いを送りますが、時宗は応じないどころか、使いを切り殺してしまいます。そして御家人に九州を警備する異国警固番役を設け、襲来に備えます。 フビライ=ハーンは、1281年に二度目の兵を日本に派遣します。準備をしていた御家人らは奮闘しますが、今回も暴風雨に見舞われ、元軍の兵船の大半が沈没し、損害をこうむってしまいます。 三度目の襲来が来るのかどうかもわからない状況のため、鎌倉幕府は引き続き、九州の警備を続けていました。 しかし、三回目の元の襲来はありませんでした。
モンゴル帝国の創始者は誰ですか。
モンゴル帝国の創始者はテムジンであり、後にチンギス=ハーンと称した。
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歴史
1941年に、日本軍がハワイ湾に攻撃し、太平洋戦争が始まります。最初は勝利をおさめていた日本ですが、次第に戦況は悪化していきます。1945年3月には、硫黄島がアメリカ軍の手に落ち、同年4月には、沖縄本島にもアメリカ軍が上陸します。 日本で唯一の地上戦となった沖縄では、日本軍だけでなく、女学生によるひめゆり隊・白梅隊などの学徒隊をはじめ、多くの民間人が戦いに身を投じました。3ヶ月近く続いた地上戦で日本軍10万人弱、民間人10万人弱が命を落としました。 1945年2月の時点で、ローズヴェルト、チャーチル、スターリンの間で、ヤルタ会談が行われ、終戦が目前となったドイツの処理や、東欧について話し合われました。また、ソ連がドイツ降伏後、対日参戦することも秘密裏に決まりました。この会談でまとめられた秘密協定をヤルタ協定といいます。 ベルリンに連合軍が迫り、1945年5月にドイツは降伏します。同盟国が降伏し、日本は孤立無援となります。ドイツ降伏後の処理問題について、ベルリン郊外のポツダムで、トルーマン、チャーチル、スターリンらで話し合いました。(ポツダム会議)この会議でアメリカは対日戦の処理と無条件降伏を提案します。蒋介石の同意のもと、ポツダム宣言を日本に発令します。 ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を受け入れた日本は、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の間接統治下に置かれることとなります。日本が統治していた朝鮮や中国、台湾は、日本の植民地支配からソ連、アメリカの管轄下となります。 そして次第にアメリカとソ連の対立が激化し、冷たい戦争と呼ばれる冷戦へと入っていきます。ドイツが東西で分断され、その影響はアジアにも迫っていました。 国民党と共産党で内戦を続けている中国は、次第に共産党が優勢になります。1949年毛沢東を首席として、中華人民共和国が成立しました。国民党の蒋介石は台湾に逃れました。 朝鮮半島は、戦後日本の植民地支配から解放された後、北緯38度を境にソ連とアメリカに占領分割されていました。南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が樹立されます。ソ連とアメリカの対立によって分断された朝鮮半島は、対立の激化により朝鮮戦争へと向かっていきます。 1950年に始まった朝鮮戦争は、韓国軍と北朝鮮軍の戦闘ではありましたが、ソ連、アメリカの両者が介入し軍事支援を行なっていました。更にGHQのマッカーサーは指揮下の軍隊を朝鮮半島で使用する権限を国連から与えられ、米軍を朝鮮半島に派遣しました。一方北朝鮮には中国軍が加担しました。 全面戦争に発展する危険を避けるため、トルーマン大統領は強気なマッカーサーを解任し、ソ連の提案により、休戦会議が設けられます。その結果、1953年に休戦協定が結ばれます。北朝鮮と韓国は今もなお休戦状態にあります。
冷戦が始まる要因となった出来事は何ですか。
冷戦は、日本の植民地支配の解体後の勢力分割、ドイツの分断、そしてソ連とアメリカの対立の激化によって始まった。
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歴史
 黄泉神(よもつかみ)は、黄泉国の場面で前触れなく名前が出てきており、天地のはじまりや岐美二神の神生みで高天原や葦原中国に生まれた神々とは一線を画する存在として考えられる。それは、伊耶那美神の神避りによって初めて語られる黄泉国がどのような世界であるかということに関わってくる。  黄泉神の神格は、黄泉国の主宰神と考えられるが、伊耶那美神の「且く黄泉神と相論はむ」という言葉に名前が出てくるだけで、その事跡は語られていないため、登場理由や具体的な性格は明らかでない。そのため、この神の登場は、伊耶那美神がその後、黄泉津大神になるまでの話の筋立て上設定されたに過ぎないとする見方がある。  また、黄泉国での伊耶那美神の別名、黄泉津大神との神格の類似や対応が考察されている。伊耶那美神が死を司る神の性格を得て黄泉津大神になったことを、黄泉国の主宰神が黄泉神から伊耶那美神に交替したことと考え、それまで天上や国土とは隔絶した位置付けであった黄泉国が、それによって天皇の系列による統治に切り替わり、高天原や葦原中国と並ぶ統治領域に組み込まれたことを表しているとする説がある。  黄泉国がどのような世界であるかは、様々な方面から考察されている。漢籍における漢語「黄泉」は、地下の世界を指しているが、この字面が『古事記』中の、あるいは一般的な和語としてのヨミとどう対応しているかは問題である。『古事記』の黄泉国も、地下の死後世界として論じられることが多いが、これに対して、本文の文脈からは、地下の世界であるとはっきり読み取ることができないという指摘があり、そもそも日本古代の他界は、地下ではなく、墳墓や葬送の地であった山中にあったということが論じられている(『万葉集』2・165、3・417、『日本霊異記』下22、下23など)。それに関連して、ヨミという語は、その古形ヨモがヤマ(山)と母音交替による造語関係を持っていると解する説もある。このように黄泉を地上の延長として捉えると、『古事記』の黄泉国は、葦原中国と上下の位置関係にある世界ではなく、葦原中国の存在する「国」(「天」に対する)における同一平面上に在って人間に死をもたらす世界として位置付けられるとする説がある。一方で、『古事記』の黄泉国がまさしく山中の他界を指しているかということにも疑問は残り、「黄泉」という表記によって、ヨミという和語の山中の基層的なイメージから、漢語「黄泉」の持つ地下的な他界の観念に移し替えられているとする説がある。  また、記紀の黄泉国が、古墳時代の横穴式石室の構造やその葬儀を反映しているとする説が広く行われており、考古学的にも検討が進められている。しかし、これに対しては批判もあり、5~6世紀にかけて導入された横穴式石室では、飲食供献を伴って丁重に行われた死者への祭祀の場という、3世紀以来の古墳の性格が継承されていたが、7世紀に祭祀を伴わない遺体を安置する墓としての横口式石槨が普及し、古墳は祭祀の場としての性格を喪失した。記紀が編纂された時代はその変質の後であり、そこに描かれた黄泉国からは、古来の横穴式石室の祭祀の性格は読みとりがたく、飽くまで忌避すべき恐ろしい穢れの世界として表現されているため、横穴式石室の儀礼とは直ちに結びつかない、という。また他に、死者の葬られた墳墓ではなく、生死不明の状態からの復活を願う殯(あらき、もがり)の儀礼の反映とする説もある。
黄泉神は、天照大御神と同じ系統の神として扱われていますか。
いいえ。黄泉神は天照大御神など高天原の神々とは別系統の神と考えられています。
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歴史
江戸時代の教育施設は寺子屋だけではありません。藩校もまたその一つであり、藩校とは各藩が藩に仕える武士…すなわち藩士を教育するための施設です。分かりやすく区別すれば、寺子屋が庶民の教育機関であることに対して藩校は藩士の教育機関になります。 武士を教育する点から考えて当然武芸を教えていることは想像できますが、それだけでなく漢学を中心とした儒学も教えていました。また、江戸時代が進む中で外国の文化が取り入れられるようになると、藩士もそれに合わせるように蘭学なども教えるようになったそうです。 そもそも、武士には教養も求められていましたから、藩主は藩を統治するための教養を身につける必要があり、そのため藩主も当初は学ぶ立場にありました。それが次第に側近・家臣と対象が広がっていき、ついには武士の誰もに教養が必要であると判断、その末に誕生したのが藩校というわけです。 江戸時代の主役は武士ですから、その武士が教育を受ける施設である藩校は寺子屋以上に名が知れていました。ですから、中には有名な藩校もいくつかあります。例えば会津藩の藩校である日新館は、会津戦争の悲劇として語られる白虎隊もそこで学んでいたそうです。 そして、岡山藩の藩校である閑谷学校は、全国に存在する藩校の中でも最初に作られた藩校として知られています。さらに紀州藩の藩校である学習館は、国学者として歴史に名を残した本居宣長の出身校。長州藩の藩校である明倫館は、桂小五郎や吉田松陰や高杉晋作の出身校でした。 また、薩摩藩の藩校である造士館も多くの有名な藩士の出身校となっていて、西郷隆盛や大久保利通など明治維新で名を残した人物の名前が挙がります。他にも有名な藩校を挙げると、水戸藩の藩校である弘道館では幕末に広まる尊王攘夷運動の中心となる考え方を教えていました。
蘭学は、どこの国の学問ですか。
蘭学は、オランダの学問です。
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歴史
平賀源内の生涯  平賀源内は讃岐国志度浦の新町で生まれました。その年ははっきりしないので、後に安永八年に歿した際に、年齢が四十八歳であったとも云い、また五十一歳、又は五十七歳であったとも云われていたので、どれが正しいかわからないのですが、位牌には五十二歳と記されているそうで、この五十二歳を採れば、享保十三年に生まれたことになるのです。父は茂左衞門國久と云い、高松侯の足軽であったと云うことです。平賀家の古い祖先は平賀三郎國綱と称し、その子の國宗が奥州白石に住んでいたことから白石という姓を名のっていたのが、後にまた平賀姓に復したのだとも伝えられています。何れにしても源内の生まれた頃には、身分も低かったのですから、そのなかから学問好きの源内が現れたと云うのは、一つの驚くべき事がらにはちがいありますまい。  幼名は四方吉と云い、後に傳次郎、それから嘉次郎とも称しました。生長してからは國倫と称し、字あざなを士いと号したのです。元内又は源内というのは通称で、そのほかにいろいろな号をその著述の上では使っています。鳩溪、風來山人、天竺浪人など、そのなかで多く用いられたものでした。  前にも記しましたように、源内の生まれた頃には世のなかでは儒教や仏教や神道が盛んで、それらに属する古い書物を習い覚えることが一般の慣いであったのでした。またその半面には、名だかい西鶴の浮世草紙に続いて、いろいろな読み本や、洒落本などと称えるものがたくさんに出はじめた頃でもあったのでした。ですから源内の眼にもそういうものが触れないわけではなかったので、現に源内自らも後年になってたくさんの滑稽本や洒落本を著しているのですが、それでいて他面にはいろいろな学問の道にも進もうとしたのですから、その頃として実に多芸多才な点で稀まれに見る人物であったと云ってよいのでしょう。  源内が学問を志すようになったのは、幼少の頃から藩の医者に接近していたことや、また薬園に勤めて本草学に興味をもつようになったのに依よると云われていますが、ともかくも生来そういう学問を好んでいたには違いなかったのでしょう。それで年が長じてから長崎まで赴いて、そこで熱心にオランダ語を学び、オランダ人について薬物をいろいろ研究したのでした。このような本草ほんぞう学や薬物の研究が源内の学問の道への出発点となったのでしたが、源内はその後あらゆる方面の知識を修めようと志したのでした。それで、やがて江戸詰となって江戸に来てからは、林信言や三浦瓶山について漢学を修め、賀茂眞淵から国学を学び、服部南郭や石島筑波から修辞を習い、更に江戸幕府の官医田村藍水から本草学を一層詳しく学び、その間に当時名高かった杉田玄白、中川淳庵、太田蜀山人、松田元長、千賀道有などと云う人々と親しく往来して、いろいろな見聞を広めたので、その学識もあらゆる方面にわたり、これが明敏な彼の性質と相俟あいまって、一世にその多技多能を謳うたわれるようになりました。宝暦十一年に俸禄ほうろくを辞してからはどこにも仕えなかったので、なかには彼を招こうとする諸侯もいろいろあったのでしたが、特別な仕事のほかはそれに応じなかったと云うことです。しかしその間に自らは貨殖の途を講じて、いろいろの計画を立てましたが、これにはいつも成功しなかったので、それで煩悶しているうちに、世のなかに対する不平不満が多くなり、それをどうにかして晴らそうと思って、たくさんの戯作をつくり、そのなかで自分の欝憤を晴らそうともしたのでした。源内ほどの多芸の人も時世がそれに適応しなかったことによって十分にその手腕をふるうことのできなかったのは、まことに遺憾と言わなければなりますまい。
平賀源内は何県で生まれましたか。
平賀源内は香川県で生まれました。
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歴史
封建制の衰退 農奴解放の動き 背景1-貨幣経済の浸透 封建制では、領主は所有地(荘園)に住む農民を使役し、生産物などを納めさせました。 この頃の農民は、移動などの自由がない「農奴」と言える状態でした。 14世紀、貨幣経済が浸透すると、領主は地代として貨幣を納めさせました。 農民は市場で生産物を売り、地代を納めた残りの貨幣を貯えました。 農民のなかには、貯えた経済力で自由を得る者もいました。 背景2-人口の減少 14世紀 、気候の寒冷化、凶作・飢饉、黒死病 (ペスト)の大流行で人口が減少しました。 黒死病一説によれば、この疫病で全ヨーロッパの人口の約3分の1が減少 農業人口が減り、領主は荘園の労働力確保を迫られました。 領主は、農民の身分的自由を認めて待遇を向上させ、労働力を確保しました。 黒死病(ペスト)の流行の結果、農民の地位が向上しました 。 自営農民への成長 農民たちは、領主の身分的束縛から解放された「独立自営農民」に成長しました。 イギリスの独立自営農民は、ヨーマン と呼ばれました。 領主が再び農民を身分的に束縛しようとすると、農民は次のような農民一揆を起こしました。 1358年、ジャックリーの乱 フランス で起こった、増大した負担に対する農民一揆 ジャックは農民に対する蔑称 この時のフランスは百年戦争 中 1381年、ワット=タイラーの乱 イギリスで起きた農民一揆で、ワット=タイラーが指揮し、ジョン=ボールが思想面から鼓舞 一揆の原因は領主による束縛の強化 領主の困窮と騎士の没落 商工業の発展のなか、固定された地代に頼る領主は困窮しました。 なかでも騎士階級であった領主は、国王や諸侯から領地を没収されることもありました。 14~15世紀、騎士は火砲の使用が広まったことで没落しました 。
14世紀 、黒死病 (ペスト)の大流行で人口が減少したのは日本ですか。
14世紀 、黒死病 (ペスト)の大流行で人口が減少したのはヨーロッパです。
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歴史
■動乱の幕末において徳川将軍家を支えたエリート  小栗忠順は、江戸幕府12代将軍の家慶、13代家定、14代家茂、15代慶喜とい う4人の将軍に仕えた、幕末期の幕臣だ。  小栗は文政10年(1827)に江戸駿河台の屋敷で誕生。父は新潟奉行を務めた 小栗忠高である。安政2年(1855)に家督を相続した頃の日本は、黒船来航を 機に長年続いた安寧の世が揺れ動いており、小栗もその波に身を投じていくこ とになる。  安政7/万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書交換のために、幕府 使節の1人として渡米。フィラデルフィアで行われた通貨交換比率の見直しの 交渉の席についたり、ワシントンの海軍工廠の見学などを行ったりした。こう した経験から、小栗は海外の技術が日本より大幅に進んでいることを身をもっ て知ったといわれている。  その後、大西洋を越えて“世界一周”を果たす形で品川に帰着。この一連の 遣米使節の功績が認められて外国奉行に任命された。その後は勘定奉行、江戸 町奉行、陸軍奉行、軍艦奉行など、幕府の要職を歴任して、徳川の世を支える べく活躍していく。  また、横須賀製鉄所の建設も特筆すべき功績だろう。莫大な費用がかかるこ とから幕府内部からの反対も大きかったが、実際に海外で目にした先進的な技 術を日本に取り入れるために、スピーディーに事を進めて押し切るという豪胆 さも持ち合わせていた。  さらにその横須賀製鉄所のトップにフランス人を任命するという異例の人事 を断行し、経営学や人事労務などの基礎を日本に導入することにも成功してい る。加えて、横浜仏蘭西語伝習所の設立や銃砲製造の改善、日本初の西洋式火 薬工場の建設、陸軍の軍事改革などにも関わった。  新たな国のあり方を構築していく立場として、様々な取り組みを推し進めて いった小栗の存在感は極めて大きかっただろう。長い鎖国時代が終わりを告げ て新たな世の幕開けを感じるなか、経済・軍事・外交の面で幕府に貢献し続け た人物であり、「明治の世における日本の近代化の基礎をつくった人物」とも 称される所以はここにある。  小栗の運命が大きく狂ったのは、15代将軍慶喜による大政奉還の後である。 小栗は恭順論を述べる勝海舟とは反対に徹底抗戦を唱えた。「薩長軍が箱根を おりてきたところを陸軍で迎撃、艦砲射撃で後方部隊も壊滅状態にして薩長軍 をせん滅する」という作戦を提案したが、これは慶喜によって退けられる。後 にこの策を聞いた大村益次郎は「その策が実行されていたら今頃我々の首はな かったであろう」と恐れたそうだ。そして慶応4年(1868)1月、役職すべてを 罷免され、上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市)へ家族と共に移り住ん で、静かに余生をおくろうとしていた。  しかし、間もなく「軍資金を江戸城から運び出して新政府に対する反乱を企 てている」という嫌疑をかけられてしまう。新政府軍側の東山道総督府に対し て恭順の意を示し、抵抗もしなかった小栗だったが、最終的に捕縛され、まと もな取り調べもなされないまま慶応4年閏4月6日に42歳で斬首された。  この出所不明の嫌疑と非業の死は「徳川埋蔵金伝説」と絡んで、現代まで伝 わっている。大河ドラマでは「幕末史の裏側」を描くということで、激動の時 代を駆け抜ける新たな小栗忠順像を楽しみにしたい。
小栗忠順は海外へ行ったことがありますか。
小栗忠順は海外へ行ったことがあります。
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歴史
日本で最も有名な土偶の一つ、教科書でもおなじみの遮光器土偶です。極端に大きな目の表現が遮光器(スノーゴーグル)に似ていたことから遮光器土偶と呼ばれています。デフォルメされた体の表現とともに、全身に覆うように施された文様が見どころの土偶です。 これは縄文時代に土でつくられた人形(ひとがた)、土偶です。土偶の中でも、日本で最も有名な土偶の一つです。明治時代に発見され、独特な目の表現が雪の照り返しを防ぐ遮光器(しゃこうき)、つまりスノーゴーグルに似ていたことから遮光器土偶と名付けられました。現在では、遮光器をつけているのではなく、目を誇張した表現だと考えられています。大きな目とは対照的に、耳、鼻、口は小さく表されています。また、両肩の張りや、腰のくびれが誇張された胴体には、短い手足がついています。よく見ると、頭などに赤い彩色が残っているのが見えます。製作当時は全体的に赤く塗られていたのです。 当時の人々のファッションを知る材料として土偶の姿が参考にされることもあります。頭にある冠のような装飾は、当時の女性が髪を結った様子やかんざしを表したと考えられています。また、首の周りの装飾は、首飾りや胸飾りを表現したといわれています。どうぞじっくりご覧いただき、縄文時代の人々のファッションを想像してみてください。 土偶は縄文時代の草創期から登場しますが、一貫して女性像として作られます。これは、女性が命を産みはぐくむことに由来し、安産、子孫繁栄、豊かな自然の恵みなどを祈る際に使われたためと考えられています。
遮光器土偶は男性を模した像ですか。
いいえ。遮光器土偶を含むすべての土偶は、女性を模して作られています。
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歴史
三淵藤英は、世間的には知名度は決して高くはありませんが、果たしてどのような人物なのでしょうか。 室町幕府の重臣の家の嫡男に生まれた藤英は、言わば幕臣のエリート人生が最初から約束されたと言っても過言ではない人生でした。 悠々自適の御曹司生活に、将来の出世街道間違いなしと言いたい所ですが、すでに室町幕府は権威を失い、将軍その人ですら本拠地京から追い出される始末でした。 そんな時代に生まれた藤英は、はっきりと何をしたと言う功績は残っていませんが、弟細川藤孝と共に将軍を支え室町幕府復権へと動いた人物です。 前半期の人生に関しては、正直史料が無くはっきりしない藤英ですが、幕臣の嫡男に生まれた藤英は規定路線通り、12代将軍足利義晴に仕えました。 戦をして功績をあげると言うよりも裏方の実務者として功績を残した人物と言うべきでしょう。 そして最後まで将軍への忠義を貫いた人でした。 前半期の人生に関しては、正直史料が無くはっきりしない藤英ですが、幕臣の嫡男に生まれた藤英は規定路線通り、12代将軍足利義晴に仕えました。 弟藤孝は、同じ幕臣の細川家の養子になり、家は、違えど兄弟共に足利家に仕えていました。 しかし、時の権力闘争に巻き込まれ敗北をきした義晴は、現役将軍ながら本拠地京を追われ、近江と京を行き来するという屈辱を味わっていました。 それだけ当時の幕府には、すでに権威が地に落ちていたと言うことでしょう。 義晴は、何とか我が子への将軍就任をスムーズに行うため、息子「足利義輝」に13代将軍を就任させ隠居します。 義輝は、そんな父を見ていたせいか幕府の復権を切に願っていました。 将軍に就任した義輝は、率先して幕府復権のために動き京へ復帰するも再び追いやられるという先代と変わらない事態を招いていていました。 そんな義輝の願い、幕府復権のために裏で実務を担当していたのが、藤英・藤孝兄弟でした。 しかし、権力闘争を終着させ、五年振りに義輝は京へ帰還すると、幕府復権を強めるために積極的に将軍の威光を使い各地の戦国大名のいざこざを纏めるなど積極的に活動します。 ですが、表面上は決着した闘争とは言え、自ら指図し始める将軍を快く思わない家臣がいるのも実情で、全てが藤英兄弟のように真面目に仕えている訳ではなかったのですね。 自らが権力握るため、自分の思うままに動く将軍擁立を目指した三好三人衆によって、こともあろうか現役将軍が暗殺されてしまうのでした。
藤英・藤孝兄弟のうち、どちらが三淵家の跡継ぎですか。
藤英・藤孝兄弟のうち、三淵家の跡継ぎは藤英です。
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歴史
柳条湖事件は、1931年に満州(今の中国東北部)で起きた出来事です。 当時日本が権益を持っていた南満州鉄道(満鉄)の線路が柳条湖という場所で何者かに爆破されるという事件が起きました。 爆破そのものは小規模で、事件が起きたすぐ後に列車が通過しても脱線などの事故が起こらず、無事だったことからも明らかになっています。 現地駐屯の日本軍である関東軍はこの事件を中国軍の犯行と発表しました。 しかし、実際にはこの事件は関東軍が自ら行った謀略だったのです。 この事実を日本国民が知るのは太平洋戦争終結後。戦時中は関東軍が発表したことを大多数の日本人は事実だと思っていたのです。 この事件をきっかけに、関東軍は中国軍に攻撃をしかけます。 中国軍、といっても統一政府ではなく、満州を支配していた張学良の軍隊でした。しかも主力は北京にいるので残存部隊だけです。 一方、関東軍は日本軍の中でも精鋭ぞろいとされていました。 こうして始まったのが満州事変になります。 当初、日本政府や軍中央は事件を拡大させる方針はありませんでしたが、現地軍が無断で戦域を拡大していき、それに引きずられる形で政府も現地軍の行動を認めざるを得なくなりました。 蒋介石が張学良に日本軍に対して積極的に抵抗しないように促したこともあり、わずか6カ月で日本軍は全満州を占領。 清朝最後の皇帝であった溥儀をたて、満州国を建国します。 もともと清朝は満州地方を拠点にしていましたので、縁のある人物をトップに据えたことになります。 しかし、この国は日本の傀儡国家でした。満州国の要職には日本人が配置され、溥儀はただの飾りにすぎなかったのです。 当初、日本の満州での軍事行動は自衛のためのものとして国際社会も日本の行動を好意的に見ていました。 しかし、満州全土の占領と満州国建国で警戒感を持たれてしまいます。 国際連盟はこの状況に対してイギリスのリットン卿をリーダーとするリットン調査団を満州に派遣、満州国の実態を調べました。 結果、日本の満州における権益は認めるものの、軍事行動は自衛とは認められませんでした。 この決議に日本は反発し、1933年国際連盟を脱退。 こうして日本は国際的孤立の道を歩むことになります。 盧溝橋事件は、北京の郊外にある盧溝橋で起きた日中の軍事衝突です。 北京に日本軍がいた理由は1900年に起きた義和団事件まで遡ります。 この事件の結果結ばれた北京議定書において、日本を含む列強国の駐兵が北京などに認められていました。 1937年7月7日夜、盧溝橋付近でこの日本軍部隊が演習を行っていました。 ちょうどその近くに蒋介石の中国国民党軍の部隊も展開していました。 午後10時40分ごろ日本軍が空砲を発射したところ、中国軍のいる方向から実弾が飛んできました。 これを機に日本軍は中国軍と武力衝突することになります。 数日の戦闘ののち、現地では日中双方の代表者による話し合いが持たれ一旦は収集します。 しかし、日本政府は増援軍の派遣を決定。中国側も共産党が国民党と協力して日本と戦う国共合作を主張、蒋介石も徹底抗戦の決意を表明しました。 こうして日本は中国との泥沼の日中戦争に陥っていくのです。 日中戦争は両国の外交官によってはたびたび和平の試みがありました。 しかし、その度に中国軍の日本軍への攻撃があり、解決しなかったのです。 このことには蒋介石が中国世論を無視してでも抗日戦争を続けなければ中国軍の支持を失い、失脚していた可能性があるから、という指摘もあります。
柳条湖事件と盧溝橋事件について説明してください。
柳条湖事件は1931年に満州(今の中国東北部)で起きた、南満州鉄道(満鉄)の線路が柳条湖という場所で何者かに爆破されるという事件です。 実際には、関東軍が自ら行った謀略だったということが後に判明しました。 盧溝橋事件は、1937年に北京の郊外にある盧溝橋で起きた日中の軍事衝突です。 盧溝橋付近で日本軍部隊が演習を行っており空砲を発射したところ、近くに展開していた蒋介石の中国国民党軍の部隊の方向から実弾が飛んできたことが引き金になり、日本軍と中国軍の武力衝突となりました。
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歴史
教育 学校体系の整備 1872年公布の学制の下、小学校教育の普及が進められました。 結果、義務教育の就学率は次第に高まりました。 しかし、地方の実情を無視した画一的な強制には、批判の声もありました。 1879年、教育令公布 アメリカの教育制度を参考に、学制を改正した法令 ①全国画一の学区制を止め、小学校設置を町村の自由裁量に変更 ②小学校管理を地方に移管し、就学義務を緩和 1880年、教育令改正 強制から放任への転換が混乱を招いたため、政府の権限を強化 1886年、学校令公布 1886年の学校制度に関する法令の総称 文部大臣森有礼もりありのりのもとで公布 唯一の官立大学であった東京大学を帝国大学に改組 尋常小学校4年間が義務教育 学校令 帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令の総称 1900年の義務教育の授業料廃止で、1902年の平均就学率は90%超え 1907年の小学校令の改正で、義務 教育6年制成立 国家のための教育 教育政策は、次第に思想統制の役割を強め、次のことが取り組まれました。 1890年、教育勅語(教育に関する勅語) 忠君愛国が学校教育の基本と示した天皇の言葉(起草者:元田永孚ながざね) 1903年、国定 教科書の使用の義務化 検定制を止めて、文部省が著作し、教育に対する国家の統制を強化
学校制度が整備される中で、当時の保護者や地域社会にはどのような心配があったと推測できますか。
学校制度が整備される中で、当時の保護者や地域社会には子どもの労働力を失ったり授業料のお金についての心配があったと推測できます。
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歴史
源頼朝は天皇の血筋を引き、源義朝の遺児のなかでも年長でした。 反平氏の際には、血筋ゆえに頼朝のもとに東国の武士が結集しました。 1180年、頼朝は挙兵して、相模国鎌倉を根拠地に勢力を強めました。 1183年(平氏の敗走後)、寿永二年十月宣旨 当時、争乱や飢饉で東国の荘園・公領からの税納入が停滞 朝廷は頼朝に税納入を保証させ、代わりに東国の実質的な支配を許可 1185年の平氏滅亡後、後白河上皇は頼朝を恐れ、源義経に追討を命じました。 頼朝は先んじて都に軍を送り、後白河に義経追討の命令を出させました。 加えて頼朝は、追討のために後白河から次の2つの権利を得ました。 諸国に守護を、公領・荘園に地頭を置く権利 公領・荘園から1段あたり5升の兵粮米を徴収する権利 頼朝の支配が西国にも及びました。 鶴岡八幡宮(鎌倉にある、源氏ゆかりの場所) 源頼朝に追われた源義経は、奥州藤原氏の藤原秀衡を頼りました。 秀衡の死後、子の藤原泰衡は頼朝を恐れて義経を自殺に追い込みました。 頼朝は義経をかくまったことを理由に、奥州藤原氏を滅ぼした。 後白河上皇の死後、1192年に頼朝は征夷大将軍に就任しました。 名実ともに鎌倉幕府が成立し、以降の鎌倉幕府の滅亡までの時代を鎌倉時代と呼びます。
鎌倉幕府ゆかりの地は現在の何県にあたりますか。
鎌倉幕府ゆかりの地は現在の神奈川県にあたります。
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歴史
縄文時代の展開 地球が約1万年前に更新世から完新世に移った頃、2つの時代区分も変化しました。 石器による区分 旧石器時代から新石器時代(約1万2000年前~) 土器による区分 先土器時代から縄文時代(約1万2000年前~) 縄文時代の食料獲得の手段には、次の3つがありました。 狩猟・・・中・小型動物(イノシシ・ニホンシカ)が狩猟対象 採取・・・豊富な木の実(クリ・クルミ・カシ)が採取可能 漁労・・・食料獲得の手段に新たに追加 これらは、旧石器時代と比べて食料獲得手段の多様化を意味します。 これによって生活が安定し、定住生活が始まりました。 住居は竪穴住居で、飲料水確保のために水辺近くの台地に立地しました。 住居以外に、食料を保存する貯蔵穴群や墓地、ゴミ捨て場の貝塚がありました。 これら住居・設備をもち、人々は20~30人程度の集団で生活しました。 道具の変化 打製石器とともに、磨製石器を様々な場面で利用しました。 狩猟では、素早い中・小型動物を捕らえるために、弓矢・落とし穴を利用しました。 石器としては、矢の先に取り付ける石鏃や、 動物の皮を剥ぐための石匙などが利用されました。 採取では、採取した木の実を石皿・すり石ですり潰したり、土器で煮て灰汁あく 抜きしたりしました。 土器は縄目文様をもつことから縄文土器と呼ばれ、低温(600℃程度)で焼成されたために、厚手で黒褐色です。 漁労では、骨・角を材料とした骨角器(釣り針・銛もり など)や、丸木舟と呼ばれる舟を利用しました。 弥生文化の特徴 紀元前6500~5500年頃、中国の長江下流域で稲作が始まりました。 道具の変化と追加で金属器の利用が始まりました。 銅と錫の合金である青銅器(祭器に利用)と、鉄器(工具・農具に利用)が大陸から伝来しました。 土器の変化 弥生土器は、縄文土器よりも高温で焼かれるため、薄手で赤褐色が特徴です。 用途別には、煮炊き用の甕かめ、貯蔵用の壺つぼ、食物を盛る鉢や高杯たかつきがありました。 朝鮮系の磨製石器 稲の穂摘み用具の石包丁が利用されました。 縄文時代から弥生時代にかけ、金属器の利用が始まり生活もかわっていきました。
縄文土器と弥生土器のそれぞれの特徴は何ですか。
縄文土器は低温(600℃程度)で焼成されていたため、厚手で黒褐色が特徴です。弥生土器は、弥生土器は、縄文土器よりも高温で焼かれるため、薄手で赤褐色が特徴です。
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歴史
アヘン戦争の衝撃 1842年、清はイギリスにアヘン戦争で敗れ、南京条約を締結しました。 この条約で、清は国交・通商の制限を緩めた、つまり「開国」しました。 清の敗北や西洋の脅威は、オランダ風説書で日本に伝えられました。 1825年以来の異国船打払令(無二念打払令)は、西洋の報復を招く恐れがありました。 1842年、老中水野忠邦は異国船打払令を撤回して薪水給与令を出し、異国船には帰国を説得し、必要であれば燃料・食糧を給与することにしました。 1844年、オランダ国王は国書にて、日本の「開国」を説きました。 幕府はこの忠告を謝絶し、「鎖国」維持の意向を伝えました。 米露の「開国」要求 19世紀、アメリカは捕鯨船や清との貿易船の寄港地を日本に求めました。 1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが、浦賀に来航して国交・通商を求めました。 幕府はこれを拒絶し、ビッドルも積極的関心をもっていなかったため退去しました。 1848年、アメリカがカリフォルニアを獲得し、領土を太平洋岸に到達させました。 アメリカは、以前にも増して寄港地を日本に求めるようになりました。 1853年6月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが、浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して国交・通商を求めました。 幕府は国書を受け取り、翌年回答することを約束してペリーを退去させました。 1853年7月、ロシア使節プチャーチンが長崎 に来航し、国交・通商と国境画定を求め、交渉中に退去しました。 幕府との交渉が長引くなか、プチャーチンは中断して退去しました。 ペリー来航直後、13代将軍徳川家定のもとで老中阿部正弘は、日本一丸で異国へ対抗しようとしました。 先例を破り、朝廷に国書について報告し、藩主らに回答について意見させました。 また、海防に意欲的な前水戸藩主徳川斉昭 を幕政に登用しました。 幕政に関わらせたことは、朝廷や雄藩の藩主の幕政介入を招く転機となりました。 和親条約締結 1854年、日米和親条約締結 再度来航したペリーが締結した和親条約 必要な場合、燃料・食糧などを給与 難破船や乗組員を救助 2港下田・箱館を開港し、領事の駐在を許可 日本のみが義務を負う一方的な最恵国待遇を許可 最恵国待遇 日本が他国と新たに結んだ条約の内容に、アメリカには認めていない 有利な条件があれば、自動的にアメリカにも許可 1855年、日露和親条約 締結 再度来航したプチャーチンと下田で締結した、日米和親条約と類似の和親条約 3港下田・箱館・長崎を開港 択捉島以南を日本領、得撫島以北をロシア領と画定 樺太は国境を定めず、両国の人々の雑居を約定 長崎 一方的な最恵国待遇に従い、日本はアメリカにも開港 イギリス・オランダとも日米和親条約と類似の和親条約が締結されました。
ペリーが来航したのは現在の何県にあたりますか。
ペリーが来航したのは現在の神奈川県にあたります。
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歴史
世界恐慌 暗黒の木曜日 1920年代、アメリカでは次の2つの状況が生じていました。 輸出盛況による、アメリカの農産物・工業製品の過剰生産 好景気による、アメリカ企業の株の投機 株価 企業の業績・株の人気に応じた人々の株の売買で変動(業績悪化=株価下落) 西洋諸国が第一次世界大戦後の経済復興に徐々に成功し始めました。 アメリカで生産された品物が売れず、企業の業績も悪くなりました。 株価の下落を恐れた人々が、急いで株を売り、株の人気をさらに下げました。 1929年10月、ニューヨーク(ウォール街)の株式市場で株価が暴落し 、アメリカで大不況(恐慌)が始まりました。 企業の倒産、工場の閉鎖、失業者の増加など、経済が破綻しました。 国際金融の中心であるアメリカの恐慌は、全世界に波及しました。 アメリカから始まった恐慌は、規模・期間の長さから世界恐慌と呼ばれます。 その他の背景 恐慌の背景には、次のこともあげられます。 1920年代の経済の長期拡大の反動 国内産業を保護するための関税引き上げが国際貿易を縮小 アメリカ 経済不干渉と失敗 1931年、アメリカ大統領フーヴァー は、世界恐慌への対応として、ドイツの賠償金支払いと連合国の戦債支払いを1年間停止することを宣言しました。 フーヴァーは、ヨーロッパを安定させて恐慌の拡大を防ぎ、経済への干渉を極力避けることで、資本主義経済の自動調節機能に期待しました。 この宣言はフーヴァー=モラトリアム と呼ばれ、効果がありませんでした。 資本主義経済の自動調節機能 アダム=スミスの提唱した「見えざる手」のこと。
世界恐慌になると治安はどうなりますか。
世界恐慌になると治安は悪くなります。
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歴史
鎌倉幕府の成立 源頼朝は天皇の血筋を引き、源義朝の遺児のなかでも年長でした。 反平氏の際には、血筋ゆえに頼朝のもとに東国の武士が結集しました。 1180年、頼朝は挙兵して、相模国さがみのくに鎌倉を根拠地に勢力を強めました。 1183年(平氏の敗走後)、寿永二年十月宣旨 当時、争乱や飢饉で東国の荘園・公領からの税納入が停滞 朝廷は頼朝に税納入を保証させ、代わりに東国の実質的な支配を許可 1185年の平氏滅亡後、後白河上皇は頼朝を恐れ、源義経に追討を命じました。 頼朝は先んじて都に軍を送り、後白河に義経追討の命令を出させました。 加えて頼朝は、追討のために後白河から次の2つの権利を得ました。 ①諸国に守護を、公領・荘園に地頭を置く権利 ②公領・荘園から1段あたり5升の兵粮米ひょうろうまいを徴収する権利 頼朝の支配が西国にも及びました。 名実ともに幕府成立 源頼朝に追われた源義経は、奥州藤原氏の藤原秀衡を頼りました。 秀衡の死後、子の藤原泰衡は頼朝を恐れて義経を自殺に追い込み、 頼朝は義経をかくまったことを理由に、奥州藤原氏を滅ぼした。 後白河上皇の死後、1192年に頼朝は征夷大将軍に就任しました。 名実ともに鎌倉幕府が成立し、以降の鎌倉幕府の滅亡までの時代を鎌倉時代と呼びます。
1192年に征夷大将軍となった頼朝がつくった幕府はなんでしょうか。
1192年に源頼朝がつくった幕府は鎌倉幕府です。
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歴史
縄文時代の展開 地球が約1万年前に更新世から完新世に移った頃、2つの時代区分も変化しました。 石器による区分 旧石器時代から新石器時代(約1万2000年前~) 土器による区分 先土器時代から縄文時代(約1万2000年前~) 縄文時代の食料獲得の手段には、次の3つがありました。 狩猟・・・中・小型動物(イノシシ・ニホンシカ)が狩猟対象 採取・・・豊富な木の実(クリ・クルミ・カシ)が採取可能 漁労・・・食料獲得の手段に新たに追加 これらは、旧石器時代と比べて食料獲得手段の多様化を意味します。 これによって生活が安定し、定住生活が始まりました。 住居は竪穴住居で、飲料水確保のために水辺近くの台地に立地しました。 住居以外に、食料を保存する貯蔵穴群や墓地、ゴミ捨て場の貝塚がありました。 これら住居・設備をもち、人々は20~30人程度の集団で生活しました。 道具の変化 打製石器とともに、磨製石器を様々な場面で利用しました。 狩猟では、素早い中・小型動物を捕らえるために、弓矢・落とし穴を利用しました。 石器としては、矢の先に取り付ける石鏃や、 動物の皮を剥ぐための石匙などが利用されました。 採取では、採取した木の実を石皿・すり石ですり潰したり、土器で煮て灰汁あく 抜きしたりしました。 土器は縄目文様をもつことから縄文土器と呼ばれ、低温(600℃程度)で焼成されたために、厚手で黒褐色です。 漁労では、骨・角を材料とした骨角器(釣り針・銛もり など)や、丸木舟と呼ばれる舟を利用しました。 弥生文化の特徴 紀元前6500~5500年頃、中国の長江下流域で稲作が始まりました。 道具の変化と追加で金属器の利用が始まりました。 銅と錫の合金である青銅器(祭器に利用)と、鉄器(工具・農具に利用)が大陸から伝来しました。 土器の変化 弥生土器は、縄文土器よりも高温で焼かれるため、薄手で赤褐色が特徴です。 用途別には、煮炊き用の甕かめ、貯蔵用の壺つぼ、食物を盛る鉢や高杯たかつきがありました。 朝鮮系の磨製石器 稲の穂摘み用具の石包丁が利用されました。 縄文時代から弥生時代にかけ、金属器の利用が始まり生活もかわっていきました。
縄文時代と弥生時代の道具の特徴は何ですか。
縄文時代は、打製石器とともに、磨製石器を様々な場面で利用。石器としては、石鏃や石匙などが利用されていたことが特徴。弥生時代は、金属器の利用が始まり銅と錫の合金である青銅器(祭器に利用)と、鉄器(工具・農具に利用)が大陸から伝来。朝鮮系の磨製石器で石包丁が利用されたことが特徴である。
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歴史
大東亜戦争と太平洋戦争の違いですが、これはどちらも同じ戦争を意味しており、つまり大東亜戦争と太平洋戦争はイコールと考えれば良いでしょう。では、どうしてそれぞれ戦争の名称が異なるのかについて説明していきます。 これは戦前の話になりますが、日本では戦争の名称を政府が閣議によって決めていました。例えば1931年には満州にて柳条湖事件によって南満州鉄道の線路の一部が爆破され、これをきっかけに日本と中国が武力衝突する事件が起きましたが、政府はこれを満州事変と名付けます。 さらに1937年に日本と中国の間に起きた大規模な戦争、これは今でこそ日中戦争と呼ばれていますね。しかし、当時は近衛内閣によって北支事変と名付けられ、その後には支那事変と改称されました。そして1941年に起こった日本とアメリカの戦争、これは大東亜戦争と名付けられたのです。 1941年に起こった日本とアメリカの戦争…どう考えてもそれは太平洋戦争を連想しますし、その連想に間違いはありません。しかし当初は大東亜戦争と呼ばれており、ではいつから太平洋戦争と呼ばれるようになったのでしょうか。その理由を説明するため、戦争終了まで時間を進めていきます。 大東亜戦争は太平洋戦争とイコールですから、戦争の結末はみなさんも分かっているでしょう。この戦争では日本が敗北しますが、実は敗戦直後に「大東亜戦争と呼ぶ派」と「太平洋戦争と呼ぶ派」で対立が起こっていて、戦争に勝利した連合国側は大東亜戦争と呼ぶことに強く反対しました。 なぜなら、連合国側は大東亜戦争に対して「欧米諸国によってアジアの植民地を解放し、アジアの自立を目指す」の理念と構想があったためで、ですから大東亜戦争の呼び名では都合が悪いと思ったのでしょう。簡単に言えば、連合国側は大東亜戦争という名称では「侵略戦争を肯定する」の意味合いが強くなってしまうと主張したのです。 1945年8月、日本国がポツダム宣言を受託したことで大東亜戦争の敗北が決定しますが、戦後もしばらくの間は大東亜戦争の名称が使われていました。例えば、同年の11月には幣原喜重郎内閣によって「大東亜戦争調査会官制」が公布されており、ここでも大東亜戦争の名称が使われていることが確認できますね。 この流れを止めたのが、連合国軍最高司令官総司令部でした。連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対して神道指令と呼ばれる覚書を発し、その中で大東亜戦争という語の使用を禁止したのです。ちなみに、他にも国家神道や軍国主義など過激な国家主義を連想する用語の使用も禁止しました。 この神道指令が発せられたのが1945年12月で、これ以降新聞・出版物・雑誌に至る全てにおいて連合国軍最高司令官総司令部による厳しい検閲を受けることになります。最も、現在では大東亜戦争の用語使用に規制はなく、これについては昭和27年となる1952年に呼称廃止覚書は失効しました。
連合国軍最高司令官総司令部の通称は、何ですか。
GHQです。
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歴史
ナポレオンは生涯で正式な結婚は二回あった。一度目は1796年のジョセフィーヌ、二度目は1810年のマリー=ルイーズである。最初の妻ジョゼフィーヌはフランス領西インド諸島のマルティニーク島の生まれで、ボーアルネ子爵と結婚し2児をもうけたが、夫が断頭台に送られ貧しい未亡人となっていた。そのうち総裁政府の総裁の一人バラスらと「親密な交際」で生計を立てるようになった。そのバラスが反政府反乱鎮圧に登用したのがナポレオンだった。バラスはナポレオンにジョゼフィーヌを「譲った」。1796年、新婚のナポレオンはイタリア遠征軍の指揮官に選ばれ、その勝利をきっかけに栄達を開始する。ジョゼフィーヌは「けたはずれの浪費家で貞節も守らなかった」がナポレオンは彼女を深く愛した。遠征先からの愛情を込めた手紙が多数残されている。しかし、二人の間には子供が産まれなかった。ジョゼフィーヌは不妊に効果があるという温泉にでかけたりしたが無駄だった。それでもナポレオンは離婚は考えていなかった。1804年12月、ナポレオンが戴冠すると同時にジョゼフィーヌも皇后となった。上の図でナポレオンの膝下にぬかずいているのが皇后ジョゼフィーヌである。 しかし、皇帝となったナポレオンには世襲の重荷がのしかかってくる。なんとしても帝位を実の子供に継承させたいと願った。そんなときナポレオンと関係のあった女性たちが出産し、不妊の原因は皇后にあることがわかった。1809年12月、ナポレオンはジョセフィーヌと離婚した。この日の来ることを恐れていたジョゼフィーヌは、ナポレオンからその決意を直接聞いて気絶したという。それは演技だったという説もある。ジョゼフィーヌはパリ郊外のマルメゾンに広大な別邸をあたえられていたが、離婚後もそこで暮らし、1814年まで生きた。現在ではその別邸は博物館になっているという。 政治的効果を狙うため、新しい皇后はヨーロッパの大国から迎えることが望ましかった。初めはロシアの皇女が候補にのぼったが破談し、結局オーストリア皇女マリー=ルイーズに決まり、1810年4月2日、結婚式が行われた。マリー=ルイーズは大叔母マリ=アントワネットを処刑した国の皇后となったわけである。父のフランツ1世(最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世だった人)が「コルシカの怪物」といっていたナポレオンだったが、実際には優しく迎えられ、円満な家庭生活を送った。もっともナポレオンは「私は(子供を産むための)腹と結婚したのだ」と広言してはばからなかった。そして1811年3月20日に待望の男の子が生まれると、ナポレオンはその子に「ローマ王(ロワ=ド=ローム)」の称号を与えた。パリでは皇太子誕生を祝って101発の祝砲が鳴り響いたが、それは「ナポレオンの夢の完成を告げると同時に、転落の始まりを表す砲声だった。」 なお、マリー=ルイーズはナポレオン失脚後はオーストリアに帰り、イタリアに領地を得て、廷臣のナイベルク伯爵と再婚した。また「ローマ王」は父の失脚後、ウィーンの宮廷で生活し、1832年に21歳で生涯を終えた。
ナポレオンに子供はいましたか。
ナポレオンに子供はいました。
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歴史
1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を襲い,自刃させた事件。備中国高松城を囲む豊臣秀吉の戦況報告にもとづいて,信長は毛利軍との全面対決を決意。みずからの出陣とともに,光秀にも出陣を要求した。光秀はただちに近江国坂本城に帰り,5月26日,坂本を出発して丹波国亀山城に入った。一方,信長は29日に安土をたち上洛,本能寺に宿した。6月1日夜,1万3000の軍勢を率いた光秀は亀山を出陣,老ノ坂で老臣に謀反の意向を告げ,2日明け方に本能寺を囲んだ。信長は森蘭丸らわずかな近臣とともに防戦したが自刃。妙覚寺にいた嫡子信忠も急を聞き,二条御所にこもって戦ったが,同じく自刃した。
1582年に織田信長を襲い、自刃させた人物は誰ですか。
明智光秀です。
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歴史
寛永期の文化 概要寛永文化とは、寛永期(1624~43年)前後に桃山文化を受け継ぎつつ新しい傾向が見られたことに由来します。例えば、日光東照宮のような権現造からは、桃山文化の絢爛豪華な趣を感じ取れます。また一方で、江戸時代を通じて発展する儒教的な文化や、元禄文化に発展する琳派の先駆けなど、新しい傾向も見られます。 朱子学の受容 鎌倉時代、儒学の一体系で朱熹しゅき(朱子)に構築された朱子学が、日本へ伝来しました。 朱子学は君臣くんしん・父子ふしの別をわきまえ、礼節・上下秩序を重んじる学問です。 教えのなかで、特に大義名分論は後醍醐天皇に影響を与えました。 君臣の間には不変の秩序があり、これは守られるべきとする考え 室町時代、桂庵玄樹は肥後の菊池氏・薩摩の島津氏に招かれて朱子学を講じ、南村梅軒は土佐で朱子学を講じて谷時中が確立した南学の基礎を築きました。 薩南学派の祖で、薩摩で朱熹しゅき の『大学章句』を刊行 安土・桃山時代から江戸時代初頭、禅僧であった藤原惺窩せいか が、朱子学の教育に努めました。 江戸幕府・諸藩は、現状の秩序維持を目的に朱子学の受容を決めました。 藤原惺窩に推挙されたことで、その門人林羅山らざん は徳川家康に用いられ、秀忠・家光・家綱と4代の侍講じこうを務めました。 林羅山は幕府の命で、子の鵞峰がほうとともに歴史書『本朝通鑑 つがん 』を完成させました。 林羅山の子孫は林家と呼ばれ、彼の子孫は代々儒者として幕府に仕えました。 朱子学の受容の問題 朱子学は上下秩序を重んじる学問です。 大義名分論に厳密に従えば、幕府が朝廷を差し置いて実権を握る状態は本来否定されます。 江戸幕府はこの問題を棚に上げて朱子学を受容しました。 江戸時代を通して朱子学の研究が深まると、この問題が表出しました。 幕末、朱子学を基盤に天皇家を尊ぶ思想「尊王そんのう論」が強まり、倒幕運動へ発展しました。 京都の松永貞徳が、連歌から独立した俳諧(俳諧連歌)を指導しました。 松永貞徳の俳諧の一派は、貞門派と呼ばれます。 俳諧 連歌から用語の制限を取り払い、滑稽な要素を加えたもの 仮名草子 教訓・道徳的な話を題材とした仮名書きの小説仮名草子が成立しました。
寛永期に日本に伝来し、後醍醐天皇に多大な影響を与えた学問は何ですか
朱子学です
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歴史
清和源氏の勢力 軍事貴族の2つのタイプ 軍事貴族は、次の①②のタイプに分けられます。 ①朝廷との接触を減らしながら、辺境の地方に土着する 平忠常(桓武平氏)など ②宮中警備・国司を務めて朝廷との関係を保つ 源経基(清和源氏)・平貞盛(桓武平氏)など 清和源氏の東国進出 清和源氏源満仲(経基の子)は摂関家と縁を結び、969年の安和の変では、密告で源高明を失脚させました。 1028年、国司ともめた平忠常が房総半島で乱を起こすと、源頼信(源満仲の子)がこれを鎮圧しました。 平貞盛の子孫が平忠常の乱の鎮圧に失敗し、この後桓武平氏は活躍の場を喪失 乱の2つの意義 A清和源氏の東国での勢力拡大、桓武平氏の東国での勢力縮小 B1.の生き方は既に限界で、2.を選んだ軍事貴族は後も活躍 清和源氏の東北進出と失敗 1051~1062年、前九年合戦 奥羽地方で安倍頼時が受領と対立したことを、源頼義 (源頼信の子)は東北進出の好機として鎮圧に臨みました。 頼義は苦戦を強いられ、清原氏の助けで鎮圧しました。 源氏は武家の棟梁としての地位確立に成功しましたが、奥羽地方には助けを出した清原氏の勢力が拡大しました。 1083~1087年、後三年合戦 清原氏一族が跡継ぎ問題でもめると、源義家(頼義の子)は、清原清衡 に荷担して清原氏一族の内紛を解決しました。 義家は東国の武士の功労に私財で報い、その信頼を集めましたが、奥羽地方には清衡の支配が確立しました。 清衡は奥州藤原氏の祖藤原清衡となり、陸奥国平泉を根拠地に、清衡・基衡・秀衡の3代100年にわたって繁栄しました。 清衡の父は藤原秀郷)の子孫、母は安倍頼時の娘で後に清原氏と再婚。
源頼義の祖父は誰ですか。
源頼義の祖父は源満仲です。
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歴史
平氏の権力増大 公卿となった清盛 保元の乱・平治の乱後、都の勢力は平清盛の武士団のみとなりました。 後白河上皇は、平清盛を武士兼公卿として利用しようとしました。 1167年、平清盛は公卿の最上位の太政大臣となりました。 武士で公卿となった前例なし 平氏の経済的基盤 平氏の経済的基盤は次の3つでした。 1.知行国(全国の半分で30余国) 2.寄進地系荘園(500余カ所) 3.日宋貿易(平忠盛以来の貿易) 1.知行国、2.寄進地系荘園について 平氏の田地把握の特徴は、公領・荘園の直接支配者に地頭を任命したことです。 地頭 役割は荘官と同じだが、背後に強力な武士の保護あり 家人 武士の従者のこと 3.日宋貿易について 12世紀初め、宋は金に北部を占拠されて南宋となりました。 894年の遣唐使廃止以来、日本は海外と公的な国交はなかったが、 宋の私的な商船は度々来航しました。 平忠盛以来、平氏は南宋との貿易に力を入れていきました。 平清盛は摂津国の大輪田泊を修築し、貿易の拠点にしました。 大輪田泊 奈良時代に行基が開いた港で、12世紀まで修築されずに放置 厳島神社 平清盛が海上交通の守護を祈願して社殿を造営した神社 輸入された宋銭・香料・陶磁器などは唐物と総称。
太政大臣が社殿を造営した神社は何ですか。
太政大臣が社殿を造営した神社は厳島神社です。
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歴史
NIES(Newly Industrializing Economies)とは、「新興工業経済地域」と訳され、1980年代から1990年代にかけて急速な経済成長と工業化を遂げた一連の国々や地域を指します。 当初は特にアジアの「4小竜」と呼ばれる韓国、台湾、香港、シンガポールを中心に使用された用語で、これらの地域は高い経済成長率を記録し、先進国と発展途上国の間の新たなカテゴリとして、NIES(二ーズ)と呼ばれるようになります。 NIESに分類される国々は、輸出主導型の経済戦略、政府による産業政策の積極的な実施、高い教育水準と技術革新により、短期間で工業化を実現し、国際競争力を持つ産業を育成しました。これにより、これらの国々は世界経済における重要な役割を果たすようになり、経済成長の新たなモデルとして国際社会から注目を集めるようになったのです。 NIES(新興工業経済地域)とは急速な工業化と経済成長を遂げた国・地域を指す 1980年代、ある特定の国々が顕著な経済発展を実現し、先進国と発展途上国の中間に位置する新たな経済グループとして認識されるようになりました。 NIES(ニーズ)とは、そんな急速な工業化と経済成長を遂げた国々を指す呼称であり、Newly Industrializing Economiesの略語となります。特に1980年代から1990年代にかけて、国際社会の舞台で頻繁に用いられた用語です。 もともとNIESは、アジアの「4小竜」と呼ばれる韓国、台湾、香港、シンガポールの4国を中心に、急激な経済成長を遂げた国々を指す言葉として用いられていました。 これらの国・地域は、高度な工業化、輸出主導型の経済戦略、そして国際市場への積極的な参入によって、顕著な経済的成長を実現。後に、この定義は中南米や欧州の国々(メキシコ、 ブラジル、ギリシャ、 ポルトガル、 スペイン、 ユーゴスラビア)も含むように広がり、経済のグローバル化とともにNIESという用語はさらに広範な意味を持つようになったのです。 NIES(新興工業経済地域)という呼称が生まれた背景 NIES(新興工業経済地域)という概念は、国際経済の中で新たな力として登場した、これらの国々の現象を説明するために生まれました。 1970年代の石油危機や、それに続く世界経済の変動期において、これらの国々は、革新的な経済政策と強固な産業基盤を通じて、安定した経済成長を実現。特に、製造業の高度化、外国直接投資の促進、技術革新への積極的な取り組みが、この地域の経済発展を加速させました。 さらに重要な歴史的背景がNIESにはあります。NIESと呼ばれる前、これらの国々・地域は、「Newly Industrializing Countries」を略したNICS(ニックス)と呼ばれていました。しかし1988年のトロント先進国首脳会議(サミット)で、香港と台湾の特殊な立場を考慮されたことで、NIESという呼称に変更されたのです。 その後、NIESの国々は国際貿易における役割を拡大し、世界経済において重要なプレイヤーとなったのはご存じのとおり。これらの経済的成功は、他の発展途上国にとって模範となり、NIESという概念は経済学者や政策立案者によって広く研究され、議論されるようになったのです。 2. NIES(新興工業経済地域)に属していた各国の特徴:アジア編 急激な経済の発展を遂げたNIES(新興工業経済地域)の国・地域は、それぞれが独自の産業構造とビジネス環境を持っていました。このセクションでは、その中でも特に注目されたアジアの「4小竜」ついて解説します。 アジア4小竜(韓国・台湾・香港・シンガポール)について NIESの中でも、アジアの「4小竜」と称された韓国、台湾、香港、シンガポールは、1980年代から1990年代にかけて、その急速な経済成長と工業化で世界の注目を集めました。それぞれの地域が独自の強みを生かしながら、輸出主導型の経済戦略を推進し、短期間で経済的繁栄を達成した背景には、複数の共通要因と各地域特有の要素があります。 以下より4ヵ国・地域ごとに見ていきましょう。 韓国 韓国の経済成長は、重工業と輸出に重点を置いた政府主導の経済政策によって加速されました。鉄鋼、自動車、造船、電子機器などの産業が急速に発展し、これらの製品は世界市場で競争力を持つようになりました。また、教育と技術革新への強い投資により、高度な技術と熟練労働力を育成し、経済発展をさらに推進しました。 台湾 台湾は、中小企業を中心とした柔軟な産業構造と、政府による積極的な産業政策で知られています。特に、情報技術(IT)産業の発展に成功し、半導体やコンピューター関連製品の重要な供給源となりました。台湾の経済成長は、技術革新と国際貿易の拡大に支えられています。 香港 香港は、自由貿易港としての地位と、効率的なサービス業、特に金融と物流を中心に経済成長を遂げました。透明性の高いビジネス環境と国際的なビジネスハブとしての役割は、世界中の投資家や企業を引きつけ、経済の急速な国際化を促進しました。 シンガポール シンガポールは、戦略的な地理的位置を活かし、港湾としての役割に加え、製造業、特に電子機器、石油化学、バイオテクノロジー産業の発展に成功しました。また、金融、貿易、物流の国際的な中心地としての地位を確立し、外国直接投資を積極的に誘致して経済成長を加速させました。 これらの「アジアの4小竜」は、政府の積極的な介入と政策支援、教育への投資、外国からの技術移転、そして開放的な貿易と投資政策を通じて、短期間で経済的繁栄を実現しました。 それぞれが直面した挑戦と困難を乗り越えながら、急速な工業化と経済の発展を遂げたこれらの国々は、世界経済における模範となり、後進国の発展モデルに大きな影響を与えることとなったのです。 3. NIES(新興工業経済地域)に属していた各国の特徴:中南米・ヨーロッパ編 続いては、NIES(新興工業経済地域)の範疇に含まれた中南米および欧州の国々について見ていきましょう。 1980年代に経済的躍進を遂げたことで注目されたこれらの国々の発展パターンは、前項で解説したアジアの4小竜とは異なる側面を持っていました。 メキシコ メキシコは、1980年代に北米諸国との経済関係を深化させ、特に米国市場への輸出拡大を通じて経済成長を遂げました。北米自由貿易協定(NAFTA)の締結は、この傾向をさらに加速させ、製造業、特に自動車産業と電子機器の製造が大きく成長しました。 ブラジル ブラジル経済は、資源豊富な国としての強みを生かし、農業、鉱業、そして後にはエネルギーセクターにおける成長を遂げました。また、国内市場の拡大と産業政策により、航空宇宙や自動車製造などの高度な製造業も発展しました。 ギリシャ・ポルトガル・スペイン これら南欧の国々は、1980年代に欧州経済共同体(後の欧州連合)への加盟を果たし、経済の近代化と市場の拡大を経験しました。特に観光業と農業の近代化、インフラの整備が経済成長を支え、後には金融サービスや不動産への投資が活発になりました。 ユーゴスラビア 非同盟運動を背景に東西冷戦期において独自の社会主義市場経済を展開しました。自由度の高い経済政策と西側諸国との経済関係強化により、一定の経済成長を達成。しかし、1990年代の内戦により、その経済は大きな打撃を受けました。 これらの国々の経済発展は、地域によって異なる挑戦に直面しながらも、国際経済への統合を深め、国内産業の近代化を推進することで、目覚ましい成果を上げました。しかしながら、1980年代から1990年代にかけての経済成長は、後に多くの国で経済危機や構造調整の必要性をもたらすこととなり、発展の持続性や経済の多角化、そして社会的な課題への対応が重要な焦点となっていきました。
NIESに属していた国は何か国ですか
韓国・台湾・香港・シンガポール・メキシコ・ブラジル・ギリシャ・ポルトガル・スペイン・ユーゴスラビアの10か国です
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歴史
数字で見る連合国と枢軸国  当時の各国の兵力・軍事費などの比較。 各国の人口 アメリカ、1億3200万人 ドイツ、7000万人 イギリス 、 4500万人 フランス 、 4100万人 イタリア、 4300万人 ソ連、1億7000万人  日本、7200万人 各国の国民総生産 アメリカ、 173億ポンド ドイツ、72億ポンド イギリス 、 48億ポンド フランス 、17億ポンド  イタリア、 21億ポンド ソ連、86億ポンド  日本、18億ポンド 各国の軍事費 アメリカ、 2億ポンド ドイツ、12億ポンド イギリス 、 4億ポンド フランス 、3億ポンド  イタリア、 2億ポンド ソ連、9億ポンド  日本、5億ポンド 参戦時兵力 アメリカ、540万人 ドイツ、320万人 イギリス 、 680万人 フランス 、 90万人 イタリア、 190万人 ソ連、900万人  日本、170万人  1939年~1940年の各国の人口等の数値。ドイツの軍事費はイギリスやフランスと変わらなかったが、ナチスが政権を獲得した1933年から増加し、1939年にはイギリスやフランスを大きく上回っている。アメリカもほとんど戦争に備えていなかった。 大国アメリカの動き  1940年にドイツ、イタリア、日本は三国同盟を締結した。この際にドイツは日本に対して、アメリカの戦争介入を抑止すること、日ソ関係改善のため仲介する用意があると表明している。  さらにドイツは三国同盟にソ連を加えた四国条約の案を作成し、ユーラシア大陸連合を成立させる考えがあった。ソ連はこれに対してフィンランドからのドイツ軍即時撤退を主張し譲らなかったため、この案が実現することはなかった。  一方、ヨーロッパで孤立無援となっていたイギリスは、アメリカの参戦を望んでいた。しかし、アメリカ国民はあまり乗り気ではなく、ルーズベルト大統領は「若者を戦争に送らない」を公約に当選していたのだった。  そこでイギリスはアメリカにスパイを送り込み、ナチスの残虐行為を作り上げてメディアに提供した。さらに、ハリウッドでプロパガンダ映画を制作している。日本が真珠湾を攻撃したとき、イギリス首相チャーチルは「我々は戦争に勝った」と言って喜んだという。
1939年~1940年の連合国及び枢軸国の人口のうち上位3国を教えてください。
1939年~1940年時の連合国及び枢軸国のうち、人口上位3国はソ連、アメリカ、日本です。
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歴史
島根県誕生までのあらまし 島根誕生までのあらましを紹介します。 豊かな古代文化 島根県は出雲・石見・隠岐の三国から成りたっています。神話の舞台となった出雲は、出雲大社をはじめ数多くの古社があり、太古の神々の歌が聞こえてくるようです。また、出雲国風土記(いずものくにふどき)の巻頭を飾る「国引き」の神話は古代出雲びとの壮大なロマンを語っています。 石見には万葉の歌人柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が国司として赴任し、石見の美しい情景を妻への想いとともに情熱的にうたいあげました。 日本海に浮かぶ隠岐には、都びとの流人とともに中央文化が流入し、数々の貴重な伝統文化を残しています。このように古代の島根は、豊かな文化に彩られています。 尼子氏の出現 鎌倉幕府が成立すると、全国に守護が置かれましたが、出雲、石見、隠岐の守護はいずれも近江の佐々木氏でした。彼らとその一族の多くは、それぞれ土着して有力在地領主となりましたが、石見守護は承久(じょうきゅう)の乱に京方となって敗れたため、以後は在地土豪の益田氏が実質的な守護となりました。 室町時代になると、出雲、隠岐守護には京極(きょうごく)氏、石見には大内氏が任じられましたが、応仁の乱後、下剋上(げこくじょう)の風潮が一段と強まり、富田(とだ)城(広瀬町)を拠点とする京極氏の守護代尼子(あまこ)氏が急速に強大化し、奥出雲の砂鉄や石見銀山を手に入れて、16世紀初めの最盛期には山陰、山陽にまたがる大戦国大名に成長しました。しかし、間もなく衰退の色を強め、永禄9年(1566)安芸(あき)の毛利元就(もうりもとなり)によって滅ぼされました。 近世の状況 関ヶ原の合戦後、出雲、隠岐の太守として入国した堀尾吉晴は、富田城を廃して松江に築城しました。その後、寛永15年(1638)徳川家康の孫、松平直政が入城して親藩松江藩が誕生し、明治維新まで続きました。その間、広瀬、母里(もり)の2支藩が成立しています。茶人大名で有名な7代藩主治郷(はるさと)(不昧)(ふまい)のとき、藩政改革に一応成功しましたが、幕末の激動期にはその対応に苦しみ、維新政府による鎮撫使(ちんぷし)の派遣を受けました。 石見は銀山領(天領)、浜田藩、津和野藩から成っていますが、石見銀山は17世紀前半最盛期を迎え、わが国最大の産出量を誇りました。浜田藩主は複雑に代わりましたが、幕末には親藩松平家となり、そのため、第2次長州征伐に際し、長州の攻撃を受け、浜田城は炎上しました。津和野藩は坂崎出羽守に次いで亀井氏が藩主となりましたが、幕末には長州と結んで倒幕運動に参加しました。 隠岐は天領に編入されましたが、松江藩預かり地の時代が長く、藩代官の支配を受けました。そのため維新期には島民の不満から隠岐騒動が起こりました。 島根県の誕生 明治維新期の行政区域は、複雑に変わりました。まず明治2年(1869)2月隠岐県が成立、8月には浜田藩と隠岐県を含めた大森県が生まれましたが、翌3年2月浜田県と改称され、4年(1871)6月には津和野藩も浜田県に編入されました。 一方、出雲では明治4年の廃藩置県により、7月に松江、広瀬、母里の3県が成立しましたが、11月には3県合併して島根県が生まれました。この年12月には、いったん島根県に編入されていた隠岐が鳥取県に移りました。明治9年(1876)4月には浜田県が島根県に編入、次いで8月には鳥取県も合併され、ここに出雲、石見、隠岐、伯耆、因幡5カ国をあわせた大島根県が誕生しましたが、5年後の明治14年(1881)9月、鳥取県が再置されて、現在の島根県が誕生しました。 島根県の県名は、明治4年(1871年)11月に名付けられました。県庁所在地(松江市)が古くは島根郡(出雲国の東北部、島根半島の東部)に属していたためだとされています。島根郡という地名は、『出雲国風土記』に「島根と号くる所以は、国引き坐しし八束水臣津野命の詔りたまひて、名を負せ給へるなり、故、島根と云ふ」とあり、八束水臣津野命によって名付けられたとされています。また、それまでの県名(松江県)が使われなかったのは、明治維新の際に松江藩が倒幕に消極的な立場をとったためであると言われています。なお、島根という言葉は島または島国の意味で、根は島に付く接尾語です。
戦国時代に戦国大名として台頭した尼子氏は、その後も隆盛を保ち江戸時代末期まで存続しましたか。
いいえ。尼子氏は1566年に毛利氏によって滅ぼされています。